マインドフル・プラネット

昨日は、宗像国際会議のスピリチュアルツーリズムのセッションでZEN2.0の活動をされている宍戸さんと三木さんのお話のコメンテーターとして参加してきました。この団体の掲げているミッションは『生きとし生けるもの全てをかけがえのない存在として、人類全体が心豊かに地球を共有するマインドフル・プラネットを創っていくことをミッションとしています。また、近づく方法として、仏教の「仏・法・僧」の三宝から借り、「わたし」「自然」「つながり」を調和した社会の実現を目指します。』とあります。

お話の中では、ご自分の病気の体験やそこからの気づきにはじまり、心豊かに生きていくことの大切さ、世界のマインドフルな想いをオンラインで繋がりあうなど共感するお話がたくさんお聴きできました。また詳しくは後日、宗像国際環境会議のHP等から動画配信されると思います。

このZENというのは、アメリカに伝わった禅がそのままZENとして呼ばれているものです。アメリカではZENというと仏教という印象が強く、一般的にはマインフルネスという言葉で使われることが多いように思います。

マインドフルネスという呼び名になると、特定の宗教や宗派というものを超えて高い精神性や、静かな心境、穏やかな境地のようなものを持ちたいと願う人たちが使う言葉として現在は世界で定着しているようにも思います。

私には古くからの友人の一人に長崎にある禅寺の僧侶の方がいます。

その友人は、いつも禅的な生き方をして自由奔放で私のイメージする「雲水」そのものです。何ものにも捉われない、自分自身であることを大切にしておられます。

私自身も若い頃、道元禅師を慕い永平寺を参拝して朝の参禅に参加したことがあります。今でも思い出すのは、永平寺の周辺の滝場の美しさ、そしてととのった場の美しさ、今でも想いを馳せると心に薫ります。

本来、頭で理解する宗教や経典などとは別にそもそも生き方というのは「感じる」ものです。感じるというのは、五感をすべて自然に投げ出してそれを深く味わう時に磨かれ、その自然と一体になって全体と調和していきます。

本当の自分とは何か、自分自身とは何かということを自然から導いてもらうのです。

私たち人間は生きているうちに、人間だけが創り出した社会という名のどこか仮想で虚構の空間の中に放り込まれていきます。しかし、現実というものはそれとは別に「地球と一体になって暮らし」ているのです。

私もこのzen2.0のマインドフルプラネットという理念にはとても共感して、そうありたいと思う一人になりました。志のあるお二人に出会えたことをとても仕合せに思います。今日は、私も10時から「環境問題と価値観の転換」というテーマで登壇しますが未来の子どもたちのためにも自分の役割を真摯に果たしてきたいと思います。

ありがとうございます。

お手入れの思想

現実というものを直視できるというのは素直であることでより磨かれていくように思います。きっとこうだろうと決めつけるのではなく、きっと自分に何かわからないことがあったのだろうと聴く心を持っている方が素直になっていくからです。

この素直の力というものは、思い込みを外す力であるように私は思います。

人は何かの考えに縛られ執着をすると、その考えに固執してしまいます。すると、この固執した考えが邪魔をして現実を隠したい歪めたりしていくものです。これを価値観という言い方もしますが、その価値観を転換する方法は私は「聴く」ことであると信じています。

少し詳しく説明すると、人間は素直に聴くことができるのなら物事はすべて福に転じていくことができます。古い諺にある「禍転じて福になる」のです。

つまり聴くことで福になる、そして本来、人とはそういう存在である。

これを私は「聴福人」(ききふくじん)と名付けています。これは七福神(しちふくじん)に因んでそう呼んでいます。私は人生でこの聴福人の誓いを立てて、その人物を育てるために一円対話(いちえんたいわ)という方法を編み出しました。これは、二宮尊徳の一円観(いちえんかん)から命名したものです。

一円観は、善や悪など世の中のありとあらゆる対立するものをひとつの円の中に入れて観るというものの見方です。シンプルに言えば、もともとこの世は表裏一体。自分の思い込みが相手をそうさせ、自分の決めつけがその反対を生み出すということです。そもそもが混然一体になった丸ごと一つの団子のようなものだと思えば対比することもなく、素直に物事を観ることができるということです。

つまり許すとか許さないとか、正しいとか間違っているとか、いちいち対比して比較して物事を観るのではなくあるがままで丸ごと観るということ。素直に現実を観るということです。

