心組み

人に得意不得意があるように、物事にもメリットデメリットがあります。それをよく見極めていくことで、できることできないこともまたわかってくるものです。

何かが良くないと一方的に決めつけてしまえば、本当に良いことがわからなくなります。よくよく現実を直視して、冷静に判断していくには自己と本心と素直に向き合い、本当はどうなのかということを突き詰めていく必要があります。

本質の深堀りや真理の探究というものは、学問していく上でもとても大切なことです。

例えば、違いを認め合うというのは問題を見つめるときに効果を発揮します。お互いに対話を通して、何が異なっているのか、何が共通しているのかを可視化して整理していくことで本質が観えてきます。

その本質が観えれば、その違いを活かすことを考えて配置することで一つのチームが仕上がってきます。チームには、それぞれに共通の目標があり役割分担があります。お互いに違うからこそ、活かし方があり、その活かし方が百通りも千通りも出てくるのが共働の智慧です。

むかし、今のような個人主義や縦割り制度ばかりではない時代にはきっとみんなで協力し合っていい塩梅を探し、もっともちょうどいいところの解決方法をたくさん持っていたように思います。つまり多様な問題を多様な解決方法でそれぞれに臨機応変に対応したはずです。ゆるい公共のつながりが、現場の間であったからこそそういうことも可能だったのでしょう。

私も現在の世の中の仕組みを憂いていながら何かが良くないと決めつけてしまうことがあり、制度のことや個人主義が云々とそれが悪いとだけをいっても物事が変わることがないことを実感します。もっと謙虚に全体のことをよく知り善く学び、調和する方法を模索していくことの方が変化を支援できることに気づきます。

法隆寺の宮大工の口伝というものがあり、そこにはこう記されます。

「塔組みは、木組み木組みは、木のくせ組み木のくせ組みは、人組み
人組みは、人の心組み人の心組みは、棟梁の工人への思いやり
工人の非を責めず、己れの不徳を思え」

法隆寺五重塔は1300年の歴史で美しく免震構造もあり今でも建築技術の智慧の結晶で大工のバイブルのようなものです。大工さんだけでなく、あらゆる職人たちを束ね一つの建物を立てる。専門性が高いからこその癖もこだわりもあったでしょう。そういう人たちを癖をよく知り、よく学び、心を組み合わせていく調和こそが五重塔を立てたのです。

謙虚に思いやりをもって己の不徳を思へというのは、いつまでも身に染みる言葉です。批判することは簡単ですが、実際にはそれを乗り越えてでも謙虚に低姿勢で徳を積んでいくことで調和を促していく方が努力が要ります。

学んだことを次に活かすためにも、真摯に一歩一歩挑戦していきたいと思います。

いのちの一灯

明日からいよいよ藁葺の古民家の屋根の修繕に職人さんたちと取り掛かります。日本の文化を甦生するのに、この家の甦生はとても意味があります。家はそれぞれの時代に、それぞれの家人や家族を大切に見守ってきました。

その見守ってきた家には、それぞれの物語や思い出が凝縮されておりその場にはその暮らしの余韻が残っています。たとえ、家人や家族がそこに居なくなってもそこには家が残っています。

家が残っているということは、その家は新しい家人や家族が訪れるのをいつまでも待っているのです。

以前、私の友人で貝磨きの達人の方から貝は主人と一心同体であり新しい主人をいつまでも海辺で待ち続けているという話を伺ったことがあります。中にある主人を守るために貝はいつまでも待ち続ける。そして貝は新しい主人の御守りになるのです。

むかしの人たちは貝を御守りにして身に着けました。そして貝もまた全身全霊でその人を守りました。家も同様に人は家で暮らすことで家に守られ、家もまた全身全霊で家の中で人を守りました。

今は家の売り買いや建て替えや解体などがまるで何かいのちのない物のように金銭で簡単に取り扱われますがそこには大切ないのちがあります。

こんなことをいうとセンチメンタルに思われるかもしれませんが、よく考えてみたらすぐにわかります。この私たちの肉体であっても、魂を守るための家であり、その家に魂が入ることで私たちは生きています。肉体を大切にしていくことは、守ってくれている存在を大切に思うことであり、肉体を最期まで大切に使い切ることで肉体もその役目を終えていきます。

