三種の神器の本質

日本には「三種の神器」というものがあります。これは日本神話において、天孫降臨の際にアマテラス(天照大神)がニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けた三種類の宝器 であるところの鏡と剣と玉(璽)のことです。詳しい名前は八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三種類を言います。

その一つ一つに物語がありますが、この3つには共通するものがあることに気づきます。それはどれも「磨いてひかるもの」ということです。

古来より、神器は至宝とされてきました。この至宝である理由は、それがいのちの根源であることを知っていたからです。いのちの根源は、魂であり、その魂に対して何をして生きることが宝であるか。

それを子孫たちに伝承するための道具がこの神器の存在であると私は思うのです。

先祖たちは、みんなその神話や物語を通して何をもっとも大切に生きていくべきか。その理念や初心をこの神器の存在によて奥義を伝承していきました。今の日本人たちが徳が磨かれているのは、この先祖の真心、勇気、慈愛をカタチどったものを心にもっていたからです。

そしてこれを「常若」といって永遠に甦生し続けるためには、先祖と同じように徳を磨くしかありません。原石を至宝に仕上げていく責任は、自分にあります。自分の一度きりの人生をこの真心、勇気、慈愛をもって切り拓いていく。その中に、和の心が醸成されていくのです。

徳は、とてもシンプルなものですが現代では徳の意味がわからなくなってきています。以前は当たり前であったことを忘れてしまって、当たり前がわからなくなっていますから徳もまた同様にその時代の人たちが磨き伝承しなければ現代人のようにわからなくなってしまうのは自明の理です。

だからこそこの時代でも、先人たちと同様に先人たちが磨いてきたように徳を積むことで子孫たちはその日本の和の心や生き様や生き方を理解し、この日本人の根底にある養分を吸い上げて本物の日本人になっていきます。

私のやっていることは、とても小さなことですが同時に命を懸ける価値のあるものだと信じています。子どもたちが懐かしい未来を生き、これからも永遠に日本人の徳を持ち続けられるように真心と勇気と慈愛で甦生に取り組んでいきたいと思います。

いのちは囲炉裏に宿る

本日は、宗像環境会議の「徳が循環される共生圏へ ポストコロナの真の豊かさへの日本からの提言」ということで聴福庵で座談会が事前収録されることになりその座長をつとめることになりました。

実はとてもシンプルなことで私たちは自然に素直に耳を傾け、感覚を研ぎ澄ませば徳の偉大な共生圏に存在していることに気づきます。何もしなくても空気があり水があり、太陽があり、いきているいのちがある。

もうそれだけで私たちは真の豊かさの中にあります。こういう当たり前のことをわかることは足るを知る人であり、あるものをちゃんと観て生きる人たちは真の豊かさをもち仕合せを歩んでいます。

人生の喜びや味わいは、私たち人間だけが求めているのではなくこの世のすべてのいのちが平等に与えられているものです。人間はなんでも思い通りになっている気がしていますが、山川草木、そして動物や昆虫までみんないのちの仕合せを謳歌しています。

徳とは何か、きっとお気づきになると思います。

本日は、囲炉裏を囲んでみんなで聴き合います。この囲炉裏というのは、炉を囲んでと書きますがなぜ「裏」と書くのか。内裏などという言葉もあるようにこれは奥深さ、奥ゆかしさに通じているように私は思います。民俗学者の柳田国男は「いろり」は「座る」を意味する「いる(居る)」と、「座る場所」を意味する「い(居)」が合わさった「いるい」といいます。そこに裏が入るのは、その奥に神様が座しているという意味であろうと私は思います。

囲炉裏を囲んで座り、みんなで語り合えばその中に神が宿るということです。

日本人は古来から、大切なことを語り合う時、火(ヒ)に尋ねました。そうやっていのちの仕組みに則り原点回帰したから大切なことを忘れなかったのでしょう。

自然環境は終わりなく変わり続けます、人間はもっと謙虚になって自然から学び直す必要があるように思います。自分を活かしてくださっている存在を忘れずに、子どもたちの懐かしい未来に徳を譲り渡していきたいと思います。

初心の伝承

人は頭で考えてばかりでは正しいか正しくないかという正解ばかりを探していくものです。最初から頭で考えてしまっていたら、頭で考えないことがわからなくなるものです。

例えば、ある人を理解するのに立場や肩書で入ってしまうとその人の初心や目的を理解するよりも手段や方法ばかりに囚われてしまいます。

人は本来、目的があるからそれをやるのであり、その初心が何かがわからなければ本当の意味で頭で考えずに深く味わい理解することができません。何のためにやるのかということを確認せずにいくら頭で考えて予測推察しても本当の理由はわからないことが多いのです。

