同行コンサルティング

コンサルティングという言葉があります。この言葉を調べると語源は、ラテン語の「consultare」だといいます。この意味は「共に話し合うことや協力して意見を出し合う」という意味だとあります。そして「consult」という言葉を分解すると、「con(共に)」と「sulere(取る)」とあり、共に座り考える、また相談するという意味です。

つまりは、一緒に考えて共に歩むということがその言葉の本質です。

世間でいうコンサルティングの仕事は今では多岐に及びます。日常的なビジネスなどでは様々な定義も分類もあります。例えば、一般的には専門的な知識があり客観的に分析したりアドバイスをしてクライアントを導くような仕事。または、具体的に組織の人間関係を含む経営課題を解決に導くために仕事などもあります。

私の場合は、「見守る」という実践を仕事にしてきましたから見守り合う関係を通して一緒に取り組み伴走するうちに次第にコンサルティングの方といわれるようになりました。

そもそも誰かの人生に大きな覚醒や気づきや影響を与えるということは、共に成長していくということで発生します。共にお互い様と御蔭様の心の関係を結んだら、一緒に成長しあっていく。成長する人同士だからこそ自他が一体になりお互いの成長する姿に刺激されることで共に高め合っていくことができるものです。これは自然界も同様に見守り合う中で育ちあいます。

教える側も教わる側も本来は本質として表裏一体の存在であり、これは同志であっても師弟であってもお互いに深い尊敬と成長しあう関係があって成り立っているものだからです。

そして見守る時に最も求められるのは、心を寄り添うという伴走型であるということです。この伴走というのは、共に走っているという関係です。単なる並走ではありません。むしろ見守りに近い別の私なりの言い方では、「同行」ともいいます。この同行も、一緒に行動する、同じ道を歩むという意味です。また四国八十八か所巡礼に同行二人(どうこうににん)という言葉があります。この「同行」と「二人」を合わせた「同行二人」という言葉は、巡礼者が弘法大師空海の生き方、智慧、そして教えや精神を学び一緒に道を歩んでいくことを意味するといいます。

私は本来のコンサルティングという生き方はこの同行二人にこそあるように思います。そして伴走するというのは、同じ心で同じ理念で共に一緒一体になって取り組むということです。

そうすると、一般的なコンサルティングのように専門家による部分最適のみをビジネスのためにやるのではなく常に「全体最適で一緒に人生を生き切るという実践」が必要です。つまりは、実践を通して貢献する。自分の体験や経験や研鑽がそのまま、一緒に同行する相手の成長の糧そのものになるということです。お互い「道」に導かれるように歩んでいくということです。そこには偉大な「場」が誕生します。

こういう関係は、一生涯のうちに滅多に巡り会えることではありません。同行同時のように、同じ人生をシンクロさせるような一期一会の関係を築くことです。一般的にはあまりにもリスクも高く、効率もわるいので世間的なビジネスにはあまり向かないかもしれません。しかし、そもそも人は利他や貢献、そして共生をしたいと心から願うものです。自然にコンサルティングになるのなら、ほとんどはこのような同行二人の境地に入ると私は思います。そして本来の幸福を考えるのならば、私はやはりこの「同行コンサルティング」にこそ深い共感を覚えます。

子どもたちのためだからこそ、子孫に恥ずかしくないような仕事を遺していきたいと思います。

 

ご縁結び~魂の対話~

今年も英彦山、守静坊の「サクラ祭り」が近づいてきました。有難いことに、この季節の宿坊はまるでこの世のものとは思えないほどの幻想的で美しい純白の一本桜の花と薫りが場を包み込みます。

この守静坊の一本桜はひとたび風が吹ば、ゆらゆらと仙人のような佇まいになり夜になれば満天の星空と和合します。今回は、昨年よりもまた充実して周囲に茶席を設けたり、ライトアップしたり、生演奏をしたりとサクラと共に開花の歓びを分かち合います。

