苦労し甲斐~メリハリのある人生~

人生には「苦労し甲斐」というものがあるように思います。時が経ち、後で振り返ったときに苦労した甲斐があったなと感じるもののことです。苦労したからこそ、得たものがあります。それはそこまでに経てきた体験からの気づきであったり、智慧であったり、そして技術であったり心身の練磨による成長であったりです。

これをやろうとすれば苦労すると最初に誰もがわかっていてもそれを厭わずに挑戦し突進していく。そこに人生の真の妙味があるように思うのです。

人生の妙味を知る人こそ、苦労し甲斐を知る人でもあります。

周りからすれば、何でこんなことをと思っていますがそこには苦労によって誰でもわからない境地に生きているからです。私の場合は、未来の子孫のためにと初心を定めていますからそのためには苦労を厭わずに何でも来たものは選ばずにご縁と導きを信じて取り組んでいきます。

過去の経験や何かそれを実現する才能などは特にありませんから、毎回新しいことに挑戦することになります。周りからは、苦労するよと言われてもそうですねと笑いながら取り組んでいきます。失敗したり困難があると、ほれ見たことかといわれることもありますがそんなことは最初から分かっていることだから特段何も影響はありません。

問題は、この苦労は苦労のし甲斐があるかどうかというところが重要なのです。そしてそれは「道」として必ず通らなければならないのであれば正面から向き合って取り組んで味わい通過、もしくは突破していくだけです。

そうして振り返ったとき、今の自分が育てていただいたこと。今の自分の信念や勇気、そして生き方や生き様を創造してくださったことに感謝できるのです。

人生は一期一会であり、今は唯一無二です。

何事も遣り甲斐があることに挑むことが、メリハリのある人生が送れるということになります。このメリハリとは、緩むことと張ること、つまり弓のように適度に弦がはっている状態をいいます。いい意味で、充実して心身が調和している状態のことです。

何かに集中するというのは、そのものを実現するために真剣に打ち込んで苦労をしていくということです。苦労のない人生は、ハリがありません。ハリのある人生は、苦労を通して人生の妙味を知りそしてそれをゆったりと振り返りその時の思い出を豊かに味わい感謝していく生き方です。

これは苦労のし甲斐があると、偉大な目的に向かって生きるとき人は人生が真に豊かになり充実するのです。若さ、情熱、青春は苦労と共にあります。大変でも目的に生きる苦労の多い人生の価値を、子どもたちに伝承していきたいと思います。

私の目的

私はこの「場の道場(BA)」で、日本の伝統的な文化を継承して温故知新しながら最先端の取り組みと融合させています。なぜこのようなことをするのかといえば、目的は明確で子どものためにということです。

この子どものためといっても、単なる一般的な世の中で使う子どものためではありません。もっと広義で子孫のためといった方がいいのかもしれません。子孫たちが安心して世界の中で自分らしく自分を生きていけるように先祖の思いやりをつなごうとしているのです。

私の暮らすこの場には、古いものと新しいものが共存し共生しています。よく言われるのが、ハイブリット型や善いところ取りなどとも評されます。しかしそれは、ちゃんと日本人の精神や魂、生き方を大切にしながら時代の中で創造されてきたものとの調和した暮らしを実践しているだけのことです。

先祖は、私たち子孫のために色々と深く考えてくれて偉大な思いやりを遺してくれています。その先祖の生き様や人生を無駄にしないのが、私たち子孫たちの責務であり使命であるはずです。

今の時代は、そんなことを思わず刹那的に今の自分の人生や世代だけがよければいいという短絡的な生き方が増えています。どれもこれもすべてその原因は、忙しくなることで暮らしを手放したことに起因しています。

暮らしがなくなれば、先祖の思いやりも届かないところにいってしまいます。私たちの先祖は、決して単なる文字や記録で子孫が守れるとは思っていませんでした。なので色々と工夫して知恵を働かせたのです。

その一つが、日本の家屋であり日本の伝統行事であり、まさに衣食住を含むこれらの「暮らし」にその仕組みをを入れたのです。

そしてそれを甦生し続けて温故知新する人物を、道を通して育成してきたのです。私が場の道場を開いた理由、そしてなぜ今、ここに「場」を誕生させようとするのかはその手段の一つであり目的を実現するためです。

