自然から学ぶ

人は、書物や文字から物事を学ぶ前は何をもって学んでいたか。それは自然から学んだというのは明白な真実です。自然から学ぶというのは、野生であることを意味し、野生は自然と溶け込み合いながら真実を知り、それを実生活に活かしていくのです。

これを日本の風土を暮らしにまで昇華したものが私たちの親祖であり先祖たちです。その暮らしは日本の自然風土に適っており、随所に瑞々しく初心で純粋、好奇心に溢れた子どものような素直な感性を保持しています。

日本の学問の基本や原点はこの自然から派生したものであるのも事実です。

私は、自然農、古民家で伝統的な暮らし、人類の保育環境を整える仕事をし、かんながらの道を実践するものですがそのすべては自然と向き合って歩んでいく日々です。それは自然と中和するなかに本物の私があり、そして時があり、場があり、縁があります。

孔子も釈迦も聖人と呼ばれる方々はみんな共通して自然から学びました。時代が変わってもその本質は変わることはありません。常に自然を観照して自分を内省することの繰り返しによってはじめて道理に適う徳福一致の境地を得らるように思います。

江戸時代の儒学者の佐藤一斎があります。この人物は岩村藩家老の佐藤信由を父に江戸藩邸で生まれた方で朱子学や陽明学に通じていました。幕府の学問所「昌平黌」の儒官(大学学長)を務めてその門人には近代の日本に大きな影響を与えた佐久間象山や横井小楠、渡辺崋山らがおり、その象山の教えを吉田松陰や勝海舟、坂本龍馬が受けたといいます。

その佐藤一斎が書き記した「言志四禄」があります。そこにこの自然から学ぶことの意味が記されます。

「太上は天を師とし、其の次は人を師とし、其の次は経を師とす」

これは意訳ですが(人間の最上の学び方というものは本来、大自然の森羅万象を先生として天地すべてを学びとろうとすることが何よりも大切なのです。人間や書物から学ぶことも大事なことですが大自然を直接の師として教えを乞うのが、真理を体得できる最高の学び方なのです。)といいます。

あくまで人や本は二の次であり、まずは天地自然の道理、つまり自然から学ぶことだといいます。これは人間だけに限らず、すべての動物、植物、虫や菌類にいたるまでみんなこの大自然を先生にして学び続けて生きています。その真理を決して忘れず傲慢にならず、自然と共生するままに子どもたちに真実の学びを伝承していきたいと思います。

伝統的日本人

倫理法人会の創始者、丸山敏雄氏は日本の伝統的な智慧を実践に結びつけているように思います。本来、日本人の親祖や先祖がどのように暮らしを立てたか、私たちは別に西洋や海外のからの暮らしを取り入れなくても、原点的というか、本来的にもっとも純粋に取り組んでいた何億年も何千年もの間、培われてきた「智慧」を受け継いできました。

今こそ、本来の「智慧」に回帰して暮らし方を換える必要があります。そしてそれを時代の言葉に置き換えて翻訳をする伝承者がいます。まさに丸山敏雄氏も一つ前の時代の伝統的日本人だったように思います。

その丸山敏雄氏が、解き明かした日本人の真理と知恵を倫理法人会の資料から抜粋して紹介します。

イ. 全一統体の原理
世の中のすべてのものは、物も人もただ一つの生物でもあるかのように、一つに統(す)べられている。その一は幽なる純一界であり、人間の五感にとらえられるこの現象界は顕界である。つまり形のあらわれた顕界のもろもろは、幽なる超経験的世界に統一されているとする。これは歴史的には天御中主神およびその他の神々の働きから把握されたもので、地球的、空間的には世界のすべての存在物に対する体験的把握に基づいている。

ロ. 発顕還元の原理
物はすべて、+と-といったような二方向に、ことがらも、発するほうへと還るほうに働いているもので、振子のような具合である。入ったものは出るし、出たものは入る。取れば取られるし、与えれば、また与えられるとする原理。これは歴史的には高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と神産巣日神(かみむすびのかみ)の働きから、そして空間的には存在するものの実相から把握されたものである。