元々、霊峰と呼ばれる英彦山は我々のご先祖様たちの魂が居る場所ともいわれ宿坊はその魂の宿直をする場であると信じられていました。お盆にはたくさんの檀家さんたちをはじめご縁のある方々が参拝されお山の静謐で清々しい場でご先祖様たちとの魂の対話をし感謝を通じ合わせていたといいます。

現代は、各家庭にはお仏壇もなくなりご先祖様と通じ合う時間が激減しているといいます。

私たちの今の身体を含め、すべてはご先祖様たちから譲り受けてきて今があります。その証拠に、顔かたちをはじめ身長や体格、持病や性格なども色濃く受け継いでいることがわかります。心を落ち着かせ耳を傾ければ、ご先祖様が今も一緒に私の身体に宿り生きているのがわかります。

その共生するご先祖様の存在を一年に一度、思い出し共に感謝しあって桜の木の下で和合するのがこの「サクラ祭り」なのです。

不思議なことですが、サクラ祭りに参加された方からはご先祖様にお会いできて涙が出たとか、あるいは心の養分が甦り元氣が出てきたとか、他にもすでにご先祖さまにいただいている感謝や幸福を感じ直すことができたなど喜びの声ばかりでした。

年中行事というのは、本来は意味があって行っていたものです。ただのお花見ではありません。この英彦山の守静坊のサクラ祭りは「ご先祖様との邂逅」のために行われてきたものです。

今を生きる私たちが、伝統を継ぎ継承しご先祖様たちとの繋がりや結びを強くすることで自分だけでなく子孫たちをはじめご縁のある方々の幸福に貢献していくことができます。

もうこの年中行事を復活させてから3回目になりますが、幸運ばかりに恵まれご先祖様たちの応援を感じます。過大な宣伝はせずご縁のある方々から丁寧に少しずつ、植物が芽吹いて花が咲き種が増えていくようにご縁を中心にお誘いしています。

今年も、守静坊でご縁結びができるのを楽しみにしています。

日時:2025年3月29日(土曜日)13時より~

場所:英彦山守静坊 (福岡県添田町英彦山731)

詳しくはこちらをご覧ください。

聴されて聴く

徳の真髄の一つに「聴されて聴く」というものがあります。この聴く(きく)は、聴す(ゆるす)とも呼びます。私は、聴福庵という庵を結び、聴福人という実践をしています。この実践は、あるがままを認め尊重して聴くという意味と共に自然にゆるされているという徳が循環するいのちを聴すというものです。

私が創造した一円対話という仕組みは、この聴く聴すという生き方をみんなで一緒に取り組んでいこうとしたものです。

そもそも私たちのいるすべては分かれているものはありません。人類は言葉の発明から文字が誕生し、文字を使うことで複雑に無限に分けて整理していくことで知識を得てきました。本来の言葉は、言霊であり精霊や霊性、つまりは自然あるがままでした。

自然からいのちや霊性を切り離して分析し、単なる物質や知識として認識することによって私たちはこの世の仕組みや真理を分かるようになりました。しかし同時に分かることによって本当のことが分からなく、あるいは分かった気になるようになりました。この分けるという手法は、分断の手法です。本来、和合したものを分けて理解する。しかし分けたものは元に戻りません。なぜならそもそも分かれていないものを分けているからです。そのことで、人類は争い続け、お互いを認め合えず尊重できず苦しみや憎しみが増えていきました。

例えば、ご縁というものも分かれていたり切れるものではありません。最初から永遠に結ばれ続けていてあらゆるご縁の導きによって今の私たちは生きています。つまり最初から分かれているものはこの世には存在しないのです。それを仏教では、羅網という道具で示したりもします。私はそれをブロックチェーンや自律分散の仕組みで示します。

私がこの聴すという言葉に最初に出会ったのは、高田山にある親鸞さんの手帳のメモ書きです。そこには、「しんじてきく、ゆるされてきく」と書かれていました。

これは何をいうものなのか、全身全霊に衝撃を受け感動し、そこから「聴」というのを真摯に深め続けて今があります。この聴は、聞くとは違います。徳に耳があります。よく自然や天や自分の内面の深い声を聴くことを意味します。

