守静坊から皆さまへの感謝

一つの偉大なことを為すのは一人の力では成しえません。それはよく振り返ってみればわかります。本当に多くの人たちが助けてくださって、関わってくださってそして一つになります。

つまり一つというのは、みんなで一つということでそれだけ歴史の中で偉業は行われてきたのです。つい歴史の本などには、誰か特定の一人だけがフォーカスされてその人がさもやったかのように記されます。しかし果たしてそうでしょうか。そんなことは絶対にありません。

その当時、その一人に共感してお手伝いしてくださった多くの人たちの人生や願い、想いがあります。それが形になったものが偉業であり、その偉業はその人の名前で為したみんなの偉業ということになるのです。

今、英彦山の宿坊の甦生で本当に多くの方々のお力をお借りしています。本日も、いよいよ茅葺屋根の完成と足場の解体で結をお願いしたら50名以上のお手伝いをいただくことになりました。

思い返せば最初から本当にいろいろな方に関わっていただき、そしてここまで出来上がったのは皆さんが力をお貸ししていただいたことの結晶であり、集積です。それが建物に宿り、いのちを吹き替えてしています。

最初は空き家でボロボロ、シロアリが食べ、野生動物が棲み、暗くジメジメとした廃墟のような状態でした。このままでは、この家は失われて歴史が消えてしまうという声もあり、様々なご縁が背中を後押しして甦生させていただくことになりました。

とても最初は一人では途方に暮れるような話で、不安や心配ばかりでしたが一人、また一人とお手伝いいただいたことでどれだけ心を励ましていただいたかと思うと感謝しかありません。

この後、宿坊でどうするのかというという声もありますが今はそんなことは何も考えられずただただ感謝と恩返しがしたいという気持ちがあるだけです。宿坊が素晴らしいともしもこの先、褒められることがあるとしたらこれは甦生に参加していただいた皆さんが素晴らしいと褒められたということだと私は感じています。

最後まで皆さんの真心に応えられるように、みんなの一人としてやり遂げていきたいと思います。いつも本当にありがとうございます。

この道を究める

自分の道を歩んでいくなかで、大勢の方から評価されることがあります。その評価は賛否両論あり、それぞれの意見があります。人には価値観があり、それぞれに生き方も異なりますからそのどちらも参考になります。

しかし時折、親しくなりたい方や、大きな影響力をある方、認めてもらいたいと思っている方からの意見に自分が揺さぶられてしまうことがあります。

人が自分を見つめるというのは、こういう時かもしれません。

自分を見つめるというのは、自分というものをもう一度、外の目、内の目、全体の目で観直してみるということです。その中で、自分はいったいどうしたいのか。そして周囲はどう思うのか、自分の初心、役割、天命はどうしたいのかと自分自身を掘り下げていきます。

自分を掘り下げていくなかで、本当の自分に出会います。そして本当の自分の声を聴いてどういう結果になっても悔いのない方を生きようと心で納得するのです。

すると、結果に限らずその人はその人らしい人生を生きていこうとします。つまり自分らしく生きていくのです。

私は子どもを見守ることを本志、本業にしています。なので、試練はいつもそれを見守れるかどうかというものを見つめる機会があります。童心、そして道心を守れるかと自己に問うのです。

子どもが子どもらしくいられる世の中をつくりたい。そして子どもの憧れる生き方を実践したいと決心してから今があります。それは自分の中にある子どもを守れるかという覚悟と一心同体でもあります。

しかし有難いことに、事があるたびに救われるのはその自分の中にある子ども心であり納得していきていこうと約束して決めた二つが一つになった自己一体の本心です。

本心のままに生きていけるように、強く逞しくしなやかに、素直に謙虚にこの道を究めていきたいと思います。

自然から学ぶ

人はそれぞれに固定概念を持っています。今までの常識があるから思い込んでいるものはなかなか拭えません。特に最初からあったものに関しては、ほとんど疑うことがなくそういうものだと信じ込むのです。

