清々しい気持ち

昨日は、二十四節気の雨水に入りひな人形をお祀りしました。このひな人形は私のメンターの一人、佐藤貞三先生から継承したものです。もう6年目になるでしょうか。もともと男兄弟しかいなかったこともあり、ひな人形とはあまりご縁がなく育ってきたから最初に拝見したときは大きな衝撃を受けました。

私にとっての人形というのは、祖父から戴いた端午の節句の時の五月人形です。人形というのは、どこか魂が宿っているようで幼い頃から怖いものがありました。子どもたちは幼少期から様々な人形に触れていきます。不思議ですが、愛着のある人形はその人と一対になっているような感覚もあり関係性の中に繋がりが生きているような気がします。人形の歴史は先史時代からあり、古代エジプトなどでもたくさん出土しています。人間が人形と共に歩んできた文化は、長い歴史があり日本でも様々なところで文化と融合して祈りから遊び、そして暮らしに根付いてきました。

ひな人形をお祀りするのは、一年に一度です。しかもそんなに長い期間ではありません。むかしはどのような気持ちでお祀りしたのでしょうか。一つは、身代わりとして厄を引き受けてもらおうとしたこと。もう一つは、女の子の健やかな成長を祈るためともあります。

また上巳の節句は、本来は3月最初の巳の日に、水に入り禊(みそぎ)をして厄を祓う行事でした。そこで人形(ひとがた)あるいは形代(かたしろ)と呼ばれる、草木や紙で作った人形に自分の穢れを移して水に流すことで厄を祓い幸せを願ったともいわれます。平安期の陰陽道なども和合しているのかもしれません。

いつもこの時期にひな人形をお祀りすると清々しい気持ちになります。一つ一つを飾り、祈り、お神酒をいただくのは習慣になっていますが仕合せを感じる大切な時間です。

伝承というものは、徳が喜び合う中にこそ太くなります。人の出会いやご縁からはじまったものが花が咲き実になり種になるには長い時間を要しますし奇跡の連続に結ばれます。

子孫へ、豊かで知恵のある未来を伝承していきたいと思います。

 

 

道歌の伝承

道歌というものがあります。ウィキペディアによれば、「道を教える道歌とは、随分古い時代からあった。最初から道歌として作ったものと、普通の短歌を道歌として借用する場合がある。借用する場合文句が変化することもある。短歌は日本人の口調に適し、暗誦しやすいので親しまれた。道歌そのものは以前から作られていたが、室町時代につくられた運歩色葉集いう辞典に道歌という字があったという。江戸時代の心学者が盛んに道歌を作った。その後道歌が盛んになった。」とあります。別の辞書を引くと、仏教の教えや禅僧が悟りや修業の要点をわかりやすく詠み込んだ短歌や和歌ともあります。

道徳的な教訓や心学といった道を歩んでいく上での普遍的な生き方を歌に詠みそれぞれが道しるべとしたものです。

私たちの人生は一つの道だといわれます。はじまりから終わりまで道を歩むのが人生で、その中で様々なことを体験し味わい私たちは人間であることを自覚します。これをよく読み直すと、人間がなぜ不安になるのか、欲に呑まれるのか、不幸になるのかなどが昔も今も変わっていないことに気づきます。いくつか集めてみると、

