フルネスと暮らし

昨日、ある場所で座禅をする機会がありました。座禅は、長崎の禅寺で社員で参加したことがありましたが改めて体験してみると別の角度からその座禅の効能を実感することができました。

現在は、日本よりも海外でZENといいその座禅の価値も広がっています。特に海外の名経営者や発明家、あらゆるジャンルの人たちもこの禅の効能を述べています。

ジェームス・スキナー
「再新再生(活性化)を図る最大の方法の一つは、毎日「瞑想と思索の時間」をとることである」

プラユキ・ナラテボー
「仏陀の「気づきの瞑想」は「マインドフルネス・トレーニング」と呼ばれ、精神医療の現場では有効なストレス軽減法として、またグーグルやインテルなど多くの企業では社員のメンタルヘルスと仕事のパフォーマンス向上を目的として、取り入れられてきている」

アンディープディコム
「このテクニック(瞑想)の素晴らしいところは、1日あたり10分程の時間で人生を変えられることです。ただコツを覚える必要があります。練習が必要で意識する方法を学ぶ為のフレームワークも必要です。これが瞑想というもので今この瞬間を理解するのに役立ちます。また今という瞬間から最良を得る為の アプローチ方法も学ぶ必要があります。瞑想はこの為にあるんです」

リチャード・デイビットソン
「人々が単に一日、心のトレーニングを行うことで遺伝子の活動というレベルにまで効果があった」

この瞑想のアプローチは、人の生き方の対話であり、人生を振り返り自分自身の存在、自然の一部である自分、真我に気づくことのように思います。

私は座右が一期一会ですが、この生き方もまた禅に通じています。よりよい人生を歩む人は、常に自分への問いかけを持つ時間を大切にします。自己の判断を歪めないように、自己の純粋な調和を保てるように、穏やかでゆったりとした場を心の中に澄ませます。

以前、道具は扱う人によっては凶器にもなることを感じた時、人もまた然りであると実感しました。人は本来は人ですが、使い方次第では凶器になるということ。心の平安を保つことで、私たちは人としての生き方を守っていくように思います。

禅はまさに、心の調和に導引する仕組みで満ちています。改めて、フルネスと暮らしを学び直していきたいと思います。

オフィスの定義

現在、職場という考え方が大きく変化してきています。コロナのことで、今までの職場がリスクなり新しい職場をどうするかとそれぞれで工夫しています。

もともと日本は、職住一体型の暮らしを続けてきた民族ですが西洋の文化が流入してきてから工業化が進み、高度経済成長期、衰退期を経て、今にいたります。そのプロセスでオフィスの環境は大きく変わってきました。

しかしここにきて、今までのオフィスの定義が変わってしまうような出来事が発生してオフィスそのものをなくすという選択をする企業も増えてきているといいます。そもそもオフィスは何のためにあるのか、そこからまた見直すいい機会になっているようにも思います。

時代の変化と共に、会社も事業も変化は已みません。今まで大きく事業投資してきた企業は、そう簡単には今までの投資した状況を変化させるというのはできません。そこには大きな勇気が必要です。特に大企業などは、人数も額も大きく変化するのには大ナタをふるう覚悟も必要です。

小さな会社や組織は、その点、大きな投資もしていませんから撤退も変化も楽にできます。職場もまた、大人数を擁しているわけではないのでどこでも移動でき、どんな状況でも働けます。

変化は小さなところから大きなところまで、また所帯の大きなところから小さなところで起きてきます。改めて、オフィスは何のためにあるか、その意味が多様化してきますからそれぞれに新しいスタイルがたくさん産み出されていく時代に入っているように思います。

しかしそこに共通する上位概念というものがあると私は感じています。それは生き方のことです。

何のために生きるのか、何のために働くのかという人生の目的、言い換えれば初心のようなものをもって人は生き方と働き方を決めていきます。そしてその生き方と働き方が一致したものが「暮らし」となります。

