ブロックチェーン

ここ数年でブロックチェーンに関するニュースが劇的に増加してきています。インターネット革命の次に来るといわれるこのブロックチェーン革命は、これからの新し時代の価値観をけん引していくことになるだろうと私は予測しています。

このブロックチェーンは、インターネット革命のときと似ていて発明はされたもののこれから応用されることが見込まれている技術でもあります。思いかえせば、インターネットの時も電話の方が早いのではないかと思うくらいの遅い速度で通信技術も貧弱でした。

今では、5Gの速度で通信でき明らかに電話よりもインターネット介した方が映像や動画、画像などあらゆるものがインターネットが進んでいます。その回線速度が劇的に革命が起きているようにこれからこのブロックチェーンの技術も劇的に変化してくるでしょう。

今現在は、ブロックチェーン技術はまだ仮想通貨をはじめ金融のところでの利用が中心になっていますが他分野へも次第に移行がはじまっています。この暗号化技術があれば、セキュリティ面での心配がなくなってきてより安定して平和な環境が構築されていきます。

現在は、インターネットは不特定多数の人たちが参加していますからセキュリティ問題は常に話題にあがります。このセキュリティ問題はまるでいたちごっこのように永遠にきりがなく安全と危険を行き来して膨大な労力を使っています。

実際に、むかしは村の中の人のことをみんな知っていましたから誰がいなくなっても、誰が問題を起こしても、みんなが観ている中で暮らしてきました。犯罪率も低く、みんなが観ているということが何よりの抑止力にもなっていました。しかしインターネットの世界では、ブラックボックスだらけで心配なことばかりになっています。少し前までは、クレジットカードの情報や個人情報などを一切に出ないように細心の注意を払っていました。

しかしこのブラックボックスが可視化され、それを記録されているとするのなら改ざんすることができなくなります。むかしのように、みんなが観ている状態を創り上げることができるようになったとも言えます。

仮想の世界で、誰がどのようなことしたのかがわかるというのはある意味不正を防ぐ最大の方法でもあります。確かにいつも誰かに見られているというのは息苦しさがありますが、昔の人たちは天が観ているとして恥ずかしいことをしなようにそれぞれが戒めていました。

ITの進歩により、よりむかしの道徳にフォーカスされていきます。人間がむかし構築してきた平和のシステムを、ITによって実現しようと試みられています。そう思うと、温故知新というものはひと昔前のシステムを新しい科学の発見によってブラッシュアップしていっているだけだとも言えます。

しかしその廻る一つの温故知新の中で、人々は改めて本質を維持するために学び改善を続けていくのです。人類の本質を高めていくことは、私たち今の時代に生きるものたちの使命でもあります。

子どもたちのために、新しい挑戦を楽しんでいきたいと思います。

本物の経済とは

私たちは、商売を通して生計を立てていますから経済に関係しているとも言えます。しかし現在の経済は、本来の経世済民の意味から遠ざかり世の中が偏ってきているようにも思います。

この経世済民は、本来は二つの熟語から構成されていて「世の中をうまく治めることを意味する”経世”」と、「人々を救うことを意味する”済民”」から成り立っています。ここから経世済民は「世を治め、人々を苦しみから救うこと」になっていたのです。

本来の経済の本質が時代の変遷と共に変わってきています。特に明治を過ぎたくらいから、経済の意味は変わってきました。19世紀前半の思想家である正司考祺の「経済問答秘録」に「今 世間に貨殖興利を以て經濟と云ふは謬なり」と記されています。このころより「経済」=「貨殖興利」となったと言っているのです。

つまりは世を治め、民を苦しみから救うではなく単に利益だけを増やし続ける活動が経済になったということです。現代の経済学も、徳の話や治世の話ではなく単なる経済現象だけを学ぶものになってしまっているように思います。

経済学者、18世紀後半のイギリスの経済学者であるアルフレッド・マーシャルは、「経済学を学ぶにはクール・ヘッド(冷静な頭脳)とウォーム・ハート(温かい心)が必要だ」と言っています。弱者に対する温かい心がなければ、経済学をいくら学んでも意味がないとも。そして同じイギリスの経済学者ケインズの『人物評伝』にはこう記されます。