私は目的を確認するタイプですから、なぜそれを聞くのかと驚かれることがあります。しかし本質を知らなければ、話が進まず、目的や方向性を確かめなければその人が本心から思っていることがわかりません。

常にその人の本質や本心を確認しておけば、相手がもしもブレていても私が話をする中で原点回帰することもできます。お互いにそうやって自分たちがなぜご縁があったのか、ここで一緒にいるのかを確認することは仕合せなことであり、共に助け合い仲間として協力し合う喜びもまた感じ合えるように思います。

現代はスピード社會で、いちいちそんなことを確認する暇などもないのかもしれません。しかし、それは敢えて時間をとってでも確認しないとその目的のずれが時に大きな勘違いをつくり周囲に迷惑をかけてしまうこともあります。まず自分自身が何のために何を信じて取り組んでいるのか、それをブレないこと、そしてともに出会った人とその目的を分かち合うこと、ここからはじめて人と人の深い絆がはじまります。

私はモノに接するときもまた、そのものの徳というか目的に触れて敢えて手間暇をかけて取り組むようにしています。それがその人の初心を思い出し、いつまでもその人のままで本音本心を呼び覚ます切っ掛けにもなるからです。

目指している世の中や、それぞれのご縁の仕合せのために、初心を伝承していきたいと思います。

二つで一つ

この世のあらゆるものは二つが一つになって存在しています。これは対立という意味ではなく、そもそも二つで一つの存在だということです。例えば、「ひかり」であれば光と影によってひかりが出ます。一般的に太陽から放たれている光ではなく、それを透かしてみたり反射したりすれば「ひかり」の存在がわかります。月のひかりは、光ではなく「ひかり」です。

まさにあの二つが一つになっているとき私たちは「ひかり」の方を観ているのです。

これは「いのち」も同じです。

よく顕在意識とか潜在意識とかいいますが、あれも本当は二つが一つになって顕れる「自己意識」というものがあります。半分寝ていて半分起きているような、二人が同時に存在していてそれが一体になって今に生きているという感覚。つまり中今ともいいますが、あるがままの自然体になっているとき無我のときに自己意識となります。

これもまた二つが一つになっているのです。

このようにすべてのものは二つが一つです。火も同様に、燃えている火と、消えていく火があり遠赤外線が放たれ続けるとき「ヒ」が出ます。私たちはその「ヒ」にぬくもりを感じて、「自己意識」や先ほどの「ひかり」を感じます。

むかしの道具を私はよく使いますが、それはみんな同様に二つのものが一つになっているものばかりを使います。つまり、かつての先人たちは常にその本質や本物を観て暮らしを営んでいたのであり、現代のように分析してバラバラにして、知識として分けられたものを本質や本物とは思っていなかったのです。

真実というものは、これも二つが一つになったものです。それを対立構造で分けたことにより、私たちは本質や本当のことがわからなくなりました。発展というのも多様性というのもまた、本来の真実とはかけ離れてきています。

洗練されていくいのちや、シンプルに甦るいのちは、どこか過去の産物や遺跡のようになっています。

子どもたちに、教え込む偏った知識ではなくあるがままの本物や自然の姿、つまりは二つが一つになって存在しているいのちの正体を身近に感じられるような環境を用意して、自然回帰する行く末を見守っていきたいと思います。

プログラミングのはじまり

プログラミングやモノづくりで自動化のことを思い返していると、日本にも古来から自動化されてきた道具や仕組みがたくさんあったことに気づきます。例えば、少し前に見たものでは水車を改造し脱穀・精米・籾摺(もみすり)農作業の動力源がセットになったものがありました。

水のチカラを借りて自動化するシステムです。他にも風力や火力など、あらゆるものを用いて自動化する仕組みをエンジニアたちは考案していきます。コンピューターは電力で自動化できるものです。

人間が人間以外のチカラを上手く活用して、人間の代わりに働くように活用していくという概念。歴史を省みれば、それを発展させていくことで便利な世の中にしていったように思うのです。

私は分散型のブロックチェーンに関わる人間ですから、エネルギーを分散することも工夫しています。一つだけのエネルギーの活用だけでスマートだとはまったく思ってはおらず、ここでは水、ここでは火、ここでは風、ここでは土、ここでは木、ここでは菌、ここでは光など、ありとあらゆるものを効果的に活用しています。

