大好きなお水

昨日、ようやく浮羽で手掛けている古民家甦生の井戸水が湧いて出てきたのを確認しました。困難続きだった井戸が甦り、お水が湧いてきてくださって心から感動と感謝がありました。

お水はとても澄み切っていて、冷たく、そして清らかでどこか厳粛さのようなものも感じました。私はむかしからお水への感覚が鋭敏のようで少しの違いでも見分けることができます。

特に鋭敏になったのは、30代のころに体調をひどく崩してずっとお水しか飲めなくなったときにその中でも飲めるお水と飲めないお水があることがわかりそれ以来、お水を飲む感覚が鋭くなりました。また肌感覚の方は、3年前に滝行をはじめてから肌で触るとそのお水の感覚が分かるようになってきました。もともと温泉が大好きで、温泉の香りや成分も感じやすい方でしたから今では触るとなんとなくお水の特性のようなものを実感できます。水気や湿気については、石風呂をつくり蒸気をたくさん浴びているうちに空気中の湿気の密度や濃度、また状態なども気づくようになってきました。

特に古民家に住んでいると、お水の質量は一日中変化をして已みません。そのお水の変化を感じながら過ごしていると、次第に風通しや水分補給のタイミングが分かります。湿気においては、蕎麦打ちをしだしてから微細な湿気が蕎麦の水分の影響を与えるので普段から意識するようになりました。また自然農で田んぼや畑をしていると、水はけのよい土を観察しているうちにちょうどいい水分量というものを理解するようになってきました。

またお水の豊かさにおいては、非常に純度の高い鉄瓶のお水を飲んでいるうちにお水が火で変化していくなかで実感しました。

そう考えてみると、私はお水のことが大好きです。お水の御蔭で私があるともいえます。何が好きですかといわれたら、お水が好きですと即答できます。お水の生き方は、私の尊敬する生き方です。

これから新しい井戸とお水と、いよいよ新たな御米のお店作りに入ります。心強い支援を受けて、いよいよ勇んでチャレンジしていきたいと思います。

徳を積む生き方

アメリカからの懐かしい友との話の中で「発酵道」につて語り合いました。もともと酒蔵、寺田本家の二十三代目の当主、寺田啓佐さんと親しかったこともあり色々と生前のことをお聴きしました。

私はどこか生き方が似ているところが多いようで、共通点がたくさんあります。微生物についても、むかしからずっと親しくしていてお漬物などの発酵食品づくりをはじめ、自然農の田んぼや畑、また会社経営にもその発酵の仕組みを取り入れています。

自然界は腐敗と発酵というものがあります。しかしこれは腐敗VS発酵ではなくどちらも大きな意味では発酵です。腐敗も自然界に循環するための大切な発酵の一つということです。しかし人類にとって悪い作用を施すのを腐敗と呼んでいるのです。実際には、腐敗も一つの浄化作用ともいえます。この辺になってくると、どれが善い悪いではなく愛と調和の話になってきます。

発酵道のなかでもその辺はよく語られています。以前、俳優の窪塚洋介さんが私のいる聴福庵や場に来られたとき私の実践する「腸活」の体験をしていただきました。諸事情があって彼の番組にはなりませんでしたが、腸が活き活きしすぎて大変なデトックスになったととても喜んでおられました。本質的に腸活になったこと、発酵の一期一会になったことを覚えています。

もともと私はこれらの実践を発酵という言い方ではなく最近ではもっぱら「徳」という言い方をします。私にとっては発酵=徳という定義です。発酵について、寺田啓佐さんはその著書「発酵道」でこのような言葉を遺しています。

「それは決して嫌々やっていることではなく、微生物にとってそうすることが快くて、自分の好きなことをしている。そして、楽しく働いている。私には、そう感じられる。生命のおもむく方向へ、自ら進んで行っているのではないかと。きっとそうやって自分らしく生きることが、微生物にとっては自然なのだろう。まさに微生物というのは、本当の意味で自分のために生きている、「自分好き」なのだ。こうやって微生物の世界をのぞいているうちに、生命のおもむくまま、「自分にとって最も快いことを選択していく」ことが、実は自分を生かす最良の生き方なのではと思うようになってきた。」