養生は 薬によらず 世の常の 身もち心の うちにこそあれ

孝行を したい時には 親はなし 考のしどきは 今とこそ知れ

めぐりくる 因果に遅き 早きあり 桃栗三年 柿八年

足ることを 知る心こそ 宝船 世をやすやすと 渡るなりけり

強き木は 吹き倒さるる こともあり 弱き柳に 雪折れはなし

日々の健康は日頃の養生、親孝行は今こそすぐやる、タイミングは因果次第、富は足るを知る中に、真の強さは柔軟性など色々とあります。

本当はわかっていても、そう思いたくないという人間の心理もあるでしょう。道歌はそういうことを諦めさせるためにも声に出して詠んだのかもしれません。

人々の長い年月で繰り返されてきた知恵は、今も何よりの徳や宝になり私たちを支えます。先人に倣い、伝承を大切に取り組んでいきたいと思います。

徳や恩に報いる喜び

昨日、木材の声を聴いて木材の寿命を伸ばすお仕事をなさっている方が来庵されました。主に神社仏閣や古民家の古材など、長い時間をかけて大切に時が刻まれ守られてきたものを甦生したり保護したりを生業になさっていました。その方が聴福庵にとても感動していただき、「ここにある木材がとても清らかで凄まじい生のエネルギーを発して木が喜んでいる」とメッセージをいただきました。

目のキラキラした方で、日本の伝統や歴史に深い尊敬の念を持っておられたのが印象的でした。

木材というものは、今では普通に建築の材料の物の一つのように扱われていますが本来は生きている木のことです。木は切ってしまえば死んでいると思っている方も多くいますが、木は眠っているだけで死んでいるわけではありません。古民家の古い松の木は今でも松脂が出続けています。また家は湿気で水を吸ったり吐きだしたり呼吸をしています。他にも、温度の変化で膨張したり縮小したりと形を全体にあわせて変化させています。

私は木材の木目を観察するのが好きで、よく木材を磨きます。経年変化していくなかで飴色に変わってきた木材を蜜蝋などで丁寧に磨き上げているとその木目に心がうっとりします。木材のもともと持っている徳が顕れてくるのです。

木は私たち人間よりも長い寿命をもっているものがほとんとです。古民家などは、すでに数百年経っているものばかりでずっしりと場が沈んでいます。長い時間をかけて木材の強度も柔軟性も、表面の木皮もバリアのような膜を持ちます。長く生きるというのは、それだけ修養するということですからそれだけ木材の徳も磨かれていくのでしょう。

今では古い木材は役に立たないからとすぐに廃棄し燃やします。何百年も経ったものの価値を捨てていきます。先祖代々、大切に守ってきたものの価値は目先の安い木材や輸入材、あるいは便利な合成の化学材によって消えてしまいました。縦軸のいのちの繋がりを切ることでお金を稼ぐようになりました。

このような金銭的価値のみで判断し、目新しいものの価値ばかりが良いものだと注目されて陰ながら私たちをずっと支え続けてくださったものへの真の価値は忘れ去られていきました。もっと別の言い方をするのなら今まで守ってくださってきた存在を蔑ろにして、経済効率を優先しました。今の日本の伝統家屋や文化遺産などを観ると一目瞭然です。これでは先人たちからいただいた恩徳に報いることはできないと私は感じています。

本来の仕合せというのは、先祖から今にいたるまでずっと子孫のためにといのちを盡してくれている存在を感じるときに深く味わえるものです。お役に立ってきたものたちが、まだお役に立てるといのちを伸ばしてこの世に留まってくださっているということ。

そういう存在に感謝することなしに、真の仕合せはないように私は感じます。

祈りというものは本来、そういう存在そのものへの感謝をすることではないでしょうか。私の実践は、今の時代の価値観からすれば趣味の強い人や変人のように思われるかもしれません。しかし、価値観が変化しなければ当たり前のことでした。当たり前のことを忘れることを変化というものではなく、当たり前のことを実践し続けことこそ変化だと私は思います。

引き続き、数百年先の子孫が安心して暮らしていくためにも当たり前のことを実践して徳や恩に報いる喜びを伝承していきたいと思います。

 

絶妙な柔らかさ

自然界には柔らかいものと硬いものがあります。それは物質的な素材によって異なります。動物や人間においては、産まれたての時は柔らかく、歳をとり死ぬときは硬くなります。柔軟や頑固というのは一生のうちで変化しているともいえます。