これらの思い込みが執着になり、本質や真実がわからなくなっています。特に知識として誰かに教わって疑問を持たないとよりその思い込みは強くなります。

本当は文字や知識がなかったころ、人は何を見て学ぶのか。それは自然を観察して学んでいました。自然の中で発生する様々な道理や真実を直に観て、その本質を察知していきました。小さな変化から大きな変化、またこうすればああなるというように場数を繰り返して事実を学びました。

今では誰もがそうやって習得しなくても、言葉や文字によって便利になりある程度は理解し合えるようになりましたからその分、かつてのような本質の察知や道理の習得は失われていきました。

しかし、原理原則や道理、真実というのは基本であり基礎であり根本や根源の部分です。応用というのは、その原理原則をもっていることで発展させていきますから物事の道理を習得していた方がこの世の仕組みや知恵を発明するのに重要な役目を得られます。

例えば、私は自然農や伝統文化などに触れていますがそうすると道理や原理原則ばかりを見つめる機会が増えます。自然の原理原則に照らさなければ壊れる仕組みになっていますから、毎回、自然に近づき自然に寄り添い、自然の叡智をおかりしながら取り組むのです。

そうやっているうちに、自分が思い込んでいたものに気づき、大前提になっていた知識や執着が取り除かれていきます。世の中の当たり前を疑い、本来の自然にある当たり前に気づけるようになっていくのです。

こういう学問をしていたら、飽きがくることはありません。毎回、新鮮な学びがあり、気づくことが増えていくだけです。なにに気づくにか、それは自分の思い込みに気づくということ。そして新たな発見や発明に気づくということです。それはその道理や原理原則を応用する面白さに出会うからです。

人間の学問の根本は、この「自然から学ぶ」ことにあると私は思います。子どもたちのためにも、自然から学ぶ姿勢を伝承していきたいと思います。

歴史道

私たちは歴史というものを教科書で学びます。しかし本当の歴史は教科書には書いていないことがほとんどです。その理由は、歴史は勝者の歴史でありその時の勝者の目線で都合よく改ざんされていくからです。事実も、事実の様で事実ではありません。現実はさらに多くのものが関わり、同時に敗者の歴史もあるからです。

真の歴史を知るためには、起きたことを丸ごと理解して受け止めていくような歴史道のようなものがあるように思います。それは今まで連綿をつながってきたものにアクセスをし、それがなぜ行われていたのかをその土地や文化から学び、それを辿りながらかつての人たちの想いをつないだり甦生させていく過程で学ぶのです。

つまり本当の歴史は人々の心を伝えていく中にこそ存在するということになります。これは人の生きる道であり、まさに連綿と続いている歴史です。

歴史は生きているというのは、生き続けているということです。つまり生ものですから保存するには漬物のように漬け直して発酵させ続けていく必要があるのです。保存とは本来、放っておいて保存はできません。そこにはお手入れが必要です。そのお手入れは、物であれば行事ごとに出したり仕舞ったり、片づけたり、そして磨き直して手入れします。これが食べ物であれば、先ほどの漬物のように何度も漬け直して腐敗しないように手塩にかけて守っていくのです。

歴史も同様に、常に私たちが手塩にかけて育てていくものであり、また定期的に古くなり腐敗しないように漬け直していくことで甦るのです。

形だけを残すのなら、ホルマリン漬けや氷漬けにして深い暗闇で光が当たらないところで保管すれば可能かもしれません。しかし、そんな形式だけ残っても何の意味もないのです。

私がやっている歴史の甦生は、形をただ残すことに意味を感じていません。そうではなく、その歴史の道を残すことの方が大切だと思っているのです。そのためには、先ほどの伝統保存食の知恵がそのまま使えるのです。

私が漬物から学んだのは、この甦生や保存の知恵でありそれが和の心であり、すべてにおいて対応できる道の処し方とつながっているのです。

子どもたちのためにも、真の歴史を伝承しその知恵がどの時代でも活用できるように私の役割を全うしていきたいと思います。

 

 