人は何かを考えるとき、自分にとってどうか、相手にとってどうかと縛られます。これが価値観を持っているということです。その価値観を転換するというのは、その自他を最初から一体にしてしまうこと。しかしこれを文字で書いても、やっぱりまた我が入り対比してしまうでしょう。だからみんなわからないで苦しむのです。

なので実践してみて私が気づいた境地は「聴く」ことが解決するうえで王道であり智慧だと私は思うのです。この聴くは、頭で聞くのとは違います。耳に徳の字が合わさった文字です。つまり心の耳、心のすべてで傾聴するということです。

例えば実践となると、「きっと何か自分にもわからないような重要な理由があるのだろうやきっと何か大事な意味があるのだろう」と自分から決めつけないための努力をしているのに似ています。刷り込まれないように眼鏡を吹き続けたり、心を清めつづけていくのです。

日々の塵や埃のように、何もしなければそれは溜まっていきます。掃除をして綺麗にして磨いていないとすぐに汚れていきます。汚れたままでは、元の状態もわかりません。なので、暮らしをととのえて磨く必要があると私は思うのです。

私が暮らしだというのは、これは日々の実践でしか解決するしかないと確信しているからです。いくらいい人や聖人、周囲から偉人と呼ばれている人であってもそんな称号があっても何の解決もしません。どんな人でも、それば仏陀でも孔子でもキリストでも地球に住んで肉体を持っている以上、お手入れし続けているのです。

それが修行ということでしょう。

この世に生まれてきて最期の日を迎えるその日まで、私たちは自分で穢れを祓い清めて洗い流してお手入れしていくのが生きる醍醐味です。私が取り組むお手入れの思想、暮らしフルネスの実践を皆さんにお話しする機会に恵まれたことに感謝しています。

味噌汁~時の味わい~

昨日は、久しぶりに味噌づくりの体験のお手伝いをする機会がありました。思い返せば、最初に味噌を自作したのはもう15年以上前だったようにも思います。子どもたちと一緒に熱々の大豆を手ですり潰していく作業が思い出に残っています。

大豆を育てるのも一苦労で、簡単そうで大量となるとなかなか育ちません。育たない理由は大豆になる前の枝豆が美味しすぎてそこで収穫したり人に配ったりしてしまうこともありますが。

昔の人たちは味噌をつくるために、大豆もたくさん育てていたのだろうと思うと懐かしいものを感じます。そのすり潰した大豆に麹菌を混ぜて塩を足し発酵させていくと味噌になりますがこの変化を楽しむこともまた味噌の醍醐味です。

私は発酵は木樽にこだわっています。その理由は、木樽は呼吸をしていて水分量を調整してくれます。プラスチックだと水分の調整が難しく、水がうまく抜けません。適正水分を保つというのは、どの生き物においても重要なことです。私たちのいのちは水でできていますから、この水との調和がいのちを適切に育むからです。

水と塩、まさに海ですが地球を保つ仕組みと私たちの身体や食物のいのちもまた同じ仕組みで構成されているのです。

そしてこの発酵というものは、まさに代々を継いで円熟していく「時の美味しさ」というものが入っています。味付けというのは単にその時の組み合わせだけではなく、それまでかけてきた時間や歴史も味になっているのです。

特にこの「味噌汁」は、日本人は1200年くらい前から私たちのいのちの健康を支えてきた食べ物です。私たちが味噌汁を食べるとき、それは単に組み合わせの美味しさだけではなくこの時の美味しさも感じています。懐かし味の代表はこの味噌汁でもあるのです。

保存に適し、麹菌をベースにあらゆる腸内細菌との調和をはかり食べ物をうまく包み込み美味しく仕上げていく。少し大げさかもしれませんが味噌汁の御蔭で私たち日本人は、この高温多湿の風土の中でも健やかに暮らしを営んでいくことができてきたように思います。

昨日は手作りの真心籠った味噌汁に竈と備長炭で炊いた自家製の無肥料無農薬の玄米ご飯に野菜の味噌漬物の一汁一菜を、子どもたちも一緒に懐かしい藁ぶきの百姓古民家で深く味わいました。本当に日本人に生まれてきてよかったと思う瞬間の一つです。

時を感じるというのは、自分たちが「ここで生まれてきて善かったと感じる瞬間を味わっている」ということでしょう。できれば、未来までずっとこの瞬間が子どもたちに伝承していけるように私のやるべきことをやり遂げてこの世を去りたいと思います。