昨年、骨折をしてから今はまだリハビリ中ですが折れたところの筋肉が硬くなっています。使っていない筋肉は硬くなっていき変な力を入れてしまうと張ってきます。他にも人間の肉体は炎症を起こすと硬くなります。緊張をしても硬くなり、血流が悪くなると硬くなります。この硬くなるという行為は、ある意味で不自然であることを証明しています。

もともと柔らかいものが硬くなるのは、伸びることと縮むこととの関係性とも言えます。私たちの成長というものは、伸び縮みを繰り返して少しずつ伸ばしていきます。ある意味、少しずつ伸ばしてことが成長とも言えます。

これは身体に限らず、能力や才能も使い育てることで伸ばしていきます。伸ばしていくのは、蕎麦打ちなどをしてもわかりますが粉を塊にしてこねて打ったらあとはのし棒で伸ばしていきます。美味しい蕎麦にするには絶妙な柔らかさの中には適度な硬さを持たせます。

この絶妙な柔らかさというものこそ自然体で力んでいない状態です。人間でいえば、リラックスをして心も体も調和している状態のことをいうように思います。

余計な力が入ったり、頑固に無理をしていて硬くなっていると本来もっているものも発揮できません。自然体というのは、本来の今の自分にあるものを存分に発揮できる状態になっているということです。

そうやって加齢していっても、年々体は死に向かって硬くなっていきますがその分、心のバランスや使い方や用い方の工夫が取れて絶妙な柔らかさは維持できるものです。

私の尊敬している方々もみんな柔軟な感性を持たれておられ、お会いするたびにその絶妙な柔らかさに生き方を学びました。これらの絶妙の柔らかさを持てるようになるには、日々の柔軟性を高める精進が必要になるように私は思います。

その時々の今のありようと正対しては、そのご縁のすべてを活かそうとする努力です。別の言い方では、禍転じて福になるということや人間万事塞翁が馬という境地を体得しているということでしょう。

子孫のためにも、今私が取り組むことが未来への橋渡しになれるように絶妙な柔軟性で結んでいきたいと思います。

場の例大祭 2024辰年

今年も有難いご縁にたくさん恵まれ、場の道場にある妙見神社(ブロックチェーン神社)の例大祭を執り行うことができました。前日から降り続けた強い雨でどうなることかと心配していましたが例大祭中は雨も降らず気温も上がり晴れ間も出て美しい夕陽と竜雲、彩雲が顕れご参列の皆様もとても感動していたのが印象的でした。

ここに神社を建立してから5年目になりますが、何かに導かれるように様々なご縁をいただいてきました。この期間に無二の仲間たちとも出会い、奇跡のような徳積の活動を実践することができました。自分で考えていた以上に、考えてもいなかった素晴らしい御蔭様と豊かさにずっと支えられていました。

この節分から立春という廻りは、春の兆しをたくさん感じます。冬の厳しい寒さと春の柔らかい温かさが交互に空に顕れ、また大地を潤します。寒暖差の中に水や風が揺らぎ場に澄み切った空気感を醸し出してきます。

今回、例大祭では昨年ご縁があった即興ピアニストの今井てつさんに奉納をお願いしました。共通のご縁は、自然農の故川口由一先生です。私もかんながらの道を歩んでいますが、いのちや生きものがいっぱいの自然風景を心に響かせる生き方をしています。今井てつさんの音楽もまた同様な自然の響きを奏でています。

私たちは心に映る風景を、それぞれの思いの波動を通して全体に響かせることができます。その響きは、音楽のように奏でて消えるのではなくそれぞれの場所や意識に影響を与えてその中で一体化して永遠に活き続けていきます。ご縁も音も、そして響きも波動も消えるということはなく食べもののいのちのように身体や精神、心に和合して意識を変化させる素となるのです。

いい人に巡り会うことは、いい人の生き方を宿すことでもあります。同時にいい音に巡り会うことは、いい波動を宿すことでもあります。そしてそれをどう表現するか、感動するかで人と人の間に感動はさらに広がり、その美しい種がまた新たに人々の心や場に蒔かれていきます。これが人徳の魅力です。

