ぬくもりの灯~場徳の祈り~

私が徳積財団を立ち上げた理由は、子どもたちのためです。子どもたちとは、未来の子孫のことであり先祖たちが私たちのために遺してくださったものを更に磨いて後世のものたちにバトンを渡すためです。

私たちの肉体は滅びますが、精神や魂は永遠に生き続けています。その証拠に、私たちは何千年も何億年も前からこの地球と共に生きてきたという事実があり、この宇宙で宇宙を感じて歩み続けてきている道を感じることができます。

現在は、物質文明に偏り過ぎていて心の荒廃が進んでいますが私たちは心を磨かなければ仕合せにはなれませんから必ず目が覚めて新たな時代を拓いていくことになると思います。

そのためにも、私たちは先人が守り続けてきたぬくもりの灯に炭をくべてその火を絶やさないように火を吹いていく必要があります。この吹くという行為は、福という行為でもあり、磨くという行為です。

先日、中村哲さんという医師がアフガニスタンで亡くなりました。この方は、大医であり、病を治すだけでなく人を治し、国を治しました。まさに二宮尊徳と同様の実践をされた方です。治水を学び、多くの人たちに水を飲めるように尽力しました。そしてこの方はそれを私はただ水やりをしただけだと言っていたといいます。

私も二宮尊徳の「報徳」思想に大きな影響を受け、この時代にもっとも必要なのは一人ひとりが目覚め、各々の使命で徳を積むことだと信じています。この徳積みと何か、私にとっての徳積みとは、「たた磨くのみ」であり、囲炉裏に炭をくべただけだと言うと思います。

この世の心の荒廃は、心を澄まし清め整えることで癒されます。そしてそれは、日々の暮らしの中で生き方を磨くことによって実現します。それが暮らしフルネスです。

徳積活動をするには、私一人だけでなく大勢いの仲間たちが必要です。仲間と磨くと、その光は太陽の如く天照らし、月の如く闇を清浄に満たすことができるからです。

古今の先達が必ず遺す言葉、それは「一灯照隅」です。

徳を共にし、共に磨く同志たち、徳積堂の炭のぬくもりに集まり、法螺貝を響かせ、この世に調和の豊かさを一緒に実現していきましょう。

原点の伝承

世の中には様々な価値観というものがあります。ある人に価値があるものでも、別に人には価値がありません。人間は価値観を持っていますから、人それぞれではあるのです。

ある人にとってはそれが宝ものでもある人にはゴミにもなります。物が豊富にある時代は、そうやって価値があるかないかの影響を大きく受けるように思います。

例えば、価値観をコントロールすることで金銭的に儲けようとする人も増えてきます。当然、価値があると思うことでもそれよりも価値があるということを誰かがいうことでそれを追いかける人が増えていたりします。

当然、いのちがもっとも大切というのが本来のことですが今ではお金のためにはいのちよりも大切なものがあるとさえいう人もいます。何が本来の価値だったかも、わからなくなっていくからこの世界が整わず混沌と乱れていくように思います。

こういう時こそ、原点回帰する必要があり何のために生きているのか、何のためにやっていくのかを考えることが大切なのです。

資本主義の中で金銭的な価値の物差しばかりが走る世の中においては、原点や本質的な価値が見失われていくのでしょう。子どもが宝であったり、時間や暮らしが大切であったり、健康が重要であったりも、忘れてしまっている人も増えています。

本来の生きていく上での原点を、考え直すことで人間は何が本当の価値なのかに気づいて変わっていく勇気が必要だと思います。わかっていても、もはや止められない、変えられないというのも事実です。しかし一人一人が少しずつでも、暮らしの中で変革していけばいつか本物の価値が磨かれて原点回帰できるようにも思います。

価値を思う時、原点を思う。

子どもたちのためにも、原点を生き、原点を伝承していきたいと思います。

暮らしフルネスとブロックチェーン

ブロックチェーンの基本概念として自律分散型という言葉があります。英語では「Decentralized Autonomous Organization」略して「DAO」とも呼ばれています。このDAOは組織に例えれば、特定の管理者や主体を持たない分散型で非中央集権型の組織のことをいい、一人ひとりによって自律的に運営されている状態のことを指します。

つまり地球のように、また生命のように細胞が自律しながら全体のすべてを協力しあって健康に保っている状態を指します。それを人間社會に例えて一人ひとりが自律と協力をし合うために自立と調和の健康な社會を創造していくようなものです。

