室礼の本質

来週、古民家講習会の3回目で室礼について行います。この室礼は大和言葉であることはブログで書きましたが改めて飾ることと室礼することの違いについて少し書いてみようと思います。

飾るという言葉を辞書で引けば、「1 他の物を添えたり、手を加えたりするなどして、美しく見せるようにする。装飾する。「食卓を花で―・る」2 物を、人目につくように工夫して、置き並べる。「商品をウインドーに―・る」「雛人形 (ひなにんぎょう) を壇に―・る」3 表面をよく見せる。取り繕う。「体裁を―・る」「―・らない人柄」「言葉を―・る」4 りっぱにやり遂げることによって、価値あるものにする。華やかさやすばらしさを添える。「白星で初日を―・る」「有終の美を―・る」「歴史の一ページを―・る壮挙」5 設ける。構える。「高座を―・ってくだされ」〈狂言記拾・泣尼〉」(goo辞書)とあります。つまりは、美しくするために飾るということです。

それに対して、室礼を辞書で引けば「1 「設(しつら)え」に同じ。「テーブル設いをする」2 (「室礼」「補理」とも書く)平安時代、宴・移転・女御入内などの晴れの日に、寝殿の母屋や庇(ひさし)に調度類を配置して室内の装飾としたこと。室礼(しつらい)は、鋪設とも書き、建具や調度を配置して、生活の場、または儀式の場を作ることである」(デジタル大辞林)とあります。

飾るだけではなく、儀式の場をつくるとあります。この儀式の場とは何かということです。この儀式は、公事 (くじ) ・神事・祭事・慶弔などの、一定の作法・形式で執り行われる行事。また、普段の生活での行為とは異なる特別な行為のことです。

単に装飾するだけではなく、そこに信仰や信条、宗教、哲学などが入っているということです。

例えば、今年の場の道場のトイレの室礼には「赤べこ」をしつらいしています。これは丑年と疫病除けに縁起があります。ほかにも、厄除け大三元大師のお札もあります。暮らしの中で私たちは信仰をしてきた民族ですから、数々の行事はすべて室礼とともにあります。

今月の例大祭では、玄関には松竹梅の門松を祀り、お社周辺のしめ縄や素焼きのお皿なども新しくし飾るだけではなく御水を汲みにいき、丹精を籠めた神饌をお供え、丁寧に磨き清浄にして場を整えます。そして直来で伝統の赤飯餅を用意し、ぜんざいを振る舞うのもまた室礼の一部です。

つまりこれらは単に綺麗に飾っているだけではないことはわかります。飾っていることと他に信仰が入っているのです。信仰心がある人は、単に飾る以上の心を用いていることがわかると思います。。意味があるものを意味のあるままに大事に祀り続けるのです。これは縁起を大切にしてきた民族だからです。

そうしたご縁があったものは単なるモノではなく、お祀りしていく神様となります。私が取り組んでいる暮らしフルネスの暮らしの柱は、この日本的な伝統の精神にあります。聴福庵も場の道場も徳積堂も、祐徳大湯殿もみんなその神様のようにお祀りしてしつらえています。

その室礼に感動してくださった人たちが、日本人のかつての懐かしい暮らしを思い出してくれて伝承をしてくださっています。

今回の講習では、実践を観ていただきながらなぜ古民家甦生が意味があるのかを伝えていきたいと思います。

大和言葉の情景

室礼(しつらい)という言葉があります。私もよく古民家をしつらいする機会がありますが、これは和語であり大和言葉の一つです。この大和言葉は、ブリタニカ国際大百科事典によればこう書かれます。

漢語や外来語が入る前から日本語にあった単語をさす。「和語」 (古くは「倭語」) ともいう。狭義の国語。日本語の基礎語彙の圧倒的多数がこれで,単語の音形は短く,「手」「雨」などのように1~2音節から成り立っているものが多い。ただしこれらの基本語が合成したり,接辞が接合することにより3音節,4音節といった合成語,派生語がつくられる。なお「大和言葉」が,おもに中古語に基づく雅語をさしたり,和歌 (やまとうた) をさしたりすることもある。

