神秘の世界

法螺貝を学び始めてから、螺旋構造のことを深める機会がありました。螺旋とは巻貝のようにぐるぐると渦巻状に巻いているもののことをいいます。

この螺旋のカタチというのは、ミクロでは遺伝子や分子、そしてマクロでは宇宙の姿と同じです。螺旋構造というものは、この世のもっとも原始的な運動の姿であり、この世のエネルギーの構造そのものであることを直感します。

宇宙でいえば、私たちの太陽系は猛スピードで螺旋を描きながら太陽と一緒に銀河系から遠ざかっています。同じところをただ廻っているのではなく、遠ざかりながら廻っていますから螺旋的に前進を続けます。そして銀河系もまた螺旋状の姿のままだ善い宇宙を猛スピードで廻りながら遠ざかります。この遠ざかるという表現が果たして合うのかわかりませんが、何処かに向かって移動をし続けているのです。

私たちは、一直線のところを真っすぐに進んでいるのではありません。目には観えませんが、地球が自転して宇宙が回転するように私たちのいのちもまた螺旋的に活動を続けているのです。

例えば、台風や竜巻、水や火などもよく観察するとすべて螺旋になっていきます。それは私たちの太陽系をはじめ地球が螺旋状に前進しているからです。もともとが螺旋になっているのだから、私たちのいのちのすべては螺旋に従って螺旋になっていくということです。

縄文土器には必ず渦巻紋様があります、あれは宇宙のチカラを取り入れるための器であり縄文時代の人々はいのちの姿を螺旋であると直観していたのかもしれません。自然を観察すればするほどに、すべての生命が螺旋構造であることがわかります。

私たちはこの螺旋の仕組みで生命を象っているとも言えます。

法螺貝を吹くとき、何か螺旋のエネルギーとつながっていく感覚を覚えます。ひょっとしたら、私たちは音を通して螺旋の何かに触れて、その力と調和をはかったのかもしれません。

神秘の世界を味わい、子どもたちに神秘の存在を伝承していきたいと思います。

前進を楽しむ

一つの道が卒業し、新たな道が拓くというのは芽出度いことです。芽出度いというのは、なかなかあることではありません。言い換えれば奇跡であるということです。人は生きていたら毎日いろいろな奇跡にめぐり会います。

その奇跡を奇跡と感じる感性がある人は、毎日が挑戦であり日々が大切な道の一歩です。何かを捨てることは、何かを選ぶことでもあります。未来志向というのは、過去にとらわれず、自分の心の声を信じることかもしれません。

「どんな仕事でも喜んで 引き受けてください。 やりたくない仕事も、 意に沿わない仕事も、 あなたを磨き強くする力を 秘めているからです。」稲盛和夫

「山は西からも東から でも登れる。 自分が方向を変えれば、 新しい道はいくらでも 開ける。」松下幸之助

選ばない生き方というのは、引き受けるという生き方です。それは役割をいただいたのなら、与えられた以上で精いっぱい恩返ししていくということに似ています。仕事も同じく、いわれたことをやってもそれはその人のできる範囲で小さくまとまります。

しかし言われたことよりももっと大きく、もっと真摯にお返しすればそれはますます発展して学びも磨かれていきます。大切なのは、どんなことも道であるとし自分自身の人生を創造していくことだと思います。それは他人軸で評価される自分のことではなく、まったく新しい自分に出会い続けていくことに似ています。

今環境がないからや、ここまでの環境でなど満足するのではなく、もっともっとと自分から役割を取りに行く。それは志を立てているのだから、自分の視野で判断するのではなく、偉大なお仕事をいただいていると感謝し挑戦することだとも思います。

ご縁やチャンスは、そして一期一会は心の在り方や捉え方が大きな影響を与えています。一つ一つの物事をどのように受け止めているか、そこに自分との正対があります。自分と向き合うことは、道を歩んでいくことです。

引き続き、前進を楽しんでいきたいと思います。

 

