五徳の場

私はよく火鉢を用いて火を熾しますがその中に「五徳」というものがあります。現代の人はあまり見かけることがないと思いますが、鉄瓶や鍋などをのせてお湯を温めたり料理をする際に用いるものです。

その形状が〇に足がついたもの、それが逆さになって爪のようなものが3本~5本くらいついたもの、色々とありますがとても五徳という名前になるようには思えないのです。

そこで少しこの五徳について調べてみました。

まず、山田宗徧という方が書き記したの「茶道要録(ちゃどうようろく)」に仏書にある自在徳、熾盛徳、端厳徳、名称徳、吉祥徳、尊貴徳の六徳があり、その自在徳を除いたことで五徳を由来とするとあります。

この自在徳というのを除く理由は、この五徳という直接火鉢や囲炉裏の中においてある五徳では重たいものや重心のバランスが取れない、火加減を調整するのが難しいなどがあり自在鉤というものが発案されたことからだそうです。

この自在鉤というのは、ひょっとしたらどこかの田舎の古民家で見かけたことがあるかもしれませんが天井から鉄棒や竹などを吊るし鉤のところに鍋などを引っかけて上下に調整して使うものです。五徳を使わないところではこの自在鉤がありますから、本来の六徳であったものの一つを取り除いたから五徳となったということです。

そもそも私はサウナをつくった時にも感じましたが、茶室の源流は仏教にあると確信しています。また五行の徳といって算命学では万物は五行(木・火・土・金・水)で成り立っていると信じられてきています。具体的には、木が福、火が寿、土が禄、金が官、水が印です。順に行けば、幸福、寿命、財、名誉、智慧です。この5つの徳を調和させ一度に活かす場所、それが囲炉裏であり火鉢なのです。

私は日々に火を熾してその徳を磨き、徳を高める実践をしますからこの五徳は常に意識しています。そう考えると、むかしの人たちはこの囲炉裏や火鉢によって心を整え、五徳、もしくは六徳を実践してきたのです。

今回、新たに手掛ける徳積堂はこの五徳と火鉢が茶堂の中心に据え置かれます。千利休がもしも生きていたら、この世の中の心の荒みをみてどうするだろうか。私は千利休ではありませんがきっと私のやっていることに深く共感してくれるのではないかとも信じています。

引き続き、暮らしフルネスの中心にこの五徳があることを念じ、徳積の活動を真摯に取り組んでいきたいと思います。

暮らしフルネスの本当の価値

現在、働き方改革でオフィスをなくしていく会社が増えています。そもそもこのオフィスとは何か、オフィスをなくすとは何か、深める必要があると私は思います。私たち日本人は古来から、職住一体型の生き方をしてきた民族です。暮らしの中に働くことがあり、私たちは仕事のために働くのではなく暮らしの一部として働いていました。

オフィスがはじまりサラリーマンになり、なんとなく会社に行き仕事をして給料をもらうことが目的のようになっていますが本来はみんなで協力して楽しく豊かに稼ぎ暮らし通して世界人類をはじめ自然と共生してみんなが仕合せになるために働きました。

改めて少しこの辺を整理してみたいと思います。

例えば、私たちは小さいころから学校というものに通いはじめ学校で勉強を教わってきました。しかし学校を卒業したらそれまで義務教育のように誰かが教えてくれる環境や管理される環境がなくなりますから自分で学問を深めていく必要が出てきます。

私も最初に学校というところを卒業してから、それまでの学びと実社会に出てからの学びが全く別物であることを実感しました。勉強をするのではなく、学問を深める。言い換えれば、手段としての勉強ではなく目的としての学問、つまりは道に入るために道を見出し、道を歩み、道に達するための学び方に換わってくるのです。

そうすると、1週間で2日が休みだから何もしないとか、夏休みだから仕事をしないとかそういうレベルの話ではなくなります。このブログのように日々に休むこともなく、道を探求して歩みを続けていくのです。それは学問を楽しみ味わい、一度しかない人生に導かれながら道を切り拓いていくという生き方と暮らし方に転換されていくのです。

そうやって日々の暮らし方が換わっていくとすべての日々の仕事は「ライフワーク(天職)」になりそして人生の目的は「ライトワーク(魂を磨く)」ことになります。そして真の自己の人生そのものを真摯に歩むこと自体が丸ごと世の中のみんなの仕合せそのものつながっていくという境地に入るのです。

