場の徳

人は場を通して心を広げていけるように思います。それは波紋のようなものです。波紋は波動ともいえます。お山の中にいて、色々な生き物たちの音が聴こえてきます。この音は、波紋として全体に響きます。その音は、水の音や風の音、そして植物の触れる音、鳥の声、虫の羽ばたき、木々の揺らぎなどあらゆるものが自然の波動を合わせていきます。

その合わせていくものに心を寄せていくと、次第に境界線が取り払われ少し遠くで行われる波紋も感覚が拾うようになっていきます。身体の中にある様々な感覚と一体化していく感じです。それを感じていると、お山全体の波紋や波動を感じます。

たとえば、深夜の静けさに包まれているときのお山の状態。そして朝から昼にかけての状態、一日のの中で何度もその波紋や波動を感じます。すると、次第に自分がお山になっているのかのような感覚を得られます。すると、とても穏やかで静かな心になります。シンプルに心地いいのです。この心地よさというのは、心が地に着いているということでしょう。別の言い方にすると、落ち着いているということです。

心は場に落ち着くと、心は全体と結ばれていきます。心地よさというのは、波紋や波動が好循環して調和しているということでしょう。

お山には、そのような調和を司るいのちが宿っているようにも思います。お山にいき静かに瞑想をし、あるいは自然と結ばれると心が落ち着くというのはお山自体にそういう場があるからです。

その場をどう守っていくかというのは、如何にその靜けさを保つかということに他なりません。英彦山の宿坊で、ただ一人閑かに暮らしていると先人たちが何をこの場で取り組んできたのかが感覚的に伝わってきます。

先人たちが磨いてきた場の徳を、これからも大切に守っていきたいと思います。

徳の根源

懐徳堂の学問を深めていくと、「孝」が中心になっていることがわかります。この孝とは、中国の孝経が由来で孔子が弟子の曾子に孝こそが徳の根源と語ったものから由来します。

孝経の中で「身体髪膚之を父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始なり」とあります。これは自分の身体は元々は父母からいただいたもの、その身体を大切にして傷つけないようにすることが最初の孝行であると。そこからずっと辿っていけば、ご先祖様からいただいたこの大切な身体を真心で大切にしていくことが孝行であるといいます。

そもそも「徳の根源」というものはどのようなものか、私の解釈ではそれは生まれる前から私たちに具わっているというもののことです。これは人間に限らずあらゆる生き物にも等しくいえます。

生まれたばかりの鶏でも本能があり、誰も何を教えてなくても餌の食べ方や遊び方、水の飲み方からその体の使い方や鳴き声が具わっています。親は子を守り、子は親を信頼します。これは自分が勝手に得たものではなく、父母をはじめ先祖からの徳の根源の存在があるからです。

自分の身体と共に生きている存在に感謝してそれに孝行することは先祖に孝行することと同じとも言えます。その気持ちをもって実際の父母を自分と同じように孝行をし、そして同時にその先のご先祖様たちの存在にも感謝を忘れないで暮らしていくことができればそれは徳を積んでいるのと同様であるということでしょう。実際には、その孝行を盡すのを広げて他にも国家の主や上司や先輩にも仕えていくことを忠孝ともいいました。明治維新以降はこの忠孝という言葉が戦争に使われ戦後はこの忠孝を忘れるような教育が入り家の概念も薄れて失われていきました。今では歪んだ個人主義が蔓延し、忠孝はパワハラや押し付けともなっています。

本来、この忠孝は「徳」の存在を感じるものであり、身近な徳を理解し実践するのに何よりも近道になっているものだったように思います。自分を大切に見守ってくださっている存在を自分と同じかそれ以上に深く思いやり愛することによって私たちは徳の根源にいつも出会うということでしょう。

懐徳堂もその教義の中で、「孝」「悌」をまず第一の徳目として掲げていたといいます。具体的には「父母によくお仕えするのを孝といい、年長者によくお仕えするのを悌と名付ける」とあります。そして「孝悌の二字は日夜心がけて、一生忘れてはならない」ともいい學問の道に導いていました。