今では、漢字だけでなく、英語なども混ざっていろいろな言葉を私たちは使いますが、その中に私たちは気が付くと日常の中で自然に大和言葉をいくつか使っているのがわかります。

例えば、夕暮れ、せせらぎ、心遣い、こういうものもまた大和言葉です。どこか自然と情緒を感じさせるもの、配慮や思いやり、真心や優しさ、つまり真善美を感じます。

現代では私たちはいろいろな言葉を知らず知らずに使い分けます。「ありがとう」は大和言葉、「感謝」は漢語、「サンキュー」は英語です。場面場面に合わせて、その言葉を使い分けているのです。

そう考えてみると、大和言葉を使うときはどうするか。

私たちは「ありがとうございます」、「感謝します」、「サンキュー」では用途を分けていると思います。少しの言葉の使い分けですが、それだけ配慮の仕方を変えているということです。

私たち日本人は情緒豊かな風土の中で、情緒を磨き上げていきそれを言葉にしてきたということでしょう。この大和言葉を使うことで、どこか懐かしい日本人の情緒や情景が浮かびます。自然やいのちを尊重して、大切にしあっている関係が大和言葉を使うたびに出てきます。

先ほどの室礼では、飾るではなくしつらえるという言葉に日本人の情緒を深く感じます。日々の暮らしの中で、日本の情景や情緒を磨きつつ日本人らしい生き方を伝承していきたいと思います。

 

暮らしフルネスが始まる

最近、時代のスピードが急速に増して生きているときには観れないだろうなと諦めていたことが身近な景色で顕れてきています。どうせわからないと、半ばあきらめながらも舞台だけはと取り組んできたことが新しい常識に組み込まれはじめています。

未来が今になっていく感覚は、今までで今が一番大きく感じています。

私は、もともと子どもに興味があるのは私自身の中に変わることのない子どもがいるからです。その子どもは、魂と言ってもいいかもしれませんが純粋にこの世で保育されていることに仕合せを感じて豊かさと幸せを味わっています。

私たちは本来、どんな人も生きているだけで価値があり、この世に同じ空気を吸う人としてかけがえのない存在です。そんな当たり前な世界で、魂は存在して日々に自然に磨かれ淘汰され光り輝き安らぎを得ています、

そこに何らかの制限をかけて別の人生を与えていくのが刷り込みであり、環境であることは歴史を見ればすぐにわかります。縄文時代には、暮らしそのものが澄み切っており私たちは数千年もその喜びを感じていました。それがここ2000年弱で、暮らしが失われまるで何かの生産機械のように一つのことのために使役しています。

生きているという実感は、本来は何もない中にあり、その何もない中にはこのいのちを自然に紡ぐという当たり前の暮らしの中に無がありました。その無を楽しむというのが私のいう暮らしフルネスの本義であり本質です。

物事には本質があるように、事実にも原点というものがあります。

時代の節目にあり、今こそ、その原点に立ち返りみんな気づいて動き始めなければなりません。それは子どもの未来の話になるからです。子どもとは、未来のことです。未来をどうよりよくするかは、今の世代の本当の使命です。そのために私たちは今を生きているのです。今の私たちの生活があるのは、先の代の人たちの配慮であり、生き方であり、信じた現実です。それを修正し、改善し、さらに遠大な未来を描くのは始祖からの想いを継いでいくことです。

暮らしフルネスはいよいよこの時代に始まります。

想いを大切に誇りを見守る

人には様々な「想い」というものがあります。その想いを受け継がれていくことで、ますますその人たちの想いが豪壮になっていくものです。最初は小さな想いでも、それが積み重ねていけば次第に大きくなっていく。その想いを穢さないように、その想いを育てて見守っていくように誇りがあります。

よく物事を観察していると、誰にしろ大なり小なりの想いがあります。その想いに引き寄せられて、その想いを受け継ぎ、その想いの一部を担います。想いの連鎖は、時間を超え、場所を超え、それが人の想いを通して結ばれていくのです。

