便利さを手放す

便利さというものは、本来の大切なものを失わせていくものです。便利さがなぜ必要かというのは、それだけ効率を優先したり誰かの都合に合わせていこうとするときに用いられていきます。

現代は、時間を切り売りして消費することや税金の回収に余念がなく便利さはさも素晴らしく必要不可欠なものということになっています。しかしその便利さの背景にあった、不便だけれども大切なもの、不便でなければならなかったものまで失われていきました。

気が付くと、便利さによって得られるもの以上に失われてしまった方が大きくなり取り返しがつかないようになってきています。不便であることを優先する人を、蔑んだり、変人扱いするというのはどうしたものかと感じます。

例えば、不便なものとして代表的なものは「手間暇」というものです。丹精を籠めて時間をかけてじっくりと丁寧に取り組んできたものは今の時代は、それは良いことはわかっているけれどと言いながら誰もやらなくなってきました。その理由は、時間がない、お金がない、人がいないという理由です。そうしているうちにロボットやITが広がり、人も必要なく、お金もかけず時間もかからないものを選択するようになってきました。

経営も経済も効率化してその分、利益は出しましたがその便利な利益によってさらに便利なものを産み出す方へと投資されていきます。すると先ほどの不便なものは悪となり、気が付くと手間暇をかけることが良くないことのような価値観になっていきます。

自然界の循環の仕組みに合わせるというのは、時間も効率も良くないということで人間が無理に循環を促進していきます。そうしているうちに、最初は時間もお金も人も要らないといっていたものが経年劣化しているうちに大量の時間もお金も人も必要になります。人間は、目先の損得に心を奪われ便利さを追求すると本末転倒していきます。

長い時間をかけて、丁寧にじっくりとというのは伝統のことです。そしてそれを正しく伝承することでその知恵は永続的に子孫へと受け継がれていきます。これを途絶えさせるような政策や生き方、そして暮らしが失われていくというのは人類が知恵を捨てていくということに似ています。

そろそろ本気で、便利さを手放す勇気や知恵、そして聖賢たちが目指した徳の世の中へと転換していく時機にきているように私は感じます。子どもたちをみていたら、未来があります。私たちが勇気を出して変わるという意識と行動が必要です。

暮らしフルネスをさらに磨いて伝道していきたいと思います。

時代を歩む

人はみんなそれぞれに道を求めて旅をします。旅のなかで自分の出会いたいもの、自分と同じように実践する人を求めては訪ねていきます。それが短い間でも長い間でも、求めているものを探してはご縁を辿ります。

そうやって心を交わし、魂を混ぜ、共鳴して自分自身の人生の道の一つに組み込んでいくものです。出会いによって人生は変わり、道を歩き旅をすることによってその味わいは深まっていきます。

よく考えてみると、仲間というものや同志というものは同じ道を求めているから旅を伴にします。旅をしながら道を辿り、その時々の出会いや発見によって自分の道を深めていきます。時に助け合い、或いは時には支え合い、切磋琢磨、激励し合いながら目指している目的地に向かってそれぞれの場所で挑戦していきます。

気が付けば、旅のあちこちに仲間がいることに気づいて感動もし元氣も養えます。

むかしから同じように旅をしてきた人たちによって今の私たちの時代があります。いつまでも今も人は旅をしながら道を歩み、みんなで一緒に時代を歩んでいるのです。

大きな意味で、人間は意識の旅をしています。

その意識の旅は、時代の旅です。

この時代に生まれてきたこと、出会ったことに深く感謝して私も旅をより美しく味わい深く歩いていきたいと思います。

 

変化の本質

時代の変化というのは人々の意識の変化ともいえます。意識が変わっていくことで価値観も変化し、それまでの常識というものが変わります。同じような日々を歩んでいるようでも、新しい出来事が発生しその中で新たな意識が誕生します。意識というものは目には見えませんが、人々の間でいつも往来していて育っているものです。

10年前に通用したことが、今では全く通じなくなる。自分の強みがかえって負けになっていくということは歴史を見ても往々にしてあることです。それだけ変化というものにどれだけ自分の意識が磨かれているかは重要になります。