同じく近江聖人と呼ばれた中江藤樹先生は、「父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深し」といい同じく孝を第一義に実践をされ徳のことをあるがままに伝承されました。また孝行にならないものとして「にせの学問は、博学のほまれを専らとし、まされる人をねたみ、おのれが名をたかくせんとのみ、高満の心をまなことし、孝行にも忠節にも心がけず、只ひたすら記誦詞章の芸ばかりをつとむる故に、おほくするほど心だて行儀あしくなれり」ともいいました。つまり孝行や忠節がなくなると、人は父母の恩徳を忘れているということでしょう。自分の代のことばかりを憂いて夢ばかりを追いかけていると志が損なわれていくのはいつの時代も同じです。

懐徳堂の代々學主の生き方をはじめ、三浦梅園先生、麻田剛立先生など道なき道を拓き子孫へと徳を伝承された方々は共通して静かに隠棲し名誉や地位や権力やお金など私利私欲よりも公や天下万民、あるいは子孫たちの真に豊かな未来のためにと生涯を盡されておられたことが生きざまから観えてきます。この根本には、常に共通して「孝」があると実感します。

これから盂蘭盆会の時節ですが、ご先祖様のことをずっと感じ続けるこの期間はとても仕合せを覚えます。落雁をつくりお供えし、献花し香や火を絶やさずお水を添えてお祈りをする。父母の恩徳や家の有難さを最も感じる場です。

長い目で観れば最も子どもたちに伝承したいのはこの「孝の心と実践」です。引き続き、自らが恥ずかしくないように心身を調えて心穏やかに恩徳に報いていきたいと思います。

古今を懐かしみ真の今に至る大切さ

昨年、三浦梅園生誕300周年記念シンポジウムを開催したことのご縁からその學朋で同志の天文学者、麻田剛立のことを知りました。麻田剛立を知って大坂にある町人による學問所、「懐徳堂」にご縁が結ばれました。私が取り組む「徳積堂」に名前が似ていてすぐに関心が湧き、どのような「場」であったのかを深めました。

懐徳堂は今から300年前の江戸時代、五人の町人有志が出資して創設されその後も町人有志により運営された私塾ということがわかりました。そしてその學風も自由で寛容、自律や自助、そして貴賤貧富は関係がなく、謝礼も貧苦の方々は受けずまた聴くだけでもいいとあります。この当時、世界のなかでもこれだけ開かれ純粋に學問に取り組める場はありません。

最初の學主は、三宅石庵といい万年先生と呼ばれていました。朱子学を始め、陽明学、古義学、医学等々の諸学の善いところ取りをするから周囲から鵺学問といわれたそうです。鵺とは伝説の妖怪の総称です。鵺の見た目はサルの顔にタヌキの胴体、さらにはトラの手足に尻尾はヘビのようになっていてここから鵺学問とは得体のしれない不思議ではっきりしない人物や学問だといわれたということです。現代でも似たようなもので、分類わけできないものは得体のしれないものとして評価されないのと同じです。しかし本来はこの鵺のように、真の學問は「分かれていない」ところにあるものです。一物全体ともいい、一円融合ともいい、真の実践者たちは自然体で丸ごと自由に學び問い続けます。この懐徳堂の學風は、この鵺学問の実践がその後に偉大な影響を与えます。

その初代學主、三宅石庵はこの私塾創設の理念や初心に「人の道」を掲げます。

『扨学ト云ヘルハ、何ヲ学ブモノゾ、道ヲ学ブコト也、何ヲカ道ト云フ、人ノ道也、人ニアラザレバ各別、人ト生レタルモノハ、人ノ道ヲ学ハ子バナラヌ也。(學とは何を学ぶのか、それは道を学ぶのである。道とは何か。それは人の道のことである。人と生まれたからには人の道を学ばなければならない。)』

學=道=人だと言います。つまり人は道を學ぶことが誠の人になることだと、そしてこう続きます。

『シカルニ気質ノ偏ガ有ツタリ、耳目ノ欲ガアリテ、フト我ガ生レツキテヲル道ヲトリ失フナリ、ソレヲ失ナハズ、生レノママナルガ聖人也、学トハソレヲマナブ也。(現実には性格の偏りや情報の刷り込みや目先の欲望によって人は自分の生まれつきの道を失うことがある。それを決して失わないままでいることが聖人である。學とはこの聖人になる道のことである。)』

