長崎街道3

昨日は、嬉野宿から塚崎宿、北方宿、小田宿、牛津宿、佐賀宿まで来ることができました。ここから数日は雨が続く予定で今回はここで一度、休憩をし次回また続きを行う予定です。

現在までで約120キロ、残りは約100キロを残すところですが実際に長崎街道を通ってみるとそのほどんどは開発され古い家がほんの少し残るばかりでほとんど面影がありません。長崎街道を半分まで来て振り返ってみると、その当時のままに残っているのは神社仏閣や石仏たちでした。

伊能忠敬が残したむかしの地図を見ていたら、今とはまったく風景が異なります。具体的に異なっているのは、西洋建築や近代住宅、また大型のチェーン店、舗装されつくした道路です。特に道路は、長崎街道の狭い道はところどころが閉鎖され隣に作られた国道を通るようにできています。国道に面した住宅は、人通りもない歩道があるだけで車の大きな騒音が響き迷惑を感じていることと思います。

かつては、長崎街道の細い路地を毎朝毎夕たくさんの人たちが往来して賑わっていたのがわかります。ほんの少しですが、閉店した店店の様子からそこで野菜や果物、また魚や肉などを軒先で販売していたのを感じます。近隣の農家や漁師、そのほかの職工や武士などが宿場町で買い物をしたのを想像したりできます。

明治頃まで街道には、庄屋や酒屋、廻船問屋や米問屋など大きな商家が並びその界隈はたくさんの人たちが盛んに行き来したのです。今ではその気配がかすかに建物の大きさから感じるくらいです。

街道を通りはっきりと主役が変わったのは人から車になったことです。旧街道は人が優先ですから車は危険ですからゆっくりしか走れず路地も狭くみんなで協力して車を通すしかありません。しかし国道の大きな道は、車優先ですから人は車の邪魔にならないように歩道を歩き、横断歩道も信号を待ってからでなければ進めません。

街道が廃れたもっとも大きな原因はこの何を優先するかが変わったことです。ここから将来は、人間の優先順位がますます下がり、人工知能やロボット優先となればさらに道は変化していくでしょう。

政治や経済が変われば道が変わります。道が変われば往来の速度や規模もスピードも変わっていきますが、人間の暮らしや生活もその道に大きな影響を受けてしまいます。地域を語るとき、この道の廃れているものが何かを見極めるのは大切なことです。

引き続き、長崎街道を辿りながら温故知新の智慧を子どもたちに伝えていきたいと思います。

長崎街道2

昨日は、長崎街道の出発点でもある桜馬場天満宮に祈願をしそのまま自転車で日見宿、矢上宿、永昌宿、大村宿、松原宿、彼杵宿、そして嬉野宿まで無事に来ることができました。

慣れない自転車での旅で身体が筋肉痛で大変だったり、タイヤがパンクするハプニングがあったりしましたが無事に街道を辿り進むことができました。道行く人たちと、時折、挨拶をしていると色々と声をかけてくださいます。その中で、皆さんが応援してくださり有難い気持ちになりました。

ひょっとしたらむかしも、参勤交代をはじめこの街道を往く人たちを地域の方々は優しい眼差しと思いやりや笑顔で送り出し、応援してくださっていたのかもしれません。

この道を往く人は、色々な理由がそれぞれにあったのですがその想いを汲んでくださる街道の宿場町の方々は道を歩む人たちに親切だったはずです。道を往けばハプニングに遭遇し困ったことがたくさん発生します。その時、手伝ってくれたり、アドバイスをくれたり、応援してくれたりすることで次の宿場町までの元氣になります。

特に峠を越える前にあるお茶屋さんや峠を越えたあとにある宿場町には癒されたはずです。また峠の最中や道の分かれ目には、お地蔵様や道祖神がお祀りされており旅の無事を見守ってくださっています。宿場町には、神社やお寺がたくさんあり心を清め、祈願をし旅の決意を固めます。

