年中行事の意味

お盆に入り、ゆったりと休みを過ごしています。もともと以前にも書きましたが、お盆の行事は西暦606年からはじまります。江戸時代までは一部の武家、貴族、僧侶、宮廷だけで執り行うものでした。それが蝋燭や提灯など、必要な道具が安価でできるようになり一般庶民にも広がっていったといいます。

江戸時代までの日本は、休日といえば正月とお盆くらいしかなかったといいます。基本的には、日々の暮らしの中で仕事をするのではなく「働く」という意識で生活共同体を組んでいましたから日々の暮らしの中では休みと仕事の境界線はありません。今では出勤しているときとそうでないときで分けていますが、家で働く丁稚奉公などの場合も含め一緒に住んでいますからほとんど家事手伝いのように協働しながら暮らすのです。

お盆休みという風習は、「藪入り」といって江戸時代の商家に広まったのがはじまりといいます。最初はお嫁に行った女性が実家に帰る日のことで関西では親見参、六入りとも呼ばれていたそうです。まとまったお休みが取れ実家に帰ることができるのが、正月とお盆だけというのは今の人たちにはびっくりするかもしれません。今のような便利な時代には、いつでも家を空けられ仕事も交代できますが少し前まではそんなことができないほど社会で構成されていたのです。今では、日曜日が休みになっているのは当たり前ですがこれも第二次世界大戦以降のものです。テレワークなどというのは、この150年の間での働き方でいかに大きな変化であるのかがわかります。

話を藪入りに戻せば、江戸時代は将来、仕事として職人や商人などになるために、13~14歳くらいから師匠や商家を選んで丁稚奉公をする時期でした。基本的には、弟子入りするのだから奉公人たちには、ほとんど休みはありません。しかし今のように学校にいかなくても働きながら現場で身に着けて、時にはその稼業を継いだり、暖簾分けをしたりとして後継者を育成していた暮らしの智慧だったのでしょう。

正月とお盆に、丁稚奉公や嫁に嫁いだ娘が実家に帰ってきてゆっくりと休んだり、親孝行をするという文化は今でも色褪せなく残っているように思います。今はコロナで帰省をするなと政府は言いますが、なぜ帰省しようとするのかをよく共感して話す必要があると私は感じます。

離れていて、なかなか会えないからこそこの貴重なお盆と正月にみんなに会いたいと願うのは日本の生活文化であり、日本人の家族を大切に思う真心と生き方です。

休みをどう使うのか、それはその人の自由です。しかしその休みには本当はどんな意味があったのかはちゃんと伝承していく必要を感じます。日本にはとても素晴らしい年中行事がたくさん残り今でも継承しています。西洋文明が入り、旧暦が新暦になり、カレンダーやスケジュール、また商売的な行事が増えて本来の日本の伝統行事は薄まってきています。

しかし意味があったものをただ意味もなく続けることは、かえって本来の行事を喪失させていくことになります。これは理念というものも同様に本来、意味があっている理念を思い出しもしないでただやっていると理念が形骸化し本当の意味も喪失していきます。伝統行事もまさに同じく、私たちはちゃんと意味を思い返しながら実践していくことが遺したいもの譲りたいものを次世代へとつないでいく責任であり、智慧は私たちの代で終わらせるものでもないのです。

自然の篩にかけられて消えるのならいいのですが、不自然な篩にかけられて失うのは本意ではありません。子どもたちにいつまでも大切な願いや祈りが伝わっていくように、私たちは意味を甦生させ紡いでいく役割があります。

お盆休みの意味を味わいながら、あと数日ほど大切に過ごしていきたいと思います。

文化財の本質

文化財のことを深めていますが、実際の文化財というものは有形無形に関わらず膨大な量があることはすぐにわかります。私の郷里でも、紹介されていないものを含めればほとんどが文化財です。

以前、人間国宝の候補になっている高齢の職人さんとお話したことがあります。その方は桶や樽を扱っているのですが50軒近くあったものが最後の1軒になり取り扱える職人さんもみんないなくなってしまい気が付けば自分だけになったとのことでした。そのうち周囲が人間国宝にすべきだと言い出したというお話で、その方が長生きしていて続けていたら重宝されるようになったと喜んでおられました。

