拝む実践

先日、ある方から「拝む」ことについてのお話をお伺いすることがありました。人がなぜ拝むのかという問いのことです。その方は、拝むのは拝まれているからこそ拝むのだということです。

挨拶なども近いものがありますが、相手が挨拶をするから挨拶をします。相手が挨拶をしていないと思っていても、こちらが挨拶をしていると思えば挨拶をするものです。これはすべて相手が先に自分に対して挨拶をしてくださっていると思うと挨拶を先にするのは特段おかしなことではありません。

拝むというのは、その方が仰るにはご先祖様をはじめ、多くの方々があなたのために拝んでくださっているということ。その思いに対してもったいないと思うからこそ拝むのだといいます。

そこから、少し振り返ってみて一体誰が自分を拝んでいるのだろうかと思い出すとまず祖母のことが浮かんできます。祖母はいつも家族のこと、孫のことを神仏に拝んでいました。毎朝、毎晩、事あるごとに拝んでいたように思います。そして今度は、母です。母も気が付くと、祖母の後をついでいつも神仏に拝んでいます。きっと同じように家族のこと、孫のことを拝んでいます。

よく考えてみたら、ずっと誰かに拝まれてきた記憶があります。それがご先祖様であったり、家族であったり、友人、仲間たち、そしてご縁の結ばれている方々などが瞼の裏に映ります。そして、もう一つ、頭では考えられませんがずっと以前に先祖たちが結ばれた人たちがお互いに助け合い救い合い、恩返しや恩送りをしながら拝んでいる姿が想像できます。いつかこの御恩をお返ししますと誓い合った絆や徳、感謝の循環が今の私にも降り注いでいます。

そういう人たちが天国や別の次元からいつまでも拝んでくださっていると感じるのです。偉大な経糸と、現在に直観する横糸、それが網の目のように網羅されて今の私がその一つとして存在しています。それは拝むことに由って結び目が光り、拝み合う力によって繋がっていることに気づくのです。

手を合わせて拝むことは、拝んでくださっている方々へ向けての大切な感謝のご挨拶なのかもしれません。

大事なことを忘れないよう、当たり前ではない有難いことに気づけるよう、いつも真心で拝む実践を続けていきたいと思います。

ご縁を活かす

人の出会いや繋がりには必然性があるものです。これはよく考えてみると、連続しているからにほかなりません。一つの出会いは途切れているのではなく、ずっと今もつながっています。それが節目節目に何かの形でご縁を実感できているということだけです。

つまりご縁というのはすべてご縁というものであることがわかります。天網恢恢疎にして漏らさずという言葉があります。この世は網の目のようになっていて、その網の目の中で私たちは結ばれて生きています。

これが一人一人の自意識が自我によって自分というものを分けて世界を認識していますが、実際には偉大な意識の中で常にご縁と共に存在しているということになります。

この存在という意味を深めてみると、すべてのこの世に目に見えるものは勿論のこと、目に見えないものにいたるものもご縁のむすびのなかにあります。誰かが作ったもの、もともとそこにあったもの、存在というのはまるごとあります。

その意味を深めて、そのご縁をどのように結びなおすのかというところにご縁を活かす妙味があるように私は思えるのです。

ご縁を活かすというのは、悠久の関わりや結びつきを時代時代にどのようにほどいて結びなおすかということです。それは着物の糸をほどいてもう一度反物をつくり別の着物にするように、私でいえば古民家や古材をどのようにいのちをつなぎあわせて甦生していくかに似ています。

別のものを組み合わせているのではなく、ご縁を活かすということです。

先祖のつながりなども、前世のつながりなども目には観えません。しかし、ご縁をよく味わっているとこれはきっと先祖から今までそしてこれからのためのご縁であることに気付きます。

全て繋がっていると思って生きている人は、どのようなご縁であってもこの先にどのように変化していくのかが直感します。どういうご縁であっても、自分自身がご縁を大切に生きていくことが大切であり一期一会であることに集中することがそのご縁を生きる実践になります。

子どもたちにも素晴らしいご縁が結ばれていくように一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。

教育の醍醐味

昨日、かつてある高校で3年間一円対話を実践し指導してきた生徒に改めて一円対話の意味を説明する機会がありました。これは卒業論文の研究テーマを一円対話にしてくれたことからのキッカケです。関わったのは7年も前になりますが、それがいつまでも心に残りこのように自分が教員になっても大切にしたいと思ってくれていることに有難い想いになりました。