ハ. 全個皆完の原理
大も小も、新も旧も、色も味も、どこも、いつも、彼も、此も、常に完全で、足らぬものはなく、余るものもない。ともに玲瓏として玉のように完(まった)く、美しく、善である。個々のものも、すべ括(くく)った全体も、万象万態すべて善、美、完であるとする。これは一般的な善悪、美醜、完全不完全にたいし、超越的な高度の態度から万象を見たもので、歴史的には伊邪那岐命、伊邪那美命が水蛭子(ひるこ)を産んだ失敗の反省から、やり直しをしたことにもとづいている。これは失敗は成功の道行きであり、それはそのままでよいとする思想に基づく。

「人生に失敗は無いのだ、すべて成功の道行き、成就の行程・・・。従って人生はその瞬間瞬間、常に総力の結集、すべての因子の過不及なき総合調和にある。そして、なんらの矛盾もなく一つの偶然も無い、あるべくして在り成るべくして成る。公正無私、悠々坦々、れいろう玉のごとき人生だ。」とあるのは「全個皆完の原理」のことである。

二. 存在の原理
存在しているものは、それぞれに唯一絶対の価値をもっている。すべて、そこにもここにもあるものではなく、たった一つの存在で、絶対である。したがって存在の真実相は動静一体、賢愚不二、貴賎不分、美醜一如であるとする。この原理から、一切を受け容れるという倫理が導き出される。ここに小さな自己の知恵才覚は消滅し、無欲括淡な生活に入る。大宇宙すなわち我であり、人我一体、天人不二、絶対無我、純一無私であり、倫理の究極がすえられる。この原理は「全個皆完の原理」に続くもので、歴史的には古代人の生活の中にある無私の生き方から、空間的にはひろく存在物の観察から導き出されたもので、一種の存在論である。

ホ. 対立の原理
倫理実践の根拠となる原理的な思想としては、対立の原理があげられる。これは万物は皆個々の対立である、とする。自分と相手、表と裏、上と下、右と左、高さと低さ、夫と妻、親と子といった具合であり、一人対一人、一人対数人、一人対万人といった対立もある。この間にそれぞれのすじみちがあり、それに順応することが正しい生存の法則となる、とする。この原理は歴史的においては宇比地邇神(うひじにのかみ)、妹須比智邇神(いもすひじにのかみ)などの陰陽の対立からくるもので、空間的には宇宙顕界のすべてが、このように対立ととらえられる実相から導きだされるものである。

ヘ. 易不易の原理
現象界のすべてにわたって、易(かわ)るものと易らぬものがる。万物万象、ことごとく、一秒の休みもなく、常に変わり、あらたまってやむときがない。しかも、そのまま、すこしも変わらず、もとのままのものがある。河の流れは変わるが、河そのものは変わらない、といったようなものである。流れるもの、流行するものから見ると、常に流れて止むときがない。しかし全体から見ると、流れるといった形においては不変であり、不動であり、少しも変っていない。こうした相反する二つの相を、ただ一つに統一して、万物万象、ことごとく存在を保ち、進行を続けている、とする。これは歴史そのもの実際、国家や民族の連綿と続いている状態や変化してゆく実情などからきたものであり、空間的には自然地理、人文地理的な観察にもよっている。

ト. 物境不離の原理
物と境とは、必須不可欠の関係にあって、物が物としてあるためには、かならず境があり、物なくして、単に境だけあるということはない。かりにあるように見えても、まったくその働きをしていないし、意味もなさないし、何の役にも立たない。たとえば家は、敷地がなくては建ちようがなく、敷地は家が建たなければ敷地としての意味も働きもない。境と物は、二者にして一者であり、一つにして二つである。べつべつには存在しない。これが存在大調和の実相である。これは歴史的には「ひもろぎ」、「いわさか」などの伝えにもとづき、空間的には宇宙における星、地球における生物、無生物のありかたから導かれたものである。

原理を一つ一つしっかりと玩味していると、全てに正確に的中されており完全無欠です。このような方が存在したことへの感謝と、繋いでくださっていることへの感激を覚えます。

子どもたちが将来、道に迷う時、この原理を思い出してほしいと祈ります。私たち伝統的日本人がどのように歩んできたか、そしてどのように歩んでいくか、歩み方のことが記されています。

太古から続く道上を私たちは今も歩んでいます。どんな時も、自分たちの体内、いや精神や魂にはその根と深くつながっています。子どもが安心して暮らしていける社會の創造をお手伝いしていきたいと思います。

