長期的な視点

物事はなんでも時間をかけて現出してくるものです。今の社会は、何十年も前に積み重ねてきたことが現れたもので今突然出たのではありません。それは教育でもそうですし、生き方も同じです。

人間は死んだときにその人の生前のことが現出してきます。その人物が偉大であればあるほどに時間を経てその真価が現出します。歴史の偉人も、素晴らしい文化も、それは時間をかけて醸成されてきたものです。

現在は、すぐに評価を求めるあまり長い時間をかけて取り組むことは価値がないと思われていることもあります。経営が上手いという言葉一つであっても、目の前のことに対処して短期的に効果があることにばかりに費用対効果が上手な人をいうようになり、本当の意味で長期的に効果があることのために徳を積んでいくことを経営が下手だと言われたりします。

もちろん短期も長期も両方大事ですが、本来は長期的なものがあって短期的なものを処理していくのであって短期的なもののために長期的なものを捨てているようでは時間の経過とともに現出してくる問題に追われ続けていくように思います。

自分の代では叶わないことであっても、それを子孫のために取り組んでいくという長期的な取り組みや実践は必ず未来において徳が現出してきます。私たちの今の世の中を見渡してみたら、あまりにも目先の損得を優先するあまり環境問題や道徳荒廃、生活習慣病や精神疾患などかつて先人を含め自分たちがやってきたことが今に現出しています。

それに気づいたなら、将来のことを省みて今、長期的な視点でこれらの社會問題や人類の課題に対してそれぞれが取り組んでいくしかありません。そして何十年後の子孫たちが、その恩恵を受けて今の世の中がよくなってきたのを実感し、先人たちの実践を尊び継承して安心して平和を永続させていくことができます。

今の世代の責任は、長い目で考えたときにこそはじめて議論ができるように私は思います。今はすぐに自分自分と自分のことばかりを心配して、自分のことばかりを注目し目の前のことに対処していくことが最良かのようにニュースでも巷でも見聞きしますが本来、人類の思想は長期的に醸成され私たちに受け継がれているものですから正しく向き合い、場を育て、場をつくり、場を譲るということを場の思想を磨いて取り組んでいくことが私たち今を与えてくださった先人たちへのご恩返しと責任です。

引き続き、子ども第一義を実践し、何十年、何百年後の子孫たちに善いものを譲れるように、長期的な視点を大切にして徳の日々を積み重ねていきたいと思います。

暮らしの甦生

古民家甦生に取り組んでいると、建物の生命力というものをよく感じます。長い時間をかけて様々な災害を乗り越え今でも建っている建物には威厳と誇りも感じます。

現在では、建物は生命力よりも見た目のカッコよさや派手さまた流行りの美しさなどが人気があります。しかし古民家にはそういうものはなくても、自然本来の持つ美しさや生命力、そして文化があります。

長い年月の空き家などで傷んでしまっている家を見ることもありますが、たとえ今、誰かが住んでおらずに哀れな状態になっていたとしてもしっかりと手入れをし補強、改修、修繕をすれば、親世代、子世代、孫世代、さらにその先々までずっと住み継ぐことができます。

この住み継ぐということがいのちの循環を支え、持続可能な風土を実現させていくのです。

例えば、古民家には傾きというものがあります。現在のプレカット工法では、コンクリートの基礎の上にプラモデルを組み立てるように先に機械で設計をしてそのまま組み立てます。しかしむかしの工法は、固めの地盤に石を置くだけのものでした。そのため、何百年もたてば次第に沈んでいき傾きも出てくるのです。

現代工法は、数十年で壊して建て替えるように作られていますから傾きの心配はありません。しかしかつての古民家のように住み継ぐものは、何百年も建っている必要がありますから傾くことが前提で大工棟梁が木組みを考えて建てています。

昨年も、300年以上の古民家をいくつか見ましたが傾きがあっても安定し、かえって傾きがあることで地震や災害に強くなっていることも知りました。人間の体のように歳をとれば、次第に体も傾いてきます。しかし、その傾きもまた年齢の傾きでありそれでもしっかりと体は自分を支えています。

