トークンからはじまる世界の変化

ブロックチェーン技術の革新が進み、トークンエコノミーという言葉が出ました。このトークンエコノミーは直訳すると代用通貨経済となりトークンと呼ばれる代用通貨を利用した経済圏という意味だといいます。

昨日、そのトークンのコミュニティのことを書きましたが国家や政府の法定通貨で動く巨大なコミュニティや一つの価値基準ではなく、そこでは対処できようもない小さな経済圏、もしくはある一定の地域やコミュニティ、多様な価値基準を含有した仕組みがこのトークン●●ということになります。

もちろん現在もこのトークン●●は発展していますから、トークンエコノミーやトークンコミュニティのようにトークンマルシェとかトークンボランティアとか色々と出てくることは予想されます。

そもそもこのトークンエコノミーは、ただのエコノミーとは何が違うのか。それは今の資本主義経済とは異なる仕組みを創造しようというところにあります。誰もがわかっていることは、現代の自転車操業的に大量生産大量消費を続けていたら地球は持ちませんし人類は滅亡へと向かいます。

理由は簡単で、資源が失われてもお金は増え続けていきますからそれでも生活するためにお金が必要ですからお金を中心にしてお金に支配される経済を続けます。そして個々の比較競争や貧富の差など格差は世界での国家の経済力に左右されます。そうなると経済力こそ権力であり、権力をさらに伸ばすためにひたすらにお金を道具にして支配を強めていきます。これは軍隊と同じで、いつ軍事バランスが崩れたらと軍備を増強し続けているのと同じです。いつまでもそれぞれの国で軍隊を増やし武器をつくってもいつかは勝っても負けたという具合になりかねません。

世界はみんなで豊かになる方法か、誰かだけが豊かになる方法かとその選択をしてきました。本来、人類は全体でどのように豊かになるのかを模索してきましたが富の独占によりこの2000年間ずっと似たような争いをし続けそして現代を迎えるまでに来たのです。

しかしここで私たちは別の方法を技術革新によって行おうと挑戦をはじめました。それは、言い換えれば持続可能、永続するために現行のシステムとは他のものを創造し、同時に世界を調和させていこうとするプランを模索しはじめているのです。

例えば、戦国時代は常に戦乱で世の中が争い乱れていました。しかしよく調べると、農民たちは結構平和な世の中でいつも通りに農作物をつくり暮らしをしていたことがわかります。

もちろん資料を読めば戦になれば地域の人たちも協力をして子どもや物資、手伝いをしたとありますが基本は農民は農業に専念しながら生活を成り立たせて暮らしを豊かにしていたのです。その理由は、農民がいなければ武士も大名も食べることも戦もできなかったからです。当たり前ですが、現在でも同様にいくら国家が経済戦争をしていてもそのもとになる資源を循環させ続けなければいくらお金があってもどうしようもなくなります。

そういう意味で、気づいた人たちがどうやって小さな循環を増やして真の豊かな世界にしていくかと挑戦をはじめているのです。

私は戦国時代にとても参考になるものに茶の湯があります。千利休が戦国時代に新しい価値を創造したのです。私が徳積堂を現代に甦生した意味もこのことによります。新しいトークンエコノミーはこの茶の湯にヒントがあると直観したからです。

大名たちは戦国の世の価値観を憂い、人にして人にあらずというような心の荒みを体験しました。その心を癒し、新しいシステムに移行していくのにこの茶の道は大きな役割を果たしたように思います。

今までにない価値観をこの世に創出するのは確かに大変なことかもしれません。しかし小さなものでも形にして、小さな集団でも実践して可視化していけば人々は次第に今の価値観とは別のものがあってもいいと思うように変化していくものです。

そうしていくうちに、新しい生き方、これからの未来に向けての統合がはじまっていくように思います。このブロックチェーンの技術は、それを近づけるのに大きな役割を果たしていくのです。

ブロックチェーンストリート構想は次のステップに入っています。子どもたちのためにも、この地から世界を易えていきたいと思います。

 