教育の面白さは、見返りのないこと、そして長い年月をかけて醸成されそれによって世の中がさらに善くなっていくことです。私も保育に深く関わってきましたが、創業して21年になりますから最初に関わってきた園児たちは間接的にももう20歳を過ぎています。

思い出すと、あの頃も今も変わらずに未来へ希望を持ち、子どもたちがこの先の人生を真に豊かに幸福になってほしいと祈りながら取り組んでいることは同じです。有難い人生を戴いたことに改めて深く感謝しています。

取材の方は、そもそもなぜ一円対話をはじめたのかというものでした。

改めて、ヤヌシュコルチャックのこと、二宮尊徳のこと、良寛さんや親鸞さん、吉田松陰や郷中教育など自分に影響を与えたことを整理して話をしていると私も初心を思い出すいい機会になりました。

世界が戦乱になってからの対処療法ではなく、未然に如何に防ぐのか。未病のうちにいかに健康を維持するのか、そのために教育が大切であることを改めて説きました。そして今のように伝統文化のこと、伝承のこと、知恵のこと。先人への感謝と供養、そして子孫たちへつないでいくことの本当の意味なども話をしました。

今の世界の社会が今のようになったのは、ここ数十年の教育がどうだったかを証明するものです。そして今さに今、よく洞察し反省したことを如何にこの先の数十年に活かしていくのか。悠久の歴史の中で、教育は循環し反省と改善を繰り返していきます。

人類は、何度も似たような歴史を体験し同じ状況に陥ります。現在のような人口が増えた時代はここ数千年でははじめてですし、現代文明の石油や金融をはじめとした科学技術も軍事技術も進んだのもはじめてです。

しかし人間の本質は変わったわけではありません。

この短い一生で果たして何ができるだろうか、それを思う時、私はやはり徳や教育の方に深い意味を見出していきます。今だけ、金だけ、自分だけというような歪んだ個人主義や権力権威主義といわれていますが人類は本当は今生きていられるのは、先人たちの苦労や努力、いのりがあってこそです。

大切なことを忘れず、常に初心をお手入れし日々の暮らしから改善していきたいと思います。

いのちの養生

昨日は、堀池高菜の漬け直しを行いました。春先に漬け込んだものをこの時期に漬け直せば来春までまた漬かります。長いものでは9年目に入ったものがあり、3年目や今年のものもあります。長い時間をかけて漬け続けるにはコツがあります。

私はもともとこの堀池高菜は、供養のために続けています。採算度外視で儲けるためにやっているわけではありまんから唯一無二のものです。

例えば、30年以上農薬も肥料の入れない畑で自然農で行いこの地域にしかない伝統固定種の種のみでつくります。樽は吉野杉で塩も平窯天日塩、また天然秋ウコン、蓋は楮の和紙で閉じています。そして発酵場は林の日陰の風通しの良い場所で備長炭と共に寝かせ続けます。

こんな環境の中で育っていますから菌もイキイキしています。はじめて3年目くらいまでは腐敗することがありましたが今ではほとんどそれもありません。手塩にかけて塩梅をみながら丁寧に関わっていく。ずっと生きているものとして関わりますから大切に一緒に育っている家族のようなものです。

現代は、大量生産、大量消費で儲かるためにあらゆる作業を省いて効率優先、合理化優先していきます。すべては売り物、そして買い物にするために加工するのです。

私は加工することは儲かるためだとは思っていません。加工するのは、大切に扱うためのプロセスだと思っているのです。私が手掛けるこの堀池高菜は生産、加工という名の家族と共に暮らす豊かで仕合せな営みなのです。

その営みのなかで出来上がったものだからこそ、舌先三寸では味わえない深い滋味があります。その滋味を感じていただける人たちからは、本当に喜ばれ、運がよくなりそうだと感動されます。

この場所、この土地ならではの風味は風土がつくります。

そしてその風土で育ち、風味をわかる人だからこそ滋味が出せるのです。身土不二という言葉もあります。これは『体と土とは一つである』という意味です。私たちは土を食べる化け物ですからその土地の味はその土の味でもあります。