貴重な一期一会の時間をありがとうございました。

真に尊重し合う世の中へ

昨日、結果平等や結果公平の話が会議の中でありました。もともとこの平等や公平性などは誰かによって押し付けるものではあってはいけません。なぜならこの平等や公平性は、あくまで「受け手」がそれを感じるかどうかが重要だからです。

例えば、食料で平等といって同じものを与えることや、公平といって分配するということをやったにします。しかし個々人には好き嫌いもあるし、それに体の大きさ、病気の有無、アレルギーなどもあります。与え手がいくら同じものを同じ量与えたとしても受け手がそれを必要としない、もしくは何らかの理由で欲していない場合はその平等や公平は成立していないからです。

お互いの尊重し合う社会というのは、相手の意見をよく聴いて尊重してお互いに配慮し合う中で実現していきます。それはどんなに小さな意見でも一理あると傾聴し、またどんなに弱い立場の人の話でもそれも一理あると大切にしていくところに存在していくのです。

先ほどの平等や公平性を考えて一方的に押し付けるというのは、まさにやっていることの本質としては不平等や不公平を一方的に押し付けたということになっています。多様な意見や状況を尊重しようとしていないところにすでに不平等も不公平もあるのです。人間は正論だけでは解決できないことはあるのは当然です。なぜならこの世の中に正しいということはないからです。同時に間違っているということもありません。それが自然界であり、宇宙の道理です。

だから私たちはどんなことにも配慮し、尊重し合うことで調和しこの世で持続可能ないのちの循環をみんなで分け合い助け合いながら暮らしていけるようになったのです。それを人間の一方的な押し付けで、正論を掲げ、人類の中でしか通じないルールを押し付け、一方的に不平等や不公平を広げていくのは単に誰かだけによって独裁する世の中に仕上げていくだけのように私は思います。

独裁の中では本当の意味で自立や協力し合うような自立分散の平等や公平の世の中になることはありません。私たちは、平和を持続させていくためにも各々が尊重し合う世の中を目指していく必要があります。

私がブロックチェーンのテクノロジーにこだわりそれを昇華させて徳を積むというような実証実験に取り組むのもその原点はこのいのちのありのままの姿を可視化して気づきを与えるキッカケを創ろうとする実験でもあるのです。

子どもたちには、見守る保育のようにお互いに尊重し合いながら助け合う環境の中で本来の人間社会の在り方、自然との共生や貢献を学び合ってほしいと願います。引き続き、自分のやるべき使命に没頭していきたいと思います。

新しい時代の生き方

生態系というものを守るというのは、その場所を穏やかに保つための手入れが必要になります。そのままにしておけば荒れていくのが野生ですから人工的に手入れをすることで人間にとって相応しい環境や場が誕生していくからです。

これは自然界だけに限らず、人間界においても同様です。お互いに最適な距離感で見守りあうというのが人間での場所を穏やかに保つための条件なのでしょう。それぞれに自律して協力をしながら生きているのが人間社会ですからこれもまた手入れが必要です。

この手入れで今、もっとも必要だと私が感じるものが鎮守の杜の手入れです。神社というところは、お社がありその周囲を森が包み込んでいます。神社の構造はシンプルで、まずご神木がありそれが社を守ります。そしてその社を包むように森がありその森が手入れされることによって神の社として荒れないように鎮め守るのです。これが鎮守の杜になっている具合です。

そしてこの鎮守の杜がなぜ重要なのか。

この神様とお社と森が混然一体になりそこに人間の手入れが保たれることで荒れない場所になり穏やかな環境が整います。この穏やかな環境が整うというのは、言い換えれば周囲の自然環境や生態系が豊かになり人間にとって非常に有益な状態を保ち続けることができるということです。

私は場の道場を運営し、場について考えて実践をする場道家を勝手に名乗っています。その基本はこの鎮守の杜の先人の智慧を参考にしていることがほとんどです。なぜ神社ではお掃除を大切にするのか、常に枯れ葉を集めては森に還しその森の土を育て続けていくのか。そこには、水を清らかに保つ工夫と智慧があり、涼やかな風が通ることで人々の心に澱む穢れをも祓うのです。

場が清浄であるというのは、手入れがあってこそです。

それは清浄さが人間の本来の徳であり、その清浄さを保つところに和もまたあるからです。子どもたちのためにも、環境を通して価値観を転換し新しい時代の生き方を示していきたいと思います。