私たちは、自分一人ひとりの中にある心の平安や身体の健康を保つことで平和を築き上げていきます。それをそれぞれが真摯に取り組むのなら、世界は平和を維持していくことができるというものです。

私はそれを「暮らしフルネス」で実現できると信じているのです。

今、コロナが出てくるタイミングもありますが、ちょうど令和になってから私たちは調和の時代に入ったとも言えます。人間中心でバランスを崩してしまっている現状を、また調和させていこうとする働きがはじまっているということです。

私が思うブロックチェーンの本質は、この自律分散型を実現する仕組みにあります。誰かによって管理される世の中ではなく、みんなで協力して調和して暮らしていける世の中にする。無理な物質的な豊かさで豊かさを求めるのではなく、みんなで暮らしを充実していく中で真の心の豊かさを実現していく。

人間は「足るを知る」ことができれば、自ずから自立分散に気づくと私は思います。求めては手に入らないと不安になり、さらにさらにと求めては不調和を繰り返して心身も病み、社會も歪にになりました。

私はむかしの田んぼや、日本民家での伝統的な暮らしを通して、本来の理想的な自律分散の世界を観て学び、その豊かさと美しさと仕合せに心から感動しました。先祖たちが築き上げてきた社會、求めてきた社會、残してくれた社會を垣間見て有難い気持ちに感謝の涙が出てきました。

本物の暮らし、つまり先祖と風土がつないでくださってきた真実の生き方ができるのならこの世界はみんなで地球という生命体と共に永遠に仕合せと豊かさを共に享受することができるように思うのです。

ブロックチェーン技術は、まだまだ資本主義の中でひとつのテクノロジーとして使われていますが、私にとっては従来の価値観を換えてしまうほどのインパクトを与えるものであると確信しています。私が提案するブロックチェーンアウェイクニングの意味は「目覚め」です。人類が、仏教の法具の羅網のようにつながりの中で全体が調和することに気づき、そのような生き方や社會に原点回帰することを願い、この新しいIT技術でまずそれを証明してみせたいと思います。

エンジニアが世界を換えるのは、人格を磨き、その磨いた人格で技術を発揮できるようになることです。その本物の技術者を育成し、子どもたちをいつまでも見守れるように場を醸成していきたいと思います。

陰徳と真善美の仕合せ

世の中には、陰ながら取り組む人たちによって支えられ徳が積まれていくものです。これを陰徳ともいいますが、縁の下の力持ちともいいます。今の時代は、目立ち自分たちがやっていると言わんばかりに宣伝しあっている人たちが増えていますが本来はそんなものは自分のやりたいことをやっているのだから宣伝せずとも淡滔滔と取り組んでいく方がいいように思います。

なぜかといえば、それが陰ながらにつながっていくのです。

この陰ながらというのは、私の実践するかんながらにも通じています。世の中には、当たり前すぎて空気のような存在がたくさんあります。水も太陽も、月も風も地球にも偉大過ぎる存在のことを私たちはあまり意識することはありません。

しかしこの目立たなくてもなくてはならないほどの尊いものはすべて陰にかくれているのです。これは単に日陰のことではなく、意識の陰のようなものです。普段、意識していないけれどこれが偉大なことだと感じられるもの。それを「徳」と呼び、陰こそ徳であるという意味なのです。

この陰徳は、陰陽の陰ではなくまさに絶対的になくてはならない偉大な存在のことをいうのです。そして人間の陰徳は、この陰ながらの取り組み、つまり当たり前すぎてわからないほどの存在に取り組むことで磨かれていくのです。

例えば、人間が本来の里山のような自然と共生する暮らしを実践すれば多くの生き物たちを喜ばせ調和させていきます。調和すれば、そこに和やかな場が生まれあらゆる生命たちが謙虚に活かしあいます。共生の世の中が実現します。こういうものを人間が行うのに、派手に目立つために誰かに見せるためにやっているはずはありません。

本来、人間の精神が成熟してくれば暮らしの豊かさの中でいのちに包まれて活かしあう世の中にありたいと願うものです。それは心の仕合せを生きることであり、心のままに自然体である喜びを感じるものです。いのちが輝き、それ以上のことは必要ない足るを知る世界です。

徳を積むことは、陰徳を磨いていくことです。

最近、色々な人に知られていくことでなんだか勘違いされていきそうな気もしています。人を喜んでもらうこと、いのちを活かそうとすること、世界を美しくしていこうとすることが広がっていくことが望みであり有名になりたいわけではありません。真善美というのは、実は磨く楽しみの本質であり仕合せです。