コミュニティの甦生

コミュニティという言葉があります。本来の英語の意味よりも、日本人は別の意味でこの言葉を用いることが増えているように思います。最近では、トークンコミュニティという言葉も出てきています。少し並べただけでもコミュニティの古典研究、コミュニティビジネス、オンラインコミュニティ、地域コミュニティと地方創生、東日本大震災とコミュニティ、コミュニティデザイン、コワーキングスペースとコミュニティ、オンラインサロン、コミュニティマーケティング、コミュニティビジネス等々があります。

このコミュニティの定義をどうするかで、その言葉の理解も変わりますから少しこの辺を整理したいと思います。

コミュニティと同じくらいよく使っている言葉にコミュニケーションがあります。このコミュニケーション (communication) の語源はラテン語のコムニカチ(communicatio) だといいます。このコムニカチオの意味は「分かちあうこと、共有すること」だそうです。

そして英語のコミュニティ(community)語源は、ラテン語の communis が転じて communitas フランス古語のcomunete、英語のcommon 、中世後期に現在の使われ方になってきたそうです。

このコミュニティとは、共同体のことです。

ある一定の地域に一緒に暮らす人たちから、仮想的なところで共に生きる仲間たちという意味にも発展してきています。つまり、何をもって共同体というのかという幅が多様性と文明の発展によって変わってきたのです。

●●コミュニティと書けば、その価値観を共有する共同体ということにもなります。これが管理しない、管理されない、ともに主体的にフラットにオープンな共同体にしていこうという流れが広がっているのです。

通常は、最初は小さな組織、2人から3人なら管理などせずとも阿吽の呼吸で共同体を結び維持しています。それが100人、1000人、数万人、数十万人となれば誰かが管理するという仕組みを入れていきます。それが国家というものになり今の世界を形成しているともいえます。

しかしその大きなコミュニティとは別に、小さな地域でのコミュニティというものが存在します。それが地方自治であったり、ご近所さんと結んでいたりした小さなサークルであったり、親戚などと結んでいた血縁などです。

何かあった時にお互いに協働して助け合う必要があり、私たちは共同体を結んでいました。しかし、現代はそれを社会のシステムによって保障したりカバーできるようにしたことで今では1対国家の関係で解決できるようになってきました。そのことで得た利点とそのことで失われたものがあることにも気づいたのです。

具体的に少し事例を言えば法律でほぼ網羅した半面、法律では賄えないもの、つまり個人の善意や主体性が必要なものがほとんど政府や行政に依存するようになり失われています。その部分をそのまま放置すれば、国家が破綻して自治が壊れます。そうすれば社会も失われ法律も消失してしまいます。実は、絶妙なバランスで維持されているこのコミュニティは本来は、機械のようなものではなく生命体であるからその生命体を維持するためのお手入れは絶対不可欠なのです。

それをコミュニティとして甦生させようとするのが、現代の一つの流れであろうと私は思うのです。実際に人類においてのコミュニティの本質は相互扶助であり思いやりや助け合い、一緒に暮らしていく人々とのつながりを醸成していくのは古今普遍的なものです。それが失われてきている現代というものは、人類にとってはこの先を生き延びることができるどうかの重要な局面を迎えているということでもあります。

どのようなコミュニティを創り出そうとするかは、この先の人物たちの主体性と覚悟で決まります。子どもたちのためにも、私は徳を用いたコミュニティをこの世に甦生させていきたいと思います。

農泊の本質

以前、ヨーロッパに滞在していたときにドイツで民泊を体験したことがあります。そこは、年老いた夫婦がかつて息子がいた部屋を旅行者に開放していました。表看板に「部屋がある」と書かれた表札がかけられておりそこで交渉して泊まります。簡単な食事も提供されていて、ゆったりと過ごしたことを憶えています。

他にもフランスやイタリアで同様に田舎の民泊を体験しましたが、どれもその土地に相応しい人と、相応しい料理、風景、そして文化を体験できるものでした。その土地での体験はいつまでも心身に沁みこみ、懐かしい思い出になっています。

思い返せば、あれは単なる経済効果を狙ってやっていることではありませんでした。あれは、地域を守り、古民家を守り、暮らしを守るためにそれぞれが自分のできることで精いっぱい努力している人々の姿でありその故郷を子孫のために大切にしたいと願う思いの結晶であったように思います。

