観えない質量

事物は一つの事だけに一つの作用というということはありません。一つの事物には複雑で偉大なつながりがありますから一つの作用は全体に大きな影響を与える複雑な作用になります。

例えば、一つの作用に対してどれだけ本質を突き詰めたかどうかでは全体に与える影響が変わっていきます。練習の一投と、本気の一投ではその全体に与える影響が異なります。

どれだけ事物に本気に、どれだけ深め、そして極め、何よりも本質のままに取り組むからこそ多大な影響を全体に与えるのです。そしてそれを可能にするのは、その人の初心に対する向き合い方や、正直に取り組む本気の覚悟、また志を貫き実践する真心によって決まります。

事物には、そこに可視化することができない観えない質量が存在するということです。これは「祈り」にも似ています。真摯に祈り、実践し行動することの中には無駄がありません。それは祈りが与える影響が複雑な作用を産み出すからです。

人が議論をするとき、すぐに作用のある側面ばかりについて話します。そのために「何のために」ということの本質は語られにくくなっています。それを突き詰めている人だけが本気の議論ができ、そうでない人は意味が分からないから話が深まらないのです。

人はその行動において、また事物はその現象において「何のために」が問われています。どの行動にも現象にも理由があり、その理由こそが本質に適うからこそ明確な影響を実感することができるのです。

私が取り組んでいることも、なかなか理解されることがありません。ただの奇人変人の部類のように思われているかもしれません。しかし、子どもたちの未来を案じ、今の自分たちが磨くことの大切さを肝に銘じ、私の身体と心のすべてでできる実践のみを積み重ねています。

いつの日か至誠の積み重ねによって志を継いでくれる方が顕れ、先人たちの真心をあるがままに伝承できるように祈り育てていきたいと思います。

景観とは何か

以前、ドイツに訪問したときにその街並みの美しさには感動したことがあります。ドイツでは、戦後の復興の際に戦争で破壊された街を時間をかけて元通りの美しい街並みに復興するために都市計画を立てたといいます。

それを着実に数十年取り組んできたことで、今ではドイツらしい温故知新に取り組み街並みもそれに応じて美しく変化したのかもしれません。

歴史を調べると日本では関東大震災後にアメリカの都市美運動の影響を受け、都市計画関係者の間で「都市美」という言葉がしばしば用いられたようですが激化する戦争、戦災からの復興、高度経済成長という過程の中では合理性や経済性が優先され景観への配慮といった要素は主観的なものと考えられ軽視されるようになったといいます。

そして高度成長期以降は生活様式の変化で自然、都市や農村の景観も大きく変化し、鎌倉、飛鳥、奈良、京都といった日本の文化史上特に重要と考えられる地域まで合理性と経済性が入り込み景観が壊れていきました。

長い目で観て復元をしてきたドイツに対し、日本は目先の損得が押し切られ様々な法律が裏目に出るようになり古い町並みや古い建物は復元することもできず凄まじい勢いで壊され便利な建物、便利な街に変化していきました。田舎にもフランチャイズの店舗や、大型マンションが建ち、どこもかしこも画一的な街並みになっていきました。

2003年には国土交通省から「美しい国づくり政策大綱」を策定されました。そして2004年(平成16年)に景観法が制定され「美しく風格のある国土の形成、潤いのある豊かな生活環境の創造及び個性的で活力ある地域社会の実現」が目的にされています。しかし具体的にこの景観法が何ら規制を行うものでないためそれぞれの自治体が景観計画などを定める必要があるといいます。

みんな我先に、自分さえよければいいと好き勝手に利益ばかりを追い求めてしまうと街並みが壊れていきます。これは自然の中に都市を勝手につくり、様々な生き物たちが追いやられていくことに似ています。

本来の都市とは何か、その土地の風土の中で共生していくとは何か、そういうものよりも経済合理性のみを追求してきたツケが子孫たちに残されていきました。長い目で観て、経済合理性だけではない道徳的なものを如何に大切にバランスを保って維持するか。

世界が今、取り組んでいるSDGsも同様に持続可能な経済をどう保つかはこの経済と道徳の一致を目指すからです。

まとめればつまり、景観にはその景観に生き方が映るということです。その景観が美しく豊かであればそこの人々の生き方が映ります。そしてまた景観が懐かしく新鮮であればまたその場所の人々の生き様が映ります。

