面白さと継続

物事は継続することで改善されていきますが、単に続けることは継続することはでないようにも思います。続けられるのは、好奇心が必要で常に面白いことや新しいことに興味を持ち挑戦し続けているから改善されていくものだからです。

改善されなくなることをマンネリとも言います。これはマンネリズムのことで芸術や演出などで手法が型にはまり、独創性や新鮮味がなくなっていくことをいいます。次第に、好奇心や興味が失われていくと、自分の中で続けることの面白さや興味が失われていきます。

そうすると結果として続けているものが、本質的な継続ではなく単に同じことを繰り返しているだけになり飽きてしまいます。飽きてしまうと、続けることが苦痛になり最後は続かなくなり改善もまた行われません。

継続する力というのは、言い換えれば常に新鮮さを保ち続ける工夫とも言えます。新しいことに挑戦し続けることや、面白いことを深めていく中ではじめて継続と改善というものがあります。

そう考えると、「面白い」と思える日々を楽しむことや、本気で自分の納得し好きなことに没頭することは継続や改善の質を高めていくように思います。それだけ本気で研鑽を積み、全身全霊を打ち込んだなら面白さが増していきます。

守破離という言葉もありますが、これは本質的な継続と改善によって出てくる結果なのかもしれません。

子どもたちに豊かな今を遺せるように、日々新たな気持ちで挑戦していきたいと思います。

メンタルトレーニングの意味

昨日、ある会合で打たれ強さについて話をする機会がありました。人間は長い目で観ると何かを上手にやれるかどうかよりも、打たれ強い人の方が物事を成就する力が秀でているように思います。

本来の持ち味や、大切な時に力を発揮するためにもメンタルの強さというのは必要になります。そのメンタルは、鍛錬できるものとしてメンタルトレーニングというものがあります。

一般的にはメンタルトレーニングをイメージすると競技スポーツの訓練の中で意志・意欲・決断力などの精神力を強化するトレーニングがあります。他にも瞑想による精神統一や、故意に困難な状況を設定してのトレーニングなどによって、大事な場面であがってしまうことを防いだり、自信ややる気を高めたりするのに役立つといわれています。

人間は体調や環境の変化で心も変化します。弱気になっている時もあれば、強気でいられるときもあります。私の経験では、はじめて何かに取り組むときや、困難に直面するとき、あらゆる場面で、心は変化していきます。

どんなときにも平常心や不動心を維持するには、心の強さが必要でそれは誰もが最初から備わっている能力ではありません。様々な経験や鍛錬を通して、忍耐力を身に着けて心の持ち方を身に着けていくのです。

人間は生まれてからなんでも思い通りになどなるわけではなく、その都度障害が出てきてはそれに立ち向かっていきます。幼い子どもたちを観ていたら、様々な困難や理不尽な大人の圧力、社会環境などを影響を受けながら自立に向けて挑戦をしています。

思ったようにいかないとき、時には涙し、時には感動し、時には笑ったりしていますが、そのどの体験もその人を育ててくれています。その都度、心は強くなり優しくなっていきます。

私は心の強さとは、心の優しさであろうとも思います。

心優しい人は、矛盾を受け容れ、全体を思いやりながらも本質を維持することができます。そこには、心の寛容力のようなものがあり、心の持ち方をいかようにも転じていける柔軟性が存在しています。

気力、体力、精神力など、生きていくと様々な力を使いますがこの生きる力を高めていくことは人間人生の最も重要なテーマです。

生きる力を見守る私たちだからこそ、自分たちがその体験を通して子どもたちに還元していきたいと思います。

忍耐の徳

以前、私に「忍耐」ということの価値を教えてくださった方がいます。言葉では知っていたものですが、私はその方にお会いするまで「我慢」ということとあまり違いがないように認識していたように思います。

人生は様々なことが発生しますが、それを真っすぐに受け止めて敢えて忍耐を味わうことで心の持ち方を転じる生き方を観て感銘を受けました。その生き方は、まさに生きる力根源であり、人生というものを丸ごと味わい成長しようとするいのちの醍醐味を感じました。

人は、心の持ち方次第で立っている場所がたとえ同じでも世界の見え方が全く変わってしまうことがあります。同じ太陽でも、同じ風でも、同じ出来事であっても、心の持ち方次第では別世界になっていきます。

