自分自身をいじめない

世の中には「いじめ」というものが存在します。このいじめの定義は日本では、「いじめは「自分より弱い者に対して、一方的に身体的・心理的攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」とされています。これが英語のbullyingでは「1人またはそれ以上の者が、力の弱い者に対して脅かしたり身体的苦痛を与えたりすること」とされています。

このいじめは、誰かによっていじめられるという被害者と、誰かをいじめるという加害者で構成されていますが実際には「自分自身へのいじめ」をする者同士が関係性で引き合いに自分をいじめている状態になっているということでもあります。

この自分自身へのいじめとは何か、それは自分を傷つけるということです。人間は自分がそのままでも存在価値があると、自然の一部のように思っていれば認められ満たされ愛を感じますから劣等感などは持ちません。比較され、価値を他人に決められ、優劣によって存在をそのものを否定されれば自分のままでいることができなくなります。

本来は、何もなくても幸せである存在だったものがそうではなくなるのだからそれ自体に苦痛を感じるものです。苦痛を感じているから、いじめはじめるのであり、いじわるになるのはいじめによって耐えられない苦痛を他人に向けている状態をいうのです。

特に幼少期の子どもたちは無防備で心のままに素直です。その状態で周囲の大人や親がもしも子どもに容赦なく存在を否定したり、必要な時に愛を与えなかったとしたらその子どもは心に深い穴を持ってしまいます。穴はいつまでもなくならず、そして不完全ですからその自分自身の心の穴を埋めようとして現象として自他へのいじめやいじわるに発展していくのです。

自分というものを認めるというのは、自分を愛するということです。ここでの愛するは愛されている存在として認めるということです。これを他人に求めずに自分に求めるということ、つまり自分をいじめず自分を守る、自分にいじわるをせず自分を守るというように自分自身を自分を守ってあげることが自分を愛するということです。

追い込まれ自殺するまでになる前に、自分を守ってあげること。自分がいじめられないように逃げること、いじわるから守ってあげることをすることも自分を愛するということです。自分自身を自分がいじめることをやめることを何よりも優先にするのです。

このいじめは社會の寛容のなさ、また余裕やゆとりのなさが様々な大人たちの心を蝕みそれが子どもに影響を与えてしまいます。忙しすぎて、人としての暮らしや営みが消失してきているからこそいじめの環境はより悪化していきます。そしてトラウマとして残った親子の負の連鎖は、代々を継いでいきますから愛されなかったと思い込んだ思い込みはそのままループし続け周りを巻き込んでいじめを増やしていきます。

それを断つためにはあるがままを認め、愛されている存在だと気づかせるような環境が社會には必要です。教育は社會を変える仕事ですから、志を持って本業の成就に邁進していきたいと思います。

愛のある環境

人間はそれぞれに自分のやりたいことをやろうとするものです。それを認めてもらえれば人は自信を持ち、認めてもらえなければ不安になるものです。自分自身が自分を認める人は、素のままの自分であることができ主体性は発揮されます。しかし素の自分を隠したり制限をかける人は他人に合わせて自分の軸を歪めていきますから自分らしくいることができなくなります。

自分というものとの付き合い方を見直すことは、自分自身を見つめる作業であり、仕合せに生きるための原点に気づく大切な機会になります。

人間は与えられた環境や遺伝子によって観念が仕上がっていくものです。その観念がマインドセットされると、その観念そのものに自分というものが出来上がってきます。脳は、自分の観念が自分だと思い込むと自分というものを演じ始めます。

本来、人間には心があり心はありのままであるがままを感じます。そのまま心が感じたままで生きていければいいのですが、脳が観念によって真実を歪めるため様々な感情が現れてきます。その一つの感情にトラウマというものがあります。このトラウマは、過去の何かの出来事による傷がついたものを脳の観念で認識し似たようなことが起きようとすると自分の心が傷つかないように別の現象に挿げ替えようとするのです。

つまりは根底の観念の方を操作し、起きる出来事を真実とは別のものに置き換えようとします。例えば、無理をして食べると不味いことになるという観念が大前提にあれば食わず嫌いになっていくという具合です。食べてみなければわからないものも、きっと不味いと思い込んでいますから食べることはありません。そしてたとえ食べたとしてもきっと不味いと思い込んでいますから美味しいものであっても脳が不味くしてしまうのです。