人間の体も建物と同じです。手入れや補強をしながら、生命力を伸ばし、自然の智慧や恩恵が働くようにその住まいを整えていくのです。

家も体も元は同じ、その中で私たちは住まう=暮らすのです。

暮らしの甦生というのは、住まいの甦生でもあります。それは単なる見た目だけの変化をするのではなく、生き方が変化していくことなのです。暮らしが変わるということは、生き方が変わるということです。自然と共生し新たな時代を共創することが、暮らしを甦生していくことです。

引き続き、古民家甦生を通して子どもたちが安心して暮らしていける世の中に貢献していけるように学び続けていきたいと思います。

かんながらの与贈

先日、贈与という言葉は聞いたことがありましたが「与贈」という言葉に出会いました。贈与はある人が誰かに無償で財産を贈ることを言います。しかし与贈になると少し意味が異なってきます。

その「与贈」について、場の研究所のフェイスブックにこう紹介されていました。

「私たちの「与贈」は、正確に言えば「〈いのち〉の与贈」です。いまマザー・テレサの愛のことばの本を読んでいたら、次のようなすてきな言葉に出会いました。『愛は分かち合わなければ、何の意味もありません。愛は行動に移されるべきものです。見返りを期待せずに愛さなければなりません。愛そのもののために何かをするべきで、何かを得るためにするのではありません。見返りを期待するなら、それはもう愛ではないのです。本当の愛とは、無条件で、何も期待せずに愛するということだからです。』(清水紀子訳)これほど「与贈」という行為の意味を正確に伝えている言葉に出会ったことはありません。場の研究所で、私たちが「〈いのち〉の与贈」と、〈いのち〉をつけているわけは、人間以外の生きものにも〈いのち〉の与贈循環を広めて、持続可能な地球をつくりたいと思っているからです。」

これは私の思う「徳」と同じです。愛を徳に換えればそのまま与贈ということなります。

私たちのいのちの中で永遠永久に存在しているものがこの循環している愛や徳、与贈です。それは生死を問わず、なくなっているようで存在し、宇宙の中にずっと積み上げられていくものです。

むかしの人は、それを「徳を積む」という言い方をしました。これは愛を与えることと、真心を盡すこと、そして自然が循環することがいのちそのものの本体だと気づいていたからではないかと私は思います。

そして私たちが今あるのは、かつてのいのちたちの屍の上で存在しています。時空を超えてめぐりめぐっているいのちの中で自然宇宙の中の恩恵そのものの偉大な場を舞台にして私たちのいのちそのものは何かによって活かされているということです。

当たり前ではないこの「場」の存在に如何に気づいて、自分をその「場」ではたらかせていくかがいのちそのものに同化していくことであり自然になることです。人類が永続する道もまたこの「場」に対する生き方次第です。

徳を色々な形で学び、その徳を如何に循環させていくかを私のかんながら(自然)の与贈から伝承していきたいと思います。

場が主役

昨日、「場の研究所」の清水博先生にはじめてお会いすることができました。著書で文章は拝読していたのですが直接お話をお聴きするとはじめて聴く言葉にたくさん出会いました。またホームページで自然の美しい写真を撮っておられ、いのちのはたらきを観察されている様子にも感銘を受けていましたから言葉と意味が少しつながって理解が深まることができたようにも思います。

人生には意味というものがあり、その意味は一期一会の出会いによって導き示されていくように思います。そしてそのつながりというものは、「場」に生じ、その場から学び人は感化共鳴されていくようにも思います。

昨日は、「生きている」ことと「生きていく」ことについての語り合いが場で行われていました。私たちは場の中で「見当」というものを与えられているといいます。しかしその見当は決して見える世界だけではなく暗在的な見えない世界があるといいます。人間が生きていくというのは、その見えないものを解明していくことでありそれが科学というものではないかと私は感じました。

現在の科学は、目に見えるものだけを科学であると信じるように教え込まれてきました。しかし本来の科学とは、目に見えないものを信じることではなかったかとも思うのです。それを宗教といって抵抗する人も増えてきましたが、本来の科学と宗教の意味が別のものに挿げ替えられて定義されていたとしたら私たちは本来の科学とは何か、本来の宗教とは何かをもう一度、突き詰めていく必要があるように感じます。

清水先生からは「宗教以外でお互いの主観的宇宙を共有する、それが試されているのが今の時代である」という言い方をされておられました。確かに、意味を失い、場が消えてしまうような客観的な宇宙だけでは本来の科学は解明することができません。