「クールヘッド(冷静な頭脳)とウォームハート(温かい心情)を兼ね備え、社会的苦悩に取り組むために最善の能力を進んでささげようと志して自らの力の及ぶかぎり努力しないことにはいられない人々の数をいっそう多くすることこそが私の念願なのです」と。

経済の本質を知る人は、その意味を理解しています。現在、ブロックチェーンをはじめ様々な新しい技術が新しい経済を築こうとします。しかしその根本にある思いやりや真心、先ほどの経世済民の祈りや願いのないところに本物の経済はありません。

本物の経済を願い育ててきた日本の先人たち、先輩たちの生き方に倣い、子どもたちのために今できること、自分の生き方で示していきたいと思います。

世界人類の心の洗濯

横井小楠は、世界の中で日本という国の在り方をつねに見つめていたように思います。自国だけがよくなることを考えていたのではなく、如何に世界が善くなるかをこの自分の足元を変えることで実現しようとしていたように思います。

その志は、遺った言葉の中に垣間見ることができます。例えば、

「西洋の学はただ事業上の学にて、心徳上の学にあらず。心徳の学無きがゆえに人情にわたることを知らず。交易談判も事実約束を詰めるまでにて、詰まるところ遂に戦争となる。戦争となりても事実を詰めてまた賞金和好となる。人情を知らば戦争も停むべき道あるべし。事実の学にて心徳の学なくしては、西洋列強戦争の止むべき日なし」

「和とか戦いとかいっても結局偏した意見であって、時に応じ勢いにしたがって、そのよろしきを得るのが真の道理である。信義をもって応接し、我が国に義があれば、万国を敵に回すようなことはない」

私の意訳ですが、まずモラルがあって学を活かさなければ人類は平和にはならない。そして偏らず常に中庸であることが善きものになるのが道理。だからこそ常に信義を大切にしていくのなら敵はいないのである。

このように日本的で、日本人らしく、日本から世界に何を発信するかということを深く掘り下げて理念をもって国家の未来を創造していきました。横井小楠は、幼いころから努力の人物で13歳の時にその理念の主軸である「経世済民」に出会います。政治の根本に気づき、それを世界人類国家の本来の姿について真実を確信するのです。

私も現在、ゆえあってまちづくりに関わり始めていますがその根本はこの経世済民の思想です。今の時代はエコノミーといった経済ばかりが優先され、かつての経世済民の意味ではなくなってきています。しかし本来政治とは何か、それを深く理解していなければ世界の中で日本という国を役立てていくことが難しくなるのです。

歴史の偉人たちが言う独立自尊というのは、日本人が日本人らしい政治を実現して世界の模範になることです。そしてその世界の模範になることで、世界に影響を与え人類すべてにその思想を共有していくことに私たちの風土文化の意義があるように私は思います。

横井小楠はこうもいいます。

「堯舜孔子の道を明らかにし 西洋器械の術を尽くす  なんぞ富国に止まらん なんぞ強兵に止まらん  大義を四海に布かんのみ 」

日本国は尭舜や孔子の実現しようとした道を明らかに示し、さらに西洋の科学技術を学びそれを使いこなすこと。それは単なる富国や強兵にとどまるのではなく、その独立自尊した日本の姿を見せることで世界に本来の人類としての大義を示すことが本当の使命であるのだと。

まさに、日本は世界の手本になるべきであると喝破するのです。この言葉を聴いた当時の維新の志士たちは魂が揺さぶられたことは間違いありません。私たちが創ろうとする日本人の純粋無垢な真心の政治、そして真の強さと優しさを兼ね備えた生き方を世界に示そうとしたのです。武士の鑑である楠正成を尊敬し、自分もまた日本人の鑑しての生き方をしようとしたのです。

改めて偉大な人物であることに感銘を受けました。

最後に、横井小楠がもっとも言葉にした一文を噛みしめたいと思います。

「天下一統人心洗濯希うところなり」

この横井小楠の大義、世界の人たちの心の洗濯こそ目指すところであるという願いはこれからもずっと私たちの生き方に影響を与えていくのでしょう。子どもたちにツケを残さなくていいように、今を洗濯して洗浄し譲り渡していきたいと思います。