そうすると日々は常に学びそのものであり、暮らしはすべて感謝そのものに換わっていきます。学校にいくから学ぶのではなく、学ぶ場のすべてが学校になるのです。つまり自分のいる「場」が人生の道場と化すのです。

私が言うオフィスをなくすというのはこのことに似ています。つまりオフィスをなくすというのは、それまでの仕事をやめて暮らしそのものにするということです。暮らしを豊かに仕合せにすること、暮らしフルネスともいいますがそこは自他一体、すべて分かれているものがない一円合一されている状態になっているということです。

自分の日々の生き方がまさに働き方になり、それが暮らし方として世の中を仕合せにする=暮らしフルネスなのです。これは人類が本来あるべき理想の姿であり、私たちは協力して自律し合ってはじめて暮らしを整えて共存共栄してここまで助け合って生きた存在なのです。

オフィスがあるから大切なことに気づかないのなら、一度思い切ってオフィスをなくしてみればわかります。そしてなくしたオフィスの代わりに何をはじめるのか、何が変わるのか、それを具体的に私がカタチにしたのが「暮らしフルネス」なのです。私と一緒に体験をすれば私の存在から何かを感じ取れると思います。天人合一や真の自己、そして神人一体は生き方と働き方の一致、暮らしの革命によって実現するからです。

何かをやめてみてはじめてそれが何だったのか、必要だったのかがわかります。みんな始める勇気が必要なようにやめる勇気も必要なのです。何をやめることで何がはじまるのか、オフィスをやめれば何がはじまるのか。

私はそれを子どもたちの未来のために、勇気を出していち早く実践してきましたから今のコロナ禍が転じて福になってきているのを実感します。世界人類の仕合せな未来のためにここから一石を投じていきたいと思います。

学問の醍醐味~失敗という自信~

人間は失敗することで自信をつけていくものです。失敗すると自信を失うというのが普通ですが、長い時間をかけて物事を観れば実はそれが自信そのもになっているように思うのです。

私は、何をするのにも最初に結構な失敗ばかりをします。その失敗は、何かを壊してしまったり、何かを失ったり、不本意で不注意からか、または知らなかったからということで初歩的なミスをしてしまいます。

修復できると信じてはいても、その時はできないと思ってしまい心を痛めます。特に人間関係などもかなりの失意があり、なぜそうなったのかと何度も反省をしては後悔することもあります。

しかしそこまでいくと、きっと人間塞翁が馬ではないかと開き直り時間をかけてじっくりと修復のために努力をしつづけていきます。すると、そのうち修復や修繕をされたり、かつての失敗からの教訓が活かされてきてその後の大切な場面場面で過去の失敗に救われることになるのです。

そうしていると、失敗が大きな自信になり、自分自身が諦めずに信じぬき挑戦するための下支えになっていることに気づくのです。つまりは、基礎を固めていく時間であったかのようにその後の上物の建物を盤石にするための醸成期間であったと実感するのです。

このことからも私たちは如何に目のまえの目先のことに囚われやすいかということにも気づきます。人生を全体で総括りするとき、本当は何だったのか、それを知ることで、自分の人生の意味づけを行っていくのです。

その意味づけが、まさにその人の目的であり、それを味わい、魂を磨こうとしてその物語とのご縁が生まれてつながっていくのです。

だからこそ失敗とは何か、そして真の成長とは何か、自信とは何を意味するものなのかを学ぶのでしょう。学問の醍醐味は、これらのプロセスを通して自分自身という存在と徳性を高めていくことです。

子どもたちに日本民族のお手本としての生き方が遺し譲れるように、引き続き学問を楽しみその妙味を伝承していきたいと思います。

月への信仰

昨日は、里芋の収穫をしてみんなでお味噌汁にいれて食べました。とても美味しく、心も体にも沁みわたりました。もともと里芋は、むかしから私たち日本人が食べていた主食であり稲が入るまではずっと私たちの暮らしを支えてくれていたものです。

自然農の畑でしっかりと順応して野性味が溢れる味わいは、他の雑草たちに負けじと一生懸命に生きたいのちがずっしりと入っています。

昨夜は月明かりがとても眩く、目が覚めてしまいましたがこの里芋を収穫する時期の月を「芋名月(いもめいげつ)」といい、むかしから里芋を月にお祀りしていた風習があります。十五夜は芋を供え、十三夜には栗、または大豆を供えます。なので十三夜は栗名月、豆名月ともいわれます。

