坦蕩々

生きていると日々に大変なことが発生します。理想が高ければ高いほど、また純粋であればあるほどに思い通りにはならないような出来事が波のように押し寄せてくるものです。

その都度、心や感情はざわつきますが生き方を訓練する機会として日々の初心に立ち返り自分を大切にしていけば波風は収まってくるものです。

以前、ある方に「波がたっても風を立てるな」と教えていただいたことがあります。その方も、心を澄ませていく実践を日々に取り組んでおられる方で生き方の訓練によって安心の境地を会得しておられました。

人間には偽りの自分と本来の自分というものが誰にしろあり、日々の暮らしの中でその自分自身をしっかりと見つめているからこそ本当の自分を磨いていくことができるように思います。

そのために学問はあり、学問は自己を修養するために存在するのです。孔子が  「古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす」と言いましたが、周りの目を気にして評判や評価のために勉強しているだけでは自分のことをさらに誤魔化していくばかりです。

何のために学ぶのかということを、腹に据えて人間学に取り組む人たちは真摯に自己と向き合い自分の与えられた使命に粛々と楽しんで取り組んでいけるように思います。これが楽しくなくなるのは、まだまだ学問が本当の意味で自分のためのものになっていないからかもしれません。

中江藤樹はこう言います。

「順境にいても安んじ 逆境にいても安んじ 常に坦蕩々として苦しめるところなし これを真楽というなり 萬の苦を逃れ 真楽を得るを学問のめあてとす」

意訳ですが、順調であろうが逆境であろうが、上手くいこうがいかまいが、自分にとって最高の状態でも、もしくは酷く悪い状況の時ですら、傲慢にならず慢心せず謙虚に心は静かに落ち着いたままで同じ処に居て安定し安心している。常に心は「平のまま」で波風を立てることもなく日常のように実践を続けて煩悶とすることがない。これらの安心立命の境地こそ「真楽」というのである。すべての自我妄執の苦難を切り抜け、この真楽を会得することが学問の本懐であると。この真楽とはまさに、もっとも深い感謝であり仕合せの学びの境地です。学問が楽しくて仕方がないのでしょう。人生をもっとも有意義に活かしきった姿です。

孔子はこうも言います。

「子曰わく、君子は坦(たいら)かに蕩蕩(とうとう)たり。小人は長(とこしな)えに戚戚(せきせき)たり。」

これも意訳ですが、自分を磨いていく人物は順逆の状況でも常に初心を保ち波風立てずに穏やかでゆとりがある。この逆に日々に磨かない人はつまらないことにいちいち波風立てて迷走し不安になり、落ち着きが無く自分や未来の心配ばかりをしている。そうならないように学問があり、人は人間を磨く学問がある御蔭で時々の状況で大きく崩れなくなるのかもしれません。

この孔子の言う「坦蕩蕩」、まさに平らで大らか、いい言葉です。もしも一人一人が、この「坦蕩蕩制」をやったらこの世の中は君子が増えて人々がみんな安心立命しながら笑い合い助け合い真楽の世の中を築けるかもしれません。

日々の実践は、大変な時にも生き方を貫けるかどうかで試されます。順境も逆境も人生を磨くための試金石です。時間という手助けもありますから、また原点回帰して根さえ残っていればそこから新たな芽が生えだしてきます。甦生や新生はいのちの常です。

日々に気楽に極楽に頑張らずに無理をせずに坦蕩蕩と、そうやって真楽の境地を得て子どもたちに安心立命することの価値や意味を伝承していきたいと思います。

見守る側としての心構えと心がけを楽しんでいきたいと思います。

 

自分を大切にするということ

中江藤樹の「致良知」という言葉があります。これは今の時代は素直になり切ること、真心のままになること、人徳を究めることなどと定義してもいいかもしれません。中江藤樹は人間には誰にしろ「良知」という美しい心を持って生まれているといいました。これは虚心赤心でもあります。まるで生まれたての赤ちゃんがはじめから周囲を信頼仕切らないと生きていけないように生まれながらにしてすべてのいのちと仲よく親しみ睦み合い尊敬し合い認め合う心が備わっているということです。