都市計画とは、生き方計画でもあるのです。

子どもたちがどのような街で暮らしていくか、子孫たちにどのような生き方を伝承していくか、私たちは今こそ、戦後復興のプロセスから学び直し、本来の復興とは何か、原点回帰してまちづくり、国造りをしていく必要を感じています。

今、私にできることから取り組んでいきたいと思います。

暮らしの喜び 

以前、スイスやドイツ、オーストリアの田舎を旅したことがあります。そこには美しい景色の中で暮らす人々の姿もありました。その景観はまるで一体化しており、どこまでが人工物でどこまでが自然物かわからないほどでした。

日本にも、いくつかの里山ではむかしからの懐かしい風景が残っている場所があります。ここと同様に、暮らしの景観というものはその風土と一体になっている美しさがあるように思います。

現代は、風景や景観などは気にせずに自分の好きな建物を建てようとします。ある場所に行くと突然、派手な色の西洋建築風のものがあったり、田舎に都会的な建物があったり、風景や景観などは気にせずに自分の好きなようにしています。または、駐車場にしたり、倉庫にしたり、廃材置き場にしたりと、それも好き勝手です。

風景や景観が壊れても気にせずに、自分の都合ばかりを優先するうちに景観や風景の美しさが次第に消失していきます。

私たちは風景や景観というものの恩恵をたくさんいただいています。美しい景色の中に自分があるということの存在価値が自分の美しさも引き出していきます。先ほど紹介した海外の田舎の風景のように、自然と一体化して美しい建物がある場所はそれだけで懐かしさや落ち着いた安心感、その人々の暮らしの喜びが伝わってきて美しいさに見とれます。

この暮らしの喜びとは、風土に存在するだけで恩恵を与えられている仕合せに生きることです。その風景や景観の恩恵に感謝しながら暮らすからこそ、先人たちや風土人たちの家や建物はその風景や景観と一体になるものを建てるのです。そうすることでその風土の自然が循環し、穏やかに持続し、共生し合えるようにその土地の材料を活かし、その風土の循環がさらに調和し活性化するように暮らしを組み立てることができたのです。

この暮らしの「美しさ」というのは、そのようにお互いに恩恵を享受し合い利他を実践しながら生きる姿です。美しい暮らしとは、お互いに利他の実践をし徳を積みながら自然を美しみ、共生を愛し、貢献し合うことに仕合せを味わう日々を送ることだと私は思います。暮らしが消失し、暮らしの美しさが消えたのはなぜでしょうか。個々人が好き勝手に利己的に生きる姿の中が増えてきたことが原因ではないかと感じています。

日本人の本来の美しい暮らしを甦生することは、日本の風景を甦生させていくことです。そしてこの美しい暮らしの甦生には、この自然や風景や景観は欠かせません。自然の恩恵に気づき、自然を味わい、自然を大切に共に生きていく。子どもたちのためにも今、私ができるところから守り育んでいきたいと思います。

田圃の暮らし

昨日は、千葉県神崎町にある「むかしの田んぼ」で草取りを行いました。今年は日照時間が少なく、成長が例年よりも芳しくないのですが田んぼに入るとそれでもすくすくと元氣に生きている田んぼや稲から多くの力を貰って気がします。

この田んぼの「んぼ」は、「田圃」はもともとは当て字であるといわれます。田面(たのも)や(たおも)が音が変化したともいわれています。例えば、田圃道と書けば(たんぼみち)となります。

田畑という言い方もしますが、これはむかしに田んぼと畑の両方で暮らしを営んでいたことが関係しています。田を畦で囲った田圃に対して、その田(た)の端(は)で作物(け)をつくるという意味で「畑」となったという説もあるようです。私は、てきりアメンボは、雨の坊であり田んぼは田の坊というように生き物に見立てていたのではないかと思っていました。

日本には、むかしから妖怪といった人間でも神様でもない不思議な存在が様々なものに宿っていたと信じられてきました。道具が妖怪になっていたり、天気が妖怪になっていたり、様々なものの不思議を身近に感じて暮らしてきたとも言います。

田圃と共に生きている様々な存在もまた、私たちの暮らしの一部です。

そして昨日の草取りでは、ヒエ、ホタルイ、オモダカ、クサネムなど稲の生育の阻害するものをできる限り手作業で取り除いていきました。今では、除草剤という便利なものを使って田んぼに人が入ることがありませんがそれは稲にも必ず悪い影響を与え、田圃の生態系も崩れていきます。