まさにモノづくりの原点や根源のような暮らしを営んでいて、その中で電気はどう活かすのかということを考え続けています。

本来、私たちは便利さということにおいて自動化をしてきましたがそもそもこの地球のエコシステムほど自動化されたものはありません。みんなで共存共栄しながら発展し続けて調和する仕組みの中で働いているのです。

ここには一切の無駄もなく、最高の便利と共生しています。

便利の定義が、人間の狭い個人の世界だけで語られればその便利は地球や全体にとっての不便です。そして個人的な不便さは、実は全体に対しての最大の便利になることもあります。

私たちは何を中心に自動化するか、それをまずよく思案し思想を持ち、そういう人物が本物というモノづくりをするのだと私は信じています。

この「場」の学校において、和と場をつかったモノづくりの粋を楽しみ味わっていきたいと思います。

 

日本博

昨日は、日本博のフィールドワークが無事に開催されました。参加者の方々が、私たちの暮らしフルネスを体験して気づき、本来の日本らしさや日本の素晴らしさを味わい日本人としての生き方を一緒に学び直せたように思います。

思えば、日本人とは何なのか、そういうところから私たちは日本の事をもう一度考え直す必要があるように私は思います。

私にとっての日本人は、いのちに対する思いやりや優しさを持っている存在ということになります。自然との共生をし、周囲を喜ばし、生き物を大切な友人のように思いやり暮らしを営んでいく。

これは日本の神話の中でも似たような話がたくさんあります。

私たちはこの世で単体で存在することなどはありません。当然ですが現在は歪んだ子旬主義の価値観も入ってきていて、自分のことばかりの心配をします。そのうち自分のいのちまでも粗末にしてしまうというありさまです。

本来は、いのちを大切にするというのは自他への思いやりを忘れないでいるということです。自分自身への思いやり、そしてそれを支えてくれているすべての存在への思いやりです。

一人一人みんなが、そうやっていのちを大切にしようと生きていれば自ずからむかしの人たちの暮らし方に近づいていきます。つまりそういう思いやりの生き方が、思いやりの暮らし方になり、働き方をも換えてしまうのです。

現代はそういった意味では、思いやりに欠けてしまうほどにスピードが速まった世の中で、お金で価値を測り、お金の世の中になっていますからどうしても時間的な余裕のなさからいのちについて振り返ることも減ってきています。

日本人はどんな時も、いのちへの配慮は欠かしません。それは和え物や和包丁などを含め、「和」とつくものはいのちや素材に最大限の配慮をしたものです。

私たちの先祖はいのちを守り、いのちを育て、いのちを分け合う大切な仲間として思いやりや優しさを忘れていなかったのです。私はそのような先祖を心から尊敬し、そしてそのような子孫たちを誇りに思います。

日本博で私がもっとも伝えたかったことは、参加者のみなさまの声で表現してくれました。これからも子どもたちの懐かしい未来のために、日々の暮らしをフルネスにしていけるように一緒に取り組んでいきたいと思います。

日本博

今日は、日本博「神宿る島」国際文化芸術プロジェクトのフィールドワークを聴福庵で開催します。この国際文化芸術プロジェクトは、伝統とともに継承されてきた精神と思想を基層にし、さまざまな文化芸術プログラムを通して「日本の心」と「日本の美」を世界に発信していくというものです。

「自然の摂理の中で畏怖の念を抱き、謙虚に向き合いながら森里川海への感謝と祈りを捧げて暮らしを営んできた日本において、古代から育まれてきた “常若(とこわか)”という思想があります。常若とは、自然界ではすべての物質は絶えず循環し、生まれ変わりつづけることで維持されていることから、循環する時間の象徴であり、地球と人類が如何にお互いの生命を維持しつつ、共存すべきかを顕しています。」

この常若は、私の取り組んでいる甦生とほとんど同じ定義です。時代と共にくすんでくる様々なのものを磨き直して今の時代に相応しい価値を顕現させていく。つまり本質や普遍を磨き直して新たにする、温故知新ともいい、徳積ともいいます。

聴福庵という「場」が選定された理由もまた、この同じ目的のために取り組んでいることが共感されたものであり、具体的な姿かたちとして顕現した「暮らしフルネス」の一端を感じていただくことで循環というものの本質を知ることができると私は思います。