今では遠くの食べ物をどこでも便利に食べれるようになりました。しかし本来、食事というのは食養であり大切ないのちの養生の根源です。

だからこそこの土地に来て、この土地で自然に食べてもらうことこそがその土地のいのちを味わうことになります。

私がやっていることは、今の資本主義社会でやっている儲けるための食事とは異なるものになります。だからこそ儲からないし売れないし売らないのでは誤解され、道楽や趣味のようにいわれます。しかし本来、伝統文化や伝承というものはそのためにやっているのではなく、先祖代々、豊かに暮らし仕合せにいきる知恵を自分も同様に生きているということを守っているだけです。

子どもたちや次世代、子孫へ知恵が伝わり同じような仕合せが繰り返されるように今の時代の価値観に流されずに本質を保ち喜びを楽しむのです。これからますます遣り甲斐も生き甲斐も増えていきますから大切にいのちを養生していきたいと思います。

 

戦争の時代

ロシアとウクライナの戦争がさらに進行しています。世界を巻き込んだ戦争、第3次世界大戦はすでにはじまっています。もともと第一次、第二次世界大戦のときもやっている最中はそういう意識ではなく終わってみてあれは世界大戦だったとなっていたのです。

どの国が先に本気で火ぶたを切るのか、これはもはやロシアであることは間違いないことです。もう随分長い間、平和が続き私たちも戦争の記憶がなくなった人たちばかりです。まさか自分が戦争に巻き込まれるはずはないと考えるものですが、実際にはみんなそのまさかで巻き込まれます。

自分だけはみんな巻き込まれないはずと安全バイアスが働きますが実際には全体を巻き込んでいますから他人事ではありません。

昨日もニュースで、ロシアで召集令状が出され一日にして大勢の人たちが戦地に輸送されていきました。家族、恋人や妻子と別れていく様子は映像をみていて心が酷く傷みました。行きたくない戦争、政治的に行われた戦争に強制的に参加させる。参加しなければ刑務所で刑期10年といいます。この刑期も果たしてどのような刑期なのか、無理やり理由をつけては戦地に送り出されることも予想できます。すでに、10万人ほどのロシアの兵隊も死者がでていて戦況は悪くなるばかり。それでも諦めずに兵隊を送り続けてあとどれくらいの人が死ねば戦争をやめようとするのか。為政者によって戦争が行われるというのは歴史の事実であり時代が変わっても何も変わりません。

戦争の歴史を深めると、その理由はほとんどが為政者の都合です。皇帝といわれるような独裁者が権力を握りしめ独断で行うもの、あるいは内部が腐った組織、その民衆の依存した既得権益者たちの操り人形のような組織、他には集団的無責任で保身だけにひたすら走る組織、キリがありませんが発端は思考停止になっているところからはじまります。もっとシンプルにいえば「まともではない」状態に意識が入っているのです。

戦争をしている当事者、もしくは巻き込まれた人たちは保身がちらつきますから身の危険を感じてまともではなくなります。安心安全なところにいる人からすれば、そんなことはないだろうと思いますがまともではない人たちになっているのだからそんな理屈は通じません。気が付いたら巻き込まれているのです。

召集令状一つにしても、明治頃は市役所が赤紙といってそれを自宅にもって「おめでとうございます」とあいさつに来ます。それを受けて逃げれば家族全員が非国民として差別され、受けたら家に旗をたてて英雄と称えられます。もはやこれだけでもまともではありませんが、戦争とはそういうことです。ロシアでは、選択肢は戦争で罪のない人を殺すか、あるいは刑務所に入るか、もしくは海外逃亡しかありません。他にはいつも時代も同じですが、政治力や資金力、コネや賄賂などを渡して戦争でも死なないような職種や配属をさせたり、兵役を逃れられるように話をつける人たちが逃げられることです。実際に政治の中枢にいる家族や子どもは守られるという構図です。

人間はいつの時代も似たようなことを繰り返します。権力や権威は何のためにあるのか、本来は人々の生活を守るためにあるものが権力闘争や利権に巻き込まれ結果、大勢の人が悲惨な戦争に巻き込まれます。

そうならないように本来は、教育があり人間学があり道徳を習慣にする文化があったはずです。今思い返せば、世界経済が破綻寸前まで紙幣を発行し、感染症で人々のつながりが分断され、自然災害が追い打ちをかけ、大国間の戦争が発生する。もはや歴史通りであり、シナリオそのままです。