真の融合

最先端と伝統文化の融合をみていて色々と思うことがあります。私は先人の智慧や先人の願いや祈りを尊重しますからあまり目新しくなる感じにはなりません。むしろ地味で、何が新しいのかわからないという具合にほとんどが目には見えません。今、あるものを活かし、そのあるものを別のものと組み合わせていくなかで今の自分に相応しい使い方を味わいます。

器というものは、その器は無です。しかしその器に何を載せるのか、もしくはその器をどう使うのかは、その器の天命にも関わってくるものです。

ある器は、飾り物になり、ある器は花の場になり、またある器は何かの想いを宿します。器は器、そして私たちもまた器にもなりえる存在でもあります。難しくなってきたかもしれませんがシンプルにいえば、徳を磨いていくということです。

私は古いものと新しいものを融合するとき、そこに徳を見出します。その徳は、いのちを尊重する中で顕現してきます。丁寧に磨き、丹精を籠めてお手入れをする。そうして、みんなが喜ぶように、そして少しでも長く幸福になれるようにとそのものの豊かさをみんなで味わいます。

ご縁を大切にしていく中で、自分に与えられた天命に従っていく。

そういう生き方が折り重なっていくとき、私たちは縦の糸と横の糸を結ぶように一期一会の融合に出会います。

よく考えてみるとわかります。

私たちの今もまた古いものと新しいものは融合し続けています。それは自分自身がそうであるからです。先祖からずっとつながっている自分、そして今を生きる自分。先人の恩徳に深く感謝して、今も子孫のために謙虚に自らを磨いて今以上に美しい世の中を推譲していく。

こういうことの繰り返しの中にこそ、真の新しいものと古いものの融合があるのです。見た目の融合ではなく、真の融合なのです。

私の取り組んでいることは、すぐにはわからないかもしれませんが時を経て歴史や時代に鑑照すればいつかは理解してくださる人も増えていきます。悔いのないよう、今とご縁を結んでいきたいと思います。

暮らしフルネスの真価

春うららかな天気が続くと、犬や猫、鳥たちも心地よくゆったりと過ごしています。自然は四季のめぐりと共に、自然のリズムで時が流れます。現在のような人間都合のスケジュールではなく、まさに自然の時は全生命の時でもあります。

本来、むかしは人間も同様に自然のリズムで暮らしをしていました。今では暮らしが失われ、労働するための時間に管理されなかなか自然のリズムで生きることは難しくなっています。

その中で、暮らしの意味も変わり、暮らしはリズムとは関係のないものとして言葉も定義されて使われます。私の定義する暮らしは、自然のリズムのことであり決して日常生活のことをいうのではないのです。

私たちは本来、この自然の営みの中に伝統的な暮らしを持っていました。これを生活文化ともいうのでしょう。この文化が失われて、現代のような文明が優先されていく生き方が求められ息苦しくなっている人も増えているように思います。

子どもたちは、自然そのもので産まれてくる存在です。その最初の三つ子の魂のときは、私はできる限り自然のリズムで生きられるような環境を用意する方がいいと思うのです。それが地球で自立して生き残るためのチカラを得ることができるからです。

あまりにも早期に文明に慣れさせすぎると、人間は性格のバランスがととのわなくなります。人間の性格は、その後の社会でのバランス感覚や、その人が自分の人生をよりよく生きるための柔軟性に影響が出てきます。

だからこそ、私たちの先祖たちは日本の家屋の中で自然のリズムと調和する暮らしを永続して生きる力、生き残る力を醸成し伝承を続けたのでしょう。

私が古民家にこだわる理由も、自然のリズムと一体になって暮らしていくのに都合がいいからです。もちろん、大都会でもできなくはないですが圧倒的に自然のリズムに包まれにくいから智慧と工夫が必要になっているのです。それは決してデジタルで無理やりに自然をつくることではありません。もっと、リズムを考えて暮らしをととのえていく工夫をみんなで知恵を絞って取り組んでいくということです。