私は家を甦生していますが、決して別にただ古民家再生事業をやりたいわけでもなく、リノベーションやビジネスや趣味でDIYが好きなわけではありません。家を磨き、甦生させていくことに仕合せを感じるのは、そこにまた新しい主人とのつながりができ、守り合う存在達に出会うことで世の中が明るく豊かになり、子どもたちに美しい未来が結ばれていくことを実感するからです。

私が取り組んでいることは、「つなぐ」ことであり、「みがく」ことです。そしてそれはすべて「いのち」を「むすぶ」ことであり、子どもに「ゆずる」ことです。

今更なぜ藁葺屋根の古民家を甦生をと思われるかもしれませんが、永い間、放置され朽ち果て白蟻でボロボロになってでもそこに建っていつまでも地域や子どもを見守ろうとする意志を私には感じます。

親切なご縁を感じ取って、家ももう一度、甦って子どものためにといのちを燃やしているのを感じます。私ができることは本当に微力で小さなことですが、真心はきっと家に伝わって、その家が周囲を明るく照らしていくと信じています。

いのちの一灯をこの場所から灯していきたいと思います。

孟子の言

人は大きな志を持てば必ず相応の困難に中ります。道を歩むということは、困難を歩んでいくことに等しいからです。それでも困難が来ることをわかりながらも前に進むと覚悟するのは、そこに志があるからに他なりません。

志は、自己の中にあるもので自分自身と向き合い自分の矛盾に打ち克ち和していくしかありません。志を歩もうとするとき、その自己との調和に苦しんできた志士たちは中国の孟子の言を聴き、精進したことがわかります。

孟子は、志や至誠を説き、生き方を遺しています。困難な時こそ、孟子の言を思い出し自分を奮い立たせたのです。

『天のまさに大任をこの人に降さんとするや、必ずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしめ、その体膚を餓えしめ、その身を空乏にし、おこなうこと、そのなさんとする所に払乱せしむ』

意訳ですが、天がもしその人に志から大任を授けようとするときは、必ずその人の身心を苦しめ、困難窮乏の境遇におき絶体絶命の与え、敢えて、その人を試し鍛えるのであると。その人が何のためにそれをやるのかを忘れることがないように、その人に「試練」を与えるということです。

試練とは、信仰・決心のかたさや実力などを厳しくためすこと。また、その時に受ける苦難のことです。試練があるから、目的地に近づいていきます。諦めず、試練だと受け容れていく中で天の試しが入ります。その試しをチャンスと思って転じることができるか、試練は自分を磨いてくれていると感謝できるか。志がその砥石になるのように思います。

そしてこういうものもあります。

『天下の広居におり、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ。志を得れば民と之に由り、志を得ざれば独り其の道を行ふ。富貴も淫すること能ず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能ず、これ此れを大丈夫といふ。』

意訳ですが、天と一体になり、天の命じるままに生き、道を実践する。志がある仲間を得れば共にやればよく、得られなくても構わずに独り行う。富貴がその人を乱さず、貧賤も別に影響はない。何の圧力や権力にも屈しない、まさにこれが志士の鑑である。

そしてこうもいいます。

『人に恒の言あり。みな天下国家という。天下の本は国にあり。国の本は家にあり。家の本は身にあり。 』

人はすぐに世間がとか周りがというが、本来その元は国の在り方であり、その国はまさに家の在り方。そしてその源はすべて自分の修身によるものだと。

最後に、吉田松陰が座右とした有名な言葉で締めくくります。

『至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり』

私の意訳ですが、これ以上ないというほどの誠実さつまり真心を盡すとき必ず天は動いてくださるということ。天のハタラキを活かすも殺すも自分の至誠、真心の実践次第ということです。

孟子の言を思い出しながら、全てを受け容れ、今なすべきこと、信じることを諦めずに思いやりと優しさと誠実さを大切に実践していきたいと思います。

智慧の宝庫

BAには、今年から福島の郷土玩具である「赤べこ」を室礼しています。先日、大三元師のことも書きましたが迷信といわれている過去の厄除けは科学的には証明されていませんが歴史上偉大な効果があったと実証されているからこそ今でも時の篩にかけられて残っています。

この福島県の郷土玩具の赤べこは、ただの玩具ではなく本来は厄病除けの意味からはじまったものです。この赤べこを近くに置いておくと病気や災難から逃れられると信じられ今でも多くの人に愛され続けています。