子どもたちに真善美を伝承していきたいと思います。

物は語る

今は、大量生産大量消費の価値観が当たり前の世の中ですから物をただの物(いのちのない存在)としてすぐに使ったら捨てていきます。リサイクルなども、まだ使えるからと再生しますが物であることには変わりません。

むかしは、物にも心が宿っていると知っており物のように扱わずにそこには心があると信じていました。つまり物もすべて生き物であると信じられていたのです。生きているからこそ、関心を持ち磨き手入れをして大切にしてきました。

大切にされた物は、心が通じ合いますからお互いに無言の対話を続けていきます。そして何かのご縁から結ばれ、偶然の物語が生まれます。そうやってお互いのいのちが輝き、生きていることの豊かさを共有し共感しあってこの世を彩るのです。

物が溢れてしまうことは、ある意味で贅沢なことのように思えますがその分、機会が減ってしまうこともあります。以前、大阪の藤井寺で尊敬する室礼のメンターにお会いすることがありましたが、そこは本当にすべての場所に丁寧に物が置かれ、場がイキイキとしているのを感じたことがあります。

あれだけの物をすべて丁寧に配置する配慮の仕方に、物との接し方を学んだことを思い出しました。その方は、雛人形を毎年お祀りし3000人ほどの人に無料で公開しておられますがお祀りする姿勢にたくさん学ぶことがありました。

私たちは物と接するのにどれくらいお祀りするつもりで関わっているかが問われます。物はただの物ではないと感じられるのは、物に対しての接し方がいのちのあるもの、心があるものと思って暮らしを生きるから観えてくる境地でもあります。

それを単に人間の都合のよい便利な物になれば、不便になればすぐに粗末するのでは物のいのちも見えなくなり、物がゴミのように扱われて捨てられます。都市のいたるところにはゴミ山だらけです。ゴミばかりが毎日、大量に捨てられ便利なものばかりに囲まれて生きることは果たしていのちは仕合せなのか。

子どもたちに譲りの遺していきたい未来のために、今の生き方を見直し、物を手入れし磨き直して大切にしていきたいと思います。

炭の豊かさ

急に寒くなってきて、家は冬支度をととのえています。冬といえば、もっとも重宝するのが炬燵です。現在、西洋建築が中心に建物はたっていますから炬燵の需要は減少しています。

しかし、暖房とは異なる炬燵の暖かさや豊かさは炬燵でしか味わえないものがあります。思い出せば、冬の寒い日に家族がみんな炬燵であったまりながらそれぞれに好きなことをゆったりとして過ごす。時折、みかんやおかし、そしてご飯を食べながらまた団欒する。お互いに場所を分け合いながら、みんなで炬燵に入ってほっこり過ごすところに和の心を感じます。

私の使っている炬燵は、一つは炭団(たどん)といって炭(木炭、竹炭、石炭)の粉末をフノリなどの結着剤と混ぜ団子状に整形し乾燥した燃料を使う炬燵です。櫓炬燵といって、炭団をいれておく陶器があってそこに炭団をいれると8時間くらいはぬくもりが拡がります。まるで温泉にでも入ったかのような温かさで、遠赤外線で炬燵からでても体がポカポカするものです。聴福庵では、冬はいつも2階で過ごしますが居心地がよく穏やかに冬を楽しむことができます。

もう一つはBAある炬燵でここは豆炭を使っています。この豆炭(まめたん)は、石炭や低温コークスや亜炭や無煙炭や木炭などの粉を混ぜ、結着剤とともに豆状に成形した固形燃料のことをいいます。炭団とは異なり、多少の臭いもありますが熱量は強く超機関燃焼します。あんかとしても使うことがありますが、豆炭をサシコマット(ガラスウール)でくるんで燃焼させる燃焼器を櫓の中にいれて使います。うちで使っているのは、通風口の開閉により強弱の調節や使用する豆炭の個数による調節もでき温度調整ができます。

今では電気の炬燵が便利だと思われていますが、火力の強い豆炭を岩綿でくるんで酸素の供給量を調整することで使えるようにするというのはその時代は大発明だったでしょう。

やっぱり電気と異なり、豆炭も遠赤外線で芯から温まり使うと冬がまた格別です。火は、危ない側面もありますが私たちの暮らしをいつも支えてくれている大切な存在です。その火の徳性をよく観察し、それを上手に活かした日本人の智慧には感動と感謝が湧いてきます。