銀杏の効能

今が食べごろで旬の味覚に銀杏があります。拾いたての銀杏の味は格別で、ついつい食べ過ぎてしまうものです。しかしこの銀杏は、中国では漢方で使われるように薬です。薬は、効果もありますが副作用もあります。良薬苦しで効果がある分、毒になるところもあります。

例えば、銀杏の生の実にはメチルピリドキシンという毒性があります。よく銀杏の実を食べすぎると、嘔吐、下痢、呼吸困難、けいれんなどを起こすことがあるといわれます。これは一般的には「銀杏中毒」と呼ばれているものです。これはメチルピリドキシン自体がこのような症状を引き起こすのではなくこの成分がビタミンB6とよく似た構造のためビタミンB6の働きを阻害してしまうことがわかっています。そこから「ビタミンB6欠乏症」を起こして中毒になるといわれているのです。

大人でもいくら美味しいといっても一日、10粒以内にしておいた方がよいそうです。しかしついつい食べてしまいますが。。

それでは効果の方はといえば、かなりの凄さです。具体的には・エネルギー・水分
・タンパク質・脂質・βーカロテン・ビタミンB1・ビタミンB2・ナイアシン・ビタミンC・炭水化物・カルシウム・リン・鉄・カリウムと、これらが豊富に入っています。もはや健康サプリの代表のような栄養価です。

有名な効果には高血圧と動脈硬化予防があります。これはカリウムが血中内のナトリウムのバランスを整えるからです。またナトリウムを水分とともに排出し高血圧や動脈硬化の予防と改善も行います。ナトリウムは水分を引き寄せる効果がありむくみの原因にもなりますがこれもカリウムの効果でむくみを改善するといいます。

そしてビタミンB群やナイアシン・パントテン酸には疲労回復効果が有名です。ビタミンEは血行促進効果もあり疲労回復と栄養補給もできます。そして女性に嬉しい効能は美容効果があることです。この銀杏のビタミンCにはメラニンの生成を抑える効果やお肌を美しく保つ効果があります。血流もよくし冷え性改善にもなり、タンパク質は健康的な髪や爪、お肌を作るといいます。抗酸酸化作用もあるので肌荒れやニキビの予防になるといいます。そしてβーカロテンは、ターンオーバーの促進や皮膚粘膜の保護もします。

またコロナのこともあり、これからは風邪の予防にもなります。銀杏に含まれるパントテン酸は、免疫抗体を合成する効果があります。そしてこのビタミンCが免疫機能に関係する白血球の働きを活発にすることで免疫力がアップするのです。いざ風邪をひいても喉の痛みを抑えて、咳を鎮める効能もあります。

あとは、ボケ防止が有名です。銀杏の実だけでなくイチョウ葉茶は、痴呆症・認知症・記憶力低下・アルツハイマーなどに効果があるといわれます。お茶にして煎じています。ヨーロッパでは、イチョウ葉エキスが脳血管障害に著しい効果を発揮するとされていて、研究が進んでいるといいます。この成分ギンコライドは、他の植物には含まれていない、イチョウ葉特有の成分で血管拡張作用や血栓溶解作用があり、脳の血流を良くすることが確認されています。脳障害が起きる前に、イチョウ葉茶を継続的に飲むことが、認知症やボケ防止につながるといわれています。

他にもあるのですが、少し深めただけでもこの効能です。それはむかしの人たちはこの樹を大切にしたのがよくわかります。寺院にも多いのもまた、薬として人々を治癒していたからでしょう。むかしの山伏をはじめ僧侶は、医者としても人々を救ったとあります。納得するものばかりです。

今週末は銀杏拾いをしますが、その効果効能もお伝えしながら皆さんと懐かしい時間を過ごしていきたいと思います。

仙人と智慧

今朝から心地よい秋風が吹いています。今が、冬野菜の種まきの蒔き時ということになります。次第に虫の鳴き声が小さくなり、秋ナスも種をつけていきます。夏から秋に本格的に入ったという合図でもあります。

自然は素直で純粋で嘘がありません。人間と違ってそのままの表情でありのままに心を伝えてきます。私たち人間にとっては大変自然災害も、自然界では起きるべくして発生したことであり、特別なことはありません。

