ご縁を活かす

人の出会いや繋がりには必然性があるものです。これはよく考えてみると、連続しているからにほかなりません。一つの出会いは途切れているのではなく、ずっと今もつながっています。それが節目節目に何かの形でご縁を実感できているということだけです。

つまりご縁というのはすべてご縁というものであることがわかります。天網恢恢疎にして漏らさずという言葉があります。この世は網の目のようになっていて、その網の目の中で私たちは結ばれて生きています。

これが一人一人の自意識が自我によって自分というものを分けて世界を認識していますが、実際には偉大な意識の中で常にご縁と共に存在しているということになります。

この存在という意味を深めてみると、すべてのこの世に目に見えるものは勿論のこと、目に見えないものにいたるものもご縁のむすびのなかにあります。誰かが作ったもの、もともとそこにあったもの、存在というのはまるごとあります。

その意味を深めて、そのご縁をどのように結びなおすのかというところにご縁を活かす妙味があるように私は思えるのです。

ご縁を活かすというのは、悠久の関わりや結びつきを時代時代にどのようにほどいて結びなおすかということです。それは着物の糸をほどいてもう一度反物をつくり別の着物にするように、私でいえば古民家や古材をどのようにいのちをつなぎあわせて甦生していくかに似ています。

別のものを組み合わせているのではなく、ご縁を活かすということです。

先祖のつながりなども、前世のつながりなども目には観えません。しかし、ご縁をよく味わっているとこれはきっと先祖から今までそしてこれからのためのご縁であることに気付きます。

全て繋がっていると思って生きている人は、どのようなご縁であってもこの先にどのように変化していくのかが直感します。どういうご縁であっても、自分自身がご縁を大切に生きていくことが大切であり一期一会であることに集中することがそのご縁を生きる実践になります。

子どもたちにも素晴らしいご縁が結ばれていくように一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。

いのちの甦生

私たちの身体は、いのちをいただくことでいのちを活かします。この世のすべての存在はいのちを移し替えることによって存在しているともいえます。あらゆるいのちを転換して移動しているともいえます。これが循環の本質でありいのちの姿です。

そのいのちの移動で大切なことは、いのちを壊さないように丁寧に移し替えることです。例えば、いのちを壊すというのは心を籠めない、丁寧に扱わない、粗末にする、差別をするなどという時に行われます。その逆に、尊敬をし、真心で接し、大切に扱い、感謝すればいのちは甦生します。

いのちというものは、関係性の中、つながりやご縁の中にこそ生きているもので私たちはその「いのち」をいただき暮らしを営むものです。

一番悲しいことは、単なるいのちのない物として扱われることです。いのちがあるものを、いのちがないように扱われることで循環が止まります。いのちの循環が止まるというのは、つながりが断絶するということです。自然が失われるということでもあります。

私たちはそもそも自然という有機的なつながりの中に存在します。この宇宙もまた、いのちと捉えたらすべてはつながって存在していることに気づきます。その中の一つに私たちがあります。

死は死ではなく、新たないのちになっていくという感覚もまた同じようにいのちを大切にする生き方を通して感じられるものです。いのちは水の流れのようにありとあらゆる物質を透過し、通過することですべてのいのちをつなぎます。

私たちは水がなければ生きていけないのは、いのちの循環ができないから死ぬのです。肉体的な死だけではなく、私たちは空気中の水分、あるいは食べ物を通しての水分などいのちを吸収しいのちを転換して元氣を保っているともいえます。

現代は、いのちをあまり感じない生活が増えてきました。これは自然の循環をとめてしまうような環境が増えたともいえます。本当の環境問題とは何か、それは温暖化でもなければゴミ問題でもありません。これはいのちの問題のことです。

いのちを直視して、いのちを大切にする暮らしが私の実践する暮らしフルネスですが、いのちの甦生を通して自然の循環も甦生させていく必要性を感じています。知識ではなく、知恵としてこれを実践してこそ意味があります。知ることとわかることは異なります。知っても知っただけであれば、何も変わりません。

わかることは、知恵の中に生きているいのちがつながっている証拠です。子どもたちにも知恵が伝承していけるように丁寧にいのちことを実践していきたいと思います。

お手入れと対話

昨日は、秋晴れの気持ちいい天気のなか畑のお手入れを行いました。土に直接触ることで、土の状態はよくわかります。美しい畑に憧れてから、食べるだけでなく畑に入ることで心身がととのっていきます。私たちは自然に触れて自然から学ぶことで地球と対話していくことができます。

