日日是試煉日

何かがはじまるとき、試練(試煉)が訪れます。つまり試練とは、正対することであり、実践するということであり、挑戦するということです。

試練(試煉)のことを辞書でひくと、「信仰・決心のかたさや実力などを厳しくためすこと、能力や信仰、気持ちの強さなどを厳しく試すこと。また、その時の苦難。」とも書かれます。

この試練(試煉)の字にある「練」には「繰り返し行う」「精練する」「磨く」という意味があります。「煉」には、金属や心身をきたえることやねり固めることを表します。練習、練磨、鍛錬、修練、そして煉瓦や洗煉などもあります。

練は、煉の書き換え字で使われますが共通するものはどちらも「磨く、鍛える、溶かす、ねり固める」などの意味になります。

「試」の方は、言ったことをはじめるという意味です。試験なども試みる、確かめるというイメージです。有名なものに「試金石」というものがあります。これは貴金属の純度を調べるのに用いる黒色緻密ちみつな玄武岩やケイ質の岩石のことをいいます。この石にこすりつけて条痕色を既知のものと比較して金・銀の純度を試験したことから言われます。

つまり「純度」を試し確かめるのです。

何かをはじめるには、根源としての「純度」がいります。その人の覚悟や決心が試されます。純度がどれくらい澄んでいるのか、純度がどれくらい濃密であるか、純度が玉のように美しいかどうか、真善美が試されそれはもはや信仰とも呼べるほどにです。

試練が来たというのは、純度を磨き上げる時が来たとも言い換えられます。

この世に私たちが誕生し、生き続けるというのは試練の真っただ中にいるということです。だからこそ、誰にでも「生き方」というものが何よりも優先され大切になるのでしょう。

どのような試練を迎えて、どのような生き方を実践するか。

純度が全てです。

私たちは有難いことに、親祖より今に至るまで先祖代々からずっと純度を磨き煉りあげてきました。終わりはなく、永遠に続く道の途上です。

日日是試煉日と、心の持ち方を味わって歩んでいきたいと思います。

聴されて聴く

徳の真髄の一つに「聴されて聴く」というものがあります。この聴く(きく)は、聴す(ゆるす)とも呼びます。私は、聴福庵という庵を結び、聴福人という実践をしています。この実践は、あるがままを認め尊重して聴くという意味と共に自然にゆるされているという徳が循環するいのちを聴すというものです。

私が創造した一円対話という仕組みは、この聴く聴すという生き方をみんなで一緒に取り組んでいこうとしたものです。

そもそも私たちのいるすべては分かれているものはありません。人類は言葉の発明から文字が誕生し、文字を使うことで複雑に無限に分けて整理していくことで知識を得てきました。本来の言葉は、言霊であり精霊や霊性、つまりは自然あるがままでした。

自然からいのちや霊性を切り離して分析し、単なる物質や知識として認識することによって私たちはこの世の仕組みや真理を分かるようになりました。しかし同時に分かることによって本当のことが分からなく、あるいは分かった気になるようになりました。この分けるという手法は、分断の手法です。本来、和合したものを分けて理解する。しかし分けたものは元に戻りません。なぜならそもそも分かれていないものを分けているからです。そのことで、人類は争い続け、お互いを認め合えず尊重できず苦しみや憎しみが増えていきました。

例えば、ご縁というものも分かれていたり切れるものではありません。最初から永遠に結ばれ続けていてあらゆるご縁の導きによって今の私たちは生きています。つまり最初から分かれているものはこの世には存在しないのです。それを仏教では、羅網という道具で示したりもします。私はそれをブロックチェーンや自律分散の仕組みで示します。

私がこの聴すという言葉に最初に出会ったのは、高田山にある親鸞さんの手帳のメモ書きです。そこには、「しんじてきく、ゆるされてきく」と書かれていました。

これは何をいうものなのか、全身全霊に衝撃を受け感動し、そこから「聴」というのを真摯に深め続けて今があります。この聴は、聞くとは違います。徳に耳があります。よく自然や天や自分の内面の深い声を聴くことを意味します。