主観的な宇宙を如何に人々が共有し合えるか、すでに与えられている目的に対して私たちは如何に逆対応によって本物の科学に近づいていくか、まさに時代の転換期にあることを実感しました。

清水先生からは「科学の本質とは何か、そして場の科学の正体とは一体何か」その「新たな問い」を私はいただいた気がします。そしてここからまさにこれからの新しい世紀は、「場が主役」になる時代であると確信を持ちました。

まさに与贈しあういのちの「場づくり」こそが、人類に与えられた希望であり智慧であり未来です。

本当に多くの示唆をいただきご縁に深く感謝しています。また研究するお仲間たちの真摯な姿やあたたかな雰囲気にも刺激をいただきました。

引き続き、日々の環境を見つめながら場をさらに研究して場の持つチカラをはたらかせられるように自己円満かんながらの道を精進していきたいと思います。

多様な働き方と理念の伝承

昨日、都内にあるコワーキングスペースを経営するWEWORKを見学する機会がありました。ここは、最近急速に日本でも展開が増えているコワーキングでデザインも統一感があり確かに場に理念を感じました。

具体的には自社サイトの理念にはこう記されています。

「​2010​ 年に WeWork を始めた時、私たちはただの美しいシェアオフィス以上のものを創りたいと考えました。それはコミュニティです。「Me」という個人として参加しながらも、より大きな「We」の仲間になれる場所。利益だけでなく、個人の充足感を尺度として成功を定義し直す場所。コミュニティの存在が、私たちに無限のインスピレーションを与えてくれるのです。」

個人の充足感を尺度とした働き方、そこには確かなつながりというコミュニティが必要不可欠であると定義されています。

元々創業者のアダム・ニューマンはイスラエルの人物ですが、キブツというイスラエル独特の集団農業共同体で小さな規模で100人大きな規模では1000人が共に暮らし、働いてきたといいます。

その思想がWeWorkやWeLiveの原型となるアイデアになったそうです。そのアイデアは暮らしのコミュニティの重要性を説き「暮らしのコンセプト(Concept Living)」と名付けられたそうです。

またその後、ビジネスパートナーでもあり映画監督でもあるレベッカ・パルトロウと結婚します。このレベッカとの出会いがユダヤの教え「カバラ」の影響を受け生き方に大きな影響を与えたそうです。

この「カバラ」とは、ヘブライ語で「受け継がれてきた伝承」という意味の言葉です。具体的には「思考は言語から生まれるのであって、言語から思考が生まれるのではない」と定義します。聖書にも「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」と記されていますが思想というものの本体に気づいたのかもしれません。

「働く=個人の充足感」という理念が今のコワーキングスペースの理念に通じているのでしょう。ここのタグラインには「やっと月曜日がはじまる!(Thanks God It’s Monday!)」と記されます。世間では、やっと週末だという人が多い中で発想を転換して仕事を働く仕合せに換えていこうという取り組みです。そのために月曜日が楽しくなるようなイベントやコミュニティをコミュニティマネージャーが展開しているともいいます。

これから多様な働き方改革で様々なコワーキングが誕生します。子どもたちにどのような理念を伝承していくことが大切なのか。ユダヤのカビラに学び、イスラエルのギブツに学びつつ、子ども第一義の働き方を深めてみたいと思います。

 

整うとは何か

先日からサウナのことを深めていますが、その中で「整う」という言葉がよく用いられていることを知りました。この整うというものは、美しく和を保ち清浄であろうとする日本の生き方に共鳴するものがあるように思います。

この「整」うという字の成り立ちは、分けたり束ねたりしてそれを正しくするという意味の字です。そこから、乱れたものをもとの状態にするという意味で使われます。そこから整理、整備、整合性や理路整然、他にも整骨や整腸など身近で使われる整の字から印象が理解できるように思います。

この「整う」というのは、和の家に住めば自然に意識しているものです。例えば、和の家はシンプルに空間がある中で適材適所に道具や装飾が配置されていきます。よく床の間に色々なものを置きすぎてかえって見苦しくなっているところを見かけますがそれも整えば美しい景色を発揮していくものです。

他にも物が溢れてあちこちが散らかっているところにいると、なぜか気持ちもざわついてしまいます。いつも整理整頓されたシンプルな空間には、心が落ち着き、気持ちも安らぎ、自分の状態も穏やかになっていくものです。

