原点回帰

人は何かの判断をするとき、もっとも大切になるのは原点回帰です。そもそもの原点は何だったのか、複雑に広がり分類分けられていく繁栄のなかでその根に回帰するということでしょう。

私たちは根本というものを忘れると、迷うようにできている生き物です。枝葉末節にこだわっているうちに肝心要を手放して滅んでいくのは、歴史が証明しています。時間が経つと陳腐化したり執着したりするのは、私たちはそれくらい原点から遠ざかっていることを示すものです。

例えば、経営においても理念や初心というものが本来存在します。つまり何のためにそれをやるのかという原点です。その原点からはじまり時間の経過とともに、少しずつ原点からあらゆるものが派生して増大していきます。本来は、増大するとき同時に削り取りながら磨きあげていく中で本来の存在は強く逞しくシンプルになっていきます。

会社であれば、別に社員が大勢いる必要もありませんし売り上げ規模や利益が拡大すればいいわけではありません。どれだけ本質を磨き続けているか、時代の篩にかけられても変化し続けているかが原点を守るための試金石になっているのです。

時代の面白さというものは、変化できる豊かさです。今ならこうやればいいという具合に、原点さえ忘れていなければ多様な選択肢があり組み合わせを楽しんでいくことができます。そして、ご縁によってあらゆる人たちとの組み合わせを味わいながら豊かに創造を刷新していけます。

原点と志さえあれば、根っこが養分を吸い上げて甦生していくようにまた元氣を取り戻してその時代を華々しく輝かせていくことができるのです。

人間はいのちを輝かせていくことで仕合せを感じます。だからこそ、温故知新や原点回帰は人間の真理であり法理そのもので揺るがないものです。

来年は、さらに原点回帰を楽しみ子どもたちにその生き方を伝承していけるように維新の実践に取り組んでいきたいと思います。

心の鎮座

来年の歳神様をお待ちする室礼も無事に終え、聴福庵も場もすべて整って鎮まっています。あとは、後回しになっていた自分の書斎だけですがこの場もここ数日で清浄にしていくのがとても楽しみです。

今年は、場づくりに真摯に取り組んだ一年になりました。場づくりは土づくりと同じで、作物があろうがなかろうが、収穫があろうがなかろうが、丁寧に丹誠を籠めて整え続けていかなければなりません。

庭の草取りや、古い物の手入れのように、すぐに効果が出ないようなことであっても根気強く真心で取り組んでいく必要があります。それは心や気持ちの整理でもあり、そういう暮らしを通して人ははじめて人として落ち着いてくるものです。

この落ち着いた暮らしというものは、心の静寂と共にあります。聴福庵は私の人生の実践道場ですから特に凛とした空気がいつも流れていてそこには永遠の時が沈んでいます。この時の沈みとは、常に静寂を保っている時が場に深く鎮まっているということです。イメージでわかりやすくいえば、海の深いところに沈殿している動かない闇のようなものです。

先日、先祖が代々霊感の強い家系に生まれて貢献されてこられた方が來庵され「ここはまるで神社そのものであり神々が鎮座している場所でずっと鳥肌がおさまらない」と仰っておられました。そう考えてみると、今年は霊感の強い方がたくさん來庵され皆さんが一様に神々が鎮座されていると仰っていただいた一年でした。

私は特別何かのスピリチュアル的な活動をしているだけではなく、新興宗教をしているわけではありません。会社に神家総本家と和名をつけていることと、私に固定概念が少ないことから一部の人たちからは変人や狂人、怪しい教祖ではないかと言われたこともあります。

しかし、この神々の鎮座においては私が言っているわけではなく周囲が言っているだけで私本人は暮らしフルネスの実践を淡滔滔と続けているだけです。それが結果として心の静寂を場に投影させ、それが何かしらの存在や気配を感じさせその鎮まった場所で心が落ち着いて何かを感じられているように思います。