私の暮らしフルネスは、足るを知る暮らしと一般的にはお伝えしますが自然のリズム側から話せば暮らしだけで充分という意味でもあります。

暮らしの真価を子どもたちに伝承して、今と未来をよりよくしていきたいと思います。

自然の仕組み

私たちは1年のめぐりを四季を通して行います。1000年続いていれば、1000回の四季を、そして2000年続いていれば2000回の四季を巡ってきたことになります。私たちは時代を年数で捉えますが、実際にはその回数繰り返してきたということでもあるのです。

自然の仕組みは見事で、毎年同じように繰り返されます。その都度、はじめからやり直すようになっていて私たちはその自然に合わせて自分たちもはじめに戻します。例えば、種を蒔き、芽が出て、花が咲き、実をつけまた種になる。この繰り返しですが、自然はその前の一年と同じことはほぼありません。毎回、はじめに戻りますが同じことは二度とありません。

その都度、私たちは謙虚に自然の姿から学び、自分たちを変化に合わせて成長させていく必要が出てきます。つまり自然の変化にあわせて私たちも進化し続けているのです。

同じように菜の花が咲いても、同じ菜の花はない。

これはタイミングも異なれば、同じ量でもない、大きさも形状も前の年とは異なります。つまり自然のあらゆる生命は同じように、自然と調和しながら進化を已みません。そして一緒に、進化して生きているのです。

私たちは自然と共生しながら、その生き方を学び、同じように変化に合わせて繰り返しの中でいのちを磨き直していきます。

いつまでも同じようにしていくのは、私たちが自然の存在であるからです。

大事な時こそ、今までどのようにして暮らしを営んできたのか原点回帰していたいものです。謙虚に、人類の行く末と子どもたちの平和のために尽力していきたいと思います。

ミライアングル

昨日、聴福庵でRKBの新しい番組「ミライアングル」の収録を行いました。この番組のテーマは「産学官トライアングルを未来につなげる“ミライアングル”」とあります。それぞれの役割を調和しながら新しい未来を創造していくという意味もあるように感じました。

取材内容としては、はじめにディレクターから「つながり」という言葉を投げかけられました。これは先日、英彦山の宿坊の結(ゆい)という活動の収録の時に皆さんから聞いた共通した単語だったようでそこが気になっていたからとのことでした。

私は、このつながりのことを最初からつながっている世界という見方をしています。つまり分かれていたものがつながるのではなく、最初からつながっていてそのつながりに気づいたというだけだということです。

説明としては、こうです。

今の私たちが存在している歴史のことを考えてみます。すると、今の私があるのはずっと前の先祖から今までつながっているから存在しているのはすぐにわかります。その間、さまざまな周囲の人たちとのご縁が結ばれて今の私が取り組んでいることも一緒につながっていることもわかります。切れていたら、存在してもいませんから切れずにつづいているということになります。

他にも、私たちの身体は様々な要素で構成されます。この自然界も同様に、すべてのものはつながりながら肉体や物体を維持しています。そこには渾然一体になっているあらゆる存在があり、つながっていないものはこの世には一つもありません。

そういう一人ではなくあらゆるものが一つになっている中の一部としての自分という存在に気づくと人は無償の愛や安心基地を感じることができるようにも思います。

現在は、個人主義でどうしても自他を分けていきます。そして様々なことを分類分けしては仕事を増やして文明を繁栄させていきます。そのことで、より自分というものを見失い、そもそもの地球や自然といったものと乖離した経済も増大してきたのでしょう。

しかしつながりの世界では、何ひとつこぼれおちるものはありません。天網恢恢疎にして漏らさずです。

私たちは時として常に原点回帰し、真に自立して豊かに仕合せになっていくためにも、つながりに気づき繋がり共に歩んでいくことが重要です。子どもたちはつながりの中にあるからこそ、敬天愛人のような真心を感じて自分の人生を歩んでいくことができるように思います。

聴福庵や、守静坊、他にも様々な古民家甦生を手掛けていますがこのどの施設も私と歴史と深いつながりのある場所ばかりです。先人たちや先祖の存在をいつも身近に感じながら、未来から逆算して今を刷新していきたいと思います。