この先、どう生きるのか。

失敗から何も学ばない人間だとしても、失敗を未然に防ぐためにできることはあるはずです。それは現代のように情報で世界がすぐにつながるのだから、一人一人の意識と行動が変革を促すはずです。

私がDAOや徳循環、ブロックチェーンのテクノジーに可能性を見出すのもその部分です。気づいていないのだから、気づいた人が草莽崛起することしか今はありません。

残りの後半の人生、今まで学んだことを活かし、やるべきこと、使命を果たしていきたいと思います。

お手入れと対話

昨日は、秋晴れの気持ちいい天気のなか畑のお手入れを行いました。土に直接触ることで、土の状態はよくわかります。美しい畑に憧れてから、食べるだけでなく畑に入ることで心身がととのっていきます。私たちは自然に触れて自然から学ぶことで地球と対話していくことができます。

この地球との対話というのは、あらゆる五感の感覚を使うことですが私は暮らしフルネスを実践していますから手の感覚をとても大切にします。この手は、手触りというものです。手で触れるというのは、私たちが原始時代からずっと大切にしてきた感覚です。

もちろん耳も眼も鼻もありますが、手は対話につながります。最初に握手をするという文化もまた、手触りで心を伝え合う仕組みを用いています。最近は、量子力学で眼もまたお見合いするなかで触れ合うことができるともいわれます。花を見て心が触るように目でもいのちの存在に気づきます。しかしやはり、お手入れすることが私は人間に与えられた大きな力であるように思うのです。

自分の手を使って何に用いるか。

ある人はいのちを守り、ある人はいのちを奪います。それも全部手で行います。手作業というものは、温かみがあると今ではよく言われます。その反対が、機械で手が入っていない冷たいものとも。手を入れるというのは、人間の心が手から通して物質に宿るという仕組みがあるように思います。

便利になって、頭で考えたことがそのままデータとして転送されたり指示されたりする近未来も予測できます。そうやって手を使うことをやめていくのが便利さというものです。しかし大事なことを失います。それは自然や地球からまた遠ざかっていくということです。

人類は不思議ですが、心の本体やいのちの正体である自然やいのち、地球からすぐに離れていこうとします。征服したり縛られたくないと抗ったり、まるで地球から逃れたがっているかのようです。そうやって逃れてみると、やっぱり地球が一番よかったとかなるのでまた可笑しなことをします。

手を使い地球と触れなくなることで私たちは何か大切な感覚を失っていきます。だからこそ私はお手入れの大切さを話し実践をします。掃除も、磨くことも、拭いて綺麗に整えることも手を使うためです。

手を使うことで私たちは自分の心との対話もできます。手は心が直に触れるものであり、自然と対話するための大切な命綱のようなものです。

子どもたちも手で色々なものに触れて心を育てます。どのような存在に触れるのか、できるだけ地球と対話できるような本物を、いつまでも生き続けているいのちのぬくもりを伝承していきたいと思います。

人類のリーダー

世界中で自然災害の猛威が広がっています。自然災害はそれまで人間が当たり前に生活していたことを一瞬にして破壊していきます。洪水、津波、地震、熱波に寒波、ついには隕石などあればどうしようもありません。

人類は目の前に明らかに危険が迫ったときでないと動かないということがインプットされています。時間をかけてゆっくりじっくりということにはあまり危機感がなく、突然来たことに対して対処するようになっています。これは昆虫も似ていて、急に現れると逃げれますがゆっくりやってくると逃げれないのです。

この辺はもう経験と直観で対応するしかないように思います。そういうとき、リーダーといった危機感が強く、大事な局面で大きな災害を予見し集団を救うという存在が出てきます。

本来、政治というものはそういう未来を見据えて危機意識の高い存在が人々の信頼を得て未来へ導いたのでしょう。最近は、政治と金というように既得権益を守るために存在しているようになり文明衰退期の様相です。しかし文明の問題と、この自然災害は関係はありません。むしろ自然災害が発生すればそれまでの文明の構造もパワーバランスもあっという間に崩れていきます。自然災害のリスクの方が、圧倒的にリスクになるのは間違いないことです。

だからこそ人類は本来は、リーダーをどのように選択するかは自然災害に対応できる歴史に精通し、人類の機微をよく理解し、環境に配慮でき、自然と共生する智慧に長けている存在を選んだ方が生き残る確率が高くなるのです。