この地球との対話というのは、あらゆる五感の感覚を使うことですが私は暮らしフルネスを実践していますから手の感覚をとても大切にします。この手は、手触りというものです。手で触れるというのは、私たちが原始時代からずっと大切にしてきた感覚です。

もちろん耳も眼も鼻もありますが、手は対話につながります。最初に握手をするという文化もまた、手触りで心を伝え合う仕組みを用いています。最近は、量子力学で眼もまたお見合いするなかで触れ合うことができるともいわれます。花を見て心が触るように目でもいのちの存在に気づきます。しかしやはり、お手入れすることが私は人間に与えられた大きな力であるように思うのです。

自分の手を使って何に用いるか。

ある人はいのちを守り、ある人はいのちを奪います。それも全部手で行います。手作業というものは、温かみがあると今ではよく言われます。その反対が、機械で手が入っていない冷たいものとも。手を入れるというのは、人間の心が手から通して物質に宿るという仕組みがあるように思います。

便利になって、頭で考えたことがそのままデータとして転送されたり指示されたりする近未来も予測できます。そうやって手を使うことをやめていくのが便利さというものです。しかし大事なことを失います。それは自然や地球からまた遠ざかっていくということです。

人類は不思議ですが、心の本体やいのちの正体である自然やいのち、地球からすぐに離れていこうとします。征服したり縛られたくないと抗ったり、まるで地球から逃れたがっているかのようです。そうやって逃れてみると、やっぱり地球が一番よかったとかなるのでまた可笑しなことをします。

手を使い地球と触れなくなることで私たちは何か大切な感覚を失っていきます。だからこそ私はお手入れの大切さを話し実践をします。掃除も、磨くことも、拭いて綺麗に整えることも手を使うためです。

手を使うことで私たちは自分の心との対話もできます。手は心が直に触れるものであり、自然と対話するための大切な命綱のようなものです。

子どもたちも手で色々なものに触れて心を育てます。どのような存在に触れるのか、できるだけ地球と対話できるような本物を、いつまでも生き続けているいのちのぬくもりを伝承していきたいと思います。

人類のリーダー

世界中で自然災害の猛威が広がっています。自然災害はそれまで人間が当たり前に生活していたことを一瞬にして破壊していきます。洪水、津波、地震、熱波に寒波、ついには隕石などあればどうしようもありません。

人類は目の前に明らかに危険が迫ったときでないと動かないということがインプットされています。時間をかけてゆっくりじっくりということにはあまり危機感がなく、突然来たことに対して対処するようになっています。これは昆虫も似ていて、急に現れると逃げれますがゆっくりやってくると逃げれないのです。

この辺はもう経験と直観で対応するしかないように思います。そういうとき、リーダーといった危機感が強く、大事な局面で大きな災害を予見し集団を救うという存在が出てきます。

本来、政治というものはそういう未来を見据えて危機意識の高い存在が人々の信頼を得て未来へ導いたのでしょう。最近は、政治と金というように既得権益を守るために存在しているようになり文明衰退期の様相です。しかし文明の問題と、この自然災害は関係はありません。むしろ自然災害が発生すればそれまでの文明の構造もパワーバランスもあっという間に崩れていきます。自然災害のリスクの方が、圧倒的にリスクになるのは間違いないことです。

だからこそ人類は本来は、リーダーをどのように選択するかは自然災害に対応できる歴史に精通し、人類の機微をよく理解し、環境に配慮でき、自然と共生する智慧に長けている存在を選んだ方が生き残る確率が高くなるのです。

インディアンの長老や、自然の道理に精通している経験豊富な知恵者などをリーダーにした方が生き残れると思うのです。今の時代は、経験者よりも知識者の方を重宝しそういう人がリーダーになります。しかし実際に事が起きる前、また事が起きたときにその知識では経験を補うことができません。いくらみんなで事実を知っても、知ることと知恵を持つことは全く別物だからです。

知恵を持つためには、知恵を持つための経験が必要になります。経験があるから知恵は維持されていくからです。その知恵を実践しているというのは、危機に備えていくということと同義です。先人たちはなぜ知恵を伝承してきたか、それは体験から得たものを忘れないようにしてくれてきたからです。

子孫として今のような時代、何が本来の人類の進む道かを見極め、子どもたちに生き乗るための知恵を伝承していきたいと思います。

経営と実践

会社を経営していると、経営者とはこうあるべきという話をあちこちから聞くことがあります。それぞれに経営論はありますが、その一つがプレイヤーかマネージャーかというものがあります。管理するのが経営だから、実際に実行させるのは部下にさせればいいというものです。