夢追人

人はそれぞれに夢というものを持っています。夢は自分から求めていくことで得られるものです。そして夢は、今あるところからもっと先の未来に向けて自分から引受けていくことでもあります。

言い換えるのなら、すでにあるものを活かしてもっと自分にお役目を引き受ける、責任感とは少し異なりますが純粋な自分がやってみたいと願うこと、本心の声を聴いて自分に正直になっていくような感覚です。

私たちは、何か与えられたものの中でやらなければならないことをやるかのように教育で仕上げられてきました。本心からというよりも、本心は我慢してその中でやりたいことをやるかのようなことを美徳のように言われてきました。

しかし子どもたちを観ていたら、そうではないことはすぐにわかります。

私たちの会社は、子どもの憧れるような会社を目指していますから子どもが先生です。子どもを先生にすれば、夢を見ること、夢に生きることがどういうことかはすぐにわかります。

子どもたちはワクワクドキドキしながら未来を生きています。過去の修正ばかりをしているのではありません、常に心は夢を観ています。その夢に向かって正直に生きているのです。だからこそ子どもたちに夢に希望や未来を感じ、そしてそれを見守ることで信じる世界を実現させていきたいとも願うのです。

私たちが見守る保育を信じるのもまた、子どもたちの未来を信じているからです。

改めてコロナのことで先行きがよく観えなくなってきているからこそ、敢えて子どものような好奇心と夢で生きる時代に入ってきました。

最後に渋沢栄一の言葉です。

「夢なき者は理想なし。理想なき者は信念なし。信念なき者は計画なし。計画なき者は実行なし。実行なき者は成果なし。成果なき者は幸福なし。ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず。」

子どもの憧れる未来のモデルになるように、挑戦を楽しみたいと思います。

未来志向

コロナウイルスがまた急速に広がりはじめ、また自粛ムードになってきました。当然、みんなで気をつけようとは心しますが同時に閉塞感というものが出てきます。疫病というのは、免疫をつけて免疫が落ちないように活発に心の状態をととのえておく必要があるものです。

なぜなら免疫が下がったら、どんな病気も予防できず感染したら抵抗するチカラもなくなっていくからです。そう考えてみると、免疫を落とさないことが優先でその上で自粛しようというところが本当のところのはずです。

しかし現在の自粛の雰囲気は、免疫が落ちていくような閉塞感を持たせる自粛のやり方のように感じます。ただ、自宅でじっとしていろといい、人に関わらないことをいい、一日中オンラインで同じ姿勢で部屋のなかで過ごすこと。こんなことをやっていたら体調も崩しますが、心身もととのわなくなっていきます。

本来、暮らしは自宅でするものでしたから暮らしを充実させていこうとする方が免疫はあがります。例えば、朝から気持ちよい朝日を浴び、畑や土いじりをし、洗濯や伝統的な保存食や料理を楽しみ、外で運動や散歩をして早めに就寝する。オンラインは時間を決めて、仕事は明確に何をするのかを決めてメリハリを持たせ、コロナの御蔭で日ごとできなかったことができることに感謝して新しい生き方を発見していく。

もちろん、経済状況が苦しくなればそんなことは言ってられないというのもありますがそうやってまた追い込むと余計に閉塞感が出てきます。みんなで閉塞感がでないように助け合い、支え合い、ゆとりを豊かさを増やしていくことで疫病に早めにいなくなってもらうようにしていく方が解放感があっていいと思います。

なんとなく息苦しさというのは、呼吸ができない状況のことです。水でいえば、流れなくなり澱んでいる状態です。呼吸を整え、水を流すように閉塞感を取り払っていく必要があります。