しかし人間は、もはや何が本当で何が本当でないかもわからないほどに刷り込まれてしまっていて素直に自然を感受することが難しくなってきています。

これからあらゆる自然災害が発生してきますし、人類の社会も先送りにしてきたあらゆる問題が噴出してきます。その一つ一つを素直に反省し、改善していくことがこれから先を生きる人間たちの生き延びる力、つまり智慧が試されていきます。

智慧は、人類が生き延びるための仕組みであり先人たちが磨き上げてきたテクノロジーとマインド、そしてフォースのようなものです。智慧を使ってここまで生き延びてきて、これからも智慧が必要になります。

自然とどう調和して生きていくか、技術をどの方向に進歩させていくか、どこまでを使いどこまでを使わないかといった分を弁える謙虚さなども必要です。しかしそれはすべて「素直」からスタートするものであり素直でなければ智慧は使えないのです。

私たちが素直を磨くためには、素直を磨くための暮らしが必要になります。何でも人間の思い通りにはならないことを学び、足るを知り自然から学び直してあらゆる直観を高めていくのです。

むかしはこのような人物を「仙人」と呼んだのかもしれません。仙人は不思議なフォースを宿していたといいます。自然に精通し、智慧を使いこなす。まさに素直さの権化ということでしょう。

私はこの年で山伏の生き方にご縁があり、聖地を甦生するご縁をいただきました。なぜ自分がこんなことに携わることになったのかを想うと、その意味の深さを実感するばかりです。

世界はこれから数十年、智慧を学び直す期間に入ります。

智慧を学び直すために志のある人々が世界中から智慧を求めて世界を巡ります。聖地巡礼です。その一つの聖地に仙人を集め、場を磨き、智慧の活用を伝道していきたいと感じています。

まだ周囲は何が起きているのか、何をやっているのかを知る由もないはずですが遠い未来を見据えて粛々と準備を進めていきたいと思います。

しとやか

先日から銀杏のことを深めていますが、この銀杏の樹があるところには薬師堂があることが多いように思います。薬師堂はもともと薬師如来を本尊とする仏堂の呼称といわれます。この薬師如来は大乗仏教 において病気平癒等の現世利益に効験のある 仏さまとして信仰されているものです。

薬師堂と合わせて観音堂というものがあります。これも観音様を本尊とする仏堂のことです。そこにも銀杏の樹が多く植えられているように思います。一説によれば観音像の渡来とともに僧侶によって持ち込まれたという説もあります。

イチョウの別名に「公孫樹」があります。この公孫樹の由来は中国語で「植樹した後、孫の代になったら実が食べられる樹」「孫の代になったら実のなる木」という意味で「公孫樹」となったとあります。

中国では古来から咳止めや下痢止めとしても薬として伝わったそうです。

薬師堂や観音堂の周囲にある銀杏をみると、懐かしさと共にどこか心の悲しみと静けさを感じます。特に秋の黄金色に輝きながら散っていく葉を眺めているとこの世とあの世の境目にいるかのようです。このイチョウ(銀杏)の花言葉は「長寿」「荘厳」「鎮魂」です。

特にこの「鎮魂」というのがしっくりくるのは、この銀杏の生い立ちや歴史がそう思わせるのかもしれません。この鎮魂はコトバンクを調べると「① 魂を落ち着かせしずめること。肉体から遊離しようとする魂や、肉体から遊離した魂を肉体にしずめること。また、その術。広義には、活力を失った魂に活力を与えて再生する魂振(たまふり)をも含めている。」とあります。

イチョウの樹にはどこかその魂を恢復させる薬効もあるのかもしれません。

そしてイチョウの木は老木になると「公孫樹の乳房」と呼ばれるように、乳柱が垂れ下がる特徴があるため、母乳が出ない婦人の信仰の木とされてきました。父母なる木として、その地域の森を守ってきたのかもしれません。

公孫樹の花言葉にもう一つ、淑やか(しとやか)があります。これは性質や動作がもの静かで上品であるさま。また、つつしみ深いさま。と辞書にはありますがまさにその雰囲気を感じます。

イチョウから学び、歴史から直観し、次の世代、時代に知恵を伝承していきたいと思います。

想いの本質

私たちは先人たちの想いを継いで今に存在しています。その想いを継ぐのは、血のつながりもあるかもしれませんがそれ以上に想いで繋がっていくものです。人の一生はあまりにも短く、あっという間に人生が終わってしまいます。