徳福一致

先日、倫理法人会の創始者丸山敏雄氏のことを書きましたが、改めてその理念を深めてみようと思います。まずはこの「倫理」という言葉があります。この倫という言葉の語源は、仲間や類、また人の輪を意味します。つまりは仲間の中で大切に守る道理ということです。

人間は一人では生きておらず、社會を形成して社會の中でお互いに助け合い人になりますからこの仲間との関係が生きていく上でとても大切な生きる力であることは自明の理です。倫理をどう捉えるか、それを学び実践をすることでより善い幸福な社會を創造していくのが人間として生まれてきた使命の一つであることも間違いありません。

私が丸山敏雄さんの理念で大変共感したのは、「徳福一致」というものです。これは、徳=福であると言い切ることです。私は以前、二宮尊徳の一円観を学び大変な衝撃を受けそこからすべて一円にして万物一体善の境地を学びました。今でも一円観によって、様々な事柄を受け止めそれを一円対話というカタチに昇華させ社會の幸福のために幼児教育の環境に導入を弘めています。

そもそもこの徳福一致を提唱するようになった背景を考えてみると、丸山敏雄氏の時代は社會が急速に徳と福とを分けて考えるようになったということも洞察できます。つまりは、徳を積むことと幸福はまったく別物であると認識されていくようになったということです。

例えば、想像してみると見返りを求めずに世の中のためにただ善きことだけを祈り行うということが損となってしまえばそれはしなければならないことになります。しかし、もしもそれが幸福そのものの本体であり実体であると認識できるのなら徳を積むことそのものの価値を感じることができます。

かつての日本は、富=徳でしたから富=得ではありませんでした。西洋型の個人主義が入ってくることで、それまでの日本の倫理は崩れ社會が大きく変わっていきました。そこに警鐘を鳴らしたのが丸山敏雄氏だったようにも思います。

情けは人のためならずという諺があります。これも本来は、情けをかけることは廻り巡って自分のためであるという倫理道徳の話が、他人に情けをかけることはその人のためにならないというように勝手に認識が変わってしまいました。現代では、ほとんどの人が意味を間違えて後者として使っているようです。

このように言葉が変わるのは社會が変わるからです。社會が今どのようになっているのかは人々の言葉の中に顕著に出てくるのです。徳福一致とは、すべては人間の間で転じ合って福になって顕れてくるのが徳の正体であるというのです。

だからこそ本当に人間社會を幸福したいと心から願う世界のリーダーたちは必ずこの「徳積」の境地にたどり着くはずなのです。私が徳積財団を設立する理由もまた、この人類の幸福のため、そしてその人間と一緒に生きていく仲間のいのちたちのためでもあります。

今は、徳も得になり、福も欲のようになっています。本当の意味が回帰してくる日はいつになるのか、それは人類の目覚めが必要であり、一人一人の勇気ある行動が必須です。

子どもたちが安心できる未来を譲れるよう幸福な社會を創るために私にできることを実践していきたいと思います。

国富論

国富論という書があります。これは1776年に哲学者のアダムスミスが現代の資本主義の思想の経済構造を提唱し出版されたものです。この本は西洋の古典ですが、これが西洋的な経済観念の実質的なはじまりのように思います。

シンプルに言えば、世界の経済は個人個人の利益を最大化させることで発展を続けていくという具合のことが書かれているといいます。そのために如何に生産性をあげるか、そして効率を優先するか、さらには分業するか、現代の経済の仕組みのことを書か書かれます。そして国が富むために必要なのは消費であると定義しています。

そうやってこの200年、世界の経済学は発展しみんな資本主義を導入して国家を富ませてきました。しかしここにきて、コロナも体験し果たして「国家は本当の意味で富んでいたのだろうか?」と疑問に思った人が増えたはずです。

日本は特に、戦後、海外からもエコノミックアニマルと名指しされるほどに経済の発展に集中して世界第二位の経済大国にまでのし上がりました。最近では中国に抜かれていますがそれでも世界の中では経済大国です。しかし実際の幸福度は下がる一方だといいます。

果たしてこれが本当に国が富んだと言えるのか、国が富むとは何か、本当の富とは何かということを今一度、見つめ直す必要があると私は思います。

かつての日本は富をはっきりと定義していました。それは「徳」のことです。つまり国が富むというのは、徳を積む人たちが増えて徳が蓄えられている国になること。それを国宝とも呼び、徳を宝として大切にしてきました。