この赤べこの事を調べると、日本大百科全書にはこうあります。

「郷土玩具(がんぐ)。張り子製の赤塗り首振り牛。福島県会津若松市でつくられる。「べこ」は東北地方の方言で牛のこと。807年(大同2)河沼郡柳津(やないづ)町の福満虚空蔵(こくうぞう)堂建立の際、それに協力した赤牛の伝説が玩具のおこり。その後、岩代(いわしろ)地方(同県西部)に悪性の疱瘡(ほうそう)(天然痘)が流行したとき、この赤い色の玩具を病児に贈ったところ快癒したといわれ、疱瘡除(よ)けのまじないや子育ての縁起物に用いられてきた。1961年(昭和36)の丑(うし)年に、年賀切手の図案に採用された。」

諸説あるようですが、むかしも今と同様に疫病が流行し、人々にどうにもならない状態を与えることが多々ありました。その中で、身代わりになってくれる、また厄を除けてくれる存在に深く感謝していつまでも慎んで生きた先人の姿が見えてきます。災害を乗り越えた智慧をいつまでも忘れないために、人々は伝承というカタチを使って子孫に時を越えて伝承を紡ぐのです。

この諸説の中でも深く共感したのは、この文です。

「大同2年、円蔵寺に徳一大師が虚空蔵堂を建立する際、上流の村から大量の材木を寄進された。しかし、水量が豊富な只見川から材木を運搬することは決して簡単ではない仕事だった。人々が材木を運ぶのに難儀しているとどこからか牛の群れが現れ、材木の運搬を手伝ってくれた。重労働で多くの牛が倒れる中で最後まで働いたのが赤色の牛だったといわれている。そのことから、赤べこが作られた。」

今から約1200年前の出来事にもかかわらず今でもこの赤牛らの御恩を忘れずに、身代わりに真摯に働きを与えてくれた存在のことをいつまでも大切に思っているという人々の思いに共感を覚えます。まさに虚空蔵堂の一つの権化でもある、赤牛を菩薩に見立てたのでしょう。

私たちは歴史に学び、こういう時こそどのような心の姿勢で疫病の厄を除けていくのかということを学び直す必要があります。これは単なる迷信ではなく、歴史は過去の事実ですからそれを乗り越えて残る迷信は実は智慧の宝庫であり、文化の結晶なのです。

そんなものは非科学的だからと吐き捨て避けるのではなく、非科学的なものの中に智慧があるかもしれないと敢えて盲信することも大切ではないかと思います。祈りのチカラであったり、不思議な言霊のチカラであっても、効果があるものは宇宙のチカラとして受け容れることもまた私たちの人間の体のように神秘と調和するための真理でしょう。

子どもたちのために、善いものは日々の暮らしの実践の中に智慧を遺し、伝承していきたいと思います。

感染症という時代の節目

感染症の歴史を深めていたら、人類は今まで何度も感染症によって大変な憂き目にあっていることを知ります。権力者であろうが、神官であろうが、感染症が流行すればだれでも平等に感染します。

歴史をよく眺め直していると、感染症が流行する切っ掛けは共通するものがあります。一つは、人間が遠くまで往来したこと、人間が密集したこと、貧富の差が生まれ粗悪な環境が発生したこと、生物同士の不可侵の生息環境に踏み入れたこと、最近では抗生物質の乱用や科学的実験の乱発で人工的なウイルスになってしまったことなどがあります。

私は専門家ではありませんが、なぜこのような感染症が発生するのかは歴史から学び直すことができます。専門家が詳しいから専門家が正しいわけではありません、一人ひとりがきちんと向き合い、なぜこんなことになるのかを自分自身で考えてそれぞれに問いを持ちながら取り組まなければこの感染症を乗り越えることはできないと思います。

今回、三密を避けるとありましたがそもそもこれだけ世界中で日々に渡航者が大量に往来すれば必ずどこからかウイルスは持ち込まれ感染症は歯止めがききません。それに都会で密集して生活していたら爆発的に感染は増えます。また感染者を排除しようとすることで差別が広がれば余計に感染者が増えていくのも予想できます。検査を受けることすら嫌がり、自分が差別されたくないとみんな感染している可能性があってもそれを隠すようになりパンデミックになります。

実際には具体的な対策をと色々と言っていますが、時短にするとか、外出自粛とか、マスクだけではどうにもならないように思います。本来は、この感染症を止めるためには先ほどの、渡航をやめ、差別をやめ、都会をやめ、自然破壊をやめ、安易な薬をやめ、ウイルスと敵対するのをやめるようなことが必要です。