私の日ごろからの言い方では、これを「初心を大切にする」とも言います。しかし人間は日々の私欲が我欲、また感謝を忘れて足るを知らなくなってくるとその初心が曇っていき本来の備わっていた真心を見失ってしまいます。そうならないためにも、日々に内省し自分の心にだぶついてくるその欲を洗い清めていく必要があります。

そのために中江藤樹が実践したのは「五事を正す」というものです。これは「貌、言、視、聴、思」を常に意識するということです。つまり和やかな顔つきをし、思いやりのあることばで話しかけ、澄んだ目でものごとを見つめ、耳を傾けて人の話を聴き、真心をこめて相手のことを思いやるということです。

この平易な言葉で説明できる五事は、実際に自己観察してみるとすぐに我が入りこみ以上のような心のままでいることは難しい状態です。だからこそ、普段から自分の心と向き合い、自分の心を大切にし、心の命じるままに心を実践していく必要があります。

その心の実践で今の時代で大切にした方がいいと私が感じるのは「自分を大切にすること」のように思います。これは自分を優先すればいい、自分勝手にすればいい、我儘を聞いてあげればいいという意味ではありません。それに、単に自分を守ればいいということでもありません。

これは自分に孝行するということです。言い換えれば自分を敬うのです。

中江藤樹はこう言います、「私たちの心や体は、父母からうけたものであり、父母の心や体は、先祖からうけつがれたものであります。それはもともと、大自然から授かったものです。孝行とは、父母を大切にし、先祖を尊び、大自然をうやまうことです。そのためには自らの良知をみがき、体をすこやかにし、行いを正しくし、家族やまわりの人々と仲よく親しみ合うことが大切です。さらに、子どもをあたたかい心でしっかりと育てることも孝行です。」

自分を大切にするというのは、ご先祖様からいただいたこの借り物の自分を大切にしていくということです。そのためにはご先祖様を敬い、今の自分を育ててくださった父母や周囲の環境を敬い、日々に自他を愛して優しく思いやりの日常を過ごしていくということです。同様に子孫たちにも、その孝行を盡していくことが「自分を大切にする」ということなのです。

自分を大切にする人は、致良知が磨かれていきます。そして噓偽りない真心の人になっていきます。「自分を大切にする」とはつまり自分に嘘をつかず自分を誤魔化さず自分を責めず、自分に奢らず、自分を粗末にせず、親孝行や子どもたちをあたたかい心で見守るときのように自分自身に接していくということなのです。

時代を超えて、中江藤樹が大切にした生き方は今の時代の人々の生きる指南になっていきます。先人を敬い、本来の学問を子どもたちに伝承していきたいと思います。

理念研修とは何か

最近、現場で理念を研修しているところの話を聞くことがあります。しかしこの理念という言葉は、使っている人によってその言葉の定義が全く異なることに気づきます。それは経営という言葉も同じく、使う人の生き方や考え方によってまったくその意味が異なるのです。

これはその人が話す理念や経営の意味や定義、それ自体をどのように理解しているかで言葉の意味が変わります。これは例えば、本気や覚悟なども同じくどれくらい本気か、何が本気か、覚悟とは何か、覚悟を決めるとはどれだけのことを言うのかと同様にそれはその人の生き方や生き様を反映するものだからです。

しかし先日、拝見した他の会社が取り組んでいるという理念はとても生き方や生き様を反映したものではありませんでした。教科書的に単に一つのルールを覚えさせ守らせるだけのような理念の使い方、冊子を作るだけでそれを活かすことがない。しかもそれを最初に破っているのが経営者となれば一体誰がそんな理念に着いてくるのかということです。縛るものを開放するのが理念であるという人と、より縛るために理念を使う人もいる。結局は理念は道具と同じく使う人にとっては薬にもなれば凶器にもなるということです。