ここからわかるのは自分の喜びそのものが全体の喜びになっているのが発酵ということです。そして自分が好きなこと、喜びになることに専念している、その自分自身を深く愛しているからこそ自立して自由にこの世界を素晴らしいものにしていく生き方となるというのでしょう。

これが発酵する生き方、私にすれば徳を積む生き方のことです。

自他を活かす、全体快適に生きる、まさに嬉しき楽しき有難きという仕合せないのちの響き合いです。酒造りの智慧は、生き方の智慧ともいえます。日本酒がなぜ神様の大切な供物の一つなのかはここからも気づけます。

今年はお米のことに深く関わる機会をたくさんいただいています。何よりもかたじけなく有難く思います。引き続き、徳を精進していきたいと思います。

七夕のものがたり

明日は七夕です。もともとこの七夕の行事は中国から渡来したものが日本文化と融合したものです。「たなばた」という言葉も、本来は「しちせき」と呼ばれていました。これが日本の「棚機つ女(たなばたつめ)」伝説と重なります。

この「棚機つ女」は神様を迎えるために水辺に設けた機屋に入り棚機(たなばた)と呼ばれる機織り機で神様に捧げる神御衣(かんみそ)を織りあげる女性の呼び名です。この「棚」は神棚ともいうように神様が籠る神聖な場のことをいい、機はそれを実現する法具や神具のことです。

日本古来の神話によれば七月六日には水辺の機屋(はたや)で神さまの訪れを待ちます。水の神様をお迎えした女性はその夜に天から降りてくる神様の一夜妻になり、女性自身も神さまになると信じられていましたそしてその女性がその夜に織りあげた布を棚に置き機屋を出て水辺で禊をすると町や村が豊穣になり、厄を祓えるという伝承です。同時に川で禊をし髪を洗うと髪が美しくなるともいわれたそうです。

また願い事を「梶」の葉に書く事から書道の上達をも願うようにもなりました。それに技芸の上達及び福徳を願うようになり特に弁財天、弁天様が豊饒と技芸の上達を叶えるてくれるということで弁天祭と習合しました。そして陰陽五行の五色の短冊に願い事を書き、飾り物を笹に吊すだけの簡略化された七夕祭りになっています。また笹竹は天の神様が依りつくところ(依り代)とされていて願いを込めた飾りものを笹竹につるすようになりました。

そう思うと、色々な伝説が集合して今の七夕になっています。

似たようなものに、神仏習合というものがあります。最初のお水の神様が水分の神で瀬織津姫や宗像三女神と呼ばれたり、仏教が伝来しそれが龍神や弁財天や不動明王になったりと混淆しています。祈り方やお祭りも色々なものが組み合わさっています。

そう考えてみると私たちの先祖は、海外から来た神話や伝説も受容してそれを上手に取り入れて味わいました。それぞれの風土で誕生したものも、同じ願いや祈りを持っているものなら共に祈りお祀りして行事として実践をしてきたのです。

私たちはつい簡略化されたものばかりを見知って関心が薄れていますが、本来はどのようにその行事が発生したのかを深めていると先人たちの大切にしてきた真心を感じるものです。

大切な節目として、味わい深い暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

変化と感覚

人間の感覚というのはとても鋭敏です。例えば、何かに力が入りすぎたりすると「力む」状態になります。よく緊張している状態で身体が強張ります。すると無駄に力が入ることで瞬発力もなくなり、怪我をしたりします。また肩こりや筋肉痛なども発生します。すぐに緊張するタイプは、力んでしまうタイプともいえます。

