見極める目

物事を観察するのに、何が本質で何が本質ではないかを見極める目というものがあります。私たちは知識が増えていくうちに、あるがままのものが見えなくなっていくものです。それは知識によって知るという行為で現実が曇っていくからです。現実が曇るというのは、澱んでいる水のようにも似ています。

つまり透明で澄んだ状態ではないので見えるには見えるけれど明瞭に本質が見えないということです。それは心の状態にも影響していきます。そもそも心というのは何もなければ常に自然と同様にあるがままのものが観えるものです。

むかしの人たちはそれが観えていたからこそ、その自然や野生が持つ力を知り、それを活用して暮らしを営んできました。いのちの持つ循環やその効果などもあるがままに澄んで観えていたようにも思います。その証拠に、今でも先住民族や野生がのこっている人たちはその感覚が残っています。

しかし長い時間をかけて感覚ではなく、知識によって知ることを優先されてくると頭ではわかっても実際には観えないという状態がはじまります。こうなってくると、現実が曇ってきてよくわからないことを共同で信仰するかのように理解する社会になってきます。

例えば、地震や自然災害などは本来は畏敬と共にむかしの人たちは備えましたが今では一週間程度の備蓄と多少の装備と訓練すれば大丈夫のような感覚になっています。そんなはずはなく、現実にその時が来たらなぜそんなところに住んだのかやなぜ現実がわからなかったのかと曇りが取れます。

東日本大震災の時も、津波に原発とあの揺れと犠牲の大きさに私たちは自分自身の現実が曇っていたことに気づいた人がたくさんいたように思います。その澱みに気づいて心を澄ませて人生を換えた人も多くいたように思います。知識が通用せず、如何に知恵が大切かということにも目覚めた人も多かったように思います。

しかし歳月が過ぎ、また似たような知識ばかりを詰め込んでいるうちに気づくと曇り澱んできて元の木阿弥になります。

だからこそ如何に人間は曇らないように澱まないように心を澄ませていく暮らしを実践し日々を調えていくかにかかっているように思います。今は、自然災害が猛威をふるい、そして地球環境も人間社会も大変革期に入っているからです。

子どもたちが安心して未来を今を曇らせないように自然に寄り添った生き方、自己を磨き澄ませていくことの大切さなどを伝承していきたいと思います。

暮らしの実践

観えないものを観る力というものは、実践によって磨かれていくものです。日々の掃除をはじめ、日々の内省、初心に向かってコツコツと新鮮な気持ちで取り組み続けることで観えないものが観えるようになる境地の会得というものがあるように思うのです。

これは武道をはじめ、伝統継承の方などもその境地の会得によって一般的に観えないものを観えるようになっています。その証拠に、それを言葉にして実際に見せることができるところまで結果を出しているからです。

続けることというのは、変化を観続ける力です。継続は力なりとありますが、本来は力の本質は継続にこそあるということでもあります。最初は自分が観えるようになるまで実践をし、観えるようになったら気になりますからそれをお手入れし保ちまた時代の変化にあわせて革新し続けるように精進するようになります。

バランスという中庸もですが、中庸がわかるというのは中庸でいるということですがこの中庸は中庸を実践し続けている状態、観えないものが観え続けている状態、たとえば自然の循環やいのちが観え続けている状態のように意識がバランスを保つこと調えてある場に定着して離れないほどに取り組む状態であるということでもあります。そしてこれが暮らしの実践でもあります。私の暮らしというのは、本来その意識を保つためにあるともいえます。

現代は、資本主義などにょり仕事や経済活動が中心になって暮らしはその隙間に少しだけある程度で語られます。経済の中にある暮らしは、道具を販売したり、衣食住がよくなるため、またそれを実践するワークショップや講演会をやったりと経済と紐づいているものとして語られます。しかし本来の暮らしは、そもそも生き方のことであり生き方が暮らしにまで昇華されているということでもあります。

日本人の先人たちは、自分たちの生き方を暮らし方にまで到達させてきました。それを徹底して実践することで、自己の修養や精神、魂を磨き上げてきました。日々が精進と修行のような暮らしをしていますが、その中で感謝に満ちた足るを知る生き方を実践してきたのです。いのちを活かし、ものを活かす、徳に報いて喜ぶ仕合せの境地を会得しておられました。