人類が平和になるには、聴くことです。聴けばほとんどのことは自然に解決します。何かきっと自分にもわからない深い理由があると心で認めるとき、お互いを深く尊重しあうことができます。それが「聴す」なのです。

私の故郷にある聴福庵には、その聴で溢れています。そして徳積堂では、その聴福人の実践、一円対話を場で実現しています。

百聞は一見に如かずです。真剣に対話に興味のある仲間は訪ねてほしいと思います。

最後に、「聴福人とは聴くことは福であり、それが人である」という意味です。

子どもたちがこの先もずっと人になり幸福を味わいゆるされていることに感謝して道を歩んでいける人生を歩んでいけることを祈ります。

人間らしさと人間性

スリランカから帰国して少しずつ道中の振り返りをしています。頭で理解するよりも体験から気づいた量が多いとそれを消化吸収していくのに時間がかかります。身体で得た感覚は、思想だけでなく価値観も変化させていきます。自分の変化が気づきそのものですから、何が変化したのかを振り返ると何に気づいたのかがはっきりするのです。

そもそも今回の旅は、ルーツを辿る旅でした。原初の仏陀をはじめ、神話からの人類の伝承を確認するためのものでした。その理由は、原点回帰をするためであったことと、温故知新してあらゆる複雑なものをシンプルにして甦生させていくためです。

徳積の起源であったり、暮らしの根源であったり、普遍的な大道の再確認であったり、そして新たな遊行の一歩を踏み出すことであったりと理由は様々でしたがそのどれもが存在している懐かしい旅でした。

原初の存在とは何か、それは人間らしさです。別の言い方だと人間性ともいいます。もっと言えば、人間とは何かということです。

今の人類は、人間らしさを失っているように思います。人間性というものもまた意識することはありません。しかし、今こそ私たちは徳に回帰し人間性を回復させる大切な時節を迎える必要があるのではないかと私は思います。

ワニアレットの長老をはじめ、スリランカでは人間性の美しい風景をたくさん見ることができました。そこには確かな人間らしい暮らしがあり、そして人間らしい生き方がありました。

お金やビジネス、富の独占や情報化、便利化など人間性を失うリスクに直面してももはやそんなことをどうでもいいかのように日常に多忙に流されていきます。私は決して文明の発明は悪だとは思っていません。しかしそのことにより人間らしさや人間性を喪失することは、真の豊かさや仕合せを手放す結果につながっているようにも感じるのです。

人間はこの地球に生きることを許され、自然と共に寄り添いながら一緒に天寿を全うする仕合せをいただいている存在です。この奇跡はなにものにも代えがたく、人間であることが最幸の歓びです。

人間が人間らしくあるとは一体どういうことか。それは人間が人間性を失わずに生きているということです。人間が人間性を失えば、それは生きた屍であり、希望をうしなった人形のようなものになります。人間らしさや人間性は、私たちがこの世に「生きている」という証明であり実感です。

生きている実感は、日々の暮らしや徳を積む中に存在します。だからこそ、私たちは文明とのバランスを真摯に保ち、人間らしさや人間性を失わないような生き方をこの時代でも実践していくことが平和や共生や自然との循環を保つ最大で最高の唯一の方法になるのでしょう。

私たちが今生きているように子どもたちも未来を生きます。その子どもたちがいつまでもこの世の幸福を謳歌できるように、今の私たちがどのような生き方を実践していくのかは方向性を決める最も大切な真理です。

人間らしさ、人間性をどう磨いていくか、それは私たちが決めます。

これから引き続き暮らしフルネスを通して真心の丁寧な暮らしを積み重ね、徳が循環するような布施と托鉢の遊行をさらに巡礼していきます。

一期一会の仏縁と地縁に感謝して、私の天寿を全うしていきたいと思います。

真の暮らし

スリランカの先住民たちとのご縁から原初の人類の暮らしを見つめています。もともとスリランカは、暮らしの中に紀元前からの智慧が今も生きている国です。アーユルヴェーダなどにもそれを発見できます。特に先住民、ワニヤレットの人たちは自然に寄り添い、自然と生きてきました。そこに流れている時間は悠久で静か、祈祷や行事を大切にしています。

