二つが一つ

物事は冷静に客観的に分析すると本質が観えてくるものです。しかし実際には主観が入り、じっくりと待つことができず物事が歪んでいくものです。心を澄ませること、そして心を整えること、心の状態を平常心に保つ工夫がある人は本質的な生き方を維持していくことができるように思います。

私も人間ですから、日々に様々な喧騒の中で心が揺さぶられて波立つことがあります。波立たないことなどはなく、風が吹けばすぐに波立ちます。また人間には感情がありますから、肉体や精神が味わい深い複雑な体験を通して人生を感じます。

大事なことは、元の澄んだ状態にどう戻るか、元の穏やかで整った心境に如何に回帰するかということだと思います。天気が日々に換わっても、空はいつも碧く、夜空には星が煌めきます。月がカタチが変化しても、いつも本体は変わらずに地球を見守り続けるように私たちは心に月を持っているのです。

これは科学的に言ったら荒唐無稽のように思われるかもしれませんが、私は地球と月は一体であると思っています。つまりは私たちが思っている地球の生命には月もセットになっている。言い換えれば二つで一つであるということです。

私たちがその中で生命をはぐくまれ、人間が、また動植物が存在するのはこの二つの存在が生命を見守る環境が存在しているからです。

私たちは見守られる環境の中で初めて育つことができるのは、親がいて子がいることからも真実であることは見知っていることです。同様に、地球と月にも真実があり私たちのいのちは二つが一体になって存在できているのです。

科学者は住める惑星を求めて地球と同じ大きさや形の星だけで探していますが、本来の実相が観えていないように思います。二つで一つのものを探すことが、いのちに近づく方法だと私は思います。

善悪、陰陽、寒暖、生死、すべては二つが一つではじめて成り立ちます。物事の実相を見極め、本質を見抜き、真実のままに心を育てていきたいと思います。

こだわりとは

私はこだわりが強いタイプと周りに言われます。いちいちこだわっているといわれ、嫌煙されるか尊敬されるかがどちらかに分かれます。自分自身では無意識にやっていることなので今さら周囲がどういおうが生き方が変わらないのですが、納得するまで本質を突き詰めたいと思いあれこれを深めていたら自然にこだわりが強くなっていくだけのように思います。

先日、稲盛和夫さんにこういう言葉に出会いました。

「ひとつのことを究めることは、すべてを理解することなのです。すべてのものの奥深くに、真理があるのです。」

確かに、一つのことを深めれば深めるほどにあらゆる総合的な知識や経験、そして智慧や直観が使われていきます。今まで見聞きしたものから真理を思い出し、その真理に照らして道理を悟ります。

私の場合は、どれも自然から学んだ智慧ものを用います。例えば、自然か不自然かがまず最初の篩であり、その後は、歴史の智慧に照らします。歴史の智慧とは、発酵とか、共生とか、体のことや気候、伝統などです。

いわれてみれば、自然農をやってきたり、人類を学んだり、伝統を学んだり、暮らしを学んでいる過程で私はすべてを理解していきました。そのすべてのものの奥深さに感動し、その感動したものを自分のものにする過程で新たな発見は発明に出会います。

現在、建造中の復古創新した日本伝統のサウナもまたすべてを理解するなかで創造する総合芸術であり、その中には私が経験して学び理解した本質のすべてを組み合わせていきます。

気が付くと、こだわりが強いといわれていますがこれはこだわりではなく真実に近づいているということでもあります。こだわりとは、決して嘘偽りない正直な真心で取り組んでいるということかもしれません。

執着というこだわりと、真理というこだわり、同じこだわりという意味でもその大前提が異なります。自然は無為であるように、真理もまた同様に無為というこだわりがあります。

自然も真理も道理ですから、そこから外れないで生きることこそ人類にとって必要なこだわりではないかとも私は感じます。時代が変わればこだわりもまた変わります。人類の道理を忘れないよう、初心を大切に取り組んでいきたいと思います。

 

自然の基盤

今回の新型コロナウイルスは、人間社會にとっては非常に大きな問題ですが虫たちや植物たちにとってはそれよりも気候変動の方が大きな問題になっているように思います。

一部では、かえって空気汚染が解消され人間が自粛することによって生活範囲がひろがり快適になっている動植物もいると思います。地球には人間だけが住んでいるのではなく、あらゆる生物が折り合いをつけて自然と共生しているのだからどちらかの天国がどちらかの地獄でもあり、お互いに謙虚に支え合って生きているのが地球のいのちの本体です。