日本では、すぐに金儲けの手段としての●●というように何か西洋から持ってきてはそれを真似して広めます。そして流行らなくなればすぐにやめては、別の金儲けをはじめます。そのうち、その地域は疲弊してきてさらに廃屋が増え、文化が途切れ、子どもたちは離れ、そして過疎地のように荒れていきます。

経済効果ばかりを追いかけているうちにミニ東京やミニ都会の考え方を田舎に持ち込み、そのうち田舎の善さも消失していくのです。これは、ヨーロッパと日本の文化の違いとかではなく単に古いものや伝統文化に対する意識の差があるだけのことです。

古民家などもヨーロッパではとても大切にされます。特に古い土地、風土、家はその地域の文化の象徴でもありいつまでも子どもたちに遺していきたいと思っている風景です。

その風景を守ろうという取り組むの中に、農泊、グリーンツーリズムがあり地域の人たちの真摯な取り組みがあります。いつまでも故郷を大切にしたいという思いが人々をその地域に集め、同じように故郷を見守り続けたいという人たちが立ち上がってそこに仲間ができていくのです。

私が見てきたヨーロッパの農泊には理念がその地域にありました。どんな地域にしたいという願い、それは本来、どの自治体でも持つべきもののはずです。しかしそれを実践に移そうとすると、ないものねだりばかりして何もできていません。その理由はほとんどがお金になっています。

私はお金で古民家を甦生しているのではなく、お金で暮らしを甦生しているわけではありません。子どもたちに何を譲り遺していくのかを考えたとき、故郷を甦生させていつまでもこの故郷を大切にして見守りたいと願い投資していくのです。

この投資は、世間一般のお金儲けのための投資ではなくまさに未来、子孫への投資です。これを徳積みという人もいますが、むかしの人たちは当たり前にみんな行っていたことです。

自分のことしか考えないといった部分最適では、結果的に自分も破滅してしまいます。全体快適といって、自分が損をしても全体のためにと投資したならそれが長い年月を経て子孫や、そこで暮らす人たちのためになっていくのです。

そういうものに投資できる人というのは、実はとても幸せなことです。なぜなら、自分が今あるのは先人たちの投資の御蔭であることに気づけるからでありそうやってみんな守られてきたことを実感し感謝に生きていくことができるからです。

誰でも廃屋、廃村にならないように取り組もうとするその志、そして生き方を選択する人が出るのならその地域は必ず復興し復活します。要はその初志初心を貫けるかどうかということでしょう。

子どもたちにいつまでも伝統文化や暮らし、その土地や人々の歴史の徳が守られるように脚下の実践を積み上げていきたいと思います。

働き合いの豊かさ

昨日、藁ぶきの古民家で結友と集まりみんなで古民家甦生の仕上げ作業を行いました。具体的には、梁や建具の水拭きと乾拭き。その後に蜜蝋を塗り磨きます。また一部、床板などを柿渋、渋墨、弁柄などで塗装します。他には、外は砂利を敷いたり、犬走をつくったり、創作竹垣を設置したり、桟のところの柿渋塗をやりました。

久しぶりに大勢で作業をしましたが、最初から関わってくださっている結友仲間が増えて関係で一致団結してまるで熟練のチームのように取り組むことができました。みんなで集中して作業をしながら、この豊かさをもっと味わっていたい気持ちになりました。

人は、みんなで協力し合って何か一つのことを成し遂げようとするときそこには不思議なつながりや結束が産まれます。みんなで助け合って何かをするというのは、心身共に健やかなことであり私たちは仕合せを感じるものです。

自分のやったことがみんなのためになっていく、自分の役割がみんなにとっても大事な存在になっていく、そして見返りを求めずに真摯に小我を超えて大我のために尽くしていくことに深い喜びを感じることができるように思うのです。

それは単なる仕事ではなく、まさに一人一人の働きであり、その働きが一緒に協力しあうことによって報われていくのです。働きに対して、働きで返す。働き合いともいうべきこの結は何か懐かしいものをみんな感じるのです。

それはきっと長い間忘れていた記憶、むかしむかし長い期間にずっと私たちはそうやって暮らしをしてきたことを思い出しているのかもしれません。

暮らしは、働き合いによってはじめて豊かになります。お金がたくさんあるから豊かなのではなく、一緒に働くから豊かなのです。かつての日本人は働くことを奴隷の労働や使役義務などとは思ってはいなかったといいます。海外から来た異国人たちは一応に日本人はみんなニコニコして働き、仕合せそうだったというのです。