しかし力むということが分かるというのは、力んだことがあるからです。力まないがわかるのも力まなかったことがあるからです。つまりはこれは感覚でつかむものです。

いくら頭でわかっても、実際に力まないはわかりません。何度も繰り返し、感覚でその状態に近づけていくしかありません。実際には、自分の身体の感覚というのは変化を已みません。その時の体調の善し悪しもあれば、蓄積してきた疲労とかもあります。また精神的なものや心の中の状態なども変化します。

つまりその時の状況は変化し続けますからその変化に気づく感覚が必要になります。力む力まないというのは、感覚で行うものです。そしてこれは心身だけでなく、その時の今、つまり一期一会の状況を味わうや活かすといった瞬間と場との変化にも適応していることになります。

同じ状況など一切ないというのが感覚の世界です。これは音の世界も同じで、同じ音なども一切ないということです。一度、聴いてしまった音は二回目には同じ音には聴こえません。それは自分の中にその音が入っているからです。これは経験も同じです。同じ経験は二度とありません、一度体験したらその次は別の経験になっているからです。

毎回、自分の感じるその感覚が変わっていることに気付けるか。これが先ほどの力まない状態に近づいていくことに似ているということでしょう。

感覚の世界というのは、全身全霊を活用します。そしてそれは全体最適を目指していることに似ています。別の言い方では、中庸でありバランス感覚、柔軟性ともいえます。

毎回、その感覚の世界を味わい生きている人は新鮮さを失いません。そして最高の状態というものを自覚していきます。これはそのものの持ち味を喜び、徳を引き出すことにも似ています。

感覚を磨くというのは、どの分野においても大切な要素です。身体的な感覚を法螺貝を通して磨いていきたいと思います。

日本人の本当の心

日本人とは何か、これを何度も反芻してきましたがそれは先祖伝来の懐かしい暮らしの中にあることを感じています。そしてそれを私は「暮らしフルネス」と名付けて実践しています。

そもそも神道をはじめ修験道、茶道も華道も道というあらゆるものは暮らしの中に存在しているものです。その暮らしは、口伝のように人の暮らしの実践の伝承によって人伝えに智慧の継承が行われてきました。

それを体系化し、組織化し、知識として学問にしたことで宗派と呼ばれるような派閥や系統に分かれていきました。仏道と仏教が異なるように、仏教は数多く宗派が分かれています。分かれたものが一つになることは難しく、その違いが諍いになっていたりもします。

例えば、私たちもどこかの国家に属します。国家に属しているから国家が戦争をすればその戦争に国民として巻き込まれます。本来、地球は一つ、世界は一つだったといってもこれだけ国家が分かれれば一つに戻ることはなかなかできません。

しかし遠い先祖はどうだったでしょうか。

そこにはただ、「道」がありました。

その道は争いのない分断のない清らかな心がありました。常に清らかであろうと心掛けました。これこそ私は日本人の本当の心ではないかと思います。そのために、私たちは場を清めます。

私が実践する場の道場では結局はやっていることは、お水を大切にお祀りして場を磨きととのえるだけです。そうすることで、清らかな気持ちになります。清らかになれば分断や分裂がなくなっていきます。

私たちは教義だけでは、そう簡単に清らかになることはできません。だからこそ場に自分を運び、そこで場に佇み共に磨き合うことで道に入ります。これを私は「場と道」として場道と名付けています。それを実践する人を場道家ということです。

時代が変わっても、日本人の本当の心はいつまでも継承していき子孫たちへも伝承していきたいと思います。

自然体の生き方

昨日は、2年ぶりに故川口由一先生の自然農の田んぼにお伺いしてご供養をさせていただきました。今でもこの場所に静かに腰掛け佇んでおられるような気配が周囲に薫り、「ああ、野見山さん」と優しく爽やかに語りかけてくる声が心に聴こえてくるようでした。

いつもお会いするときは、私の近況のことや取り組んでいることに真摯に耳を傾けてくださりお土産話に花を咲かせその意味を深めてくださっていました。また真善美について、学んだことや体験したこと、すべて自然に照らし合わせてその叡智や知恵を語って見せてくださっていました。