私の提唱している「暮らしフルネス」はそれを今も先人たちと同じように体験することによって、日常のなかで幸福や仕合せを味わえる生き方を体得できるようになるという仕組みになっています。しかし、これも境地の会得までは実際には実践しないとあくまで一過性の体験で暮らしが変わることにはなりません。

暮らしを変えていくということは、実践をしていくということです。

子どもたちに先人たちの遺してくださった生き方や暮らしの真の豊かさを伝承していけるように引き続き暮らしフルネスの実践を味わっていきたいと思います。

いのちの知恵

私は循環という言葉をよく使います。この循環には様々な意味があります。例えば、めぐるという意味、あるいは全体調和という意味、他にも様々なところで用いられます。

私の場合は徳が循環する経済という言い方をして表現しますが、これは現代の価値観の中で表現するギリギリのところです。そもそも徳というものが何か、そして循環とは何か、経済とは何かということがあっての組み合わせの言葉です。

そもそも言葉は組み合わせでできています。私たちが何かを理解するとき、基本的には全体を理解して一部を切り分けてそこから全体の何がそれなのかという理解をします。

地球を理解するには、宇宙の中の地球になりますし日本になれば世界の中の日本となります。常に全体を広げて相対的に理解するとき私たちはその意味を自分の知りうる認識の海の中で全体のどこに配置するかを定めることで知識を得ます。

しかし古代、古来、本来は知識というものになる前はどうだったでしょうか。言語がなかった時といっていいかもしれません。それは知恵があったということです。知恵とは、言語ではないもの、相対的でも全体でもないもの。存在そのもののいのちのようなものが知恵です。私はこの知恵を表現するのに徳といい循環といい経済といいます。そもそも徳は循環のことです、切り分けられることのないいのちすべてのこと。その姿そのものは循環しています。循環の中にあるから知恵です。これは水の中に流れているものこそ水としていのちとし循環と観るのと似ています。また経済は経世済民のことです。社会のことであり共生や貢献しあう相互扶助の関係のことです。これは体の内臓がすべて循環して助け合い体を維持するようにすべてが繋がり結ばれ調和するから経済になっているということです。

現代の経済は、経世済民の徳治の経済ではなく単なる手段としての経済になっています。それは今の医学のように、内臓のその部分だけをみてそれをよくすればいいという短絡的に切り取られた知識としての経済のことです。

知恵というものは、私たちの伝承の文化の中にこそ生き続けているものです。その知恵こそ野生であり本能であり、偉大な知識の集大成であり結晶です。先人たち、あるいはその知恵を持ち続けていきている先住民族たちはみんな当たり前に徳も循環も経世済民も知恵で一体となって調和し続けています。

言語が増え続けてさらに知識は細分化されて増大していますが、そろそろこの過渡期に終止符を打ってもいいのではないかと私は思います。AIはますます知識の切り分けによっていのちから遠ざかります。

遠い昔、先人たちが実現させた知恵を今一度、子孫たちもバランスよく得られるような環境を甦生していく必要を感じます。日々の暮らしフルネスを通して、いのちの知恵を伝承していきたいと思います。

骨の人

反骨精神という言葉があります。意味は「反骨精神(はんこつせいしん)」の意味は、「不当な権力や世の中の不正に立ち向かったり、時代の風潮や世論などに反抗する心持ちや気概」だとあります。ただ、反抗的な態度という意味ではなく、長いものに巻かれろといったみんながそうだから自分もとはならず、自分に正直に生きるというものに近いように思います。

しかしその語源は一体何だろうかと調べてみると「反骨」は、中国の古い逸話が語源で「叛骨」とも書くそうです。これは中国の仙人が、骨をひっくり返して自分に施術を行い、体調を整えたとの逸話です。「反」にはひっくり返すという意味があります。

一度は見てみたいものですがどうも三千年に一度体調をととのえるため自分に施した術で、骨をひっくりかえすことだといいます。三千年に一度というのは、どういうことかなと感じます。