しかしこれは暗黙の了解でできないことになっていますから、それ以外でということになります。それ以外でということがあまり効果がなくても、それには目をつぶってなかったことにしようとするバイアスが人間の脳には働くのです。だから余計に、感染症が止まることもなく犠牲者が増えて最後は仕方なかったと諦めるのでしょう。

本当はそうではなく、果敢に勇気を出してこれらをやめる取り組みをするしかないのです。コロナウイルスは切っ掛けにすぎず、人類は必ずこの問題に向き合う時がすぐ近くに来ています。コロナがたとえ終息しても、すぐに第2第3が来ますし、今度はもっと厄介なものが来ます。どうせ、その時にあの時にやっておけばよかったと後悔するのなら今の方がまだ国にも個人にも体力があるからできるのです。

人間は本当の意味で危機に追い込まれるまで動こうとはしないものです。ゆでガエルの話のように、じっくりとゆっくりとくる変化に弱いのです。緊急事態宣言とは本当は、今のような安易な一時的な目先の対策をすることではなくまさにリーダーとして、すべてを転換するためにどうあるべきかを国民たちに問うためのものであろうと私は思います。

そうはいっても、誰かのせいにしても解決するものではありませんから自分がまずモデルを示す必要があります。

「できないことばかりを並べるよりも、できる人からやればいい。」

そうしているうちに、できない人もできる人から勇気をもらいやっていくことができるものです。感染症をきっかけにはじまった人類の新しい時代の挑戦は、いよいよ幕を開けました。

子どもたちのために、真摯に挑戦していきたいと思います。

心待ち

昨日は、聴福庵の箱庭にある紅葉などの剪定を行いました。つい冬の時期の剪定をするのを忘れてしまい、初春にして虫や葉などで大変になりますが今年は無事に剪定できました。

どの木々にも特性がありますから、タイミングを外さずに手入れをしていく必要があります。特にタイミングはどれも事前にというのが特徴ですから、四季折々の時機を見逃さずに如何に心を使って「待つ」ことを楽しめるか。

暮らしは待つことで豊かになりますから、現代のようなスピード社會において待つこと待てることは大切な暮らしの実践項目です。つまり「待つ技術」を持っている人ほど、仕合せを感じやすいということでしょう。

例えば、待つことでいえば神仏に拝むというものがあります。日本人は、予祝といって先に感謝をしてその時を待ちます。「おめでとうございます」という言葉もまた、先に待っている言葉です。

すでに素晴らしいことが起きている、偉大な恩恵をいただいている、だからこそないものを見ずにある方を観ることで「芽出度い」ことが誕生していることを知る心で待つのです。

焦ったり不安になったりすると人は待つことができなくなります。うまく待つためには、プラスの方、いただいている方、すでにある方を観る訓練が必要です。もうないと観るか、まだこんなにあると観るか、それは心が決めるからです。

日本の暮らしの中には「もったいない」という思想があります。これもまた、ある方を観ることで感じられる心持ちです。豊かさはその心持ちが決めます。物がたくさんあってもまだ足りないと増やす人と、すでにこんなにあると足るを知る人。同じ人間でも心持ち次第で別人になっていますからそれは暮らしの中に顕れてくるものです。

暮らしを充実させていくというのは、その心持ちを豊かにしていくということです。日々の小さな仕合せを噛みしめていくことや、待つことの喜びを暮らしの中に見出していくことだったりします。

先ほどの紅葉であれば、この時期は水が少なくなりますから葉を落として春を待ちます。乾燥する空気の中で水分を維持することが難しいから葉を落として枝だけで蓄えた水分で乗り切ります。水を多く含み、それを出すから夏場はお庭を清涼にしてくれます。

紅葉と一年を共にするとわかるのですが、春の新緑の瑞々しく初々しい姿に心癒され、夏の生い茂った深い緑に心が洗われ、秋の紅葉の美しく物寂しい姿に心が落ち着き、冬の枝に飛来した鶯や鵯が鳴いている姿に未来への心待ちを感じます。この豊かさは、「一緒に」共生しているからこそ味わえるものです。