私たちのむかしの田んぼは、収量を優先せず生きものたちの豊かな場づくりを優先してお米作りをしています。そしてその場で暮らす私たちもその一部として一緒に田んぼの中で生きていきます。

こうやって田んぼと共に暮らすことはとても豊かなことで、それは金銭では得られない喜びや仕合せがあるのです。これを徳という言い方をします。二宮尊徳がかつて「報徳」という言い方をしていましたがこれはこのむかしからの恩恵の中心であった田んぼから学んだものかもしれません。

現代に必要な大切な教えは、すべてこの田んぼが持っています。

田圃の暮らしを通して、子どもたちに大切な真心を伝承していきたいと思います。

直観オタク~無を信じる~

学とは何か、それは今の時代では勉強することだと一般的に思われています。しかし実際には勉強のために勉強などはなく、本来は自己を磨くために学はあります。そして学は己に問うことですから、学問とは自己を研鑽することが本来の道理であろうと思います。

そして学を磨いていくと直観というものに出会います。私はむかしから直観タイプですから、余計に自己内省と直観オタクのように日々を生きています。この直観とは、単なる当てずっぽをしているのではなく、自己との対話によって意味を深め続けているということでもあります。

西田幾多郎氏は、直観についてこのように記されているところがあります。

「私は昔、プロチノスが自然が物を創造することは直観することであり、万物は一者の直観を求めると云つた。直観の意義を、最能く明にし得るものは、我々の自覚であると思ふ。自覚に於ては、我が我を対象として知るのであり、知ることは働くことであり、創造することである、而して此の知るといふことの外に我の存在はない。」

知行合一するとき、そのすべての行為は直観となるように私は思います。本物の直観とは、知識と実践が分かれないのです。同時に考え行動し反省しまた実践する。つまり実践の中に智慧があり、智慧の中に反省があり、まるで自然一体のように本能と理性が融和し統合している状態になっているように思います。

「併し作用が作用の立場に於て反省せられた時、時は更に高次的な立場に於て包容せられて意志発展の過程となる。而して乍用の乍用自身が自覚し、創造的となる時、意志は意志自身の実在性を失つて一つの直観となる。而してかゝる直観を無限に統一するものが一者である、一者は直観の直観でなければならぬ。」

そして直観は意志そのものとなり、自己実現をします。自己実現とは直観そのものの姿のときであり、そこは「分かれていない」という状態になるのです。

「史的唯物論者は対象、現実、感性という如きものが、従来客観または直観の形式のもとに捉えられて、感性的・人間的活動、実践として捉えられなかった、主体的に捉えられなかったという。対象とか現実とかいうものを、実践的に、主体的に捉えるということは、行為的直観的に物を見ることでなければならない・・・どこまでも理論は実践の地盤から生まれるこということでなければならない」

まさに直観とは、実践が先であり真理をあとに知ることで意味を深め意志を確立していくのです。つまり直観は意志の姿であり、意志は直観になります。この状態は無我ともいい、無限ともいい、融通無碍ともいい、無為自然であるとも言えます。

偉大な存在と一体になって行動している状態、まさに自然の一部として自分の天命を全うする状態、まさにここに直観の醍醐味があるのです。私に言わせるとつまり直観とは無の姿なのです。

私は直観を何よりも信じるものですが、そのためには自己を徹底して研鑽し続けなければなりません。信念や理念、意志に従って自己を律し、高め、実践を積み重ねていく必要があります。

しかしこれが活きることの本質であり、いのちや魂を全うするということの仕合せと直結しているのです。直観で生きるためには、妄念や雑念を取り払い、如何に今に集中し今をやり切るかという命懸けの豊かさと共にあります。

引き続き、直観を磨いていきたいと思います。

深淵を生きる

どのようなこともその道を深めていけば誰もが同じところに到達していくものです。これは登山も同様に、どのルートで登るのかはその人次第ですが登る頂が同じであることと一緒です。

人生も同様に、人は生まれ必ず死に至ります。しかしそれまでの道のりをどれだけ真摯に深めて生きたかで、どこまで到達することができたかが異なります。

人生は長さではなく、その深さということかもしれません。

吉田松陰がこうも言います。

「人の寿命には定まりがない。農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、いずれも天寿に達することにはならない。私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。」