そうやって思いの種は最初は小さな種であっても、蒔かれていけばそのうち花が咲き広大なお花畑のようになることもあるのです。自然の有難さというのは、いつも自然があるということでしょう。その芽出度さは日本人の心でもあります。日本人の先人たちは暮らしの中でいつも自然を忘れず自然に感謝して自然と共に歩んできました。今年の例大祭ではよりその自然への畏敬を味わうことができた素晴らしいものでした。

最後に舞の奉納をしてくださった全さきさん、彌樹さん、母娘。それに直来で美味しい料理を準備してくれたまどかさん、お手伝いの恵輔さん。暮らしの音楽を奏でてくれた祐輔さんと晃輔さん、そして雅さん。節分祭から場を一緒に調えてくださった星覚さん、全体を調え石笛奉納までしてくださった奈々子さん。何よりいつもお手伝いを気持ちよく協力してくださる素敵な仲間たちに心から感謝しています。

予祝としての思いに、おめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

思いを大切に

人の「思い」というものは受け継がれていくことで洗練され美しく光り輝いていくものです。何代もかけて丁寧に磨かれてきた「思い」は、密度を高め透明度を増していきます。何度も何度も思うということは、「念じる」ともいいますがそれ自体が創り出す場にはその人が受け継がれてきたものが連綿と結ばれ特別な居心地を創りだします。

そしてこの「思い」というものは、純粋であればあるほどに研ぎ澄まされます。言い換えれば、純粋さというものは透明度が高いのです。別の言い方では澱まず澄み切っているということです。

水というものを想像してみるとわかりますが、いくら混濁して不純物と溶けていたとしても非常に長い時間をかけて静かにしていると不純物は下に沈み透明な水が顕れます。あるいは、水源などの湧水が滾々と流れているところはその透明な水が下から湧きがってきます。

この透明な水が出てくるまでにどれだけ長い時を刻み、そして思いを受けたかと思うと水の持つ性質、その徳に畏怖を感じるほどです。

私も人生の経験から、ある人の思いが気が付くと自分の思いになったことがあります。その方が亡くなる直前に譲り渡され、あるいは気が付かないうちに自分の中に思いが写り、交代同化するのです。相手の思いが自分の思いになっているという感覚です。濁りのない澱みのない思いが、純粋な自分の思いと和合します。

人は純粋な思いに共感し、それを応援したくなるものです。なぜなら、その応援は自分の中にも確かに息づいているものでありその思いを受け継ぎたいと願う思いもあるからです。思いが伝播していくのは、思いに共感しあう思いがあるからでしょう。

この思いを育て醸成することは、私たちのいのちの寿命を伸ばし仕合せを編み込んでいくことに似ています。まるで水のように循環をしあい、色々な思いを呑み込みながらも遂には純粋な思いだけをろ過して顕現させていくかのようです。

「思い」を大切にしていくことが何よりも思いを育てます。人からどう思われても、自分にしか感じることがない大切なその「思い」を生きていく人が増えてほしいと思います。子どもたちにも、思いを育て、思いを応援してもらえるように徳を磨いていきたいと思います。

畜の意味

最近、社畜という言葉を改めて気にする機会がありました。なんとなく世の中で使っている言葉の響きが不愉快だったので調べると家畜を参照して作成された言葉のようです。社畜の意味は辞書を参照すると「日本では社員として勤めている会社に飼い慣らされ、自分の意思と良心を放棄し、サービス残業や転勤もいとわない奴隷と化した賃金労働者の状態を揶揄、あるいは自嘲する言葉」とあります。また家畜を調べると「ヒト(人間)がその生活に役立つよう、野生動物であったものを馴化させ、飼養し、繁殖させ、品種改良したもの」とあります。さらに社員ではなくアルバイトの場合はバ畜と呼ばれ「アルバイトをする学生がバイトに多くの時間と労力を割いてしまう状況を表す言葉」だそうです。