このお話をきいたとき、希少価値になったもの、失われる寸前になると国宝や文化財になるんだなということを洞察しました。つまり本来は文化財であっても、それが当たり前に多く存在するときは文化財にはならない。それが失われる寸前か、希少価値になったときにはじめて人間はそれを歴史や文化の貴重な材料だと気づくというものです。

そう考えてみるとき、私たちの文化財というのもの定義をもう一度見つめ直す必要があると感じます。実際に、私は暮らしフルネス™を実践していますが身のまわりのほとんどが伝統文化をはじめ文化財に囲まれてそれを日常的に活用している生活をしています。

これを文化財と思ったこともなく、当たり前に日本の文化に慣れ親しみ今の時代の新しいものも上手に導入して流行にも合わせながら生き方と働き方を一致して日々の暮らしを味わっています。

そこには保存とか活用とか考えたこともなく、ごくごく自然に当たり前に暮らしの中で文化も文明も調和させています。農的暮らし、ICTの活用、和食に文明食になんでもありです。

そしてそれを今は、「場」として展開し、故郷がいつまでも子どもたちが安心して暮らしていけるように新産業の開拓と古きよき懐かしいものを甦生させています。私は文化財が特別なものではなく、先人たちの有難い智慧の伝承を楽しんでいるという具合です。

本当の問題は何かとここから思うのです。

議論しないといけなくなったのは、何か大切なことを自分たちが忘れたから離れたからではないかとも思うのです。山岳信仰も同様に、山の豊かさを味わい畏敬を感じてそこで暮らしているのならそれは特別なものではありません。そうではなくなったからわからなくなってしまい、保存とか活用とかの抽象論ばかりで中身が決まらないように思います。今度、私は山に入り山での暮らしを整えるつもりです。そこにはかつての山伏たちの暮らしを楽しみ、そして流行を取り入れて甦生するだけです。

何が文化財なのかと同様に、一体何が山岳信仰なのかも暮らしフルネス™の実践で子どもたちのためにも未来へ発信し歴史を伝承していきたいと思います。

人間がわからなくなっていくときこそ、初心や原点に立ち返ることです。この機会とご縁を大事に、恩返しをしていきたいと思います。

落雁の価値

昨日、伝統菓子の落雁(らくがん)を専門でつくる会社を経営する方とお話をする機会がありました。この時季、お盆のころの落雁はいつも身近にあったものですが改めてこの伝統和菓子の落雁のことを少し深めてみようと思います。

落雁は、名前が特徴的ですが名称の由来には諸説あります。例えば、明の軟落甘 (なんらくかん) から「軟」が欠落して転訛したという説、また形が落雁に似ているところから近江八景 の一つ「堅田落雁」からという説、そして本願寺綽如上人がこの菓子を後小松天皇に献上した時に白色の地に黒ごまの点在する様が雁の渡る姿を連想させたので「落雁」としたという説があります。もともとこの落雁という言葉の意味は、「空から舞い降りる雁」という意味で秋の季語でもあります。

この落雁のお菓子に似ているものに和三盆がありますが原材料がまず異なります。落雁は米粉を使い、和三盆はサトウキビ(竹糖)を用います。

落雁は、このお米の澱粉質の粉を使い、様々な模様の木型に押し付けて圧縮し最後に乾燥させるという具合でつくります。他にも澱粉質の粉のみを蒸籠で蒸すやり方や、最初にすべてを混ぜてから蒸し上げて乾燥させたりと実際には様々な製法の落雁があるといいます。

もともとこの落雁は、中国から日本に伝わったお菓子だといわれます。釈迦の弟子が僧侶に振る舞ったお菓子ということから仏事に用いるお供え物の代表となりました。

具体的な由来は、釈迦の弟子目連(もくれん)故事からです。

目連の亡母が夢の中で天上界に行けず餓鬼道に堕ちているのを見つけました。その亡母に水や食べ物を差し出しても、炎となってどうしても口には入りません。そこで釈迦に問うと、「すべての修行者に食べ物を施せ。さらば母親にも施しとなるだろう」との助言をもらい修行者に甘いものの施しをしたところ、修業者たちの喜びが餓鬼道にも伝わり母を救った」とあります。この故事から落雁を先祖に備えるのは施餓鬼をして、餓鬼道に堕ちた者を救うための供養となりました。