里芋の収穫儀礼は懐かしく、今の稲のように収穫を祝い祈りそれぞれが月に信仰していたのでしょう。この月の信仰においては、私たちはかぐや姫の名前を社名にしているのもありとても深い関係があります。

そもそも日本人がの月の信仰は縄文時代よりもずっと前からはじまっているもので特に縄文時代の人々は自然に宿る精霊と共に暮らし、月は月の満ち欠けによる潮の干満や、女性の月経周期が月とも関係していることから月は自然神の象徴として信仰していたといいます。満月の明かりでお祀りをしていたことが遺跡などからも見つかっています。

日本は、太陽と月、そして天津神、国津神、天孫族や出雲族のように別の2種類の民族が相調和しあい交互に交流してこの国を守り続けてきました。そして長い間混ざり合わさって助け合って今の私たちがあります。

太陽の時代があれば月の時代もあり、本来は太陽と月は昼と夜、天照と月詠が交互に守り合う世界ですから対立しているのではなく調和している存在です。

太陽には太陽への信仰の行事があるように、月には月への信仰があります。現在は、太陽が強く太陽ばかりを信仰することで明々として目に入る眩い光ばかりを照らす世の中になっています。

しかし月は、陰を映す存在であり、薄明かりの中で照らされる徳を顕現する世の中です。私はこの月を深く信じる生き方をしており、月のもつ陰徳を信仰しています。その象徴として、かぐや姫の物語を社名にしており、ロゴマークも月、そして実践は徳積みが中心、さらには行事などもお米作りや発酵、炭を用い、お餅を搗きお供えなどもします。

西洋人は月に対してはあまりいいイメージはありません。死の対象であったり狼男などが出るともいいます。私たち日本人は、月は神様であり、美しく澄んだ光をはなつ月詠、もしくは輝夜姫です。

この時期は、私にとっても特別に月を愛でて味わい月と共に暮らしを楽しむ季節です。子どもたちにもこの月の存在がいつまでも心の徳を照らし続けてくれるように古来からの月への信仰の行事も甦生させていきたいと思います。

人生の目的

人生の目的というものがあります。これは全人類の目的のことであり、人は何のために生まれてきたのかという深い問いのことです。

これは人によって別の答えがあるように感じていますが、実際にはどの人も最終的には同じ目的を共有するように思います。況や、本来すべての生き物たちは同じ目的を持っているともいえるのです。

しかしその目的は、空気や水、太陽のようにあまりにも当たり前に存在するものですから改めて議論されることがありません。それに人間は、枝葉などの細部は言葉で認識できていても宇宙のような偉大な存在のことはなかなか認識することができないのです。

目的も同様に、偉大な存在ゆえに、当たり前であるゆえになかなか理解されていないところであろうと思います。

敢えて言葉にすると私は人生の目的は何かといえば、魂を磨くことであろうと思います。どのいのちもすべては魂を磨くことに向かっているのは、自然界を観ていれば自明するものです。そしてそれは「ただ磨くのみ」なのです。無目的に見えるそのただ磨くということの中にこそ、本来の目的があるということ。

無目的の中に目的があるというと、何を言うのかと思われるかもしれませんが目的の本質は大宇宙や自然の運行と同様に調和しているのです。調和するからこそ、磨く必要がある。

つまり、私たちは大きな円の中でいのちを巡らせている存在あり常に魂はその中のご縁を縦横無尽につなぎあっています。そして互いにその場その時にふれあい磨き合い、また新たな調和を産み出します。

最初から永遠であり、終わりもない永久無限の存在とも言えます。

だからこそ「ただ磨くのみ」なのです。

私の思う徳の本体とはこれのことです。いつの日か、科学がある一定のレベルを超えて磨かれその本質を顕現するとき、必ず私はこの人生の目的にたどり着くように思います。そしてそれは磨ききり洗練されたとき、生き方の中から出てくるものであろうとも思います。

子どもたちにどのような生き方を遺していけるか、心の中にあるこの存在を人々の魂に伝承しつつ、磨き合いを楽しんでいきたいと思います。

変化の本質

時の書と呼ばれるものに中国の「易経」があります。時の変化と兆しをよく読み、何をすべきかを記しています。時というものに注目し、変化というものがなぜ起きるのか、それを突き詰めて追及したものではないかと私は思います。

私も自然農の実践者ですが、常に風を感じて時を読みます。なぜなら種蒔きの時機や収穫の時を間違えないようにするためです。どんなに何度も種を蒔いても、育たない時機に蒔いても芽は出ることはありません。常に天の運行や大地の状態、そして風向きや気候をよく観察していなければ自然の変化に合わせて行動していくことができないからです。