本来、普遍的なものや根源的なものは変わることはありません。本質はいつまでも変化はしません。しかしその本質に対しての理解の仕方、やり方などは意識の変化に応じて変え続ける必要があります。その理由は、普遍的なものが次第にくすんでいくからです。まるで塵が積もっていくように、あるいは手入れを怠ることで色あせていくように隠れていくのです。

その隠れているものをどのように磨き直すか。それが掃除であり、お手入れであることは間違いありません。意識というものが増えていくことは、普遍的なものを覆い隠していくのと似ているのです。

そういうものを常に取り払うためには、普遍的な砥石によって磨いて研ぎ澄ませ続ける実践が必要になるのです。私が甦生をするなかで特に大切にしているのはその部分であり、今でも普遍的なものや本質からブレずに丁寧にお手入れを続けているから意識の変化に応じて今を調和していくことを精進しています。

最も危険なことは意識の変化に気づかなくなることです。正解を求めてはあの手この手でやり方ばかりを変えていくことを変化だと勘違いすることです。そうではなく、その時々の味わい方や感じ方、そして正解ではなくすべてのことに一理あるとし一円観で丸ごと受け止めていくことから内省し謙虚で素直であり続けることです。

それはいつも理念や初心に立ち返ること、目的を忘れないで自らと今をさらに善いものにしていこうと努力を怠らず変え続けること。これは中国の古典、殷の湯王の自戒、「苟日新、日日新、又日新」の境地で実践することであろうと思います。

本来、何をやるべきかを他人に委ねてはならないように思います。自らの主人、自らの心に問いかけ、私も日々に新たに聴福人の生き方をする聴福人であることを忘れないでいたいと思います。

1000年の暮らし

私たちが自立という言葉を使う時は、社会の中でということが前提になっています。自然界ではそもそも自立していないものはなく、すべてにいのちを精いっぱい輝かせて活かしあい生きています。これは循環のことを指しています。私たちが自立するには、循環の中にいる必要があるからです。

しかし実際の人間の社会では分断の連続で循環しなくなってきています。そうなると自立ではなく、依存や孤立、特に今の個人主義という思想による利己や自利によって本来の自立とは程遠くなってきています。

自分を大切にの意味も本来の意味とは異なってきています。他にも自己管理の意味も自分を閉鎖し、無理をし我慢することのようにもなっています。

自由の意味も拘束の中の自由となり、鎖に繋がれた範囲での自由を目指して結局は本来の自由を知りません。

自然界の持っている開放感は、何をやっても許されるという安心感です。そこには、自立というルールがあり協力し合うことで喜びを感じ合えるという仕合せに満ちています。

本来の循環は水のようなものです。すべての生き物、いのちを通って海に流れそして雲になりまた雨となって山に降り注ぎます。その途中も経過もすべて水はそのいのちを透過していきます。それを遮断するとどうなるか、ダムなどを見ても明らかです。水が澱めばいのちの循環途切れます。途切れれば、不自然なことが様々に発生します。例えば、その分何かの生物だけが無理を強いられたり元氣をいただくことができず弱っていきます。

つまり真の循環というのは遍くすべてと分け合うときに実現するものなのです。空気も同じく、海も同じく、遍くものに循環をしてはじめて真の豊かな自然は実現するのです。

人間の言う循環は、本来の循環ではありません。特に資本主義の循環などは循環とはもっとも程遠いものです。しかしだとしても人間が長い年月で暮らしてきた歴史は、真の循環の時もあります。これは人間の心の循環も同じです。何度も途切れたり繋いだりしながら3歩進んで2歩下がるような一進一退ですがそれでも人格が磨かれ徳が積まれていけばいつの日か、真の循環に近づいていくと信じてもいます。時代の流行もまた真実ですから、どちらかを否定するのではなく今あるものを使いどう徳を磨くかということが大切だと私も感じています。

子どもたちのお手本になるような生き方、人生の味わい方をバトンとしてさらに善いものにして渡していけるように1000年先を祈り実践していきたいと思います。

むかしの人々

英彦山のむかしの山伏の道を歩いていると、岩窟や仏像、墓石などが谷の深いところにたくさんあります。今は木々が鬱蒼としていて、廃墟のようになっている場所にも石垣があったり石板があったりとむかしは宿坊だった気配があります。むかしはどのような景色だったのだろうかと思うと、色々と感じるものがあります。