私も日常の暮らしの中で、古民家や和の民家の手入れを行いますからこの「整う」というのは非常に大切な実践項目になっています。まず、シンプルに最初の形を決める。その形は、そのものがあるように、そのものが喜ぶように自然に配置していきます。

そうやって配置したものの中に外からたくさんの物が入ってきますが、それを適切に配置するか仕舞い、出番などの準備を決めて片付けます。この片付けるというのは、形を整えるという意味でもあります。

つまり形が整っていくことで、心も整い、精神も整い、感情も整い、自然あるがままの自分が整っていくのです。本来の自分をとり戻すといってもいいのかもしれません。これを平常心ともいい、平静心ともいい、動じずに落ち着いて不動の境地を得ているという状態でもあります。

自然や天候が乱れても、そのうち整い穏やかないつもの天候になっていくように私たちはハレとケという使い方をして日常と非日常のバランスを整わせて暮らしを行います。

暮らしが失われてきた昨今において、整うということはとても大切なことのように思います。今は、乱れやすい環境にありますからそれをどのように整えるかはそれぞれの工夫がより必要になるものです。

せっかく湯屋を甦生しますから、「整うとは何か」ということを探求しそれを形にして子どもたちやご縁ある人々の心の安らぎを提供していきたいと思います。

徳の場づくり

先日から湯屋のことを深めていると、東大寺大勧進職として源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした重源上人に何度も出会います。この方は平安時代から鎌倉時代にかけての日本の僧侶であり俊乗坊といいました。

この人物のすごさはその東大寺大勧進職を引き受けたのが当時で61歳の時、さらには東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があったのをすべて寄付などによって自ら工事の陣頭指揮を執り復興を果たしたことです。

この人物は、浄土宗の開祖法然に師事し中国の宋へ3回も渡航し数々の知識や智慧を習得して帰国されました。造営と信仰を融合し、場によって人々の心を癒し安らげる仕組みで数々の功績を遺しています。

今回、改めて重源上人を知ったのは周防国の阿弥陀寺の湯屋の施浴でしたがこの人物が如何に徳を積み、徳を弘めたのかが伝わってきます。勧進帳にはこう記されています。

「東大寺勧進上人重源敬って白す。

特に十方檀那の助成を蒙り、絲綸の旨に任せ、土木の功を終へ、仏像を修補し、堂宇を営作せんと請う状

右当伽藍は風雨を天半に軼べ、棟甍の竦櫂を有ち、仏法恢弘の精舎、神明保護の霊地なり。原夫れ聖武天皇作治の叡願を発し、行基菩薩知識の懇誠を表す。加之、天照大神両国の黄金を出し、之を採りて尊像に塗り奉る。菩提僧正万里の滄海を渡り、これを崛して仏眼を開かしむ。彼の北天竺八十尺弥勒菩薩は光明を毎月の斎日に現じ、此の東大寺の十六丈盧舎那仏は利益を数代の聖朝に施す。彼を以って此に比するに、此猶卓然たり。是を以って代々の国王尊崇他無し。蠢々たる土俗帰敬懈るに匪ず。然る間、去年窮冬下旬八日、図らざるに火あり。延て此寺に及び、堂宇灰と成り、仏像煙と化し、跋提河の春の浪哀声再び聞え、沙羅林の朝の雲憂色重て聳え、眼を戴いて天を迎げば、則ち白霧胸に塞りて散せず。首を傾けて地に俯すれば、亦紅塵面に満ちて忽ち昏く、天下誰か之を歔欷せざらん。海内誰か之を悲歎せざらん。底露を摧かんより、成風を企つるに若かず。玆に因って、遠く貞観延喜の奮規を訪び、近く今上宣下の勅命に任せ、須らく都鄙をして、以って営作を遂げしむ可し、伏して乞う、十方一切同心合力、家々の清虚を謂ふこと莫れ、只力の能ふ所に任す可し。尺布寸鉄と雖も一木半銭と雖も、必ず勧進の詞に答え、各奉加の志を抽んでよ。然らば、即ち与善の輩結縁の人、現世には松柏の樹を指して比算し、当来に芙蕖の華に坐して結跏せん。其福無量得て記す加からざるもの乎。敬うて白す。