自然は常に「兆し」を知らせるのであり、私はその兆しをよく観察して自分の行動を決めています。兆しはどのような時に、発生するのか、それを易経を紹介しながら少し私なりの直観の整理をします。

「窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ず」

これはなんでもそうですが、変化は常に振り子のように左右に、もしくは砂時計のように上下に振れます。陰に極まれば陽になり、陽に極まれば陰になる。世の中がもっとも暗い時には明るい方へと移動し、その逆もまた然りです。

自然は常にバランスを保つことが真理ですから、絶望の果てに希望があり、希望がまた絶望を呼びます。一見、終わりだと思っている最中にこそ始まりがあり、始まりの時こそ終わりが出てくるのです。

変化に調和する人は、その状況をよく観察して道を拓いていくのです。

「君子豹変す。小人は面を革む」

これは、リーダーは変化に合わせて自分を素早く的確に適応させていきます。そのためには、居心地のよい場所を瞬時に離れてでも危険に身を晒してでもその変化の兆しに適応していく方を優先させます。この豹変とは、大切なものを守るために変化に合わせるということです。大切なものを守るのか、それとも自分を守るのか。大切なものは何かを知っているからこそ、そのために変化するのです。その反対に、変化を恐れる人は表面上の変化だけはしますが本質的には変化はしません。理由は、変化そのものを怖がっているからです。

実は時が変化しているとき、不安なのは自分も一緒に変化していないことに気づいているからです。変化している最中は、自分も一緒に変化しているからこそ不安や恐れはなくなります。変わっているのを本能的に知っていながらもいつまでも変わろうとはしないで、変わろうとしているふりをする。自分を守るために周りを変化させるのか、それとも自分から変化に合わせて自分を変化させるのか。

これは自然を相手に自分をコントロールするか、自分の都合で自然をコントロールするかと同じ話です。

どうにもならない大きな変化、つまり災害級の時の変化が来ている時にそれをなんとかしようとするのは小さな存在の私たちには不可能です。自然への畏敬や畏怖があるからこそ、君子は豹変すると私は思います。

最後に、

「積善の家には必ず余慶あり」

日々の暮らしの中で、小さな徳を磨き続ける人は必ず善を積み続けています。そういう家は、不思議な余慶や恩恵をいただきます。これは自然の他力をいただくことに似ています。種を蒔けば、自然に太陽の恵み、雨の恵み、風の恵み、土の発酵、いのちの調和による見守り、あらゆる恩恵をいたきながらすくすくと育っていきます。

これは種だけで育ったわけではなく、その種を活かそう、その種を見守ろうといった大自然の徳が働くからです。自然を敵視する人や自分の都合ばかりを優先して全体快適でない生き方をする人はこの余慶があまり入ってきません。自分でできることがわずかしかないと本当の自己を直視することができれば、如何に自分の徳を磨いていくかということに正対するはずです。

日々は善を積み徳を磨くための大切な機会です。

時を歩む人たちはみんな、同じ法則や真理をもって道を拓いていきます。これからの子どもたち、子孫のことを思えば思うのほどにその大切さが身に沁みます。引き続き、今、ここで脚下の実践を楽しみたいと思います。

暮らし方改革~暮らしフルネス~

最近、働き方改革という言葉が当たり前に聴かれます。しかし実際に働き方を換えているといっても、時短になったり、場所が変わったりするくらいでそれを改革とは言わないように私は思います。

そもそも改革というのは、それまでの意識が完全に別のものに入れ替わるほどの大きなイノベーションが発生したということです。それは言い換えれば、生き方が完全に別の何かに換わってしまうということです。

働き方改革が生き方改革であるのは、そのことから言えます。生き方が変われば、当然一緒に働き方も変わっていきます。それが生き方と働き方の一致であり、人生観が変わってしまい新しい人生がはじまったというくらいの変革が発生するということです。

例えば、人生観が変わるというのはどういうときか。

それは死にかけるような大病や事故、生死を分かつようなギリギリの体験をしたり、厳しい修行により悟るような体験をしたり、それまで信じてきたことがひっくり返るようなことに出会ったりしたときにも人生観が変わる人がいます。

この人生観が変わるとは、ある体験によってそれまでの生き方とは別の生き方を知り、その生き方に換わるということです。生き方改革とは人生改革ですから、それまでの人生とは決別し新しい人生を生きるようになるということです。