人類が平和になるには、聴くことです。聴けばほとんどのことは自然に解決します。何かきっと自分にもわからない深い理由があると心で認めるとき、お互いを深く尊重しあうことができます。それが「聴す」なのです。

私の故郷にある聴福庵には、その聴で溢れています。そして徳積堂では、その聴福人の実践、一円対話を場で実現しています。

百聞は一見に如かずです。真剣に対話に興味のある仲間は訪ねてほしいと思います。

最後に、「聴福人とは聴くことは福であり、それが人である」という意味です。

子どもたちがこの先もずっと人になり幸福を味わいゆるされていることに感謝して道を歩んでいける人生を歩んでいけることを祈ります。

いのちへのいのり

古今、人は何を學ぶのかと問われればそれは道を學ぶと応えます。この道とは何かと言えば今では生き方のことです。生き方を學ぶためには、誠である必要があります。この誠とは、文字通り言うことと実践することを一致させるということです。しかしこれはなかなか簡単なことではありません。

人は言葉を喋るようになり、あるいは文字を持つことによって言行一致することが難しくなりました。自分の血肉になっていないものを簡単に語り、自己を含め人心を惑わします。また実践は終わりなく、磨いても完成はありません。常に自己修養の連続でその最中に人に教えていてもその教えはまだ途上です。結局は、未熟さを知れば知るほどに人に教えることはできません。

神人合一という言葉もありますが、この意味は言行一致と似ています。もしもこの世を素直に謙虚に生きるのなら自らの徳を省みて日々の生活を信仰の境地で調えていくのが何よりも和合することになります。

生活即信仰という言葉があります。

これは日々の暮らしが祈りそのものになっているということです。私は古民家甦生を通してこのことを學びました。むかしの井戸をはじめ、古い道具や建物にはいのちが宿ります。そのいのちに接する時、頭で計算して簡単に使えるものはなくどれも真心を使います。日々の生活の中で真心を使うことが増えることで、頭よりも心が大きくなってきます。頭の一部として心があるのではなく、人は心の一部として人であるのです。

心を盡していく生き方は誠の道につながります。

私は法螺貝を日々に立てますが、これは暮らしの一部になっているものです。お山に入ればお山にご挨拶をし、神様にご挨拶をし、自分の身体にご挨拶をし、場にご挨拶をし、貝にご挨拶をし、太陽にご挨拶をし、お水にご挨拶をし、ご縁にご挨拶をしと、永遠にご挨拶をし続けます。またご挨拶には清々しい気持ちで、いただいているすべてに丸ごと感謝していのり呼吸を吹くのです。

もともと暮らしの中にいつもご挨拶がありいつも感謝があります。それは呼吸をするように吐いて謙虚にご挨拶をし吸って素直に感謝をします。それが暮らしです。

暮らしフルネスというのは人の生きる道の実践です。親孝行も、今いる場を調えるのも、周囲の徳を活かすのも暮らしあってこそです。暮らしの中に色々なことがあり、その一つには仕事があったり、その一つにはお野菜づくりやお漬物づくりなど生きていくために必要な糧をえる活動があります。

当たり前の暮らしの中で、当たり前にどれだけいのちへのいのりがあるか。常にこの世で私たちが試されるのは人間性や人間らしさを磨いているかということかもしれません。

今日も一期一会のご縁に感謝して暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

例大祭と5周年

久しぶりの大雪のなか、御蔭さまで無事に例大祭と徳積財団5周年記念を開催することができました。真っ白に光り輝く風景のなかで、美しい奉納音楽や神楽舞、祈りの時間は心に深く遺る有難い時間になりました。