道を往くというのは、まさに人生そのものでありその道でどのような人たちと出会うのかはその人生の醍醐味になります。

今は自動車の道が整備され、旧街道を通ることはほとんどありません。また旧街道を通ったとしても狭い道を猛スピードで車だけが駆け抜けている状態です。自転車であっても人と触れる速度のギリギリです。街道にくれば自転車を降りて、押して歩んでいくと人に触れる速度に戻ります。

歩いていくことで私たちは道を味わい楽しみましたが、自動車では街道は味わうことはできません。引き続き、子どもたちの未来のためにもこの先の道を求めて進めていこうと思います。

自然の生き方

昨日は、自然農の田んぼで田植えを行いました。もうこの田んぼでの田植えは、8年目になりますが毎年楽しく豊かな時間を過ごせています。もちろん、昨年はイノシシに収穫前に入られて未収穫という大変な目にも遭いましたが懲りずに続けて8年も経つと経験が血肉になり様々なことを自然に感じ取れるようになっています。

自然というものはとても面白く、自然に近づいていけばいくほどに自然の仕組みが感得できるようになります。いつの時機にどの場所に何があるのか、そして何が組み合わさり、どう混ざれば何が生まれるのか、またその土地や風土の循環の癖や相性、さらには全体のバランスや心の機微にいたるまですべて手に取るように感得できます。

おかしな話ですが、達人の域に入るほどです。それくらい自然と一体になると、先々のことを今見通すかのような感覚になるのです。もちろん、自然ですから思い通りにはなりませんから謙虚さを磨かれます。しかし同時に、絶対的な安心感も同時に得られます。

それは様々な命と共に共生していくなかで、互いに活かし合いつながり合い存在し合うということの安心を感じることができるからです。

草をかけた土の中には大量の菌たちやミミズらが暮らしを営み、その上には虫たちや水生生物たちが暮らします。その循環のなかで稲はすくすくと育ち、光や風を浴びて鳥の声を聴き、山の恵みをうけ、人の見守りと愛情を感じながら立派な稲穂になり実をつけていきます。

この一つの循環の中に自分がいるという安心感は何物にも代えがたいものです。それを大切な仲間や家族と一緒に育んでいくという仕合せ。

私たちがもっとも遺し譲っていきたいものは何か、それはこの自然農の稲作の中にすべて生き方として籠っているのです。自然の生き方とは、自分もそのいのちと一緒に共生し合いながら育っていく生き方です。

如何に全体の一部となって自分を活かすかは、自然が観えているかという境地の会得が必要です。そのためには何度も田に入り、自分の手と目と感覚で自然のありように近づいていくしかありません。

大事にしたい子どもたちへの生き方を示していきたいと思います。

等価交換できない存在~徳循環~

この世の中は、なんでも等価交換できるわけではありません。価値に見合ったそれ相応のものと交換するというのは、あくまで人間の狭い視野で行われるものです。例えば、この自然界でいのちを活かしているあらゆるものと同等のものを用意することはできません。

人間が水や空気、太陽の恵みや大地とどう等価交換するのか。いくらお金があっても、それをお金とは交換できません。人間が作り上げた価値と交換はできても、自然や宇宙などのすべては本来交換することができないものです。

何でも価値や価格でばかりにそのものを測ろうとし、損をしたとか得をしたとかいうのはとても料簡の狭いものです。そのものの価値は、そのものの本当の価値を見出せる人にはわかります。それはお金では測れず、世の中の常識でも量れません。

むかしからそのものの価値を知る人たちは、善を行い徳を積みました。それは等価交換できないことを知り、少しでもその恩恵に報いようと感謝を循環させていったからです。

この世の理として、私たちは自然の大きな恩徳によって生きることができそれが失われればこの世を去るしかありません。さも人間が自然を牛耳っているように錯覚したとしても一度の災害ですべてを失う可能性もあるのが自然の猛威です。

