和紙とは何か

英彦山の宿坊、守静坊の甦生のクラウドファウンディングの返礼品を用意するために和紙の準備に入っています。和紙の定義は、現在では西洋から伝わった製法の木材原料を主とする洋紙に対して、むかしながらの製法でつくっているのが和紙と言われます。他にも手漉き和紙のみが本来の和紙という定義もあります。また最近では原料に三椏や楮が100%使われたり、機械でも手すきに近いものも和紙と定義されたりしています。

何が和紙というのかは、それは個々人の受け止め方ですから厳粛に何が和紙かということはわからなくなってきています。以前、伝統のイグサで畳をつくっている農家さんからイグサは加工品ではなく生産品であるという話を聞きました。つまりいのちあるものとして生きているものだということです。

私にとっての和の定義は、いのちがあるものということになります。そういう意味で和紙は、私にとってはいのちのあるものでつくっているものという意味です。それでは何がいのちがあるのかということになります。

もともと日本の和紙作りの三大原材料として使われているものは楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)です。この植物を収穫し、丁寧に扱って和紙の原料をつくっていきます。それを和紙職人が、一枚ずつ手で漉いていきます。私もその場面を何度も観ましたが、とても神秘的で神々しい様子です。

その和紙は機械ではでない風合いがあります。これは手漉きだけではなく、最初からずっと完成するまで日本の伝統的精神でつくられているからです。

和というのは何か。

この問いは私にとっては明確な定義があります。それは日本の心でであるということです。日本の心とは何か、それは思いやりのことです。思いやりを忘れない、すべての主体をいのちとして主人公としていのちをすべて全うできるように配慮や尊重があること。

そうやってつくられたものだからこそ、和であり和紙になるのです。

だから自然の篩にかけられても長持ちし、何百年、もしくは千年を超える時間を維持することができるのです。そういういのちを入れるものだからこそ、むかしはお札にも使われていて人々の暮らしを守ったのでしょう。

返礼品は、このいのちをそのままお届けしたいと思います。

英彦山の守静坊から思いやりを伝承していきたいと思います。

徳治の世

自分らしさというものがあります。これは個性でもあり、その人にしかない天命というものもあります。誰かと比較してではなく、その人がその人にしか与えられていないいのちを最大限発揮していくということです。それが自由でもあり自立でもあります。そしてそれが社会の役に立つようになれば人類の仕合せもあります。

社会で役に立つようにするには、みんなでお互いの自分らしさを尊重し合うような寛容な世の中である必要があります。それぞれがお互いに反省し合い、そして認め合う世の中にしていくことです。

誰かが正しい、誰かが間違っているとなっていがみ合えばいつまでも対立構造が変わらず争いが絶えません。しかしお互いに尊重し合うようになれば、自分も正しい、みんなも正しいという具合にそれぞれの違いを認め合えるようになります。

そのためにどうお互いに折り合いをつけるのかを対話するのが人類の叡智です。

人類は、太古のむかしから真の豊かさとは何か、そして真に平和な世界は何かということを何度も何度も反省しては築こうと努力してきました。そして徳による政治を行うことを孔子は説きました。つまり徳治の世にするということです。

自然界というものは、弱肉強食と教えられます。しかし果たしてそうでしょうか。サバンナやアマゾンをみていても、お互いに自制し合い、尊重し合いながら自然の摂理に従ってお互いのいのちを精いっぱい発揮しています。自然界はまさに自分らしくあります。弱肉強食は、何度も立場が入れ替わりますからお互い様ということです。

人間はその自然の尊重し合う仕組みを捨てて、一方的に権力や権威で集団をまとめようとしていきました。その方が、都合もよく実は時代が変わってもこの辺はあまり変化していません。しかし、この時代、情報化も進み、人類も世界と結ばれ、国境もなくなってきました。人類としてどう生きるのか、どう自分らしさによって真の豊かさに近づけていくのかをみんなで対話する時が近づいているように思うのです。