守静坊の甦生をするときに、2階からむかしの山伏たちの道具がたくさん出てきました。薬研であったり、お札をつくる木版であったり、陶器や漆器、他にも山の暮らしで使うものが出てきました。

その道具たちを見ていたら、むかしはたくさんの人たちが往来していたのだろうと感じるものばかりです。食器の数も、お膳もお札の数も、薬研の大きさも関わる方々のために用意されたものです。

英彦山は3000人の山伏と800の宿坊があったといいます。この山では谷も深くお米もできませんから、食べ物はどうしていたのだろうかと感じます。これだけの宿坊があり、家族もいますから山の中だけでは食べ物は確保できません。実際に、宿坊にいるとそんなに作物が育てられるような場所も畑もありません。きっと、里の方々、檀家の方々をお守りしお布施として成り立っていたのでしょう。

宿坊には、他にも立派な御神鏡や扁額、欄間などがあります。貧しくもなく、そして派手でもない。しかしとても裕福な暮らし、仕合せをつくるお仕事をなさっていたことを感じます。

庭には、柿の木やゆずの木があります。そして220年の枝垂れ桜があります。足るを知る暮らしを静かに営み、祈りと里の人々の平安を見守るような日々を感じます。

英彦山、お山という存在は人々にとってどのような場所であったのか。

日々に疲れやすい心を癒し、身体を健康にしていくための故郷だったのではないか。今ではそう感じます。お山は誰かのものではなく、みんなのものです。そのみんなのものを大切に守ろうとされてきた方々によってみんなの故郷も守られてきました。今ではほとんど宿坊もなくなり、山伏もいませんがその精神や心、魂はお山の中に遺っています。

この遺ったものを感じ、自分なりにお手入れをしながらむかしの人々の生き方を学んでみたいと思います。

イワの信仰

先日、国東の両子寺にお伺いするご縁がありました。美しい参道とあわせて、岩窟があり両子権現がお祀りされていました。英彦山に関わってから、たくさんの岩窟に巡り会いました。この岩窟とは何なのか、少し深めてみようと思います。

そもそも岩(イワ)という言葉を調べてみると少し見えてきます。この岩は、山が連なったという象形文字です。ヤマという言葉もまた、山の上に岩々が連なった様子のことを指します。つまり石で連なった場所のことを岩(イワ)と呼んだのがはじまりではないかと思います。

そしてこのイワは、一説によれば「イワ」は、神を意味するヘブライ語の子音 (yhwh)に任意の母音をつけて、日本流の「神」の呼び名「イワ」となったともあります。つまり巨石で連なったものを古代の人たちは、何者か偉大な神が宿っていると直観しそこから岩の信仰がはじまったのではないかと感じています。これは古代においては、仏教や神道、道教などあらゆる信仰が始まる前からあった日本の源流の信仰のカタチだったように思います。修験道のはじまりではないかと私は感じます。

このイワには、「イワクラ(磐座・石位・石坐・岩座)」「イワヤ(石屋・岩屋)」「イワサカ(磐境)」「イシガミ・イワガミ(石神・岩神)」というものがあります。「イワクラ」は「神が依りつき宿る岩石への信仰」といい、「イワヤ」は「神が依りつき、籠る岩窟への信仰」といい、「イワサカ」は「神を迎え、祀るための区切られた岩石空間への信仰」といい、「イシガミ・イワガミ」は「岩石そのものを神として祀る信仰」といいます。

イワを中心に、神様が依り代になる場所と信じられそこで信仰が行われました。世界にはストーンヘンジやピラミッドをはじめ、岩が中心になった信仰の形跡があちこちに遺っています。

むかしはイワの力で病を治していたのでしょう。岩窟に入ると、とても静かであり不思議なぬくもりを感じます。同時に、偉大な何かが繋がっている感じもします。最近では、岩窟から出てくる湧き水にシリカやケイ素という成分がありそれが寿命を伸ばしたり健康を保つ薬になったということもいわれています。他にも精神疾患や、心の状態を穏やかにする、あるいは穢れを祓う力もあったと思います。