そういう意味では、みんな志半ばで斃れていくのです。だからこそ想いがあるのです。つまりこの想いで人が繋がっていくというのが想いの本質なのです。そしてそれは決して死んでしまったから終わるのではなく、死んでからも続いているものであり生きているから繋がらないのではなく、生きていても繋がり続けるのです。それが道ということでしょう。

人生は誰もが想いを持てば道半ばです。

私の今の取り組みも、多くの方々の想いが繋がって実になっているものです。そしてこの先もずっと同じようにあらゆる人たちの想いが集まってさらなる成果を結んでいきます。

そのご縁のつながりこそ、決して金銭では交換できないかけがえのない豊かさであり私たちの仕合せの本体ということでしょう。

もしもこの世に金銭がなくなったとして、何がもっとも大切だと感じるか。それは私は「ご縁」であると、そしてそのご縁を結ぶつながりの「想い」であると私は思います。

人は想いとご縁で結ばれているものであり、これが仕合せを積み重ねて未来を希望にしていくように思うからです。

だからこそどのような想いを日々に醸成していくのか、どのようなご縁を結び活かしていくのか、そして如何に豊かな幸福の場を創造し続けていくか。ここに生成発展の万象繁栄の根本があるように感じています。

想いは形がないものです。しかし想いこそ、いのちの発する偉大なかたちでありご縁こそそれを結ぶいのちの綱です。今でも目を閉じると、志半ばで去っていた人たちの想いが私に宿っているのを感じます。そして耳を傾ければ、この先の未来で私を待っている想いが溢れています。

子どもたちのためにも想いを力に換えて、私の役目を全うし道を切り拓いていきたいと思います。

微生物から学び直す

私たち人間は微生物でできていますがこの微生物はまだまだ未知の存在です。宇宙空間の過酷な環境で数年間生き延びている微生物もいれば、極限環境微生物といって強烈な酸性、放射能、高熱高温、あらゆる極限環境でも生存しているのです。人間であれば、即死するような環境であっても微生物は生き延びていきます。

もともと私たちの生命はどこからやってきたのか、突然湧いたという説もありますがどこからの宇宙から飛来してきたという説もあります。これをパンスペルミア説(パンスペルミアせつ、panspermia)ともいいます。これはウィキペディアによると「生命の起源に関する仮説のひとつである。生命は宇宙に広く多く存在し、地球の生命の起源は地球ではなく他の天体で発生した微生物の芽胞が地球に到達したものとする説である。「胚種広布説」とも邦訳される 。またギリシャ語で「種をまく」という意味がある。」とあります。

キノコのコロニーのように、小さな微生物たちが集まり形をつくり胞子を撒いて拡散していく。この仕組みで宇宙空間を漂い、あらゆる星々の間を移動しながら自分たちに相応しい生命環境の中で独自の進化を遂げていくというものです。

先日もカビのことを書きましたが、私たちの生活空間には常にカビや微生物が漂っていて根付けるところに定着してそこでコロニーをつくり育ち拡散していきます。同様に、宇宙でも一部は仮死状態になりながら漂い、また最適な環境下にうまく漂い定着できることができればそこで生命活動を活発にさせていくのです。

人間の体内は微生物でできていますし、小腸をはじめあらゆるところで私たちは微生物と感情などを調和していますから微生物が私たちの根源ということも直観することができます。

その微生物たちは私たちの知らない宇宙を知っていて、遠く離れた星からあらゆる銀河を漂い星々に散らばってやってくると思うと何ともいえない不思議なロマンを感じます。

このあらゆる極限状態でも生きられるとするならば、そこでコロニーをつくり定着したものが宇宙人ということも予想もできます。例えば、酸素のない環境下でも生きられる進化を遂げる私達みたいなヒト型のものもあるかもしれません。あるいは、苔や植物のような形で進化したものもあるかもしれません。地球のように水が豊富な環境ができれば、星々はひょっとしたら地球型の微生物群が増えていくこともあるかもしれません。

そんなことを考えていたら、私たちのルーツはどこからやってきたのか。そして多様性は何を根源に今に至るのか、そして進化とはいったい何かということも仮説を立てることができるように思います。

科学が進めば進むほど、宇宙の偉大さ、その設計の美しさ、素晴らしさに魅了されていきます。一緒に生きる存在、共に一つである生命は微生物たちから学び直せます。

子どもたちのためにも微生物の存在に目を向けて、微生物から学ぶ姿勢を忘れないようにしていきたいと思います。