そのモデルをどの国の誰がやってみせるのか、そして深く静かに実践することで形どっていくのか。今、人類は試練の時です。だからこそ、子どもたちのために徳積財団を立ち上げ、徳治の世を実現しようと挑戦をはじめたともいえます。

いよいよ、宿坊の甦生もひと段落して本懐であった徳積堂の運営をはじめていきます。子どもたちに譲り遺していきたい懐かしい未来を今、この時代に甦生して実践していきたいと思います。

自然のリズム

先日、浮世絵師・廣重の東海道シリーズ「三嶋」の中の三嶋明神前でほら貝を吹く男の図というものを見ました。これは何の図だろうと深めていたら、むかしはお役人さんたちが宿場町で時を知らせるのに法螺貝を用いたとありました。山伏だけではなく、むかしは役場職員たちも法螺貝を吹いていたということになります。そういえば、先日、インドから来られた留学生もインドでは朝や夕方にみんな法螺貝で今でも時を知らせているといわれていました。それだけむかしは、法螺貝は暮らしの中で当たり前に存在した道具だったのでしょう。

話は変わりますが、もともと今のような24時間を分刻みで生きるようになっているのは現代の特徴で少し前までは不定時法といって自然のリズムに合わせた時間が用いられていました。

一日の長さを等分に分割する時刻制度を「定時法」で、これに対して一日を昼と夜に分けそれぞれを等分するやり方を「不定時法」といいます。江戸時代までは日本はこの不定時法が使われていました。つまり昼と夜をそれぞれ6等分し、一単位を「一刻」と呼びました。

これを使えば、一日のうちでも昼と夜の一刻は長さが違い、同時に昼夜の長さは季節によって変化しました。つまり時間が昼と夜と季節によって変わるということです。時間に合わせるのではなく、自然のリズムに合わせた時間を生きていたということです。

そしてその時の呼び方も数字ではなく真夜中の子の刻から始めて、昼夜12の刻に十二支を当てました。一方で子の刻と午の刻を九ツとして、一刻ごとに減算する呼び方も使いました。子の刻が九ツ、丑の刻が八ツで巳の刻の四ツまで行ってまた午の刻で九ツから数えます。これは数字だと、同じ数字が2回出てくるのでどちらの2つとか、どちらの3つとか聞き直すこともあったからでしょう。それで夜の九ツ、昼の九ツ、明け六ツ、暮れ六ツといった区別をつけたのです。泣く子も黙る丑三つ時というのもここから出てきます。

これはよく幽霊が出てくる時間帯といわれ怖がられました。これは中国の陰陽五行のもっとも陰の強い時間帯のことです。陰陽はたとえば「月は陰、太陽が陽」「裏は陰、表は陽」ともなります。そして「丑は陰」で「寅が陽」となり、その中間にある「丑寅(午前3時)」は「鬼門」です。つまり「鬼が出入りする」方角となるため、近い時刻の「丑三つ時」が「鬼門」と深い関係があると解釈されこの時に幽霊が出ると信じられたのでしょう。

むかしの人は昼と夜の時間を棲み分けしていたといいます。昼は人の時間で夜は神の時間だったのです。そうやって自然のリズムで自分たちの働き方を換えていきました。今では働き方改革には自然のリズムが無視されています。そのすべては人間中心です。

私たちの暮らしフルネスでは、自然のリズムを取り入れています。人間が本来持っている暮らしの時間は、今まで生きてきた時間軸を使うことで甦生していきます。子どもたちが真に豊かな時間を持てるように、この時代で逆行小舟と言われようとも子どもの憧れる生き方と働き方の実践を磨いていきたいと思います。

今度、法螺貝で時を知らせてみたいと思います。

身近な自然との調和

現在、「サル痘」という感染症が世界で流行り始めています。このサルという名前がついているのを調べたらあまりサルとは関係がないことがわかりました。このサル痘ウイルスによる感染症は、1958年、最初にこのウイルスが発見されたのが医薬品開発のために集められたサルだったことから、サル痘と呼ばれはじめたそうです。