また今日の実施内容としては「先人の知恵と暮らしを取り戻すための再生。 時代と共に現代にリノベーションされた 築120年の古民家「聴福庵」。 日々姿を変えていく中で生まれゆく温もりと ゆとりに、古より受け継がれてきた智慧を感じる 古民家での暮らしの中に入り、目には見えない生命の循環と、先人たちの培ってきた生き方を学ぶ。」となっています。

具体的には、朝からいつも通りの暮らしの中で一緒に手入れや磨くことを体験し、鰹節や竈ご飯を炊き、お漬物をつけ食べてその循環の中の智慧と一体になるというものです。

私たちは本来、自然から離れずに暮らしていました。それが自然を喜ばすことであり、私達も喜ぶことであり、それが仕合せというものの正体だと知っていました。自然から離れたことで私たちは循環からも離れ、仕合せからも離れていきました。

一緒に地球で生きていくものどうし、お互いが喜び合うように水をかけあい、土を耕しあい、菌達と発酵し合い、仲睦まじく優しい気持ちで生活を味わい豊穣のいのちを楽しみました。

当たり前であった前提がもう思い出せなくなるほどに崩れてしまった現代ですが、その中でも本来の日本的な暮らし、日本人の生き方を大切にしていくのは「子どもたちの未来のため」であることは私の信条です。

「徳をみんなで磨き合っていくことで子どもが安心して暮らしていける世の中になること。」

それだけが願いであり祈りです。この日本博での私の生き方と暮らし方を伝承していきたいと思います。

 

侘美寂美

日本人には長い年月で醸成されてきた美意識というものがあります。これはその国々の風土と歴史によって美醜の別が顕現してくるものです。それを別の言い方では美学とも言います。

私は古い懐かしいものに触れる機会が多くあるからか、侘びや寂びのようなものに触れるご縁も多くあります。これは一つの日本の美意識ですが、それが何かというものを一言で言うことはできません。

美意識に触れることで自分の中にあるものと触れ合っていく、まさに記憶との連結であり、懐かしい何かがそれを美しいと感じさせるのです。それは例えば、ものの形状や書、詩や風景、音律、もしくは生き方にまで至ります。

どの切り口からも侘びや寂びを語ることができ、その時、私たちは自分の深淵にある民族の感性や感覚、魂がその美意識と語り合っているということです。

鈴木大拙氏がこのように侘び寂びを表現しています。

「わびの真意は「貧困」、すなわち消極的にいえば「時流の社会のうちに、またそれと一緒に、おらぬ」ということである。貧しいということ、すなわち世間的な事物(冨・力・名)に頼っていないこと、しかも、その人の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、最高の価値をもつものの存在を感じること、これがわびを本質的に組成するものである。」

「美とはかならずしも形の完全を指していうのではない。この不完全どころか醜というべき形のなかに、美を体現することが日本の美術家の得意の妙技の一つである。この不完全の美に古色や古拙味(原始的無骨さ)が伴えば、日本の鑑賞家が賞美するところのさびがあらわれる。古色と原始性とは現実味ではないかも知れぬ。美術品が表面的にでも史的時代感を示せば、そこにさびが存する。さびは鄙びた無虚飾や古拙な不完全に存する、見た目の単純さや無造作な仕事ぶりに存する、豊富な歴史的な連想(かならずしも現存しなくてもよい)に存する、そして最後にそれはくだんの事物を芸術的作品の程度に引き上げるところの説明しがたき要素を含んでいる。」

侘びや寂びとは、本来の洗練された価値のままであることだと私は思います。自然のもつ素朴さの中にこそ真実の美がある。つまり自然の美こそが美の至宝であると実感していると思うのです。

自然は葉っぱ一枚、生物の姿かたち一つがまさに芸術そのものです。複雑にみえてその実は大変に洗練されたシンプルさがあります。素朴にシンプルが観えるということは、この侘びや寂びもまた観えているということだと私は思います。

私のブログの文章は思いつきで書いていますから長いしシンプルではありません。しかし何度も何度も真理を見つめ心と対話し磨き続けていけばいつの日か大変シンプルなものになる日も来るかもしれません。そんな侘美や寂美を楽しみ味わいながら歩む人生もまた美意識の一つかもしれません。

子どもたちに譲り遺していきたい生き方を実践していきたいと思います。

保育とは

私は思い返すと約20年間「保育」ということを学び、それを稼業にしてきました。直接的に子どもを保育園で保育するのではなく、保育をしようとする人たちの「場」を見守り支えてきたとも言えます。私にとっての今の暮らしフルネスは、この保育を探求し磨き高めてきたことの集大成だとも言えます。