昨日は、野生の像がいるような原生林を歩きました。また食事や骨折の治療をしているところも体験しました。ここ数十年で劇的に生活が尊重されなくなってきた現代でも、大切なことを守り穏やかに暮らしていました。

この場所にいて実感したのは、先住民たちがもしも地球からすべて滅んだときこそ現代の人類が滅ぶときだろうということです。そこに氣づくためにも、私たちはこの原初の先住民の方々から真摯に學び、人間らしさとは何か、真の暮らしとは何かということを見直す必要を感じます。

世界中で起きている先住民族は、ずっと先祖から続いてきた当たり前の自由、当たり前の生活が現代文明に奪われできなくなっています。それは土地を失ったり、木を切られたり、外からの移住者を入れたり、知識や便利な道具を整備することで奪われていきます。

文明人が与えたことは、実はそれは奪っていることになっているということに氣づく必要があります。これは自然を尊重することに似ています。何もしないというのは、ただ見放しているのではなく見守っているという考え方です。

私たち現代文明人たちの価値観は、便利さを優先します。便利は幸福、不便は不幸だと刷り込まれます。そうすると、不便な暮らしをしている人をかわいそうだと思い便利な道具をどんどん渡します。しかし、その便利な道具にはそれ相応の危険性をはらんでいます。これは戦争の武器も同じことです。簡単に人を殺せる道具が、倫理観を失わせ戦うということの仁義礼智信なども奪いただの大量虐殺兵器になりました。

私が暮らしフルネスを提唱するのは、これらの理由からです。

便利さが新しいと思うのは大変危険なことです。だからといい不便だけが正解で善でもありません。だからこそむかしの人たちは、便不便のバランスをきちんと取りました。人類は、ここにきて一つ次元を超えていけるかどうかが試されます。そのためには現代の価値観をよく見詰め直し、本来の人間らしさとは何かからよく見直し実践しすることかもしれません。自然と寄り添う中にこそ、真の人間性は発揮されるからです。

最後にワニヤレット長老からの言葉で締めくくります。

「現代は何らかの社會に所属して競争を続けている物質化された世界になっている。人間性の本質を見失っている。自然はいつも人々に寄り添ってくださっている。自然の驚異や猛威は人間らしさを失うことへの警告でもある。もしこの先も自然に寄り添わず、お金ばかりで競争を続けて人間らしさを見失うなら必ずいつかは死に絶えることになる。それに氣づいて、それをやめることです」

現地語とシンハラ語、英語と通訳を介した関係で多少の意訳や私の認識も入っているかもしれませんがこの数日間で現地に滞在し場で味わい沁みこんだ言葉でした。

陰極まって陽になる、そろそろ一陽来復です。

これからまた新たな挑戦をしていきたいと思います。

人類の大先達

スリランカのヴェッダ族のことを深めていると、驚くことが次々と出てきます。このヴェッダ族は人類の起源にまで遡るほどの歴史を持っている奇跡の民族です。ヴェッダ族に触れることは、人類の起源に触れることにもなります。人類のルーツが何か、これは私は保育の仕事に取り組んできたからこそずっと追い求めていたテーマの一つでした。今回の訪問では、これからの未来の子孫たちの行く末のためにも人類の深淵に出会ってきたいと思います。

もともとこのヴェッダ族は、古代、中石器時代に生きた最古の人類であるバランゴダ人 (ホモ・サピエンス・バランゴデンシス)の直系だといわれます。これはスリランカの大多数のシンハラ人とは異なります。洞窟の遺跡から発見されたバランゴダマンは少なくても紀元前 38,000 年前には定住していたともいわれます。別の科学者によれば、50万年紀元前からこのスリランカの地にいたともいわています。