私が気になるのは、コロナウイルスで経済が打撃を受けて世界恐慌や戦争になることではありません。もちろんそれも心配ですが、人間は何をするかもっとも分からない生きものですからこればかりは予想などできず、常に福に転じていくよう日々の暮らしを整えていくしかありません。

しかし気候変動は、生物界全体に大きな影響を及ぼします。一つの生き物が息絶えてしまえば、それを支え合う大くの生きものたちもまた息絶えてしまいます。絶滅の連鎖です。

この絶滅の連鎖は、最終的にはすべての生命の生息をとめいのちの水そのもののハタラキも停止させてしまいます。現在の火星のようになるのも時間の問題です。地球は、あらゆる生きものたちが有機的につながることで生命を維持しています。この絶妙でもっとも微妙なバランスが崩れることは、その間を流れる水の流れもまた止めてしまいます。

水は人間の身体でいう血液であり、血液が流れるから細胞は活動します。血液を流し続けるには、細胞たちの活動とハタラキが欠かせません。そのために、私たちは肉体を通して地球の生命の実相を学び、その肉体から発する様々な感情を得ては何が健康であり、何が不健全であるかを学びます。

いくらAIや意識や脳を進化させても、陰ながらすべてを支える地球の存在を抜きにして私たちはこの暮らしを保つことはできません。

気候変動機において、如何に多種多様な生物を守り共生を持続させていくか。人間ができることはまだまだたくさんあります。まずは、今の人間の経済のみを優先する姿を見直し、徳を積み、徳を広げるという自然の基盤となる道徳経済の世界に易えていくことだと私は思います。

子どもたち、子孫たちのためにも、今できることを今やらなければなりません。自然との共生は、足元から変えていくことができます。このチャンスを活かして、新しい挑戦に取り組みたいと思います。

モビリティの本懐

最近、あることからモビリティのことを深めている中でふと乗り物の歴史について学び直す機会がありました。私たちの現代においては、自転車や車は当たり前で飛行機も新幹線も当然身近にあるものです。しかし150年前まではそのどれもが存在しておらず、私たちの乗り物は大きな変化を遂げていきました。

現代では車社会も一つの終焉を迎えており、移動手段が激変していく時代を迎えています。乗り物としての存在と、そもそも乗り物を使って何をしたかったのかという人類の目的の狭間で新しいものが創造されていくのは時間の問題です。

改めて少し移動手段の歴史を整理してみると、そもそも紀元前1万年以上前は足で歩いていました。そこから筏や丸太がではじめ丸木舟は紀元前7千年くらいに出てきたといいます。そして紀元前5千年にはソリが生まれ、紀元前三千五百年頃には車輪付きの車が誕生しました。これをロバなどが引いていたといいます。そして紀元前三千年頃には、乗馬や帆走船がでてきて交易船によって栄えていきました。そのあとも、少しずつ改良され様々な自然物を活かした乗り物が利用されていきました。

急激に現代のように科学の乗り物が進化したのは蒸気による動力の発明からだといわれます。この発明から、より多くの荷物、スピード、そして遠くまでいけるようになりました。

産業革命はその後、様々な科学技術の進歩と共にあらゆるものが発明されていきました。1769年には、蒸気で走る三輪自動車が発明され、1783年には蒸気船、1802年には蒸気機関車、1886年にはついにガソリンを使った車が誕生しました。1903年には飛行機という具合です。ここから100年はさらに進化し、原子力潜水艦、人口衛星、宇宙ロケット、新幹線、リニア、ジェット機、電気自動車、水素自動車、他にもこの数年で様々なエネルギーを活用した乗り物が誕生しています。

私たちは、乗り物を使い科学を発展させていきました。言い換えれば科学の発展と乗り物は常に一体に進歩してきたとも言えます。しかしそのことから、環境汚染が広がり、人間の生活速度が変わり、世界中に資本主義経済が発展する動機となりました。

物流は日々に便利になり、今日ウェブ上で注文したものがその日のうちに届く具合です。さらに仮想空間ができたことで、体は移動しなくてもVR等により意識が移動できます。他にも、AIやIOTが進みそもそも移動する必要がない状態が生まれています。

人類の乗り物は、単なる移動手段ではないことは歴史を学べば明確です。

だからこそ、本来、モビリティの本質は何かを人類は問われているように私は思います。ゆったりとスローに移動するということは、ひょっとしたら今の人たちからしたら変人の戯言のように思われるかもしれません。