真の豊かさはあらゆる生命と共生し合い、そこで貢献できる喜びを味わうときに実感します。人間が仕合せを磨くのは、自然と共に生きるときです。

子どもたちにも、自然が共にあるように先人の智慧と伝統と文化を伝承していきたいと思います。

藁葺の甦生

来週は、いよいよ郷里の藁葺古民家の屋根の修繕を行います。阿蘇の茅葺工房の植田さんと知り合ってからもう3年以上になりますが、地蔵堂の藁葺はわけあって中止になりましたがそれが別の形で古民家の修繕でご一緒できることになり仕合せを感じます。

この藁葺や茅葺は、日本民族の循環の文化の象徴そのものであり私は日本が風土と一体に暮らしてきた証であると考えています。かつての日本の農村にはこの藁葺や茅葺がありましたがこれは家を守るだけでなくその地域の自然を守ってきたのであり、共同体としての日本民族の生き方や生き様を顕現したものなのです。

そこで暮らす人たちが、如何に自然と一緒一体になって地域を育て守ってきたか。千年以上、いやもっと前から自然と共に暮らしながらお互いに助け合い仕合せを紡いできた「場」がこの藁葺や茅葺の農村には感じられます。

明治以降になり、自然から離れた暮らしを行うようになりこの藁葺も茅葺もなくなりました。今の時代こそ、本来の日本人の自然から学び、自然と暮らし、自然の恩恵を分け合い育んできた智慧を甦生する必要性を感じるのです。

茅葺職人の植田さんが住んでいる阿蘇は、「九州の水かめ」と呼ばれている場所です。草原には、年間2500mm以上の雨が降ります。この水が阿蘇のあちこちから湧き水として出て九州の中、北部にある6本の一級河川になります。そして九州全体の自然と生態系を育むのです。まさに九州のいのちのゆりかごが阿蘇の草原なのです。

その草原を1000年も前から人々が大切に守ってきたことで、人間のみならず多くの生き物たちのいのちの循環を保育してきました。この日本人としての営みや生き方が、ふるさとの美しい原風景を遺し、子孫まで末永く豊かな暮らしを伝承してきたのです。今、その日本の農村文化の象徴とも言える日本の草原の数々が、失われようとしています。

もしこれらの草原がなくなれば、いのちの水かめとしての役割が失われます。手入れしているからこそ守られてきた人も含めた自然が、単なる野生の森になれば自然との文化が消え人間もまた生活できないような環境になり消えるのです。

これは農村の棚田などもそうですが、人間が里で自然に手入れして共生するからこその循環の豊かさであり、それがなくなれば単なるコンクリートジャングルのようになってしまうか、いつかは人も住めないような廃れ荒れた土地になってしまいます。

暮らしというものの本来の価値は、自然と共生して多様な生き物と一緒に豊かに生きてきた先人の叡智を子孫へつなぐことです。その象徴を守るというのは、私たちの暮らしの原点を思い出すということでもあります。そして本来の場づくりというのは、暮らしあってのものなのです。

カグヤではここ数年間、ずっと暮らしに力を入れてきました。それは子どもたちの未来のためであり、誰かがこの伝統文化をつなぎ、そして紡いでいく役割が必要だからと誓ったからです。文化は途切れればそこで失われてしまいます。たとえ小さな細い糸であれ、誰かが子どもにつなげばそこから復活することもできます。しかし、切れてしまえば二度と伝承できないのです。先人の智慧とはそういうものなのです。

この取り組みは確かにお金にはなりません、どちらかといえばお金ばかりを使っていることで会社の利益であれば損をしているばかりの事業でしょう。いや、事業と呼ばれるものでもないかもしれません。

しかし子ども第一義の理念を本質的に磨こうとしたら、子どもに遺し譲りたいものを守ることは私たちの本業であり使命ですからなんの迷いもありません。私たちは子どもの事業で収益をいただいている企業だからこそ、その御恩を未来の子どものためにできる限り還元していくことは当たり前のことだからです。

生き方と働き方の一致、他にもカグヤでは色々なことを掲げていますがそれが単なるお題目にならないように真摯ににこにこ顔で命懸けの取り組みに邁進していきます。今年も、理念研修が藁葺の甦生ではじまれることを有難く思います。

草原を守り、里山を守り、文化を守り、子どもを守っていきたいと思います。

 

自己免疫

コロナウイルスがあることが当たり前になっていく世の中になってきましたが、これからは温暖化も進み、第2第3の疫病が訪れることがあるかもしれません。その都度、ワクチンが開発されるかもしれませんがそれがすぐに追いつくわけでもなく、それにワクチンが効かないものもでてくるかもしれません。