それを少し整理してみたいと思います。

そもそも「保育」とは何かということを考えると、私は「いのちを見守る仕組み」であると定義しています。例えば、その一つは発達を保障することです。いのちはみんな発達しようとします。その発達をしたいという主体的な成長を邪魔しなければ生きものたちは最適な環境を求めて自由に伸び伸びと育っていきます。

無理に育てようとしたり、環境を抑制したり、発達段階を無視するように何かを仕込んだりやってあげたらそのいのち本来の発達が阻害されていきます。もっとも大切なのは、何かをやってあげるのではなく見守ることです。

そしてその保育の質とは何かというと、私は暮らしの質のことを言います。

つまり日々の暮らしの質が高ければ高いほどに、保育の質もまた高いということです。この時の暮らしは、単なる日常生活をいうのではなく学びの質が高いということです。言い換えれば、日々が豊かに充実しているということです。

私たち人間は、人間関係を通して人生を磨き合う生き物です。日々のご縁を味わい如何に学び成長していくか。ありとあらゆる感覚が研ぎ澄まされ、日々の一期一会の中で健やかに成長していきます。心と体と感情などのバランスを整えながら、社會の中で一人の自分を謳歌していきます。

一人ひとりの子どもたちが安心して暮らしていける社會をみんなで築き上げることができれば、仕合せな世の中にしていけるように思います。私たち人間を含め、あらゆる生きものたちはこのような伝承のバトンをつなぎながら仕合せの輪を結んでいきます。

暮らしがフルネス(充実する)というのは、心が豊かで仕合せに暮らしていくということです。私たち大人がどのように子どもたちを見守るか、その見守り合う世の中が保育の質を一層高めていくと思います。

子どもは宝。

これからも保育を高め、磨き続けていきたいと思います。

徳積堂 

世界にカフェがあるように、日本にも古来からカフェの役割を果たしていたところがあります。それを御堂ともいい、茶堂ともいいます。

むかしよく時代劇などを見ていたら、村の小高い場所や、みんなの集まりやすい場所にはお寺やお堂があります。そして峠や辻などの境界には茶堂があります。

四国はお遍路さんがあったので多いといいますが、その建築物は茅葺の小さな建物でその三面に壁がなく、いつでも誰でもどこからでも上がれるようになっています。ここには、 村人たちの憩いの場であり、通行人や旅人、商人たち、あらゆる人々が村人からお茶などのおもてなしをうけたり情報交換をした憩いの場であったといいます。

禅語で有名な「喫茶去」がありますが、これはいつでも、どこでも、誰にでも同じ心でお茶を点てることを意味するそうです。つまり「特別なことをしようと思わず、いつも通りに平常心にお茶を点てることが大切である」ことを説いているといいます。

穏やかな心で、いつも通りにお茶を点てることでみんなが安心するのです。

私は茶堂や御堂は、いつも心を開いて平等に分け隔てなく刷り込みなどもなく「いのちそのもの」を尊重し合う信頼の場ではないかと感じています。

お茶の接待を受けるということは、裏表のない真心でお茶を点てるということです。そしてそれはご縁を大切に一期一会で巡り合えた奇跡に感謝し合うことでもあります。

私たちは少しでも時間や場や関係がズレればお会いすることはありません。このブログもまた、御縁がなければ目に留まることもありません。それだけご縁は縁尋奇妙であり、そのご縁の仕合せを私たちは全身で味わうことができるのです。それを一杯の差し出したお湯やお水でというのが根源的なつながりを直観させるように思います。

仏教には、山川草木悉皆成仏という言葉があります。この世のありとあらゆるものは、仏そのものであるということをいいます。そして神道には、八百万の神々といってこの世のすべては神様であるともいいます。つまりは、分け隔てなく遍くものをあるがままに認め合う世の中を創造しそれぞれのいのちを自然のままによろこばすこと。

私は「かんながらの道」とも言いますがこれを実感することで人は大切な懐かしい何かにふと気づくように思います。そして「徳」もまたこの普遍の真理そのものを顕していると私は思います。

これから新たに開く伝統の「徳積堂(とくつみどう)」では、同じ祈りを生きる人たちと共に、かつての御堂や茶堂を今の時代に復古起新して子どもたちにそのご縁を伝承していきたいと思います。

時代のターンテーブルのようにここから新たな懐かしい未来のクニづくりがはじまります。