インディアンの長老や、自然の道理に精通している経験豊富な知恵者などをリーダーにした方が生き残れると思うのです。今の時代は、経験者よりも知識者の方を重宝しそういう人がリーダーになります。しかし実際に事が起きる前、また事が起きたときにその知識では経験を補うことができません。いくらみんなで事実を知っても、知ることと知恵を持つことは全く別物だからです。

知恵を持つためには、知恵を持つための経験が必要になります。経験があるから知恵は維持されていくからです。その知恵を実践しているというのは、危機に備えていくということと同義です。先人たちはなぜ知恵を伝承してきたか、それは体験から得たものを忘れないようにしてくれてきたからです。

子孫として今のような時代、何が本来の人類の進む道かを見極め、子どもたちに生き乗るための知恵を伝承していきたいと思います。

天災ではなく天福

自然の猛威が増しています。台風14号が上陸しましたが、遠くにあっても暴風で激しく家が揺れてあちこち軋む音が聞こえて眠れませんでした。

天災は忘れた頃にやってくるという格言があります。これは常に天災は人間の活動とは別に発生しているもので地震も台風等の自然災害が多い風土である日本では日常的です。

しかし人間の方は、そんなことよりも人間の欲を優先しお金を稼ぐことに意識を奪われ経済活動の方を最優先にしていくうちに自然災害が身近にあることすら忘れてしまうのです。これが本当の災害の正体であり、自然災害よりも人間の災害であることも歴史が証明しています。

まだむかしの方が、自然の身近に住んでいつ災害が来てもいい暮らしをしていましたから災害が来ることを常に意識して人間の災害を気を付けていたように思います。建物も住む場所も、そして常備食も保存食も災害に備えているような生活です。慎ましいけれど、災害に備えて暮らしをととのえていたのです。

それが文明の便利さに酔い、栄耀栄華に浸るうちに自然を征服できると思い込みあっという間に自然の畏敬を忘れていきます。これが人間の中にある性質というものなのでしょう。人間という特性の中にこの災害が組み込まれているということです。

人間の災害といえば、思いつくだけでも身近に様々にあります。

例えば、すぐに誰かのせいにすることだったり、自分の問題として考えなくなったり、目先の事象ばかりに囚われて目的を見失ったり、長いつながりやご恩や感謝を忘れたり、目には見えないものを存外に扱ったり、比較競争、嫉妬、差別やいじめ保身などもあります。

こういうものが本当の災害であり、それが増せば増すほどに自然災害の猛威は増していきます。人間が自然であること、謙虚であることを忘れたとき、本当の災害がやってくるということです。

自然災害は正しく恐れているのなら、避けようとすれば避けられるものです。自然の動物や昆虫、そして植物たちも日ごろから自然と共生して暮らしていますから自然災害は日常の一コマにすぎません。人間のように忘れるということはほとんどないのです。

何をしていたから人間が忘れるというのか。それをよく見つめなければ人間はこの先も自然災害の猛威に晒されます。謙虚さを失う時、私たちは自然に人間の持つ性質を思い知らされるのです。

本来、建ててはならないところに自然を征服できたような建物を立てて、住んではならないところに住んでいます。そして食べてはならないものを食べ、取り過ぎてはならないものをすべて取りつくします。歴史を省みることをやめてただ目先の欲望に流されています。そうして忘れるのです。

天災とは本当は何か、これは天の災いではなく天の恵みであり天の教えで天福であるかもしれません。むかしの人は、天に背いていないかを確認するために伝統文化を見つめてきました。今一度、子どもたちにも天災を忘れた日常や環境を与えるのではなく、人間の性質を自覚して自らを磨くような暮らしを学ぶ場を与えたいと切に思います。

子どもたちが天福をいつも感じられるように、生き方を見つめて見直していきたいと思います。

経営と実践

会社を経営していると、経営者とはこうあるべきという話をあちこちから聞くことがあります。それぞれに経営論はありますが、その一つがプレイヤーかマネージャーかというものがあります。管理するのが経営だから、実際に実行させるのは部下にさせればいいというものです。

私はむかしからいつまでも現場で実行する方が多かったのでこの辺はあらゆる人たちから経営者として他人にやらせた方がいいといわてきました。何でも自分でやるから育たないとか、自分がやるから全体がおろそかになるなどです。

