時のこと

人はそれぞれに時間の使い方というものを持っています。ある人は、時間が忙しくキビキビと流れまたある人は、時間がゆっくりと穏やかに流れます。時間は人間には平等に流れていますが、その感じる時間がそれぞれに異なるということです。

本来、自然には自然界のリズムの時間があります。それは地球が過ごしている時間の事です。地球は24時間で自転し、太陽を中心に廻り365日で過ごします。そして銀河系はまた、長い時間をかけて銀河を廻ります。

私たち動物たちも寿命の長さにあわせて、日々の過ごす時間が異なります。寿命が短いものは、寿命が短いだけにその時間の速さを持ちます。しかし今度は寿命の長い大樹などは数千年の時間をもちますからその時間域で生きています。人間は、現在は平均年齢があがってきていますからそれだけの時間域を持つようになります。

つまり私たちが時間が早いとか遅いとかは、人間を基準に考えていますから実際には異なる時間域でそれぞれが生きていて時の交点によって重なり合うところで場を分け合っているということになるのです。

しかし、その時間をどう過ごすのかはそれぞれの生命体の物理的な時間軸と精神的な時間軸があるのは間違いありません。心穏やかに生きる人や、精神がとても安定して成熟した人たちは時間の使い方が異なります。どんなに有事で環境が変化著しい状態であっても高僧の瞑想時のような悠久の時を過ごします。

その時は、単なる物理的な時間ではなく心の中に無限の時を持っているという具合です。それは時というものの本質を現わし、本来は時は動くものではないという真理を象っています。

私たちは無意識に時には過去と未来があり、前にだけ進むものだと認識します。過去は過去と呼びますが、実際には懐かしいというような感覚、時が止まったままにいつでも回帰できるというものも持ち合わせています。同時に未来といいながら、今を感じて今に生きるとき、今こそが時の中心であるということに気づくことがあります。

このように時は実際には、止まっているものであり動くものではありません。そういう時に生きる人は、常に心に永遠を持ち、精神が悠久に包まれ、時そのものと一体になることができるのです。

可笑しなことを書いていると思われるかもしれませんが、時とは何か、時空とは何を指すのか、掘り下げてみればきっと誰もが同じところにたどり着くように思います。

時を大切に生きていく人は、いのちを大切にすることができます。同時に、懐かしい思い出に包まれて、いつも時に感謝して味わい盡していくことができます。忙しい時代にみんな心が時に追われています。もっと時を大切にして、かけがえのない今を子どもたちに譲っていきたいと思います。

新しい場の創造

コロナ自粛の要請で、テレワークやオンラインでの生活様式が続いています。私たちも、1月末からテレワークに切り替え、今でもオンラインとオフラインを組み合わせて働いています。

特に東京では、ほぼ出勤がなくなり月に1度くらいしかみんなと会うこともありません。もともと朝サミットといって、お互いの感情や情報を共有しながら健康的に働くための実践をしていましたからそれが続いているくらいで他はほとんどオンラインでやり取りしています。

とはいえ、私は福岡で場づくりをしていますからあまりコロナの影響も受けずコロナ対策は当然しますがそれよりもコロナ後の「新しい場」を探求して創造することに余念なくワクワクと働いています。

そもそも場にはつながりがあります。このつながりをどう新しくしていくか、そしてそのつながりがどのように場を創造していくか。居場所や全体快適などは、その場づくりする人の思想や哲学、仕組みが大きな影響を与えます。

人はご縁で結ばれていくものですが、そのご縁の集積地をどのように手入れするかは、その人たちの生き方が決めていきます。この手入れという思想には、自己を磨くという生き方があります。自己研鑽を通して、目的を磨き続けていけばそのうち場が醸成されていくからです。

最近では、この醸成する喜びや仕合せというものが遠くなっているように思います。私は、発酵が大好きですから、色々なものを醸成しています。漬物をはじめ、パン酵母、ぬか漬けに味噌、そのほか畑の作物もそうですがすべて醸成するものばかりに触れています。

そうすると、そもそも醸成することが場づくりであり、場は醸成することで出来上がるという道理を知るのです。そして今、場が求められてきています。しかしこの場とは、単なる今までのスペースではないことは明らかです。

スペースがあったからと人は集まれなくなったのです。だからこそ場に集まる意味が必要な時代になったのです。場はこれから新しい時代の新しいつながりを醸成していくところです。