どのように生きたいか、どのように働きたいかは、暮らし方が決めるのです。私の会社は、子ども第一義、子どもが憧れるような働き方と生き方をしていくことをみんなで取り組んでいます。

子どもが憧れる働き方は、大人たちがイキイキと仕合せそうに楽しんで仲間を愛し、助け合い支え合い、変化を挑戦と成長のチャンスにして自他の仕合せが周囲の喜びになり、人々が尊重し合い生きていく社會を創造することでもあります。

ある意味でオフィスがどうなろうが、原点となるところは不動です。その時、オフィスがどのように化けていくのか、これからの展開がとても楽しみです。子どもたちが未来に、憧れる暮らしがあるように場づくりを通して面白いことに取り組んでいきたいと思います。

文字を記す意味

人は頭で理解するために文字を読みますが、共感するためには実際に体験するか実践している現場を感じるかといった感覚を用いるものです。最初は文字から入ったとしても、そこに共感できるものがなければその文字は本当の意味で自分に入ってきているわけではありません。

人間が文字を読むとき、それは自分の体験や経験とアクセスしてそれを補完して仮想体験をしています。それを実際にするには、その後にその文字にあるような体験をしたり、似たような境遇を経験してはじめて共感して文字が自分のものになっていきます。

人間は文字を通して学びますが、文字が自分のものになるのはずっと後の事です。

学校で私も文字を学びましたが、その文字は暗記によって覚えましたが時間が経てばすぐに忘れていきました。そしてその文字をいくら知っていても、体験したわけではないからその文字が人生の役に立つことはあまりありませんでした。

例えば、火の熾し方などは縄文時代から現代までどうやって火を使ってきたか、どの道具をどのように使えばいいかは知っていました。しかし実際に、木や炭から火を熾すことは簡単にはできませんでした。これは何度も何度も経験してからはじめてできるようなるわけで、文字はあくまで知識としては得ますが実際の生活にはそのままではあまり役に立つことがありません。

何かを伝承するときにも同様で、記録としては文字があってもそれを経験して体験し共感した関係がない限りそれが実用として実践し続けることがないのです。

私は古民家再生をしている人になっていますが、建物を直しているのではなく日本文化の甦生や、大和魂の継承、民族伝承の智慧を遺すことなど、子どもたちのためにと思って取り組んでいます。言い換えれば、子どもの仕事をしてきた体験や実践をたまたま古民家でやっているだけで古民家甦生が本業ではないということです。

子どもの仕事というのも、直接的な子どもの仕事から、子どもとは関係がないように観えて本当の意味で子どもの仕事になっていることもあります。子どもの定義も、下位概念は年齢の小さな人間のことをいいますが上位概念は、純粋な魂や、清らかな心を持つ人のことを言ったりします。

つまり同じ「子ども」という文字を使っていても、その使う人の体験や経験、その人生の目的や生き方によっては別の意味を記しているのです。だからこそ、この「記す」という実践は大切なことで、発信し続けていくことで同志と切磋琢磨でき、仲間を鼓舞し合い、草莽崛起し合う縁をつないでいくようにも思います。

論語の「遠方より朋来る」の一文がありますが、あれもまた文字であって共感するものは別の次元、上位概念の中にあるように私は思います。

子どもの未来のために、これからも今を綴り続けて精進していきたいと思います。

自然になる

本当の自分とは何か、これは現代の人たちが分からなくなったものの一つです。かつて人は、自分とは何かということを問うことないほどに自他一体の境地を持っていたように思います。

その根拠は、自然界の生き物たちを観ていたらすぐに察知できるからです。ほとんどの生き物たちは、自他の区別がなく、集合体として存在しています。つまり感覚はあっても、自己認識が人間の思っているような個人という認識が少ないように思うのです。

例えば、植物たちでいえば自分たちが懸命に生きることで周囲の生き物たちを喜ばせていきます。花にミツバチや蝶がくるように、自分の生を全うすることで何かの役に立つ喜びを持っています。