神道の清めたまえ、祓いためえという具合です。

この時代の姿に、先行きがみえないと嘆いてみせるばかりではなく子どもたちに明るい未来を示していけるように未来志向で生き方を磨いていきたいと思います。

真の豊かさ

聴福庵やBAには、一輪挿しがたくさんあります。野花を摘んでは、その時々の旬を活けていますが次第に枯れてくる花を少しずつ取り分けては花器を換えていきます。はじめは大きな花瓶を使い、そして次第に小さくなって最後はもっとも可愛らしい一輪挿しに移動していきます。

この花の生涯を眺めていたらこんな風に歳を経ていきたいものだと感じるのです。真の豊かさというのは、その時々の活け方にこそ由るのではないかと私は感じます。

人生の中では、それぞれに時節というものがあります。

シンプルに言えば、節目でもありますがその節目節目には節目に相応しい舞台や環境、そして場があり、その場に移動していくことで新しい活かし方があります。そうやっていのちを大切に扱い、仕合せに生きていけばそれがそのままに真の豊かさになっていくのです。

もしこの花瓶に合わなくなったから要らないと捨てたり、まだまだいのちがあるものも役に立たないからと放棄するのは豊かさではないように感じます。現代の豊かさは、所有することであったり、大量にあることであったり、すぐに入れ替えができるほどに換えがある状態であったりすることを豊かだと思い込まされていたりもします。

しかしそれはあくまで、物質的な経済を活性化するための詭弁であり本来の真の豊かさとは異なるように思うのです。

先ほどの花で例えるのなら、活かし方の上手い人は押し花にしたり、ドライフラワーにしたり、水に花びらを浮かべたり、さらにはそれを絵に描き写してその花のいのちを永遠に味わったりする工夫を持っています。

そういういのちを最期まで慈しみ愛おしむように使える人こそ、暮らしの達人であり真の豊かな人だと私は感じます。身近には、唯一無二のいのちばかりが一緒に生を謳歌しながら共に歩んでいます。

その一つ一つを丁寧に丹誠を籠めて生きていくことは天恵であり徳そのものです。

子どもたちに真の豊かさを伝承していきたいと思います。

 

曲木の椅子

徳積堂の椅子の一つに、1960年代につくられた曲木家具があります。この曲木家具は、その名の通り木を曲げてなめらかな美しい曲線と微細で緻密な調整によってつくられたものです。家具職人たちは、手作業であらゆるものを丁寧に仕上げていきます。

少しその曲木家具を深めてみたいと思います。

この曲木家具の曲木の技術を発明したのは、ドイツ人のミヒャエル・トーネット(1796年〜1871年)といわれます。トーネットが発明した曲木工法は、木が持つ可塑性(圧力を受けて変型したものが、そのまま元に戻らない性質)を利用して天然の無垢材を煮沸し、鉄の金型に沿って曲げ成型していきます。

そしてこの人物が仕上げた曲木の椅子が、モダンスタイルの原点として爆発的に世界に広がっていきます。特に1859年に発表されたNO.14は歴史に残る名作となり現在までに約2億脚製造されたといわれています。その時代に、2億脚というのはものすごい量です。

そして日本で唯一の曲木家具ブランドが立ち上がります。これを秋田木工といいます。この秋田木工は、秋田曲木製作所という名前で1910年に曲木に適したブナやナラの豊富な秋田県湯沢市に設立されます。

秋田木工は、理念に「木が木で立っていたときよりも立派に美しく」を掲げて熟練した職人の丹念な手作業で、曲木家具を生み出し続けます。また、日本を代表する剣持勇、柳宗理などのデザイナーとのコラボレーションも行い、数々の曲木家具がグッドデザイン賞に選定されています。その後は、粗悪な輸入品が横行し経営がたちゆかなくなり大塚家具に買収されたといいます。

現在では、大塚家具として曲木をつくり続けているようです。秋田木工という名前がなくなりましたが110年以上、丹誠を籠めて技術を磨き上げてきたものは常に本質的でシンプルです。この秋田木工の信念のハイチェアがまたこの場を磨いてくれると思います。