神徳の意味

日本は古来より、八百万の神々といってすべてのものには神々が宿っていると信じられてきました。そして様々なものに接するのに神様に接するかのように敬い祀ってきたのは歴史を見れば明らかです。

例えば、日本には珍しい神社がいくかあります。天気予報などの気象神社、他にも航空安全の飛行神社、頭と神の神社の御髪神社、電気、電波の神様を祀った雷電宮などがあります。

日本人は形のないものであっても、そこに何かしらの意味を持たせます。それがご縁であったり、勿体ないという言葉であったり、縁起担ぎであったりと、暮らしの様々な場面でそれが顕れます。

つまり無意識にも、私たちは目には見えないものを観てそれを感じて共に生きているのです。

不思議ですが、包丁を使うとき包丁を大切に扱っているとその包丁で切れるものは切り口が傷みませんし食事も美味しくなります。私はむかしのたたら製鉄の伝統包丁を研ぐのですが、研いだあとの切れ味や磨かれた美しさには感動するばかりです。

すっと切れるその切り口が料理をおいしくし、使い手の心を澄ませていきます。そこにはまるで包丁の神様が宿っているかのようです。

そのように私たちは宿っていると感じながら接すること、まるで依り代のように存在するそのいのちに寄り添いそのものと一体になる感覚があることでそのものの存在の有難さと同時にそのものの持ち味や魅力を尊敬しているのです。

人や道具を活かすというのは、相手を神様のように敬い接するということに似ています。人間が人間として力を発揮するのには、モラル(徳)が必要です。その徳をもった人が徳をもって接することで、そのものの徳が磨かれ引き出されていくのです。

神社にお祀りするその道具や意味たちもまた、モラルや徳の顕現を示すものです。どのような姿勢でそのものに取り組むか、その道具でどのように生きるか。自分たちの生き方を見つめ、正し、本来のあるべきように気づかせるのがこれらの神社の神徳なのかもしれません。

引き続き、子どもたちに先人の智慧を伝承できるようにご縁を味わいながら本来の意味や価値を深めてみたいと思います。

暮らしの本質と本懐

現在の世の中は、物を捨てることが当たり前の世の中になっています。大量生産大量消費で経済を循環させていく仕組みは、作っては捨てて、捨ててはまた作るという循環です。そのサイクルは早くなるばかりで、地球の資源もまた長い時間を経て成形してきた材料もあっという間に壊されては大量消費の循環に消えていきます。

現在の循環に対して、持続可能な循環を言う人たちも増えてきました。しかし同じ循環といっても現在の世の中が、大量消費の循環による経済の定義で動いていますからそれとは反対に回転する循環を創造することは大変なことです。

しかし時代時代にこの循環の往来も繰り返すように私たちは学び直して人間の中にある我と無我のバランスを往来してきました。

人間は本来、心豊かに生きていくことを望んでいる生きものです。懐かしい暮らしの中には、心を癒し安らぐものが充ちています。その暮らしこそ、大量消費の循環を逆回転させる鍵になると私は確信しています。

少し損をする生活、足るを知る生活、四季折々の変化を味わい自然の時間と共にゆっくりと暮らすこと。これは決して与捨て人になるのではなく、新しい時代を切り拓く人になるということです。そしてみんなでその暮らしを実現できるようにしていくのなら、そこに新しい循環、新しい経済、温故知新された時代のカタチが観えてくるように感じるからです。

一見、田舎で古民家で暮らしながらITの最先端や時代の潮流を先取りして挑戦することは変人のように観えるかもしれません。しかし、本来、私たちは心の暮らしを優先しながら世界に対して自分のオリジナリティを追求することで個性を発揮して世の中に貢献していくものです。

人間の持つ使命や、人類との共生、貢献の歴史は、同様にその時代時代の本質を守り、時代を切り拓いてきた伝統と文化の集積によって行われてきたのです。まちづくりも地域振興もまた、根源はこの本質を深堀り、本懐を遂げる覚悟があってはじまるように思います。