まるで伝言ゲームのようですが、一つ異なるのはそこに大切な想いを扱っているという自覚と、その想いを守りたいという願い、そして想いを信じて実践してきた祈りのようなものが入っているのです。

できるだけ正確に、そして以前よりも磨いて次の方に受け渡していきます。その想いを粗末にしないように、粗末にされないようにと細心の注意を払います。つまり、想いに対する配慮をしていくのです。

現在、古民家甦生でいろいろな事情で空き家になったところを引き継いでは甦生させています。しかしその空き家といっても、そこにはそこで生活をしてきた人たちの大切な想いが詰まっているもので特に長ければ長いほどにその想いは醸成され強いものになっています。

その想いがあるゆえに、簡単には片づけられないこともあるのです。特に想いを無視するような無配慮なことがあれば、誇りをもって対応するでしょう。その誇りは、損得度外視で「想い」を大切にして判断するのです。

誇りというものは、「想い」と連動しています。どんな想いを持っていたか、それは目には見えなくてもその想いを受け継いだ人にはとても大切なことなのです。現代の物質文明では、想いなどというものは目に見えないものですからお金で解決したり簡単に事務処理で片付けようとします、しかし、想いを持っているからこそ生命があるのであり、単なるモノではなくなります。そこに一つのいのちが存在するのです。そのいのちが壊れないようにと想いを大切にしていくのです。

またその想いが働き、想いに人は集まってくるのも事実です。

想いを粗末にしないように、想いを大切にするような配慮を私自身も気を付け、丁寧に真心をもって接していきたいと思います。

いのちの暮らし

現代は、物質文明でモノ化している世の中ですからなかなかいのちのようなものを重んじる風潮が失われてきつつあるように思います。苦しいことを避け、便利なものばかりに飛びつくのもまたこのモノ化する文明の価値観が拡大していくからでもあります。

なんでもモノにしてしまえば、いのちへの配慮なく便利なもののために壊してよくなっていきます。壊しては失われてしまうものも、仕方がないとモノ化を優先すればそのうち自分たちのいのちもまたモノ化されていくように思います。

そうならないように、日々の暮らしを整えいのちに感謝していくような不便さを楽しむ力が必要になります。

そもそも不便や苦労というものは悪いものではありません。苦労は実は楽しいもので、修行も同様にそれをやること自体に喜びがあり仕合せがあるものです。なんだか今の時代はそれは変人のようにいわれますが、むかしの時代の修行はただ苦しいのではなくその苦しみの中に深い喜びを感じていたのがわかります。楽に傾いている価値観の中では、苦はよくないことになっています。この苦の意味がそもそも違っているからそうなるのです。もともと苦楽は同じですから、苦も楽もどちらも仕合せの種になっているのです。

その仕合せの種をどう味わい育てていくのか、その育て方こそが暮らしなのです。

暮らしを充実させていくというのは、好奇心を失わない生き方を優先し、いのちを大切に物を活かすということでもあります。

そういう生き方をしている人は、日々を暮らしの実践道場として日々に新たに物事を丁寧に紡ぎ取り組んでいきます。その取り組みは、仕合せの種まきともいえるでしょう。

生まれてきて死ぬまで私たちはいのちがあります。

いのちを最期まで大切にすることは、最期までいのちを実践することです。いのちの実践は、いのちがあることを忘れないでいのちだと思って生活をし続けることです。つまり古来からある日本の伝統的な暮らしを大切にしていくことです。

子どもたちのロールモデルになるような生き方を伝承していきたいと思います。

 

新たな施浴伝説

歴史というのは、普遍的な私たちの先生です。困難な時こそ、今にあたふたするのではなくもう一度歴史に学び、今を考察していく必要があると思います。

今から1300年前、聖武天皇が治めた奈良時代に天平文化というものが花開きました。この時代は地震や疫病の大流行ありました。天然痘と思われる疫病では総人口の3割前後が死亡したとも言われています。

この疫病は権力者や貴族であろうが関係なく広がり、藤原不比等の息子4人兄弟(藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂)も病死しています。この時代は、地震や疫病から飢饉にまで発展しどうにもならないことが続きます。

