自分を生ききる

世の中には色々な人がいます。何かに突出した才能を持っているがいますが、その人は一部では障害だと分類され苦労もしています。何かに秀でればその逆に何かは削られていきます。それが才能ですから、人は目的に合わせて自分の才能を磨いていくうちにその人のオリジナリティが開花していくように思います。

しかし、その過程において協力してくれる人たちがいるかどうかはとても大切なことのように思います。自分の才能を活かすにも、その才能を活かすために支えてくれる人、使ってくれる人が必要になるからです。

お互いの組み合わせた、それぞれの能力の掛け合わせによって私たちは偉大なことができていきます。決して一人ではできないことも、みんなの持ち味や才能を合わせれば不思議なこともまたできるようになっていきます。

それは言い換えるのなら、それぞれの才能が磨かれ「徳」が出てきたともいえるのです。この徳というのは、自然界が創造する場のようにありとあらゆるものが調和していのちを開花させていくようにみんなの協力によって顕現していくものです。

誰もが真摯に自分を生ききり、それを助けてくれる存在があることを信じて生きていきます。花に蝶や蜂が飛来して花粉を繋いでいくように、太陽や雨がいのちを育むように自分を生ききると必ず誰かが手を差し伸べてくれます。

どんなに自分が周りと違うことで差別されたと思っても、周りを卑下したり、文句を言ったり、復讐心を抱いたりすることでは徳は出てくることはありません。徳は、自分自身を生ききることで次第に周囲と和合して顕れるものだからです。

自分を生ききるには、いのちへの感謝が必要ですが同時に自分を信じることが大切です。自分自身の才能を自分が信じ、周囲への感謝を忘れずに子どもたちに伝承していきたいと思います。

和の調菜人

聴福庵では炭火を使った湯豆腐料理をすることがありますが、地下水と備長炭の絶妙の調和で美味しく仕上がった湯豆腐はいつも来庵した人たちの心身を癒し喜んでもらっています。

この湯豆腐は、江戸時代の中期には日本人の生活に根づいたそうですが江戸初期にはまだ特別の日のときの食べ物だったといいます。特に農民にとっては非常に贅沢な料理でいつでも食べられるわけにはいかなかったようです。

実際に徳川家康と秀忠の時代には村々ではうどんやそばと共に豆腐の製造も行ってはならず、農民がそれらを食べることも許されない禁令が出されていたといいます。さらに家光のときの「慶安御触書」には豆腐は贅沢品として、農民に製造することを禁じています。 そのころの将軍家の朝食は、豆腐の淡汁、さわさわ豆腐、いり豆腐、昼の膳には豆腐をいったんくずして加工したものが出されていたといいます。

実際に湯豆腐の料理は、水、昆布、豆腐だけです。実際の調理方法は、地下水のチカラ、炭火のチカラ、鉄鍋のチカラ、そして素材のチカラだけです。これらのチカラを如何に引き出すか、それは私の和の調理の原点でもあります。これらは精進料理ともいいますが、だからこそ澄み切った深い味わいを楽しめるのです。

そして豆腐の80パーセントから90パーセントは水分ですから、この水が重要なのはすぐにわかります。そして豆腐をつくるのは熱ですから火です。この水と火の具合をよく直感し研ぎ澄ませて手間暇と時間をかければ必ず人間が全身全霊で美味しいと思えるようなものができてきます。

私は調理師免許などもなければ、料理人として生計を立てているわけではありません。しかし暮らしを甦生するなかで、何が本来の料理だったか、何がはじまりだったかは学んできました。

学びというものは、単に知識を得て資格を取る事ではありません。すべて伝統の智慧や先人の努力の積み重ねた今の中に生きていますからそれを謙虚に学び、それを今に甦生させていくだけでいいのです。

世界に誇る、日本ならでは和の料理とは実にシンプルなものです。

今日も、先祖が深く関係しご縁があった懐かしい来賓があります。主人のおもてなしと生き方を観ていただき、一緒に団欒を味わいたいと思います。

暮らしとは何か

暮らしという言葉の定義も時代と共に変わっていきます。現代は、かつてのような懐かしい暮らしは消失し、仕事の中に少しだけ暮らしの要素が残っているくらいです。本来は、暮らしの中に仕事があるのですが仕事が暮らしよりも優先されているうちに暮らしが失われていったように思います。