今では徳は単なる経済の中の「得」でしかなく、本物の徳は戦後の教育によって次第に荒廃していきました。明治以前の日本人は、精神がとても成熟していました。心が素直で正直で感謝を忘れず、誠実であったのは日々の暮らしの中でこれらの徳目を実践し徳を国民全体で醸成する努力をしてきたからです。

黄金のクニである日本とは、本来は徳の溢れるクニである日本であったということです。もう一度、ここで国家の国富論を日本から世界に発信していかなければなりません。それは国富論ではなく「国富徳論」を示すということです。富国有徳という言葉もありますが、国が本当の意味で富むには有徳の社会をみんなで醸成していくしかないということです。

子どもたちが、仕合せにこのクニでいつまでも生き続けることができるように徳が循環する仕組みを私が必ず成し遂げ、このクニを甦生させていこうと思います。

 

 

美しい生き方

昨日、ご縁があって豊前市にある倫理法人会の創始者の丸山敏雄氏の古民家と天和会館を見学する機会がありました。まだコロナで閉館でしたが、事情を理解してくれてご親切に対応していただきました。

丸山敏雄氏の遺した言葉は、戦後の日本において倫理運動と呼ばれる生活改善運動を実践された方です。具体的に17か条の「万人幸福の栞」というものを掲げ、生活の中に具体的な実践を積み重ねていく中で倫理の道理を説いていきました。

第一条 今日は最良の一日、今は無二の好機  第二条 苦難は幸福の門 第三条 運命は自らまねき、境遇は自ら造る 第四条 人は鏡、万象はわが師 第五条 夫婦は一対の反射鏡  第六条 子は親の心を実演する名優である 第七条 肉体は精神の象徴、病気は生活の赤信号 第八条 明朗は健康の父、愛和は幸福の母 第九条 約束を違えれば、己の幸を捨て他人の福を奪う 第十条 働きは最上の喜び 第十一条 物はこれを生かす人に集まる 第十二条 得るは捨つるにあり 第十三条 本を忘れず、末を乱さず 第十四条 希望は心の太陽である 第十五条 信ずれば成り、憂えれば崩れる 第十六条 己を尊び人に及ぼす 第十七条 人生は神の演劇、その主役は己自身である

現代の便利で人間都合の世の中では、実践を怠りただ日々を闇雲に忙しく過ごしていたらややもすると世の中の常識や風潮に流されて自己を見失い刷り込まてしまいそうなものです。それを実践によって撥ね返し、本来の自己を確立していくということ、教育者としてのロールモデルを示してくださっています。

自己の確立と仕合せは表裏一体です。自己という一人の存在、自分という二人が一体になっているもの。そのままあるがままのいのちに合致するとき、人間は本物の人間になります。それを狂わせるのは、環境であり場でもあります。知らず知らずに文化や場の影響を受けて人間は醸成されますからどのような処にいるかは知らず知らずに多大な影響を受けてしまうのです。そういう時、目を覚ますような人に出会ったり、気づきをいただき暮らしの指針が観えることで人間は自己を発見するように思います。

私は、このタイミングでご縁があったことに不思議な思いがしました。暮らしフルネスとは、生活の改善であり暮らしの改善です。本物の日本の暮らしが亡くなってしまっている今、暮らし改善運動が必要ではないかと思うのです。

私は宗教家でもなければ、運動家でもありません、ただ粛々と自分の足元で実践をするものです。しかし、今の世の中、子どもたちのことを思えば心配になるし、未来のことを思えば繋いでいかなければならないという使命にかられます。これから時間をかけて丸山敏雄さんの言っている意味の本質を少しずつ学び直してみたいと思います。

最後に、特に感銘を受けた丸山敏雄氏の「心訓十戒」です。

「人を大切にする人は、人から大切にされる。

人間関係は、相手の長所と付き合うものだ。

人は何をしてもらうかより、何が他人にできるかが大切である。

仕事では頭を使い、人間関係では心を使え。

挨拶はされるものではなく、するものである。

仕事は言われてするものではなく、探してするものである。

わかるだけが勉強ではない、できることが勉強だ。

美人よりも美心。

言葉で語るな、心で語れ。

善い人生は、善い準備から始まる。」

そうありたいと強く思い、子どもたちにその美しい生き方を譲り遺していきたいと思います。

暮らしフルネスの定義

現在、BAでの暮らしフルネスの準備をしていますが改めて働き方改革と前提を助けるのが暮らし方改革であることに気づきます。人間は、生き方改革というものもありますが実際には世の中の常識に沿った今までの生活を見直し、改めてどう生きることがもっとも仕合せなのかということに向き合うことが何よりも重要です。