子どもたちの未来に確かな個性を伝承できるように自分のやるべきことに集中していきたいと思います。

手入れ

「手入れ」という思想があります。これは一般的には、よい状態に保つために、整えたりつくろったりして、手を掛けることをいいますが私にとっては「磨く」ということと同じだと定義しています。

人はどんなことでも「磨く」ことで愛着が湧き、さらに磨く面白さがわかっていきます。この磨く面白さは、手入れの面白さなのです。少しずつ手入れをしていくうちに、取り組んでいることの本質を知ったり、そのものの価値を学び直したり、さらには関係性の中でお互いに尊敬、尊重しあったりすることができます。

これは人と物との関係もですが、人と人との関係もまた同様です。手入れをしていくことは、それ自体が関係性を結んでいくことであり、お互いのご縁の存在を磨き光らせていくのです。

磨くために大切なこと、手入れのためにもっとも重要なことはそのものの存在を深く知ることからはじまります。五感を総動員し、また第六感までも使い、そのものの存在に触れていきます。そうすると、そのものが何の役に立ちたがっているのか、なぜこの存在が生まれたのか、どこで活かすことができるのかが少しずつ見えてきます。

そして場数を経ることで次第に、お互いの善さがもっとも引き出し合える場所を見つけることができます。その場所を大切に守り、それをいつまでも手入れし続けることでさらに関係が磨かれ珠玉の輝きを発揮しだします。

だからこそ手入れを怠らないようにすることが、人間が人間らしく生きていくための智慧になるのは間違いありません。

一人一人が手入れをし、磨き続ければこの世はそれぞれが光り輝いていきます。そうやって輝いていく人が増えていけば、この世は明るく平和になっていきます。手入れすること、磨くことは、私の人生の大テーマです。

引き続き、子どもたちに手入れや磨くことを伝承していくために私自身が楽しく豊かに磨きを楽しんでいきたいと思います。

与贈循環の場

一緒に働く仲間が「与贈」についてブログで紹介してくれていました。私もこの言葉を知ったのは数週間前です。彼の説明では「自らの一切の利益を求めず、自らのいのちを何かのために使うこと。」、私はこれを真心とも呼びます。

私の思う真心は、一般的に言う頭と心の心ではありません。この真心は、自他一体の境地のことでありそのものと同化している状態、地球そのもの、宇宙そのものに同化している境地の時に出てくる心のことをいいます。

例えば、自分と境界線を分けているものが取り払われたとき私たちはその場と一体になっています。場が自分であるのか、自分が場になったのか、それはわからないほどに自然一体になります。この自然一体の状態のときのことを私は、「かんながら」と呼びます。

つまりは、まるで神様の依り代になったかのように純粋な心、そこには自他の別もなく、空と海が混じり合ったような透明な存在になっていきます。

私たちはなんでも名前をつけては物事の認識していきます。そして文字を書いてはそのものを説明していくようになりました。しかし、この世にあるものはすべて何かが変化した仮の姿でありその元はすべて同源のものです。

目の前にあるすべての道具も、自分の体も、そして天地自然界にあるすべてのものも、さらにはこの意識であったり、宇宙であってもそれは同源だったものが変化して形として顕れたものです。それに名前をつけていくら別のものにしたとしても、その本質は無であるのです。

この無が循環するところに場が生まれます。この無とは、有る無しの無を言うのではありません。元は同じであるという同源という意味、もしくは原点でもいい、その元のままという意味での無のことを言っています。

私たちがなぜ物を大切にする必要があるのか、そして如何に善きものを循環させていく必要があるのか、それは変化に偉大な影響を与え合っている存在であるからです。この善きものこそが、魂の故郷が住んでいる場所であり、その懐かしい「場」に出会うことで人々はいのちの本体に出会います。

私が家を直すのも、子ども心を守るのも、人類の智慧を伝承しようとするのもまた、この与贈循環を「場」によって顕現させていのちの安らぎやよろこび、しあわせの道を伝道していこうとしているからです。

徳が循環する世の中こそが、私たちの永続的な未来を保障するのです。

引き続き、一期一会に自分の人生を全うしていきたいと思います。

 