正直で飾らず穏やかで和やかで安らか、その深い優しさからにじみ出てくるお人柄が大好きで心から尊敬していました。お会いするたびに先生の後ろ姿からは、いつも自然体の生き方を学び直していました。奥様も陰ひなたから見守ってくださり、以前までお元氣であるときにご馳走していただいた親子丼の味が今でも心に忘れることはできません。

いつも何が自然で不自然か、そして自然とは本当はどういうことをいうのかということをその生きざまから伝承してくださっていました。「一つの種がでて、その種が芽吹き、成長し花を咲かせ実をつけ種になり、枯れて斃れて新たな種が芽吹いてくる。」そんな当たり前のことを、ごく自然に当たり前に信じてただ一人の道を歩んでおられる先生に恥ずかしくないようにと私も田んぼに一人で立てる人間になろうと覚悟し、ここまで歩んでこれました。今でも迷いが出たときには、一人で田んぼや畑に立つようにその場所で一人立ち覚悟を見つめ直しています。志と革命は、常に裏で一人です。

墓前にてそして先生からいただいた美しい真心の光は、私の心田の中にしっかりと透明に光っています。このいただいた光を水に静め、私の光に換えてさらなる新たな宇宙へと発光させていきたいと改めて誓いました。

今、振り返るとお会いしてからずっと先生と一緒に自然の中にいました。今の私の周囲の自然のなかにも音の中にも先生の自然を感じない日はありません。それくらい自然の生き方の道に、導いてくださっていたことを思い改めて感謝がこみあげます。

「無為自然、いのちが光り輝く自然農、種は空の彼方に、花はこの心に、まきむく未来へ結ばれる。」

一期一会のご縁に心から感謝しています、その感謝に報いるためにも自然の生き方の続きを私も磨き続けます。引き続き風に吹かれて次の章へと喜び勇んで邁進します。

これからもよろしくお願いします。

山岳信仰の甦生

英彦山は霊峰として太古のむかしから先人たちに尊ばれてきた場所です。山の中に棲んでみて場をととのえるとその異界感を感じます。特に、雨を中心に水気を感じると全体が水に包まれているのを感じます。

もともと山岳信仰というものは、水分(みまくり)の神様をお祀りします。山の猟師たちも山には女神がいると信じられてきました。水は農耕を司り、そして私たちの食事を支えてくれる大切な存在です。今、私たちが食べることに困らないのはお山の御蔭ということになります。

なぜ険しく高い山々になぜ私たちの先祖は祈り拝んだのか、

食べ物のことから掘り下げてみると今の時代は、食べ物はどこからがはじまりなのかなど考えることはほとんどありません。スーパーやコンビニに当たり前に買え、流通も世界中を網羅していますから海外のものや日頃は手に入らない珍しいものまで揃っています。もしもこれらがない時代はどうだったか、少し想像力を働かせてみるとわかることがあります。

最初の先祖たちは自然から分けていただけるものを食事としていただいていました。木の実をはじめ、果物、野草や野菜、川の魚や貝などです。雨が降らなければもちろんこれらの食べ物は一つとしてありません。なので雨乞いをしたのは、食べ物を分けていただくためです。そして雨が降っても山岳がなければその水はあっという間に海に流れてなくなります。川が何日も水が流れ続けるのも、養分を海に運んでくれて魚が増えるのもすべて山岳の御蔭ということになります。

お山に供物を捧げて供養と祈祷をするようになるのも、これは当然の歴史であることが簡単にわかります。それは貴重な恩恵をいただくお山の神様への感謝をいのっているのです。宗教が山に集まってきたのは、そのお山に祈る人たちのお世話をしたからではないかと思います。

人々がお山に来る理由は、そのお山の恩恵をいただいていることへの感謝を忘れていなかったからでしょう。またお山には不思議な力があり、異界があったとも信じられていました。山岳の聖地には、霊験の場が満ちています。澄み切った領域があり、そこに心身を置くと自分の我が取り払われていきます。感覚が研ぎ澄まされることで、人は元々もっていた不思議な能力が開花するものです。