だからこそ聖武天皇は仏教の力をかりて国分寺や国分尼寺を各地に作らせその総本山の東大寺と法華寺を建て大仏を建立したといいます。

先日、大三元大師のこともブログで書きましたがもともと節分の豆まきもここのとき宮中で行われた疫病を持ち込む鬼を国外に追い払う追儺に起源があるといわれます。感染症と地震は連動していて、今こそもう一度、歴史に学ぶ必要があるのです。

私が建立した原点サウナでもある、祐徳大湯殿サウナはこの時代の歴史も参考にしています。かつて古くから入浴と仏教には密接な関係があり入浴の起源は、仏像を湯で洗い浄めたことに始まるとされます。この時代、施浴といいお寺では寺僧の入浴後、近隣の人々に寺の風呂を無料で開放していたといいます。この施浴にまつわる伝説で有名なものが「光明皇后の千人施浴」です。

この光明皇后(701年から760年)は日本の第45代天皇・聖武天皇の皇后です。この光明皇后も天然痘で3人の兄を亡くしその生家である藤原不比等の邸を寄進し、その跡地に奈良に法華寺を建立して兄たちの菩提を弔います。

仏教への信仰心も篤く、社会のためにと真心を尽くしていた皇后がある日夢で仏のお告げを聞きます。そこで法華寺の施浴を建立し、千人の垢を洗い流す誓いをたてるのです。

そしてその千人目に現れた者は、肉がただれて血膿が噴き出たらい病の人でした。しかし皇后は自らその者の体を洗い、乞われるままに流れ出る膿まで吸い取ってやります。すると浴堂に紫雲が立ち込め、患者は瑞光に満ちた金色の仏に化身して「我れは阿閑(あしゅく)仏なり」と言葉を残して消えたといいます。

これはその後、ずっと人々の間で口伝で伝承されていて時代を超えて今でも人々の心に響くものがあります。世界ではマザーテレサなども同様に、深く人々の心を救おうとし真摯に手当てしてきた生き方が感じられます。

またこの光明皇后は千人の施浴の際、信仰の深い3人の女官に手助けをしてもらっていたといいます。そのこの女官のことを「典侍(ないしのすけ)」といって人々は3人を三典(さんすけ)と呼びました。これが銭湯で風呂を焚き、浴客の体を洗う男衆の呼び名である「三助」の由来となったといわれています。

つまり「施浴」を手伝い、人々の心の穢れや体の汚れ、ありとあらゆる苦難を癒そうと日本の石風呂(蒸し風呂サウナ)を活用したのです。

今の時代に似ているものを感じ、ここに共通の信仰の源泉を私は感じます。大げさかもしれませんが、私もこの祐徳大湯殿を建立する際に誓いを立てています。その誓いに恥じないように、歴史に学びこの時代に相応しい新たな伝説をはじめていきたいと思います。

自然の暮らし~医食同源~

春になると苦みのある旬の野菜がいくつかでてきます。その一つにフキノトウがあります。このフキノトウは、あの緑色の大きな葉をつけるフキの若い花茎のことです。花が開かぬ前の鱗片状の包葉に包まれたものをてんぷらや焼いたりゆでたりして食べます。

独特の苦みがあり、春の旬の代表の一つとも言えます。

この春に苦みには、「春の皿には苦味を盛れ」とありむかしから春には苦いものを食べるという習慣がありました。これは春野菜全体のことを言います。この春野菜の苦味成分には、冬の身体を春仕様に転換していく作用があるといいます。

冬は体温を逃がさないようにと、代謝機能を低下させその分、脂肪や老廃物を溜め込みたすくなっています。それで冬太りという言葉があるのです。この冬に脂肪を蓄えていると同時に老廃物も溜まっているのです。