思い返せば、何もなかったところからはじまり今ではたくさんの仲間や同志に恵まれています。それぞれに無二の役割があり、天命を全うするために徳を磨いておられる方々ばかりです。時折、道を生きる最中に場に立ち寄りその努力を分かち合い、苦労を労い合うことは心のエネルギーを充足させます。何かの偉大なものに見守られていると実感する場には、お互いを深く尊重しあう安らぎや元氣があります。

一人一人がそのような安心で健やかな元氣に充ちれば心も解放されます。心を解放していくことは、心を喜ばせていくことです。真のおもてなしというのは、心の解放があってこそです。

この例大祭は、みんなで協力しあっておもてなしの準備をはじめます。同じ釜の飯を食べ、綺麗に場を清め、静かに穏やかに暮らしを調えます。真っ白な雪の中、妙見神社のお汐井川に若水を汲みにいき、桜の薪に炭火をいれて火を熾します。その火を竈に移し、前日からお祓いして汲んでおいた井戸水を鉄鍋にいれてじっくりと昆布や高菜を煮出していきます。直来は、白いものとして御餅や素麺等、そして福茶などご準備します。

自然の恵みと薫りに包まれた仕合せな時間です。

祝詞にはじまり、岩笛、法螺貝、篠笛、そして鈴に太鼓と懐かしい音に包まれます。龍の舞に音楽、お祭りも賑やかで弥栄な一日でした。恵方も偶然にも、龍王山や龍神池、そして神社の方角にピタリと合っていました。5周年でしたが、またこの恵方になるのは次回は5年後の10周年の時です。周期の豊かさも味わう有難いひと時でした。

人間は見守り見守られるという感覚をお互いに持つことで自然と一体になっているかのような同じような安心感を得ていくものです。安心感は徳を活かしいのちを輝く場を創造していきます。どれだけ安心感の種を蒔いていくか、安心の場こそ懐かしい未来であり心のふるさとです。

これからも子どもたちに先人の生き方を譲り遺せるよう精進し、道を確かめ道を手入れし、真の人間らしさや人間性を高める場を弘げていきたいと思います。

 

 

徳の伝承

私たち人間は本来は自然の一部でした。自然の一部であるときは、自然の中にいて自然に守られてきました。しかし自然から離れてしまうことで、自然の外に出ていきました。そのことで、自然の一部ではなく自然を人間の一部にしてしまいました。人間の一部になれば、人間のために自然はあるわけですから自然をどうにでも管理していくことを正しいことだと思うようになったのです。

例えば、都市部などはまさに人間が住むための設計されたものでそこでの自然は街路樹や公園くらいです。どれもが管理され人間の生活が快適になるように用いられます。都市部では人間にとって便利であるものであふれかえります。それを支えているのはお金です。

このお金というものは、本来は物の交換手段として使われてきました。あるいは、最古の貨幣のトークンにあるように預かりの信用の証明として使われてきました。しかし現代は、お金は別の機能として増産され発行されゲームのように使われています。人間界でのお金は、自然とはまったく何も関係がありません。もはやお金が世界を席巻し、自然を呑み込みました。人間はもうお金の一部になってしまうのもそんなに遠い先のことではありません。

私たちはどこからがズレてきたのか。それは自然から離れたところというのは間違いない事実です。ではいつこんなに離れたのか。私は古民家甦生を通して懐かしい暮らしを学び、新しいとは何かを深めてきました。その中で、徳を積み、いのちを循環させる暮らしをしていた先人たちの知恵にたくさん触れました。

伝統という名のつくものや、伝承されてきた道の中には自然の一部であることを忘れていない人々の生きざまが垣間見れました。そこには自然とは離れないという確かな遺志を感じるものばかりでした。

私が今、暮らしフルネスをしているのはこのように先人たちの遺志や思いを受け継いできたからです。別に人間界での便利な暮らしを丁寧にしても人間の一部として自然を扱っているのではミイラ取りがミイラになるだけで資本主義の助長の一部になっていくだけです。