それは嵐や雨を予測できたり、少し先の危機が予感できたり、身体的な機能を著しく上昇できたりと様々です。これは山岳の中で磨かれる力です。そういう人たちがのちに修験道という言われ方をしていたのでしょう。

のちにこういう山岳で自らを磨く人たちを自然と生きる人たちの模範、日本人の模範とされたのではないかと思います。それが明治以降に、国家宗教を設けたことで山岳宗教は禁止になりました。しかしこれはあくまで宗教の話です。

山岳信仰は禁止にはできません。なぜなら今も私たちは山岳の御蔭で暮らしを成り立たせることができているからです。山岳信仰はますますこれから盛んになると私は信じています。

そのためにお山での暮らしを甦生しているのです。私はもともと宗教には尊敬はありますが憧れはありません。しかし生き方としてお山で生きている人たちのことは憧れがあります。

引き続き、子孫たちへ先人たちの大切にしてきた暮らしが伝承されていくように英彦山から日本や世界へ祈りを続けていきたいと思います。

面白いことの本質

昨日は無事に英彦山守静坊で夏至祭を行うことができました。天気予報では大雨でしたが、奇跡的に晴れ間が広がり徳積講の仲間たちのと夏至の日の光の浄化を楽しみ味わうことができました。

今朝の英彦山はずっと雨で昨日の太陽がまるで嘘のようです。以前、冬至祭の時もでしたが深く自然への畏敬が通じているのか運のよいことが続きます。

今回の神事もまたいつものように暮らしの中で行いました。みんなで共に祝詞をあげ、一緒に般若心経を唱え、一人ずつ私の発案の備長炭護摩焚きをし、火吹き煤竹で息を吹きかけ音と火の明かりでこの一年の半分のあらゆるものを省みて願い、祈り浄化しました。その後は、西から入る太陽を神鏡に写し、その反射した光を1人ずつ浴びて祈り新たないのちを喜びました。鏡が265年前のものですから、途絶えていた伝承をまた新たに繋ぎ直したことになります。

みんなの顔に光を当てると一人ひとりが神々しくなり、まさに「面白き」状態で喜びと福と仕合せに満ちました。

もともと面白いの語源は、「面白し」という古代の言葉から派生したものともいわれます。目の前が明るくなった状態や火に照らされた顔が白く浮かび上がったという説がありますが、まさに昨日のお祀りはその説そのものを実体験するような”面白い夏至祭”になりました。

毎日、浴びている光を改めてじっくりと味わい一期一会に感謝してみんなで喜び面白くなる。こんな豊かさが果たしてあるでしょうか。行事のための行事や、イベントのためのイベントではなく暮らしの一コマとしてみんなと分かち合う喜びと仕合せは格別なものです。

私はそれを暮らしフルネスと名付けて実践をし、この今、一期一会のその時々を味わい喜び、徳を積みいのちを循環させていきますがその都度、偉大な豊かさが溢れ出てきます。

そもそも現代においての「足るを知る」とはどういうことでしょうか。

それは当たり前のこと、つまりは当たり前と気にもとめない日頃の暮らしを見つめ直しそれをさらに深く味わい盡すということだと私は思います。先人たちがしてきたように、私たちも空氣や水や光や風や火などをはじめ当たり前にある存在に深く気づき初心を忘れずに和合する感性を磨いているということではないでしょうか。

昨夜は一晩中、その太陽からの光の火を焚きみんなで面白くなっていました。

この時代の面白くかる本質は、うれしい、たのしい、しあわせ、ありがたいという暮らしフルネスの喜びを実践していくことです。

子どもたちがいつまでも豊かに生きていけるようにこれから冬至へ向けて、これからまた太陽の光と共に面白く歩んでいきたいと思います。

暮らしフルネスの中のととのふ

最近、サウナの影響で「ととのう」という言葉が流行っています。この調うというのは辞書には古語の「 ととのふ 」、乱れ のないきちんとした状態になることと記されます。