この「反骨」と同じようにな意味の言葉に「気骨(きこつ)」があります。この気骨とは、自分の信念を貫く強い心のことだそうです。そう考えると、骨とはどのようなものか。私たちの体は最後は骨だけが残ります。その骨がどうなっているのかという意味から考えると、見えてくるものがあります。

世の中には、権力や権威があります。それに媚びる人もいます。長いものには巻かれた方がいいと勧めてくるものです。別に権力や権威に反抗したり反対したいという気持ちがあるわけではないのです。それぞれに大切なお役目や役割があり、それを真摯に全うされている方もたくさんいます。問題はそういう状況の方が楽だからと、身近な側近や周囲の方がうまく立ち回り不誠実さを感じることの方が多く、そうはなりたくないと距離を置くだけです。裸の王様のようになっていくのは、権威や権力が強すぎるからで謙虚さを保つことが環境的に難しくなっていくからです。

私はもともとあまり権力や権威が入ってきません。なぜだろうと思うと、媚びるのが苦手だからかもしれません。媚びることがわからないのです。尊敬するからこそ、媚びたくない、尊重するからこそ媚びられない。媚びろと言われて試しに媚びてみても、媚びた真似になってしまい媚びていないのです。

媚びていないから反骨精神の人といわれたりします。そうではなく、なぜかうまく周りのように媚びれないだけです。そのうち諦めてしまううちに、今の自分が醸成されていきました。

なぜ媚びれないのかを分析してみると、「何のために」という目的意識が強いのと、「もともとはどうなのか」という元来や根源に興味が強すぎるからです。そして自分がそうなりたくないなと思うと自分ごとになって他人事のように対応できなくなるからです。

そう考えると、権力や権威というのは組織や集団、人間の集合意識が生み出したものです。だからこそ、そんなものよりもその人そのものを大事にしたいと思うほどに反骨精神が出てきます。

仙人の境地にはとてもまだ入れませんが、仙人を目指して気骨を鍛えて磨いていきたいと思います。

私の伝統

私は色々なものを甦生していますがその一つの伝統というものがあります。そもそも伝統というものの定義は曖昧なものだと最近は感じています。最初からすべてのことはほとんど伝統ともいえます。誰が農業をはじめたのか、誰が林業をはじめたのか、創業100年とか500年とかいいますが、実際には農業はもう人類がはじまったくらいからありますから数万年あるいはもっと長く続いている伝統です。

10年でも伝統といえば、1000年でも伝統という。しかしその伝統とは、結局は続いているということを言っているように思います。むかし、誰かが発明したものが今でも採用され続けてどこかで使われているということです。

そしてそこにまた逆説があることがわかります。誰も採用しないものは伝統ではないとかということです。採用されないものを伝統だからと遺そうとするのは無理があるように思います。文化財の保存なども、私の場合はすぐに活用しようとしますがその活用を否定する人もいます。しかし活用を否定して伝統を守るというのは不可能ではないかと私は思うのです。一時的に、誰も採用しないので保存しておこうとするのはわかります。しかし実際には、活用しようとすると法律や日本独特の空気感で新しいことをするなと言わんばかりの声もでます。

本来、伝統とはその都度、新しく磨き上げていくものです。なぜなら、採用し続ける状態、活用し続ける状態を維持していかなければならないからです。

私も古民家を扱えば、色々な専門家からあれは間違い、これはわかっていないだのご指摘いただくことがあります。もちろん、それは学び、深め、理由を理解しますがそのうえで自分の好きなように改善します。なぜならそれが活用だからです。他にも、宿坊を甦生するとどうしても世間から見れば宗教染みたことをやってしまっていたりします。別に特定の宗教や宗派、ルールなど周囲を気にしていたら何もしない方がいいということになってしまいます。何もしなかったら活用できませんから維持存続することもできません。そうなれば伝統はそこで終わってしまいます。

私が考える伝統は、活用ありきなのです。活用するというのは、ちゃんと自分のものにしてそれを新しくし、使い続ける創意工夫をしていくということです。その時、それまでとは形が変わってしまうかもしれません。もちろん先人の知恵や技術、そして思想や真心などは当然尊重して尊敬していますがどう使うかはその時々の人たちの全身全霊ですから同じことはできません。