人類の原初の暮らしを今でも持続し保ち続ける奇跡の民族、このヴェッダ族は地球と共生してきた人類の原型です。今でも狩猟採集民としてスリランカの森や自然環境と密接に結びついた暮らしを続けています。

もともとこのヴェッダという言葉の語源は、ウェッダー(Vedda)です。弓矢を持った狩人を意味するサンスクリット語の「ヴィヤダ」に由来します。実際のヴェッダ族は自らを「ワンニヤレット(Wanniyalaeto)」(森の民)と自称します。

日本の古神道の杜と同様に自然崇拝で、あらゆる自然の叡智と共に場を守り暮らします。自然や森の精霊を尊び、いのちの循環する宇宙の真理と共に生きます。私たちが文字や映像などで見聞きした何よりも神聖な空間と結界を守り続けて今でも真実を生きています。

私たち現代の人類は、あらゆる欲望の成れの果てに今の人類のみの世の中を好き放題に席巻してきました。もはや教えというものも何が正しくて間違っているのかも、あらゆる宗教派閥紛争や権利権力の集中や歪んだ知識の上書きの連続でもはや原型すらとどめていません。時折、自然災害に遭遇し目覚めるかと思えばまた同じことの繰り返し、人類は歴史から学びません。

しかし現代のようにいよいよ人類の成熟期で文明の末期症状が出ているからこそ、私たちは原点回帰し今一度、真実に目覚める必要があるのではないかと私は感じます。その真実は、誰かの専門家や権威の知識ではなく、大多数が信じる何かではなく、説得力のある本質的な正論でも教えでも記録でもなく、「真実を生きてきた人たちの背中」から學び直すことだと思います。

人類は、過去に何度も滅びそうな目にあってもいざという時のために種を遺してきたから今も持続しているともいえます。種は改良してどうしようもないほどに改悪されても、もしも最初の種が残ってあればそこからちゃんと生まれ変わり甦生することができるのです。

その種とは単なるDNA的なものではなく、意識や精神、生き方や暮らし方などを保つ人々の生活様式などが統合された今も遺り生きる人々の叡智のことです。

私は暮らしを変え場を創ることで、人類は変わると信じている一人の人間でもありますが暮らしの根源を持つ人たちはまさに私にとって人類の大先達です。

大先達から人類とは何かを真摯に學び直し、子どもたちのために真実の道を結んでいきたいと思います。

地域の宝徳

昨日は早朝より庄内中学校の有志の生徒たちが100人以上が集まり飯塚市の桜の名所の一つでもある鳥羽池周辺の清掃とゴミ拾いを行いました。地域代表としてお手伝いに参加してからもう3年目になります。最初は生徒会で実験的に取り組んでみて、その後は部活動の生徒たちが参加し、今では全校生徒で有志が集めいつも100人以上の参加するほどになりました。

庄内中学校は、校内にあるメタセコイヤの大木にイルミネーションをつけて地域を明るくする活動や、その資金調達にクラウドファウンディングに取り組むなど、実社会に基づいた社会への参画を色々と挑戦しています。またブロックチェーンの講義を受けたり、コロナ後の地域のお祭りに新たに積極的に参加したりとこの数年は特に目覚ましい活躍です。学校行事も次々と生徒が主体的に自由に取り組んでいるのが拝見でき、素晴らしい教育と大勢の見守りのある学校だと改めて母校の変化に感銘を受けました。

この鳥羽池の清掃では、初年度のゴミは恐ろしいほどの量で粗大ゴミや産業ゴミなどとても中学生の手におえないほどのものが出てきました。池の水が少なくなるこの冬の時期に誰かが捨てたものが池の中から出てきます。この場所は、夜は住宅が少なく人目につかないからと捨てに来る人がいるのでしょう。それを真摯に靴も泥だらけになり汗をかいて拾っている子どもたちの姿を見たら捨てられるはずはありません。