私たちが花を見て仕合せを感じるときもまた、花はただ懸命に自分の喜びを味わっています。自己肯定感が少ないといわれる時代になりましたが、自分が誰かのために真心を盡していれば相手や周囲が喜び、そしてその中に自己の喜びも出てきます。

みんなが喜ぶか、これを現在では全体最適とも言いますがそうやってみんな一人ひとりが懸命に自他一体の境地で利他の喜びを感じられる世の中であれば本当の自己の仕合せに気づくようにも思います。

自己を喜ばせる。

これは自分自身を一生懸命に生きるということでしょう。心の中にいる童心や大和魂が何を望んでいるか、どうありたいか、最初の原点に立ち返れば子ども心の時の自分ということになります。

自分のやりたいことがあって、それを喜んでくれる社會がある。それを活かしてくれる周囲がある。見守り合う世の中、まさに先ほどの自然界の花や虫のような世界に生きることです。

あるがままでいられなくなったのはなぜでしょうか、ありのままではいけないとなったのはどうしてでしょうか。人間の苦しみは、自然であることを否定するところから発生してくるように思います。そしてそれは個人主義で自分の身勝手にすることが自由でもないし、自然でもありません。

みんなが喜んでもらえるように自己を一生懸命に生きる、そして自己を尊重し合うように周囲と尊重し合う関係を築く。そこに本物の自然があるように思います。みんな違ってみんないいという言葉は、みんなが善いことになるように生きてみてはじめて、違うことの良さを感じられるとも言えます。

目先の欲望や、個人的な自分を喜ばせることが自由でも尊重でもありません。みんなの仕合せの中にいる自分、自分も一緒に仕合せを味わえる自由。自己が統一して、自己が調和する喜びに生きる。

花のように虫のように、自分の喜びが誰かの喜びになり、誰かの喜びが自分の喜びに”自然と為っている”、ここが自立の本懐だと私は感じます。

子どもたちがあるがままの姿でも尊重し合える関係が見守られるよう、場を創造し真心を盡していきたいと思います。

見守り続ける

コロナウイルスがまだまだ落ち着かず、このまま感染拡大は続きそうです。人類は、気候変動に加え、これからどのように自然環境と折り合いをつけていくか、真剣に向き合う時間になっていくように思います。

改めて、ここまで生きていて感じるのは次世代の声を聴かない人が多いということです。新しく生まれてくる人たちは、これからの世の中を創造していきます。その子どもたちは現在の地球環境をみてこれからどう人類が活きるべきかの声を持っています。

しかし大人たちが子どもたちの声を無視して、自分たちの知的?な理屈が通る常識的な声ばかりを優先しては時代の変化を邪魔していきます。本当は、子どもたちの声を真剣に聴いてそのうえで、どのような環境を譲り渡していけばいいかとみんなで自制し自律しながら智慧を働かせていくのが大人の仕事でした。

現在では、我こそはと好き勝手なことをやってはいつまでもその地位や名誉、権力や経済力が落ちないようにこの世にしがみ付いていくばかりです。

ふと考えてみました。

もしも人類が競争や自利に走るのを已めるような大災害や地球滅亡のような大きな困難に出会ったら、その時、人類は何を考えて何を思うのだろうかと。

そんな状況下になったとき、誰かを蹴落とすような過当競争はやっているだろうか、そしてみんな自分さえよければいいと好き勝手なことをするのだろうか、お金儲けを必死にするのだろうか、と。

ある意味で本来の「自然」とは離れた人類の意識が、この世を創造しているのであり、人類の今の意識がこの世の中であり、その意識がこの環境を産み出しているということでしょう。

自然の猛威は、人類の意識に影響を与えます。気候変動は、私達人類の意識に何をもたらすか、コロナにはじまりこれから発生してくる様々な災害は私たち人類の意識を変革する大切な分水嶺です。

子どもたちの声に耳を澄ませて傾けながら、新しい時代にスムーズに移行できるように見守り続けていきたいと思います。

 