しかし、私の提案する暮らしフルネスは敢えてそれを先進技術で補う仕組みを取り入れています。時代が変わりますが、人類の目的や人生の意味は普遍的です。

子どもたちが安心して地球に豊かに住み続けられるように、新しい取り組みを発信していきたいと思います。

場の共有

人間は、「場を共有」することで共存共栄してきた生きものです。ここでの場とは、同じ空間と時間を一緒にするという意味です。同じ空間と時間をというのは、人生は生まれてきた中で色々な人たちとご縁があります。その一度きりのわずかな時間に、誰と一緒に生きていくか、誰と時間と空間をシェアしていくかということでその人生の質は決まります。

つまり人生は、場によって創造され場によって演出され場によって顕現するということです。だからこそ、場の共有は同じ時代、同じ場所、同じ空間を共にする仲間との大切な分かち合う時間だとも言えます。

人生は、色々な目的がありそれぞれに志があります。これだけ多くの人間がいても、一生のうちで関わるのはわずかな数です。そのわずかな数によって人生は彩られ、その奇跡とも言えるような組み合わせによって体験する内容が異なっていきます。

あの時、出会うことがなければ、あるいは、あの時一緒の場に遭遇しなければと、一期一会に人は場によってあらゆるご縁を導きだしていきます。

そしてどのような場を体験したいかという、それぞれの目的に合わせた夢や理想に向けて人は場を重なり合わせていくように思います。それがまさに「場の共有」の実践なのです。

それは家庭でも然り、職場でも然り、ライフワークでも然り、どのような人と、どのような場にしていくかは人生にとって大変重要なテーマであることは間違いない事実です。

だからこそ「場の共有」と正対し、どのような場を創造していくかは一人一人の主体性と責任が関わるものです。場を整わすことも、その場を活かそうとするからであり、場を清めるのも、場の目的を明確にして場を高めるためでもあります。

私の主催する場の道場は、場にこそいのちの原点があり、場にこそご縁の真髄があると確信しているものです。場によって人が変わり、場によって世界が換わる。これからの時代、新しい場の共有が人類の進む道に大きな影響を与えるはずです。

子どもたちのためにも、場を深め、場を譲り、場を遺していきたいと思います。

場の重要性

世界では古来から「場」には健康や幸福に大きな影響があることが信じられてきましたが現代は、都会を中心に空きさえあれば無理やりに場所を削ってはそこに人間都合で様々な建物を建てていきます。特に日本では、もともと墓地だったところや伝統的に大切にしてきた場所でさえ経済的な都合で自分勝手に移動させていきます。

本来、その場所には特別な力があって敢えてその場所を神社にしたり、墓地にしたり、石碑を建てたりして触らないようにしていたものにまで勝手に触っては壊していきます。

そのことから、原因不明の病気が流行ったり、疫病が増えたり、事故や怪我、事件が発生したりすることが増えています。科学では証明されないからと好き勝手に先人たちの体験や経験からの知恵を粗末にすればそのしっぺ返しが子孫たちに及んでしまいます。

現代人の問題は、とにかく視野が狭いということです。そして短期的であり、視座が高くないというところにあります。目が届く範囲の物事にばかり執着し、目には観えないものを軽んじているというところです。

目に見えないものはすべてオカルトであるとは限りません。目に見えないからこそ、心の目で捉える必要があるのです。心の目は、目には見えないものを観ることができます。心は、深く広い視野と高い視座、そして先人たちへの畏敬の念がなければ働かないのです。

しかし世界では、場が影響をすることを調査研究している事例もたくさん出てきています。例えば、ドイツで発表された「オパシック・ストレス」は、1920年代に、ドイツの特定の地域で、ガンの発症率が、他の地域に比べて非常に高いことから、原因を調査し発見された現象です。この「ジオ(Geo)」はギリシャ語で「地球の」、「パシック(pathic)」は同じくギリシャ語で「苦痛」地下からの有害エネルギーを、意味します。現代では、地上の、高圧電線や電波、電磁波、放射線などの、人口周波数も含めて、ジオパシック・ストレスと呼んでいます。

これは場が非常に乱れた磁場になっていてそのことで木にコブができていたり、ダウジングで反応が出たりもします。それを人体も、長期にわたり影響を受け続けることで徐々に体力や免疫力を弱め、様々な慢性的な症状を引き起こすといわれます。

地場や地磁気が乱れるというのは、目には見えないし感じにくいものですが確かに自然界で存在しているものです。野生の鳥たちはその地磁気を感じますし、虫たちや植物たちも地場の良しあしでその棲む場所を換えていきます。

それくらい私たちのいのちは、存在する場所が重要な要になってくるのです。その存在の場を軽んじていたら、知らず知らずに人生に多大な影響を受けてしまいます。子孫のためにも、場を譲りの残していくことは先祖になる自分たちの大切な使命であり責任です。