子どもたちに、この暮らしの豊かさを伝承し和の心を育てていきたいと思います。

暮らしと柿

今年も柿を干し柿にして聴福庵とBAの軒先に吊るし暮らしの風景を楽しんでいます。この干し柿は、冬の風物詩ですが今年は特にコロナウイルスの流行もあり、体調と整え免疫を高めるためにも効果が期待されます。

最近、柿の効能が改めて認められてきています。

ニュースでも、柿の柿渋がコロナを無害化することが研究で証明されています。この柿渋はいつも古民家の修繕で活躍するもので、ありとあらゆるところで利用していましたがまさかウイルスにも効能があるとは思ってもいませんでした。

柿渋のすごさはエタノールという消毒薬はインフルエンザには効いてもノロウイルス、ポリオウイルス、手足口病のウイルスには効きません。緑茶由来のタンニンはポリオには効くが、ノロ、手足口病には効きません、しかしこの柿渋由来のタンニンははヘルペスウイルス、アデノウイルス、ロタウイルスなどほとんどすべてのウイルスに効果があることが認められています。

まさに万能の特効薬のような働きがあるのです。「柿が赤くなると、医者が青くなる」諺通りです。

この柿渋は日本固有の発酵文化から誕生して1300年の歴史があり、渋柿の果汁を発酵、熟成させたものです。1300年も伝承された文化は、まさに自然の篩にかけられても効果があると先人たちが認め続けてきた本物の証明です。

私の自然農の畑の上の柿山にも甘柿をたくさんつくっています。この甘柿は福岡県が全国1位の生産量を誇っています。それだけ柿づくりに適した土地でもあります。この柿をつかって、健康を維持し、薬にもし、暮らしの必需品として大切に守ってきたことを思うと感慨深いものがあります。

今度の藁葺の家にも柿の木が遺されていますが、柿ができるのを毎年楽しみに待ちたいと思います。子どもたちに、残したい文化を丁寧に甦生されていきたいと思います。

和合の精神

日本には古来より、和合という精神があります。これは二つ以上の性質のものが一つに親和しあって融け合い一体となっている姿の事です。

たとえば、美しい自然の風景の中にある里山での暮らしを眺めているとそれがまるで人間の暮らしが自然と融け合って自然そのもののように観えることがあります。これは人間が自然とは別のものではなく、自然と親和しあって自然の一部と化しているときにそう感じるものです。

他にも、炭火で炭と火が一体になって燃える様子や月の光が海面に映り眩い様子の中にも親和しあって和合していることを感じます。

私たちの先祖は、この「和合」という精神を何よりも重んじで来ました。

現在は、対立概念が優先する世の中になっていてなんでも比較したり白黒つけたり、分類化したりして何かと何かをあえて分けようとする傾向が強いように思います。あっちかこっちかと比べて競い争っているうちに次第に離反しあって離れ離れになっていきました。

本来、循環というものは和合することです。

相反する性質のものをどう上手に和合していくか、例えば発酵などもそうですが漬物や御酒造りに至るまで本来の性質を上手く調和させた技術の御蔭で奇跡のような技を産み出していきます。これらは伝統の技術の数かすの中で今でもはっきりと見出すことができるものばかりです。

日本人は特にこの和合を重んじ、それがモノづくりから人づくり、そして国家づくりにいたるまで活かし続けてきました。

改めて、私たちは原点に帰り自分たちの先祖たちが何千年、何百年の間何をもっとも尊んできたのかを振り返る必要を感じます。私が提案する暮らしの中には、その先人たちの智慧がふんだんに組み込まれ、場には和合の仕組みが働き懐かしいものを思い出す切っ掛けになっています。

伝承は文章や文字で行うものではなく、先人からの暮らしと一体になることで伝承されていくものです。暮らしと一体なっていく、まさにそれもまた暮らしフルネスの境地です。

引き続き、子どもたちの未来のためにも暮らしフルネスの実践と丁寧に紡いでいきたいと思います。

暮らしの幸福論

先週から、暮らしフルネスの体験をしているピザ職人の人と一緒に一円対話を行う機会がありました。今は遠隔でオンラインとオフラインになりますが、振り返りの機会を設定し初心を忘れない場が持てることは素晴らしいことです。