私はむかしからいつまでも現場で実行する方が多かったのでこの辺はあらゆる人たちから経営者として他人にやらせた方がいいといわてきました。何でも自分でやるから育たないとか、自分がやるから全体がおろそかになるなどです。

しかし私はもともと初心というものを定め、理念を実践するということを優先した経営を志していますから実践というものをしないことの方が経営効率がいいかどうかよりも問題で決めたことを自分でやらなければ意味がないから実践にこだわっています。

こんなことをやって意味があるのかといわれても、他に大事なことがあるのではないかといわれても他に大事なものもあるけれど実践することがもっとも大事なことだと取り組んできたのです。その結果として、今があります。

例えば、いのりというものがあります。他人にいのってもらっていたらいいというものではありません。いのりは自分で実践してはじめていのりになります。他にも、日々の片づけや掃除、お手入れなども自分でやっていることに意味があります。もちろん、一人ではできないことや日々の仕事があるときなどはどうしても協力者のお手伝いが必要ですがそれもまた実践ですからみんなで一緒に実践して取り組むことに意味があります。

そもそもこの実践というものは、修行でもあり修養でもあり、志を実行するという行為です。それをせずに経営をするというのは、そもそもその志は何だったのかということが疑問になります。

志があるから、道を歩みます。その道を歩むというのは、自分で実践するということに他なりません。自分で実践することなしに道を自分で歩んでいるわけではありません。今は何でもお金で買えます、そして経営者ほどすぐにお金を買おうとします。お金で買って運んでもらおうとしますが、そんな便利な方法で果たして道が実践できるのかということです。

道の実践は、自分で歩んでこそです。

そのためにも、手間暇をかけ、丹精を籠め、面倒だと思うことでも自ら率先して取り組み、時間がかかっても、苦労をしても、自分で決めた志に忠実に誠実に取り組んでいくことが大切なことのように思います。

経営もまた実践の一つですから、自分で決めた道を丁寧に歩み取り組んでいきたいと思います。

道を歩むということ

今日は、早朝から私の尊敬する禅僧とともに座禅をご一緒するご縁がありました。静かに言葉を交わさずに坐し、只今の心になっていく。そして感謝と共に先人やご先祖さまたちへの御供養と御礼をし参拝する。自然に心は落ち着き、穏やかな風に包まれます。

日々の暮らしをととのえていくはじまりの朝に、静かな時間が持てるということはとても仕合せなことです。私が綴っているブログも、書き出す前に前日にあった出来事を振り返り、内省し、それは一体何だったのかということを学びます。

これは自学自悟です。

本来、学問というのはすべては志があって道が始まります。つまり何のためにやるのかということを忘れずに、日々に取り組んでいくからこそ道の中にいるということです。人は道から外れることは簡単で、あらゆる寄り道をしながら自分にしか与えられていない道を闊歩していきます。

一生は一度しかありませんが、人はみんなこの初志という目的、何のためにやっているのかということを忘れます。時代に流されて迎合していくうちに、純粋な自分の最初の志を失っていくのです。それを忘れていない人は、非常に純度の高い想いで生きていきます。

そしてそういう人の周りには、いつも陰ひなたから支えてくれたり応援してくださる人たちが出てきます。その人たちもまた、その初志を貫徹してほしいと願い、同時に自分自身もそれを実現したいと祈り闊歩していくのです。

道は無窮です。

そしてこの道をもっとも顕すものは自然です。自然とかいて、かむながらと読むという言葉があります。道はこの今も、この先もずっと続くものです。終わりもなければ始まりもない、ずっと道があるだけです。この道は、私が途中でいなくなっても続きますしまた次の人がその道を歩みます。唯、生きるだけの道です。しかしその道は、決して一人ではなく同行二人です。つまり心が常に共にあります。

この先にどのようなことがあるか、それはわかりませんがこの道を歩んでいくことを決めた初心が共にあるからこそいつまでも道を歩むことが豊かになります。

何のためにやるのか、それを常に思い出しては磨き直す。そのような生き方をこの先も続けていきたいと思います。

便利さの副産物

消費文明の中では、使うことや捨てることがよいことをされています。特に利便性というのは、便利であること。便利は誰にとって都合がいいかということ。それは使う人にとってメリットがあるということです。しかしなんでもそうですが、誰かにとって都合のいいことは誰かにとって都合が悪いことがあります。それが自然でいえば、人間にとって都合のいいことは自然にとっては都合が悪いものです。しかし自然は文句を言いませんから、人間が好き勝手に便利に走っても誰からも非難されることはありません。