しかし私はもともと初心というものを定め、理念を実践するということを優先した経営を志していますから実践というものをしないことの方が経営効率がいいかどうかよりも問題で決めたことを自分でやらなければ意味がないから実践にこだわっています。

こんなことをやって意味があるのかといわれても、他に大事なことがあるのではないかといわれても他に大事なものもあるけれど実践することがもっとも大事なことだと取り組んできたのです。その結果として、今があります。

例えば、いのりというものがあります。他人にいのってもらっていたらいいというものではありません。いのりは自分で実践してはじめていのりになります。他にも、日々の片づけや掃除、お手入れなども自分でやっていることに意味があります。もちろん、一人ではできないことや日々の仕事があるときなどはどうしても協力者のお手伝いが必要ですがそれもまた実践ですからみんなで一緒に実践して取り組むことに意味があります。

そもそもこの実践というものは、修行でもあり修養でもあり、志を実行するという行為です。それをせずに経営をするというのは、そもそもその志は何だったのかということが疑問になります。

志があるから、道を歩みます。その道を歩むというのは、自分で実践するということに他なりません。自分で実践することなしに道を自分で歩んでいるわけではありません。今は何でもお金で買えます、そして経営者ほどすぐにお金を買おうとします。お金で買って運んでもらおうとしますが、そんな便利な方法で果たして道が実践できるのかということです。

道の実践は、自分で歩んでこそです。

そのためにも、手間暇をかけ、丹精を籠め、面倒だと思うことでも自ら率先して取り組み、時間がかかっても、苦労をしても、自分で決めた志に忠実に誠実に取り組んでいくことが大切なことのように思います。

経営もまた実践の一つですから、自分で決めた道を丁寧に歩み取り組んでいきたいと思います。

便利さの副産物

消費文明の中では、使うことや捨てることがよいことをされています。特に利便性というのは、便利であること。便利は誰にとって都合がいいかということ。それは使う人にとってメリットがあるということです。しかしなんでもそうですが、誰かにとって都合のいいことは誰かにとって都合が悪いことがあります。それが自然でいえば、人間にとって都合のいいことは自然にとっては都合が悪いものです。しかし自然は文句を言いませんから、人間が好き勝手に便利に走っても誰からも非難されることはありません。

つまり非難されず文句を言えない相手なら便利であることは最善とも思うことがあるということです。子どもも同じく、大人の便利に左右されて色々なことに困っています。この逆に不便さというものは悪のようにいわれます。不便というのは、役に立たないことや都合よくないときに使われます。

世の中の不便を解消するためにビジネスを発展させるというのがこの前の時代の価値観でした。しかしよく眺めてみたら、これだけ便利になってもなおさらに便利になるように追及しています。これは確かに間違いとはいいませんが、その便利さによって発生する副産物によって私たちは大切なものを失います。

その一つは、時間というものです。時間を稼ぐためにスピードを上げる。そして便利なものを使う。しかしそれで時間が産まれるかというと消費されていきます。本来の時間はゆったりと充実して味わうものでかけがえのないものです。それは便利さと共に失われていくのです。

そして次に場です。便利であるがゆえに場がととのうことがありません。面倒なことを取り払い、場を磨き上げることを怠ることで自他がととのい、穏やかで豊かな関係が築けるご縁をも失います。

他にも健康というものがあります。便利になって健康が失われます。本来、不便というものは心身をバランスよく使い、丁寧に身体の声を聴きながら一つ一つの五感を活用して味わうものです。それを時間がないから、関係を重ねる暇もないからと便利に走っては健康まで失います。

もう少し不便を取り入れていこうとはなぜしないのか。

それは不便であることをよくないことだを刷り込まれているからです。私は暮らしフルネスの中で多くの不便を取り入れています。もちろん便利さも善いところもありますが同じくらい不便を取り入れます。それが喜びや豊かさ、古くて新しく、柔軟で謙虚でいられるからです。

時代は色々と問題をかかえているのはすぐにわかります。先ほどのことを大きくすれば、因果の法則で環境問題、自然災害。そして人災として戦争、飢饉。感染症や精神病もです。これは先ほどの便利さの副産物であるのです。

気づいた人から日々の暮らしを換えていくのが解決の近道です。次の時代の生き方、子どもが大切にされるような時代にしていきたいと思います。