また同様に色々な企業が理念経営の研修などをやっていますが、果たしてそれが経営者の嘘偽りない本心からの本質の生き様や初心を記されたものか、本物かどうかを確かめるにはその理念を取材する人間の理念への定義がどうなっているかをまずは確認する必要があると私は思います。

理念を取材する人間がどのように理念というものを定義しているか、そしてその人は理念に正直に生きているか、理念をどれだけ大切に実行できている人かということが大切だということです。

形骸化する理念や、現場で使われない理念は文字通りスローガンでお飾りです。理念はコピーライターが取材するものではなく理念経営を実践する経営者しかできないものです。言葉を操るだけならそんなものはかえって言い訳の材料になったり、人々の不平不満の材料に用いられます。そのようなはっきりと定まっていない状態の理念をいくら研修を現場に何回もしても、浸透させたものがそもそも定まっていなかったのならばそれでは逆効果にもなることもあるということです。

だからこそ理念を聴くということはその人の遺言を聴くくらいの一大事だという認識を持つ必要があると私は思います。遺言がもしも間違っていたら、亡くなった人も報われないかもしれません。本当にその人が意図したこと、その人が心の奥底から願ったものだからこそ、その言葉には真実が宿り力が発揮されるのです。それが理念の本質なのです。

そもそも理念を扱う仕事をしているのなら、まずは自分自身が理念に向き合って正直に取り組み、その取り組む姿勢のままに理念に取り組む人たちに覚悟を決めさえ応援し支え見守り続けなければなりません。

結局は人間は、すべて生き方からはじまり生き様の間でこの世の使命を果たすのですからその初心を最期まで貫徹させてあげることが本当の思いやりになります。だからこそ人は生き方を通してお互いを磨き、生き様を通して協力し合い夢を生きる仕合せに出会うように思います。

そして何よりも理念研修で大切にするのなら、理念を高所から掲げて下に振り下ろすような凶器のような使い方をするのではなく、経営者自身がもっとも低所におりてみんながしっかりとその理念を理解してくださるように自分自身が説明を丁寧に根気強く行い、粘り強く伝え、そして自分自身に至らないところがあればそれを反省し自らが謙虚に修正していくかありません。当たり前のことですがトップとはもっとも高いところにいて偉そうにするのではなく、何よりも自分に素直になって謙虚に反省を怠らないで努力する人物になっていくことです。これをリーダーとも言いますが、このリーダーやトップもまた生き方ですから言葉の意味が使う人物にとってまったく異なるのは気を付けなければなりません。

子どもたちを観ていたら生まれながらに何のために生きるのかを学ばされ、どう生きるのを真摯に歩むのを感じます。それをもっとも身近で導く大人だからこそ、私はこの理念という言葉と真摯に向き合い子どもに恥じない位置で受け止める必要があると思うのです。

言葉を使い分ける前に、その言葉の大前提の自分の初心と向き合うのが理念研修なのです。

森信三氏の言葉です。

「人間の値打ちというものはその人が大切な事柄に対してどれほど決心し努力することができるかどうかによって決まる。」

人を導くことは、生き方を与えることです。引き続き、私たちは私たちの信じる子ども第一義の理念を磨き、仲間と共に本物の理念経営、つまり初心伝承を支援していきたいと思います。

借り物

加齢と共に体の調子が悪くなることが増えてきました。というよりも、体の声を聴くことができるようになってきたといってもいいかもしれません。「今日の体調はどうかな」などずっと若いときは少しも考えたことがないほど健康でやってきました。やりたいことがあればそれをやる、そしてそれをやるだけの十分な体力がついてきていました。

しかし次第に疲れが取れにくくなったり、あちこち痛みやすくなったり、無理をした古傷が傷んだり、体が今までと同じようには動かなくなります。そう思うと人生を80年で割ったとしてもちょうど40年くらいをピークに、衰退していきはじめるとも思えます。そのピークの時が更年期でもあり、体も他の心と精神の元氣のバランスを保とうと揺らぎ始めるのかもしれません。