子どもの仕事をしてきたからこそ、何をすることがもっとも「子ども=子孫」のためになるのかと四六時中ずっと思い続けてきました。そうすることで先祖とつながり、子孫へ譲り遺していく初心伝承文化に気づいたのです。

これから目的に人を集めるための動画を撮影していきますが、目的を忘れずに丁寧に取り組んでいきたいと思います。

丁寧な暮らし

生き物は美しい造形物を作り上げていくものです。私は若い時に拾った一つの貝を持っています。そしてもう一つ、石英の勾玉を持っています。身近に置いておくと心が癒され美意識が高まっていくのを感じます。

自然のもつ造形物はまさに完全無欠であり、どのような状態になってもそのものらしく自然体で驚きと感動を与えてくれるものです。

まずこの貝は巻貝ですが、科学的には炭酸カルシウムとタンパク質を融和させながら成長していきます。最初は小さな姿から大人になっていくにつれて次第に貝も大きくなっていきます。

つまりこの手元にある巻貝は、この貝の一生を生きた証ともいえるものです。美しい海の中で仕合せに生きたこの貝の姿を眺めていたり触っていると私はいつも心が癒されその美しい貝の姿から海の中でどのように過ごして何を貝は感じて生きたのかというものが伝わってきます。一つ一つの曲線の美しさ、そして肌触り、手に収まるくらいの大きさ、そのどれもが飽きることもなく何度みてもうっとりするのです。

出会いは宮崎の日南の海で、仕事中に走っていたら海の中に光っているものがみえ、車を止めて石やサンゴがゴツゴツとした中での出会いでしたが発見した時の感動は今でも忘れることはできません。

もう一つの石英の勾玉もまた不思議な出会いでした。ある森の中の美しい水が流れている近くで微睡んでいた時に土の中に光るものを感じて掘り起こしてみたらそこにあったのです。ドロドロで真っ黒でしたが、水洗いしたら見たことのない緑色の美しい姿になり透明な光が出てきました。

これは数億年という単位で、水が薄く流れる鍾乳洞のような場所で少しずつカルシウムと水が融和してできたものです。水晶などは1㎜成長するのに少なくても100年かかります。数万年単位で水に溶けたシリカなどが固まって石になるのです。

つまりこの手元の石には億年単位の石の生涯があり、その美しさがあらゆる模様や姿形に出てくるのです。私はこの石に触れるたびに、その歴史やドラマ、地球内部での暮らしを感じて悠久の時を思い出します。

いつかは死に別れることもありますが、私の身体もまた自然物の一つで造形されたものですから違うものになっていくのでしょうがいのちの本体がなくなることはありません。

私たちが美しいと感じるものは、このいのちの本体に触れているからです。

私は芸術のことや専門のことはわかりませんが、美しいものは何かということは本能で感じます。人はみんな自然物ですから真の美しさがわかるはずです。自然物に触れて、一期一会に出会いつつづけることで美しい人生はさらに彩られていくものです。

日々の出会いを大切に、美しいものを見逃さないように丁寧に暮らしていきたいと思います。

自然に学ぶ心

先日、あることから久しぶりに星野道夫さんの文章を読み返す機会がありました。美しい写真を撮るだけではなく、美しい生き方に憧れよく自然から人間を観察された文章は心に響くものがあります。

その中で、ちょうど今の時期に相応しい星野道夫さんの言葉を見つけました。

「人間の気持ちとは可笑しいものですね。どうしようもなく些細な日常に左右されている一方で、風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。人の心は、深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います。」

人の心は深くて、そして同時に不思議なほどに浅いというものに共感します。

人間には心とは別に感情があります。感情は常に鋭敏に自然の変化の真っただ中にありながら常に感応を已みません。小さな変化、生きている実感ともいえる感動を感得し続けているのです。つい目先のことに囚われて我執や固執してしまうのもまた、この感情が動いているからでもあります。

しかし同時に心は、深い海の底のさらにその奥のような深淵の世界が広がっています。海の上で風に揺れる波とは異なり、海底の深いところの海は静かで闇く穏やかなままです。

心は常に落ち着いていて丁寧です。人間はそう考えてみるといつも同時に2つの目を通してこの世を観ていることになります。感情の目と心の目です。浅い目と深い目とも言ってもいいかもしれません。