そう考えていけば、自ずから何をすべきか。それは人間の持つ自己免疫を高める暮らしを行うしかないことはわかります。この自己免疫を高めるとはどういうことか。

現代人は、この自己免疫を高めるということをあまり学んできていないようにも思います。それは食生活が乱れていたり自然と共生する暮らしから離れていることでもわかります。

本来、先人たちはどのように免疫を向上させてきたのかをもう一度学び直す必要を感じます。

例えば、伝統食というものがあります。

今ではあまり人気がない食事になっていますが、実はこの伝統食こそが長く生き残るために編み出された先人たちの智慧の結晶であることはわかります。玄米、味噌、梅干し、鰹節、そのほか、その土地で産み出された数々の旬の郷土料理。まさにこれが一物全体、身土不二の原理原則に適っているのも明白です。

むかしの人の食、特に主食とは健康を維持するために摂取されてきたものです。今のように、人間の都合で快適な生活、大量の薬やサプリなどがなかった時代、私たちは病気になるということを非常に恐れました。病を得るというのは死に至る直前であり、如何に病にならないような暮らしをするか、つまり未病ということに全神経をとがらせて対策を講じてきました。

未病とは、病にならない、もしくは病を初期の状態で恢復させて健康にする。つまりは健康というものは病と行き来しますからバランスが病に偏らないような生活を維持していくことに注力したということでしょう。

そしてもう一つ、気づきにくいことですが大切なことがあります。それは笑うことです。むかしの日本人は、日々にニコニコと豊かに楽しく仕合せな雰囲気をみんなで醸し出していました。そういう生き方を大切にしてきたのです。

中村天風さんにこういう言葉があります。

「どんな名医や名薬といえども、楽しい、おもしろい、うれしいというものに勝る効果は絶対にない。」

これは笑うことこそ、免疫を向上させるもっとも大切なことであることを証明しているのです。自分自身が楽しく、嬉しく、面白く生きている人は、若く見えます。若く見えるだけではなく、まさに若々しく瑞々しいいのちが躍動しているのです。そしてそういう人はよく笑います。毎日が、イキイキし、いのちが輝くからです。

人間は必死ですからいつかは死にます、だからといって死ぬまで暗くなって生きるのか、それともイキイキと楽しく生きるのか、それは心掛け次第です。先ほどの中村天風さんは、末期の肺結核を自力で平癒されました。この自力というもの、真の主体性こそが免疫を向上させる秘訣なのでしょう。

免疫を如何に高めていくか、これからの時代はまさに人間の暮らしの原点回帰です。私の取り組む暮らしフルネスはその原点を学び直し、もう一度、先人のDNAを甦生させて現代の人たちが安心して仕合せに暮らせるような智慧を復古起新することのためにも必要です。

今年も、日々の暮らしを見つめ直しながら子どもたちにつなぎ譲り結びたいことを実践していきたいと思います。

 

先人の智慧

新年に入り、神棚や御守りに感謝し新しくしています。本来は、信仰のカタチですから信心していることが大切でありそれぞれの家ではそれぞれの信仰があるように思います。

古来からの書物や文化を深めていると、信仰の伝説や物語が地域地域にたくさん残っています。そのどれもが、私達に信仰することの大切な意味を問いかけるものが多く、まさに信じる者だけが救われるということを教え諭しているものです。

今日は、ちょうど正月三日目ですが平安時代に天台宗の座主を務めた慈恵大師良源という方の命日です。そこから元三大師(がんざんだいし)と呼ばれています。この方は角大師(つのたいし)と呼ばれていて、疫病を退散させる護符として有名です。

今のコロナウイルスのように永観2年(994)の頃も、疫病が猛威を振るいました。日本ではウイルスも神様の一つですから、その疫病神が角大師にとりついたときその疫病神の姿を鏡に写しその姿を弟子に描き写させて、お札にしたものが効果があると信じられ疫病よけの護符になって今でも家々に貼られているといいます。

科学的にはとても信じがたい話で、そのような護符に何の意味があるのかと思うのかもしれません。しかし、自らが疫病に罹りそれを退散させ人々の苦しみを一身に受け容れて引受け、人々を救済したいと祈る真心にその当時の人たち、またそののちの人たちも感動したのかもしれません。

そしてその真心に見守られていることに感謝していると不思議と免疫が高まったりする効果もあったのかもしれません。信仰や信心というものは、不思議なものがあり病気や治癒に大きな影響を与えることは科学で証明されなくても様々な実証事例で証明されています。