そもそも信仰の原点は、私は病を治すことだと直観しています。そして修験者たちは、本来はその病を癒すための道を示したものです。心身を健康に保つためには、自分のことを深く理解する必要があります。自己との対話を通して、身体や心を深く学びます。そうして学んだ知恵をもって、人々を救う仕組みが産まれたのです。

現代は、物理的、科学的に病気を捉えていますがそもそも病気になるような生活をしていますから健康というものもわからなくなってきています。だからこそ、本来はどうだったのか、古代はどうだったのかと温故知新することの大事さを感じています。

子どもたちのためにも、古代から続く知恵を甦生し未来のために伝承していきたいと思います。

道徳の実践

現代は、子どものためといいながら自分たち大人の都合のことをいい、未来の社会ためといいながらお金を増やすためにやっていることなども混在してより本当のことが分からなくなってきています。そのほかにも社員のためにといいながら、社長だけが利益を享受されるようになっていたり、国民のためといいながら一部の政治家たちが得をするということが当たり前になっています。

それが当たり前のような環境になって気づかなくなってくると、正直者が馬鹿をみるかのような風潮になっていきます。だからといって、みんながずる賢くなってしまうと道徳が乱れ、その結果社会が住みにくくなり豊かさや喜び、仕合せも失われていきます。みんなで仕合せに豊かになるには、みんなが助け合いそしてみんなで喜び合うような社会にしていかなければなりません。

そのためには、本来の目的というもの、私はこれを初心といいますがそれをまず定めてみんながその目的や初心を振り返りながらそれぞれが自立して協力していくような主体的な風土を醸成していく必要があります。

私もむかしは、世間のルールに従って比較競争社会、消費文明のなかで自分を守ろう、自分たちを守ろうと取り組んできました。そのうちこれは本当に子孫のためになるのだろうか、これは真に豊かなことなのかと疑問を感じるようになり働き方と生き方を一致させる経営に舵をきり今に至ります。

何でも一致させていこうとするのは、そこに誤魔化しもできず正直で素直でないと成り立ちませんから実際には苦労の連続です。特に今の時代は、そうではない会社や社会が当たり前ですから似て非なるものとの比較にあってなかなか本質が伝わらないことも多くなります。

本物といえば、それ以外は偽物なのかとなるし、本当だといえばでは何が嘘なのかとなります。正義とか悪とか、二元論ではなく大切なのは目的や初心に対して一致させること。つまり言行一致、知行合一、実践するということだと感じて取り組んできました。

実践というのは、目的や初心を行うことです。何のためにこれをやるのかということを忘れないで行動し続けることです。最初は、簡単には一致できずに改善の連続です。しかし次第に、働き方が改善されていくと同時に生き方も改善されていきます。

経営論やテクニックでやっていくのではなく、まさに思想と現実を一致させ経営文化に昇華していけばみんなでその社会を創造していくことができるからです。そのような社会を目指していくうちに、安心した暮らしはととのっていきます。

これは今私が発明したものではなく、日本でいえば三浦梅園、石田梅岩、二宮尊徳、中江藤樹、上杉鷹山などみんな実践により顕現させてきたものです。

その時代もまた同様に誤解されたり理解されなかったりしたでしょう。しかし後世の人たちが後で冷静に客観的に観たら如何に人間が人間らしい取り組みをしたかがこれらの偉人の生き方や歴史から感じられるものです。

理想は現実になってこそ、子孫を救うものです。子どもたちのためにも丹誠を籠めた実践を積み重ねていきたいと思います。

いのちのリレー~理念研修~

えにし屋の清水義晴さんの御蔭さまで福島県にある日本三大薄皮饅頭で有名な柏屋の五代目本名善兵衛さまとご縁をいただき、無事に理念研修を終えることができました。また本名さまからは、日本一の誉れのある旅館、八幡屋の7代目女将の渡邊和子さんと日本を最も代表する自然酒で有名な十八代蔵元の仁井田穏彦さまとのご縁をいただきました。どの方も、覚悟の定まった美しく清らかな生き方をされており志に共感することが多く、暖簾を同じくした親戚が増えたようなあたたかい気持ちになりました。

福島は東日本大震災の影響をうけ、そのままコロナに入り大変なことが続いた場所です。離れて報道などを拝見し、また人伝えにお話をお聴きすることが多くありずっと心配していました。今回、ご縁のいただいた方々のお話をお聴きしているとピンチをチャンスに乗り越えられさらに美しい場所や人として磨かれておられるのを実感しました。