この「暮らし」という言葉にも会社の「理念」と同じように目的と手段があります。暮らすことが目的であるのか、暮らしは手段なのか。会社であれば理念が目的であるのか、それとも手段なのか。

さらにシンプルに言えば、何を優先して生きていくのかということが暮らしにも理念の言葉の定義を決めているのです。つまりは、単なる生活や生計ではなくそこには「生き方」があるということです。

暮らしをするというのは、生き方を優先して貫いて実践していくということです。同様に理念を実践するというのは、生き方を優先するということです。

私は、会社でも実生活でも常にその暮らしや理念を優先して生きています。働き方改革といわれ、様々な手段が世の中に横行していますが実際にその手段をやることが改革ではありません。

日本という国もまた働き方改革では日本は変わりません。本来の日本を変えるには、生き方改革をする必要があります。生き方改革をするには、それぞれに真の意味で自立していく必要があります。自立するためには、生き方を決め、生き方を変える勇気が必要です。そしてその勇気は、協力や思いやり、そして正直さなど社會そのものの徳をみんなが高めて磨いていくしかありません。

そのためにもまずは、自分が生き方を決めて実践していくことでそのような社會になるように努めていくことが世の中をよりよくしていくことになるように私は思います。

暮らしというものは、日々のことですから小さな日々の選択が必要です。生き方と異なるものをいちいち生き方に照らして取り組んでいく必要があります。ブレないで理念経営を実践するかのように、同様に生き方も磨き続けなければなりません。

しかしその生き方を磨き続けることで、人は真の意味で安心が得られ、穏やかで確かな自信に満ちた生活が約束されていくように思います。お金があるから老後が安泰なのではなく、権力があるから安寧でもない、自分自身を生きること、自立することでしか本当の安心立命は得られないということでしょう。

私たちは子ども第一義の理念を掲げていますから、日々の暮らしもまた子ども第一義の暮らしを社員一同、私も含めて目指しています。その具体的な手段が少しずつ顕現し、働き方も改革されていくのは心地よいことです。

流行を追わず、時代に合わせることは大切なことです。時代は私たちのいのちも含めて時代ですから、私たちが自立することで時代は創られていきます。日々に実践を深く味わい楽しんでいのちを使い切っていきたいと思います。

スタートアップの本質

昨日は、アニス・ウッザマン氏からのお誘いもあり郷里の嘉穂劇場で世界60か国で開催されているスタートアップワールドカップの九州予選を見学する機会がありました。今回の予選ではスタートアップを目指す10社から4社ほどに選定され、アメリカである決勝に進出するまで勝ち上がっていきます。

プレゼンもユニークなものがありましたが、15分間ずつ講演されたミドリムシで有名なユーグレナの出雲充社長や、マイクロソフト社の澤円氏のプレゼンテーションです。

出雲社長からは、努力し挑戦することの価値を語られ、澤氏からはマインドセットや生き方について語られました。まさにスタートアップの本質とは何か、何のために起業するのか、そしてどうあるべきかという原点を語られておられました。

お二人に共通していたのは、できない理由を考えていてもできはしない。それにやれない理由などは何の障害にもならない。人生は一度きり、自分の生き方を貫くことに信念をもって正直に生きることというように私は感じました。

自分を貫いていくことはとても大変ですが、人生において何よりも大切なことです。それは決して頑固になれということではありません。自分を信じ続けるために努力と挑戦を続けていくということです。

誰もが不可能と思えるものでも、誰もが失敗するといったことであっても、自分自身が信じたものを自分自身が最期まであきらめずにやり切ること。後悔をしない生き方をしていくということです。

まさにこの地、この場、この空間で語られるスタートアップはかつての挑戦者たちへの追悼であり、新しい起業家へ向けたエールでもありました。

故郷でその情熱を燃やし、一期一会に生きようとする志をもった方々が集まりこれから一緒に何を挑戦するのか。これからの新たな時代の幕開けがとても楽しみです。

オリジナリティ

東京の渋谷に20年ほど住みながら福岡の故郷の行き来を毎月何度もしているとわかってくることがたくさんあります。

都会に長く住めば住むほどに、故郷の良さが分かってきます。最初は都会に憧れていてもそのうち地元の住みやすさや風土美の美しさに心が惹かれていきます。都会か否かかという比較がここでしたいわけではなく、それぞれの良さが分かってくるのです。