この深みのことを「深淵」といいました。この深淵とは、底がとても深い場所、つまり終わりがないくらい底知れないことのことを言います。

達する先に、さらにその奥深さがある。そして頂上の先に宇宙がある。一つの道を究めてもまだその先の深さがあるということは私たちに何を意図してくるのか。

人はその深さを学ぶことで、自己を確立していくのかもしれません。

一日一生、大切に今を生ききっていきたいと思います。

新しい場

むかしから私たちの先祖たちは、暮らしの中で仕事をしていました。今では仕事の中に暮らしを入れようとしていますが実際には暮らしがあって仕事があるので仕事しかしていない現状が多いようです。暮らすように働くという言葉が出回っていますが、本来は働くこともまた暮らしの一部であったのです。

そもそも職住一体というのは、暮らしを通して働いていることをいいます。日々の人生の暮らしを豊かにするために職業もありました。それぞれに天職をみんなが持ち合い、それぞれの持ち場、持ち味を活かし合って社會を形成してきました。

社會というものは、「和」することで豊かになります。その和は、暮らしを実践していくなかで顕現してきたものです。社會が豊かになっていくというのは、みんなが暮らしを豊かに楽しみ人生を充実させていくことと同じなのです。

例えば、むかしから大事に譲られたものの中で暮らしを味わっていくこと。他にも、懐かしい思い出と一緒に暮らしを彩ること。些細な日常生活の変化に目を向けて自然と調和しながら成長を味わうこと。

暮らしは、特別なことではなく本来の当たり前に回帰することで得られます。職住一体もまた、家というものの存在を改めて見直し、その家を手入れしながら共に暮らすことで得られます。

私が目指している、民家甦生は暮らしの甦生のことでもあります。

暮らしが甦生していくと、懐かしく調和したなかで働くことができていきます。安心する環境があるというだけで人は天職や天命に出会えるようにも思います。

引き続き、子どもたちのためにも新しい「場」を創造してみたいと思います。

手入れの生き方

全ての道具には「手入れ」という方法があります。その道具に合わせて、様々な手入れ方法がありその通りに手入れをしなければかえって傷んでしまうことがあります。しかし現代は、大量生産大量消費の時代の流れの中ですぐに新しいものが出ては古いものは捨てますから手入れすることがなくなってきました。

そのうち手入れする手間をかけるよりも新しく買った方が早いし安いという風潮が広がり、今ではほとんど手入れ道具も手入れ方法も知らない人たちばかりになってきました。

どんな道具も、物も手入れしなければ長持ちすることはありません。それは道具は使えば使うほどにすり減っていき、摩耗摩滅していくからです。末永く大切に使うものは、摩滅する瞬間までそのいのちを使い切ります。

以前、民藝品を見学したことがありましたがその民藝の道具たちはみんな手入れによって美しく輝ていました。私が今、古民家で活用している和包丁も明治のものや江戸のものがあります。

今でも研いで手入れすれば、大変な切れ味で料理をおいしくしてくれます。他にも、革製品、紙製品、木製品、土製品、すべての自然物を加工したものは手入れさえしてあげていればいつまでも美しく輝き続けるのです。

この道具や物たちの摩滅するまでの期間に私たちが取り組むべき実践は「磨く」ということです。磨くからこそ摩滅しますが、磨くからこそ美しく光ります。この光らせていくという実践は、それぞれが丁寧に心を籠めて努力していくことです。

これは自分自身にしてもそう、所属する会社や仕事でもそう、そしてまちづくりや国造り、地球への貢献や自然との共生においてもそうです。

どれだけ真摯に自ら磨こうとしたか、その努力を惜しまなかったかが全体を調和させ、平和を永続させていくのです。そしてこれは「生き方」であるとも言えます。

現代の問題は、この手入れする生き方が失われてきたことです。

もう一度、子どもたちに大切な生き方が伝承されすべてのいのちが大切に扱われそれが未来の平和を持続させていけるように手入れの生き方を伝承していく必要があると私は思います。