自分たちの代だけのことではなく、託されてきた先人たちへの尊敬や感謝、そして子孫たちにどれだけの素晴らしい宝を遺しそしてバトンと渡せるかと皆さん今を磨いて真摯に精進されておられました。

私にとっても本来の日本的と何か、日本人とは何か、日本的経営の素晴らしさをさらに実感する出会いになりました。

私は理念研修をする際には、本来はどうであったかというルーツや本質を徹底的に追求します。今がある原因は、始まりの初心が時間を経て醸成されたものです。その初心が何かを知ることで、お互いが志した源を共感することができるからです。この志の源とは何か、これは自然界でいう水源であい水が湧き出るところのことです。

この湧き出てきたものが今の私たちの「場」を産んだのですから、その最初の純粋な水を確かめ合い分け合うことで今の自分に流れている存在を再確認し甦生させていくことができます。甦生すると、元氣が湧き、勇氣を分け合えます。

水はどんなに濁っていたり澱んでしまっても、禊ぎ、祓い、清めていくうちに真の水に回帰していきます。私たちの中に流れているその真水を忘れないことで水がいのちを吹き返していくように思います。

私たちは必ずこの肉体は滅びます。それは長くても100年くらい、短ければその半分くらいです。そんな短い間でできることは少なく、みんないのちのバトンをつなぎながら目的地まで流れていきます。大航海の中の一部の航海を、仲間たちと一緒に味わっていくのが人生でもあります。

その中で、後を託していくものがあります。これがいのちの本体でもあります。そのいのちを渡すことは、バトンを繋いでいくことです。自分はここまでとわかっているからこそ、次の方に渡していく。その渡していくものを受け取ってくださる存在があるから今の私たちは暮らしを営んでいくことができています。

自分はどんなバトンを受け取っている存在なのか、そしてこれからこのバトンをどのように繋いでいくのか。それは今よりももっと善いものを渡していこうとする思い、いただいた御恩に報いて恥じないようなものを磨いて渡していこうという思い、さらにはいつまでも仕合せが続いてほしといのるような思いがあります。

自分という存在の中には、こういうかけがえのないバトンがあることを忘れてはいけません。そしてそのバトンを繋いでいる間にどのような生き方をするのかも忘れてはいけません。そのバトンの重みとぬくもりを感じるからこそ、私たちは仕合せを感じることができるように思います。

一期一会の日々のなかで、こうやって理念を振り返る機会がもてることに本当に喜びと豊かさを感じます。このいただいたものを子どもたちに伝承していけるように、カグヤは引き続き子ども第一義を実践していきたいと思います。

ありがとうございました。

会社にとってもっとも大切なこと

本日からカグヤでは同じ初心や志を持つ会社に訪問する理念研修を行います。私たちの会社は元々、目的重視で働いていますから理念研修というのはよく行われています。現在では、ほぼ毎日がある意味で初心の振り返りと改善ばかりで生き方を見つめ、働き方を磨いている日々です。

一般的に会社は、目標ばかりが求められますが私たちは何のためにを大事にしています。「子ども第一義」という言葉をスローガンにしていますが、これは目的を見失わないためにみんなで確認し合っているものです。この第一義というのは、何よりも大切な中心としているものという意味です。この子どもというのは、子ども主体の子どもであり、童心の子どもでもあり、子どもが人類の最も尊い存在であるという意味です。

私たちは大人か子どもかで子どもを語ります。子どものためにといいながら実際には、大人の社会の都合がよい方へばかりの議論をします。本当に子どもが望んでいることは何か、それは一人一人の一家一家の暮らしの環境にこそ存在します。自分たちも本来は、子どもが大きくなっただけで子どもが何よりも尊重される世の中にしていけば自然界と同じく調和して仕合せを味わえる世の中にできるはずです。

当たり前のことに気づけなくなっている現代において、純粋にニュートラルに子どもの憧れる未来のために生き方と働き方を変えていこうと挑戦しているのがカグヤの本志、本業ということになります。