同じことなどは存在しないのですが、同じことを形だけ続けることよりも先人たちと同じようにその時代を真摯に生きてその真心と丹精を込めた生き方を実践していくことで人事を盡すことしかできないと私は感じます。

そもそも伝統とは革新のことです。つまり伝統=革新なのです。だからこそ、私の取り組んでいる仕組みは、これからの伝統を創造しようとする人たちの仕組みの参考になるのでしょう。

子どもたちや子孫を第一優先して取り組むからこそ、私は色々と批判や非難をされても、ご迷惑を多少おかけして人間関係でも少し距離を置かせていただいていてもこれは自分の使命だと思い取り組んでいます。

先人たちが譲り遺してくださった未来を、そのままにさらに新たにしてもっと先の未来のために創造を挑戦していきたいと思います。

変化を味わう

人は自分の人生の経験をどう深く味わうかによってはじめてその意味を感じ取るように思います。あれこれと脳で考えて、良し悪しを裁くことがあっても本当のところはどう感じてどう味わったかはその人にしかわからないものです。

100人には100通りの人生があり、また同時に100通りの味わい方があります。それぞれに与られた自分の人生を、どう味わいどう感じるかはその人の主体性が必要です。よく自分軸という言い方もしますが、自分の人生をどう味わうか、その責任は自分で持つということでしょう。

誰かを比べて、羨ましがったり妬んだりしますがそれも味わうことを疎かにしていることだったりもします。自分がこの世に生まれてきて何を体験したいと思っているのか。喜怒哀楽そして苦労も多いですが、どれも必要なことが起きているともいえます。

そう考えてみれば、必要なことをすべて味わい盡していくためには素直さや謙虚さ、そして丸ごと含有できる寛容さや感謝があります。感謝というのは、思えば当たり前ではないことに気づくことのように思います。

少しでも体調を崩せば、当たり前だった健康が懐かしくなる。急に一人になれば、家族や仲間がいたことが有難いと思うようになる。これは雨が降らなければ雨が恋しくなり、降り続ければ洪水や土砂崩れなどの心配がくる。

人間の心や感情というものは、その時々の変化であちらこちらに移動していきます。しかしよく考えてみたら、心や感情が動くからこそはじめて味わい深いものに気づくともいえます。何も変化がなければ味わうことが難しいのです。

変化があるから味わうことができ、その変化に対してどう味わったかというのが私たちのもともと持っている感覚なのでしょう。すでにあるものに気付けるか、もともとあるものをもう一度思い出せるか。まるで記憶にアクセスするかのように、変化を体験し、その時の懐かしい味わいを思い出します。

人生は一期一会、その時、その場所、その人、そのご縁は一回きりで同じことは二度とありません。日々の変化を深く味わい、変化と共に唯一無二の今を味わっていきたいと思います。

徳の宝

明日の守静坊の夏至祭の準備で宿坊を調えています。もともとこの宿坊の伝承では、夏至に太陽の光を鏡に受けるという行事があったといわれています。今は、もう文献も残っていませんがそれを甦生させてみようと試みています。

本来、神事というものは形式が問題ではなくその本質が何だったかを学び直すことのように思います。繰り返し伝承されるものは、形式が問題ではなくその伝承したものの本体をどう承ることができたかということによります。伝える方がいなくなったのなら、伝える側が使ってきた道具たちやものたちに物語を謙虚に教えてもらいそれをなぞりかたどるなかでその真心を直感していくものです。

私が甦生をするときは、まずよく「聴く」ことからはじめます。この聴くは単なる思い込みを外すだけではなく、そのものがどうしたいのか、何のためにあるのか、もともとはどうだったのかと深く丁寧に時間をかけて取り組んでいきます。そうしていると、早ければ数日、遅くても数年から十数年で次第にその本質にたどり着くまでの情報やご縁があちこちから集まってきます。