そして広がったのは、江戸時代に茶道と共にその茶菓子として安価な材料で作った落雁が出回るようになり仏事に用いる特別なものだけではなく庶民のお菓子として親しまれ今にいたります。

現代では、甘い砂糖やチョコレートなどの洋菓子などの文化が流入してきたと同時にご先祖供養の風習も失われてきてあまり落雁を食べるという機会も失われてきました。また落雁もスーパーなどで売られているものは、見た目だけ似た落雁風のものばかりで食べても美味しくないのでさらに人気がなくなりました。

日本でもむかしからの製法で伝統的に落雁のみをつくる老舗もあとわずかに残るだけです。

子どもたちには、この落雁が持つお供えや室礼、そして信仰などとの深いかかわりがあること、そして日本人のお米を使った味覚、滋味を味わう大切さなどを私も伝承していきたいと感じます。

未来のために、大切なものを引き継いでいけるように落雁とのご縁を深めていきたいと思います。

 

季節感の幸福

私たちの暮らしには季節感というものがあります。この季節はこの風物詩というように季節のリズムと共に歩んでいます。四季折々に私たちは小さな変化を季節から感じとって自然の流れに身を任せていきます。

なぜそれをするのかといえば、その方が豊かで仕合せなことだからです。私たち人間のもっている感性の磨き澄み切った場所にある幸福感とは自然と一体になることです。

自然から離れ、私たちは便利な世の中にしていき人間社会を発展させてきましたがそれと反比例して幸福感というものの感性は鈍ってきました。精神的にも病む人は増え、空しい比較競争ばかりで疲れてきています。

本来、私たちすべての地球上の生き物は足るを知る暮らしを知っており自然と共に生きていく中で真の幸福を味わい、この世に生まれてきた喜びを心から享受してきました。

何もない中に深い味わいのあるいのちがあり、そのいのちが活かされていることを知り自分の役割を知らずして知るという具合に存在そのものへの感謝を味わい暮らしをしてきたのです。

そういう意味で、四季折々の変化を味わうということが幸福感と直結していることは自明の理です。

忙しすぎる現代人において、只管お金を稼ぐために色々なものをそぎ落として暮らしを喪失していきましたが子どもたちには本当の豊かさ、真実の幸福を味わえる環境を用意していきたいと願います。

暮らしフルネス™の実践と場が、未来を幸福にしていくことを祈り今日もご縁を結んでいきたいと思います。

人類の進む道

先日、うちで飼っている犬につないでいたレールが外れ行方不明になっていました。今まで13年間一緒に過ごしてきましたが一時的に首輪が取れたりしたことがあっていなくなっても大体近くにいて遠くにいくこともなかったので安心していましたがそれがすぐに帰ってこず、ずっと心配して必死に探し回っていました。

あちこち探しても、呼んでも返事もなく途方に暮れて張り紙やインターネットで迷子犬としてあちこちに告知をしてみようと手を盡していたら保健所に保護されていることがウェブ上に掲載されていました。警察に落とし物として届け出があり、そこから保健所に保護されたようです。ずっと事故にあったのではないかと不安だったので、写真を見たときは感謝と涙がこみ上げました。

ちょうど連休を挟みましたからすぐに保健所に連絡をして受け取りにいき無事に家に帰ってきました。犬といっても一緒に暮らしの中でかけがえのない大切な存在ですから家族の一員です。

今回、保健所の方とのお話でもしも受け取られない犬がいたらどうなるのかとお聞きしたらガス室で殺処分されるという話がありました。改めてこの現状を調べてみると、悍ましいほどにこの国で犬や猫が殺処分されているのがわかりました。