元氣には様々なものがあり、よく気力体力精神力などというようにあらゆる力の源になっています。生き物はすべてどこかからエネルギーを転換して、元氣を発揮していくとも言えます。その元氣を発揮するために、あらゆるところから力を捻出してきますが何度も何度も使っているうちに劣化していきますからそれ相応の力を別のところから借りて元氣を維持していくものです。

若いときは、親からお借りして頂いた力をそのまま使い切っていく。そして次第にその力が失われ周囲の仲間や友人や愛する人たちから頂いた力をお借りしていく。そしてさらには世の中や自然の力、そして他力をお借りしながらまた力を使っていく。最後は借りたものをお返ししてこの世を去っていき次の時代の力の礎になっていく。そうやって力は借りたものをまたお返しします。そう考えると、力の本体とは何か。それは「借り物」であることに気づくのです。

この体もこの力も自分のものと錯覚しがちですが実はすべて借りた物なのです。その借りたものを大切に預かり、それをお返しする。そして次の人たちや生き物たちがその力をまた借りて生きていく。借りたものが循環しながら私たちは元氣をいただいて暮らしているということです。

自分の力だと何でも思い込み、不平不満を言うのはこの借り物であることを忘れているのかもしれません。大切な借り物だからこそ、丁寧に大事に手入れしながら使い切っていく。それが力を使う、つまり力を活かすということでしょう。

体の声を聴きながら、借りものを粗末にしないよういのちを大切に元氣をいただいていることを忘れないように謙虚に素直に生きて子どもたちの力に譲っていきたいと思います。

思いの手入れ

人間は自分の前提になっている「思い」に気づいているかどうかはとても重要であるように思います。この「思い」が、現実を変える唯一のものであるからです。

そもそも現実とは自然と同じく中立で中庸です。それはこちらの都合で変えられるものではありません。しかし現実は変わらないからこそ、自分が現実に対する思い込みや刷り込みを変えることができるのなら現実は変わって見えるものです。

ある人は、毎日仕事をするのが楽しいと感じ、またある人は毎日仕事をするのが苦痛だと感じる。同じ現実であったとしても、その前提になっている「思い」次第でまったくその人生が変わっていくのです。

ある人はせっかく奇跡のように生まれてきたのだから仕合せに楽しく生きようという「思い」がある人は現実は歓びの連続です。その逆に、何でも当たり前になって不平不満ばかりの「思い」がある人は苦痛の連続です。しかしそれもまた「思い」によって感じ方が異なるのです。

この「思い」をどのように手入れし続けるか、ここに人生を左右する鍵があるように思います。ないものねだりをするとすぐにこの「思い」はネガティブになります。あるものに感謝してすべてが善いことになると信じて生きている人は「思い」が楽観的になり幸福を感じています。

つまり人間は、生き方によってしか現実を変えていけず素直になることでそれを維持していくことができるということになります。では素直にならないのはなぜか、それがエゴや私心、自分の思い通りにならない不満や不安から発生するのは明白です。

素直になるというのは、本来の生まれてきた歓び、人生の仕合せをあるがままに嬉しい楽しい仕合せと感じることです。これを天国言葉と言った人もいましたが、松下幸之助さんは「自分は運がいい」という言い方もしました。

運が善い人はどんな時も「思い」が素直なままです。言い換えれば、素直だからこそ運がいいのです。自分がここまで生きてこれたことへの感謝や、多くのご先祖様たちが助けてくださったことへの感謝、今の人生が丸ごとで素晴らしいことになっているということへの感謝など、有り余る感謝の「思い」で満たされているからです。

感謝で「思い」を満たしている人は、邪念や刷り込みを受け難いように思います。「思い」をネガティブの方へ向けるか、その「思い」を感謝に向けるか。「思い」の手入れこそが省我の実践なのかもしれません。