そしてその新しい人生を生きることを、暮らしが変わると私は定義しています。世の中でいうところの暮らしは、なんとなく生き方も働き方も変わらずにただ単に日ごろの生活の何かを少しオプション的に足したという具合のものです。道具が変わったり、衣食住を少し変えたくらいで暮らし方改革とかいったりします。

現代の便利な世の中で、なんでも大量生産大量消費の都市化された社会の中でいくら暮らしを換えたといっても変わったのはお金の使い方と時間の使い方くらいです。使い方改革という言葉がありませんから、使い方はたいして問題ではないということでしょう。

本来、暮らし方改革というのは別の人生を歩むと決めたときの副産物として日々の生活のあらゆるものが変わるということ。私に言わせれば、機械的な生活から生命的な生活へくらいの変化があったということです。

私の提案する「暮らしフルネス」はそれを実現するものなのです。

まだ言葉では伝わらないところも多いので、実践現場での体験や研修によって気づきを与えて変化を掴んでもらうしかない状態ですがそのうちこれがコロナの御蔭で新しい常識になっていくことを確信しています。

子どもたちの未来のために、暮らし方改革を実践していきたいと思います。

お堂の甦生~徳積堂~

徳積カフェの建築が進む中で、この場の名前を復古起新しています。現在、深めているものは「お堂」です。この堂という字は、会意兼形声文字です(尚(尙)+土)。「神の気配の象形と屋内で祈る象形」でできた字です。意味は「こい願う」と「土地の神を祭る為に柱状に固めた土」を現します。

そこから、「高い建物・神社・寺院」を意味する「堂」という漢字ができたといいます。この堂は、 古く接客や礼式などに用いた建物。表御殿。表座敷。そして神仏を祭る建物。さらには多くの人が集まる建物で呼ばれました。

この堂というと、イメージするのが三十三間堂や、平等院鳳凰堂、他にも大聖堂など神仏をお祀りするところを思い浮かべます。ひょっとすると現代では、お菓子屋さんの名前や広告代理店の名前、本屋さんとかいう人もいるかもしれません。

しかしかつては、辻堂やお堂といって村々や町の中でみんなが集まり親睦やコミュニティを育むオープンな交流拠点であったのです。他にも、山伏たちが休む室堂であったり、茶堂といって茅葺でできた旅往く人たちをもてなしたものもあります。日本には古来から人々をもてなす風土信仰があり、その風土信仰を支えた場の一つがお堂だったのです。

つまりはこの「堂」の持つ意味を考えてみると、読んで字の如くその「土地の風土と信仰と交流を見守る大切な場所」ということでしょう。なんとなくお堂が温かく懐かしい感じがするのは、お堂が地域を支えてきたことを心が憶えているからでしょう。

今では、西洋的なカフェがその役目を果たすようになってきていますが本来は「お堂」であったことは歴史に学べば自明します。私は、徳を伝承していくことに精進していますからこのお堂の甦生は大切な使命の一つです。

今回、徳積カフェが完成し、徳積堂として甦生することがとても楽しみです。

最後に、堂で有名な言葉に「堂に入る」があります。

これは論語の中で、孔子のいう「堂に升りて(のぼりて)室に入らず」が語源ですが堂に入るは「堂に升りて室に入る」を略した言い方で、客間にのぼり奥の間にまで入っていることから、奥義まできわめていることを表します。

徳積みの修業はまだまだはじまったばかりで終わりは永遠にありません。なぜならこれは人類の欠かせない修業であり、未来永劫子孫たちが担っていく大切な徳目だからです。

人々が子孫のためにみんなで堂に入るために磨いていく場。

まさに徳積堂は、子どもたちの未来のためにも欠かせない大切な徳の場になっていくと確信し、懐かしい未来が到来することを心から祈念しています。

徳積上棟式

昨日は、徳積カフェ建築の上棟式を無事に執り行うことができました。棟梁と家主が中心に、関係者で真心を籠めて進めていきました。祝詞をあげ、御祓いをし、祭壇を設けて塩、米、酒、小魚で四方を祀り拝みました。

この上棟式(じょうとうしき)というものは古くから木造建築の棟木を上げる時にその守護神を祭って、末永く新しく建てた家に禍いがなく、幸多かることを祈願して執り行うものとされてきました。木造建築にいのちを宿す極めて重要な意義を持っていたといわれます。