この「心の鎮座」というのは、本来は日々の暮らしの中でととのえていくものです。

心が荒廃し、乱雑になっていけば静寂はありません。静寂は、清浄と共にあり、場を清め続けることで鎮座します。人間は精神性を研ぎ澄ませていけば自ずからその真っ白で純粋な境地、また透明なセンスを身に着けることができるように思います。

冬の澄み切った夜空の月の光のように、私たちはその心を内面に持っています。その月を曇らせているものを取り払うことが私たちの暮らしの原点であり、暮らしを充実させていく原理原則なのです。

来年は、暮らしフルネスを知ってくださる方が増えていくように思います。どのように伝わり弘がっていくのか、日々に法螺貝を立てながらじっくりと静かに出る月を待ってみたいと思います。

徳の内

昨日は、友人たちと集まり徳積堂を磨き上げました。年内最後の一緒の磨き合いということで、はじめての人も参加し有意義な時間を過ごすことができました。一期一会の仲間と一緒に磨き合える、これだけで人生はとても仕合せなのです。

この世に私たちが生まれてきてからこの世に肉体で存在できるのはあっという間のことです。毎日、寝て起きて過ごしていたらそのうち歳をとりいつかは死を迎えます。大統領でも、有名人でも、いつかは必ずだれにも死は訪れます。

一休禅師が「世の中は食うてかせいで寝て起きてさてその後は死ぬるばかりぞ」といいましたが、まさにただそれだけのことです。

しかし、この生きている間には本当にたくさんの体験を積んでいくことができます。それはすべて徳の内です。私たちはこの徳の一生を与えてもらい、その徳を磨くことでいつまでも心を輝かせていくことができます。

時折、生きている意味を忘れてしまいそうなとき、私たちは磨くことで何か大切なものを思い出します。それは「光る」ということです。言い換えれば、「いのちが輝く」ということです。

いのちが輝いていくことで、私たちは生きていることの仕合せを感じます。この世は確かに生老病死と苦しいことばかりですが、それでもこの世に出てきては体験したいのはいのちが輝く喜びを味わいたいからです。

あの星々が夜空に煌めき輝くのも、それが真理を顕しています。

この徳は、何物にも代えがたく、私たちの暮らしの根源であり幸福の源泉なのです。

一瞬のことだと自覚するからこそ、この今を磨き続けるという境地。まさに必至を自覚することにより、人はこの世に生きる意味や感謝を忘れないで生きていけるのかもしれません。まさに私たちはその偉大な徳の内でいのちを活かされています。

人類が大きな岐路に入っているからこそ、何がいのちの根源であったかを具体的な実践において磨いていきたいと思います。

鏡餅の心

先日、みんなで集まって伝統的な餅つきを行いました。むかしの道具たちをたくさん出してきて、竈で蒸して炊いたもち米を手彫りの臼、そして百日紅の杵などで和気あいあいと大勢で笑いながら餅つきをしました。

餅つきをするとみんなが仲良しになり、笑いが絶えません。まさに福分けの象徴のようなこの福餅を床の間に鏡餅として飾り歳神さまをお祀りして正月を穏やかに待ちます。

むかしは、数え歳でしたからみんな一斉に正月に一緒に歳をとりました。何歳の人も、正月には生まれ変わり新しい歳を迎えます。新年になり、心機一転またその歳をみんなで分け合い魂を磨きます。正月が近づくと、日本全体で清々しい雰囲気に包まれるのは生まれ変わりの神聖な行事をみんなで行い場を清めてきたからかもしれません。

早速、このついたお餅で鏡餅もいくつか拵えました。現在は私が取り組む家が増えていますから、鏡餅の数もたくさん必要になります。昨日は、門松を飾り終え本日には鏡餅の室礼を行う予定です。