自分を生きるというのは、自分の世界を創造していくということですから自分がどのような人生を生きようとするか、自分の人生をどのような世界であろうとするかはその人の生き方が決めるのです。

そのうえでこの「忍耐」というのは本当に素晴らしい徳目であろうと実感したのです。

忍耐というのは、どのような時にも生き方に不動の心を持ち、そして全ての出来事を丸ごと心で受け止めるといった「心の持ち方」の指針なのです。私自身も、その方の生き方を通して、不動心を持てるようになりたいと思うようになりました。

言葉の表現はそれぞれに異なっていても、憧れる生き方や尊敬する生き様はみんな共通するものがあります。もともと目指す在り方を今の時代でも伝承していけることは、それぞれの人生の指標になりそれが子どもたちに伝道されていきます。

学んだことを学んだままにお返しできるように、自己との意味づけや人生の醍醐味を大切にしながらご縁を紡いでいきたいと思います。

徳循環経済のモデル

「サーキュラー・エコノミー」という言葉があります。これは直訳すると「循環経済」となります。世界の人口増にともない、資源乱用・廃棄により地球の環境が破壊されていくなかで人類はこの問題に正しく向き合う必要があるとして近年この言葉も出てきました。国連も「このままのペースで地球温暖化が進んだ場合、早ければ2030年にも深刻な気候変動が生じる」と警告し、「あと12年しかない!」と危機感を世界に発信しました。

人類の意識の改革として現在の大量生産大量消費の経済から循環経済への転換は、「取って、 作って、捨てる」という意識を「取って、作って、作り続ける」の意識に換えようというのが一般的な概念です。実際には、現在の資本主義経済の仕組みそのものの大転換、人類の個人による富と貧困の欲望との挑戦ですから一筋縄ではいかないのも明白です。

海にはプラスチックゴミが膨大にあり、空は排ガスやフロンなどで汚染され、土は農薬や廃棄するゴミが埋まり、食べ物は添加物や薬品漬けになり、生き物たちは絶滅を続けていく。この現状のままでいつまでも環境破壊が続けば、巡りめぐっていくらお金や富があっても社會が崩れれば個人もまた崩れるのは自明の理ですから人類が協力して何とかするしかありません。

人類は、欲望と道徳といったもののバランスを保つ必要があります。自然の一部として利子で暮らしてきた持続可能な社會の時と比べ、現在のように自然を凌駕し自然を征服して根こそぎ奪い取ろうとすれば持続不可能なのは誰でもわかります。

それが分かっていても心の余裕やゆとりを失い自分だけは決して損をしまいと、みんなで競争し自利自得ばかりを追いかければ余計に競争は激化し、さらに余裕を失い安価で便利で安いもの、スピードや効率優先、つまりはお金ばかりを求める経済が加速して環境問題が引き起こされていくのです。

豊かさの価値観を転換するというのは、人類の意識の一大事ですが誰かが率先して取り組もうとしなければこの競争は終わることもありません。どんな未来にしていきたいか、どんな社會にしていきたいか、人類はそれぞれにそれぞれの場所や人種で文化を醸成してきました。文化があるところに余裕もまたあるのです。

日本の歴史を鑑みれば、発展させた循環経済は江戸時代の江戸は無駄がなくみんなが協力し合って都市を形成してきました。自然のものを活かし、永く無駄なく使い切り、みんなで協力し分け合って助け合い暮らしてきました。そういう文化を持っている私たち日本人は、本来世界に先駆けてサーキュラー・エコノミーのモデルを発信していける国民なのです。

子どもたちのことを思うと、今しかできないことに気づきます。一円対話で産み出す傾聴による心の余裕も社會教育の一端ですし、暮らしの甦生で取り組む様々な実践もまた本来の徳の豊かさに気づく社会変革への一端です。たとえ小さな挑戦であろうとも、強い意志で臨めば仲間が顕れ時間をかけて人類の意識の改革に貢献できるように思います。

カグヤの実践を通して、日本的な徳循環経済のモデルを実現していきたいと思います。

 