本物の生命力

この時期、草刈りをしていると植物たちの力の大きさを実体験することができます。非常に旺盛に元気よく生えてくる草草は、生命力の権化です。少しでも時間を空けると、こんなに大きくなったのかと思うばかりに成長していきます。

よく考えてみると、古木や大樹は樹齢何千年から何百年まであります。よくこれだけ長い期間、あらゆる天災や災害、気候変動を乗り越えてきたものだと感心します。年輪を見れば、その時機時期の気候がわかり時として氷河期、時として温暖期、ありとあらゆる季節を乗り越えて今があります。

そして他にも、枯れていたものや折れていてもそこからまた復活し繁茂します。草刈なんてしていても、きりがないほどにまた繰り返し生えてきます。ひしめき合って居場所を確保し、その中でそれぞれが必死に太陽の光を捉えていきます。水や火や土や、風や日月の光を存分に浴びて木に養分を運びます。

そして多様性です、ありとあらゆる環境、砂漠から高地、海の中や過酷な環境でもその土地に適応して生き延びます。もはや、生命力の大先輩というか権化です。この生命力というものを実感するとき、それは植物の力の偉大さを感じずにはおれません。

私たちは、自然の生命力から本来の生命の本質は何かを学び直せるように思います。最近では、栄養学や医療なども発達していきましたが生命力は果たしてどうなっているでしょうか。

かえって生命力は衰えて、本来の生命の在り方から大きく離れてきているようにも思います。自然の生命力に学ぶことは、自然との共生に回帰することでもあります。私たちは自然と共生する方が本来は大きな利益があるという事実を学び直すことです。

それは自然をコントロールすることではなく、自然と共生して自然の生命力を自分たちも得ることです。現代の人類は生命力が衰えてきています、それは自然との共生を已めたからです。自然との共生こそ自然の生命力を蓄える力であり、それは衣食住、ありとあらゆるところで繋がり直す必要があります。

気候変動で生き残れるかどうかは、この生命力にかかっています。子どもたちが生命力を発揮して、植物たちのように強く逞しく生き残れるように、今、私が取り組めることで世界に貢献していきたいと思います。

 

智慧の結晶

ウィズコロナで、私たちの働く環境が大きく変わってきています。今までは都会の便利で機械管理された環境が人間にとって最適でしたがここにきてそれがコロナウイルスにとっても最適であることがわかりその環境を見直す必要が出てきています。

例えば、総合空調で密閉された環境では空気感染を拡げてしまいます。窓が開けられない環境、そしていつまでもウイルスが生存しやすい環境があれば簡単に私たちは感染してしまいます。そもそも都会に密度を避ける環境というのはほとんどありません。東京に住んでみてわかるのは、マスクを外す環境などほとんどなく自宅の部屋くらいしかありません。もしもそこが総合空調で他の部屋をつながっていたとなると、安心してマスクを外すことができません。

現実的にみても、細菌と比べて圧倒的に小さなウイルスを防ぐというのはほとんど不可能です。どれくらい小さいかといえば、一般的なウイルスの大きさ20〜300nm (ナノメートル) で、インフルエンザウイルスでは100nm前後と言われます。このナノメートルはμm (マイクロメートル) の1/1000です。それに対して細菌の大きさは1μm (マイクロメートル) 前後です。マイクロメートルは1㎜の1/1000で光学顕微鏡でも確認する事ができます。つまり菌でも1mmの1000分の1、ウイルスはその1000分の1です。

そして細菌とウイルスの違いは、どちらも生物ではありますが細菌は殺菌することができますがウイルスは殺すことができず細胞の中に閉じ込めることしかできないということです。細菌は、人体に入って養分さえあれば自分自身を分裂させて自己増殖をしていくことができます。それに対してウイルスは、自分自身で自己増殖はできず人間の細胞の中に入ってコピーをつくりだして増殖していくという仕組みです。