室礼をしながらそのものの意味を深めて味わうのはまた一年を振り返る豊かな時間です。門松は、邪気を払い同時に歳神さまが家にやってくる目印になります。鏡餅は歳神様が家に滞在するときの依り代になります。そこに四方紅といって天地四方を拝して災いを払い、一年の繁栄を祈願します。他にも、新葉が出てから古い葉が落ちるので、新旧相ゆずる(家系がつながる)という縁起を祝うゆずり葉、よろこぶ(喜ぶ)との語呂合わせからきた昆布。そして長寿を祈願する、久しく栄える、裏表がないなどの意味があるとされるウラジロ。四方に大きく手を広げ、繁盛することを願うとされる御幣。実が木についたまま年を越すところから代々にかけて縁起がいい橙を室礼ます。

室礼しながら、芽出度いこと、福が訪れることを心を清めながら静かに待ちます。この心魂を研ぎ澄ませながら歳神様をおもてなすことに仕合せと喜びを感じるのです。

思い返せば、今年も本当に多くの人が家に滞在されていきました。その都度、おもてなしをして豊かなお時間を過ごしました。お客様が神様という言葉もありますが、あれは決してサービスをする対象としてのカスタマーではないことはすぐにわかります。

私たち日本人には、八百万の神々という思想がありこの世のすべては結び合いつながり合い一つであることを自覚しています。いのちを共にするからこそ共生して貢献し合うのです。その存在としての神様をお互いの心のうちに見合うとき、お互いが神様のような澄み切った素直な状態になります。

まさに相手も自分もなく、自他一体に神様のような状態になる。それを家という場を磨き、その舞台で共に語り合うとき、私たちはそのうらおもてなしの美しさに和み合うのです。

日本人の初心を忘れないように、歳神様の心の鏡に観照されながら素直と感謝を磨いていきたいと思います。

新しい幸福論~暮らしの徳を磨く~

幸福論という言葉があります。これは、人間の仕合せとは一体何かというものを突き詰めたものです。有名な幸福論には、ヒルティの『幸福論』(1891年)、アランの『幸福論』(1925年)、ラッセルの『幸福論』(1930年)による3つの幸福論があるといいます。

ウィキペディアには、アランは健全な身体によって心の平静を得ることを強調。すべての不運やつまらぬ物事に対して、 上機嫌にふるまうこと。また社会的礼節の重要性を説くとあります。ラッセルは、己の関心を外部に向け、活動的に生きることを勧めるとあり、またヒルティは神のそば近くあることが永続的な幸福を約束するとする宗教的幸福論であるとします。

難しい言い方をしていますが、シンプルに共通するものは自分らしく生き切っているということでしょう。これは人類の幸福に限らず、自然界は自分のいのちを信じ切ってあるがままでいるとき、仕合せを感じるようにできています。

これは自然と一体になっているともいい、私はそれを「かんながらの道」とも言います。そしてその自然と一体になっているという状態がどういうことか。それを具体的な実践として実在させているものこそが日本の伝統的な暮らしであり、その暮らしを充実させて日々を豊かにしていくことが仕合せなのです。

私の幸福論は、真の豊かさというものは何かということを突き詰めたものです。

自然を深く観察し、いのちの繋がり合いの中でお互いを尊重しながら活かしながら生きていく。そしてお互いの徳を磨いて、いのちを輝かせ、真善美の調和の中で時を超越して心を開放し魂の旅を味わう。まさに、自然一体の境地に入ることで私たちは何物にも代えがたい存在であることを知り、宇宙の一つであることを自覚します。当たり前のことかもしれませんが、生き物たちが喜ぶように一緒に私たちも喜ぶとき、そこに真の暮らしは実現しているのです。どちらかだけが喜ぶというのはいのちの自然界では不自然なことなのです。

この喜ぶという心境は何か、それはいのちがお互いに活かされている、甦生し磨かれていると実感するときに得られます。共生と貢献の中でむかしの人たちが、永い伝統的な暮らしの中で自然のセンスを磨き合い高め合ったように本来は今の私たちにもそれはできることなのです。