その振り返りの言葉の中でとても印象深いことを聞かせてくれました。例えば、「毎日、毎日最高の日々を刷新していく」「他人軸ではなくて自分軸でいることを感じられる」「感情も心も整っていく」「ここのどの場所でも居心地が善く自分が解放されてく」「感覚が研ぎ澄まされて毎日が充実していく」など発言を聴くとこちらの方も仕合せな気持ちになっていきます。

私は特に研修をしているような自覚があるわけではなく、ただ一緒に暮らしをしているだけです。しかしこの一緒に暮らしをする中で、自然発生的に勝手に幸福を感じられ、自分自身であることの喜びを感じています。

それはきっと私自身もこの暮らしの中で、自分自身を精いっぱいに生きているからかもしれません。そして同時にこの一緒の中には、物や道具、そして環境などのいのちもまた精いっぱいに自分らしくあるからだと私は思います。

私にとっての暮らしの定義は、このいのちが輝いていることであり、それはお互いに尊重し合いながら豊かに仕合せな今を生きることで精いっぱいの喜び、つまりフルネスを生きる幸福に満たされるということなのです。

暮らしフルネスの幸福論を書いてほしいとある人に言われて書いていますが、そもそもこれは文字で伝えることは至難の業です。言葉にすると、もうどうでもいい気がしてきてすべてあるのだから何も言葉にしなくてもいい気持ちになります。

ただ仕合せを感じる今があるということ。

この今に生ききるというのは、一期一会のいのちを輝かせていくということです。そうなってくると、未来も過去も関係なく、他人も世界も関係がない、一切関係がない中にこそもっとも深い全生命との関係があり、まるで細胞の一つが全体と合わさって元氣になっていくようにいのちが丸ごと充実するのです。

表現としてはここいらが限界ですが、鳥の鳴く声、太陽が昇る音、風の揺らめき、光のシャワー、澄んだ空気に温かい影、この感覚のすべての世界が調和と共に暮らしは整っています。

暮らしを見直すことで、人はいのちの本体を見直します。

磨き続けていきたいと思います。

暮らしフルネスのお裾分け

昨日、聴福庵で新婚の記念撮影を行いました。白無垢姿の花嫁と紋付袴の新郎が、懐かしい結婚式の様子を思い出させてくれました。私自身は式場しか知らない世代ですが、むかしはみんな家で結婚式をしていました。

二間続きの部屋が和室に残っているのは、冠婚葬祭をふくめあらゆる記念式はこの場所で行われていたからです。家の中で行う安心感は特別で、いつもの暮らしの場がそのままハレに日に代わり、そのままその家で暮らしが豊かになっていくのを感じ、その場に思い出と仕合せが残っていくからです。

私たちはこの残っているものを福として、それを分けることでさらなる豊かさを積み重ねていくのです。まさにこれが仕合せの本質であり、福の本懐です。こういうのを福分けというのでしょう。

仕合せというのは独り占めするよりも、多くの人たちと分けた方が仕合せが増えていくのです。これは物資的な増減とは反比例し、心の幸せは分けることで増えていきます。

聴福庵では、昨日は親戚にいただいた米粉でピザ職人と一緒に炭竈門でのピザ焼実験をしている最中で昼にはみんなでそれを味わい美味しく食べました。これもお裾分けです。そして長年付き合いのある友人が奥さんとお子さんをはじめて連れてきてくれてお菓子をいただきそれもお裾分けしてみんなでいただきました。さらに、新婚の二人の愛し合う姿をみんなで見守り、一緒に笑い、記念日の幸をいただきました。また室礼のお花も、誕生日の息子たちのものをお借りして家を美しく彩り花の豊かさに満たされました。その夜には息子たちの誕生日のお祝いの食材も、分け合いみんなで美味しくいただきました。

こうやって時を分け、物を分け、愛を分け、福を分ける。

このお裾分けこそ、もっとも仕合せと豊かさの象徴なのです。日本人はむかしからお裾分けし合いながら、豊かさを増やしていきました。暮らしフルネスの中でも、このお裾分けはとても大切な実践の一つになっています。

私がお裾分けするのは、私がお金持ちだからではありません。それにただサービス精神が旺盛なだけではありません。シンプルに、豊かさの本質を磨いているのであり、それが福の正体であることを感得するからなのです。

子どもたちの心に、偉大な先人からの豊かさが文化と共に伝承されていくように福分けの実践を楽しんでいきたいと思います。