だからこそ、何をすることが今は最も自然の一部として生きていけるのかを考え抜いて取り組む必要を感じるのです。道はまだ途上ですが、徳が循環する出会いのなかで少しずつ自然の一部としての自分を取り戻してきています。暮らしフルネスの真の目的はこの一点であり、子どもたちに譲り遺していきたい未来は徳の伝承です。

真摯に学び直して、志を磨き、日々を精進していきたいと思います。

先住民族の智慧

スリランカで人類最古の先住民族ワニアレットにご縁を得てから、改めて日本の先住民のことも深めてみることにしました。日本にもかつてはサンカやアイヌという先住民族が暮らしていました。狩猟採集生活をし、古代よりずっと山や森に棲んでいたといいます。

そもそも今、私たちの認識している歴史というものは勝者の歴史であり大多数の人たちが教科書及び、国家の指導によって編纂された認知した偏ったものです。歴史というのはまさに多様性であり、本来はそれぞれの種類の人たちから丸ごと聴いて確認することで全体の真の歴史観が磨かれて顕現してくるものです。

多様な民族の神話にはじまりそれぞれの暮らしの中の口頭による口伝、及び実践伝承されてきたものの集合知、集大成こそがこの地球や国土の真の生きているままの歴史ともいえます。

現在のスリランカで先住民族たちの歴史や暮らしが国家により奪われていく姿を目の当たりにして、私たちの国は本来はどうであったのかということを今一度見つめ直してみたいと感じました。

よく考えてみると、山岳修験というものや山岳信仰というものは自然と共生するなかで得た智慧が結集したものです。先住民たちは、薬草をはじめ様々な治療技術を持ち、また狩猟採集によって自然の掟や伝統を守ってきました。さらにはすべての生き物たちと調和し、いのちの循環を促してきた存在です。これは古代のむかしからずっと永続してきた人類のありのままの姿です。人間らしさの徳というものもまた、こういう環境と歴史によって磨かれてきたものであったはずです。

そう考えてみると私がお山の暮らしに惹かれるのは、どこかルーツや根源に惹かれているからかもしれません。本来、私たちの先祖は何処からきたのか。今回のスリランカでのご縁で、何か自分の深いところに眠ったままにいるものが呼び覚まされてきています。

それはかつての先住民族たちの智慧と暮らしの覚醒です。

今の時代だからこそ、先住民族たちの徳に触れ、その徳に救われる時ではないかと思うのです。子孫たちの仕合せで豊かな未来のためにも、これからじっくりとヒコサン・ヤマトとマヒヤンガナ・スリランカを起点にして深めていこうと思います。

人間らしさと人間性

スリランカから帰国して少しずつ道中の振り返りをしています。頭で理解するよりも体験から気づいた量が多いとそれを消化吸収していくのに時間がかかります。身体で得た感覚は、思想だけでなく価値観も変化させていきます。自分の変化が気づきそのものですから、何が変化したのかを振り返ると何に気づいたのかがはっきりするのです。

そもそも今回の旅は、ルーツを辿る旅でした。原初の仏陀をはじめ、神話からの人類の伝承を確認するためのものでした。その理由は、原点回帰をするためであったことと、温故知新してあらゆる複雑なものをシンプルにして甦生させていくためです。

徳積の起源であったり、暮らしの根源であったり、普遍的な大道の再確認であったり、そして新たな遊行の一歩を踏み出すことであったりと理由は様々でしたがそのどれもが存在している懐かしい旅でした。

原初の存在とは何か、それは人間らしさです。別の言い方だと人間性ともいいます。もっと言えば、人間とは何かということです。

今の人類は、人間らしさを失っているように思います。人間性というものもまた意識することはありません。しかし、今こそ私たちは徳に回帰し人間性を回復させる大切な時節を迎える必要があるのではないかと私は思います。

ワニアレットの長老をはじめ、スリランカでは人間性の美しい風景をたくさん見ることができました。そこには確かな人間らしい暮らしがあり、そして人間らしい生き方がありました。