これは人=聖=徳であり、自分が生来もっている「徳」をいつまでも失なわずに存分に発揮できることが聖人でありそうあり続けるように學び続けることが道徳であると。

畢竟、人の道は「徳」に尽きるのでしょう。

懐徳とは、その徳の意味を心に深く省みて生きようとする生き方のことです。ご縁あって今月の8月25日に「徳積堂と場の道場」で「懐徳堂300周年供養祭×徳が循環する未来の甦生シンポジウム×ブロックチェーン経済」を開催することになり、先んじて先人たちのご遺徳を偲び墓前にご焼香と献花とご念仏をお供えしてきました。また旧懐徳堂跡の「懐徳堂旧阯の碑」でも一緒に登壇する禅僧、星覚さんと法螺貝奉納をはじめ供養祭をしてきました。大阪の今を眺めつつ、日本人の和の系譜に思いを馳せる善い機会になりました。

この今は普遍的な道を生きた方々への懐かしさがあってこそ真の今になると私は信じています。今を生きる私たちは子孫として先人たちの遺徳をよくよく顕彰し伝承し、その後の道を歩む一人として真摯に學問を心の中で磨き続けていくことが大切なのではないでしょうか。懐徳堂を知り、明治以前にあった思想は、私たちの思想の根源と結ばれていることに氣づきます。明治のころに歴史が消失し分断されましたが今一度、懐かしく徳を結び直して道を続けていきたいと思います。

古今を懐かしみ真の今に至る大切さを忘れないで300周年のご供養といたします。

懐徳堂の代々の學主、創設者の方々。またご縁を結んでいただいた方々。懐徳堂が144年間、塾生たちが学んだ場所跡。

三宅石庵
中井甃庵
三宅春楼
中井竹山
中井蕉園
中井履軒
中井桐園
並河寒泉
五井蘭洲
五井持軒
富永仲基
山片蟠桃
長崎黙淵
中村良斎
井上赤水
麻田剛立
緒方洪庵
緒方八重

魂の詩

私をずっと支えてくださっていた恩人の詩があります。その恩人はいつも一行詩を私に贈ってくれました。いつまでも心に薫り続けるのが詩です。今思えば、詩を贈ってくださった真心に涙がでます。

もうこの世では、お電話することも詩を贈ることもできませんが心の中で詩と共にいつも一緒にこの先も歩んでいきたいと思います。

詩「暮らしフルネス」

「かつて日本には自然と一体となった

モノにも礼儀を正す循環型の美しい暮らしがあった

その象徴が藁葺家

自然と共生し

仕事と暮らしを一体化するかんながらの道

暮らし方を変えることが

働き方を変えることになり

新しい豊かな社會を創造する

子どもも大人も育つはたらき方

和の文化と場の文化の甦生

仕事場は仕合せ場

日々を新たに 心を磨く それが 暮らしフルネス 」

清水義晴

ご冥福を心からお祈りしています。変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから、決して奢らず謙虚に素直に憧れた背中をこれからも歩み続けていきたいと思います。

魂の詩、ありがとうございました。

似て非なるもの

この世の中には似て非なるものというものがたくさんあります。例えば、本物には決して足さないような添加物を入れたり、作り方も正直ではない効率や小手先の技術で胡麻化すようなことをしたり、文章や宣伝、広告で過剰に悪いところを除いてさも本物のように表現したりしている偽物と本来の本物は同じものではありません。

しかし今の時代は、偽物が本物に挿げ替えられ本物はさも偽物のように表現されています。これは偽物でも、大勢の人たちが買うものが本物であるといった経済詐欺の仕組みが世界全体の価値観に浸透しているからです。民主主義といったものの、その実態は大勢の民衆が正しいといえばあるいは信じたのであればそれは本物であるといった刷り込みにほかなりません。

環境の影響で刷り込まれれば、似て非なるものがわからなくなります。何が本物で何が偽物かがわからないというのは、致命的な感性や感覚のズレを起こします。つまり事実まで歪められるのです。