実際に地元に帰ってくると、お店などはみんな都会にあるような新しいもので似たようなものを真似してはそこで流行っています。都会では当たり前であることが田舎ではないので地元ではきっと新鮮なのでしょう。フランチャイズなどの大手企業の戦略もありますからより一層その傾向が強くなっています。そこではもともとの地元の個性よりも、都会的な似たような店舗デザインや料理が流行っています。

東京だと、日本中のあちこちの料理が食べられ地方のイメージの店舗デザインが多種多様にあります。さらには、田舎でしかないような建物を移設したり、自然物で装飾したりとこだわりがあります。おかしな話ですが本来は田舎や地元では当たり前のものを都会では採用し、逆に田舎では都会にしかないようなものを採用しているのです。

先日も東京から来たお客様を地元で最近人気で流行っているというお店に案内しましたが食べ終わったあとの感想で「表参道にありそう」とか「銀座に似た店があったよ」などを言われました。それだったら都会でいった店の方がいいという具合です。

わざわざ都会から田舎に来てまで都会的なものを体験しても都会の人は喜びません。同時にいくら都会で田舎でしかできないような自然の体験をしたとしても田舎の大自然には敵いません。

私は都会と地元を行き来していますから、都会にしかない良さ、地元にしかない良さも知っています。しかし実際にここまで都会と地元が混ざり合ってくると個性がなくなってきていることがわかります。日本人は個性をなくしていくことばかりにすべてをつぎ込んでいきますがもっと自分を信じて尖っていくべきです。世界ではそういう尖った人たちがその地域の魅力を引き出して掘り起こしていくからです。個性とはそのように磨かなければ出てこないのです。

そして明らかな個性がなければ、都会でも地元でも魅力はなくなります。どのように個性を磨くか、それが都会か地元かではなく大切な要素になるのです。子どもたちも同様に、都会的か地元的かではなく個性を磨き個性を発揮することで良さを出していくのが本来の魅力の発掘です。

引き続き、地元でオリジナリティを追求し風土の魅力を最大限に引き出していきたいと思います。

 

日本の味の伝承

日本の味というものがあります。それを和食とも言います。和食とは何か、その定義はそれぞれにあるように思います。私も数寄で料理をしますが、日本の和食料理の原点、源流というものがあると思っています。

その一つにとても大切だと私が感じるものは、全体と調和するものということがあります。他を邪魔せずにお互いに支え合う、縁の下の力持ちのような存在の味わいです。

これはかつての稲作の伝統行事であったり、神道の祭祀であったり、歴史の日本の先人たちが徳の高い生き方をしている中に観ることができます。全体調和しながらもオリジナルの個性がある。他を受容しながらも、自立している。そしてそれが美しく豊かで多様な味わいを出していることです。

たとえば、料理であれば水、そして火を中心にして料理します。その水もその土地の自然の湧き出たものがよく、火もまた炭火や小さな枝木などの弱火がいいのは当然です。

そのうえで、昆布や鰹節などを用いてじっくりと出汁をとります。主食は玄米の深い味わいを炭火と鉄の鍋と竈で炊くことで蒸していきます。天然の天干塩もまた、それぞれの素材の深い味わいを引き立てます。

まさにこの辺こそ日本料理、和食の源流であり原点であると私は感じています。

だからこそ本物の素材であることは、私は子どもたちに料理を伝えるために何よりも大切な要素であると思っているのです。本物の水、本物の火、本物の鰹節、本物の昆布、時間と手間暇、古来からの自然調和する製法にこだわったもので料理することの大切さを伝承したいのです。

特に幼児期の子どもの感覚は原始的なものを持っています。この原始的なときこそ、原点や源流を味わうことで和食の伝統が伝承されていくのです。私はもともと料理人の肩書とか持っていませんし、資格もありません。

しかし何のために料理をするのかといえば、そこに子ども第一義の理念の実践があるからです。それぞれに目的が明確であれば、具体的な手段はすべて理念を実現するための方法論の一つとして表現されていきます。

これから鰹節を削り手作りの発酵味噌を焼き茄子と一緒につくりますが、日本人の味わいを言葉ではなく真心で伝承していきたいと思います。

優先順位

経営者には勇気というものが求められるものです。それは優先順位を決める必要があるからです。生き方とは、優先順位を守るということですから具体的な経営には必ずその優先順位を選択するための勇気が出てきます。