だからこそ謙虚に交換できないものの価値を認め、いくらそれが宗教だと揶揄されようと、妄信的だと馬鹿にされようと、そういった交換できない価値のために祈り、その恩恵をいただける存在に感謝しながら生きていくことで私たちは傲慢になるのを抑制しみんなで平和を築いていくのです。

大前提として、等価交換できない偉大な存在をどれだけ身近に感じているか。ただ感謝のみという存在にどれだけ報いているか。ここが何より私たちの社會の在り方や暮らしの根本と深くかかわっていることを忘れてはいけません。

子どもたちは生まれながらに、その価値の偉大さに気づいています。お父さんやお母さんの存在、自然の存在、あらゆるものへ感謝の気持ちで生きています。価値を測ったりすることもせず、ただその偉大な存在に甘え、偉大な存在と共生し、自分もその恩恵に報いるようにすくすくと成長をしていきます。

私たちの身近にいつも寄り添い、見守る存在はすべて「徳」です。この徳に貢献していこうとすることこそが「利子」を増やしていくことであり、その利子によって私たちはまた恩恵の一部に感謝というもので還元されていくことができるのです。

徳の循環の仕組みは、この価値を変換し無価値にし徳に還元することです。

子どもたちのためにも、このプロジェクト、覚悟をもってやり遂げたいと思います。

自立の原点

人間には、体と心があります。最近は脳科学が進んだことで、この体と心のつながっている場所のことを脳の変化を見て様々な角度から分析することができるようになりました。例えば、脳内物質の何かが出ているとき、心身にどのような影響があるかということを計測することができるような感じです。

実際には、根拠がないといわれても心と体が休まるとき、居心地がよいとき、私たちは穏やかでしあわせな感覚を得ることができます。それは例えば、美しい自然に触れた時や仲のよい人たちと結ばれている時、楽しい食事や安らかな眠りの時なども私たちはその穏やかでしあわせな感覚を得るのです。

私たちの思う「時」というものの中には、様々な記憶や感覚が同居しています。いい時も悪い時も、大変な時も穏やかな時も、この時の中に混然一体として心も体も深くかかわっています。

どのような時を過ごすのか、そしてその時にどのような意味をつけていくのか。

一度しかない人生の時の中で、居心地がよい人生を歩むためには自分を知る必要があります。どんな時がしあわせなのか、どんな時が楽しいのか、もっと自分に正直に自分を喜ばせることで自分のことをより深く実感できるようになります。

周囲をみては自分を我慢したり、周りの常識に振り回されて自分を歪ませてしまうと、しあわせや楽しいことまでわからなくなっていきます。一度しかない人生の中で、自分を中心に据えて生きていくことが自立の原点のように思います。

しあわせや楽しいを感じられる環境、心も安らぎ、体も寛ぐ、脳も活性化する、このような安心安全な暮らしを体験していくことで自立はさらに豊かに充実していきます。

引き続き、豊かな暮らしを自立の原点として子どもたちに譲っていきたいと思います。

教育の定義

先日、ある会議で千代田区立麹町中学校にユニークな校長先生がいることを知りました。名前は工藤勇一さんといいますが具体的にには、公立の中学校ながら宿題を廃止、定期テストの廃止、クラス担任の廃止を行いました。

なぜ公立の中学校でもそんなことができるのかと疑問に思う人も多いかもしれません。これまでの前例主義の常識が変革するというのは、並大抵のことではありません。

そもそも公立か私立かを前に、何のために子どもは学ぶのか、そこから目的を再定義し、学校をリ・デザインされたといいます。「何のために学校があるのか。私の答えはシンプルです。子どもたちが社会の中で生きていくためだ」と。

そして工藤さんはこのリ・デザインの具体的なイメージを周囲にわかりやすく理解してもらうために「現代の寺小屋」という言い方をしておられます。なぜなら寺小屋で社会を学び、そのまま社会に出て活躍するための真の教育が行われていたからだといいます。寺小屋では、先生が教えるというものを教育とは呼んでおらず子ども同士の学び合いこそを教育と定義していたと書かれているものもあったそうです。