そのためには、そのものへの敬意や畏敬の心が必要です。何かを学ぶというのは、それだけそのものから学ばせてもらうための心の姿勢が大切になります。わかるとかわからないとかという心情ではなく、真心に対して真摯に応えるという真剣さが必要になります。それは深く礼を盡して、純粋で素直、そして謙虚であるかという心の基本が立っているかどうかによります。

自然から学ぶ、自然から聴くというのもまた同様です。

今回の夏至祭もまた、どのようなものであったのか。それを今、辿っていますが太陽の徳を感じています。太陽は、広大無辺に私たちいのちがあるものを遍くすべてに徳を与え続けます。その姿は見返りのないあるがままのものです。

そして夏至は、その太陽の光がもっとも長く、高く、広く、私たちの今いる場所を照らしてくれています。植物たちや木々を英彦山の山中でよく観察していたらこの太陽に徳に報いようと一生懸命に成長しているのを感じます。成長するというのは、この果てしなく広大な太陽の恩徳をいただいているからだと気づきます。

一年に一度、私たちは徳の存在に気づくことがこのお祭りの本質であり、そしてその徳を一年、そして一生忘れないで暮らしていこうとする意識こそ太陽を拝む生き方なのかもしれません。カラスもまた、太陽の使いや太陽に住む鳥ともいわれます。英彦山には烏尾観音や烏天狗の伝承もあります。太陽と深く結ばれ、太陽に祈る文化があったように私は思います。

当たり前に気付ける感性、もともとある存在をいつも感じる感性は、徳を磨く中にこそあります。今の時代は変人だと思われるかもしれませんが、太古のむかしからつながっている物語を今の時代も変わらずに実践し、子孫たちへ徳の宝を結んでいきたいと思います。

土と共に歩む 士魂を磨く

いのちというのは、どこから来るのか。それは私は土から感じます。土から新しいいのちは芽生え、そして土に還ります。土は私たちのいのちを支えている存在です。この土とは何かということです。

私たちの住む地球は、天地によって存在します。天は、空であり宇宙です。そして地は土のことです。土がある御蔭で私たちは食べ物を循環させることができ、水を貯蔵することもできています。

植物などは、土からいのちをもらい一生を廻り子孫をつくり循環しています。その植物を食べて私たちも循環しますが、よく観察するとそれは土が巡っているということです。つまりは、土こそ私たちの正体でありその土が豊かであればあるほどに私たちは安心して暮らしていくことができます。

土は、生死のめぐりが豊かであるところほど豊かです。様々な生き物たちが住んでいる、そして共生して生死を無限に繰り返すなかでますます土は発酵していきます。もともとこの発酵というものは、いのちが活かされ、いのちが好循環をするなかで行われていくものです。

自然界では、すべてのいのちが輝き活き活きすることで喜びあえます。土はその喜びを貯蔵したものであり、土があるから新たな喜びが生まれ続けます。農というのは、本来は自然の摂理に生きることです。

農薬を撒いたり、工業化したり、化学肥料を使ったりすることが本当の農ではありません。農的暮らしをするというのは、土と寄り添い、土に生き、土と共に歩んでいくといういのちの道に生きるということです。

私は有難いことに、農的な暮らしを実現されておられた人物との邂逅によってそれを深く学ぶことができました。その方の足跡を私は追いかけ、そしてその足跡の先を往きます。

土とともに、ますます士魂を発酵させてこれからさらに一歩進めます。

ありがとうございます。

天地自然の学問

早朝から鳥の鳴き声が聞こえてきます。鳥はなぜ鳴くのか、それぞれに縄張りを知らせるからや雌への求愛からなど一般的に言われています。私たちはほかの生き物を認識するとき、人間が特別で別の生き物は別のもののような認識をします。

しかし実際には、目もあり耳もありそして手足もあります。共通するところをよく観察すると似ているところがとても多いことに気づきます。違いばかりを探すよりも、似ているところを観察すると自分というものと同じところがあることを認識します。すると次第に、その生物のことを深く感得していくことができるように思います。