古来の人々は、すべてにいのちが宿ると信じていましたから一つ一つに大切な儀式があり、その儀式を通していのちが損なわれないようにと接してきたのです。

儀式をしながら地鎮祭をしたころのことも思い出し、ようやくここまで来たかという思いです。完成した後というのは傍目ではわかりませんが、実はそこまでは一つ一つのプロセスを少しも手を抜かず丹誠を籠めて大切に取り組みます。

その一つ一つの思い出の中に、真心は籠り、その後の「場」が醸成されていくのです。何を基本とするか、何を基礎とするか、建物も同じですが基礎がしっかりしておけばその後の建物は盤石であるように、最初のプロセスを丁寧に通っていくことが私は何よりも重要であると感じています。

さて話を上棟式に戻しますが、昨日はちょうど暦の十二直の「定(さだん)」という建築の上棟式に相応しい日に執り行いました。この十二直(じゅうにちょく)とは、中国で誕生した北斗七星の運行をもとに創られた暦(日時や季節をはかるもの)のことです。

よく六曜といって、大安や仏滅などで葬式や結婚式などの日時を決める暦もあります。もともと中国では甲骨文字でもわかるように、亀の甲羅とかで吉凶を占ってきた歴史があります。中国は歴史が長く、あらゆる経験を積み重ねてその経験値の智慧を取り入れてきました。それは漢方や、暦にも使われています。

星占いなどもありますが、天の運行に従ってこれをするタイミングを見計らうために経験を暦で記録したのではないかと私は思います。農家も同様に、ある意味で天候に対して占いをしているようなものでどの時期に種蒔きをするか、いつのタイミングがもっとも根をはるか、雨を占いながら執り行いますから似ているものがあります。

十二直は特に、北斗七星といった不動の目印を参考にタイミングを計りますから時機を見計らうのに効果的だったように思います。この北斗七星の回転を12等分し北極星に対してどの位置にあるかで時間や日・季節を表すために作られたのが十二直ということです。

十二直は、建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉からなり、昨日は「定(さだん)」の日でした。jこの日は、物事が定まる日、善悪が決まる日といわれ結婚、移転、建築、開店、種まきに吉。ただし、訴訟、旅行、植木の植え替えは凶。とされてきました。

物事が定まるというのは方針を決め、覚悟したとも言えます。

徳を積むことで運営していく、徳を中心に実践をする場と定めたとも言えます。改めて、このような場がこの時代に創生できたことにご縁の導きと仕合せを感じます。前人未踏の挑戦を続けますが、あらゆる天の運行にお任せしながら丁寧な暮らしを紡いでいきたいと思います。

 

徳法一致

現在、世界の国々では徳治国家か法治国家の間で様々な政策が検討されています。しかしそもそもこの徳治や法治というものは、本来は目的であるものが手段に入れ替わり、今では別の意味で使われていることがほとんどです。

そもそも徳や法そのものが、思いやりからのものであるのならそこに使われる手段もまた思いやりに満ちたものです。しかしそれがネガティブで疑心暗鬼のものならその徳や法もまた別の意味に挿げ替えられるのです。

人間は、自己中心的な生き物です。

自己を中心として、善悪を決め、そして自分が正しいかどうかの基準を自分の都合で入れ替えていきます。それは歴史が証明しているものであり、現在の国家間のいざこざも冷静に分析すればそれがすぐにわかります。

例えば、人類共通の徳というものがあるとしたらあらゆるいのちへの思いやりです。一緒にこの世に生きているもの同士であるからこそ、相手のいのちもまた自分のいのちの一部と捉え大切に慈しみ接していくこと。自然界の生き物たちはまさに徳治の本質です。

自らで律し、自らが共生するために協力し合う社會を育てることが本来の徳であり治まるということでしょう。そういう意味では、徳や法は外側にあるものではなく人間力といったそれぞれの内面の中に磨いていくものであるのです。

一人一人がみんな自己の中にある欲望や自利的なものを治め、バランスを崩さないように暮らしていくこと。言うなれば自然にかかわり自然との共生に力を貸し、その利子分だけでみんなで分け合い賄うというシンプルな暮らしが徳治であるともいえます。

法治からみた徳治、徳治から見た法治というような対立概念ではなく、徳法一致の全体調和を目指すことこそ、原点回帰であり人類の末永く発展できる未来ではないかと私は感じます。

そのためには、徳法一致する仕組みが現在に必要でそこにブロックチェーンの仕組みが活かせるのではないかと私は信じているのです。

子どもたちのためにも、徳積の智慧を用い時代に挑戦してみたいと思います。