それはまさに単なる仕事をしていたのではなく、みんなで働く仕合せを味わっていたからだと私は思います。

現代は、精神的な病気、孤独や自殺なども増えています。これだけ金銭的にも物資知的にも豊かになっていますが、本来の豊かさとは程遠い心の苦しみを感じる人が増えているのです。それはきっと、このみんなで働く仕合せを忘れたからかもしれません。言い換えれば、暮らしができなくなってきたのです。

私の言う、暮らしフルネス™はこの真の豊かさを甦生させていくことが要です。子どもたちのためにも、いつまでも変わらない働き合いの豊かさを伝承していきたいと思います。

感受性を磨く

人間には感性というものがあります。辞書には「物事を心に深く感じ取る働き」とあります。この感性というものの正体は一体何なのか。私たちは生きる目的=初心ということと向き合うとき、この感性を磨くことの大切さに改めて気付くように思います。

例えば、日々は誰にしろ訪れ、同じように24時間をかけて過ぎていきます。しかし、その一日をどのように感受するのかは人によって全く異なります。これは同じ環境、同じ状況、同じ体験をしたとしてもです。それだけ人は感性によって人生が異なっているともいえます。

私は毎日、何らかの事件が発生して何もない日はないほどに様々なことが発生するタイプのようで周囲にいる人たちは一緒に過ごすと大変だとよく言われます。確かに、自分でもよくもこんなにいろいろなことが発生するものだと感心するのですがこれは感性によって無意識下によって行われているもののように思います。近くにいることで周囲の人も感性が増幅するのかもしれません。

つまり感性が磨かれているからさらにその感受性が豊かになっていったということでもあります。そうすると、次第に学びや心のメッセージに向かって自ずから深く体験をするような出来事をますます呼び寄せていくのです。

人間は誰でも自分がこの世で体験したいと思っていることを自ずから実践することで感受性を高めていきます。それは言い換えれば、何のために生きるのかということを突き詰めていくことに似ています。

日々に何のために生きるのかと向き合う人は、次第に感受性が高まっていきます。そうすると、自分の運命や宿命、そして目的や本質に気づきやすくなっていきます。そして初心を持つようになり、その初心に帰るたびにアンテナが研ぎ澄まされ立っていきます。

その初心のアンテナが磨かれていけば感受する力もまた同時に高まっていきます。そうすると、自分の初心に適うものはどんなに僅かなものでもすべて受け取れるようになっていきます。すると次第に自分の人生に必要なことをすべて自覚でき、その意味付けをすることでさらに体験が濃く深くなっていくのです。

特段、テレビや映画やドラマで見かけるような激しい事件でなくても日々の微細なことまですべて事件のようにダイナミックに感受できるようになるのです。これが感受性が豊かになっていくということでしょう。

感受性とは、つまりその人の初心を自覚する力ということです。

子どものころにもって生まれた感受性がつぶされてしまうとなかなか元に戻らなくなっていきます。教育をはじめ刷り込みによって子どもたちは本来の感受性に蓋をされ貧しい感性に仕立てられていることもあります。

子どもたちが感受性を思い出せるよう、初心を伝承していきたいと思います。

苦労し甲斐~メリハリのある人生~

人生には「苦労し甲斐」というものがあるように思います。時が経ち、後で振り返ったときに苦労した甲斐があったなと感じるもののことです。苦労したからこそ、得たものがあります。それはそこまでに経てきた体験からの気づきであったり、智慧であったり、そして技術であったり心身の練磨による成長であったりです。

これをやろうとすれば苦労すると最初に誰もがわかっていてもそれを厭わずに挑戦し突進していく。そこに人生の真の妙味があるように思うのです。

人生の妙味を知る人こそ、苦労し甲斐を知る人でもあります。

周りからすれば、何でこんなことをと思っていますがそこには苦労によって誰でもわからない境地に生きているからです。私の場合は、未来の子孫のためにと初心を定めていますからそのためには苦労を厭わずに何でも来たものは選ばずにご縁と導きを信じて取り組んでいきます。