子どもたちが、安心して未来に希望をもってつながり合えるように今から丁寧に手入れし仕込んでいきたいと思います。

木工の伝承

日本には、暮らしを支えてきた道具がたくさんあります。私が日ごろ使っている道具たちもまた、千年以上前から先祖たちと共に私たち日本人の暮らしをずっと支えてきた仲間たちです。日々の暮らしの中でその道具を用いて一緒に生きていることが嬉しくて温かくて仕合せを感じています。

そう考えてみると、暮らしとは、道具にたちによって豊かに彩られてきました。最近では、何かオシャレな道具を使っていることが暮らしといわれたりもするようですが、本来は、歴史と職人たちの魂、また使い手の和の心やものを大切にして末永く伝承してきた人々の初心と共に生きている姿の中にこそ暮らしがあるように私は思います。これはこれで、また暮らしフルネスの記事として書いてみたいと思います。

今回は、少し木工のことを深めてみたいと思います。

木工(もっこう)は、木材に加工を施す作業または製作技能、あるいはその職人であり、家具製作(キャビネットおよび家具)、木彫、指物、大工のことを一般的にはさしています。工作、美術、家具製作などの領域をはじめ、建築や土木などの領域でも、木材を加工するときにこの言葉を使います。

私たちの祖父母や両親は、木工のことを大工仕事とも言っていましたが最近では日曜大工やDIYなどといって木製のものを使って様々なことをつくったりすることも当たり前になっています。

日本は全体の国土の7割が森林でできていて、杉や檜などの針葉樹、ケヤキや栗や栃などの広葉樹、これら加工できる樹木が200種類以上あるといいます。

これらの木を加工する中で、指物 (さしもの) 類・彫物類・刳物 (くりもの) 類・挽物 (ひきもの) 類・曲物類・箍物 (たがもの) 類といった木工技法が生まれたといいます。またほかにも斧(おの)、鉈(なた)、鉋(かんな)、鋸(のこぎり)、鑿(のみ)、鑢(やすり)などの道具を巧みに使う日本の木工技術は世界一とも評されています。

その技術は、仏教伝来からさらに発展し、日本人の精神性がさらに研ぎ澄まされ木工技術を昇華してきました。長い歴史と、高い精神性、そして見事な技術が、日本の伝統的な木工の歴史を醸成してきたのです。

木工製品の醸し出す雰囲気は、この日本の文化と暮らし、そして歴史のうえに成り立っていることを感じます。改めて、当たり前ではないこの日本の木工の粋を究めた木製品に囲まれていると先祖たちの息吹や大和心を身近に感じます。私が和にこだわることの一つに、この木工があることはこれらの意味からです。

ひきつづき、子どもたちに木工の素晴らしさが伝承していけるよう身近な暮らしの道具たちにこだわり大切につないでいきたいと思います。

自然の智慧を活かす

今度の徳積カフェの内装は、すべて古材を活用してあらゆる時代物の建具を組み合わせて配置します。また、外壁には焼杉板を一枚一枚焼いて創り上げ、仕上げは“鎧張り”を行います。

この鎧張りは木造民家の外壁に用いられる伝統的な張り方で、まさに鎧のように板を重ねていく工法です。とくに雨の多い地域に多く見られる方法でしたが板の隙間から風が吹き込むことがなく、雨も全て下へ流れ落ちる仕組みになっています。具体的には柱の間隔の長さに調整した板材を、下から上に順々に重ねるように、釘で打ち付けていきます。

焼杉というのは、耐久性を増すために、杉板の表面を焼き焦がし炭素層を人為的に形成したもので別名で焼板とも言います。これは調べると滋賀県より西の地域で使用される伝統技法で、外壁の下見板や土中に埋まる土留め板などに用いられています。なぜ西日本だけなのかの理由はいまだにわかっていないともいいます。

塗料で塗装するのではなく、焼いて耐久性を上げるという発想。これは自然を観察しながら焼いた板がなかなか腐らないことに注目して発明されたようにも思います。

この鎧張りも焼杉も、自然の法則や摂理を上手く活用したものです。今回の徳積カフェのコンセプトには徳を活かすというものもあります。万物の徳を活かすというのは、自然の理法に従うということでもあります。