そこには自分からしか見えない狭い自己中心的な視野と全体や宇宙のような広大無辺の無の視野があります。まさに一物一心全体の自他一体の境地です。

日々に感情は波打っても、心はとても落ち着いて静かです。心の静けさに感情を合わせていくことで人は驚くこと豊かになれるのです。

私の言う暮らしフルネス™には、この暮らし方の意義もあります。日々の忙しさに追われてしまう仕組みが走っている現代社会において、如何に真の豊かさを持てるかは人類の課題になってきています。人工知能が発達すればするほどに、人はなんのために生まれてきたのかという課題に正面から向き合うことになります。

その時、人はどちらを選ぶか。

私は心の世界を大切にしている人が、感情だけではなく自他一体の境地で選択していってほしいと願っています。子どもたちに大切な人類の節目に、本来の自然からの英知と受け継がれてきた智慧を伝承していきたいと思います。

自然との共生

野生生物と人間との共生の問題は、避けては通ることができない問題です。現代では、見なかったことにするかのようにその問題はどこか別のところ、もしくは田舎の一部で発生している問題のように扱われますが地球全体の問題であり、人類が滅ぶかどうかの岐路に立っている問題でもあります。

大袈裟に思われるかもしれませんが、現代は恐竜大絶滅時代に匹敵するほどにあらゆる生物が絶滅していっています。現代は人間の産業化の影響で一日に約100種類の生き物が絶滅しています。このままでは、生物多様性と循環が途切れ、人間を含む一部の種だけが画一的に存在する場所になっていきます。そうすると、滅ぶのは時間の問題でありまた復活するまでに数万年単位の時間がかかってしまいます。

この大量絶滅はいつからはじまっているのか。野生動物と人間の共生はいつからおかしくなってきたのか。その期間を歴史を遡って推察するとまだ60年くらいなものです。なんとこの60年の間に、人類は取り返しのつかないほどの自然を破壊し、そして絶滅危機を迎えているということです。

日本でも第2次世界大戦後の1960年代の燃料革命によってエネルギーの主体が化石燃料となり木炭需要が急減して森林の利用が止まりました。そうなると森林の手入れができませんから野生動物はますます増えていきました。さらに減反政策によって耕作放棄地が増え、山の野生動物たちは人間のいる場所に近づいてきました。そのため1950年から60年代の半ばまで3~4万頭だった捕獲数も、16年度には61万頭に達しています。

エネルギーが化石燃焼になってから地球温暖化はとどまることを知りません。今では南極や北極の氷も解けて、山や海にまで人間の自然汚染が続き、絶滅のスピードは加速しています。

そもそも化石燃料だけが問題ではなく、人間が自然との共生をやめたことが本当の原因だと私は思います。田んぼにも農薬をまき散らし、河川、海、その他を人工物で塗り固めて便利にしていったことでより自然破壊は進みました。それもこれも、乱獲、乱開発によってです。人間の利益を優先して競争してきたことのツケが、人間全体に及んできているということです。

産業革命が切っ掛けになり、人間の欲は資本主義とともに成長の一途をたどっています。もはや、何かしらの大災害が地球規模で発生しない限り止まることはないでしょう。しかし、生き方として本来の自然との共生を生きようとすることは子どもたちのために必要なことだと私は思います。

資本主義がもっとも破壊してきたのは、自然との共生、つまり暮らしです。この暮らしの破壊が、人間本来の自然の心も破壊していきます。暮らしフルネス™に取り組む理由は、この暮らしを甦生させていくことで本来のあるべきように原点回帰していこうとする実践でもあります。

子どもが、この豊かな地球でいつまでも仕合せに暮らしていけるように地道に実践を積み重ねていきたいと思います。

甦生業

藁ぶき古民家の甦生もまもなく最終段階に入ってきていて家の徳が引き出されてきています。ご近所の方や通りすがりの車が止まり声をかけてくださいます。その声は、一様に「だんだんと家が善くなってきていますね、楽しみです」というものです。

それは動画で配信しているサイトのコメントでもたくさんいただき、身内や仲間からも喜びの声をいただきます。その言葉に励まされ、信念を強くして真摯に家に向き合って修繕を続けています。