細菌はまだ抗生物質などの薬が効きますが、ウイルスには薬がなく細胞のコピーをなんとかして抑えるくらいのものです。

そう考えてみると、これからの人類は如何にウイルスを意識した環境に換えていくかということが最大の課題になってきます。今後、似たようなウイルスは世界から現われ、また世界へと拡大していきます。鎖国でもしない限り、防ぐことはできません。

そこで住環境や働く環境の見直しは急務ということは誰でもわかります。

実は、改めて考えてみるともっともウイルスに適応している環境は先人たちの暮らした環境であることがわかります。日本の伝統家屋は、自然と共生するように建てられています。

まず風通しはいいことはもちろんですが、和紙や土壁、畳などすべて自然のもので仕上がっています。ウイルスは、人間の便利な生活とマッチングしますから不便であればあるほどウイルスにとっては繁殖しにくい環境になるのです。

そもそもこのような動物由来のウイルスが蔓延するのは、人類が自然破壊をしてきたからです。自然破壊をしなければ絶妙なバランスと距離で生物たちは生きていますからこのようなウイルスに出会うことすらありません。

人類が自然を壊せば壊すほど、動物たちの住環境が失われその動物たちが人類に近づくことであらゆるウイルスと遭遇します。そして時として、人工的にそれを防ごうとえばするほどに余計な薬を投与しておかしな人口ウイルスになるのです。

自然と共生する住環境というのは、根本的にウイルスを近づけない環境であるし、日本人の先人の智慧の結晶である伝統的な日本家屋と暮らしは、私たちがこの風土の中でいかに健康に生きていけるかを実証実験し続けて生まれた至高の仕組みです。

私が古民家甦生をし、環境を用意し暮らしフルネスを展開するのもまたこの日本人の伝統的な智慧の結晶を、これからの人類の新しい働き方に活かしたいからです。先人を敬い、民族伝承の智慧を尊敬しない人たちに未来はないように思います。過去や歴史を学ばなければ、未来は決してないのです。

引き続き子どもたちのために、これからの新しい時代の環境を故郷から提案していきたいと思います。

 

暮らしフルネスの意味

「暮らし」という言葉は、上位概念と下位概念があるように思います。巷で経済活動の一環として使われている暮らしは、どちらかというと下位概念の生活全般を示すことであって上位概念の人の生き方や生きる道のことを示すわけではありません。

私が提唱する暮らしフルネスは、上位概念の方でありそこには生き方や働き方といった日本人としての暮らし方のことを定義するものです。

そもそも新しい暮らしとは何かということです。

便利な道具、最先端の環境、見栄えのいい雑貨、オシャレな住環境、そんなものが果たして新しいのでしょうか。それは新しいではなく、目新しいだけであって本当の意味で温故知新したものではありません。

もっとも古いものがもっとも新しいものであるわけで、目新らしいものはすぐに古くなるのです。殷の湯王が、「日々新た」と使う、「新しい」の意味は、自分自身を洗い清め磨き直し常に新しいといいました。

これは別に目新しいことを日々にやろうとしたわけではありません。新しいままでいられるように自分自身を磨き続けようとしたのです。これこそまさに、私のいう「暮らし」を実践することです。

そのためには、今に集中して今を味わう実践が必要です。今を味わうための砥石は何か、それは太古の時代からその環境の中で文化として昇華されてきたものを砥石にすればいいのです。

日本人であれば、日本文化であり、大和魂を高めることです。

現在の日本語は、大変残念なことに本物であろうが偽物であろうが同じ言葉を使います。暮らしであっても、暮らし風でも暮らしと語ります。他にも道具に関しても、畳もイ草を使ってもいないものまで畳といい、プラスチックで加工した紙にまで和紙などといいます。

こうやって日本語が、下位概念ばかりが横行して上位概念で使われたものが失われればそのうち日本人そのものの意識の程度も下がってしまいます。

幸福とは、単にお金がたくさんあって物があってなんでも所有できることではありません。現在の資本主義経済では、それが幸福なることかのように思いこんでいる人が多いですが本来は生き方によって幸福になるのです。