甦生の思想

今回、組子ガラスや格子戸をなるべく多く取り入れて古民家を甦生しています。最近では洋風建築が増えていく中で組子を使ってものも少なくなってきましたが模様の入った木組みの建具や窓を観ているとその美しさにうっとりするものです。

そもそも組子というのは、組子細工とも呼ばれ、小さく切り出した木片を、釘を使わずに組み合わせて美しい幾何学模様を描く工芸品のことをいいます。木片の切り出しから行い、各パーツには組み合わせる際にパーツ同士を噛み合わせるための溝を彫ります。切り出したパーツをカンナやノコギリ、ノミなどを使って調整し、一切釘などの金属を使わずに丁寧にひとつひとつ手作業で組み合わせます。木を組み込んでいく工程は紙1枚の厚さでもずれてしまうと組み付けが出来なくなるほどの細かい作業で、熟練した職人の技術と木を知り尽くす知識が無いと作ることができないほどです。一般的にも最低でも10年の修業は必要だといわれています。

組子の歴史は現存する最も古いものは飛鳥時代に建てられた法隆寺の金堂や五重塔などの高欄に施されています。そこで今でも仏教建築の一部で伝来してものではないかといわれます。

平安時代末期には建具が貴族の暮らす寝殿で使われ室町時代には書院造りの建築で使われます。そして障子の桟や襖などにも細工を施すようになり装飾もより細かく美しいものになったといいます。江戸時代には数々の紋様と組み合わせ種類も200種類以上を超えるといわれています。

これらの紋様は、唐紙のときのブログにも書きましたが先人たちはその紋様に偉大な意味を見出して、紋様の力を身近に受け取ることで健康や幸福、願いや祈りの縁起にしてきました。ちなみに組子と合わせて格子というものもありますが、この格子は格子のマス目は魔物を見張ると言われ、魔除けの意味があります。細かく数が多いマス目は、子孫繁栄の思いも込められています。格子は権威や伝統の象徴として世界の建築で使われています。

これらの組子の紋様や格子を通して光が入ってくる陰影の美しさは、まさに光の芸術でもあります。私たちは、あらゆる紋様から自然の叡智を学び、自然を身近に生き方を磨いてきたのでしょう。

時代が変わっても、大切な生き方が伝承されていくように子どもたちへの祈りを形にして甦生の思想に活かしていきたいと思います。

復古起新

日本では少子化や過疎化の影響を受け、廃校になるところが増えてきています。さらに、全国の自治体で学校の統廃合を進めた結果、ますます廃校が増えています。

私の郷里にも、数年の放置でまるでお化け屋敷のように廃墟になってしまっている廃校がカラスをはじめ野生動物の巣になっていたりします。解体費用がかさむことと、使い道がないことからそのまま放置されているのでしょうが空き家問題と共にこれから解決していかなければならない重要な課題の一つです。

文部科学省の「文部科学統計要覧」によると、1989年(平成元年)の小学生の数は約960万人、中学生の数は約561万人だったが、2017年(平成29年)には小学生は約3分の2の約644万人、中学生は約4割減の約333万人まで減っているといいます。そして、2002年度から2015年度までの14年間に全国で6811校、年平均486.5校が廃校になっています。つまり、これからも年間500校近い学校の廃校が進んでいくことになるのです。しかし建物も壊れないように頑丈に建てられているため、解体する費用も多大な資金が必要になります。そのため何とか廃校を活用しようと、文部科学省が「みんなの廃校」プロジェクトというものを推進して活用が広がっているとも言います。

具体的には、オフィス・工場、児童・高齢者などのための福祉施設、アート創造拠点などの文化施設、体験学習施設・宿泊施設など、大学・専門学校などの教育施設、特産品販売・加工施設などで利用されています。

空き家問題も同様ですが、その場所が時代に合わなくなり使われなくなったものをどう温故知新するかという問題は時代の変化と共についてくる問題です。人が集まらなくなった場所に、また人を集めるのですから目的が明確でなければなりません。

何のためにその場所を使うのか、つまり目的を定めその価値を磨いていかなければその場所の甦生は難しいのです。

むかしは「見立て」といって、あるものを別のものに見立てて蘇らせる智慧が先人にはありました。今の時代のように単一消費のみの一方通行の世の中ではそのアイデアも出にくくなってきているかもしれません。現在の経済合理性の資本主義の世の中では、再利用ということもその経済価値観の中で判断しますからまた消費されて同じように空き家や廃校になっていくのです。