不自然に人間の都合で建てる建物ではなく、まさに自然の仕組みをよく観察してもっとも理に適ったものにしていくということ。また自然物を用いて、できる限り加工していない自然のものを活かすということ。

まさに「あるものを活かす」というところに自然の智慧は入っています。

子どもたちに自然の智慧を示しつつ、自然の沿った生き方を伝承していきたいと思います。

徳積カフェ

現在、徳積カフェの建築で色々と思案をして素材を組み合わせて検証しています。私の場合は、いのちをもったいなく活かしきる仕組みで取り組んでいきますから世の中に捨ててあるものや、価値が変わってしまったものに息吹を与えてそれを甦生し、さらに観建て直して輝かせるように工夫します。

そもそもこの見立ては、あらゆるものの融合と調和からはじまります。そしてそれを組み合わせを創意工夫し折り合いをつけては新しい価値に仕立て直します。

新しい創造とは、今あるものの組み合わせの再定義であり再構築です。これは自分の成長とも同じで、もともと備わっているものはあるがままですがそれを使い方次第で、また組み合わせ次第でまた別の能力へと変化するのです。

私は建築家ではありませんから、あまり建物のことにどうこうというこだわりはありません。しかし、日本の文化や大和心、民族伝承の智慧には強いこだわりがありますからそれを徹底的に深め、今ならどうこれを活かすか、その価値の最大化や再構築には妥協は一切することはありません。まさに、狂ってるかのようにそのものと一体になってそのものを寝ても覚めても離れることはありません。

今回、カフェを設計するにいたっては「徳」にこだわるのは大前提です。その上で、暮らしフルネスの応用を使って「禅」や「茶」の空間や場の和の仕組みを融合させて組み立てています。

当然、風水を重んじ、日、月、水、石、風、土、木そして火に炭、光、陰、ゆらぎ、時間、手間、色、素材などを丁寧に組み合わせていきます。まるで、自然の野菜をつかって、自然の道具を用いて料理を楽しみ味わうような瞬間です。

本当は、忙しくて大変なはずですがこれらを設計している間はいのちがわくわくしてきます。そして新たな空間と場ができれば、そこに奇跡の人たちとのめぐり逢いが生まれます。

建物を創る喜びは、出会いです。

出会いがあるからこだわりが産まれ、こだわりがあるからご縁が深まっていきます。一期一会の生き方を、この新たな建物に息吹を与え、イキイキといのちが輝けるように真心を籠めて最期までやり遂げてみたいと思います。

真の改善

政府のコロナ対策を観ていたら、本当の問題はコロナではないことに気づきます。これはどの国家でも言えることですが、問題が起きると、その問題よりもその問題が問題になっている本当の理由が観えてくるのです。

例えば、ある国家ではリーダーが不在で責任者がいつまでも出てこなかったり、ある国家ではみんなが不正をして隠し事ばかりをしていて本当の情報が出なかったり、またある国家では自分のことばかりを優先して周りのことは他人事のようにしていたり、またある国家は100年以上前から変化できないでいつまでも改善する気がなかったりと、そのことからコロナがそこの弱点をついて猛威を振るいます。

それをコロナのせいにしていますが、それはコロナのせいではなくその組織や文化、あり方のせいであるのは自明の理でしょう。

しかしその問題を解決しようとしないので、いつまでもコロナは猛威をふるい続けます。

私たちは、きちんと問題と正対するときはじめてそこに変化があり改善が生まれます。問題を先延ばしにしたり、見なかったことにしたり、何もしないということをすれば自然に淘汰され衰退し滅びるのは明らかです。

問題を引き延ばしているうちに、世界は本当の問題にぶち当たるという真実。

地球環境の問題、気候変動の問題、それも同様にこれは人間の問題であるのは間違いありません。いくら地球に挿げ替えても、気候に挿げ替えても、そのこと自体は問題の本質ではありません。隕石が落ちるのならまだしも、こうなるとわかっていてもいつまでも変わろうとしなかって今の災害なのだからこれはもはや天災と呼んではならずやっぱり人災なのです。

人災をどう防ぐか、そこには謙虚さが必要ですし、生き方を決め覚悟を実行するための勇気も必要です。

コロナから観えてきた、人類の本当の問題と向き合い、子どもたちのために真の改善を示していきたいと思います。

価値観の変化と意識の成長

時代の変化と共に、人々の価値観が次第に変わってきているのを感じます。今までは、当然だったものが不必要になっていく感覚。まさに、もう充分にそれを体験して次のステージに入ったということでしょう。