過去の経験や何かそれを実現する才能などは特にありませんから、毎回新しいことに挑戦することになります。周りからは、苦労するよと言われてもそうですねと笑いながら取り組んでいきます。失敗したり困難があると、ほれ見たことかといわれることもありますがそんなことは最初から分かっていることだから特段何も影響はありません。

問題は、この苦労は苦労のし甲斐があるかどうかというところが重要なのです。そしてそれは「道」として必ず通らなければならないのであれば正面から向き合って取り組んで味わい通過、もしくは突破していくだけです。

そうして振り返ったとき、今の自分が育てていただいたこと。今の自分の信念や勇気、そして生き方や生き様を創造してくださったことに感謝できるのです。

人生は一期一会であり、今は唯一無二です。

何事も遣り甲斐があることに挑むことが、メリハリのある人生が送れるということになります。このメリハリとは、緩むことと張ること、つまり弓のように適度に弦がはっている状態をいいます。いい意味で、充実して心身が調和している状態のことです。

何かに集中するというのは、そのものを実現するために真剣に打ち込んで苦労をしていくということです。苦労のない人生は、ハリがありません。ハリのある人生は、苦労を通して人生の妙味を知りそしてそれをゆったりと振り返りその時の思い出を豊かに味わい感謝していく生き方です。

これは苦労のし甲斐があると、偉大な目的に向かって生きるとき人は人生が真に豊かになり充実するのです。若さ、情熱、青春は苦労と共にあります。大変でも目的に生きる苦労の多い人生の価値を、子どもたちに伝承していきたいと思います。

お手入れの循環

最近、捨てないということについての動きが活発になってきています。資源が枯渇してくればくるほど、資源のリサイクル化は進んでいきます。しかし実際には、膨大な量を生産していれば捨てなければこの世はまるでゴミ溜のようになっていきます。

現在は、資本主義経済を循環させることが大前提ですから両立するというのは如何に経済を回すかということですがそれでは本当の意味で解決することはありません。

私は捨てないということよりも、本物にするということだけで十分解決すると感じています。

例えば、日本には伝統職人さんたちがいます。彼らは、自然物を上手に活かし、里山循環の中にしっかりと溶け込み、自然の一部としての役割を見事に果たしています。藁ぶき職人であれば、その地域の藁やカヤ、葦などを用いて家の屋根を葺きます。また左官は田んぼの土などを活かして土壁を塗ります。また森林を手入れし炭焼きをし、大工さんらはその木を用いて家を建てます。竹の手入れによって数々の暮らしの道具を人々はつくります。かつて、私たちは「何が本物であるか」を知っていたのです。

その時、私たちは捨てるのでもなく作り続けるのでもなく「手入れする」ということだけに専念したのです。

私は今の時代、もしも世界が変わりこの人類の方向性を導けるとしたらこの「手入れ」をするということだと確信しているのです。そのことから、徳積財団を設立し、暮らしフルネスを起草し、「お手入れ」のための活動と実践をこの地から発信しています。

物を大事にすること、もったいなくいのちをいただき伸ばすこと、このすべては「お手入れ」する心から育つものです。自分の心をお手入れし、身体をお手入れし、そしてお導きやご縁にお手入れする。当たり前のことかもしれませんが、自然はみんなでお手入れをすることで循環を守り続けてきたのです。

現代はこのお手入れの反対のことをみんなでやってます。やりっぱなし、なげっぱなし、捨てっぱなしで作りっぱなし、これがゴミの正体であることに気づく必要があると私は思います。

日本にはそもそもゴミという概念がありませんでした。八百万の神々の一つであり、それが他の神様のお役に立つ大切な存在でした。だからこそ、ここ日本からこの思想や生き方を伝道していくのが今の世代の使命だと感じています。

子どもたちがこの先、100年後、1000年後、どれだけの自然に見守られているのか。自然の回復力と人間の魂の真の成長を信じて、子どもたちのために日々のお手入れ、修繕を伝承していきたいと思います。

私の目的

私はこの「場の道場(BA)」で、日本の伝統的な文化を継承して温故知新しながら最先端の取り組みと融合させています。なぜこのようなことをするのかといえば、目的は明確で子どものためにということです。