昨年、2020年の犬猫の殺処分数は犬7,687匹、猫30,757匹 の合計 38,444匹とあります。ワーストでは愛媛県(1,987匹)、福島県(1,770匹)、香川県(1,585匹)とあります。動物愛護管理法の改正、行政と民間の動物保護団体が連携し、新たな飼い主への譲渡を推進していて殺処分数はここ10年でだいぶ減少してきたともいわれます。それでも1日に105匹ほどの犬猫が保健所で殺されているという計算になります。

以前、アライグマの時もこのブログに書きましたが安易に飼育できると買ってきては手がつけられないと手放してしまいそれが野生で繁殖するということもあります。また飼い主が死んでしまったりボケたりして飼えなくなる、他にも人間の都合で飼えないからと殺処分しているともいわれます。

動物愛護団体が色々と対策をたてて活動していますが、そもそもの分母が増えていく一方ですからゴミ問題と同じで根本的な解決にはなりません。人間が安易に購入しては捨てるというこの自然の環境を破壊するあり方そのものを見つめ直すしかありません。

調べる中でガス室で二酸化炭素で殺処分する映像や写真を見ましたが、あれはまるで以前学校で見た第二次世界大戦のころのドイツのアウシュビッツ収容所そのものでした。実際には安楽死させるとありましたが、あんなものは安楽死でもなんでもありません。大量に一気に部屋に押し込みガスで呼吸できなくして苦しんで死ぬ。今まで一緒に過ごしてきた犬たちはどんな気持ちなのだろうかと感じます。家族と離れて収容されて、時間が来たらシステマチックに命を奪われる。孤独と不運を呪い、悲しさと寂しさで心が潰れそうな状況で死んでいくのが想像できます。

人間の悍ましさというのは、時代が変わっても本質的には変わりません。環境の影響次第では人間はどうにでも適応して思考停止してしまうのです。これはどの問題でも同様で例えば食品ロスの問題などもですが「人間の暮らし方そのもの」に端を発しているのです。

平和というものは、本来は部分最適だけをいつまでもやっても訪れることはありません。私たちがよくよく自分たちの暮らしをみつめ、どうあるべきかを今一度見直しその暮らしを変えていくしかないのです。環境そのものを変えないと生き方の実践をしていかないとどうにもならないのは歴史が証明しています。

21世紀は、まさにこの今までの人類の永続的な暮らしが資本主義という名の人間の業によって失われた世紀でした。このままでは人類はあらゆるいのちが軽く処分されていくように人類もまたその同じ道を辿ります。今、まだ気づけるうちに人類の進む道を易えていくしかありません。

同じいのちという存在をどう慈しみ大切にしていくか、そのためにどのような環境をみんなで用意していくか。私たちが志を立てて草莽崛起して、在り方や環境を自分自身でできるところから暮らしを易える実践していくことが重要です。

引き続き、ご縁に感謝しながら子どもたちの未来のために暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

 

気づくことの大切さ

人は何でも失ってみてはじめてわかるものがあります。ある時は、当たり前と思っていてもなくなってしまうとどれだけ大きな存在であったかということに気づくのです。

私たちの心には、いつも繋がっている存在がありその存在によってご縁を結んでいます。その結んでいるご縁の存在にどれだけ心が救われているのかと思うと計り知れないものであることに気づきます。

例えば、居場所という存在、信頼する人とという存在、心の拠り所というものがあります。

私たちは生きていく中で、お互いを支え合い助け合い自分を立てていることに気づきます。自分の人生の中で、深く関わっているご縁は安心基地を醸成していきます。その安心基地の存在は年齢と共に少しずつ変化していきます。

私たちは人生の中で、最初に父母に恵まれ、家族に恵まれ、友人、仲間、あらゆるものに恵まれてその人生を成り立たせていきます。どの存在も深く自分というものに結ばれているもので、そのどれが欠けても自分というものはできません。

そう考えてみると、この自分というものを形成するのは周囲の存在があってこそということに気づきます。その存在が喪失していくことの深い悲しみ、そして新しい存在が誕生することの仕合せ、こうやって私たちの心はそれぞれに拠り所と出会い人生を彩るのです。