日々我が身を省みる・・・子どもたちの一度しかない人生の思いを大切に守り続けていきたいと思います。

七輪

聴福庵では、よく「七輪」を使って料理をします。この七輪とは、土製のコンロのことで炭火を熾したり煮炊きをしたり、焼き物をするときに用いるものです。暮らしの中でこの七輪があることで、炭火を用いた料理はとても幅が広がります。現在ではスローフードの道具として有名になっていますが、本来は日本人には欠かせない調理道具として永い時間暮らしを支えてくれたパートナーの一つです。

歴史としては古代は土師製の炉として宗教用道具として祭祀などにも用いられ平安時代になると室内において置き炉となりこれがのちに手あぶりになり、屋内での簡単な炊事や酒燗などに利用転用されたものだという説があります。能登製の珪藻土が有名ですがむかしは土師製粘土のものが多かったといいます。

この珪藻土というものは、植物プランクトンの遺骸が集積したものです。この天然珪藻土には無数のミクロの空胞がそのまま残っており、保温性・蓄熱性が高く熱効率が良くしかも丈夫でまさに炭火を熾し調理するための最高の材料だったのです。粘土から珪藻土になるのは珪藻土の産地の能登半島を除き明治時代になってからと言います。

現代では七輪の三大産地は土質の良好な愛知三河、石川珠洲・和倉、四国香川があり、かつてはこの三大生産地で日本全体の需要を賄っていたといいます。しかし七輪の需要の急激な減少から廃業が続き三河で3社、石川和倉で1社、石川珠洲で4社ほどになっているといいます。

聴福庵で活躍する七輪たちは、三河七輪と石川珠洲七輪です。まず三河は、江戸時代から続く三州瓦の産地で有名です。この地域は焼き物に適した粘土が多く、瓦以外の焼き物も盛んでした。三河土は熱との相性がよく保湿能力に長けています。これを珪藻土と組み合わせているので丈夫なのです。また黒七輪として有名なのは三河土に炭を塗って乾かし那智黒石で磨き上げているからです。手作りの黒七輪は味があり、うっとりします。

また能登半島は土の三分の二が珪藻土でできているすごい場所です。この豊富に産出する珪藻土鉱床から掘り出された珪藻土ブロックを、崩す事無くそのまま七輪コンロの形状へ切り出して焼成しています。これを「切り出し七輪」といいます。まさに珪藻土のままで形成された七輪は姿かたちそのものが美しく、卓上においても芸術品です。

これらを備長炭や様々な料理の種類に合わせた炭で調理するとき、素材の味は深く引き出されていきます。天然の材料を、天然自然の道具で調理する。現代のように、電磁調理器やプロパンガスなどでは決して出ない味が出てくるのです。

なんでも文明や技術は簡単便利になって効率があがり、人がラクをしてできるようになればいいという価値観ですがそれと共に失っていくものがあるのを決して忘れてはなりません。ラクになることが仕合せなのか、そうではないでしょう。ラクをすることではなく、仕合せのためにラクをしないこともまた選択すべきです。

これらの七輪などの道具は私たち日本人の仕合せを守り続けてきた文化そのものであり、人間が人間らしくゆったりと暮らしを味わい仕合せに生きていくために必要なものなのです。

子どもたちの未来に、大切なものまで奪ってしまわないように使命感を持って暮らしを甦生していきたいと思います。

仕事観

先日、「仕事観」について考え直す機会がありました。そもそも仕事とは何か、それは個々でそれぞれの価値観によって定義されています。仕事というもの自体をその人がどのように定義しているか、それが仕事観ということです。そしてその仕事観を聴けば働き方になり生き方が分かります。人生として働き方と生き方が一致させるにはその「仕事観」こそよく自分で再構築する必要があるのではないかと気づくのです。

たとえば、一般的な仕事観としてはどのようなものがあるか。それはやりたくないことをやるのが仕事、やらされることが仕事、生計を立てることが仕事、会社に行くことが仕事などというものがあります。こうなると、仕事が増えることは苦痛そのものであり自分に仕事が回ってくると損する気持ちになったり、面倒に巻き込まれたと思うのでしょう。次には、社会貢献することが仕事、お客様に喜んでもらうことが仕事、幸福を与えるのが仕事などというものもあります。こうなると仕事が回ってくると喜びや感謝、遣り甲斐や生きがいという気持ちがわいてくるのでしょう。