そもそも多様性というものは、尊重するために必要な言葉です。生物も何らかの天性や個性があり、固有の意識や魂もあります。それぞれに意味があって生まれてきて、この自然界の中で大切な役割を果たしていきます。それを尊重しようとするのが多様性を理解する本質だと思います。

鳥もまた、季節ごとに活動していますが自然の役割があります。その役割をよく観察するとき、豊かに生きることや仕合せであることなどが共通していることに気づきます。

鳥が鳴くのは、私の感覚では感情があるからです。単なる合図だけで鳴いているのでもなく、対話をするだけではなく、私たちが自然に感情がこみあげてくるように鳥にも同じように感情が湧きます。私は烏骨鶏を長いこと飼育していますが、その日その日の感情で鳴き声が微妙に異なっているのがわかります。悲しいときには悲しい鳴き声を発し、怖がっているときには怖がっている鳴き声を発する。自分の感情を鳴き声で伝えているのです。

私たちの体は感情を伝えるように機能が発達しています。例えば、目というもの。目は口ほどにものをいうともいわれますが目は自分の感情をそのままに現わします。鳥もまた同じく、苦しそうな時には苦しそうに目が表情を映します。楽しそうなとき、うれしそうなときも同じように表情が出てきます。

そしてこれは鳥に限りません、犬にも猫にも同じことがいえますしもっといえば、虫や植物にも同じことが言えます。つまりこの「感情」というものは、この地球のすべてのいのちに宿っている共通のものということです。

私たちは変に勉強しているうちに細部がわかっても全体がわからなくなっていきました。本来は、自分と同一であるということを忘れて人間だけが特別かのように勘違いしていきました。ここから学問は崩れ、専門家たちのものになり本来の天地自然を尊敬し尊重するという意識が薄れてきたように思います。

本物の学問は、天地自然を相手にするものだと私は思います。古来の普遍的な大道を生きた先達たちような生き方をこれから結んでいきたいと思います。

水を守る

梅雨入りをしてずっと激しく長雨が続いています。水という物質はいまだに謎が多いもので科学でも完全に解明することはできません。というより、解明したのはほんの一部でありそのほとんどが謎というのがこの自然界の特徴でもあります。

それなのに人間は知った気になって考えることをやめてしまっていますが、好奇心というのはその謎を畏敬し直感するときに湧いてくるもののようにも思います。

宇宙で様々な科学があるのもまた、その好奇心から宇宙の物質の一つを解明する過程で新しい技術は開発されてきました。それでもなお、宇宙の謎に完全に迫ることはなくそれくらい奇跡の存在がこの私たちであるという事実がわかります。

近年、水が一つの性質のものではなく二つの性質が混ざり合って一つになっていることがわかってきています。液体に氷が浮くというのもその二つの性質が存在するからともいわれています。不思議なことですが、この世の中心は陰陽という二つの性質が混ざり合って構成しています。その構成したものを先祖たちは理解して、その原理を活用して物事の本質を見極めていったのでしょう。

水に話を戻しますが、私たちの地球は水の惑星ともいわれています。水が惑星全体を覆い、その水が循環することで私たちは存在できています。人間の身体の構造もまた、水が全体を覆い、その水を循環させることで生きています。こう考えてみたら、そもそも水がなければ成り立たず、私たちの存在は実は水ではないかとも思えるほどです。

水がいのちであり、いのちが水である、そして人間もまた水ということになります。その水は色々なものを溶かしていきます。そして変化して已みません。その水を私たちの体も通して別の生き物に循環していきます。その循環する過程で、ろ過をして伝達していきます。あらゆる場所、物、空間すべてを水が透過していくのです。温度を持ち、変化し、そしてまた形を変える。そうやって巡り続けていくことで水は存在します。

この水の惑星地球は、水が覆っているから地球でありその水が別の惑星にいけばそこが新たな地球にもなります。火星にも水があるといわれていますが、むかしあった大量の水はいったいどこにいったのか。なぜ流れなくなったのか、循環しなくなっていったのか。そこに水の性質が二つあることを連想させます。

水が永遠の謎ですが、この永遠だからこそ水の本体を顕現させているのです。

子孫のためにも、水に守られていることを忘れず、水を大切に守り続けていきたいと思います。