この老廃物を取り除き、代謝を促すにもこの春野菜の苦みが役にたちます。この春野菜の苦みは、「植物アルカロイド」と呼ばれ新陳代謝を促し体内にたまった余分な熱や水分を体外に排出する作用があるといいます。それに加え春野菜には抗酸化作用のあるポリフェノール、他にもビタミンA(カロテン)、ビタミンB群、ビタミンC、があり体内の代謝を高めるために使われる補酵素があるといいます。この苦み成分は、サポニン、タンニン、アルカロイドなどになり、少量であれば、体にとっては肝臓の働きを活発にして解毒作用につながり腎機能も向上させるといいます。

春野菜には、春キャベツ、春ニンジン、フキノトウ、たけのこ、タラの芽、菜の花、新セロリ、新じゃがいも、新ごぼうなどがります。

ただおいしいだけではなく、私たちの食べるものは薬そのものであり、医食同源とあるように体を元気にして健康を保つのにも欠かせないのです。

暮らしフルネスの食は、まさにこの医食同源を実現するものです。旬を味わい、四季のめぐりと一体になりながら自然と離れず、自然と同化してその恩恵を全身に受け取ることで仕合せを感じるものです。

子どもたちに、その自然の暮らしを伝承していきたいと思います。

例大祭の御礼

昨日は無事に例大祭を執り行うことができました。深いご縁のある多くの方々にご参列いただき、祈願後、とても神社や周囲が光り輝いて甦生しておりました。いのりの力は偉大で、こうやって人々の真心がご神体そのものを磨き光らせることを知りさらなる精進をしていこうと真心に帰しました。

コロナウイルスで集まれないからこそ、神事を大切にみんなでこの困難を支え合い乗り越えていくことを祈願する。まさに、人類はこうしてみんなで祈りを捧げて結束を強め結びつきや絆、真心によって道を拓いてきたことを実感します。

確かに具体的な予防をしていくことも大切ですが、禍を転じて福にしていくという生き方そのものが人類の未来を明るく希望に満ちたものにしたのでしょう。

この祈りの日を忘れずに、この一年も丹誠を籠めて祈りを捧げていきたいと思います。

思えば、私たちは日常の中でさまざまな出来事によって感情や心が波立つものです。これは雲一つなく風もないうららかな快晴の日であったものが、大嵐が来て強風が吹き、雨や霙などが降ってきて大荒れの日であるかのように変化しています。

時として、災害級の出来事もあれば、また平穏無事な日々を過ごすこともあります。まさに天気や天候のように、私たちの心情もまたこのように変わり続けている存在なのです。

その時、私たちは穢れといったものを引きずることがあります。それはネガティブな感情や不安などをずっと抱えていくようなものです。天気や天候は、自然に恢復していきますが人間の心情はなかなか自然のようにはいかないものです。自然が私たちを守ることもあれば、厳しく戒めることもあるなかで私たちは偉大な見守りの中にいて生きています。

つい忘れかけてしまう、生かされていることの有難さや満たされていることの仕合せを穢れを祓うことによってさらに善いものへと甦生させていくことが私たち人類の修養になっているように思います。

お祀りは、この魂を磨き心身を清め、真心で素直に明るく生きていくことを私たちに諭してくれます。日々に精進し日々に修養する、人格を育てていくことで自然と一体になり和することでこの世で記憶を鮮明に甦生するのです。

来年の例大祭に向けて、また新たな精進と修養に励みたいと思います。

ブロックチェーン神社 例大祭

今日は、ブロックチェーン神社の例大祭を行います。この一年、本当に色々な不思議なことがあり奇跡のような出会いをいただきました。昨日は、ちょうど二十四節季の立春ということもあり、一年のはじまりの日でしからゆっくりと振り返りをしました。

この立春は、春の始まりであり1年の始まりとされる日のことです。その前の日は節分ということで、豆まきをし鬼を祓い、立春大吉として正月を迎えます。縁起のよいものとして、大豆を使ったものをたくさん食べます。立春大吉豆腐などもその一つで、白いものを食べ不浄を祓います。この後は、御祭りの直会としてぜんざいを用意しています。ぜんざいも、小豆とお餅、穀物の神様の宿るものを食べお福分けをしていきます。