そう考えてみると、人間は常に分断と統合というものを繰り返して社會が形成しているように思います。資本主義経済への傾倒で分断が続き、これでもかというくらいにあらゆるものを分けて処理してきました。物質文明は、物に価値を置いていますから物以外の価値を奪っていくのです。

しかし今は、自分もみんなもという本来の統合へと進んでいるように思います。あらゆるものを分かち合い、それを味わおうという考え方です。これ以上、物ばかりが必要ではないこれからは心をもっと大切にしようとする考え方に価値観が変化してきています。

その証拠に、シェアサービスや、マインドフルネス、持たない暮らしをする人が増えてきています。それは心が豊かになる方へと関心が高まり、心のつながりを取り戻していこうとするステージに入っているということです。

時代は、価値観と共に繰り返しながらその意識も成長させていくように思います。私たちの歴史でいえば、飛鳥時代などは心の世界でありありとあらゆる物が心と一体になって存在していたように思います。

それはその時代の遺跡や建造物、書物などからも垣間見ることができます。他にも縄文時代なども、自然と調和してつながりを大切にみんなでわかちあい生きていました。

現代は、歪な個人主義が進み、お金を中心に機械化された社会で心が忙しさで死んでいて利己的な人たちが身勝手に自然を利用して破壊を続けています。

地球が単なる物置小屋のようになりゴミが蔓延しているかの様相です。

次の時代の子どもたちは生まれながらにその状態をしり、何とかしようとする価値観と共に育っていきます。このままではいけないと、新たな価値観を生き、私たちの代わりにその責任を背負ってくれています。申し訳なさや、悲しみがあるからこそ今の代にできること、私たちの世代でもまだ間に合うことをしたいと思うようになるのです。

私はまずその物置小屋やゴミ溜の状態を、坂本龍馬や横井小楠の言ったようにこの世の中を「じゃぶじゃぶと洗濯をする」ことと、「綺麗に片付けて整える」ことからはじめます。

そして甦生させたものを、心とつなげ直して新たな価値を与え子どもたちがそれを舞台に活躍できるような環境を用意していきます。あとどれくらい、自分のいのちが持つのかわかりませんができることを粛々と実践をして根を深めていきたいと思います。

もったいない暮らし

全ての物や場には「いのち」というものが宿ります。そのいのちをわかりやすく感じる方法は、「思い出」でというものに置き換えてみるとわかるように思います。

無機質だったものが、何かの物語に出会い、そこで共通する「思い出」を持ちます。そのものは、ある人の思い出になりその人の心の中で共に生きいのちを与えられます。するとそれはモノではなく、いのちの一つになって存在するようになります。

つまり「出会う」のです、いのちとしてのご縁と。

これがいのちの一端を感じる方法であり、思い出はみんなそうやっていのちとつながっていきます。例え、片方がこの世から去りそのものがなくなっているように感じたとしてもその思い出といのちは、別のものに引き継がれ一体として残りのいのちの寿命を全うしていくのです。

この仕組みとこの仕掛けこそ、私たちが存在するいのちの真理であり私たちはその仕合せと喜びを無償で天与されているのです。ありとあらゆるものが、変化し、思い出と共に循環するという仕組みは宇宙の本体でもあります。

だからこそ、その寿命を少しでも伸ばしてあげたいという思いやりはその人の寿命だけでなく全体の寿命も伸ばしていくのです。それを神道では真心といい、観音様は大悲といい、イエスキリストは愛といい、孔子は仁と呼んだようにも思います。

もったいないというのは、この思い出を大切にしていくということと同じ定義です。下位概念である、捨てないとか、利活用できるとか、その辺ももったいないといいますが本来はこの「思い出」の方を言うのです。

一日、一瞬、人生はそのすべてをいのちと共に歩んでいきます。だからこそ、大切ないのちの思い出を忘れないで、いのちの思い出と共に暮らしていく。

これが暮らしの本体なのです。

暮らしフルネスという言葉は、暮らしとマインドフルネスの合体した言葉であり、現代の西洋思想に取って代わられた日本人が分かるように転換した言葉です。改めて、一つ一つのいのちを大切にしながらもったいない暮らしを味わっていきたいと思います。