お金やビジネス、富の独占や情報化、便利化など人間性を失うリスクに直面してももはやそんなことをどうでもいいかのように日常に多忙に流されていきます。私は決して文明の発明は悪だとは思っていません。しかしそのことにより人間らしさや人間性を喪失することは、真の豊かさや仕合せを手放す結果につながっているようにも感じるのです。

人間はこの地球に生きることを許され、自然と共に寄り添いながら一緒に天寿を全うする仕合せをいただいている存在です。この奇跡はなにものにも代えがたく、人間であることが最幸の歓びです。

人間が人間らしくあるとは一体どういうことか。それは人間が人間性を失わずに生きているということです。人間が人間性を失えば、それは生きた屍であり、希望をうしなった人形のようなものになります。人間らしさや人間性は、私たちがこの世に「生きている」という証明であり実感です。

生きている実感は、日々の暮らしや徳を積む中に存在します。だからこそ、私たちは文明とのバランスを真摯に保ち、人間らしさや人間性を失わないような生き方をこの時代でも実践していくことが平和や共生や自然との循環を保つ最大で最高の唯一の方法になるのでしょう。

私たちが今生きているように子どもたちも未来を生きます。その子どもたちがいつまでもこの世の幸福を謳歌できるように、今の私たちがどのような生き方を実践していくのかは方向性を決める最も大切な真理です。

人間らしさ、人間性をどう磨いていくか、それは私たちが決めます。

これから引き続き暮らしフルネスを通して真心の丁寧な暮らしを積み重ね、徳が循環するような布施と托鉢の遊行をさらに巡礼していきます。

一期一会の仏縁と地縁に感謝して、私の天寿を全うしていきたいと思います。

真の暮らし

スリランカの先住民たちとのご縁から原初の人類の暮らしを見つめています。もともとスリランカは、暮らしの中に紀元前からの智慧が今も生きている国です。アーユルヴェーダなどにもそれを発見できます。特に先住民、ワニヤレットの人たちは自然に寄り添い、自然と生きてきました。そこに流れている時間は悠久で静か、祈祷や行事を大切にしています。

昨日は、野生の像がいるような原生林を歩きました。また食事や骨折の治療をしているところも体験しました。ここ数十年で劇的に生活が尊重されなくなってきた現代でも、大切なことを守り穏やかに暮らしていました。

この場所にいて実感したのは、先住民たちがもしも地球からすべて滅んだときこそ現代の人類が滅ぶときだろうということです。そこに氣づくためにも、私たちはこの原初の先住民の方々から真摯に學び、人間らしさとは何か、真の暮らしとは何かということを見直す必要を感じます。

世界中で起きている先住民族は、ずっと先祖から続いてきた当たり前の自由、当たり前の生活が現代文明に奪われできなくなっています。それは土地を失ったり、木を切られたり、外からの移住者を入れたり、知識や便利な道具を整備することで奪われていきます。

文明人が与えたことは、実はそれは奪っていることになっているということに氣づく必要があります。これは自然を尊重することに似ています。何もしないというのは、ただ見放しているのではなく見守っているという考え方です。

私たち現代文明人たちの価値観は、便利さを優先します。便利は幸福、不便は不幸だと刷り込まれます。そうすると、不便な暮らしをしている人をかわいそうだと思い便利な道具をどんどん渡します。しかし、その便利な道具にはそれ相応の危険性をはらんでいます。これは戦争の武器も同じことです。簡単に人を殺せる道具が、倫理観を失わせ戦うということの仁義礼智信なども奪いただの大量虐殺兵器になりました。

私が暮らしフルネスを提唱するのは、これらの理由からです。

便利さが新しいと思うのは大変危険なことです。だからといい不便だけが正解で善でもありません。だからこそむかしの人たちは、便不便のバランスをきちんと取りました。人類は、ここにきて一つ次元を超えていけるかどうかが試されます。そのためには現代の価値観をよく見詰め直し、本来の人間らしさとは何かからよく見直し実践しすることかもしれません。自然と寄り添う中にこそ、真の人間性は発揮されるからです。