子どもたちに日本人のものづくりの心を伝承していきたいと思います。

歴史を磨く

地球における人類の歴史というものを客観的に捉えると、大きくは自然と対立している時代か、それとも自然と調和している時代かに大きく分類できるようにも思います。自然の中で、私たちはどう生き、どう活かされたか、長い年月をかけて私たちは旅をし、その本当のバランスの場所を探しているようにも思えます。

ひょっとしたら、私たちは地球ではない惑星にもそれぞれに根をおろし、それぞれの場所であらゆる体験を通して一緒に成長しているのかもしれません。あくまでこれは妄想ですが、宇宙には似たようなことをしている生命体がたくさんいてもっとも調和し全体最適するところを探しては歴史を産み出しているのです。

私たちは記憶と共にあり、何度もその記憶を辿りますから歴史はまさに未来であり、未来もまた歴史なのでしょう。その歴史に一つの生き方を刻んでいくこと、そこに一つの偉大な意志も感じます。

私たちは時を生きていますが、時に活かされて存在します。それは生死を超えた時空のような今の中に存在します。この今も、あらゆる思い出を創造してはその思い出に親しんで心を映します。

今回の人生ではこうだった、前回はこうだったと、毎日、眠っては起きるように日々に出会いと別れを繰り返し、この地球で体験できる時間を惜しんでは今を生きています。

人間は今に生きることで歴史になっているのです。そして今を本気で生ききることで歴史に今を刻むのです。つまり、歴史とは今そのものであるということでしょう。

この今も変化を続け、新しく古い物語を創造し続けてはあらゆるものを感じ取って魂は磨かれていきます。私たちは魂を磨くことで永遠を感じることができます。どのようなご縁に導かれていくのか、好奇心は魂の道筋を今此処に誘います。

子どもたちが子ども心にわくわく生きていけるように、歴史を磨いていきたいと思います。

サードプレイスを練り上げる

人は人それぞれに居心地の善い場所というものを持っています。その場所は、心が落ち着く場所、懐かしい場所、自分らしくいられる場所、などいろいろな言い方がありますが安心する場所であることは間違いありません。

この安心する場所をどれだけ持っているかは、その人がその人のままで心をオープンにしてやりたいことをみんなと分かち合う機会にもつながります。そういうあるがままの心を分かち合う「場」があれば、何かその人たちと面白いことや豊かなことをやりたくなっていくのです。

私は「場」を通して創造しているのは、自然にそれぞれのいのちが輝くようなサードプレイスとしての居場所を練り上げているともいえます。

自分がやりたいことをそのままにオープンにしてそれをみんなで体験し合う、そういう場には、不思議な魅力が集まっていきます。その楽しそうな雰囲気にみんなが刺激され、そこに新しいことが産まれていきます。

新しいことが産まれていくことは、豊かなことです。その豊かさは、一人ひとりの心が合わさってできてきます。

場とは、その豊かさが集まるところでありそれを醸成していく力が湧いてくるところです。むかしは、家がそうであり、生きものたちも棲み処がそうであり、私たちは元氣を蓄えて暮らしを充実させていきました。

暮らしの充実は、豊かさの充実です。

引き続き、子どもたちのためにも豊かな場を醸成していきたいと思います。

 

学ぶ楽しさ、知る喜び

人は誰しも「知る喜び」というものを持っています。好奇心というか、新しいものに触れたり発見することはいのちが喜び輝き出します。幼い子どもたちの世界では、毎日毎時間、新たな発見に感動し驚き、学ぶ楽しさの中にいます。

本来、人間は新しいことを学ぶことで成長し、その学ぶ楽しみがあるから人生をイキイキと謳歌し輝かせていくことができるように思うのです。

それがある時から、知る喜びがなくなってきて好奇心が減退してきます。それは残念なことに現代の教育に問題があるのはすぐにわかります。

例えば、人間はお腹が空いたらご飯が食べたくなります。その時にご飯が出れば、喜んで食べると思います。さらに、あらゆる素材を手作りで育てて自分で料理すればその喜びは一入です。しかし、お腹も空かず食べたくもないのにただ大量に食べさせられたら人間は何も食べたくなくなっていきます。むしろ、どんなに美味しい料理を与えても何も興味もわかずしかも無理にでも栄養をとれと食べさせらるのだからもっと食べることに喜びを感じなくなるのです。