人間が楽になるために便利さや効率を選択し、それを優先するあまり日本人もかつてあったものを忘れていきました。気が付くと、現代はその忘れものが一体何だったのかも忘れてしまい時間と引き換えにして本来の幸福とは程遠い歪んだ豊かさや富のみを追いかけるようになりました。

世界が同時に影響を受けたコロナウイルスにおいても、立ち止まり振り返る機会を得られたはずなのにまた目先のことに迷い元通りに忘れようともがいています。私は、今こそかつての日本人の美しい記憶を思い出す時機ではないかと思うのです。

人類の幸福とは何か、そして新しい幸福論とは何か、そこに原点回帰をもってもいい時機だということです。私の原点回帰、それは「暮らしの徳を磨く」ことです。暮らしの徳は、便利な暮らしでは出てきません。どちらかといえば、不便なものしかありません。いのちは不便と共にあり、不便とは人間都合ではないのです。自然の都合に合わせて生きていくことは、決して辛く苦しいことではなく実は偉大な存在と共に生き、偉大な存在を活かしあう、いのちの道を歩んでいくということです。そのいのちは磨けば光るように、徳を積めばさらに豊かさは増幅していきます。

真の豊かさとは、お互いのいのちを磨き合うことであり、いのちは磨き合うことで新しくなります。幸福論もまた、その時に出たものが終わったものではなくそこは道ですからその時代時代に幸福論もまた磨き続けなければなりません。

私が子どもたちに譲り遺したい幸福論は、1000年後の未来に必要な幸福論です。

引き続き、日々の暮らしを豊かにしながらすべてのいのちを新しくしていきたいと思います。

日本人の忘れもの

現在は、新しいものがなんでも価値があるとし、古いものは価値がないという認識をあちこちで耳にします。

しかし本来、古いものというものは、自然の篩(ふるい)にかけられた古いものであり、それだけ長い年月、あらゆる淘汰に耐えて今まで残った本物とも言えます。古いもので残ったものはすべて価値があるものであり、決して古いものが価値がないわけではありません。

よく私の暮らす「場」に訪れる人たちから、私が古いものを使いあらゆる新しいものを行うのを観て感動されることがあります。古いものを新しくするというのは、そこにある発見をしているということでもあります。

当たり前すぎて気づかないことでも、古いものをよく観察しその智慧を現代に活かそうとするのなら必ずそこには普通では気づかない発見、もしくは発明をしているということになるのです。

古来からあった忘れられたものや、当たり前すぎてやるのをやめたもの、それは今の日本人の忘れものなのです。

私たちは、新しいという言葉を使う時、何をもって新しいというのか。今まで見たことがないものを新しいというのか、もしくは今まであったものを再発見した時に新しいというのか。

私にとっての新しさは後者であり、私が取り組むブロックチェーンもその後者の智慧を最大化させたものです。まだ見学に来られない人には、私が取り組んでいることがよく分かっていないように思います。

決して私はコードをかくわけでもなく、そして何かの論文を出すわけでもありません。しかし、私が取り組む古い偉大な智慧がすべてこの新しい技術に注ぎ込まれるとき、真の新しいものが誕生します。

そして私はこのプロセスを仲間たちと味わうことで、この「場」に未来を創造しようとしているのです。ご縁のある方々と、この今を深く味わいながら新たな暮らしを独創しています。

忘れものを思い出すのに、古いものを触るだけではなくその古いものを活かして新しい技術に活かしきるとき、そこに日本人は忘れたものを思い出すと私は信じています。先人たちの生き方、残してくださった遺志を守り、子どもたちのためにも道を切り拓いていきたいと思います。

一粒万倍の心掛け

昨日と今日は、一粒万倍日といって芽出度い日が続いています。何かをはじめるとき、何かの節目の時に縁起担ぎによってこの日を選ぶとその後の進行が安心します。

よく大安とか仏滅とか気にしすぎない方がいいともいいますが、それは使い方によると思います。物事にはすべて気候のように地球の活動や宇宙全体のリズムとタイミングがあり、例えば船が向かい風と追い風のときで進みが違うように、リズムとタイミングがズレたら自然の力を借りにくくなります。