なぜなら、何のために生まれてきたのかという問いがあります。

決してただ仕事をするために生まれたわけでもなく、利害損得ばかりを求めて日々を生きるわけでもない。大切なのは、自分の決めた生き方をどう展開していくかという勇気と覚悟が必要です。

しかしそうはいっても、それができる人は一握りの状態です。どこかで諦めてしまっていますが、工夫次第でいくらでも改革できるものこそ「暮らし」なのです。実際には、暮らしはすぐに改革できます。

例えば、通常の仕事だけ100パーセントの生活をしている人が心の豊かさを増やしていく生活に60パーセント切り替えればすぐに暮らしが充実していきます。それは自然の生き物と共生してみたり、絵画や音楽、あらゆるアートに触れてみたり、落ち着いて日々の手入れや手間暇のかかる食事を味わったり、実際には簡単に暮らしは改革できます。

改革できない理由は、それができないと思い込んでいる先入観なのです。私たちの会社は、日々の暮らしを優先し同時に仕事もしています。つまりは暮らしを充実させながら働くのです。ここでの暮らしは、仕事(利益)とはあまり関係がないかもしれませんが、利益を超えた徳があります。この徳をみんなで磨き、徳を楽しみ、徳を味わうことで私たちは暮らしをフルネスにしていきます。

暮らしフルネスは、私たちの造語ですが暮らしは日本人の生き方であり、フルネスは足るを知る心とも定義します。

いよいよコロナ後の未来に向けてBAでの暮らしフルネスをブロックチェーンエンジニアと共に創造していきたいと思います。

禍福一円

私たちの取り組む一円対話には、禍福一円という意味があります。これは禍福は一つのものであり切り離すことができないということ、それを一円の中で観ればちょうどいいことが発生していると受け容れるということです。

無理に転じようとすればするほどに自分の都合が入ってきますから、ちょうどいいとは思えなくなるものです。ちょうどいいの意味は、調和の意味です。調和するというように理解すれば、その禍福はすべてバランスを保つために存在するものです。

人生は、幸不幸が循環しているものです。その都度、喜怒哀楽があり様々な出来事によって人生の妙味を深く味わっていきます。また世界には一人一人別々の世界があり、人生があります。同じ人は一人として存在せず、生まれた時からそれぞれの別個の人生がはじまっているのです。

その人生を省みて、如何に様々なことをちょうどいいと感じるか。自分の主軸を自然の中に置き、自然と共に歩んでいく中ですべては運命に見守られていると実感して生きることで心は安らかになっていくようにも思います。

以前、新潟の五合庵で良寛さんの詩に触れたことがあります。

良寛さんは、すべてを聴き入れじっと受け容れることを重んじ、あらゆるものをちょうどいいとあるがまま自然体で生きられた方のように感じます。それは詩からその生き方や生き様が垣間見れ、宇宙全体と一体になっておられるような雰囲気を醸しています。

その良寛さんの遺したものに「ちょうどいい」という詩があります。なかなかちょうどいいと思えない現実ばかりの人生ですが、最期はやっぱりちょうどよかったと思えるような人生にしたいと祈ります。

「仏様のことば(丁度よい)」

 お前はお前で丁度よい

 顔も身体も名前も姓も

 お前にそれは丁度よい

 貧も富も親も子も

 息子の嫁もその孫も

 それはお前に丁度よい

 幸も不幸も喜びも

 悲しみさえも丁度よい

 歩いたお前の人生は

 悪くもなければ良くもない

 お前にとって丁度よい

 地獄へ行こうと極楽へ行こうと

 行ったところが丁度よい

 うぬぼれる要もなく 卑下する要もない

 上もなければ下もない

 死ぬ月日さえも丁度よい

 仏様と二人連れの人生 丁度よくないはずがない

 丁度よいのだと聞こえた時 憶念の信が生まれます

 南無阿弥陀仏

子どもたちにも、自分自身を全肯定して仕合せを自らが決めていく生き方になるように実践を積み重ねていきたいと思います。

心のこと

私の両親は小さいころから共働きでしたら、祖父や祖母がよく面倒をみてくれていました。弟の世話をする私や親戚の子どもたちも年が近かったらかよく一緒に過ごす機会がありました。