このように思い込みや刷り込みによって前提になっている観念を操作していれば、現実や真実が正しく感知できませんから感情も次第に自然なものではなくなっていきます。

感情とは、ありのままの現状をあるがままに感じた時に調和して自分の中に融解していくものです。そうやって仕合せを味わい、喜怒哀楽の体験を積むから人生が丸ごと調和して仕合せの境地を得ています。ここが歪むと、感情が歪みますからありのままの現状を感情が調和できませんから、苦しくなり不幸や孤独に苛まれるのです。

人間は、そうやって自分自身が脳や観念で心をイジメ続けると本当の自分が辛くなっていきます。自罰的にイジメているからこそ他人に今度は意地悪な人になっていきます。意地悪な人ばかり増えてしまえば社会はとても世知辛く、居心地の悪いものになってしまいます。

イジメをなくすためには、自分イジメをやめさせるしかありません。自分をイジメることがなくなれば意地悪な人もいなくなります。そのためには、もっと大人たちが寛容な社會を子どもたちに築いていき許し合い認め合う愛のある環境を創造し譲っていく必要を感じます。

子どもたちが安心して暮らして、健やかに素のままの自分で許される仕合せに充たされるように自分自身の意識をさらに解放していきたいと思います。

正しいよりも楽しいを~執着を手放すこと~

人は何かに執着してしまうと、なかなかそれを手放すことができません。ようやく手に入れたもの、もしくは手に入れたいと思うものが次第に執着を強くしていきます。執着には色々とありますが、自分が得たいと思っているものが執着になるのは間違いありません。執着に囚われれば、どうすればいいかとばかりに悩み苦しみます。

本来は、楽しかったものも執着するから苦しいものになっていきます。得られない苦しみ、思い通りにならない苦しみが余計に執着を強くしていくのです。その執着の本質は我執や我欲であり、強くなればなるほど苦しみも比例して強くなるのです。

この我執や我欲は、自分のままでいられないことに起因するように思います。本来の自然体の自分、言い換えれば劣等感や罪悪感、自責感などがない状態、いわば幼い子どものままであれば執着はありません。ありのままの自分、あるがままの自分であることができるのならそれは何でも手放している状態です。

幼い子どもが、次の遊びに行くとき、それまで持っていたものをいともたやすく手放して次の遊びに移っていきます。好奇心旺盛で失う不安や怖さよりも、楽しい方を選択していくのです。手放すというのは常に楽しくあろうとする生き方を実践していくことのように私は思います。

楽しくないことが多いのは我執や執着が多いからです。我執や執着も時としては、自分の遣り甲斐や生きがいの原動力にもなりますがそれは楽しくあることが大前提であるときです。ただ苦しいのであれば、それは完全に執着に呑まれている状態ということです。

もっと気楽に、もっと楽しく、硬く握りしめて緊張状態を維持するよりもリラックスをし思い通りにならないことを面白がり、天にお任せしたら信じて今の境地を味わおうとすることで手放す訓練ができるように思います。

苦しいから楽になりたいという楽ではなく、楽な状態でいるから楽しくなるという工夫が自分を自然の姿に回帰させていくようにも思います。こうでなければならないや、こうあらねばならないといった正論や自己正当を少し休めてこのままでいい、きっとこれでいいと「正しいよりも楽しい」を選択していけば執着はいつか手放すことができると思います。

子どもたちの生き方から学び直し、楽しい方を選んでいきたいと思います。

あるがままで生きること

何かの物事が発生した時、それをどのように受け止めるかはその後の未来を変えていくように思います。物事はありのままあるがままに発生しますが、人間は思い込みによってその事実を歪めていくものです。自分というものの価値観や考え方、その視野でのみ物事を捉えればより一層、視野は狭くなり自分の殻に閉じこもってしまうからです。

如何に自分の思い込みを取り払うか、この工夫が視野を広めるためのポイントになってくるように思います。

例えば、その具体的な方法論の一つに「天からのメッセージ」というものがあります。何か自分にとって感情が揺さぶられるような出来事に直面するとき、これは何のメッセージであろうかと自分の視野に囚われない視座を持つということです。人間は、メッセージを受け取れるか受け取れないかでその後の進路が変わっていきます。