むかしの人たちは、自然や宇宙の運行をよく見極めて何かに取り組む時機を定めていたといいます。これは農家も同じで、どのタイミングで種蒔きをするのかというのはとても大切なことなのです。

もしも時機を間違えれば、どんなにたくさんの種を蒔いても少しも芽が出ません。もしくはたとえ蒔いて新芽が出ても、虫が大量に来て新芽を食べつくすこともあります。私は伝統の高菜を育てていますが、種の蒔き時を間違えたことで夏の虫が弱りいなくなる時期よりも前にやってしまい食べられてしまったり、遅すぎて大きくならなかったりしたことがあります。つまりタイミングが時機が自然のサイクルに合致しなければそもそも上手に事が運ばないのです。

そしてこの自然のサイクルをなんとなく目安とするのが、吉日の縁起担ぎなどです。その日が善い日かどうかもありますが、大切なのはリズムやタイミングが善い時期がどうかの方がより大切なことなのです。その上で、蒔いた種を如何に大切に育てていくかということを初心を忘れずに謙虚に取り組むという意味もあるように思います。

そもそも先ほどの一粒万倍日の「一粒万倍」とは元々は「報恩経(ほうおんぎょう)」というお経の中で「世間求レ利、莫レ先二耕レ田者一、種レ一万倍」という言葉が起源だと言われます。つまり「少しのものからでも、何万倍の収穫が得られるから、どんな小さなことも大切にせよ」という戒めの意味だったそうです。この「一粒」とはお米の元である「籾(もみ)」のことを指し、「一粒の籾が、丹誠を籠めているうちに何万倍にも実る稲穂になる」という意味です。

最初は、一粒からはじまるという真実。そしてその一粒こそが、永い時間をかけて万倍に、いや無限に広がっていくという意味。

まさに、生成繁栄の原点を感じる言葉がこの一粒万倍なのです。

大安だからとか仏滅だからとかではなく、どのような心掛けでその日を迎えるか。どの日も謙虚に受け容れる人にはその日はすべて一粒万倍日ということでしょう。

今日は、新たな仲間たちが徳積堂で集まり、「磨く」一日です。

この日の原点を忘れないように、丁寧に過ごし、お餅つきを楽しみ、磨き合いの暮らしフルネスを楽しみたいと思います。

広く明るい志

昨日、英彦山で友人のエバレットブラウンさんと一緒に法螺貝を立てました。不思議なご縁で、私に法螺貝をはじめる切っ掛けを与えてくださりさらに人生が深く豊かになりました。

まるで冒険するかのように生きるその姿に、感銘を受け新たにその生き方や学び方に私自身も多くのインスピレーションをいただいています。それにところどころ感性や豊かさ、個性に通じているところが多く、自分というものを客観視する機会にもなっています。

先日、私の役割について社内でみんなに聴いてみる機会がありました。

自分では思ってもいないようなことを言われ、驚きましたがそのどれもが道を切り拓くや、既成概念を毀すや、壁を打ち破るや、維新をするや夢に突き進むというイメージばかりでした。

確かに片時も休まずに作り続け毀し続けて歩んできました。もっといい方法はないかと、自分の直観を信じて歩み続けてきました。後悔する暇もなく、仕方がないと言い聞かせては前に前にと足を進める日々を送ります。

自分の志に嘘はつけませんから、今できる最善だけを盡します。

だんだんまた一人になり、そして孤高や孤独と生きていきます。それでも私の歩んだ後に道はできると信じて、子どもたちにつなごう、結ぼうと、誰も征かないところに向かっていくのです。

その旅路で出会う人たちは、どれくらい一緒にどこまでいけるのか。多くの人たちと出会いと別れを繰り返しましたが、長く一緒に歩める人がいたことは本当に仕合せなことです。