実際にはいろいろな自然動物の血液を解析したところ、リスやネズミなどのげっ歯類がこのウイルスを持っていてこれらの動物にかまれたり、血液・体液・発疹などに触れたりするとヒトにも感染するということがわかっています。それがヒトからヒトへ感染になると大変です。飛まつ・体液・発疹などに触れることで感染していきます。

ヒトからヒトへの感染はあまりないといわれていますので感染拡大はないといわれてますがすでに20か国で感染拡大があったそうです。

また6月から海外からの入国が緩和されていきますが、これから発生してくる感染症をどのように対応していくのかはまだ解決していません。コロナでここ3年間くらいを過ごし、もしももっと強力な感染症が流行ったらまたどうなるのでしょうか。

人間と自然との共生関係やバランスが崩れて行き過ぎると、すぐにこのようなことが発生してきます。島国の動物たちなどがよく絶滅するのも、本来そこにいない生態系やウイルスが入ってきて抵抗力のない生き物たちが絶滅していきます。

現在、アフリカの奥地にあるようなウイルスや、ひょっとするとシベリアの永久凍土の中にあるようなウイルスも人間の移動や輸送のときについてきます。虫たちも船や飛行機と一緒に入ってくれば、それまでの風土の生態系が崩れます。

感染症の問題は、生態系の問題でもあります。そうなってくると環境問題、つまり人間の問題が産み出しているということですから解決がなかなかできないのです。

ウイルスとのイタチごっこですが、治療薬もそんなにすべてをすぐにつくりだすことはできません。この辺で、冷静になって人類はどのようにこれから本来の暮らしをとのわせていくことが永続する未来につながるのかを身近な実践から見つめ直していく必要があるのではないかと思います。

暮らしフルネスの実践を磨いて、身近な自然環境との調和をととのえていきたいと思います。

 

ハレの精神

宿坊に遺された先人たちの道具を丁寧に洗浄し磨いています。墨で年代を書かれた箱に入った食器などは200年以上前のものばかりです。それくらい前からずっとあるというのは、それだけ多くの人たちが使ったということとそれだけ長く大切に今まで保たれたということでもあります。

お椀などは漆が塗られていますが、だいぶ傷んでおり修繕できるもの、できないものがあります。どれも土台はしっかりしていて、塗り直せばまだ使えるものばかりです。

昔の人たちは、道具や物を大切に扱い、使ったら仕舞っていました。日用品とは異なり、ハレの日や大切な時に用いたものだったからでしょう。今は、仕舞うというよりは倉庫や棚に入ったままになるのでどうしても使わないものになってゴミになって捨てられていきます。

ハレの日に使うというものは、ハレの日が何かということがきちんと定義されていたからかもしれません。現在、辞書でハレの日を調べたら節目のことだと記されます。

このハレの節目というのは、何か物事が転換される時、また何か成長をする大切な時機、種から芽が出るように新たな人生の物語がはじまる時などにケガレを祓い清めて晴れ晴れとするということになります。

心を澄んだものにし、雨上がりの美しい晴れ間のように心を澱みや汚れを洗い流して新たに生き直そうとする日本人の大切にしている生き方を顕すものです。禊もまた同じように、穢れを祓い清めハレるために用いられます。

節目を大切にすることで、心を清め続けたのかもしれません。

この古い道具たちに新たな出番をどう用意していけばいいかと思案しています。この道具たちとのご縁があったからこそ、ハレの日を待ち望む未来のためにさらに寿命を伸ばして大切に今の時代も使われるようにしていきたいと思います。

一期一会の出会いを大切に、子どもたちのために精進していきたいと思います。

お茶のご縁

昨日、守静坊である仙人のような方からお茶を立てていただき一服頂戴するご縁がありました。その方は、千利休の時のお茶を甦生させようと真摯に自らを磨いておられる方でした。

茶道具もすべて自分でつくり、その美しい道具のもつ雰囲気に清廉と静寂を感じました。ありとあらゆるものを深くそして高く遊び、まさに一線を超えているその卓越した技に、心が共感しました。私も、自分で色々なことを創造し、その物と対話しながら自分を盡していきますから物をみればその取り組む心が伝わってきます。