考えてみると、人はみんな何かが甦っていくことに希望を感じるように思います。

もう御終いだと思っていたものが復活して、それがさらに以前よりも元氣になって美しく生命を輝かせていく姿に偉大な何かの存在を感じるように思うのです。

それは病気からの恢復、あるいは壊れた機械の修理、よくお手入れされた道具、これらのものに触れると人は善かったねと喜んでくれるのです。徳を積むということは、この甦えらせていくことに似ているのです。

今まで荒れ地で捨て去っていたものを甦らせてそこで作物を育て農地を役立てること、経験豊富な高齢者や職人たちが後世の若い人に技術を伝承していくこと、他にも古井戸や古民家を甦生して新しい役目を与えて人々を潤してもらうこと、こういうこともまた徳になるのです。

徳は事業ではなく、お金儲けではありません。なので無理にお金のためにするものではなく、みんなが喜び、自分も喜ぶことを真摯に取り組んでいくことに似ています。自他一体に全体が幸福になるというのは、自然循環の摂理であり自然の徳の仕組みでもあります。

この徳循環を支えるもの、それが「甦生」なのです。

甦生業が私の取り組みですから、甦生したものが役に立てるように場を創造していくこともまた使命です。挑戦すれば喜びも多いですが苦しみもまた同時に発生します。それを味わいながら、今、できることに真摯に挑戦を本気のままに続けていきたいと思います。

 

尊重する世界

世界にはまだ100以上の外界と接触していない民族や部族があるといわれます。アマゾンの奥地であったり、山の高地であったり、あるいは孤島の中であったりします。そこには独自のユニークな文化や生活様式を発展させ、少数ながらもその風土に適した暮らしを実現しています。

グローバリゼーションの中で、世界はあらゆるところに行けるようになりあらゆる文化や生活様式を一変させてしまいました。工業製品などは、安くて便利なものがあらゆるところに行き渡りその土地の生活様式を変えてしまいます。

今までよりも便利なものが外から入ってくればそれが今まで風土に合った手間暇かかるものよりも価値があると欲を優先してしまうのでしょう。そうやって日本も江戸時代から明治にかけて西洋文化や工業製品などが膨大に流入してそれまでの文化を手放していきました。

特に若い人たちは携帯電話をはじめ、目新しい道具を使って力を手に入れることに敏感ですからあっという間に広がっていきます。そうやって世界はどこにいっても、同じような価値観の社会を広げてきたのです。

しかし同時に、外界と関係を断っていた民族は外からやってくる病気やウイルスに対する抵抗力もありません。なので、あっという間に蔓延して絶滅したところもたくさんあります。またその反対に、今まで関係を持たなかった地域の危険な風土病が世界に広がっていくということも発生します。

お互いを尊重してそっとしておくような関係が維持できれば、その場での平和は保たれるのでしょうが現代のグローバリゼーションはそこに資源を取りにいき、経済成長のために浸食していく仕組みですからそっとすることは不可能です。このまま最後は、世界のあらゆるところに隙間がないほどに入り込んでいきます。

そのうち、宇宙人というものを地球外に見つけそこに向かって移動していこうとするでしょう。そして現在の少数民族とのやり取りのように病気を持ち込み資源を奪い、また経済成長のためという大義をもって浸食していくということは簡単に予想ができます。

よく考えてみると多様性というものは、尊重されることで維持されるものです。尊重せずに浸食すれば多様性というものはありません。その尊重は、無理やり折り合いをつけるのではなくお互いの最適な距離感の中で見守りあっていくことであろうとも思います。これは自然界の仕組みそのものでもあります。

世界は、何で一つになるのか。それがいよいよ人類に問われている時代だと私は思います。

後悔しないように子どもたちの憧れるような生き方を譲り遺していきたいと思います。

結友の仕合せ

昨日は、また藁ぶきの古民家で結友の仲間たちと掃除やべんがら塗を行いました。大変な作業もみんなで助け合って取り組めば心地よく、家も人もみんなが元氣になっていく感覚があるものです。

また人は一緒に何かをすると、その人の個性や人間性が観えてきます。対面で相手の様子を伺うよりも、一緒になって作業することでお互いの特徴や人柄、そのほかの得意不得意などを知り、心が通じ合っていきます。