私が取り組む、復古起新は「磨く」ことに力を入れますから根本的な価値観を根底から変えてしまう仕組みです。引き続き、子どもたちに大切な文化が伝承されていくように実践を積み重ねていきたいと思います。

 

自然農の豊かさ

昨日、福岡にある自然農の田んぼで草取りと合わせてイノシシとスズメ対策を行いました。昨年、同じ時期に稲の花の咲くころに田んぼに入ってきてはぐちゃぐちゃにされましたから今年はと思っているとやっぱりまた入ってきていました。

自然と共に生活をしている野生動物の田んぼに入ってくるタイミングはいつも同時期でよく作物を観ているし、よく時機を外さないものだと感心するばかりです。大体、イノシシが入ったあとはスズメが入ってきますからこちらも毎回同じようにタイミングが分かってきますから対策もまた取れるものです。

昨日は、イノシシ除けの柵を設け、スズメ対策には釣り糸を田んぼに張り巡らせました。残りは、カメムシやウンカですがこればかりは農薬を使っていませんからどうにもならずカマキリや蜘蛛、その他の生態系を増やすことで対策を立てるしかありません。

今年は苗があまり元気がなかったからか、穂をつけるタイミングや根の張り具合などもあまりいいものではありません。しかし、野生の農場の中で様々な野草に負けず劣らずに真摯に生きる姿からたくさんの勇気と誇りをいただきます。

稲たちの育つ力を信じるということは、育つ方に加勢するのではなく見守る方に加勢していく必要があります。それが場づくりであり、それが環境づくりであり、関係性づくりです。

これらの相互扶助の努力によって、自然の恩恵を身近に感じていのちは充実していくのです。そのいのちの歩みと共に保育することは、自分自身のいのちを見守ることにもつながります。

自然農の豊かさというものは、収量のことが第一ではありません。どちらかといえば、この野生の中で自分もしっかりといのちを充実させていくその自然を味わい、自然の恵みや力を味わうことの豊かさがあるように思います。

お金では買えないもの、今の一般的な価値観では測ることができない喜びや仕合せがこの田んぼの中には無尽蔵に存在しています。

暮らしは、いつもわたしたちに本物とは何かを教えてくれます。引き続き、子どもたちの未来に向けて脚下の実践を積み重ねていきたいと思います。

智慧のつながり

物事の中にはないものの中から何かを産み出すという発想と、あるものの中から何かを産み出すという発想があります。しかしそれを突き詰めてみると、すでにあるものの中からしか産み出していないという事実を知ります。

どんな素材もどんな内容も、私たちの短い命の中の知識では見えていないだけで本当は永遠のつながりの中で存在しているものをちょうどよい時期に思い出して引き出したかのように産み出していくのです。

新しいものというものや古いものという時間的な感覚の中で私たちは、その新旧に意識が捉われていますが実際には本物があっただけです。その本物とは、すでにあるものの中からもっとも本質的であるものを産み出したということです。

その本物とは、歴史の中に存在していますし、自分の五感の中にも存在しています。そして記憶の中にも存在し、細胞の中にも存在します。そのほか、美意識の中にも存在し、場の中、空間の中にも存在します。

そういう存在を発見できる力こそが、本物を引き出す力なのです。

本物を引き出すには、自分が本物を知る必要があります。そしてその本物は、自然の智慧の中から引き出されていきます。私たちのいのちのつながりは、智慧のつながりでもあります。

智慧のつながり、まさにそれが伝統の力なのでしょう。

引き続き、暮らしの甦生や民家甦生から人類の甦生、社會の甦生を産み出していきたいと思います。

新しい経済

現在の世の中はなんでも使い捨てるように動いているように思います。まだ使えるものでも、消費社会の中で消費していく。私たちのことを消費者とも呼び、常に何かを消費することで経済に貢献するという言い方です。

最近では、SDGsの関係からエシカル消費という言葉も出てきました。これは「倫理的」という意味で、倫理的消費という言葉に訳されます。簡単にいえば、できるだけ倫理的な商品を買うことで社会を変えていこうという言葉です。