失ってみてはじめてわかるのは、自分の心の拠り所の一つであったという事実。そして一緒に生きてお互いに助け合い支え合って生きてきたという事実。さらに、お互いに愛を与えあい結ばれた存在であったという事実があるということです。

ずっとあると思えば、どうしても粗末になってしまうのが人間です。なくならないと思うから大切にしなくもなるのです。しかし、加齢とともに出会いと別れを繰り返していくとそれがいつかは失われていくことに気づいていきます。

だからこそ、このかけがえのない一瞬、一期一会を大切にしたいと心が感じるようになるのです。失いかけて気づくものもあれば、失って気づくものもある。そして失わずに気づくこともあります。

私たちは気づきをし、心を取り戻していきますから大切なことに気づく日々を過ごしていきたいと思います。子どもたちにも、このかけがえのない日々に感謝できる環境を見守り続けていきたいと思います。

場を磨く

私の故郷は、もともと庄内村ですが嘉麻郡を経て嘉穂郡となり飯塚市なっています。この嘉麻郡の由来は日本書紀巻18に安閑2年(535)安閑天皇の条に筑紫の穂波屯倉・鎌の屯倉等を置くというものが由来です。

和銅6年(713)に諸国の郡郷名に好字を付けることが命令されそのときに嘉麻の字になりました。そして明治29年(1896)に嘉麻郡、穂波郡が合併して嘉穂郡となるまで約1,300年間は嘉麻郡のままでした。そしてこの年、嘉麻郡と穂波郡が合併して嘉穂郡 となりました。その後はこの嘉穂郡の一部が飯塚市の中に組み込まれて今があります。

少しだけ前に遡った明治22年ころまでは、庄内村は綱分村、赤坂村、筒野村、高倉村、入水村、山倉村、有安村、多田村、仁保村、大門村、元吉村、有井村で構成されていました。現在まで私が住んでいた場所は、この中の綱分村と有安村です。

この綱分村にも綱分八幡宮を中心に歴史があり、有安にも獅子舞をはじめとした文化が遺っています。

現在、合併を続けていく中で、それまで大切にされていた村やその場所の歴史も次第に失われていきます。小さく分かれていた時は、その小さな中で文化の誇りや遺徳、信仰なども細かく語り継がれてきました。それがなくなっていくというのはとても残念なことです。

合弁して簡単に一つにしますが、本来その場所は風土によって環境も文化も完全に異なるものです。日本国土が自然豊かで多様性があるように、その場所場所は多様性に富んでいます。

地名が一つなっても場所の魅力というのはそれぞれで異なるのです。その場所を知り尽くしている人は、その場所の魅力を知り磨き続けていくことができます。私はこの庄内村出身ですが、この場所のもっている徳や歴史が身体に沁みこんでいます。だからこそ、この場所の活かし方や使い方、もっている魅力を引き出すことができるのです。

こうやってそれぞれの故郷でみんなが魅力を引き出し磨きだせば、日本という国は多様性に富んださらに温故知新された場所に甦生していきます。すぐに東京や大都市圏に憧れてそこにいきますが、本当はその産まれた場所を磨き上げていくことが子孫たちの使命でもあります。

引き続き子どもたちのために暮らしを整え、場を磨き上げていきたいと思います。

そうめんの由来

昨日は、藁ぶき古民家の和楽で息子たちが青竹から準備してくれて「流しそうめん」を楽しみました。まさに夏の風情というか、雰囲気でだけでも涼が味わえ豊かな時間を過ごすことができました。

この「流しそうめん」は、最初は青竹で器をつく井戸水で冷やしたそうめんを食べたことで発想されたものではないかともいわれています。そのそうめんを流すようになったのは宮崎県の高千穂峡の真名井の滝の傍にある「千穂の家」が発祥といわれます。発案は、もともと江戸時代に琉球で薩摩の役人をおもてなすときに那覇湾の崖の上から落下する綺麗な泉流の上源からそうめんを流して、途中ですくって食べてもらうということをやっていたものがありました。このことをヒントに昭和30年頃にこの高千穂峡で本格的に流しそうめんがはじまったのです。