世の中には生き方が多様であるように個々人の生き様と同じく様々な仕事観があり、その仕事観によって人は日々の働き方を創造しているのです。もしもその仕事観が、やらされているものややりたくないものをやること、もしくは自分勝手にこれが仕事なのでと割り切っていたらそのうち一生その仕事をすることが自分の生き方になっていきます。

一生涯かけて取り組む仕事だからこそ、その仕事観は果たして一生かけてもいいと思っているものかどうかということを確かめる必要があるのです。なぜならそれが人生の幸福と密接にかかわっているからです。仕合せに生きるためには、仕合せに生きるための自分自身の仕事観をもう一度問いただす必要があるのです。

たとえば毎日の仕事が楽しくなくなってくるのは、その人の仕事観が歪んでいることが多いように私は思います。本来の仕事とは何か、それが根にあり芯が入っていれば多少の辛いことがあったとしても仕事が楽しくなります。しかし仕事観が本当に一生涯かけて取り組むことではないことをモチベーションにしていたらすぐに消極的な感情に呑まれて生き方や働き方を誤魔化してしまうようにも思うのです。

自分を偽り誤魔化す働き方をしていたら、それがそのうちに自分を偽る生き方になっていきます。自分らしく自分の生き方を貫くためには、自分が生涯かけてもいいと思っているようなことに今日も取り組んでいるんだという働き方を日々に磨いていく必要があります。

そのために、まず自分の仕事観や固定概念が果たしてどうなっているか。仕事だと割り切ったこと、常識だからと諦めたこと、過去の体験から刷り込まれたものをもう一度見直し、改めて「働くとは何か、生きるとは何か」という大前提の土台を創り直す必要があるように思います。

知ら知らずに私たちは誰かから教え込まれた仕事観というものを学校や社会から刷り込まれていくものです。責任の押し付けであったり、我慢して嫌なことを引き受けたり、健康を害してでも努力したり、そういうことをやることが仕事だと思い込んだりします。そのような仕事に合わせすぎているちに本来のチームであることができなくなったり、仲間であることができなくなったり、同志であったことを忘れたりもするものです。そういう時こそ内省によって何に合わせたか、仕事というものはこういうものだという固定概念に合わせなかったと気づけるかどうかで人生の歓びもまた変わっていくのです。

特に私が関わっている幼児教育の業界では「キャリアアップ」などという研修が流行りで行われています。まずキャリアとは何か、仕事とは何かを定義することなしに、単に補助金を配布するための知識を詰め込み直すような研修をやっていると現場の方々からもよくお聞きします。

子どもの仕事をするのに、なぜそれを本人の生き方や働き方と何ら関係しないつまらない仕事観に導こうとするのか。本来の子どもの仕事とは、生き方を与えるものであり保育とはその働き方で伝道していくものでしょう。

私たちは仕事観というものをまず見つめ何をもって生き方と働き方の一致というのかをそれぞれに問いてほしいと願います。私の働き方はふざけていて常識的な世の中から見ると自分勝手にやっているように見えるかもしれません。しかし「本当の仕事とは何か」が観えればこれが自分の目的に適っている仕事の仕方であることが観えるはずです。世のなかの仕事の常識を壊せるかどうか、この辺は簡単にはいきませんが遣り甲斐のあるプロジェクトです。

これからもカグヤは、その一点に集中して子どもたちの憧れる生き方と働き方に特化していきたいと思います。

聴福人の習慣

人の話を聴くのにおいて、「信じて聴く」ということは大切なことです。これはきっと善いことになっていくという信念で聴いているとも言えます。さらに話を聴くことの前提に、相手のことを丸ごと信じている状態になっている必要があります。