養和元年八月 日 勧進上人重源 敬白 別当法務大僧正大和尚(在判)」

どんなに少ない鉄くずでもいいし、どんなに短い布切れでもいい、みんなでこの東大寺を復興するために協力してほしいと依頼していくのです。これは東大寺建立の初心でもある聖武天皇の『大仏造立の詔』にある「万代の福業を修して動植咸く栄えんことを欲す、もし更に人の、一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らんと情願する者有らば、、」というところを伝承して記されています。

復興を祈願するのに、そのはじまりの目的を甦生させそれを実現させるこの重源上人に深い尊敬の念を感じます。私が現在、取り組んでいる徳の甦生もまたまったくこの人物の取り組んできたことと同じです。古い民家や、日本の民族伝承、それらを復活復興させるために私も建築技術や教育などのコンサルティング、場づくりなどによってその徳を顕現させるように努めています。

私が今度、取り組もうとする湯屋にもこの重源上人の技術を参考にしようと決めました。また各地で取り組み始めた古民家甦生もまたこの東大寺の勧進に倣い、志を立てていきたいと思います。

先人の生き方は、私たちに未来をどうあるべきかを告げてくれます。引き続き、子どもたちのためにも徳のご縁を結び合う場を創造していきたいと思います。

世界のお風呂

昨日までは日本のお風呂の歴史を書きましたが、今日は海外のお風呂のことを深めてみようと思います。

現在、スーパー銭湯やスパ施設に本格的なサウナ室が続々と設置されています。私も出張の時には、たまにサウナを利用していました。温度計だけの狭い空間の中でみんな黙っていつ誰が先に出るのかなどでサウナ常連感を楽しんでいたものです。

しかし今では、サウナや冷水の「温冷交代浴」も流行り、そのサウナを通したリラックス状態のことを「ととのう」といい、サウナ道などというものも出てきてブームが来ています。

このサウナは、現在の情報化社会で運動不足で神経過敏過剰になる今の世の中に適応しているとも言えます。

そもそもサウナ(sauna)という言葉は、フィンランド語です。意味は「蒸し風呂」となります。今から6000年から7000年前にフィンランドのフィン族が開発したといわれます。しかしもっと以前からユーラシア大陸には風呂は存在したことが知られています。サウナの原型や基礎ができたのは今から2000年以上前のフィンランドのガレリア地方だといいます。最初は食料を貯蔵したり、スモークするための小屋が、沐浴をする場所へと変わっていったそうです。

フィンランドでは、サウナは神聖な場所と定義されています。フィンランドの伝統に根付いたサウナは神話にも登場しますし、お産などでも用いられます。人口543万人に対してサウナの数が300万台以上あるといいます。国会議事堂にもサウナがあり、基本は一家に一つは必ずあるような感じです。日本のお風呂に似ています。

フィンランドのサウナ推進組織は、サウナが提供する5つの特長を定義しています。その特長は、①五感で感じること②自分自身に意識を向けること③リラックスすること④身体を清潔にすること⑤心身を健康にすることです。そして伝統的なものであることが言われているそうです。

これは日本のサウナに共通するものがありますが、入り方やそのメソッドまで定義されておりサウナがどのような場であるのかをはっきりしているように思います。

日本との共通点も多く、水着が多いヨーロッパでも裸で入る事、裸の付き合いで親睦を深めること、神聖で清浄な場であること、自然物を用いる事、自分を整える場所であることなどです。

改めて世界との共通点も観え、サウナの魅力を学び直しました。子どもたちが、古来からのお風呂の意味がどのようなものであったのかを伝承し、さらにお風呂のこれからの未来の発展と人類の場として大切な役割を果たしていけるように温故知新したものに挑戦してみたいと思います。

運と風~風土のチカラ~

世の中には運というものがあります。よく運がよかったとか悪かったとか、何かの結果が出た時にそれを人はつぶやきます。自分にとって運がいい悪いは時として周囲にとってはそれが逆になることもあります。

つまりは運とは、その人の心の持ち方に影響を受けていることに気づきます。

幸田露伴にこういう言葉があります。

「順風として喜んでいる人が遇っている風は、逆風として嘆いている人が遇っている風とまったく同じ風なのである。”努力して努力する”―これは真によいものとはいえない。“努力を忘れて努力する”―これこそが真によいものである」と。

運とは、その人の風の感じ方そのものでありその風に乗っていく人と、それに逆らう人がいるだけであるとも言えます。風任せの生き方ができる人は、雲のように融通無碍に運に従います。しかし、人間は我がありますから無理をしてでも風を無視して前に進みたくなるものです。