経営学の父と呼ばれたPFドラッカー氏はこう言います。

「優先順位の決定には、いくつか重要な原則がある。すべて分析ではなく勇気に関わるものである。第一に、過去ではなく未来を選ぶ。第二に、問題ではなく機会に焦点を合わせる。第三に、横並びではなく独自性をもつ。第四に、無難で容易なものではなく変革をもたらすものを選ぶ」

このどれもが先延ばしではなく、曖昧ではなく、本来の理念を定め何を今何にもっとも自分を使うべきかということが問われます。自分自身が決めた理念や初心を貫くと決めたなら自ずから優先順位は決まってきます。目の前の諸事に流されるのではなく、本来自分が最も決断をし実行すべきことが何かがはっきりとするのです。

そして優先順位をはっきりさせて実行するときにこそリーダーというものの存在の価値が明確になってきます。そしてPFドラッカー氏はリーダーの心得を「リーダーたることの第一の要件は、リーダーシップを仕事と見ることである」と説きます。そしてこういいます。

「リーダーシップとは、組織の使命を考え抜き、それを目に見える形で明確に確立することである。リーダーとは目標を定め、優先順位を決め、基準を定め、それを維持する者である」

まさに優先順位を守り続けるものこそがリーダーシップだということを定義しています。その上でリーダーに必要な欠かせない大切な資質をこういいます。

「リーダーたる者にとって最も基本的な資質は、真摯さである」

この真摯さというものは、自分自身を信頼することです。言い換えれば、自分の魂や心に嘘をつかない、自己自他に誠実であれというのです。つまり、リーダーとは生き方を優先し、働き方を導けということだと私は思います。

謙虚であることは、勇気が必要です。自分自身であるために常に日常で試されているものに立ち向かい、日々の試練によって理念や初心を磨き続けていかなければならないのです。

そして勇気は冒険がつきものです。冒険するのをやめたとき、人は同時に謙虚さも失うのかもしれません。

「日常化した毎日が心地よくなったときこそ、違ったことを行なうよう自らを駆り立てる必要がある。」
リーダーの生き方は、優先順位であることを改めて自戒し、納得のいく日々を歩んでたいと思います。

場道家の思い

昨日は福岡県朝倉市比良松で手掛けている古民家甦生の写真撮影を行いました。改めてビフォーアフターを体験していると、家が磨かれること甦ることに大きな仕合せを感じます。

私は建築家でも設計士でもありません。ただの人です。しかしそのただの人が、家と出会い、家に指導してもらい、家に磨いてもらえる。その家の持つ徳が引き出されていくことで私自身の徳もまた引き出されていく。まさに日本伝統の錬磨や研磨のように、お互いに磨き合える存在に出会えたことに何よりも幸せを感じます。

おかしなくらいに本物にこだわり、狂っているといわれるくらい家が喜んでいるかどうかにこだわっていく。ただの変人のようになっていますが、やはりそれでもそれだけ魂を篭めて取り組んだ仕事には空間に余韻が残ります。

私は大工でもなければ左官でもなく、職人でもありません。

しかし魂を篭めてその家と共に甦生し世の中を一緒に変えていこうとする志だけはあると信じています。志が一体何の役に立つのかと思われるかもしれません。目にも見えず、何もしていないようにも感じられます。志は、その「思い」にこそあります。思いがあるだけで何ができるのかといわれても、思いがなければ何もはじまらないとも言えます。

「思い」をどれだけ純粋に磨いたか、「思い」をどれだけ本気で高めたか。ここに私は魂の仕事の醍醐味があると信じているのです。

家が甦生し、その居心地の善い空間に佇んでいるとそこに永遠を感じます。家の暮らしがここからはじまると思うと、ワクワクしうれしく豊かな気持ちになります。家主のご家族が、一体どのような物語をここから紡いでいくのか。いつまでも福が訪れてほしいと願い祈る気持ちが滾々と湧いてきます。私が民家が好きな理由はここにあるのかもしれません。

私の本業は子どもの仕事をしているものですが、子どもの仕事といっても色々とあります。私の定義する子どもは、いのちの未来です。その子どもたちを見守る環境をつくることが本業で、私はそれを祈るときに仕合せを感じます。