ここから先は、後を任せる人が出てくるのか。今はよくわかりません。しかし、法螺貝を天空に立て、大自然の山々と呼応し、その廻る木霊を聴いているとただ無意味のようなその一立てに志を立てることの永遠を感じます。

志で歩み続ける道を、自分がこの世に斃れ後人に譲るその日まで自分に与えられた天与の使命を明るく朗らかに生き切っていきたいと思います。

存在価値

人間の存在価値に対して、承認欲求というものがあります。これは認められたい、理解されたいという欲求です。他人の評価が気になるのは、人間は自分はどれくらい価値があるのかを計算しているということもあります。

誰にどれくらい理解されているかというのはその人にとっては重要なことであり、承認欲求によってその人の価値が決まります。しかしその人の価値は本来は、他人の評価で決まるわけではありません。

その人の価値は、その存在自体が価値があるのであり誰かの評価は存在とは異なり、自分を主軸にした価値基準ということになります。そう考えてみると、もっとも厄介なのはこの承認欲求であり、真心や至誠を盡すと決めていても相手にとって自分がどういう存在かを確かめ続けていたら気が付くと嫌われたくないや好かれたい、愛されたいという感情によって自分に向いてしまい初心を忘れてしまうこともあるかもしれません。

人間は、結局は自分との修行であり、自己を研鑽して自他一体の境地に入っていくために日々に向き合い魂を磨いていくしかありません。本当の喜びや仕合せは、、評価を超えた存在価値にこそあります。

自分が何の使命があってこの世に生まれてきたのか、そして天は自分に何の用を与えているのかに気づく道でもあります。まさに誰かに何かを理解されていようがいまいが、必ずその人には天から与えられた大切な役割があるのです。

李白に「天、我が材を生ずる、必ず用あり。」があります。

今は、自分が何の価値があるのかを分からなくても誰に与えられなくても必ず生きているだけでその意味は必ず存在します。だからこそ生きていればいいのです。この時代、生きていくことは弱さを力にして弱さを絆にしていく必要があります。

人はみんな弱いのだと強さに憧れるのを休め、弱さの本質を受け容れるところにこそ、自分というものを受け容れる鍵があるように思います。

真心や至誠は、天に観照していただき真摯に自己を磨くのみです。

子どもたちのためにも、憧れる世の中に易えるために精進していきたいと思います。

自由縁人

ご縁を辿っていると、絶妙に未来とつながっているものを感じます。今度はそのご縁を遡ってみると、絶妙にそれが創造されていることにも気づきます。未来と過去というものをご縁を中心に観直すと面白いことが分かります。

時というものを無視してみれば、その交差する点の中に私たちが2つの側面で生きているのを感じるからです。それはワクワクして色々なことを感じたいと感情が味わうための目的、そしてしみじみと真理を悟りたいと心が味わうための目的。それが絶妙に相調和しているのです。

私たちが今に集中するといいというのは、その両方を実感することができることによって人生の妙味を実感することができるからです。

私たちの人生は、先に決められたことのように感じるのは心があるからです。そしてどうにでも変えられると感じるのは感情があるからです。心と感情が整ってくると、私たちは子どもの心のように自由であり自分であることに仕合せを感じます。

あるがままの自然と一体になっている喜びを知り、それを客観的に理解している喜びも知れます。歴史を振り返れば、この真理に気づき、真理を遊ぶところに人間の醍醐味があるようにも感じます。

生き方として運のいい人という人がいます。

偉大な何かに流されながらもそれを深く味わって楽しんでいる。行雲流水というのでしょうか。いのちの時を生きる人たちのことです。一度しかない人生の中で、今を深く味わい今に生ききる人は、心も感情も自由自在に自己合一しています。

限られた体で、限られた時間で、永遠の魂と、無限の時空を往来する旅人のような存在です。

子どもたちには、この世で迷うことがあってもまた道に出会えるように先人たちと同様に融通無碍を歩んでいきたいと思います。