最後にワニヤレット長老からの言葉で締めくくります。

「現代は何らかの社會に所属して競争を続けている物質化された世界になっている。人間性の本質を見失っている。自然はいつも人々に寄り添ってくださっている。自然の驚異や猛威は人間らしさを失うことへの警告でもある。もしこの先も自然に寄り添わず、お金ばかりで競争を続けて人間らしさを見失うなら必ずいつかは死に絶えることになる。それに氣づいて、それをやめることです」

現地語とシンハラ語、英語と通訳を介した関係で多少の意訳や私の認識も入っているかもしれませんがこの数日間で現地に滞在し場で味わい沁みこんだ言葉でした。

陰極まって陽になる、そろそろ一陽来復です。

これからまた新たな挑戦をしていきたいと思います。

自然との関係

私たち人類のむかしは、土地の所有というものに対してとても緩やかでした。森や海など自然のものと共生し、みんなで共有しているものという意識がありました。それが次第に個人の所有物となり、自然環境のバランスも崩れていきました。神社の杜もまた、神社が固有に持つようになり自分たちで守ることになりました。広大な杜を個人で守れるわけはなく、しかし所有権の問題で手を出せたり出せなかったりして結局は杜は荒れるか、あるいは共生循環するかつての杜ではなくなります。

本来、人間が自然に寄り添い生きてきた時代は自然を所有するという概念ではなく自然に活かしていただいているという概念で暮らしが成立していました。自然が主体で、私たちはその主体を信じて見守りその恩恵で生活ができていました。数千年、あるいは数万年そうやって生きてきました。その暮らしを守ってきたのが、今でも遺る先住民族や少数民族の方々です。

昨日、スリランカの先住民族ですべての部族のリーダーであるワンニヤレットの長老とお会いしお話をお聴きするご縁をいただきました。風貌は穏やかで徳が薫り、自然を見つめる眼差しで真理のみを語られる大樹のような存在です。以前、アイヌの長老にもお会いしたことがありましたが身体から滲みでる存在感はほとんど同一でした。

世界中の先住民族、特に狩猟民族は迫害の歴史があります。アイヌの時も同様に感じたのですが、政府から居住地域を奪われ、それまでの伝統的な生活も失い、誇りも自信も喪失し差別を受けるというはどこも同じです。まるで世界は統一の迫害マニュアルでもあるかのように、世界中のあちこちで先住民族は滅んでいきます。

これだけ時代はグローバルとかダイバーシティ、民主主義で個々の自由を勝ち取ったと謳っていますが実際にはそれは一部の多数派の社会のなかで都合のよいところだけでを切り取って語っているだけです。実際には、少数派や政府にとって都合の悪いものは無視するどころか自分たちの正義の邪魔になるからと排除の対象になっていて尊重されるどころかいつまでも差別の対象になっています。

少し考えてみたら誰にでもわかりますが、食べていくため、生きていく上での環境を失ったらどんな生物でも生きていくことはできません。保護するという言葉は、おかしな言葉で実際には自由を奪って飼育するという意味です。飼育されたくないなら餓死すればいいという具合です。人間というのは自分たちの便利な暮らしのために野生の動物や生き物にも配慮がなくなり傲慢になりますが、同じ人間同士でさえそうなるのです。日本でも森が失われて食べていけなくなった動物たちが山を降りてきて問題になっていますが、そもそも森で生活できないようにしているのは人間が先だということに氣づき直す必要を感じます。しかしそう思っても、実際には行政が決めたから仕方がないと諦めては自分たちの利益を優先してしまいます。

この問題は、地球全体、人類で最も重要な課題でまさに文明末期症状の特徴の一つでもあります。今の配慮と尊重なき一方的な浸食を続けるだけでは、結局は人類も滅びの道にまっしぐらに進んでいくのがわかります。