子どもたちのためにも、場の重要性を世界に示していきたいと思います。

触媒

世界には直接的に影響を与えるものと、間接的に影響を与えるものがあります。直接的なものは効果や効能がはっきりしやすく、科学で分析すればある程度の事実は証明できたりします。

しかし間接的なものは、触媒のように影響が別のところに作用していきますから効果も効能もはっきりと謳えず、科学で証明することが難しいものばかりです。

この直接的というのは、短期的に観れば効果があり、間接的というのは長期的に観れば効果があるというとわかりやすいように思うのです。

現代は、スピード優先の世の中ですから短期的に直接的に効果がある方ばかりが信用され取り入れられます。目の前に見えるものだけを信じて判断しているうちに、短期的な手ばかりを打つ癖のようなものが拡がってきました。

それが食生活をはじめ、様々な暮らしを塗り替えていき対処療法的なものばかりが評価されて根源療法的なものが排除されてきたようにも思います。

本来は、基本として長期的なものが主軸になるなかでその時々だけ対処するというのは暮らしの在り方でした。暮らしが変わってきた理由の一つは、すべて短期的に直接的になることでその根底が揺らいできたことが原因としてあるように私は思います。

私は「触媒」という概念がこれからは主役になっていくと私は確信しています。この触媒とは、自身は反応の前後で変化しないけれど周囲に偉大な影響を与えるというものです。

これは「場」も同様に、自分自身の在り方に触媒が大きな影響を与えるということです。私が取り組む、炭を使った場づくりもまた触媒としての炭がハタラキ、人々の暮らしに偉大な効果を発揮させていきます。

直接的には意味がないと思われていても、その効果は暮らしをするものでしたら確実に理解するものです。現代は、奇人や変人、宗教などと言われますが先人たちの文化が昇華していくなかでできてきた知恵をもう一度見直す必要があると思います。

引き続き、子どもたちのためにも日本人の文化を伝承していきたいと思います。

健康から学ぶ

植物や樹木には根があることで養分を吸い上げて成長します。農家が健康状態を測るときは、土壌の質とその根の状態を観ていきます。私が不耕起栽培でご指導いただいているメンターもまた、土と稲の根の状態を観て田んぼの健康状態を測ります。

明らかに土の状態がいいとき、その土には大量の菌類がいて活発に活動しています。また稲の根も深くまで入り、たっぷり菌と共生している様子が根に現れます。

人間であればこの土と根は何かということを考えると、腸内環境でありそれが便に現れていることを感じます。腸内で私たちは、養分を吸収しますから腸内の状態がよければよいほど、先ほどの植物と同じように菌と共生できているということです。

私たちは、自然のままにむかしから続く暮らしをしてその地域で食べてきたものを食べ、暮らしを営めば自然にそれに適応した腸内フローラになるように思います。それが生活が乱れ、おかしな食生活や、生活リズム、他にも住環境が乱れれば当然腸内環境も乱れていきます。

腸内環境が乱れれば、先ほどの植物では根の力もなく土も貧弱になりますから健康が害されて弱くなっていきます。

健康というものは、そう考えてみると自分の土壌環境や根の状態を知らせてくれる存在でもあります。自分の根が弱っているのなら、環境を換えていくことが大切です。特に人間は、動けますから自分から進んで改善をしていくことができます。

例えば、冬の間に蓄積した疲れをどのように取り除くか、他にも運動不足から発生する筋力の衰えをどのように改善するか。それは日々の暮らしの工夫によって改善できます。

免疫を高める工夫をする中で、改めて先人たちの暮らしの知恵の素晴らしさを感じます。色々と今回の機会で、取り組んでみたいと思います。

ご縁をもてなす

ホスピタリティという言葉があります。これは日本では「おもてなし」と呼ばれますが、文化が異なりますが実際の定義も歴史も異なります。私は、場を創造する仕事をしていますからこの場の定義においてホスピタリティやおもてなしの定義を明確にすることは重要なことです。

まずはこの英語の「hospitality」の語源は「hospice(ホスピス)」ですがラテン語の「hospes(ホスペス)」と「hospitium(ホスピティウ)」からできた言葉です。この「ホスペス」は「客の両者」を意味し「ホスピティウム」ラテン語で「客を厚遇すること」という意味になります。

実際に「ホスピタリティ」の歴史を遡ってみるとホスピタリティhospitalityの基礎用語はhospitalであり、このhospital は第一義に「病院」と訳されていますが歴史ではキリスト教の慈善施設のことでした。そこには老人、孤児、貧者などを収容する施設として人々の救済を担っていた場所だったといいます。