今を生きる責任

昨日は、無事に20周年の振り返りを行い21年目に向けて気持ちを新たにしました。これまで支えてきてくださった方々の存在の大きさに改めて感謝する一日になりました。今では、本当にたくさんのご縁に恵まれ、私たちを今も応援し一緒に歩んでいく家族やパートナーが増えました。本当に有難いご縁に深く心から感謝しています。

よく私は大切なことを語るときに「懐かしい未来」という言葉を使います。しかしこれは決してむかしが一番いいからむかしに戻そうと言っているのではありません。最近は、コロナが流行してから以前みたいに集まりたいとか、むかしみたいに海外旅行に行きたいとか、すぐに過去がよかったというような言葉を聞きます。しかし今この時、この瞬間はすでに過去ではなく未来そのものになっています。

だからこそこの今である未来そのものが一番いいとなっていることが仕合せであり、そうやってこの一期一会の今を刷新していくことで懐かしい未来を継いで仕合せをさらに守っていったように思うのです。

先人たちは、自分たちよりも子孫が不幸になってほしいなどと願ったことはありません。今の自分たちの仕合せを同じように、子孫たちにも譲っていきたい、もしくはもっと仕合せになる世の中を創造してほしいと心から願ったはずです。そこには自然界のように無償の愛に満ちています。

だからこそ、今を生きる責任をもっている私たちはこの今をかつての先人や先祖たちが願ったように仕合せな世界にし、また同じように子孫にその仕合せを繋いでいきたいと思うのです。

人は人からされたことをまた他の人にしたいと思うようになります。この連鎖は、ずっと変わらずに今もこの世を支えています。だからこそ謙虚に、子どもたちの仕合せを願い誠実に今を善いものにしていくために精進していく必要があるのです。

過ぎた過去は戻ってきません、その過去を善かったものにするにはこの今をまさに善くしていくことだけに専念していくしかありません。今を見て今に生き切るのは、その時々のご縁を大切にしたいと願うからであり先人たちのような美しい生き方を子孫に繋いでいきたいと思うからです。

今があることに感謝して、いのちと調和していくことが真の豊かさになり心のままに生きることのようにも感じます。これからもいただいてきたご縁を感謝で結び直して、新たなご縁を結んでいきたいと思います。

変化の創造

成熟してきた業界のことを観察していると、今までの仕組みが邪魔をして変化が停滞していしまっているところがよくあります。その時代時代に、課題がありそれを解決するためにはじまるのですがその時に作った仕組みやシステムが陳腐化してくるのです。

その時は、それでよかったものが時代が経つとそれが変化の邪魔をするのです。そもそも移り変わっていくということが分かっていれば、移り変わる中で何が今の時代の要請なのかということを常にとらえて学び続けることができます。しかし、日々の忙しさに追われてそんな時間が取れなくなると次第に移り変わることを忘れてしまいます。

あまりにも目先のことや日々のことに追われていくと、人は変化に疎くなるのです。

変化していくためには、少し忙しさから離れて世の中の変化をよく見つめ直す時間が必要です。もしくは、忙しくしない日々を生き、常に変化というものを見つめる観察眼を養う必要があるように私は思います。

かつての人たちは暮らしの中でその観察眼を磨いてきました。

日々の小さな変化、自然の変化に目を凝らし、小さな虫一つ、植物の変化一つを気づき、そこから世界の変化を予測していました。自然界にも兆しというものがあり、世界の反対側で起きていることでも小さな自然の変化から想像することができるのです。

今は、テレビやインターネットで世界の反対側の情報も映像などで入ってきますがむかしは長い時間と小さな変化を観察することで情報を入手したのでしょう。もともと地球は球体ですから、投げたものは長い時間をかけて返ってくるものです。これは意識の変化も同様です。歴史が刻まれていく中で、人間の意識も少しずつ変化していきます。

コロナがあり、戦争があり、人間の心理や感情も刻々と変化していきます。

毎日は同じように見えても同じことは一つもありません。

その時々によく観察し、原点回帰しながらも何が変わったのかを見極めて順応していくしかありません。昔と比べてではなく、まさに今がどうなっているのかに集中するということでしょう。

子どもたちの未来のためにも、新たな変化を創造していきたいと思います。