変化とは何か

東京から戻ってきてBAに滞在していますが、室礼していた紫陽花の花が次第に寂てきています。また庭先には蝉の鳴き声が大きくなり、雲は積みあげられ空の碧さはますます鮮明です。

季節は梅雨から初夏にはいり、光の差しかたや風の動きが変わってきました。

私たちは、気づいていないうちに日々に大きな変化に晒され私たちも変化の真っただ中に存在します。止まっているようでも止まってはない、地球が自転し、宇宙が旋回し、あらゆるいのちが循環をしていくなかで活動を已むことはないのです。

しかしこの動きの本体こそが、静止していることもでもあるように私は思います。つまり動こそが静であり、その静こそが止であるということ。言葉遊びのように聞こえますがこれはそうではなく、この偉大なる動きこそが已むことがないのだから止まっているということなのです。

心を落ち着けて瞑想をすると、この動いている今の中に静を感じます。つまり静止します。静止するというのは、先ほどの宇宙の旋回、地球の自転、いのちの循環を感じている状態になることです。

それを感じるとき、これが永遠に繰り返されていることを知り本当の止まるという意味を悟るという具合です。

変化とは何か、それは変化しないということです。永遠とか永久とかいうものもまた変化の正体です。私たちは、変わるものと変わらないものを持ちますが、変わらないものは変えようがないものです。変えることができるものだけが、私たちが変化と呼ぶものです。

私たちが変化と呼べるものは宇宙や自然、いのちに私たちが合わせて和していくことです。こうやって暮らしを一つ一つ丁寧に紡いでいけば、私たちはそこに変化の根源や変化の意味を直観するのです。

変化しても已まない、この心の安心感はとても偉大で穏やかです。子どもたちに、変化の喜びや仕合せを伝道していきたいと思います。

徳の正体

老子にこういう言葉があります。

これは「大方は隅なく、大器は晩成し、大音は声希かに、大象は形無し、道は隠れて名なし。」(大方無隅 大器晩成 大音希声 大象無形 道隠無名)

直訳すると、「大いなる方形には角がなく、大いなる器はでき上がるのがおそく、大いなる音声は聞きとれず、大いなる象には形がない。道とは目に見える事象の裏側に隠れているもので、もともと名づけようがないものなのです。」となります

これは道を語る一文です。

偉大なものはこういうものであり、偉大だからこそそこに徳があるというのです。

この言葉は私の解釈ですが観方を換えれば、こうなります。

「もし道を学ぶのであれば、大方とはもっと大きな意味と深さがあることを知り分かった気になってはならぬ、そして本物になろうとするのなら時間がかかることを覚悟し根気をもって事に励み実力をつけ、真摯に研ぎ澄まし洗練された透明で鮮明になるまで磨き上げ、自他一体、全体善になるほどにすべての事と調和してそのものとなる。これが道であると。」

どんなことにも大切な意味があり、その意味はその先の偉大なものの一部であるという生き方。まさに道は徳に裏付けられて存在し、道を歩む人は必ず徳の存在に出会います。

私たちが捉えている宇宙と、老子が捉えている宇宙はまるで別物かもしれません。それは道には天の道と人の道があるというように、道を解釈する人と、解釈する前の道があるという言葉では語りつくせないものを表現しているように思います。

文字や言葉では表現できないものが必ずこの世には存在します。私はそれを「意味」と呼びます。意味がないものなどこの世には一切存在せず、意味があるから日々が発生してきます。真理を探究していく人は、意味を深めて意味をつなげて意味を生きる人たちです。

真実の深さというものは、この意味を辿る生き方、ご縁と共にあるひとたちがもっています。頭で考えてどうにもならないことがあるのは、そこには天の道、徳があるということでしょう。

「道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無名は天地の始め、有名は万物の母なり。故に常に無はもってその妙を観んと欲し、常に有はもってその徼を観んと欲す。この両者は同出にして名を異にす。同じく之を玄と謂う。玄のまた玄衆妙の門なり。

この玄妙こそ、私は徳の正体に近いと感じています。

私の歩む道は、遠大で偉大を志しています。そのことを自覚して、心の余裕を大切に日々の意味を紡いでいきたいと思います。