この「畜」という文字の語源は、会意文字で「玄(黒い)+田」の意味で栄養分をたくわえて作物を養い育てる黒い土のことをいいます。この発酵した黒い土がある御蔭で、植物や生き物たちの健康は守られます。

私は自宅で烏骨鶏や犬を飼っていますが、家畜といっても無理やり卵をたくさん産ませようとしたり犬をこき使って働かせようとは思ったことはありません。他にも自然農や田んぼをやっていますが、無理に作物を育てませんしその土を大切にするために農薬なども使ったことはありません。高菜のお漬物もつくっていますが、在来種の種を大切に自家採取してはまたそれを蒔き育て、その高菜で採れる分だけで木樽に寝かせて林の中でお漬物にしています。

私にとっての家畜は、大切な家族で共にこの世で生きていくためのパートナーです。家畜というものを悪いことのようにいうのは違和感があり、その流れで社畜というのはもっと違和感があります。

私は会社の社員のみんなを親戚や家族のように思っています。毎日、顔を合わせては健康の心配、子どもたちや家族や親せきの状態、仕事のこと、暮らしのことを気にしては一緒に語り合い助け合います。みんなで尊重しあえるように話を聴く時間を工夫して確保し、丁寧に一緒に生活の改善を続けています。飼いならすというよりは、みんなで協力しあって暮らしを創っているという感じです。大切にしている畜土(場)は、会社の文化であり、それは連綿と毎日続けて受け継がれてきたみんなの生き方や働き方の歴史が醸成されたものです。社畜という言葉がなぜ悪く言われるのだろうかと不思議でなりません。

結局、この言葉の意味の変遷は時代的な価値観として「いい会社かどうか、いい家庭かどうか」のその話をしているということでしょう。悪い意味でつかわれる家畜も社畜もバ畜も、まるで人間がいのちのない単なる物体のように扱われ、一人ひとりが尊重されない環境のなかで主体性を放棄した状態ということになります。そういうように動物たちや植物などの家畜を扱い、そういうように人間も扱うようになったということでしょう。一方的な奴隷化、搾取、それを飼いならされた状態というのでしょう。

実際にうちの烏骨鶏でいえば、柵も鳥小屋もあるのは野生動物や蛇などの天敵から守るために設けるものです。それに広さを十分に確保し、止まり木があり、発酵土を設け、泥浴びができるようにし、風通しのよい日陰で新鮮な空気があり目が届く場所に設置するのは奴隷化するために飼育しているのではありません。犬も同じく、綱があるのは車社会で飛び出すと危険であることや保健所に連れていかれて殺処分されたり、犬に乱暴に扱う人たちがいることから守るためでもあります。飼いならすことと守ることは違います。大切ないのちを守ろうとするからこそ「畜」はあるのです。

「畜う」という字は、「やしなう」とも読めます。つまりは、大切に育て養い守るということです。そして見守られている側もきっとそれに気づいて安心して育つはずです。そうやって「お互いにやしないあう=見守り合う」ことで私たちはいのちの寿命をのばして仕合せになるように思います。

言葉の使い方の中に、時代の価値観や人々や民衆の感じる不信や不満がでてきます。全部がそうではなく、そしてそうではない生き方の人たちの実践もあることにももっと目を向けて子どもたちのために将来がどうあってほしいかよく考えて今を生きる大人として取り組んでほしいと思います。

私たちも引き続き、子ども第一義、私たちの道を拓いていきたいと思います。

原始からのいのり

例大祭の準備で太鼓をお手入れしています。私のところで使われている太鼓は、明治19年のものです。それを修繕して使っていますが、元々これは滋賀県六地蔵で使われていたものです。私は地蔵尊とのご縁が深く、何か大切なことがあるときはよく地蔵尊に関係するご縁や出来事、物とも出会います。歴史あるものの続きを奏でられることに有難さをいつも感じています。