素晴らしい先輩がいることを知り、この道の面白さにさらにワクワクする想いがしました。

その方との話で売茶翁(ばいさおう)のことをはじめて知りました。この方は、日本ではじめて喫茶店を開いた方でもあり煎茶の祖ともいわれています。その生き方がとてもユニークで、1675年生まれの方ですが今でもその生き方は人々の心の中で語り継がれています。

この売茶翁というのは名前ではなく、お茶を売る翁(おきな)という意味のあだ名です。本名は柴山元昭、幼名は菊泉といいます。僧侶としての名前は月海で、晩年は高遊外と名乗りました。

禅の心を持つ雲水の中には、本来の雲水そのままである人がおられます。この世にいてまるで五次元のところでゆらりと遊んでいるような風貌の方です。心を自由自在に操りまるで雲水そのものです。

この方の面白いエピソードは、死期を悟り売茶業を廃し、自分の茶道具も燃やしてしまうものです。これは自分の死後、俗世に渡り、売買されるようなことになってしまえば茶道具自身が悲しむだろうと思い一緒に燃やしてしまったそうです。本来の雲水そのものが雲水そのものの道具と共に旅をし遊ぶ。まさに禅の生き方と共にしてきたパートナーだからこそ、一心一体だったのでしょう。

心を遊ぶというのは、奥が深くまだまだ私にはわからないことばかりです。千利休はどうだったのでしょうか。もうお会いできませんが、同じように千利休の求めた心を求めて、売茶翁が行った実践を参考にして、私自身も茶を遊んでみたいと心から感じました。

素晴らしい出会いに心から感謝しています。

伝統固定種の甦生

昨日は、自然農の畑で伝統固定種の堀池高菜の種どりをいつも親しくしている情報工学の学生さんや友人のご家族と一緒に行いました。新緑のいい風が吹いていて、今年は特に種をたくさん収穫することが目的でしたからしっかりと種どりを行いました。

もともと高菜というのは、漬物にすることで有名です。日本三大漬け菜として「高菜漬け」「野沢菜漬け」「広島菜付け」があります。そして九州を代表する漬物がこの高菜なのです。

高菜というのは、前にもブログで書きしましたが平安時代くらいに種が日本にも入ったといわれています。平安時代は8世紀末ですから1200年以上前からずっと日本で育ってきたということになります。日本の風土に根付いて、日本の味になり、さらに九州の風土の各地に根付き、それぞれの美味しさに進化してきました。

調べると西暦892年発刊の『新選字鏡』には高菜の事を「太加奈」と記載してあるといいます。明治時代には中国四川省から高菜の在来種というべき青菜が日本伝わり九州・東海地方に伝わったといいます。そこで九州では紫高菜、柳川高菜、相知高菜となり高菜漬に適した三池高菜になったそうです。もともと筑豊地域の高菜漬けはとても美味しかったと年配の方々からよくお聴きすることがあります。

炭鉱の時代、炭鉱夫はお腹を空かせてたくさんのお米を食べたことでしょう。その時、もっとも食卓でご飯の友として食べられたのがこの高菜だったことは簡単に想像できます。それが今では、飯塚のほとんどの農家さんが積極的に高菜を作っていません。

その理由は、やってみるとわかるのですが重労働にもかかわらず見合う収入が得られないということがほとんどです。高菜は安いわりに大変な労力がかかるのです。よくラーメン屋にいけば無料で高菜がついていたりします。他にもスーパーなどで販売していますが、どれも安いことが分かります。高菜イメージが安いというものでできていますから、それが高いと売れないという理由もあって農家さんの収入の役に立ちませんでした。

そういうことがあり農家さんの高菜離れが拍車がかかり今ではほとんど作らくなったということです。さらに福岡には三池高菜があり、その有名な高菜を種をもらい筑豊でも三池高菜の種を植えるようになりました。他にも大手種メーカーで自由に高菜の種を買えますからそれを植えています。そうするとそれまであった地元の伝統固定種と交雑しますし、さらには農薬や化学肥料をつかうことで本来の味わいも落ちていき形状も変わっていきました。