現実というものは実は全てが過不足なく一切が現れており、その機縁を活かすも殺すも自分次第でもあります。機縁が熟すのをまったり、機会と捉えて機智を得るのもまた現実があるがままに鮮明に観えている人は融通無碍に自分の運命と道を楽しみます。

現実の苦しさばかりの日々は視野の狭さをさらに増大させ、固執固着した歪んだ観念によって現実を自分の思う世界に挿げ替えてしまいます。その挿げ替えがポジティブで豊かで楽しく自由であるのなら仕合せですが、思い通りにならないとばかりに抗っていても不安や怒りで健康を害するばかりです。

あるがままを受け容れる訓練というのは、全体の中にある自分に気づくことのように思います。あの花も、あの虫も、あの木々もあの人間も、すべては等しくこの世に存在しています。自分もまたその一つであり、何も変わらないその一部分です。特段、その花だけが世界を変えているのではなく、世界の中にその花もあるがままに咲いているだけです。

現実のただなかに生きていくということは、あるがままで生きていくということなのでしょう。生まれてきただけで愛され、生まれてきただけで自由、そういう慈愛をもって生きる人には感謝は離れないように思います。感謝を忘れないために人は痛みを感じます、痛みは感謝に気づくための貴重な種蒔きかもしれません。

最後にナポレオン・ヒル氏の言葉です。
「あらゆる逆境、心の痛みは、それと同等かそれ以上の恩恵の種を含んでいる」

引き続き、あの日々に仕合せで楽しく豊かに笑っている幼い子どもたちが憧れるような社會を創るために解き放ってみたいと思います。

言葉の魂

先日、永六輔さんの著書で劇作家、放送作家の井上ひさしさんの言葉を知りました。文章を書くことが多い私は、如何に言葉を磨くかというのは日々の課題です。永六輔さんや井上ひさしさんの使う言葉はとても平易ですが面白く豊かです。

「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く。」

とお二人は常に意識されていたようです。この深いことを面白くという言葉は、何よりも感銘を受けました。そもそも面白いから深いのであり、深いものはみんな面白いのです。私も日々に道を深めていく中で、専門家でもなくプロでもアマでもない奇妙なところに常に自分を陣取っていますがそこから編み出される不思議な深淵からの発見はユニークなものばかりです。

面白くしていこうとするから深くなるのであり、単に掘り下げていくことが目的ではなく何でも楽しんでやっているから面白いと思っているのです。日々に好奇心は働き、前日の出来事をわくわくと振り返り、今日の出来事をどきどきと希望を持ち歩んでいく。この日々こそが言葉をより豊かに磨いていくように思います。

井上ひさしさんはこうも言います。

「一番大事なことは、自分にしか書けないことを、誰にでもわかる文章で書くということ。」

これは人生で言えば、自分にしかできないことを誰にでもわかることで実現していくということとも言えます。まさに唯我独尊、わが道を究めよという言葉にも聴こえてきます。まさに生き方の話です。

私もまだまだ未熟で言葉が下手でいつまでたっても上手になりません。もっと自分にしか書けない文章にしてそれが誰にでもわかるようにしていくには修練を積んでいく必要があります。

先人や先輩の生き方から学び直しつつ、いつの日か自分にしかない言葉を発して世の中に言葉の魂を伝道できるよう精進していこうと思います。

むかしの道具

むかしの道具というものがあります。最近では、道具は大量生産された便利なものが当たり前ですが一昔前まではすべて手作りで加工された道具がほとんどでした。

古民家甦生で関わっている伝統的な職人さんたちは、今でもむかしの道具を大切に手入れして使っています。例えば左官職人、畳職人、大工もまた伝統的な道具を用いて手作業で修繕をしていただいています。

この道具というものは、歴史が古く元来は道の具と記すように僧侶の修行のためのものとして用いられていました。それが時代の変化と共に、武具や農具になり、茶道具、華道具のように芸術的なものになり、江戸時代のころには様々な商業や農業、暮らしを支える家財道具として発展してきました。

そして産業革命以降は、道具も次第に使い捨てが当たり前になり便利なもの、交換がきく道具が生み出されていきました。

道具の歴史を遡り今に追いかけてみると、人間の生き方の変遷もまた道具と共に歩んできたことが分かります。つまりは人間の進化のプロセスもまた、この道具から観察し検証することができるということです。