つまり巡礼者を歓待し、保護し、厚遇して家族のように迎い入れていた場所ということになります。日本にも、伊勢神宮の伊勢講のようにみんなで旅をして巡礼をしていたころはそれぞれに宿場町がありそこで旅の疲れを癒しました。むかし、四国でお遍路の体験をしたことがありましたがその巡礼中に地域の方々が大切に巡礼者をおもてなしすることに感動したことを覚えています。

知らない土地で、他人に対してまるで身内のように接してお世話をしてくださる存在にとても感謝したものです。

そして日本のおもてなしは、茶道が源流ともいわれますがこれは「一期一会」と用いられます。これは千利休の高弟・山川宗二が「たとえ同じ顔ぶれで何回も茶会を開いたとしても、今日ただ今のこの茶会は決して繰り返すことのない茶会だと思えば、それはわが一生に一度の会である。そう思うと互いに粗略に扱うこともない。真剣な気持ちで、何事もなおざりにすることなく一服の茶をいただくことになる。 」(WEBサイト「井伊直弼と開国150年祭」より)とあります。

その場は、一度きり、二度とないからこそその瞬間の出会いを大切に心を盡すことをいいます。他人を歓待するだけではなく、出会いを大切にするという意味が籠められています。

つまり日本のホスピタリティマインドには、「ご縁をもてなす」という意味があるように私は思うのです。私の場づくりもまた、一期一会。その場に来た出会いを大切に味わい、二度とない今を大切に感じ切る。その上で、その瞬間の自然の一部として共にあり、共に暮らし、共に生きる仕合せを尊重し合う出会いの哲学があります。

暮らしフルネスは、とてもシンプルですが何よりも奥深いものです。

この地この場のご縁を如何にもてなすか、新しい挑戦ははじまっています。引き続き、九州のご縁をもてなす首都にこの地を換えて出会いの場を高めて磨いていきたいと思います。

自粛よりも優先するもの

現在、コロナウイルスで自粛要請がありますがおかしなことがたくさんあることに気づきます。これはあくまで自粛できる人に限るものであり、自粛したくてもできない人たちのことは入っていません。

例えば、先日、期限があるため免許の更新にいきましたがとても密集していてマスクを外す回数も多く、換気もよくない密室で消毒するものもたいしてありません。免許は更新しなければ失効しますからどんなに感染拡大で警戒があっても行かないわけにはいきません。法律を優先しての判断でしょうが、結局は法律を破れないからそれぞれで自粛といいますが法律優先であればだれも自粛などできないのです。

他にも、保育園や幼稚園には毎日たくさんの子どもたちが来ます。あれだけ密集してマスクもできない子どもたちが日々に接していたら感染が拡がるのは当たり前です。特に保育園や幼稚園は、日ごろから感染症の集積場のようにあらゆる感染症をもらってくるところですから今回のコロナウイルスのような感染力が高いものであれば防ぐのはほぼ不可能です。

学校は休校するのに、保育園幼稚園は休校しないというよくわからない理由のせいで何を国家が優先しているのかもよくわかりません。感染拡大は国民のせいとなれば、みんな協力しようとすることができなくなります。

こういう時こそ、法律は一時的に度外視してでも国民を守り、そして国民もこういう時だからこそみんなで助け合い協力して乗り越えていこうとする必要がありますが現在のような疑心暗鬼の状態で不安や不満ばかりが蔓延すればせっかく日本にある人徳的に乗り越えてきた絆や知恵を活かすことができません。

国民を信じて、リーダーを信じるというのは、お互いに一つの目的のために協力しあうために尽力するときにこそ発揮されます。これは会社組織でも同じことです。社長も社員を守るために尽力し、社員も会社を守るために尽力するとき絆も知恵も活かせます。

まず何を優先するかを示さない限り、みんなは安心して助け合おうとしないのです。国家はいわば、家庭の大きなものです。家長が家族を守り、家族は家を守るために尽力する。

この当たり前のことができなくなっていることが、今回の自粛要請には見え隠れするのです。みんな他人事のようになっている組織の末路は、想像すればすぐにどうなるかわかります。会社でいえば、社員に自粛しろといいながら同時になんとかしろということを社長が言っては社長は何も具体的なことをしないということです。そんな状態の会社で、みんなが協力し合ってまとまる雰囲気がでるわけがないことは簡単にわかります。

家の経営、会社の経営、国家の経営、その道はどれも同じで規模間や人数は関係ありません。みんなが助け合うために組織を創造したのだから、本来の組織の意味を学び、活かしてこそ困難を乗り越える原動力になります。

死人がたくさん出て、悲しみがより深くなってきています。早く、目覚めて気づいて勇気をもって果敢に挑戦してほしいと願います。まずは自分から取り組み示していきたいと思います。