本来の伝統固定種というものが失われていくのは、こういった消費優先の経済活動によってそれまで醸成されてきた1200年の文化ともいえる進化が消失するのです。

よく考えてみたらわかりますが、今もむかしも重労働であったのは1200年間変わっていません。それでも人気だったのは、郷土の知恵料理であり、懐かしいふるさとの味を子どもたちにつないで残していこうとした先人の想いや願いもあったことがわかります。

それが今、安易に生活できないからという理由や便利さを優先し簡単に変化し守る努力を諦めてやめてしまえばそれまでの歴史も潰えてしまうのです。時代が変わっても流行で価値観が変わっても、変えてはいけないものがあると私は思います。それが未来への宝になり、子孫たちへの与贈になるのです。

必ず時が経てば、本当の価値や真実は時間と共に明るみになります。希少価値とはそういうものです。しかしその時にやろうとしても種が残っていなく栽培できる環境がなく、消えてしまってはあまりにも悔いが残ります。これを新しいテクノロジーを活用し温故知新して新たなものにし、新たな価値に乗せて守り育てていきたいと改めて感じる一日になりました。

手触りや手入れは、心とつながっていますから目的や初心を忘れることはありません。人間に寄り添うテクノロジーを私は突き詰めていきたいと思います。伝統と歴史、地域や風土、人、物、心の和合、堀池高菜からはじまる伝統固定種の甦生を楽しみにしています。

嘘の情報の時代

今の時代は、情報が氾濫して何が本当のことかが分からなくなってきています。情報ツールがいくら増えても、その情報の本質が歪んでいたら一体何が本物かもわかりません。

本来、情報というものは誰かが言っていたからやみんな言っているからなどということが本当のこととは限りません。また安易にメディアを信じても、それが確かかどうかは編集されていますからわかりません。

正直で嘘がない世の中になっていれば、情報はほとんど歪まずに存在します。しかしそこに嘘や偽りがほとんどの世の中になっていればほとんどの情報は歪んでいくのです。

今の時代がどういう時代かをよく観察していたら、今が嘘の情報の時代であることはよくわかります。だからこそ、これは本当だということを証明するための仕組みをみんな探します。おかしな世の中ですが、社会というのは全体がどちらに傾いているかでその世の中の情報の姿も変わります。

特に歴史をみれば政治という人の権力にとって統治する仕組みの中では情報操作は常に行われてきました。情報こそが人の権威や権力を左右するからです。今、世界は情報戦が繰り広げられています。

本来の言葉の意味も換えられ、歴史も換えられ、価値観も文化も換えられていきます。何も考えていないで情報に受け身になればあっという間に情報戦の餌食になってしまいます。

だからこそ自分自身で本質を深めたり、掘り下げたり、または自分から五感や六感をフル稼働し、現地で体験しながら生の情報を獲得していく努力が欠かせません。

今の読んでいる古い本、そしてこのブログでも、本当にそうなのか、本当は何なのか、これはいつからはじまったのかと、最初からゼロベースで調べていく努力が必要です。

主体性はこの情報のところにも存在するのです。

子どもたちのためにも、本当のことを自ら深め、本質的な実践を積み重ね、天に恥じないような誠を自分自身と正対して実践していきたいと思います。

反省の大切さ

論語に「吾日三省吾身」というものがあります。これは「吾、日に三つのわが身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。伝えられて習わざるか」の孔子の高弟、曽子の言葉です。

反省というのは、自分自身の心に向かって内省していくものです。誰かの比較や評価ではなく、その日あったことを振り返り自分自身の心に訪ねて対話をしていくのです。本来の主体性というものは、一方的に外側から伝えられる情報では発生しません。外側で感じたことを内側でどのように感じたか、そして同時に人生の意味や目的や初心などを砥石にしてどのように磨いたかを確かめるのです。