本来、教育の定義を何にしているかで教育の手段も変わります。

そもそも教育の定義は、私にとっては社會のことです。現代の教育の定義は、個の学識のようになっていますが時代は進み、人工知能がこれから登場しますからますそれは意味のないものになっていきます。

そんな中、人間のもっとも得意な能力でこれから必要になるのは社會の中で協働し協力していくスキルになることが予想されます。チームで働き、支え助け合い、お互いを律しながら理念を優先して大きな目的を実現する力です。

個がバラバラで、自分の好き勝手なことばかりを要求し他を認めずに自分の権利と主張ばかりを押し通していてもチームになることはありません。自他を認めるためには、お互いに学び合い目的のために協力して互いに成長し仲間とよりよい社會を創造していく必要があります。つまり社會の中でどう生きていくかという「生き方と働き方」を身につけさせること、なぜなら生き方が働き方で働き方が生き方になりそれが社會で生きる力になるからです。

さらに対話を通して、多様性を認めることも社會を一円融合するために必要です。お互いの違いを尊重しながらも、本来の目的のためにそれぞれが学び合い折り合いをつけ居心地善いつながりを構築してく。つまり世界を平和にし、社會をよりよく発展させていくためのダイバーシティは必要なのです。

つまりこれからの生きる力を何と定義するか、これが明確であれば教育の定義は根底から変わります。時代時代に子どもたちが何の力が求められているか、それを予測して環境を見守るのが本来の教師の役割ではないかと私は思います。

私たちも社會の一員として、自分たちのなすべきことに専念していきたいと思います。

岐路

国連から提案された「SDGs」というものがあります。
このSDGs「SustainableDevelopment Goals(持続可能な開発目標)」の頭文字を取った言葉で、2015年9月の国連総会(連加盟国193国)で採択された具体的行動指針のことです。すでに2001年に策定されたミレニアム開発目標(Millennium Development Goals:MDGs)の後継として国連で定められ2016年から2030年までの国際目標として認知されています。具体的な行動指針は、17のグローバル目標と169のターゲットからなり、飢餓、貧困、気候変動の進行、生物多様性の劣化などすぐにでも解決したいと思われる項目が入っています。
日本政府も「SDGs NOW! 17 Goals to Transform Our World」の動画で告知を展開しています。17の項目と169のターゲットは、総務省のサイトからPDFをダウンロードできます。この共通のキーワードの「持続可能」というものが何度も提言されるのは、言い換えれば近い未来に持続不可能な社会が訪れようとしているということです。
持続不可能な社会とは、では何かということです。それは人間がこの地球上で生活することができなくなるということでしょう。その理由は様々にありますがもっとも大きな原因は、自然と人間が乖離している世の中にしているからだと私は思います。
そもそも人間も自然の一部であり、自然物です。その自然物であったはずの人間が、人工物を創り上げ自然から乖離した都市というものを形成しました。そしてその都市というものを、自分たちの中で快適な仮想空間にしそこに消費を通して資金が流通するような仕組みを構築しました。都市の中で行われていることが自然とは別物ですから、その都市に運び込まれる様々なものは自然を搾取したものになります。
大量に生産し、大量に消費する、そこで都市を機能させますから消費されて捨てられていく自然の破壊の量が明らかに自然が創造するスピードを超えたとき持続は不可能になります。
自然の利子で暮らしていた時代から、自然へ借金して暮らす時代へと移ったことが今の持続不可能な社会を実現させてしまいました。しかし人間の欲望は果てしなく、自転車操業のように走り出したら止まれない今の世の中で如何に方向を転換しようかとそれぞれの人たちがそれぞれの場所で向き合っています。
自然と共生していた時代の懐かしさは、今のグローバリゼーションの波の中で消えかけているように感じます。もはや、このまま人類は滅亡に向かっていくのか、それともここで自然に帰るのか。もしくは第3の自然と共生する世の中にするのか。それは現代の世代の一つの大きな使命であることは間違いありません。