世の中の潮流、いわばその風は時代と共に変化していきます。日々に窓を開けて外の風を感じれば、色々な風が吹いているのがわかります。今日の風はどうだろうかと、風を感じて風を活かす人は運を味方につけているとも言えます。

運とは、自然あるがままを活かす智慧のことでありその運を引き寄せる人は自分を自然に対して変化させ続けることができる努力の人であるということです。

努力とは、自然と一体になっている状態の事です。それは四季の花々が真摯に生きて花を咲かせているように、魚や鳥たちが自由闊達に泳ぎ歌うのと同じようにです。

変化し続ける力は、まさに運を味方につけていきます。運を高めるためには、変化する力を磨き上げる必要があります。風に合わせて自分自身の境遇や環境をブラッシュアップしていくのは、足るを知り、来た風に逆らわずその風を活かすときにこそ実現していきます。

風土というものは、運の根本を司っています。

引き続き、今の子どもたちのために風土を醸成し自然かんながらの道を踏みしめていきたいと思います。

持続可能の基礎

物事には短期的なものと長期的なものがあります。現在の世の中はスピード重視、便利さ重視、結果重視で個人重視ですからどうしても短期的なものが増えていきます。すぐにリターンがあったり、すぐに成果につながらないものは効果がないとみなされたり失敗だとも評価されます。

しかし遠くにいこうとすればするほどに身近な失敗は成功の糧にもなります。また成長しようとするのなら、数々の失敗や挑戦を繰り返さなければ長期的に見てそれは成功ではないように思います。

むかしは、7代先を観て物事に取り組んでいくという視点があったといいます。常に300年先を見据えて何をすべきかということを話し合いそれぞれが実践に努めたのです。

持続可能な社會を掲げていてもそれが一向に進まないのは、それは短期的なもので持続可能を観ているからです。本来、持続可能や循環型、そういったものは長い歳月と一人一人の真摯な努力によってはじめて実現するものです。

二宮尊徳にこういう言葉が残っています。

「樹木を植うるや、三十年を経ざれば、則ち材を成さず。宜しく後世のためにこれを植うべし。今日用うるところの材木は則ち前人の植うる所。然らばなんぞ後人のために之を植えざると得ん。」

樹木を植えても三十年は待たないと材量にはならない。だからこそ後で使う人のために今、樹木を植えるのです。今、用いている材料はすべて先人たちが私たちのことを慮り植えてくれたから私たちはそれを使うことができています。その恩恵に感謝する心があるのならなぜ子孫のために植えようとしないのかという解釈です。

私たちは自分のメリットや今さえよければいいと、物事の判断を自分軸のみの物差しで計算して行動しています。しかしこれがもしも後世の人たちや子孫の人たち、先祖への感謝の報恩であればどういう物差しになるでしょうか。

長期的な物差しとは本来、これらの長い時間をかけて持続可能としていた社會の存在を感じて判断していくものなのです。何を計画するにも、その土台や基礎になっている初心や哲学、基本にその思想が入っていなければ決して持続可能の実践にはつながっていかないように私は思います。

二宮尊徳はこうも言います。

「遠くをはかる者は富み近くをはかる者は貧す。それ遠くをはかる者は百年のために杉苗を植う。まして春まきて秋実る物においてをや。ゆえに富有なり。近くをはかる者は春植えて秋実る物をも尚遠しとして植えず。唯眼前の利に迷うてまかずして取りえずして刈り取る事のみ目につく。故に貧窮す」

何が本来の豊かさであるのか、豊かさや富の本質を持続可能の社會ではまったく視座が異なることを私たちは先人の実践から気づく必要があります。

育てるという仕事も本来、長い時間をかけてじっくりと育てるものです。それは土づくり似ていて、何十年もかけて育ててきた土だからこそその中で立派な作物ができてくるのです。人づくりも然り、まちづくりも然りなのです。

自分の代で見返りがなくても、すぐに自分の代で結果がでなくても、本当の意味の子々孫々への思いやりや真心での持続可能に取り組む人たちが未来を変えていくのでしょう。

子どもたちのためにも、周囲の理解が得られなくても覚悟を据えて子どもに必要な伝統や風土、文化を伝承していきたいと思います。