自然と敵対して征服する生き方か、あるいは自然と共生して寄り添い尊重していく生き方か、覚悟と決心が問われます。人間が差別し続け戦争が失われない理由も、そして子どもたちが精神を含めて病気がこれだけ増える理由もまさに今こそ、この問題をどうあるかを全人類で考える時に来ているように私は思います。子どもたちのことを真に思えば、今手を入れないと取り返しがつかなくなります。

しかし実際には、数の論理で運動論のみで何かをしようとするのは歴史に学んだことにはなりません。それぞれが自分の居る場所でどうするのか、どうあるかを考えて真摯に実践するしかありません。私は場道家であり、暮らしフルネスを実践するものです。

今日もマヒヤンガナの森のなかで、伝統的な暮らしや生き方を学び直してきます。ここでの氣づきを形にして相互に自立しあえる発見をしてみたいと思います。

 

2025年のテーマ

今朝も素晴らしい太陽の光が差し込み、2025年の新しい年を迎えました。昨年より正月は冬至に行っており、この1月1日の元旦は二度正月を楽しむ機会にしています。夜中の年越し蕎麦も年々、滋味深くなり、家族と参拝する初詣も子どもの成長を感謝する大切な機会になります。

昨年は、いのちの対話をテーマにしていましたが大切な人たちが天に還られますます私も残りの人生の使命を強く覚悟することができました。この世にいなくなるのは寂しいですが、生前の雰囲気や声はいつもイキイキと心に響いています。いのちと対話するのに昨年は自分自身の体と対話することをとても大切に過ごした一年になりました。内臓もこれだけいのちを支えているのに普段はあまり配慮せずに反省もありました。いつも偉大な働きをしてくださっているその内臓と対話するような暮らしをはじめています。また自分の普段の意識にも目を向け、波動を調える美しい暮らしを心がけました。また無機物の発する音や風や水や火という精霊のような存在のゆらぎからもその深い徳と偉大な叡智を学びました。

その上で今年のテーマは、「謙」を一文字として設定しています。この謙は謙虚の謙からの言葉です。言うは兼ねると書きます。今から29年前、当時のメンターから謙虚であれとたくさんご指導をいただきました。もうこの歳になりまたなぜ改めて謙なのかと考えてみると、そもそもこれは一生涯の生き方に関係する言葉だからだとわかります。

私は謙虚を想像するとすぐに素直という言葉が出てきます。これは常に一対です。つまり素直を実践するとそれが謙虚になります。至誠も正直も同様に、私たちは言行一致、真心のままに行動するということが一番の徳積みです。あれこれと考えを巡らせては自分の置き所を間違っていくのが人間でもあります。私は35歳になったときから来たご縁を選ばずにすべて受け容れると決心して、それからは栃の実が川に流されるようにすべてお任せにするようにして生きてきました。

しかしご縁は不思議で自分の思ってもみないことの連続に心を痛めたり、あるいは判断を迷い苦悶することも多々あります。同時に、自分の想像を超えるような偉大なご縁であったり、一期一会の大感動に魂が震えることもたくさんあります。

まだまだ未熟で私が知らないことばかりの膨大な宇宙や世界がこの世にはあります。悟ることやわかることは大した意味はなく、それよりも自他一体になることや全体快適であること、あるいは神人合一するような体験や修行のプロセスの中に永遠普遍の喜びや豊かさは生きています。畢竟、自分の人生にちょうどいいことしか自分にはやってこないということでしょう。そうやって手放した数だけ自分自身との一人の対話が成り立ちました。

今年はまさかのスリランカのワニアヤ・アエット長老とのご縁からスタートです。ナーガ族とヤタ族、マヒヤンガナのもりの民。人類が原初に何処からきてそしてこれから何処にいこうとするのか。子どもたちの平安や真の幸福のために最善を盡していきたいと思います。

本年もよろしくお願いします。