だからこそ、私たちは何をもって自然と共生するというのか。そしてどのような暮らしが自然を尊重して自らを立てることになるのか。
人類の自立に向けて、みんなで協力し合ってその答えを生きていくために挑戦を続ける必要があるのです。

子どもたちが100年後も1000年後も安心して、楽しく豊かに生きていくことができる社會を遺してあげたいとみんなそう思うはずです。
手と手を取り合い、子どもたちのために協力していきたいと思います。

花の生き方

花を見て美しいと思う心が人間にはあります。なぜ美しいと感じるのか、そしてなぜ大自然を観て人は心を揺さぶられ感動するのか。心がそう思うのは、そこに確かな宇宙の法則のようなものがあることに気づきます。

この世に生まれてきて、私たちはいのちの価値を知ります。そのいのちの価値は、今を精いっぱいに生きているものによって気づかされます。私が花を見て美しいと感じるのは、今を精いっぱいに生きているからです。

そして百花繚乱の美しさを放つものを観て感動するのが、それがみんなが活き活きと豊かに仕合せに生きている姿を体現しているからです。花が美しいのは、その精いっぱいな姿。

よく私は道端のたんぽぽを観ては足を止めるのですが、それはたんぽぽが太陽に向かって一生懸命その精いっぱいに生きている姿に心を打たれるからです。そしてその精いっぱいな姿はいのちの美しさをそのままに表現しています。

人生は一度きりと知ってはいても、人はあれこれと雑念を持ち、今を生ききることをやめてしまいます。そうやって今を精いっぱい生きていないものは、美しさが翳ってくるものです。どんな境遇にあってもどんな環境であっても、あのたんぽぽのように生きていくことは美しく、私の理想の存在です。

最後に松下幸之助さんはこんな言葉を遺しています。

『今というときは、この瞬間しかない。この一瞬一瞬を精一杯生き切る、その積み重ねが充実した人生をつくり、躍動を生み出すのである』

充実した人生と躍動感、まさに花の生き方です。

花に学び、いのちの花を精いっぱい咲かせていこうと思います。

弱さこそ強さ

人は弱さを否定して強くなるよりも、弱さを肯定して手に入れる強さの方が本当の意味で真の強さを手に入れることができるように思います。弱いものがダメで強いものがいいということが叫ばれる競争社会の中で、本来の強さとは何かということを一度向き合う必要があるように思います。

大前提に競争社会の中にいれば、弱さはまさに命とりになります。強ければ生き残り、弱ければ消滅する。弱肉強食であると教わってきましたが、実際には自然界は人間が言うような弱肉強食をしていません。

むしろ共存共栄をして助け合って存在しているのです。

そのために、確かに見た目には弱肉強食をしているように見えますが実際には弱さを力にして強みに替え、強さを謙虚に必要最小限で生きていきます。人間の言う身勝手な弱肉強食は、個としての強さ、権力的な強さ、能力的な強さこそ力だというような言い方をして弱さを否定します。ここでの弱さは、個としての弱さであり能力及び、あらゆるものが非力であることがダメであるとしその逆を強さと呼ぶのです。

自然界は、弱さを強みにして、その弱さを絆にしてつながり合っています。例えば、一人ではできないことはみんなで力を合わせます。これは弱さが強みになった瞬間です。

チームや仲間を形成するのは、それだけ私たち人間が弱い存在であったからです。特に恐竜の時代も含め、私たちは非力な存在でした。一人ではどんな動物にも負けてしまうほどの弱さがあったのです。それを強みにするために、私たちは協力し協働して弱さを絆に結び付きました。

現在では、身体的な武器が弱いからこそ道具を発明しここまでの科学を発展させたのも弱さを強みに替えたのです。

弱いからダメという発想は、本来の私たちの人間の真の強さの否定になっています。その証拠に、現代は個ばかりが強調され協働することや仲間と共生することなどが蔑ろにされています。