この偽物を本物にする技術というのは、現代病の最も大きな根本原因になります。そしてこの現代病を推し進めてきたものが金融経済、あるいは現在のマネー資本主義です。

本来は、事実や実体というのは嘘がないものです。むかしから自然と共生していたころに発明された道具をはじめすべての物は正直に自然にできていました。自然物を用いる技法は、本物です。しかしそこに、まったく別のものを持ち込みそれを本物の代わりにしました。わかりやすいものでいえば、畳などもイグサを育て用いて編み込んで藁をいれてつくるものが今では合成のプラスチックとスポンジをいれて商品名はカビの出ない畳としてホームセンターで「畳」という名前で売られています。隣に本物の畳が置いてあるのならまだしも、もう商品の陳列コーナーにはこのプラスチックの畳しかありません。

それを購入する人は、安くて便利で畳だからとマンション向きのこの畳風のものを畳として認識して子どもたちに教えたりします。そのうちこの似て非なるものが本物になるのは時間の問題です。

こういうことは果たして罪ではないのかと私は思います。それなら別の名前にしてせめて畳風プラスチック床や、もう畳という言葉をいれずにカビのでないマットでもいいのではないかと思います。それに畳という言葉をいれて、畳という商品で販売する、そして購入者もそれを畳として認識して使うというのに問題があると思うのです。

これがOKとなるのなら、マグロでもマグロに切り身が似てればマグロにして、お米もお米風の別の種でもお米に似てればもうお米でいいとなり、そのうち見た目さえ似ていれば全部本物みたいに規制も緩和し企業の利益優先でどんどん無法状態で勝手に宣伝して教育していたら文化など一瞬で滅んでしまいます。

子どもたちの未来のことに対する責任として、社会や教育に関わる人は最低限で絶対的にこの似て非なるものの環境からまず何とかしなければならないのではないかと私は思います。環境が人をつくるのだから当然、環境をまずなんとかするのが真の教育者ではないですか?皆さんはどう思われますか?

私の親しい覚悟をもった伝統職人たちをはじめそれぞれの仲間は誇りをもって本物を保っています。彼らこそ真の教育者です。もちろん現代の発明や道具は時代に合わせて用いますが、●●風にはしないように特に厳格に生き方を常に反省して日々に注意して克己復礼して取り組んでいます。

仲間たちと共に、本物を次世代へと譲り徳を守っていきたいと思います。

安心と信頼

私たちは、生まれてすぐ赤ちゃんからはじまります。自分だけでは生きられず、親など信頼できる存在があることで生きていくことができます。

ほんの小さな子どもが親がいないと必死に探し回るように、親がなければ不安で生きていけないからです。それだけ、私たちはまず信頼する存在、安心できる存在を求めます。

自然界では、その期間がとても大切な循環の仕組みになっているようにも思います。

この安心や信頼は、この世で成長していくための原動力になります。はじめてこの世に出てから、この世は安心できるや信頼できると思うと自分でいられます。そう考えてみると、自分であること、自分でいるのとは全て安心から始まっているということです。そして、そうさせてもらえる存在によって信頼が始まるのです。

不安や不信はもっとも成長を阻害していきます。

だからこそ、安心や信頼の環境は成長を見守ることにおいて何よりも大切で優先されるものです。

子どもたちや子孫のためにもその環境や仕組みを場で伝承していきたいと思います。

もったいない

昨日は、BAのお庭にある自然農の野菜を収穫して手間暇をかけて調理をしてみんなで食べました。採ってすぐのものを、そのままあるもので調理をする。当たり前のことですが、採るところから調理して食べてそれを味わい振り返る喜びは食の仕合せを実感させるものです。

毎日の食事をどのようにしているかは、毎日の生き方をどのようにしているかということと結ばれています。

むかしの人たちは、今のようにスーパーに気軽にお金で買い物をするという具合ではありませんでした。特に田舎では、そんな便利な場所はすぐに近くにはありません。というより、家の庭で採れるのでその方が便利といえば便利だったでしょう。

今のようにパソコンやスマホで1クリックすればすぐに品物が届くなどという奇妙な便利さなど存在することはなかったでしょうから便利の意味も変わってきます。便利が人間の欲望にあまりにも近づいてくると、不便というものが敵のようになってきます。

本来は、便利は不便という豊かさを感じさせる大切な要素で敵ではなく仲間のような存在だったように思います。手間暇をかけることは敵ではありませんし、滅多にないものは貴重な体験だと大切にしたように思います。