私が道具に対してもっとも印象深く感じているのは、奈良の大和時代、法隆寺を建立した大工の使っていた槍鉋です。宮大工で有名な西岡常一棟梁が、この槍鉋を現代に蘇らせたのは有名です。西岡棟梁は、「木は二度生きる」を信念として切った後にどのように木に接するかで木はそこからもう一度、いのちが与えられるとしました。そのためにいのちを活かす道具でなければならなかったのです。現代の道具で木を削るとすぐにカビが生えダメになるものも、この槍鉋で削るとカビが生えないなど道具一つでその木のいのちを左右したのです。この法隆寺は木の声を聴いて木組みし、まさに道具も木と対話しているから千年の歴史を持つのだと。

その他にも、法隆寺の和釘や様々に加工された装飾などもすべていのちを活かす道具で取り組まれたのが分かるそうです。つまり、現代のような使い捨てのいのちを無視したものを道具とは呼んでおらず本来の道具とはいのちを活かすものを定義していたのです。

むかしの道具は、このように現代の道具とは違いいのちを粗末にすることはありません。人間のために便利に都合よく大量に生産できるものは果たしていのちとしてそのものを観ているのでしょうか。単なる「モノ」に成り下がったものは、本来の「もののあわれ」にあるようないのちや魂を宿しているものではありません。

道具というものは、本来、人間の手足がそのまま伸びたものと考えられていました。使い手の道具は自分と一体ですから、自分の生き方や人格、そしてそれを用いる哲学や思想、心が出てくるものと信じられていました。だからこそむかしの道具は、命懸けて職人さんが手作りし、使い手はよく手入れし大切にし、最期は供養をして土に埋めたりお焚き上げをして祈りました。

むかしのことを言うことは単なる懐古主義で言っているのではありません。現代の世界の状況を見ると、資源が枯渇し人口は増え続け、資本主義経済は過渡期を迎え増え続けたものは日々に使われもせずにゴミとして廃棄される毎日です。

こんな日々の中で、道具は死に絶え、人々の命や心も貧しくなってきているように思います。

私が古道具にこだわり、暮らしを共にするのはいのちを大切にできることを知っているからです。敢えて現代だからこそ、むかしの道具たちを復活させていくことが大切なのです。

同じように暮らしを改革する仲間を求めていますし、子どもたちにその道具を通してむかしを学び、心を磨き魂を高めてほしいと祈ります。引き続き、変人奇人と笑われようと我が道を貫いていきたいと思います。

むかしのお米とは

昨年より本格的に会社で「むかしのお米」というものに手掛けています。これは一般的な農業をするのではなく、むかしはどのようにお米作りをしていたかを現代に甦生させるものです。

ここでの「むかし」とは何であったかを少し書いてみようと思います。

このむかしとは、過去から今までどうであったかという意味でむかしという言葉を用います。つまりは今はむかしの連続であって今であるという意味です。日本の成り立ちは神話によると天地開闢以来、親祖が流水で禊をしてこの地を豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)にすると初心を掲げ、子孫代々繁栄と発展を現代まで実践されてきました。この豊葦原瑞穂国は辞書には「神意をもって豊かに稲が実り栄える国」という意味であると記されています。

むかしのお米とは、この神事として国造りを稲に倣い、稲に学び、稲を実らせるように行われたお米作りによってできたお米のことを言うのです。

ではむかしのお米作りは何かと言えば、日本的精神や伝統が入ったものであるのは自明の理です。そのむかしのお米作りの原点は、神話の中に籠められています。たとえば、八百万の神々と相談をしながら取り組むことや、流水に澄まし清め流すことで認め合うことや、協力協働し思いやりお互いに働くことなどがむかしから日本人としての精神性の原点を磨くことになっているのです。

現代では、そういう日本的なお米作りではなく単に収量を増やし評価が高まるようなお米作りが主流になっています。ここに日本人のお米作りの原点を思い出すこともなくなってきているように思います。これでは何のためにお米作りで国を造ろうとしたのかという初代の理念のチカラをお借りすることもできなくなります。私たち子孫は、先祖が立てた理念やビジョンによって方向性を確認し、かつて生存し命を懸けた方々の伝統の積み重ねによって得た力を継承して今を生きているのです。