もう一つ、似た名前のものに「そうめん流し」があります。呼び方の順番が逆になっただけですが、実際には違いがあります。これは鹿児島県の指宿市にある「市営唐船峡そうめん流し」として昭和37年に発案されたものです。最初は同じように流しそうめんではじめていますが、途中で当時の町の助役さんが回転式のそうめん流し器を発明しました。回転式ですから、みんなで囲んで丸くなってそうめん流しを楽しめるということで珍しさと面白さと相まって人気が出ました。この助役の人はそのあと町長になっています。

ということで、竹で縦にそのまま流すのが流しそうめんで回転式のものがそうめん流しということになります。

このそうめんの呼び名の由来はもともとは「索麺」と書き、中国大陸から伝わったものです。「索」とは「なわ、つな」という意味でそこに麺が入り、小麦粉を練った細長い食べ物という意味になります。つまり「なわ、つわのような麺=そうめん」と呼ぶようになったのです。

このそうめんが伝来したのは隋か唐の7~8世紀頃(飛鳥時代~奈良時代頃)といわれますが、北宋の時代や室町時代などまちまちです。この「索麺」「索餅」という字が現代のように「素麺」となるのは麺が白いことから白い意の「素」の字を当てたとする説や、「索」の字を書き間違えたとする説もありますが今はほとんどこの「素麺」になっています。

むかしは、そうめんは庶民が食べれるものではなく宮中の七夕などの行事の時に用いられました。それだけ高級で敷居の高い食べ物でした。現在では、どの家でも夏は素麺というくらいみんな一年で一度は食べる夏の風物詩になりましたが歴史が長い食べ物の一つなのです。

こうやって一年で、節目節目に伝統的なものを上手に現代に活かしながらその大切な要素はそのままに新しくしていくことに豊かさを感じます。夏はまだまだこれから暑くなっていきますが存分に夏を味わいたいと思います。

近江商人の智慧

先日、近江商人のことを深める機会がありました。三方よしという言葉で有名な近江商人ですが、この三方よしという言葉も昭和のころに言われた出した言葉だそうです。

一般的にはこの三方よしとは、「売り手よし 買い手よし 世間よし」の三方みんなが善しになるように商売を行うという意味です。

近江商人はあくまで近江に拠点を置き、全国各地で商いをしていたといいます。なのでその土地で商いをはじめるにあたり、長い目線で商いができるようにと配慮していたといいます。つまり末永くお互いに商売をするために、その地域に還元するように利益を正しく得て商いをしていたというのです。

現代では、会社とお客様との関係だけで商売が行われることがほとんです。地域への還元というとその中の一部の会社だけが行われ、地域活動はほとんど行政などの自治体が行われています。しかしかつての日本は、地域活動や奉仕は商売をする商人たちが中心になって行われていました。

治水や橋をかけたり、また森を育てたり、灌漑設備を整えたりもすべて商人たちの利益から還元されていきました。つまり、商人が得た利益は私物化せずにそれはきちんといただいた場所や社会に還元するという意識が当たり前にあったのです。これを商人道としたのです。

近江商人は特にそれが家訓をはじめあらゆる意識の中の基本に根付いているように感じます。いくつかの家訓を観ても、例えば「義を先にすれば、後に利は栄え、富を好とし、其の徳を施せ」というものがあります。先義後利栄ともいいます。また「商売が繁盛して富を得るのは良い事でその財産に見合った徳で社会貢献をすることが重要である」という好富施其徳といいます。

そのどれもがとても長い目で観て、永続して商いができる道を模索していき産み出されてきた家訓と生き方なのでしょう。

これからの時代、先人たちの智慧に倣い、企業がその地域の徳を甦生させていく必要を感じます。これは税金の使い道がどうこうという話ではなく、みんなで本来の商いの道に原点回帰する必要を感じるからです。

如何に地域に還元していくか、そのために利益を正しく設定していくかは具体的な陰徳善事の奉仕によります。みんながそうやってそれぞれ地域で長い目で観て陰徳を実践していけば日本だけではなく世界はより末永く平和が持続して真に豊かな暮らしを享受されます。