生き方が変わるというのは、暮らしが変わるということです。

それが暮らし方を改革するという、私の暮らしフルネスなのです。私も、日々、日本文化に囲まれ、自然と共生し、時を味わい新しい日々を楽しんでいます。その生き方を分かち合いたいと願い、子どもたちに譲り遺したいと祈り、取り組んでいます。

新しい生き方をする人こそ、新しい働き方をし、新しい働き方は新しい暮らし方になり、新しさは「本物」になります。洗練される新しさは、本物だけが持つ輝きを発揮し、日本文化の象徴ともなります。

引き続き、私の実践する暮らしフルネスで日本の未来に貢献していきたいと思います。

いのちの学び

私たちの存在は、古来の親祖から子孫まで長い時間をかけていのちのリレーをしてきて今があります。この今は、どれだけの人が繋いできたのか、それを考えることも少なくなってきているように思います。

自分のことばかりを考えては、自分の代のことしか観えませんが今、私たちが存在しているというのはその前の代、そしてずっと前の代から連綿とつなげてくださったから存在しています。

先祖を感じるということは、本来、今まで私たちが歩んできたプロセスを味わうことです。どのような変遷で今があるのか、そしてこの国がどんな歴史をたどってきたのか、それは教科書で文字だけを読むことで理解するのではなく自分の身体と共に感じる中でその実感を得ることが大切なことのように私は思います。

例えば、今の自分のいる場所から遡りはじめるとします。

自分の両親、そしてその両親の両親、さらにその両親と辿っていけば一代で2倍ずつ増えていきます。5代では約60人、10代では、約2000人、20代で約200万人、30代で20億人、40代遡れば約2兆人、この40代遡ったころが約800年代くらい、平城京があったころぐらいだともいいます。つまり今から1200年前になれば、2兆人の先祖が関わって今の私がいるということです。

その2兆人いる先祖が、一つでも関わらなければ今の私は存在してもいないという事実。この偉大さこそ、私は「徳」の姿の正体であるとも感じています。目には見えないけれど、偉大な恩恵の中に自分が存在している。そしてその偉大な恩恵を、次世代へと譲り渡していくということ。

これは単に自分の子どもをつくればいいという話ではありません。みんなで子どもを育ててきたから今の自分があるということにも気づく必要があるのです。先祖の皆様が愛情をかけてその世代を大切に守り次へとバトンを繋いできた。そのバトンを渡してきた数は、今の地球の人口では敵わないほどの人たちがこの地球と私たちを支えてきたという事実。そういうものを理解するところにこそ、いのちの本体や、今の私たちが本当になすべきことを実感する理由になると私は思います。

日本人も元を辿れば神話に出てくる伊弉諾と伊弉冉からはじまりここまで家族や親せきが増えていき今があります。もとは一組の夫婦からはじまりこれだけの歴史の変遷を経て今にいたります。

そして最近の遺伝子の研究で分かってきたのは、20万年前の1組の夫婦から世界の人類が誕生した可能性があるということです。20万年遡り、もしも今までのいのちのバトンの歴史を目に観えるようになれば私たち人類はみんな兄弟や親せきであることに気づくのです。

それが今では、争い、差別し、貧富の差がわかれ、権力や奴隷などもうまれ、最初の先祖が子孫たちの現状を見たらどう感じるだろうかとも思います。

学校の知識を教えることも大切で文字から学ぶことも、ITで情報を得ることもそれも大事なことでしょう。しかし人類として根源的なものや根幹的なものを無視して、それだけを知識で学んでも本当のいのちの学びにはつながっていないのではないかとも私は感じます。

私が、伝統や家を甦生することも、大和魂や大和心を伝承していくことも、これはすべてこのいのちのバトンの存在やその「徳」に報いたい、報いようと思うからです。

子どもたちがこの先、生きていく中で絶対に忘れてはならない学問があります。それが歴史であり縁であり、いのちなのです。引き続き、私の限られた人生の中で、この永遠のいのちの存在を徳積で可視化し、世の中に伝道していきたいと思います。

 