その私たちが伝統を継がなかったら悲しむのは親祖から命がけで取り組んできてくださったご先祖様たちであるのは自分に置き換えればすぐにわかります。私がむかしのお米作りにこだわるのはそのような理由からなのです。

むかしのお米作りをしていくというのは、謙虚に生き方を見直して自分を修正し続けるということかもしれません。

引き続き子どもたちにご先祖様の遺志や力が伝承されていくように、むかしのお米を大切に育てて繋いでいきたいと思います。

みんなで生きる

人間には様々な個性や能力をはじめ異なりが存在しています。その異なりがその時々でどう出るかでその役割も変わっていきます。たとえばある時はその人が活かされ、またある時はその人が活かされないのです。ずっと自分が活かされ続けたいと一般的に人は思うように思います。特に自分中心で自己中心であれば自分自身がもっとも活かされたいと思うのは心情です。

しかし実際にはその時々と場所で活躍のシーンは変わります。自分がもっとも活躍するところではみんなの力を借りて、そしてまた今度は他の誰かが活躍するところではその人の力になるのです。

みんなの力になりたいと思えるような仲間や組織があれば、一人一人のみんなが活躍する組織になっていきます。そのためには、自分からどうやったらこの人が活躍できるかを考えて必要があります。

みんなの持ち味を知り、そして自分の持ち味を知るという具合です。

例えば、料理であれば今ある材料から最適な料理を考えていきます。それは素材の持つ味だったり、旬であったり、組み合わせであったりとみんなで考えながら料理を楽しんでいくような具合です。

今の人材で何ができるか、この人たちが活躍するにはどのようなバックアップが必要なのか、そうやって人に仕事を合わせていくのです。よく世間では会社に人を合わせて採用をしていきますが、会社によってはその逆に人の才能や個性にあわせて仕事を考えていくところもあります。

もちろんその両方が必要になりますが、人を大切にし仕合せを優先しているところでは人は単なる道具ではなく共に暮らす家族になります。だからこそ家族と一緒に、どのような事業、どのように仕事をしていくかを模索していくのです。

偏りがある人はそれぞれに才能がありますが、それを活かすには偏りの間で調整しているような気配りや配慮ができる人がいます。私自身もよく集中し無我に没頭するため周りの信頼できる仲間の声を聴きながらバランスを取っています。そうやって見守り合うからこそお互いに組んだ時に善い仕事ができるのです。

みんながそれぞれに活かしあうには、みんなの力を活かそう、みんなの力を借りよう、みんなの力になろうという素直な姿勢があることが大前提です。

多様性を認め合う寛容な心は、「みんなで生きる」と協働するところに存在しているように思います。

子どもたちが憧れる会社に近づくためにも、前提の意識から変革していきたいと思います。

心を許し合える環境

現代のような比較や競争社会の中で、素直に心を許せる関係が持てるというのは有難いことです。自分の長所や短所、情緒、人間性、癖や性格などもある程度は理解し合っていてそれでも本音で自分を明かすことができるような場所は安心基地でもあります。

そういう意味では人は警戒心をどこか持っていて、簡単に心を許すということは少ないように思います。誰を信じてよいのか、誰なら本当の自分の気持ちを理解してくれるのか、言い換えれば自分の深いところを分かり合える人に出会えることは仕合せなことかもしれません。

安心した環境というのは、警戒心がなくていつもの自分のままでいられる環境のことです。

人はどのような時に警戒するのかを考えればわかりますが、誰かに監視されている時や、痛めつけられるとき、無視されたりイジメられるとき、怖くて不安な時、敵がいると思ったとき、自分を守ろうとするとき、自信がないとき、つまり防衛しようと思って警戒が強くなり余計に不安な環境を産出してしまいます。

不安な環境というのは防衛の姿勢ですから、自分のポテンシャルも最大限発できませんし協力ができずパフォーマンスも落ち、仕事も成果も遣り甲斐もやる気も落ちていきます。

そういう意味では、一人一人が警戒しなくてもよい環境を醸成することがみんなが居心地がよい環境を創造していくことになるのです。警戒心を解くことができれば人は自分のあるがままで全体快適な環境の一部になっていくのです。