和太鼓というのは、石笛と同じく縄文時代よりあったといわれます。特に原始的なこの太鼓や石笛というものは、シンプルな音の中に深い自然への畏敬の念を感じるものです。

音というものは、不思議なものでその波動は複雑ではないほどに洗練されています。太古の音色は、叩きかた次第であらゆる心情を表現し、またその場の雰囲気を変えてしまいます。同時に、リズムによって全体との調和や躍動感を引き出していきます。

原始的な祭祀は、歌や舞、踊りをしますがそれはまるで春が来ては鳥たちや魚たち、あらゆる虫たちがいのちを踊るかのように舞い、いのちといのりを表現します。

これから誕生するものへのいのり、これから消えていくものへのいのり、そのどれもが音や波動を通して心情に沁みこみ響き渡ります。

さらに私のところにある最も古い太鼓は戦国時代のものがあります。これは陣太鼓で徳川家への献上品の一つでした。龍虎が描かれ、幻想的です。音を鳴らせばその余韻は深く、いつまでも耳を通して心に残ります。

目を閉じれば、その時代の音が聴こえてくるかのようです。

芸能のルーツは、これらのシンプルで洗練されたものの中にこそ今もまだ生き続けているように私は感じます。妙見神社の例大祭では、この妙を観る境地をみんなで感じ合うところに仕合せや喜びもあります。

子どもたちにいつまでも先人たちのいのりが伝承していけるように、丁寧な暮らしを紡いでいきたいと思います。

預言の本質

預言というものがあります。これは辞書を引くと「ある人が神や神霊の代わりとなって、神意を民衆に告げること」とあります。世の中が不安定な時は、色々な預言者が現れ様々な預言をするものです。有名な預言者には、イザヤやエレミア、エゼキエルがいます。少し前ではドイツのシュタイナー、日本にも出口王仁三郎氏がいます。

そもそもこの預言というものは、不思議な直観力を持って見通す力だといわれます。しかし冷静に考えてみると、人間が預言者として尊敬して感動するのはここ数日から数年、あるいは十数年の事実を見通すことや、同様に過去の同じような期間のことを言い当てたことによるように思います。

1万年先や100万年先の未来も過去も、今の自分には関係がないからです。そう考えてみると神様と崇められる存在というのは短い期間の予想ができる人物ということになります。ある意味、組織のリーダーというものはその経営のかじ取りをする上で中長期的な未来予測を絶妙にできる存在が人々によって選出されていくものです。

そしてこれらの予測は、如何にして行われていくのかを観察するとそれは全ての出来事への内省からの深い洞察に裏付けられていることがわかります。

なぜなら、過去の出来事というものはその本質をよく見つめればそれは未来の出来事になるということがわかります。古来からの因果応報、陰陽調和の知恵にあるようにすべては表裏一体であり万物和合しているものです。何かをすれば相応にそのことが調和しゼロになるようなことが発生するのです。

これは預言というよりは、宇宙や自然の仕組みであり避けられない法理であり真実です。最初から存在しているルールというものには、逆らえないのです。どんな預言者であっても肉体的には滅ぶようにこれらのことも避けられません。物質が循環するという法理には逆らえません。

だからこそ預言は一般的には神の霊感とか言われますが実際に私が感じるのは非常に深い内省からの洞察でありどこまで物事の陰陽を微小に偉大に観ているかというです。これを科学で突き詰めるのなら、AIなどはその情報量のインプットと分析によってある程度の人類の未来は予測できるように思います。人間が受け入れないだけで、すでにAIは人間の業を分析済みであるのです。

ただ、人間は起きてくる真実とは別にどう生きるか、どう感じるかは人によって選べるものです。それはどのような宿命が待っていたにせよ、自分がその最後の瞬間までどうあるかは自由にできるということです。