生き方というのは、どのような理念を抱いて取り組んでいるかということです。その生き方を確かめて、今日はどうであったかと振り返る。仕事や内容はその手段ですから、その手段のプロセスに目的を忘れずに誠実に実践してきたかというものが働き方になります。その働き方をみんなで分かち合い確かめる中に、みんなの生き様が出てきます。その生き様の集合体こそが、会社であり理念の体現した姿です。

社会というのは、自立し合うことで真に豊かになります。この自立とは、奴隷からの解放でもなく、お金や地位、名誉、成功者となることとは違います。本来の自立は、みんなが目的意識を持ち、協力し合い助け合い、お互いを尊重しながら生き方を磨いていくなかで醸成されていくものです。

自分らしく生きていくというのは、思いやりをもてる社会にしていくこととイコールです。自分も人も活かすというのは、お互いを違いや個性を喜びあい感謝していくということです。

子どもたちは、学校の勉強とは別に家庭や家族、身近な大人の生き方や生き様を模範にして学んでいきます。これは単なる教科ではなく、まさに生きていく力を養っていくのです。

だからこそお手本が必要ですし、場や環境があることが重要になります。育つ環境がなければ、いくら教えても真の意味で学ぶことができないからです。これは文化の伝承なども同様で、連綿と繋がっていく中で託していくものですから先人たちが先にお手本になりそれを子孫へと結ばれていくものです。

私たちの会社は決してユニコーン企業や大企業、テレビなどで有名なベンチャー企業などではありません。しかし、こういう私たちのような生き方や働き方を大切にする会社も社会には必要だと感じています。誰もいかない道だからこそ、私たちがその道を往く。子どもの1000年後のために必要なことだからこそ、誰もしないのなら我々がそれを遣るという覚悟をもって会社を運営しています。

そして同じようにそれぞれの道で自分らしく歩んでおられる方の生き方や働き方は私たちにとっても勇気や励みになり、また知恵を分かち合える同志にもなります。たとえ手段は異なっても、目指している夢や未来は似ているということに深い安心感を覚えます。

一期一会の日々に、どれだけ真心を籠めて生きていくか。

会社としてもっとも大切なことを忘れない日々を過ごしていきたいと思います。

 

今の心をととのえる

万葉集を詠んでいると、むかしの情景が思い出されます。現代は、情報化社会でありとあらゆる他人の人生や価値観が無尽蔵に流入してきますがむかしは人の心の奥ゆかしさのようなものを交わしあっていた時代であったように思います。

情報は、二つの側面を持っています。

一つは、流行や時代の変化など生き残っていくために必要といわれるような情報。現在の情報革命はこの情報をインターネットを用いて誰もが持てるようになってきたことです。一部の人しか持つことができなかったものも、ITの媒体を用いて全体が平等に持つことができるようになってきました。

もう一つは、心の情景や情緒、共感や共鳴といった思いを通じ合わせて仕合せになっていくために必要な情報です。これは万葉集の時代も、今の時代も、お互いの心配りや心遣いを通じ合わせていくものです。

人は何のために生きるのか。

1500年も2000年も前から、ある意味今と似たような日常を過ごしていました。ただ今よりもむかしの方がゆっくりと過ごし今に集中できていたように感じます。それだけ時間というものや社会も複雑ではなかったし、自然との共生や文化が醸成されシンプルだったからです。現代はスピード社会で、振り返る暇がないほどに毎日情報が入ってきてはスケジュールに追われるように生きていて社会全体が忙しくなっています。

旅をするときに、何が旅の醍醐味だろうかと思います。多くの観光地を矢継ぎ早にたくさんまわって次々と見て回るというものもあります。同時に、ゆったりと人の息遣いや文化を感じて心を通じ合わせて語り合い深く共感し人生を豊かにしていくようなこともあります。

どちらがいいとか悪いとかではなく、大事なのは今をどう大切にしているか。今はどうなっているのか、今の心をととのえていくことだと私は思います。

今の心をととのえていくと、自分の一期一会の人生の妙味を感じます。

人は誰にしろ、喜び、悲しみをはじめ侘び寂びなどの感情があります。同じ人間として、分かち合う、分かり合えることは人がこの世に生まれてきた仕合せの境地です。

子どもたちにも、今というものをどうととのえていくことが仕合せに近づけるのかを身近な実践から伝承していきたいと思います。