子どもたちの未来のことを考えて、今居る場所から易えていきたいと思います。

暮らしフルネスの役割

国内総生産のGDPというものに替わる概念として国内総充実のGDWという言葉があります。このGDWは「Gross Domestic Well-being」の略称です。具体的には物質的な豊かさだけでなく既存のGDPでは測ることのできなかった「精神的な豊かさ」(主観的ウェルビーイング)を測るための新しい尺度のことを言うといいます。

GDPの方は、「Gross Domestic Product」の略称で国内総生産のことです。これは一定期間内に国内で新たに生み出されたモノやサービスの付加価値のことをいいます。シンプルに言えば、指標のプロダクト主義からウェルビーイング主義への転向といってもいいかもしれません。

今までは物質的な豊かさを生産することが幸福の指標としたものが、これからは精神的な豊かさ、心の満足度や充実度を幸福の指標にしようとする考え方へとシフトしようとする概念です。

もともとこの考え方は経済指数を示す国民総生産(GNP)よりも国民総幸福量(GNH)を重要とするブータンの提唱によって世界で意識されていきました。資本主義的な経済価値を求めるGNPやGDPではなく、国民の心理的な「幸福感」「充実感」などを示すものにGDWを活用していこうというのです。

よく考えてみるとすぐにわかりますが、人生は決して物質的なものだけが膨大に増えてもそれですべてが手に入って満足しても充実するとは限りません。例えば、皇帝や王様などすべてが物質的に手に入っても本当の意味で幸福ではなかったという歴史の話はたくさんあります。心の渇望を物質で満たせても、それは一時的なもので永続するわけではありません。物をただ多く持つことはかえって幸福度を下げてしまうこともあるからです。

だからこそこの時代、従来の豊かさで得られなかった真の幸福とは何かを問い始めたということでしょう。人類がいつも青い鳥を探しているのはむかしから何も変わらないものです。

改めてウェルビーイングを調べてみると初めて言及されたのは1946年です。これは世界保健機関(WHO)設立にあたって考案された憲章にこう書かれました。「Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.」と。これは意訳ですがこれは真の健幸は、病気や弱っていないとかではなく、精神的にも社会的にも「全体として快適で充実している」ということだとおおよそ定義しました。

もっと簡単に言えば「人生においての居心地の善さ」といってもいいかもしれませんが一人ひとり、その人がその人らしく生きられる世の中になっていて、それが全体快適になり人類全体で永続する暮らしを味わえる状態になっているということでしょう。これは平和な社会と平和な暮らしの実現でもあります。

この問いはそもそも人はなぜ生まれてきたのか、何のために生きるのか、ふと立ち止まってみるとすぐに誰もが考えるものです。本当は、この地球に生まれてきてから私たちは真の豊かさを備わって誕生してきました。足るを知る世界に入るのなら、誰もがその幸福に気づくものです。

しかしあれが足りない、これが足りないと、わかりやすい成長と繁栄ばかりを追い求めてきた結果として自然環境が人類の都合で悪化し、空気や水やその他の暮らしのリズムなど、当たり前に存在してきた偉大な幸福も急激に失われているのが現状でもあります。

今、まさに人類は世界の中で真の豊かさについて議論をしだしたということでしょう。人類は、今、大事な分水嶺にいてその「選択」によって未来の子どもたちに影響を与えます。今の世代の責任として、子孫のために何を選択していくか。それが問われているのです。

もともと日本人の先祖は「和」を尊びました。私たちは今、世界の一部としての日本となりました。世界は様々な文化と融和し、新しい世界を切り拓いています。だからこそ日本から私たちは真の豊かさを発信する必要があると思うのです。それが私たちの役割であり、世界に貢献できる真のウェルビーイングの定義の提唱になるのです。

世界が一つになっていくからこそ、この問題は人類は決して避けては通れません。日本から何を伝道していくか。まさに今こそ、私たちはこの問いに正面から向き合い発信していく責任を果たすべきでしょう。

子どもたちのためにも、概念論だけではなく実態をもった智慧を「暮らしフルネス™」を通して引き続き実践していきたいと思います。