つまり非難されず文句を言えない相手なら便利であることは最善とも思うことがあるということです。子どもも同じく、大人の便利に左右されて色々なことに困っています。この逆に不便さというものは悪のようにいわれます。不便というのは、役に立たないことや都合よくないときに使われます。

世の中の不便を解消するためにビジネスを発展させるというのがこの前の時代の価値観でした。しかしよく眺めてみたら、これだけ便利になってもなおさらに便利になるように追及しています。これは確かに間違いとはいいませんが、その便利さによって発生する副産物によって私たちは大切なものを失います。

その一つは、時間というものです。時間を稼ぐためにスピードを上げる。そして便利なものを使う。しかしそれで時間が産まれるかというと消費されていきます。本来の時間はゆったりと充実して味わうものでかけがえのないものです。それは便利さと共に失われていくのです。

そして次に場です。便利であるがゆえに場がととのうことがありません。面倒なことを取り払い、場を磨き上げることを怠ることで自他がととのい、穏やかで豊かな関係が築けるご縁をも失います。

他にも健康というものがあります。便利になって健康が失われます。本来、不便というものは心身をバランスよく使い、丁寧に身体の声を聴きながら一つ一つの五感を活用して味わうものです。それを時間がないから、関係を重ねる暇もないからと便利に走っては健康まで失います。

もう少し不便を取り入れていこうとはなぜしないのか。

それは不便であることをよくないことだを刷り込まれているからです。私は暮らしフルネスの中で多くの不便を取り入れています。もちろん便利さも善いところもありますが同じくらい不便を取り入れます。それが喜びや豊かさ、古くて新しく、柔軟で謙虚でいられるからです。

時代は色々と問題をかかえているのはすぐにわかります。先ほどのことを大きくすれば、因果の法則で環境問題、自然災害。そして人災として戦争、飢饉。感染症や精神病もです。これは先ほどの便利さの副産物であるのです。

気づいた人から日々の暮らしを換えていくのが解決の近道です。次の時代の生き方、子どもが大切にされるような時代にしていきたいと思います。

水の知恵

水という存在はむかしからとても不思議です。いのちそのものであり地球を包んで循環しているものでもあります。この世の中は水が浸透し、水が巡ることで多くの生き物たちを育て助けています。つまり陰の立役者でもあり、欠かすことができないもっとも偉大な存在が水です。

しかも水というのは、目に見えるものもあれば空気中の湿度のように目には見えないものもあります。しかし明らかに私たちはこの水が通過しあうことでいのちを分け合っているのです。

例えば、雲が山に来て雨を降らします。その雨は山から流れ出て川になり海になります。そしてまた雲になり山にもどってきます。問題は、そういう水の流れを邪魔してしまうことが様々な問題を発生させます。

その代表的なものがダムです。水は本来は非常にシンプルで本質的な循環を産み出します。山から最初に流れ出てくる水が清らからで新鮮な水として流れ出します、山の麓ではその水を好む生物たちがその水の恩恵でいきいきと活動します。川エビやカニ、ヤマメやアユなどもいますし他にもその周辺には清流を好む存在がいます。そこから川に流れていきますがまずここにダムをつくればその周辺の生態系が変わっていきます。

水はすべての生命を通り、その生命を通る過程で必要ないのちを透過しながら次の養分へと結びます。水には、他のいのちと結合するという徳目がありそのすべてを通ることでいのち全体の流れを結ぶのです。

この結び目には、それぞれが水と共に生きる記憶があります。水がその記憶の間を伝いながら悠久の時間をかけて活動しているともいえます。つまり水は言い換えれば偉大な記憶装置のようなものです。記憶を留めて記憶を循環させていくことで、私たちはご縁の世界を生き、すべてを中和させていきます。

水には不思議な力がありますが私たちはまだその一端を知っているだけです。当たり前すぎてわからなくなっていますが、本来は水は神秘の塊です。

今回、鏡師と一緒に過ごしていくなかで改めて水の持つ神秘的な力を実感することができました。水にうつるあらゆる真実を深めて、子どもたちにその恩恵の偉大さを伝承していきたいと思います。

鏡の世界

ここ数日、鏡師と共に暮らすなかで鏡について深める機会をいただいています。よく考えてみると、私が如何に鏡のことを知らなかったかということを学んでいます。

人が鏡と最初に認識したのはいつだったのか、それはきっと水たまりや水面にうつる水鏡だったように思います。その後、技術的に石や金属を鏡にしていきます。現代では、メッキをつかって鏡は容易につくられています。