サウナの場合は、熱いサウナに冷たい水風呂に入りそのあとに次第に交感神経と副交感神経が入れ替わる感じですっきりするときに使われます。心臓には大きな負担がかかりますが、ストレス社会で頭ばっかり酷使する現代の環境の中ではこの刺激は特に快楽的に感じるのかもしれません。

もともと私はサウナーでもなく、ほとんどサウナに入りませんが伝統の石風呂といって日本古来のサウナのようなものを建築しています。たまにご縁のある方が集まり入りますが、サウナの人たちのような「ととのった」などという感じではありません。

そもそも、ととのったというものは、快楽的に欲望を満たすようなものではありません。禅でいうところの座禅や食事、或いは掃除や片付けなどのように日常の暮らしの中で心静かに穏やかに過ごしているものです。それは一つ一つの動作に対して、心を用いて心でその時を深く味わうものです。

他にも、お花を活けたり炭火でお茶を立てたり山水画を描いたりお祈りをするときにもととのいます。この時のととのいは、そもそもストレスに対するととのいではありません。

穏やかに静かに内面から心をととのえている時のものです。もちろん身体が静かに休み穏やかになると、心にも安堵感をはじめ多幸感は出てきます。しかし例えば、煙草を吸って落ち着いてととのったといったり、激しいイベントでととのったというのは言わないようにも思います。

日頃からととのう暮らしを大切にするなかで、その一環で石風呂に入るという具合が私の感じる「ととのふ」ことです。最近は、敢えてととのふといって私は実践を伝えています。

暮らしフルネスの中でととのふ生活は、そのまま生き方にも影響を与えます。先人たちへの深い尊敬と配慮を大切にし丁寧に伝承していきたいと思います。

お水

私たちの先祖はお水というものをとても大切にしました。西洋でいうところのウォーターではなく、オミズ(お水)といってそれは命のある存在、神様として大切にしてきました。

これは当たり前の事実ですが、私たちがもっとも生命を維持するのに欠かせないものはお水です。現代では、スマートフォンがなくなったらという人もいますがそれはなくても何とかなるものです。しかしお水がなくなれば、すぐに生命の危機になります。

現代の日本では水道水をはじめあたりまえにどこでも手に入るものになりました。蛇口をひねればすぐにじゃぶじゃぶと流れていきます。お風呂やシャワーなども大量に無制限にあるように感じてしまいますが、実際に私たちが飲めるものは地球上のほんのわずかしかありません。

私たちの国土、日本はお水に恵まれた場所です。気候の御蔭や地球上の立地、また森林によってたくさんのお水が流れてきます。それを田んぼによって貯水し、さらに国土をお水で包みます。

先人たちが長い時間をかけて、どのようにお水を循環させていくともっとも国土が豊かになるのかを試行錯誤してきた知恵の結晶です。

その分、お水への感謝というのは欠かせないものでした。水源地には水神( 水分神 (みくまりのかみ))さまとしてお祀りしてきました。お山の神様と深い結びつきがあり、共に尊敬してお祀りします。また農耕以外の日常生活で使用する水については、井戸・水汲み場にもお祀りしています。古来から水神の象徴は河童 、 蛇 、 龍 などに観立てられ大切にしてきました。

空を眺めれば雲が流れる様子に龍を感じ、川を遠くから眺めれば蛇のように感じ、湖畔や河には河童がいると感じました。まるで一つの生き物のようにお水の存在を感じて接していたのがわかります。

現代の水道の蛇口をひねってもそれがいるようには感じないものです。私は幸運にも、古民家甦生で井戸に接する機会や、宿坊での生活で山の湧水などに触れる機会が多いため、お水の存在を身近にいつも感じています。

私たちの身体をはじめ、地球はお水に包まれていますからお水の形を変えては記憶を辿り流れ続けていくことができます。お水への接し方は、一つではなく尊敬の深さや信仰の厚みによって変わっていくものです。

お水への配慮を忘れないように丁寧な暮らしを紡いでいきたいと思います。