またゴミのほとんどを分別すると、ビールやコーヒー、ジュースの空き缶とペットボトル、それにお菓子や弁当などの袋、プラスチックや発泡スチロール、それに釣り道具などです。自然には容易に分解されないゴミばかりが池の周辺や池の中に大量に出てきます。同じ場所に吸い殻や同じ空き缶があるところは、同じ人がそこで捨てているのかもしれません。

この取り組んでから3年間、毎日散歩している人が拾ったり、ゴミ箱を設置してあってもゴミは1年に1度、生徒たちで清掃すると同じくらいの量が出てきます。しかもゴミ袋30袋以上の大量のごみです。これは一体なぜでしょうか。

一つには金融構造や欲望優先の消費経済、他にもシチズンシップや家庭教育の問題などいろいろとあるでしょう。以前、ゴミ処理場を運営している経営者にゴミ処理場を経営したら日本という国がどういう国かがよくわかると教えていただいたことがあります。ゴミの処分の仕方、ゴミに対する政策の内容、そしてゴミの種類や捨て方などにすべてが日本という国のありのままの姿が出ているからというのです。

以前、イエローハットで掃除道で有名な鍵山秀三郎氏から「足元のゴミ一つ拾えない人間に、何ができましょうか」という言葉を聴いたことがあります。そして著書でこう続きます。「『ひとつ拾えば、ひとつだけきれいになる』私の信念を込めた言葉です。ゴミを拾っていて感じることは、ゴミを捨てる人は捨てる一方。まず、拾うことはしないということです。反対に、拾う人は無神経に捨てることもしません。この差は年月がたてばたつほど大きな差となって表れてきます。人生はすべてこうしたことの積み重ねですから、ゴミひとつといえども小さなことではありません。」と。

これは徳を積むことも同じです。地域の代表として私からはみんなに「コツはコツコツ」の話をしました。コツは一つだけではなく、継続しコツコツとなることで非凡になると。ゴミ拾いというのは、継続と凡事徹底を學ぶ智慧にもなり、徳を磨き、己の心を育てるための素晴らしい教育になるということです。これは私の徳積財団の活動や丁寧な暮らしや社業の実践でいつも話していることです。

私がこれを改めて皆さんに発信したいと思ったのは地域の人たちに庄内中学校の生徒たちが真摯にキラキラと心を磨きお掃除をする姿を伝えていきたいと思ったからです。地域を守ることは、一人一人がコツコツと心をみんなで磨いていくことだと私は思います。

日本人は元々、来た時よりも美しくという精神を持っていて世界では試合後のゴミ掃除の姿がとても尊敬されています。正々堂々として清らかであろうと、荒んだ心を調えて和を尊ぶ国民性がある人たちといわれます。

都会に出て地域に子どもが少ないとか人口減少で過疎化しているとか不平不満ばかり並べる前に、凡事徹底して地域の宝や徳を磨き、それを未来へと大切に見守っていけるような日本人でありたいと思います。

 

お手入れの功徳

日本には古来から穢れという概念があります。これは別の書き方で氣枯れともいいます。元氣が枯れていくということで元氣がなくなるということでしょう。元氣というものは、どういうときに失われていくのか。それを一つ一つ見つめていると、わかりやすいものに病気というものがあります。病は気からという言葉もありますが、気が枯れることで病気になっているとも言えます。

そもそもこの病気の定義は、身体の病気、心の病気、精神の病気、あるいは環境の病気、場の病気、あらゆるところに病気はあります。その一つ一つを取り除いていくことが、穢れを祓うことであり、清めていくということになります。

この清めるというものは、どのようなものか。それは私たちは日常の中ですぐに感覚として理解できるものがあります。これは掃除です。掃除は、あらゆるものを祓い清めてくれます。先ほどの身体も心も、精神も場も清められます。私たち日本人が、清々しさを大切にするのは古来より気枯れを予防するような生き方をしてきたからです。