警戒心がない存在といえば、赤ちゃんです。

赤ちゃんをみれば私たちはすぐに警戒心を解き放って子どものように話しかけてしまいます。周囲も笑顔になり、つい安心できる温かな雰囲気に包まれます。赤ちゃんは防衛などしておらず、ありのままの自分で周りを信頼しています。

私たちは大人になっていく過程で、自分の身を守る術を身に着けて必死に自分を守るために生きていますがかつてはお互いに信じ合うことで助け合いより居心地の善い平和な協働社會を築いた時代もあったのです。

ひとりひとりが安心するというのは、それぞれの発達の特徴や個性、考え方や生き方、性格など丸ごと理解しお互いに打ち解け合う必要を感じます。いろいろな人がいるからこそ善い、多様な価値観があるからこそ助け合えるとお互いにみんなを徳を尊重するような意識を持つ必要があります。

徳の社會というものは、天が与えた恩恵をそのまま生かし合おうという自分をも許し、相手も許すといった「心を許し合う」社會にしていくということでもあります。

そのためには自分の間違いも素直に許し、相手の間違いも素直に許す思いやりがそれぞれに育つ必要があります。つまりは「一緒に学び合い正し合い成長し合おう」といった共存共栄していく環境があるということです。

安心できる環境とは共存共栄できる環境のことなのでしょう。

子どもが安心して自分らしく活き活きと仕合せに生きられる世界になるように社業の改善を続けていきたいと思います。

人類の過渡期~3つ子の魂~

人間が自然な存在としてこの世にあるのは、「生まれ持ったものを磨く」ときに認識するものです。その生まれ持ったものは、その人にしか与えられない天からの使命でもあり恩恵でもあります。人間はその生まれ持ったものを磨くことで世の中に役に立つ存在になれば自然体でこの世の中を自由に自立していくことができるからです。

誰もが正直に素直に自然体で生きられる、共存共栄する世の中はまずこの生まれ持ったものを磨くことを受容されている世の中かどうかで決まります。

私の本業で関わっている幼児の世界は、日本に古くからある諺の一つで「三つ子の魂百まで」と言われ、西洋の諺にも「The child is father of the man」(子どもは人類の父)」と言われ、それだけこの時期に与える影響は一生、また人類の未来に影響を与えると言われます。

その時期の子どもたちがどのような環境であったか、またどのような社會であったかは、人類をはじめ、その人の人生の左右する一大事であるのです。

脳のニューロンの数は1歳の時にピークを迎え、3歳までには個性の要になる人格形成や言語能力も形成されるほど急成長の時期です。この時期に、天性のものを磨くことを見守られるたかどうかはその後のその子の一生に大変大きな影響を与えてしまうのです。

また心においては、さらに影響が大きく心の根もその時期に育っていきます。だからこそその土壌がどのようになっているかが人類の未来を変えてしまうのです。私が乳幼児期にこだわる理由はここにあります。

この時期の子どもたちが自然体で正直で素直に健全に伸びるような見守られた環境があるかどうかで仕合せかどうかが決まり、世界が変わるかどうかが決まります。人類は長い時間をかけて伝承という仕組みを用いて今よりもさらに善くなる未来を創造してきました。この循環の仕組みは天の法理であり、いのちはこのようにバトンを繋ぎながら世界を創造し続けてきたからです。

子どもが天から与えられたものをどう削ぎ落さずに磨いていくことができるか、本来はそれが教育者の役割であったはずです。いつからか削ぎ落してはならないものを無理に削ぎ落させ、別の人生を刷り込み、その他大勢になるように洗脳するようになればその子らしさが失われるだけではなく、本来のその人が失われることもあります。

自分らしく生きるというのは、自然体のままでいい人を増やす社會にするということです。自然体のままで許される社會は、「それぞれが生まれ持ったものを磨き合う社會にする」ということです。

私が見守ることに人生を懸けるのもその理由に尽きます。

人類の過渡期に、今こそ子どもたちの環境を見直す必要性を感じています。長い目で観て、一緒にこの使命を共にしてくれる仲間を求めています。それぞれが安心して心の中の平和を保てる時代になるように協力していきましょう。