本来の私たちの最大の持ち味まで捨てて、単なる目先の力に頼ろうではあまりにも視野が短く狭いように感じます。未来の子どもたちは、もしかしたら今よりも大変な自然災害や人災に巻き込まれることもあります。その時、どのように乗り越えていくか。私たちがそれを繋いでいく責任があります。

弱さは私たちの最大の武器であったことを、正しく伝承して大変なときこそ力を合わせて乗り越えてほしいものです。子どものためにも、私たちは古に学び、今に智慧を甦生させていきたいと思います。

全体を活かすための環境を創造する人~管理とは何か~

組織には管理職というものがあります。この管理とは「よい状態であるように気を配り、必要な手段を(組織的に)使ってとりさばくこと」と辞書にはあります。

この管理の語源は「管轄辨理(かんかつべんり)」という言葉が略されてできたものだといわれます。「管」は門を開閉する鍵であり「轄」は、車輪が外れないようにするためのくさびのことであるといいます。つまりもともとは権限によって支配するという意味があったようです。

現在の管理職に対するイメージが一般的に支配的なものになっているのは管理社会など、管理とつくと権限で支配しているようになっているからです。海外ではこの管理職をマネージャーといいます。そして管理することを「マネジメント」といいます。

このマネジメントというものの意味は、アメリカでマネジメントと父と呼ばれたP・Fドラッガーは「組織に成果を上げさせるための道具、機能、機関」であるといいます。そしてその管理者をマネージャーといって「組織の成果に責任を持つ者」と定義します。つまり組織に成果を上げさせるための仕組みがマネジメントであり、組織が成果を上げるように働きかけその責任を持つ人をマネージャーというのです。

さらにそこからマネージャー(管理職)の役割の代表的なものを具体的に記します。一つ目が「組織が果たすべきミッションを達成する」こと、そして二つ目が「組織で働く人たちを活かす」こと、最後が「社会に貢献する」ことだといいます。つまりみんな会社の目的や目標のために協力しながら、それぞれが尊重され自己実現も同時に行い、一人ひとりが活かされるように全体最適と全体快適を創造し、長期的な眼差しで短期的な日々の仕事をコントロールしながら社会全体に善い影響を与えていく仕事ということです。

私の今の言葉でシンプルに定義すると管理職とは、「全体を活かすための環境を創造する人」ということでしょうか。

これは私たちの会社で現在、むかしの田んぼを一緒に運営している不耕起栽培の農家の達人の方々が稲が育ちやすいようにあらゆる管理をしていることがモデルです。その管理の考え方は、自然の道理に精通し、もっともどうすれば稲が活き活きと生長するかを中長期、そして温故知新した自然と科学の技術を駆使して見守っています。その管理はまさに「全体を活かすための環境を創造」をしています。

例えば、多様な虫たちが活動しやすいように活かす智慧。そして稲たちに厳しい環境と慈愛の真心をかけてはしっかりと稲自身が最高の一生を送れるようにサポートする智慧。そしてその育ったお米は、社会全体に対する大きな影響を与えているのです。

私のイメージし定義する、管理職や管理者、マネジメントやマネージャーはこのむかしの田んぼを一緒に運営する農家の実践のことです。

みんなが安心して活き活きと生を全うしつつ、田んぼも自然も同時に見守っていくには組織をどう活かして成果を出していくのかの様々なことを改善し取り組んでいく必要があります。

ただ単に、一方的に肥料や農薬をまき機械で管理するという農業もありますがこの時の管理者は全体を活かし環境を創造したのではありません。同じ成果でも、プロセスが異なれば管理職や管理者の定義がまったく異なることをマネージャーは理解しなければなりません。

育てるということがどういうことか、育つということが持つ意味は何か。そこをまずしっかりと学び直し定義することで、これからの多様化社会の在り方を見つめ直す機会になると思います。

子どもたちが安心して新しい環境や社会を創造していくためにも、そのモデルになっていきたいと思います。