神社の例大祭の御蔭で正月を2度楽しむような気持ちです。特に、12月末の正月とは異なりこの時期の正月は寒さも特に厳しいですが空が澄み渡って春の兆しがあちこちに感じられまさに冬と春のちょうど融和したような気配があります。この時期に正月をすることが本来の姿だったことは懐かしさや気候の様子でも感じられます。

諸説ありますが、明治のころのグレゴリオ暦への改定で世界(西洋)にあわせて暦を改変しましたがそれまでに使われてきた暮らしの暦がなくなり生活があべこべになりました。本当は、太陽や月を観て、地球の変化を捉え、その暦に従い私たちは旬を取り入れ健康的な精神や肉体、心を清浄に保つことで仕合せや豊かさを感じていました。

時間に追われるというのは、季節を無視してただ時間や時刻に合わせているともいえます。神事のような暮らしというのは、まさに自然と一体になった暮らしを行うことです。

私が暮らしフルネスを提唱するのは、この自然と一体になった暮らしを甦生することで本来私たちに備わっている本能や本質を伝統の知恵を借りて根本から養分を吸い上げるように結んでいくことです。

忙しさや分断から、心身を病んでいる人が増えてきています。本当は私たちは大きな家族であり、みんなで一緒にこの地球で暮らしを謳歌して仕合せを保障されてきました。神様のような暮らしというのは、原初の暮らし、つまり原始のような豊かさを取り戻すことでもあります。何もなくても仕合せ、足るを知り充分すぎる豊かさに感謝するシンプルでもっとも美しい暮らしを感じられるようにしていくことです。

例大祭は、一年に一度のハレの日です。

ハレバレとした心地で、このお祀りしご縁の方々の繁栄と発展、また世界人類の平和と子どもたちの未来への安寧を祈願したいと思います。

おめでとうございます。

 

真に豊か~懐石の真心~

例大祭の準備がはじまり、精進料理を食べ始めます。本来は、潔斎は数か月前からのものもあれば1ヶ月前のものもあるそうですが現代は、仕事をしながらの会食もあり、なかなか難しいものもあります。

実際には、一汁一菜の暮らしをしていれば日々の暮らしそのものが精進料理ですから何の問題もありません。そのためには、日々の暮らしをととのえ、日ごろの料理を丹誠を籠めて取り組んでいくことになると思います。

まだ私にはできていませんが、暮らすように神事をし、その神事によって暮らしを充実させていきたいと思っていますから少しずつ近づいていきたいと思っています。

料理といえば、懐石料理というものがあります。現代では、和食のコース料理の名前などで使われていますが本来は禅僧が空腹をしのぐために懐に入れていた「温石(おんじゃく)」が由来です。

この温石とは腹や胸にいれて体を温めるカイロのような役割の石ですが、食べ物がない時代、その空腹をやわらげる効果もあったといいます。もともと禅宗の修行僧の食事は一日一食のシンプルなものです。満足に食事を摂らないと体を温める機能も低下するので温石で暖をとりつつ空腹を和らげたといいます。

また懐石料理が、おもてなしにつながるのは千利休によるものです。禅の思想、侘茶の精神を懐石に倣い見た目だけを重視した華美なものよりもお茶や料理を体に負担なく本来の自然と美味しいものを最善としました。

「利休百会記」の記述には、「天正18年9月に古田織部を招いた際の膳の内容は、飯のほかには鮭の焼き物、小鳥の汁、ゆみそ、膾の一汁三菜。」とあります。

本来の満たすというものに、豪華絢爛な欲望を満たすのではなく、いのちや心を丸ごと満たすという「足るを知る」ことがこの懐石の意味であるように私は思います。決して質素だから貧しいのではなく、本当の豊かさはそのシンプルな生き方の中にある。そしてこの懐石こそ、ないものねだりをするのでなくたとえ空腹であっても心は満たされていきそしていのちの温かさを感じられるところに本当の「食」の意味があることを悟るというものなのかもしれません。

いのちやこころは、膨大な量は必要ありません。ほんの僅かであったとしても、そこに真心があれば真に豊かなのです。

例大祭の準備を慎んで、執り行っていきたいと思います。