気枯れは、例えば不安、心配、恐怖、また苦痛や執着、猜疑心や嫉妬などあらゆる悩みからも発生します。また水が澱み、風通しがわるいときも発生します。他には、ゴミのように使わなくなったものが増え、消費や浪費が多いところにも発生します。不平不満をもって文句を言えばすぐに発生するものです。

人間は生きていれば、知らず知らずのうちにこれらの感情に呑み込まれていきます。特に現代のようなお金を優先にして比較されたり差別されるような格差環境では気枯れは容易に発生します。

だからこそ主体的にそれを乗り越えていくような祓い清めが必要になります。つまり気枯れではなく、「元氣」になるように生き方や心の持ち方を換えていく実践が必要になります。

心の世界は、心の世界で禍を転じて福にするために感謝や徳を積むという実践があります。精神の世界では、全てをお任せで安心の境地に入る実践があったり、身体の健康ではちゃんと真に元氣があるものを食べるような医食同源の実践があります。

しかしこれらを全部ひっくるめてやっぱり最も効果があるものは何かと突き詰めれば「掃除の実践」であるのは間違いありません。掃除は私はお手入れともいいますが、お手入れをして穢れを祓い清めるのです。

日々の小さな実践でもっとも効果があるのはこのお手入れの功徳です。丁寧な暮らしを通して、子どもたちと一緒にお手入れの功徳を積んでいきたいと思います。

言葉の意味

日本語というものをはじめすべての言葉には、その意味の中に時代の価値観を織り込んでいるものです。時代が変われば同じ言葉でも意味がまったく異なります。つまりそれは人間がその道具をどのように使うかで意味が変わるからです。

例えば、自然という言葉でも今の人がいう都会や人工的なものがあることが前提で語っていますが、数千年以上前の生活をしていた人たちが使うかつての自然とは意味が違います。特に近代に入り、言葉は軽くなり様々な言葉を一部の人たちによって操作捏造され定義を変えられてきました。今ではメディアが一斉に言葉を簡単に情報によって変えてしまいます。価値観も認識の変容も言葉から行われます。

そして無意識に知らず知らずに教え込まれ使っているうちに、私たちは本来のその言葉の意味や語源などを立ち止まり深く考えることがなくなりました。まさにこれを言葉を通した意識の洗脳と呼ぶ人もいるかもしれません。私たち生き物は最初からあった環境に刷り込まれますから、言葉も当然、その意味で使っている周囲の大人たちが3人以上で教え込めばもはや誤認しているかも気づかなくなるものです。

私は元々どうだったかを知りたがるオタクですから、言葉はよく調べます。実際に語源やルーツはどうだったのか、どのような変遷で今の言葉になっているのか、そして世の中ではどのように使われているのか、あるいはその使われ方から誰がそれをそうさせているのかなどを研究します。これは元々を知りたい欲求から来ているので、何かの勢力や洗脳することにまったく反対は興味はないのですが知れば知るほど非道なことが行われていることを感じます。

経済という言葉などはその最たるものです。そして経済成長などという言葉もだいぶおかしなことになっています。何を経済と定義するかでその意味が変わります。現在の経済はお金のことをいいます。そして経済成長となると、お金がどれだけ増えたかということです。つまり経済=お金ということです。

そうなってくると、経済がつく熟語はすべてお金の熟語ということになります。しかし実際の経済という言葉は、経世済民という語源があり、西洋のeconomyも家を運営する仕組みという語源です。お金のことなどは一切述べているものはありません。

つまり本来の経済とは、全体最適でありすべてのいのちの幸福を実現する言葉であり、単なるお金を増やすことだけを語るものではないということです。

経済界となると、お金界ということになります。確かに、経済界の集まりに出るとお金の話ばかりです。本来は、徳の循環を話をしあうのが本当の経済界だと私は思いますがそういう人があまり出てきません。お金をどう稼ぐのか、お金のことばかりでほとんどの時間を費やします。それで経済活動というのです。

経済活動とは、本来は徳が循環する活動だと私は思います。これはすべてのいのちが輝くような活動であり、全ての徳を活かすような活動です。先人たちは、縄文時代よりももっとずっと前からお金が発明されるよりも先に経済活動をしてきました。それは暮らしを洞察し研究してみるとよくわかります。