大切にしたい文化~暮らしのひとこま~

昨日、インターンシップにきている学生がこれからカンボジアでボランティアを通して新たな学びにいくための「はなむけ」としてみんなでお餞別を渡す機会がありました。その内容は、現地で必要になりそうな非常食であったり、常備薬であったり、お手紙や手作りの玄米クッキーであったり、また路銀としてお金も集めて渡しましたがとてもあたたかい気持ちになりました。

日本では、むかしから旅に出る人や大切な門出にこれらのはなむけやお餞別を贈るという文化があります。これも大切な徳の一つで、離れていてもいつまでもこのご縁を結んでいることを実感して絆を深めていたのです。

昨日も「離れていてもいつも一緒ですよ」や、「またお便りをくださいね」や、「何かあったらいつでも連絡してね」や、「どんな学びがあったかまた共有してね」など、ご縁をいつまでも大切にしていきたいという思いが伝わってきました。

この「はなむけ」という言葉は、「《昔、旅に出る人の道中の無事を祈って、乗る馬の鼻をその行く先へ向けてやったところから》旅立つ人の安全を祈り、前途を祝して、酒食をもてなしたり、品物を贈ったりすること。」(コトバンク)とあります。平安時代の土佐日記にうまのはなむけと出てきますからかなり昔から続いている文化であることがわかります。

昔は特に交通機関が未発達だったでしょうから遠出の旅行には苦難や困難がつきものだったと思います。そんな時、仲間や家族は旅に出る大切な人の安全を祈願し物品や金銭や詩歌を贈ったり、宴を催したのです。人を大切にし、みんなでその人のことを祈る思いやりや愛、徳がこの文化の生まれるきっかけだったのかもしれません。

またお餞別のほかにも旅につきものである「お土産」は元々「宮笥〔みやげ〕」といい、寺院や神社に参拝した際の神の恩恵を、お守りやお札等の仏や神にまつわる物品と共に近所や親しくしている人々に分けようとしたのが本来の意味だったそうです。

「路銀」については、昔は村落で旅行費用の積み立てを行ったところもあったといいます。旅行者は村の代表として、村人から集めたお金で遠くの寺社に参拝し、帰郷の際には旅費の代わりに神仏の恩恵(お守りやお札など)と共に土産話を聞かせたといいます。村人たちは普段耳にすることのない異国の話を聞き、知見を広げたのです。みんなで費用を出し合ってその人がお土産を持って帰ってくる、無事であったことに安堵し感謝し、道中の様々な体験を共有できることで村のみんなで喜びや仕合せを分かち合ったのです。

むかしはみんな「暮らし」を大切にしていましたから家族のように接していたように思います。その家族が旅に出るのですから、みんなその家族の未来の幸運を祈り、みんなで自分の事ように寄り添って心の豊かさを分け合っていたように思います。

時代が変わっても、大切にしたい文化はこの日本にはたくさんあります。子どもたちがいつまでもこの国や歴史、先人たちの生き方に美しさを感じ、それが誇りになり伝承されていくように私たちも暮らしを大切にしながら子ども第一義の理念を実践していきたいと思います。

子どもの智慧~子縁伝承~

すべての生き物には、元来備わっている伝承の智慧というものがあります。これは今の生き物が種になり、次の時代にそれまでの文化が伝承されていくということです。私たちが生まれながらに、先祖の様々な体験を内在して継承し誕生していくように植物や昆虫、バクテリアに至るまでいのちは伝承を続けています。現在は遺伝子のことが解明され、明らかに遺伝子の記憶の中に過去の体験がインプットされることがわかってきています。

これらの記憶というものは、私たちは現在は文字や映像を使って遺していきますが過去には口伝という形で文字ではないもので伝承してきました。口伝は、その人の体内や生き方に記憶を宿し、それを口伝えにまたその生き方を継ぐ人物たちに伝承していく知恵です。

実際に、何千年前の神話のような歴史を口伝で伝承している民族もまだ残っているといいます。そして「場」での儀式を通して伝承し続ける信仰などもあります。

私たちは記憶の中で大切なこと、忘れてはならないことはすべて次世代の種に伝承する仕組みを持っているからここまで生き残ってきたとも言えます。先人の伝承の智慧はまさに現代科学の知識をすべて凌駕するほどの宝庫です。