つまりは自分自身が聴ける状態であるか、それは自分自身が何を信じて話を聴いているか、自分の信じるということへの哲学や信念が聴くことに現れているのです。

よく話を聞くとき、正しいや間違いなどを指摘しようとするものです。それは信じて聴くこととはあまり関係がなく正しい答えを教えているだけです。正しい答えを聞くことはその人にとっては正解ではなく、その人たちが本当に欲しているのは信じてほしいということがほとんどです。

自分自身が生きていく上で、自分を信じられなくなる時、丸ごと信じて聴いてくださる存在に人は救われるからです。私もそれを幾度も体験しています。

今の自分があるのは、自分が信じることができなくなるような出来事で葛藤するときそれをじっと丸ごと信じてただ聴いてくださった方があったからです。

単に聞いて正論を教えてくれたことがあっても、それは長続きせずその場はわかった気になってもまたすぐに不安や心配になります。しかし丸ごと信じてくれた存在が見守ってくれていると思えると安心して不安も払拭していけます。

つまり心で聴くというのは、相手の心を信じるということと同義なのです。

聴くことができる人は、どんなことがあっても天の声だと素直にメッセージを受け取ることができます。そのメッセージは、「必ず天は最善にしてくださっている」といった全体善に原点回帰していくことを自覚するものばかりだからです。

だからこそ自分の心がどうなっているか、他人の話を聴く前に整えておくのが聴福人の実践なのです。そして聴福人であり続けるためには、日ごろの過ごし方に心を整える内省という習慣が必要になります。

丸ごと善で聴く、丸ごと信じて聴くというのは、日々の御縁を信じて前向きに明るく生き、生涯学習を続けて自己を修めていくという習慣を維持していくということです。私のこのブログもまた、聴福人の実践の一つです。

引き続き、子どもたちが安心して育ち、見守りを感じ続けられるように怠らず努めていきたいと思います。

自然から離れない

今年も自然農に取り組む中で思い通りにならないことばかりを経験しました。お米はイノシシに荒らされ収穫直前に全滅。高菜は3回種まきをし直しましたが1回目は育たず雑草にすべて負け、2回目は虫に食いつくされ、3回目はモグラに土の中を穴だらけにされ育苗が失敗しました。

今年は特に自然の厳しい状況を受けており、今まで以上に葛藤と挫折の中で心を何回もへし折られました。その都度、なんでこんなことにとイライラしては畑に怒りをぶつけます。しかし畑にぶつけても何の解決にもならず、どうしたらと次を考えてまた取り組むのみです。

自然はいつも自分の思い通りになることはありません。

自分が思い通りにしようとする傲慢さは何処から来るのか。それは頭で考えて計画を立てているところにあるように思います。人間は自分の思っている通りにする過程で、自分の考えた通りにしようとします。しかしその考えは自分の都合の良い考え方であり無理やり周りの方を変えようとしてしまいます。自分が周りを変えることで上手くやろうとする、ここに傲慢さが潜みます。

本来は自然に対してそれができるかといえば全くの不可能であり、自然に対しては自分が変わるしかありません。しかし自分が変わるというのは、自分にとっては不都合なことばかりが押し寄せてくるものです。

たとえば、時機を待つこと、寄り添うこと、よく観察すること、声を聴くこと、試行錯誤すること、自分勝手にはいかずどれも「自分から」主体的に関心をもって深くかかわり続ける必要があります。自分のペースを優先すれば自然のペースから乖離していきますから、自然のペースをまず理解する必要があります。

それは「焦らない」ということでもあります、言い換えれば天にお任せして信じるという心境です。

自然はちゃんと自然のスピードで物事を動かしていきます、間違っているのは自分のスピードの方と気づかなければならないのです。大きな成功も成長も、大きければ大きいほどに時間がかかります。高い山であればあるほどに登頂が困難を極めるようにそれだけ達成感も充実感もあるのと同じです。

自分が一体、何の目的に対して挑んでいるのか。それによって進む速度も歩む困難さも異なってくるのです。簡単に誰でもすぐに達成できるような目的ならそんなに苦労はありません。苦労が多いのは難しいことに挑んでいるからであり、それだけ偉大なものを動かそうと頑張っているからなのです。