掃除の効能は、一緒に取り組むことでお互いを尊敬しあうことができることです。一般的には現在はすぐに比較や競争、評価ばかりが重んじられていてなかなかお互いを尊重して認め合うことができません。一緒にやるよりも、個々の専門分野の人の役割のように配置されているものです。しかし実際には、自分にはない多様な能力や個性がありますから力を合わせた方がいい仕事をすることができます。

ここでのいい仕事は、決して完璧に仕上げることではありません。豊かさやつながり、また楽しみや喜びを感じることができるいい仕事になるということです。一緒に取り組むというのは、それをたくさん味わう時間が持てるということです。

私は、結果よりもプロセスのタイプでみんなで一緒に取り組んだり、味わったり、振り返ったりする方が楽しいと感じるタイプです。終わらせることや目標を達成することだけがいいのではなく、そのプロセスが如何に豊かであったか、仕合せであったかを確認するものです。そのためには、お互いを認め合い、一緒に取り組むという体験を増やす必要があるのです。

それは別に能力があるかないかだけではなくです。昨日は、小学生や大学生が来ていたり、シェフや主婦の方などがそれぞれで一緒に作業しました。みんなで取り組むことで、その人の仕事ぶりが観えてうれしくなります。それはその人がここがダメだとか、ここは直さないととか評価は全く入りません。むしろ、下手でもその人が主体的に取り組んでいることが楽しいのです。子どもたちも最初はみんな上手い人はいません。みんな下手です。そのみんなが協力し合って取り組んだものは下手でもそこには楽しみや喜びがあります。それはみんなの心を通じ合わせて取り組んだからです。

本来の価値とは何か、それは人が仕合せになることです。その仕合せになるために、結果があるのだからあまり上手いとか能力があるかとかにこだわる必要は私はないと思っています。

なぜなら、それが認め合い尊重することになり慢心を戒め、人が謙虚に感謝しあい助け合うための基礎になっていくからです。本来の教育とは何を教えるものか、それは評価や比較ではないと私は思います。なぜならそれで幸福を感じにくいからです。幸福を感じるためには、みんなで下手でもお互いで教え合い知恵を出し合い許しあい、認め合い、助け合うことです。

結友の集まりはいつもそれを実感させてくれます。

こういうプロセスを経て仕上がっていく藁ぶきの古民家は心のふるさとです。子どもたちのためにも憧れるような生き方を増やしていきたいと思います。

ご縁を実践すること

昨日、35年前に近所に住んでいた先輩と久しぶりに再会するご縁がありました。小さいころにソフトボールやラジオ体操などを一緒にやったことを覚えています。思い返すと、小さいときは3つ歳が離れていたら大きなお兄さんです。

後輩や子どもたちの面倒見がよかった先輩のことは心のどこかで覚えているものです。35年も経ちなんとなく面影が残っていると、安心するものもあります。歳をとっていくと3つの歳の差などほとんど気にならなくなってきます。

縁あって再会し、同じテーマで話ができたり、それぞれに困難に挑戦している共通点を感じると不思議な時のつながりを感じるものです。

人間には、ご縁というものがあります。

どのようなご縁で結ばれていくかで、日々は変化していきます。ご縁には場所とのご縁もありますが、時機とのご縁があります、そして人とのご縁です。

最初からその場所、その時、その人と出会う運命であったのではないかと振り返ると思うことばかりです。私は、日々に様々な方々とのご縁がありその時々でそのご縁に対処していきます。時として、あれは夢ではなかったかなと思うようなご縁もたくさんあります。

心の余韻にいつまでも残るような仕合せなご縁もたくさんありました。また同時に、傷つけあって一つの絆になったご縁もたくさんありました。あの人たちたちは今、一体どうしているのだろうかと思っても今は連絡も取りようもありません。ただ、未熟者同士で磨き合った思い出が遺っているだけです。

そういうご縁は、その後の人生でさらに深くし輝かせていくことができるものです。それはご縁を大切にするということに尽きるように思います。人のご縁は意味あって存在し、自分が如何にそれに執着しても思い通りにはならないものです。思い切って諦めてみることで、自分に相応しいご縁が訪れていることを自覚するものです。

それもまたご縁を大切にする一つの実践ということでしょう。ご縁を如何に大事に過ごしていくか、それは日々の内省によります。一期一会に生きるというのは、先人の遺してくださった大切な文化であり生き方です。