むかしから私も水面と奥の水中の景色をみるのが好きでこの世界がいくつかの層に分かれている感覚というものを持っていました。光に影があるように、表と裏もあります。他にも、水や火や風や雲もまた何かの変化とあわせて別の変化が上空と地上と海中で行われます。

子どもの頃、何かのテレビで鏡の中の自分が別の動きをしている映像をみたことがありました。そういう世界の見方もあるのかなと思ったことを覚えています。別のものでは影だけが別の動きをするという具合です。そんなことは常識的にはありませんが、これは目には見えないところでということであれば当たり前の話にもなります。

自分というものを認識するのも、顕在的な意識の自分と潜在的な意識の自分があります。例えば、心というものです。目にはみえている表層の意識と心の中にある意識があります。海でいえば、波立っている上層の水と海底の深いところに沈んでいる水があるようなものです。

私たちは平面と思っていても、そこに深さがあります。その深いところが沈んでいる水は奥が観えません。しかしそこには別のハタラキがあるものです。コップの水と、湖の深い水、表面は同じように観えても質量も深さも異なります。

私たちがこの世界を観るとき、深い奥に沈んだ何かを観るのか、それとも置きている現象だけを観るのか。それによって世界に観える層が変わります。私たちがどの層を観ているのか、そしてどのように自分を観るかにも関わってくるのです。

自分というものを深く観ると、自分の心の奥底にある水に気づきます。そして日ごろは表面にある水が揺らいでいることにも気づきます。鏡を観るとき、どの自分をうつす鏡であるのかは自分の磨き方によって左右するように思うのです。

自分を磨いていくのは、自分の世界を広げ深めていくためでもあります。そうやって自分というものを深く知り、自分というものを形成していくと、如何に私たちのいのちが深いところから、そして遠いところから訪れたかということにも気づきます。

子どもたちにも、この世の仕組みや道理、そして生き方を自然物から伝承していきたいと思います。

水の本質

昨日から鏡師の方が来て色々とお話をお伺いしています。どの話も新鮮で目から鱗のことばかりです。そもそもの存在が何のハタラキの支えがあって生きているのか。そして水がどのように結合し変化してこの世を循環するのか。水を知り尽くしておられる方のお話をお聴きし、私が好きな炭の話に通じる物ばかりで得心がありました。

もともと磨くという行為は、掃除を通して学びます。掃除をしているのは自分ですが、その掃除する対象や関係において磨かれているのが自分という体験をします。どの深さで掃除をするのか、どの高みを志して磨き合うのかでその行為の持つ密度も内容も変化してきます。

不思議ですが、自分の心のありよう、そして実践の純粋さや想いの透明さによってその結果が変わってくるというのがこの世の真実かもしれません。目に見えない世界と目に見える世界は常に表裏一体でこの世とあの世を融和しています。

その融和した世界において現代の私たちは常にその表面上のことでしか理解しないという仕組みになっています。しかし必ずそこには、裏でまた蔭で働く存在がありその隠れた存在のハタラキこそが表を創っているのです。また言い換えるのなら、表のハタラキで裏を支えることもできるのです。

これは私の目指している徳積み循環の道徳経済の話と一致しています。そもそも徳は陰徳といわれます。陰でハタライテくださっているから徳は陰徳です。そして表面に出てきているのは恩ともいいます。恩に報いることで徳を積むこともできます。

私たちの先祖は、常に知識や目に見えるだけで判断せずにそれが長い時間をかけてどのように循環していくのかを観ていました。つまりいのちの流れ、そのものが循環していく時にどのように全体を支えていくのかという徳の好循環を邪魔していないかを確認していたように思います。

例えば、自然循環でいえばダムをつくり堤防を用意し川をセメントで固め、汚水などを洗剤で洗えばどうなるか。生き物たちは水の恩恵を享受されることなく海に流れます。すると海が循環しない死んだ水を処理しなければならず、あっという間に海が弱っていきます。海が弱れば雲も弱り、水全体がいのちを失っていくのです。

水の浄化力というものの、増幅させ元氣にしていく循環と病気にさせ弱体化させていく循環があります。水があらゆるものを許容して受容し、それを全体がよくなるように繋ぐ役割です。水がどのような性質を持っているのかを知り、水をどのように活かすのかを考えたのが本来の治水ということでしょう。

ただの水害対策ではなく、お水を尊重し尊敬してその陰のハタラキに感謝していたからこそ人は謙虚でいられたのかもしれません。まさに今の時代、絶滅という言葉がよく飛び交います。なぜ絶滅したのか、それを掘り下げれば必ず水の問題にいきつくように私は思います。

子どもたちのためにも水を学び直し、自ら変えていきたいと思います。