しかし現代では、この宝庫の価値よりも目先の可視化された物理的な科学ばかりに頼り本来の目には見えない智慧のことを信用しなくなってきました。先人の智慧や伝承よりも、教科書に書かれているもの、科学で証明できるもの以外を信じなくなってきました。

短期的に見れば確かにすぐに解決することはそれらの知識で補えます。しかし長期的な問題はすべて智慧がなければ根本的な対応や解決をしていくことができません。先人たちは人類の子孫のことを案じ、智慧を譲るためにたくさんの犠牲を払ってきてくださいました。あらゆる災害に生き残る方法、あらゆる人災を未然に防ぐ方法、あらゆるいのちの生き残る術を記憶の中に留めおくように、それぞれに役割を与え、持ち場を守らせ、私たちの肉体や精神にその初心のようなものを宿していきました。

それを生まれながらに伝承されている私たちの智慧は、幼児期の子どもたちの感覚や感性、天与の徳性の中に見出していくことができます。

私たちが子どもから学び直す必要があるのは、その智慧を学び直す必要があるからです。子どもの智慧はまさに人類を救う鍵ですし、未来の希望そのものです。子どもたちがどんな時代でも次代の種の芽をもって生まれてきますから私たちはそれを手伝い見守っていくことでその智慧が育つのを助けていくことができます。

智慧の学問は、この幼い子どもたちから学び直すことです。

引き続き、子縁が結ばれ人類が新しい社會を創造していけるように見守る仕組みを伝道していきたいと思います。

ナポレオンのエール

以前、スーパー公務員をモデルにしたドラマ「ナポレオンの村」というものを見たことがあります。これは限界集落をある公務員と村人たちで甦らせて活気を取り戻していくというドラマです。

もともと私たちは都市に住み、地方のこととは切り離して盲目に仕事に専念していますが実際は日本はいたるところで少子高齢化が進み、過疎が進み、空き家が増え、地域は手入れされずに荒廃を続けています。これは決して都市か地方かの問題ではなく、日本の近い未来を予想していくものです。

日本の政府も少子高齢化に対して様々な手を打ちますがそれで効果はほとんど出ておらず、このままでは限界集落で起きている問題がじわじわと真綿に浸み込むように国家全体に影響を与えるように思います。

この影響は国家理念に由るものであるのは間違いありません。これはまちづくりも村おこしも同じです。そこにいる一人一人が理念を策定し、その理念に対してできることをそれぞれが本気で取り組むことではじめてその理想は実現していきます。これは決して青臭いことではなく、本当のことです。これは会社経営であっても学校経営であっても、もしくは小さなサークルのような集まりであっても同様にみんなが主体的に目的に対して協働していかなければ決して理想を実現していくことができないからです。

何でも人は、やりたいことや目的から入れば主体性は発揮されていきます。それをやりたくないことをやっていたり、やらされていたりするのは本気になることを忘れてしまっているからです。

本気にさえなっていれば主体性は出ています、つまり熱中して努力できているのならそれは本気の証拠です。しかし本気になろうとばかりしようとしたり、本気かどうかばかりを迷っているのは受け身の証拠です。自分で決心し覚悟すれば、自ずから不可能に挑戦しようとするし、面白いことをやろうと思い始めるものです。それを抜けるかどうかはまさに自分自身によります。そのドラマの中で希望を与えるナポレオンの名言がいくつか紹介されています。まさに一つの現状打破の格言に満ちているナポレオンを参考にしたのは面白いと感じました。

「あなたの能力に限界を加えるものは、他ならぬあなた自身の思い込みなのです」

「あなた自身が信じていないことは、口で言っても、書いても、また、どのような行動をしてみても、他人を動かすことはできない」

「逆境には必ずそれよりも大きな報酬の種が隠されているものだ」

「人生の歩みは、自分自身の心から始まり、自分自身の心で終るのです」

「弱き人こそ薄情である。本当の優しさは強き人にしか期待できない」

そして心に響くナポレオンのエールです。

「勝利は、もっとも我慢強い人のものである。環境など何でもない。環境とは、自分でつくり出すものだ。お前がいつか出会う災いは、お前がおろそかにした時間の報いだ。」