なぜこうなっているのかというと、忙しすぎるからです。なぜ忙しいかというと、忙しくあることが価値があると社会的に信じられているからでもあります。そういう忙しくしている人々のために便利さは開発されていきました。不便だと敵なのは、より忙しくなると思われているからです。

この時代、物理的にも忙しくなるのは仕方がないことともいえます。しかし心まで忙しくなる必要はありません。心を忙しくしないと決めると、敢えてする手間暇やお休みはとても豊かな時間になり喜びになります。

そしてそれは日常の足元にある不便さに気づくチャンスでもあります。不便というは、それだけ何かをする行程が増えるというものです。しかし、一度しかない人生で一期一会のご縁と時間でそれを達すると終わってしまうと思えば少しでも味わいたいや覚えていたい、楽しみたいと願うものです。

駆け抜けるように振り返りもしないまま、ただやることを増やして前進するというみんなで忙しい社会や環境づくりに没頭していたらとても「もったいない」ことをしているかもしれません。

この「もったいない」とは、単にまだ使えるものをもっと大切に使おうとすることや単に捨てないということではありません。これは豊かさの本質に気づけずにもったいないという意味もあるように私は思います。

暮らしフルネスも今の時代は、なかなか理解できないこともあるかもしれませんが本来は暮らしがあるだけで充分という仕合せの話です。子どもたちや子孫たちに、徳を譲り遺していけるように実践を楽しんでいきたいと思います。

徳を積む生き方

アメリカからの懐かしい友との話の中で「発酵道」につて語り合いました。もともと酒蔵、寺田本家の二十三代目の当主、寺田啓佐さんと親しかったこともあり色々と生前のことをお聴きしました。

私はどこか生き方が似ているところが多いようで、共通点がたくさんあります。微生物についても、むかしからずっと親しくしていてお漬物などの発酵食品づくりをはじめ、自然農の田んぼや畑、また会社経営にもその発酵の仕組みを取り入れています。

自然界は腐敗と発酵というものがあります。しかしこれは腐敗VS発酵ではなくどちらも大きな意味では発酵です。腐敗も自然界に循環するための大切な発酵の一つということです。しかし人類にとって悪い作用を施すのを腐敗と呼んでいるのです。実際には、腐敗も一つの浄化作用ともいえます。この辺になってくると、どれが善い悪いではなく愛と調和の話になってきます。

発酵道のなかでもその辺はよく語られています。以前、俳優の窪塚洋介さんが私のいる聴福庵や場に来られたとき私の実践する「腸活」の体験をしていただきました。諸事情があって彼の番組にはなりませんでしたが、腸が活き活きしすぎて大変なデトックスになったととても喜んでおられました。本質的に腸活になったこと、発酵の一期一会になったことを覚えています。

もともと私はこれらの実践を発酵という言い方ではなく最近ではもっぱら「徳」という言い方をします。私にとっては発酵=徳という定義です。発酵について、寺田啓佐さんはその著書「発酵道」でこのような言葉を遺しています。

「それは決して嫌々やっていることではなく、微生物にとってそうすることが快くて、自分の好きなことをしている。そして、楽しく働いている。私には、そう感じられる。生命のおもむく方向へ、自ら進んで行っているのではないかと。きっとそうやって自分らしく生きることが、微生物にとっては自然なのだろう。まさに微生物というのは、本当の意味で自分のために生きている、「自分好き」なのだ。こうやって微生物の世界をのぞいているうちに、生命のおもむくまま、「自分にとって最も快いことを選択していく」ことが、実は自分を生かす最良の生き方なのではと思うようになってきた。」

ここからわかるのは自分の喜びそのものが全体の喜びになっているのが発酵ということです。そして自分が好きなこと、喜びになることに専念している、その自分自身を深く愛しているからこそ自立して自由にこの世界を素晴らしいものにしていく生き方となるというのでしょう。

これが発酵する生き方、私にすれば徳を積む生き方のことです。

自他を活かす、全体快適に生きる、まさに嬉しき楽しき有難きという仕合せないのちの響き合いです。酒造りの智慧は、生き方の智慧ともいえます。日本酒がなぜ神様の大切な供物の一つなのかはここからも気づけます。