いつまでも空間に子孫の繁栄を願う徳が活き続けられるように、私は場道家としての役割を真摯に果たしていきたいと思います。

いのちの音

昨日は、聴福庵でスイス人のトロンボーンの奏者と日本人の16歳の歌手のセッションがありました。言葉も通じず、年齢差もかなりありますがその二人が音楽を通して新しいものを創造する場に立ち会えたことは仕合せでした。

今回のテーマは、家の声を聴くことでしたがとても印象的だったのは奏者が即興で家の中のあちこちに音を聴かせ同時に家の声を響かせ聴くというセッションでした。家の中にある古い道具たちが共鳴しているようで、みんなで音を響かせようと誘っている様子に楽しい気持ちが沸きました。

また歌手の方は、むかしの懐かしい唄をアカペラで奏でてくれてその唄によって心に情景や情緒が沁みこんできました。純粋な想いや澄んだ歌声に家も参加者も魅了されました。

幼い子どもたちも一緒に音楽を楽しみ、色々な場所に移動しては色々な角度から熱心に聴き入っている様子に音楽の可能性を改めて学び直しました。

よく考えてみると、私たちの暮らしは様々な音に恵まれています。生きていれば、色々な音を感じています。このキーボードを打つ小さな音たちや、私の呼吸の音、そして心臓の鼓動、鳥たちの声や朝陽が昇る音、そして地球の音、あらゆるいのちの音を私たちは日々に聴いているのです。

日々に人に出会えば、それぞれの仕事の道具たちが奏でる音、そこで働く人たちが一緒に語り合い協力する音であったり、争いや不満の競争や孤立の音であったり、言語ではなく心は音で聴いています。

音を静かに聴けば、本当の音が聴こえてくる。

耳がテレビや電子音、その他の雑多な忙しい生活でセンスが衰えていきますが本来の私たちの耳は心を通じていのちの音を聴き分けていたのでしょう。

改めて音楽の深さや魅力を知り、いのちの接し方があることを学びました。子どもたちにいのちの音が伝承できるようにこれからも学び続けていきたいと思います。

 

音を楽しむこと

古民家甦生を行いながら出会った道具の中に、様々な音を奏でるものがあります。音は、それぞれに独特の響きがありうっとりするものや、心が澄まされるもの、気持ちが引き締まるもの、様々です。

それらの音を心で聴き入っていると、なんともいえない楽しみに出会います。まさに音楽の原点はこれらの音の響きを味わい盡す中に存在しているように私は思います。

例えば、現在古民家でご縁があって飾られたり祀られていたりする道具には拍子木や、銅鑼、おりんや風鈴、団扇太鼓や陣太鼓などもあります。人に何かを知らせるために用いられたり、風情を味わうために用いられたり、魔除けで使われたり、お経を讀むときの法具であったり、御祭りのときや戦場での合図であったり、音はそれぞれの用途によって様々な音色を奏でます。

古来、私たちの民族は様々な音を楽器にしてコミュニケーションを行っていました。言葉がたとえ通じない生きものたち同士であっても、その音の響きから通じ合う共通の感覚を持ち合わせていました。

優しい音、怖い音、警戒の音、安らぎの音、危険な音、それらの音の本質を見極め、音を暮らしの中に取り込んでいきました。現代はメロディーやリズムばかりに目が行きがちですが、本来の耳で聴く原始的な音に対してもっと懐かしみ親しむ必要があるのではないかと私は感じます。

なぜなら音は、私たちのいのちの姿の顕現したものだからです。生き方に触れて人はいのちと出会います。いのちは音であり、音がいのちを伝えますから音を楽しむことはいのちを楽しむことにほかなりません。

本日は、不思議なご縁に導かれて聴福庵でスイス人の音楽を愛するミュージシャンと地元で4歳頃から唄を歌い、人々を唄で仕合せにしたいと夢見ている若い日本人の歌手がセッションをします。言葉の壁も超え、歳の差も超え、音を中心につながりみんなと音楽を楽しみます。

日本には天地開闢から八紘一宇という理念がありますが、世界人類が平和であることを祈るのにこの「音楽」はとても美しく素晴らしい和を奏でる道具であることは誰もが認めるところです。聴福庵が子どもたちの未来に向けて、一つの舞台として活躍してくれるのが楽しみです。