人間は自己免疫がありますから、免疫を高めるような暮らしを行い、運を善くするような日々を丁寧に用心深く紡いでいくのなら難を避け、禍を転じる力を得るように思います。

これは一つの智慧であり、知識では及ばないものです。

私たちは古来より智慧というものを大切にしてきました。その智慧は理屈では到底及ばない世界のものを奇妙な仕組みで道理に結ぶことです。智慧を得ることができる人は、先人の遺徳を偲び、真摯にその教えや導きに感謝して学び、実践によって心魂を磨き続けている人です。

智慧は知識ではないというのがポイントで、何回も何回も一生懸命に日々の実践を積み重ねて磨き続けている中で直観して感得するものです。そしてそれが信心や信仰の本質であり、その日々の実践が深い人ほど信心と信仰が深いということになります。

私のこのブログもまた、一つの信心や信仰のものです。子どもたちの未来のためにと、信じて続けて綴るだけです。いつの日か、この慈恵大師のように真心で磨いた智慧を子どもたちの未来を目覚めさせるようにできればと祈ります。

コロナウイルスはまだまだ猛威をふるいます。禍転じてどう福にするのか。私たち人類は真摯に歴史に学び、先人たちがどのように乗り越えて今があるのか。よく観察し反省し、これからの未来へ挑戦していく必要があります。

その自戒を籠めて、今年も実践を削っていきたいと思います。

育徳

先日、訪問したある学校の校庭に「育徳」という言葉を見かけました。これは四書五経の一つ、易経の中で使われている有名な言葉です。

「彖曰。山下有風蠱。君子以振民育徳。」(山下に出(いずる)泉(いずみ)あるは蒙(もう)なり。君子もって行(おこない)を果たし徳を育(やしな)う。)の中にこの育徳があります。

文章の意味は直訳ですが最初に山から出てくる湧き水はとても小さくか弱いものでも次第に他の大きな流れが入ってきて合流し、それがやがて大河のようになり大海になっていくという意味です。大器晩成と似ていますが、時間をかけてじっくりと徳を涵養していくことの大切さを説いたものです。

この育という字は、子どもがお母さんのお腹の中にいる象形文字です。自然にお母さんの中で育っていきカタチになっていく。まさに小さな存在からあらゆる徳をいただき大きな存在になっていく、つまり自然に大人になっていくということです。

徳は自然に存在しているもので、空気や太陽な水のように私たちにとってはなくてはならない偉大な存在です。その存在の中で、私たちはじっくりとゆっくりと成長していきます。息を吸って吐いているだけでも私たちは徳によって育まれているともいえるのです。言い換えるのなら、まさにこの呼吸こそが徳のなすことの意味を顕しています。

何度も何度も丁寧に呼吸をすることで私たちはその空気によって徳が涵養する。だからこそ私たちは呼吸を日々にととのえて丁寧に暮らしを紡いでいく必要があります。空気が化学物質に汚染され、感染症でマスクをして、閉塞感がある息苦しい世の中だったとしても、敢えて丹誠を籠めて呼吸を整えて徳を養うのです。

私たちはこの世にいるだけで、徳を磨いています。なぜなら徳を磨くために生まれてきたのが私たちの使命の本懐だからです。そうやって徳は日々に育てられていますからどのような一日であったとしても、私たちは呼吸を已めるその日まで徳に見守られ育てていただいているのです。

この徳に見守られているこの世界で自分らしく自分のいのちを存分に心のままに生きていくことが恕されているのです。無条件に自然が私たちを育ててくれるように、この世は無条件に偉大な愛情を与えてくれます。その中で、いのちが「育つ」ということの側面に常に「徳」があるということなのです。まさに天の無限の慈悲慈愛を頂戴しているのです。

そしてこの天の真心は決して已むことはありません。この今も、私たちのいのちを支えて見守り続けてくださっています。だからこそその徳に報いていこうとするところに、私たちが人間として真に学び育つことができるのです。それが育徳の本質だと私は思います。また同時に徳を磨くというのは、徳に磨かれているということです。

畢竟、人は真に徳に感謝できる人になるとき、私たちの人格はある処の高みにまで磨かれたと言っていいかもしれません。

玉磨いて光るとき、徳もまた薫ります。

来年もまた、偉大な徳に見守られながら子どもたちを見守っていく一年にしていきたいと思います。

ありがとうございました。