自然農を通して何回も頭を叩かれて反省を繰り返すばかりですが、私の都合で何回失敗しても自然は丸ごと清濁全て受け容れて何度も挑戦をさせてくださいます。この大きな見守りの中で、自分を磨き謙虚さを学び直すことは自然がある故に実現できることかもしれません。

自然から離れないことこそ人類の真の発展と永続を約束するものかもしれません。

自然から学び直しながら、現代の人たちの苦しみに寄り添い共に子どもたちの憧れる生き方ができるように取り組んでいきたいと思います。

個性を学び続けるということ

人間は誰一人として同じ人はありません。そんなことは誰しもわかっているはずですが、実際には自分と同じような考えを持っていると信じ込んでいたりするものです。

一人ひとりみんな違うというのは、それぞれ一人ひとりに異なった考え方があるわけで本来は「そんな考え方もあるんだ」と学び続けることが人類の持ち味の活かし方のように思います。

それを自分の価値観が分からない人を裁いたり、思い通りにいかないことに不平不満を言うのが人間ですがそれだと多様な考え方や生き方、個性を学ぶ機会を失ってしまうものです。お互いの成長のためには、折り合いをつけたり認め合ったりしていく必要があるからです。

確かに表面上はいくらみんな同じようにしておいて、それをみんなで守ることで問題が起きないようにすることもできます。実際には、大きな組織や標準化された企業などは機械の部品のように周囲の平均に合わせておけばたいして違いが引き立たず気になりませんから自分の価値観をさらけ出すこともありません。

しかし個性尊重で多様性を優先する小さな組織や、持ち味を発揮しようとするのならそれぞれの考え方や違い、物の見方や性格、価値観などがオープンに出てきますからそれもいい、これもいいねと、異なりや違いから自分自身が常にお互いの関係性から学び続ける必要があるのです。これが人類の智慧の根っこです。

つまりこれが個性があるということを肯定することであり、その個性をみんなで活かそうという自他尊重を実践していくということです。しかし同時にそれは「なぜ」こうなんだろうという苦しみもつれてきます。たとえば、なぜわかってくれないのだろうや、なぜこんないやなことをするのだろうや、なぜ理不尽なことさせるのだろうなどと理解できない苦しみに出会うのです。

そんな時こそ、違うのは当たり前だと認識し自分の知らない価値観があったと学べるか、こんな考え方もあるのかと発見するのか、それは単一の価値観をみんなに無理に認めさせ一つの価値観でコントロールするのではなく、多様な価値観を尊重しながらそれぞれに考え方の種類を学びお互いの価値観を高め成長させ続け自分の器を成熟させていく機会にするといいように思います。

私自身も、信念が強くこうであるのは当たり前と突き進むばかりに軋轢や葛藤、そして挫折や歓喜を繰り返しますがその都度、「いろいろな人間がいるんだな」と省みて、その考え方を学び直して自分の価値観を醸成して発酵させ続けています。

人が個性があることは素晴らしいことで、色々な人がいるから人類はここまで生き延びてこれた。そして自然の一部として自分の存在価値の仕合せを味わってこれたように思います。世界は、まさに多様な文化や人種の坩堝です。そのいろいろな考え方を一方的に否定し迫害するのではなく、尊重して折り合いをつけて同じ地球上で仲睦まじく暮らしていくことに向けて私たちは何度も戦争や平和を繰り返してきました。人類のとしての成長は、身近な個性を尊重することなのであり真の平和はその実践を一人ひとりが実行することで創り出すことができるように私は思います。

近い将来、人類はそれぞれの国家のために生産し経済効果のためだけの人の使い方を見直し、生きとし生けるものの個性を尊重しお互いを認め合い持ち味を活かしあう関係の時代に入ってくると思います。世界はまもなく一つに融合していくからです。

未来の子どもたちのためにも、今の自分が個性を学び続け個性の魅力や素晴らしさを伝道していきたいと思います。