具体的にはよく聞く言葉に「フェアトレード」や「オーガニック」や「地産地消」、「障がい者の支援につながる商品」、「応援消費」、「伝統工芸」、「動物福祉」、「寄付付き商品」、「リサイクル・アップサイクル」、「エシカル金融」なども言われます。

つまりただ単に消費するのではなく、消費に伴う文化的価値や社會をよりよくするであろうと思われる長期的な循環経済のために消費を見直そうということです。

現在は、使い捨て消費がいきついて資源が枯渇するまで消費しようとする世の中です。そのうち資源が尽きて限界に達し、循環する仕組みそのものまで崩れていきます。自然環境の破壊だけでなく、人間社会の関係もまた破壊されていきます。

そうならないように、如何に社會をよりよくしていくかというのは人間社会の最大の使命であり課題です。

私は今の消費というものを少しよくしようと考えても価値観の転換までは難しいのではないかと感じています。本来のあるべき姿は、自然から少しお借りしてお返ししたり、もしくは自然に対して私たちが貢献する分からの利子で暮らしを豊かにしていくといった先人の智慧こそこの時代の価値観を変える原点になるのではないかと感じています。

人間は生き方が変わらない限り、社會も変わることはありません。しかし言い換えれば、生き方が変わるからこそ社會もまた変わるのです。

子どもたちが安心して暮らしていける世の中にするために如何に今の世代が挑戦するかが大切です。新しい経済、新しい価値観、新しい時代を創造していきたいと思います。

本来のはじまり~祈りの原点~

神仏習合と神仏分離という言葉があります。日本にはもともと八百万の神々という思想がありますから、本来はすべてのものには神様が宿っているという自然信仰ですが歴史の中で色々と意図的に変化させられてきたとも言えます。

神仏分離や廃仏毀釈においては明治政府が発令した神仏分離判然令を含む、神仏分離に関わる法律の数々、その目的はそれを起草した人々の思想を少し紐解くとわかります。

例えば、津和野藩の藩主亀井茲監、福羽美静らが主導となって、神仏分離令と呼ばれる種々のお布令が出ます。これは、祭政一致・国家神道の確立を目的にして国家をまとめる宗教の体系化、国家を精神的に一つにまとめること。そして徳川の時代の否定として徳川幕府の時代に人民の管理をする役所のような働きをしていた寺院からの支配権の奪取や、思想的な改革をすること。

この明治の頃の神仏分離令は、西欧列強に負けないように国家を一つにまとめ上げる為に行われました。この神仏分離令は仏教を中心に排除しましたが同時にキリスト教等の排除も行ったといいます。

そして廃仏毀釈がはじまります。仏像、建造物、経典等々、後世に蛮行と言われる考えられないような破壊を繰り返したのです。これにより寺院は半数が日本から消えたと言われ、残った寺院でもその規模は大きく縮小したといわれています。

ここまでして結果的には政府の目論見は失敗したといいます。国家をまとめるために利用した神道を国民全体に布教するために設立した神祇省も機能せず結果的には数年で廃止し、代わりに仏教側の手助けを借りて設立した大教院・教部省ができますが、それもすぐに廃止され国家神道を国民に行きわたらせることはできませんでした。

神仏分離により、それまでの神仏習合の神様まで名前も分離され仏教の影響を取り除こうとしました。そして本来の寺院の名前も新しく塗り替えられたために、うちの地元のように妙見宮という名前がなくなり日若宮になったり、八龍宮が水祖神社になったりとそのまま変わったままです。

そして戦後、昭和20年にはGHQが政府に対して発した覚書(国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ 保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件)とし、覚書は信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止し政教分離を徹底しました。

このように今、私たちが見知っている宗教はそれまでの過去の歴史のものとは別のものになっています。本来のはじまり、神仏習合からの現在までの歴史も書き換えられたのはほんのこの100年前後のことです。

自分たちが暮らしの中で祈り育んできた道徳は、頭で認識するものとは別に遺伝子じめ伝統と伝承の中で私たちの文化の血肉に根付いています。その証拠に、日本人は有難いや勿体ないやご縁、そして慎まさや礼儀正しさ、正直さなどをもっている人ばかりです。

引き続き、本来のはじまりを深めながら子どもたちにあるがままを伝承していきたいと思います。