今年はお米のことに深く関わる機会をたくさんいただいています。何よりもかたじけなく有難く思います。引き続き、徳を精進していきたいと思います。

自然体の生き方

昨日は、2年ぶりに故川口由一先生の自然農の田んぼにお伺いしてご供養をさせていただきました。今でもこの場所に静かに腰掛け佇んでおられるような気配が周囲に薫り、「ああ、野見山さん」と優しく爽やかに語りかけてくる声が心に聴こえてくるようでした。

いつもお会いするときは、私の近況のことや取り組んでいることに真摯に耳を傾けてくださりお土産話に花を咲かせその意味を深めてくださっていました。また真善美について、学んだことや体験したこと、すべて自然に照らし合わせてその叡智や知恵を語って見せてくださっていました。

正直で飾らず穏やかで和やかで安らか、その深い優しさからにじみ出てくるお人柄が大好きで心から尊敬していました。お会いするたびに先生の後ろ姿からは、いつも自然体の生き方を学び直していました。奥様も陰ひなたから見守ってくださり、以前までお元氣であるときにご馳走していただいた親子丼の味が今でも心に忘れることはできません。

いつも何が自然で不自然か、そして自然とは本当はどういうことをいうのかということをその生きざまから伝承してくださっていました。「一つの種がでて、その種が芽吹き、成長し花を咲かせ実をつけ種になり、枯れて斃れて新たな種が芽吹いてくる。」そんな当たり前のことを、ごく自然に当たり前に信じてただ一人の道を歩んでおられる先生に恥ずかしくないようにと私も田んぼに一人で立てる人間になろうと覚悟し、ここまで歩んでこれました。今でも迷いが出たときには、一人で田んぼや畑に立つようにその場所で一人立ち覚悟を見つめ直しています。志と革命は、常に裏で一人です。

墓前にてそして先生からいただいた美しい真心の光は、私の心田の中にしっかりと透明に光っています。このいただいた光を水に静め、私の光に換えてさらなる新たな宇宙へと発光させていきたいと改めて誓いました。

今、振り返るとお会いしてからずっと先生と一緒に自然の中にいました。今の私の周囲の自然のなかにも音の中にも先生の自然を感じない日はありません。それくらい自然の生き方の道に、導いてくださっていたことを思い改めて感謝がこみあげます。

「無為自然、いのちが光り輝く自然農、種は空の彼方に、花はこの心に、まきむく未来へ結ばれる。」

一期一会のご縁に心から感謝しています、その感謝に報いるためにも自然の生き方の続きを私も磨き続けます。引き続き風に吹かれて次の章へと喜び勇んで邁進します。

これからもよろしくお願いします。

徳の場

すべての物は心を顕しているものです。そしてそれを集めて人はそれを場と呼びます。これは単なる場のことではなく、心の場ということになります。その心の場には、徳が集まります。それを私は徳の場といいます。

この徳の場というものは、人間の心を磨くための場です。そしてそれが学問の道であり、生き方や働き方そのものになります。

それを体験するということが、人生の豊かさに気づくことではないかと私は思います。

聴福庵に来庵される方々は、その場の持つ徳に感動されます。それはその場が心を形にしたものだからです。そしてその場を共に磨くことでその心を学びます。心を学ぶことは、徳を学ぶことです。

なぜ人が徳を学ぶのか、それは忘れてしまった形を思い出すことです。現代は、鋳型に嵌め込まれるように型通りの生き方を押し付けられてきました。本来の自分の持ち味や徳というものは、自らの心が形になっていくものです。そしてそれは懐かしい道具や暮らしなども同様に形として残存してきました。

今ではガラリと変わってしまったその形を、徳の場に来て体験をすることで心の形に気づき直します。

これは一般的な学校や塾で勉強する暗記中心の学問とは異なるものです。つまり実践学問ともいい、自己の徳を学び直す学問ともいえます。古民家をはじめ古いものは単に劣化したものではありません。そこには心の形があり場があります。その場が甦る体験というのは、単に古いものが新しくなったのではありません。

これはむかしも今も「徳の場」になっているということです。

徳の場の体験が、本来の生き方や働き方や人生をよりよく豊かになる学びに結ばれます。人生の豊かさは、徳に気づき、徳を磨き、自らも徳になることです。

この時代の徳を学ぶ場として、世界一の徳の場を体験してみませんか。