特に病気や怪我、そのほか何かのトラブルの時には祖父母を頼っていました。ただ病気や怪我をすると大袈裟なのであまり頼まなかった記憶があります。祖父は、無口で厳しく怖い存在でしたがその奥にある深い優しさを感じていました。

今でも思い出すのは、私が高熱やぜんそくが酷く苦しんでいると聞いた祖父が民間療法でネギを首に巻かれてそれを耐えさせられたことです。病気よりもその民間療法が辛かったので、治ったふりをしたくらいです。他にも、田圃でお米の収穫時の袋に入ったお米を運んで痒くなったり、山で一緒に遭難したり、思い出せばそれはすべて祖父の人柄との接点でした。

祖母の方は、慈愛に満ちていて私が痛い体験や辛い体験をすると自分がまるで体験したように感情を含め共感してくれて自分の方がそこまで大袈裟ではないと安心させようとして振る舞っていました。私が交通事故で病院に運ばれたときも、すぐに駆けつけては涙を流していました。心配ばかりしていた祖母に、心配かけてはいけないとその時心から反省したことを覚えています。

私は御爺ちゃん御婆ちゃんっ子でしたから、亡くなった時はとても悲しくて悲しくて涙が出ました。御爺ちゃんは病気で最期に言葉を交わしたのは沖縄に出張に行く前で、手を握ってくれて有難うと声をかけてくれました。御婆ちゃんは御爺ちゃんが亡くなってから3回忌をしてすぐに突然亡くなりました。

御爺ちゃんが亡くなってからはほとんど言葉が少なくなって、感情もあまり出さないようになり、身なりもそんなに気にせず、周囲との距離をおいてあまり人間関係が深まらないように離れていました。最期は、ほとんど印象がなく普段通りの挨拶だったように思います。

悲しみというのは、心から出てくるものです。

この心は現実の世界とまた別に存在していて、ゆっくりとじんわりと動いて生きています。脳や肉体などの反応とは別の存在で、心はまるで霧のように空中に浮いてはゆらゆらとまとまっています。

この心のことを人は魂と呼んだのかもしれません。心は霧や霞のように実態がないのですが、この揺られているなかで感受しては様々なことを深く味わっています。

たとえ頭で理解しても、心はそれを感受するのは時間がかかります。準備もいるし、そんなに簡単に味わえるものでもないのが死を受け容れることです。ただ悲しみは、そのまま心をつながります。

心は受け容れることで心を育てます。

いつか誰にも訪れるその日にむかって私たちは生きています。心の弱さを受け容れながら、心のままに心を大切に心にしっかりと明るさと美しさを保ち頂いた宝と記憶を磨いていきたいと思います。

孤立と孤独

先日、一円対話の中で孤立や孤独についての話がありました。コロナで今までなんとなく曖昧にしていた人間関係や社会問題もこういうことがあると露呈してくるものです。改めて、孤立や孤独とは何か、考えてみることにします。

そもそもこの孤立や孤独は、使っている人によってその定義も意味も異なります。また集団の中で使われるときは大勢の方と少数の方でも使い方が異なります。つまり、この言葉は客観的に外側から使われるときと、内面的に主観的に使われるのではその意味が全く異なるということです。

例えば、自ら孤立や孤独といっても志を高くし、目的に向かって我が道を真摯に精進する人には孤立や孤独は自己研鑽のために必要な徳目でありそれは決して悪いことではありません。誰かに甘んじるのではなく、ひたすら道を追求する中で時には甘えず、時には助けてもらい自らの孤独や孤立を高めていくのです。どうしても誰にもわかってもらえないような次元の大きな志に生きるのなら、それはなかなか語り合える朋とも出会えません。しかし、みんなそのようにして偉大なことに挑戦していこうとしますからそれはそれで真摯に初心を省みて実践を積み重ねていくしかありません。孤独も孤立もそれは志を歩んでいる証拠だとも言えます。