知識も同様に、大量の知識を一方的に詰め込まれ毎日膨大な情報量の中で生活をしていていると知ることがそんなに喜びではなくなっていくように思います。それを繰り返していると、学ぶことも次第に楽しくなくなっていくように思うのです。

当たり前のことですが、知る喜びは学ぶ喜びです。

私は毎日、このブログでもそうですが学びたいことが尽きず、知りたいことばかりで好奇心が尽きません。やりたいこともたくさんあり、経験したいことも山ほどあります。しかし時間が膨大にあるわけではないので、その中でも本心や初心を大切にして日々を大切に使っています。それは私の暮らしの中に、日々の発見や学びがあり、その学ぶ喜びや知る喜びがあるからです。

好奇心の原点は日々の暮らしの中にこそあり、その暮らし方を改革することでより一層、喜びを日々を歩んでいくことができるように思います。

真実を知る仕合せ、美しさを味わう仕合せ、そして全体快適や居心地の善い場がある仕合せ、これらは学ぶこと、知ることをより一層、楽しくさせます。

子どもたちは、現在、本当に学ぶ仕合せや知る仕合せを知っているのでしょうか?そして学校や先生は、何を教えることがもっとも学生たちにとって大切なのかを自分たちがやっているのでしょうか?

学び知ることの仕合せや豊かさは、人間のいのちが輝くための大切な道の一つです。場の道場の具体的な徳目として、何を目的に場を醸成するのか、改めてその原点から見直してみたいと思います。

 

道を拓く言葉

先日、京都の南禅寺の法螺師の指導を受けましたがその感覚がいつまでも心身魂に残っています。大変短い時間であったにも関わらず、心身魂に響いているのはそれが単に何かを教えたのではなく、伝承し合ったことであることは時間が経つにつれて沁みてきます。

私は今までの人生で、多くの師とめぐり会ってきました。もう何人かはお亡くなりになりましたが、いつまでも心の中で生き続けて励まして応援してくださっています。

その方々の特徴は、若輩で未熟な私に対しても丁寧に真心をもって真摯に接してくださり、私の求めているものを惜しげなく親切に与えてくださいました。今があるのは、その師の方々のご指導の御蔭であることに気づき、恥ずかしくない生き方をしたいと願い実践するばかりです。

先日、ある方から森信三先生の言葉集を送っていただきました。もう随分若い時から、森信三先生の本は読んでいましたがいただいた本の言葉に目を通していると、また異なる味わいがあり、その時々によって言葉と出会えることは仕合せなことです。

その一つの文章にこういうものを見つけました。

「真にすぐれた師というものは、門弟たちを遇するのに単なる門弟扱いをしないものです。すなわち卓れた師というものは、つねにその門弟の人々を共に道を歩むものとして扱って決して相手を見下ろすということをしないものであります。それは同じ道を数歩おくれてくる者という考えがその根底にあるからです。」(森信三)

師弟関係とは、本来、平等であり対等、同じ道を志す仲間ということです。たまたま生まれた時機や学び始めた場が異なっただけでそこには上下があるわけではなく、能力の差があるわけではありません。そこには、ただ同じ道があったのです。

私は歴史を刻むような仕事がしたいと心から思っています。それは私の尊敬してきた人たち、偉大だと感動して薫陶を受けた方々の後ろ姿がみんなそうであったからです。

変人や狂人だと思われようと、純粋な気持ちには嘘がつけません。子どもたちがいつまでも憧れるような心をもって、子どものために真摯に道を切り拓いていきたいと思います。