子どもたちのためにも、日々のご縁を内省により紡いでいきたいと思います。

 

ゼロウェイストの理念

先日、友人から「ゼロ ウェイスト」の徳島県上勝町の取り組みの動画を拝見する機会がありました。美しい町や村が汚されないようにゴミをゼロにするという活動そのものが故郷を守る気持ちと合致して美しい風景になっているようにも感じました。

美しい場所には美しい人たちがいるというのは、原風景を守るために何よりも重要なことかもしれません。少しこのゼロウェイストというものがどのようなものかを深めてみたいと思います。

日本大百科全書(ニッポニカ)にはこう書かれています。

「イギリスの産業経済学者マレーRobin Murray(1944― )が提唱した概念。2003年(平成15)7月に、マレーの著書『Zero Waste』の日本語版『ゴミポリシー――燃やさないごみ政策「ゼロ・ウェイスト」ハンドブック』(グリーンピース・ジャパン翻訳、築地書館刊)が出版され、日本でも注目された。「ゼロ・ウェイスト」とは、ごみを焼却、埋立て処理をせず、資源の浪費や、有害物質や非再生可能資源の利用をやめて環境負荷を減らしながら、堆肥(たいひ)化などの物質回収や再生可能エネルギー利用、リサイクルによって、ごみをゼロにする考え方。「ゼロ・ウェイスト」の目的はごみの発生回避であり、エネルギー消費が少なく、環境負荷が少ない自然代謝を最大限に活用した社会を目ざしているといえよう。」

ゴミを発生させないためにどうすべきかをみんなで考えて取り組むという概念です。これは解体業の方などはみんな仰っていますが、焼却できないものをつくるせいで捨てることができずに大変なことになっているといいます。保健所が細かく分類わけするように指導が入るといいますが、とても分解できるようなものではない状態で解体されていくのでゴミを処分する方法が末端になればなるほどできないのです。

例えば、原発などの放射能などはその最たるもののように思います。何億年も処分に困るものを大量につくり、捨てるところがないので国家や自治体間で押し付け合ったりしています。福島原発の燃料棒なども、冷却した水なども捨てることすらできません。ゴミの究極の姿ともいえるあれは、実は身近なゴミ問題でも発生していて捨てられないものが増えているのです。プラスチックゴミなども同様に、海洋汚染、空気汚染、この世はゴミだらけになっています。また、続けてこうも書かれます。

「ゼロ・ウェイスト」の三大目標として、(1)有害物質を排出しない、(2)大気汚染を生じさせない、(3)資源をむだにしない、が提唱されている。また、「ゼロ・ウェイスト」の重要なポイントである4Lとは、Local(地域主義)、Low cost(低コスト)、Low impact(低環境負荷)、Low technology(高度の技術にたよらない)を意味している。1996年、オーストラリアの首都キャンベラが初めて「ゼロ・ウェイスト」を政策として採用し、その後ニュージーランド、北米やヨーロッパなどの各都市に広がっていった。」

有害物質を出さない、大気汚染をさせない、資源も無駄にしない、この3つがあるかどうかを確認するということです。そのために、地産地消、自然循環、文明の化学をあてにしない、エネルギーを大量に消費しないということを重んじています。

本来の日本の里山のような状態を目指そうということでしょう。美しい風景は、自然との共生と循環の中にありますからこの取り組みの姿として理想は里山ということになります。

私の故郷にもまだ棚田が遺っていて、藁ぶきの古民家を甦生していますがそこにはまだ日本の原風景の気配が遺っています。本来、そういう場所には「結」という組織もあり人々が助け合い美しい風景を創造し守り続けてきました。

ある意味で私が取り組んでいる暮らしフルネス™も、このゼロウェイストの理念に共通するものがあります。そもそも自然が分解できない人工的なものを極力避けるのは、それはほかの生き物たちの暮らしを阻害しないということでもあります。

人間だけがこの地球に住んでいるのではなく、この地球は無数無限の生き物たちがお互いに自由な環境を与えられて暮らしを豊かに営んでいます。すべてのいのちがみんなが幸せを感じて豊かになれるようにするには、人間が中心の人間だけの世の中にしていかないことが肝要です。

すべての生き物たちが喜び暮らしていけるように、自然との共生や循環をさらに実践していきたいと思います。