私が伝承している暮らしの中は、そのほとんどがかつての懐かしい経済活動です。お金はそんなに多くはありませんが、ちゃんと徳が循環するように流れています。まるで英彦山の宿坊の傍にあるせせらぎが流れ続けるように、私の経済活動もそれを参考にしながら続けています。

このせせらぎのような経済活動も私は立派な経済活動だと自画自賛しています。いつかはこれが大河になり海に辿り着く理想を志して取り組んでいくだけのことです。

耳にする言葉、話し合う言葉、そして使う言葉に気を付けながら本当の意味に回帰させることも自立の大切な要素です。子どもたちや子孫のためにも丁寧な暮らしを紡いでいきたいと思います。

保育と教育のお仕事

私は保育や教育のお仕事に取り組んできましたが、具体的に保育園や幼稚園を運営したわけではありません。また保育士や教諭の免許があるわけでもありません。しかし子どもは4人ほど育て、社員をはじめ多くの人たちの成長に関わることができました。

実際にお仕事はでは保育や教育のアドバイスやコンサルティンをする機会がたくさん得られ、子どもの発達を見守るソフトウェアの開発をしたり、育つ場を創造するためのツールや仕組みなどもたくさん手掛けてきました。これはどこに原点があるのかを見つめてみると、もちろんメンターがいて恩師があり保育道や見守るメソッドとの出会いが大きいのですが、同時に自然農といった実践によるものが大きいことが分かってきました。

そもそも野菜をはじめあらゆる植物や木々は種から成長します。人間も同様に最初は赤ちゃんからはじまります。

本来、教育という言葉はエデュケーションですが、これはエデュカーレという言葉が語源で引き出すということです。何を引き出すか、それは種から元々持っている力を引き出していくということです。種に教え込んだり押し付けたり、余計なものを刷り込んだりすることが教育ではないことがわかります。また保育というは、育つを保つと書きます。これは自発的に育つのを見守るという意味です。無理やり育てたり、同じ成長をするように型にはめ込んだりするものではありません。

しかし実際の教育や保育現場にいくと、引き出すことや育つことを無視したやり方を今でも続けているところが多数があります。これは農業でも同じことが言えます。

例えば、自然農だと余計なことはせず種を蒔いたらその種が育つように環境を調えていきます。種が育つのを見守りながら最適な距離で適切な環境を用意していきます。種の育つのをよく観察して場を調えていくのです。これが慣行農法だと、農薬をはじめ肥料を蒔き、無理やり人間の都合に合わせて栽培していきます。そして同じ野菜になるように種までも遺伝子組み換えなどまでして改良していきます。

前者の自然農は種の発達や成長を保障しその喜びや仕合せを優先するという考え方で行われ、後者の慣行農法は野菜の喜びや仕合せなどはある程度無視しても自分たちの都合のよい考え方で行おうとします。

教育や保育であれば、子どもの仕合せを最優先にするのか。あるいはそれは多少無視しても大人の都合に合わせていくのかという話になります。もちろん、野生児で縄文時代のような時代ではありませんから現代に合わせて環境は変わり教育や保育も変わっていきます。しかしその中心や根源を、種が自ら育つことを見守り、その種の生命を引き出すということにしているのか。あるいはそうではないかというのは大きな違いになっているように思います。それは見守っていく環境にも影響が出ます。

私たちは自然の姿をまず知って、自然がどうあるのかを学び、そのあとに自分たちはどこまで何をするのかを決めることが大切なように私は思います。つまり、そのものの種が自然に育つ喜びや仕合せをどう保障し、そのうえで如何にこの時代に適応していくかのバランスを調和していくのです。

保育や教育のお仕事は、そういう意味で自然や人々が和合していく幸福な社會の創造に関われ、自らのいのちを傾けるのに相応しい重要なものです。有難いご縁や学びに感謝しながら学び直していきたいと思います。