引き続き、実践を楽しんで続けていきたいと思います。

強いチーム、真の優者

昨日、致知出版のメールマガジンの記事で日本代表で主将、監督を務めた平尾誠治さんの文章を読んで強いチームの本質を改めて実感する機会になりました。

そこにはこう書かれています。

「強いチームというのは、指示された通りに動くだけではなく、 イマジネーションというのを膨らませて、 それぞれの状況に応じて何をすればいいかを考え出すチームです。 これからは特にそういうことが求められてくると思いますね。 ルールづくりも大事ですが、 本当は一人ひとりのモラールが少し上がればチームは ものすごくよくなるんです。 決め事をたくさんつくるチームは、 本当はあまりレベルの高いチームではないですね。 僕はチームワークを高めるために、 よく逆説的に「自分のためにやれ」と言うんです。 結局それが1番チームのためになりますから。 みんなに、「公私混同は大いにしなさい」とも言うんです。 これは、一般的な意味での公私混同ではなく、 公のことを自分のことのように真剣に考えるという意味です。 個人がチームのことを自分のことのように考えていなければ、 チームはよくならない。これからのチーム論としては そういうことが大事になってくると思うんです。 ラグビーでも、いいチームは一軍の選手から 控えの人間まで非常に意識が高いですよ。 試合に出ていない人間までが 「俺はチームに何ができるか」ということを いつも一所懸命考えている。 その原点は何かとというと、やはり自発性にあるんですね。 これをいかに高めるかということが重要です。 これは自分の中から持ち上がってくる力ですから、 命令形では高められない。 これをうまく引き出すことが、 これからチームの指導者には必要になってきます。 また、そういう組織がどんどん出てこない限り、 新しい社会は生まれないと僕は思いますね。」

強いチームの定義とは何か、それは主体性や自発性とそして道徳心(モラル)があるということです。信頼し合ったチームというのは、それぞれに自分を律し、チーム全体のために自分を盡そうとします。

それぞれが大義や理念のために、出し惜しみせずに自分の力を発揮していく。そしてその熱意や情熱や行動力が周囲の勇気になり、その勇気がみんなの力になっていく。まさに一つの立派な人格を持った組織ができているということです。

本来、会社は法人といいます。人格を持った一つの塊です。その塊の人々が、如何に自らで共創し協働するか、そこには確かに個々人のモラルを磨く必要があるのです。

そのためにリーダーは、目的を明確にし、何のために行うのかという理念や理由を明確に示す必要があります。その目的に思いやりがあるか、感謝があるか、優しさがあるか、その目的さえはっきりしているのならば、比較や競争、そして目先の損得や評価などが気にならなくなっていきます。それがモラル醸成の本質なのです。

そしてリーダーはみんなが気持ちよく自分の天職に全うできるように、明確なビジョンを示し、みんなを導いていく必要があります。そのためには、日々にリーダー自身が「何のために」ということを自問自答し、その目的のためにモラルを磨いて自分を活かしていくことが肝要だと私は思います。

目的に生きる人はいのちに活気があります。

それは自分自身のいのちを丸ごと使う必要があるからです。それが自発性であり、それが主体性であり、自分の人生を自分で生ききり、自分の足で人生を切り拓いていく実感を味わっているからです。そしてそういういのちの強さを持つ人こそ、自らの中に道徳心を兼ね備えた真の優者になっていくように思います。

今の時代は、すぐに他人の人生をなぞる方が無難な生き方だという人が増えているといいます。敷かれたレールの上を歩くことは、無責任な人生を呼び込み、次第に自分を大切にできなくなるかもしれません。

子どもたちが自分らしく自分の人生を豊かに味わってみんなと一緒に仕合せに生きられる日々を今の私たちの実践を通して未来を切り拓いていきたいと思います。

遺志を継ぐ

日本は戦後に急激な発展を遂げた国だといわれます。これは戦後の生き残った人たちが、志半ばで斃れた戦友たちのためにと奮い立って努力してきた結果だとも言えます。

志半ばのことを遺志とも言います。この遺志とは、故人が、果たすことができないで残した志のことです。

人間はある意味で、志を最期まで見届けて死ぬ人の方が少ないように思います。一代では叶えることができないからこそ、継ぐ人が出ることでその志はつながっていきます。

そう考えてみると、この「継ぐ人」というものがどれだけ大切であるのかがわかります。誰でもいい、誰かが継いでくれればいいという安心感。そしてその遺志は、誰かが必ず継いでくれるという安心感。

私たちが子どもたちの未来を見守り、子どもたちに託していくように志も同様に託していくのです。

そして戦友や仲間というものは、身近でもっとも遺志を継いでくれる存在であるようにも思います。自分がやり遂げたかったもの、自分が実現したかったものを受け継ぐ人の志の養分にして叶えてくれるのです。

人は決して一人ではありません。

その連綿とつながっていく喜びこそ、共に生きる豊かさなのかもしれません。

子どもたちのために、人類の未来のために協力していきたいと思います。