しかし、これとは別に人間社會の中で人間関係を大切にしない人や思いやりが欠けている人は別の意味で孤立や孤独になっていきます。人間は一人では存在していませんから周囲への思いやりは常に必要です。困っている人に手を差し伸べたり、みんなが心地よく働けたり、人間関係や信頼関係が損なわれないように常に誠実で正直なかかわりをつくりつづけていく必要があります。それは決して見せかけの関係を創ればいいという意味ではありません。

畢竟、人間関係というのはまずは自分自身との関係性からすべてはじまります。自分への正直さや素直さ、自分をちゃんと大切にできる人、自分自身に対して誠実に生きている人が翻って他人へも同じように正直に素直に誠実にあることができるのです。

自分を粗末にしたり、自分の扱いを乱暴にしたり、自分に嘘をつき続けたり、自分を騙したり、自分との関係がちゃんと維持できなければどうしてもそこに孤立や孤独が発生してきます。まずは、もっとも身近にいる自分自身を大切に思いやる事。これは間違ってはいけないのは、別に自分勝手に自分のことばかりを優先すればいいというわけではありません。

自分を大切にするというのは、相手を大切にするよう自分も大切にし、自分を大切にするように相手も大切にするということです。もしも相手が自分だったらどうしたら喜ぶだろうか、自分がもしも相手だったらどのようなことに感謝するだろうかと、常に自他一体になった境地で人間関係を結んで丁寧にケアしていくのです。

人間は、自分がされなくないことを他人にしないというのがまず思いやりの原点です。そして自分がされて嬉しいことや仕合せなことを相手にも与えていくことで、自他ともに仕合せな心持になっていきます。

つまり「思いやり」とは、そういうことなのです。

「思いやり」がなくなれば、孤立と孤独は身近に常に存在して自分自身の間違いに気づくように語りかけてきます。そして思いやりが足りていけば次第に孤立や孤独は仕合せにつながっていることにも気づいていきます。そう考えてみると孤立感や孤独感は自他への思いやりの欠如への渇望感なのかもしれません。

みんな自分自身の心に素直に正直な人たちが、子どもたちが安心できる社会を創り上げてます。人間はもとは自然物ですから、自然の心は誰にも備わっています。それをある人は良知ともいい、ある人はまたそれを真心と呼びました。

真心の生き方をする人には、孤立や孤独というものがそもそも存在せずただ感謝のみの豊かな世界が広がっているように思います。みんなたった一人ではありますが、独りぼっちでは生きてはいけません。持ちつ持たれつ生きていくのですから、思いやりを持って日々を大切に過ごしていきたいと思います。

子どもたちに思いやりの徳を活かしあえるような社会にしていきたいと思います。

みんなが恩人

「恩」という言葉があります。辞書の大辞林には「他の人から与えられためぐみ。いつくしみ。」と記されています。この恩というのは、人間は誰でも恩をいただいていない人など存在しないことがわかります。

つまり人間は、恩によって成り立っており、その恩をみんなで与え合うことによって生きていくことができるのです。そしてその恩には色々なものがあるように思います。

例えば、親の恩、先人の恩、社會の恩、自然の恩、身近な人の恩等々を数えればいくらでもでてくるのがこの恩です。多くの恩をいただいてばかりですが、その恩を返していくきながらまた新たな恩を循環させていく、それが人生のようにも思います。

恩返しや恩送りという言葉もありますが、実際には偉大な「恩」の中で存在していますからもっとも大切なのは「恩を忘れない」ことだと私は思います。

恩を忘れないで生きていくのなら、いつも自分は恩に恵まれていることも忘れません。その恩はどのようにめぐっているか、そしてその恩は一体どこからやってきたものか、そして自分という存在が如何に恩によって醸成されているか、その徳が備わっていることを自覚することができればみんなが恩人になるのです。

恩人の中で生きている、そして自分も恩人として生きていく。

この恩を忘れない実践が、感謝になり心の平安や豊かな社會を築いていくことができるのです。現代は、恩という言葉もあまり聞こえなくなってきました。利害損得ばかりが語られ、騙されたとか、嘘をつかれたとか、嫉妬されたとか、恩を忘れている時の状態が続いています。

この恩を忘れない仕組みこそ、徳の循環の仕組みです。

徳積の仕組みを、人々に還元するために知恵を絞っていきたいと思います。