なので、こうなった時はどうするか。こうあった時はどうあるかなどはある程度はシュミレーションできるものです。どんなに大金持ちであっても地球規模の大災害からは逃げられません。この世に宿命から逃れられる人はいないのです。結局は、その逃れた行為から別の業が発生していきますからこれも法理として決められた布置からは逃げることはできないということでしょう。タイムマシーンのようなものがあったとしてもまた別の運命に翻弄されるだけです。

先ほどの出口王仁三郎氏は、「この世で起こる出来事や事件はあの世に現れている」ともいいました。この世が陽であれば、あの世は陰ということではないかと私は思います。これは三浦梅園先生も同様なことを仰っていました。

また出口氏はこうもいいます。

「1日先のことがわかれば大金持ちになれる。1ヶ月先のことがわかれば大宗教家になれる。10年先、100年先のことを見通せば、頭が変だと危険視される」

これに1万年後とか10万年後のことを言うと、普通過ぎて誰からも気づかれない人になるようにも思います。結局は、預言というものの本質はそのような感じのものです。

だからこそ、今、どうあるかに集中することで過去も未来も調えていくことができるものです。過去をよく観察し学び伝承することは、未来そのものを善くなるように循環に導く大切な今になります。

今を大切にするのは、それが子どもたちや子孫の未来に直結するからです。自分がどうなるかを心配するよりも先に、自分よりも先の世代のことを慮り自分が多少大変であっても過去から学び未来を繋ぐことの方が預言の仕合せはあるように思います。

引き続き、かんながらの道を歩み徳を磨いていきたいと思います。

本当の変化

時代が変わってしまうと懐かしいものが新しいものになります。その理由は、時代の変化と共に価値観が変わり本来であったものが発展していく過程で複雑になっていくからです。ある程度まで複雑になってしまったものは、成熟してしまい変化ができなくなっていきます。つまり現代の価値観の中における変化というのは、複雑化していくということです。

その複雑化したものを原点回帰してまたはじめて新しいものにしていく。こうやって時代は何回も同じことを繰り返しているようでシンプルになることと複雑になることを往来しているともいえます。

例えば、料理でいえば最初はとてもシンプルだったものが様々な時代の流れや新たな料理が開発されていくなかで品数も増え味つけや方法も増えていきます。しかしある程度までいくと元に戻らなければそこから増やしていくことができなくなります。つまり変化がなくなっていくのです。老舗の味などは、このやり方とは異なり同じ味を時代が変わっても追及するなかで微細な変化を続けています。これは先ほどの足し算ではなく引き算によって変化を長く続けようとする仕組みです。

短期的な変化は、複雑化していくことですが長期的な変化は原点回帰を続けることです。これを不易と流行ともいいます。何を変えて何を変えないか、このあり方に生き方や生きざま、取り組み方や姿勢がすべて入ってきます。

和魂洋才や和魂漢才などの和魂という言葉があります。これも本来の日本人として生き方は変えないままにその時々の海外の文化を吸収して活用するということです。元を変えないということで原点回帰を続けていく仕組みです。しかし変化が長期的でゆっくりです。明治時代以降、日本は短期的でスピーディーな変化を採用してきました。つまり先ほどの言葉では、洋魂和才、漢魂和才ともいうのでしょう。変化はでて複雑化して発展しましたが成熟して変化が失われてきました。変化しないものは、滅びるのがこの世の常ですが変化は生きていることにおいて何よりも重要なテーマです。

今の時代、複雑化を変化と呼ぶ人があまりにも多くなっていますから新しいことばかりを求めては懐かしいものには目もくれません。しかし先ほどの老舗や長期的な取り組みを生きるかつての和魂のある日本人は懐かしいものを変化と呼びました。

私の取り組む懐かしい未来や懐かしくて新しいものは、本当の変化への挑戦になります。ここ数年、これに気付ける人たちが集まってきては、変化の核を形成してきました。遅々たる速度ですが、それが日本的な引き算の美徳と変化の本懐です。

引き続き、日本の未来をよくよく見据え今に積み重ねていきたいと思います。