人は失敗することで成長しますが、失敗は反省することで得られます。そして反省したら改善や修繕の創意工夫が産まれます。つまり反省をすることは、人生をよりよく生きる上で何物にもかえがたいものであるのは間違いありません。

松下幸之助さんはこういいます。

「誰でもそうやけど、反省する人は、きっと成功するな。本当に正しく反省する。そうすると次に何をすべきか、何をしたらいかんかということがきちんとわかるからな。それで成長していくわけや、人間として。」

そして稲盛和夫さんはこういいます。

「忙しい毎日を送っている私たちは、つい自分を見失いがちである。そうならないためにも、意識して反省をする習慣をつけなければならない。反省ある人生を送ることにより自分の欠点を直すことができ、人格を高めることができる。」

名経営者たちもまた、反省の大切さに気付き反省することで素直さや謙虚さ、主体性や純粋性などを磨かれ人間として成長を学び続けておられたように思います。

もともと反省は、自分自身との対話ですから一人でやっていくものです。しかしそれだけでは日本の伝統的精神の衆智を集めることはできません。だから私は一円対話という場を通して反省する仕組みを提案しています。

忙しくなるのは、振り返る「場」がないからです。

人は場があれば、その時間は丁寧にその場で自分自身と向き合うことができます。それをみんなで振り返ることができるのならみんなで自己内省したことを共有しあうことができます。

例えば、初心をみんなで振り返る場があればみんなが主体性を発揮して改善していく組織になります。誰かと比較や、思い込みやバラバラになるのではなくそこに確かな協力や共有が深まります。つまりバラバラでも内省によって繋がりあう関係が結ばれるのです。

これを自律分散型の組織という言い方もします。振り返りは、自律や協力をしていくための土台です。これはまず自分自身がそうなっているのかということを振り返ることが前提になっています。自分というものとの付き合い方がととのってないのに、周囲の人との関係をととのっていくことはできません。

自分自身をよく振り返る人は、自立していきます。子どもたちにもその時間や場を設けることの大切さを伝えていますが、そこに関わる方々の場もととのえていく必要があると感じています。

だからこそ論語にある「三省」が大切になるのです。徳もまた内省によって磨かれていくものです。引き続き、生き方を通して一人一人が自分らしく仕合せに生きられる社会のために自分自身と丁寧に一円対話していきたいと思います。

弱さの真髄

昨日、聴福庵に来られた方々にここまで直すのにどれくらいかかりましたかと聞かれました。実際には、今も修繕し続けていますから5年以上ということになります。そして今も、お手入れしないと傷み壊れていきますからずっとやっていくことになります。

つまり古民家に住むというのは、日々のお手入れをして直し続けることは当然のことになっていきます。実際に、この時期などは少しだけ目を離せば、庭はあっという間に雑草だらけになります。他にも、誇りを被ったり小さな蜘蛛が入ってきては巣をつくります。定期的に磨かなければくすんできますし葉っぱや落ち葉も風で落ちてきます。

本来、この修繕やお手入れというものは暮らしの一部でした。暮らしの中で自然への畏敬を忘れずにいつまでも生きていくということ。こういう日々の暮らしの中でずっとこの修繕とお手入れは引き継がれてきました。

それがこの150年くらい前から、生活様式が一変し、便利なものが増えて修繕やお手入れは特定の人たちだけがすることになっていきました。古くなれば新しく買えばいいということで、メンテナンスや維持するための努力をなくしていきました。そうしているうちに、完全に壊れてしまいゴミのようになって捨てていくという具合に失われていきます。

不便さというのは、弱いものです。弱いというのは、頑丈でもなく強固でもない。お手入れをしてあげなければ壊れてしまうというものです。日本の家屋は基本はこの弱さを重ね合わせたもので完成しています。

弱さがあるからこそそれぞれの持ち味を活かして協力し合い真の強さを持てるようになります。まさに弱さこそ、日本文化を活かす真髄ではないかと修繕とお手入れをしながら感じます。

この先も実践は続きますが、先人たちと同じように丹精を籠めて日々の実践をしていきたいと思います。