ハンコ文化と日本人

コロナ中のテレワークで問題になったものの一つに「ハンコ」(印)というものがあります。改めて、このハンコはなぜ必要なのか、そして何のために存在するのかを少し深めてみようと思います。

そもそもこのハンコのはじまりは紀元前7000年以上前のメソポタミアで使用されたのが起源とされています。メソポタミアでは、印章は円筒印章といい粘土板、または封泥という粘土の塊の上で転がす円筒状の印章でした。そして古代エジプトでは紀元前3000年くらいのものと思われるヒエログリフが刻印された印章が発見されています。

「ハンコ」の制度の始まりとしては中国ではなく西洋から伝わった制度で「旧約聖書」の中にも実印や認印の制度のくだりが40箇所程散見されているといいます。そしてこれが日本に伝来するのは約2300年前、後漢の光武帝時代に倭奴国(日本)に送られた金印(漢倭奴国王)だといわれます。これは福岡出身の私にも馴染みが深いものです。

それが平安時代に入り「手形印」として掌に朱肉を着け押す形になりその制度は江戸時代まで使用されたといいます。平安時代後期頃より武将の願文・起請文や遺言状などに花押(書き判)というものになり押印となります。この「押」という字には署名するという意味で「美しく署名したもの」という意味になります。戦国時代の大名の手紙などに見事な押印が多いのを歴史資料館などで拝見したことがあります。家康や上杉謙信なども綺麗な押印でした。

そして江戸時代には花押のことを「判」といい私印が使われる様になり、それまでと区別するようになり、花押のことを書き判、印章のことを印判となったのではないかといわれています。つまりここで今のサインとハンコになる流れを感じます。

そして明治6年10月1日で明治新政府が太政官布告を行なった際「本人が自書して実印を押すべし。自書の出来ない者は代筆させても良いが本人の実印を押すべし。」と定められ現在、私たちが使っている印章が一般的に使われるようになりました。その記念日である10月1日を「印章記念日」にしたそうです。

このハンコという言葉は江戸時代に盛んに作られた木版画やそれに用いられる版木を版行(はんこう)と呼び、それが転じてハンコと呼ばれるようになりました。それとよく間違えられるのですが、ハンコと印鑑は異なります。

このハンコは、個人や組織がその当事者であることを証明する印(しるし)を指します。一般的には切り口が円形、楕円形、角型などをしており全体は棒状をしています。そして印鑑は捺印をした時に紙や書類などに残る文字や絵を表します。つまり、印影と呼ばれるものと同じです。現在では二つを同じ意味で使われるようになり同じ意味だと思っている人が増えています。

長くなりましたが、ハンコには長い歴史があり、現在でもつかわれているところを感じると確かにこれは文化です。日本人は特に、ハンコには「自己」というものの証明で活用しているように思います。つまり意思表明や責任の確認、覚悟や公の立場、権力などありとあらゆる立場を証明するものとしてそのプロセスを重んじたのです。

証明書といった方がいいかもしれませんが、これは「真(まこと)」ですよと真実を顕すものです。真偽をただすためにもその証明が必要だったのです。日本人は正直な民族ですから、かえってそれが時代の湾曲によって真偽を確認する必要が出てきてその都度、証明する大切さが高まったいったのでしょう。

現在では、技術が発展しセキュリティの問題が特に出てきています。簡単に偽造されてしまっては証明が意味をなしません。ハンコ文化はなくなりませんが、ハンコの真偽を守る技術は新しくなっていくはずです。

ハンコをなくそうとするのは確かに、プロセスを重んじる日本人にはできないかもしれませんがハンコを証明する技術は発展しよりシンプルになっていくように思います。

プロセスの中に何度も自分の意思を確認する機会があるということは私は尊いことだと思います。初心を忘れずに、それに取り組んでいるという自己との約束であり自己との対話になります。日本の文化の一つにハンコがなるのは正直さをもつ日本人の徳目ゆえのように感じました。

これからどう展開されていくのか、それも楽しみです。