この子どものためといっても、単なる一般的な世の中で使う子どものためではありません。もっと広義で子孫のためといった方がいいのかもしれません。子孫たちが安心して世界の中で自分らしく自分を生きていけるように先祖の思いやりをつなごうとしているのです。

私の暮らすこの場には、古いものと新しいものが共存し共生しています。よく言われるのが、ハイブリット型や善いところ取りなどとも評されます。しかしそれは、ちゃんと日本人の精神や魂、生き方を大切にしながら時代の中で創造されてきたものとの調和した暮らしを実践しているだけのことです。

先祖は、私たち子孫のために色々と深く考えてくれて偉大な思いやりを遺してくれています。その先祖の生き様や人生を無駄にしないのが、私たち子孫たちの責務であり使命であるはずです。

今の時代は、そんなことを思わず刹那的に今の自分の人生や世代だけがよければいいという短絡的な生き方が増えています。どれもこれもすべてその原因は、忙しくなることで暮らしを手放したことに起因しています。

暮らしがなくなれば、先祖の思いやりも届かないところにいってしまいます。私たちの先祖は、決して単なる文字や記録で子孫が守れるとは思っていませんでした。なので色々と工夫して知恵を働かせたのです。

その一つが、日本の家屋であり日本の伝統行事であり、まさに衣食住を含むこれらの「暮らし」にその仕組みをを入れたのです。

そしてそれを甦生し続けて温故知新する人物を、道を通して育成してきたのです。私が場の道場を開いた理由、そしてなぜ今、ここに「場」を誕生させようとするのかはその手段の一つであり目的を実現するためです。

子どもの仕事をしてきたからこそ、何をすることがもっとも「子ども=子孫」のためになるのかと四六時中ずっと思い続けてきました。そうすることで先祖とつながり、子孫へ譲り遺していく初心伝承文化に気づいたのです。

これから目的に人を集めるための動画を撮影していきますが、目的を忘れずに丁寧に取り組んでいきたいと思います。

甦生の技術

この世の中には、時間というものがあると信じられています。他にも自分というものがあるとも信じられています。つまり人は何かを信じればそれがあると信じるようにできています。

実際にないものであっても、自分があると信じればそれがあるのです。

その中には、本当に現実としてあるものと、空想の中であると信じているものがあります。ある種の思い込みといえば、ほとんどすべてはこの世の中は思い込みでできていますが思い込みを超えるような発見があるとき人は真実に気づくように思います。

その時、目から鱗が落ちるような体験、また我に返ったような体験、自分というものを超えた偉大な存在になったような体験などがあるように思うのです。思い込みから解放されるとき、人間は今まで見えなかったものが観えるようになるのです。

例えば、「いのち」というものがあります。

一般的には、動物のように呼吸をして心臓を動かし活動しているものはいのちがあると信じています。その活動が停止したらいのちはなくなったといいます。植物であれば、花を咲かせていたらいのちがあるとし、枯れてしまえばいのちがないとしています。つまり動と静によって、いのちがあることとないことを使い分けているともいえます。

しかし、もしも静であることがいのちがあることで動であることがいのちがないとしたら混乱すると思います。例えば、石であればじっとしていればいのちがあり、壊れていけばいのちがなくなっていくということになります。他にも、静かな湖畔はいのちがあり、蒸発してなくなればいのちがないという具合です。

簡単に動と静で生き死にはすべて語ることはできません。

ここに一つ、「甦生」というものがあります。それは「いのち」そのものを観るために動静そのものとは離れた絶対的に存在する何かを可視化する技術です。私は甦生と浄化の道を究めていくものですから、いのちそのものの存在をどう磨いて徳を引き出し、それを活かすかということを生業にしています。

甦生というのは、時空を超えてあるものを世代を超えても受け継がれた存在を永続的に守り続ける力のことでもあります。甦生させていくことで、私たちは伝統を守り続けることができ、いつまでもいのちを輝かせていくことができるのです。

子どもたちにこのことを伝えていくために、映像を遺してみたいと思います。今、来ているご縁を一つ一つ噛みしめながら自分のやるべきことに専念していきたいと思います。

お互いの持ち味を生かす経営

人間には誰にも短所というものがあります。そのことで色々と失敗も重ねますし、苦労することがあります。しかし同時にそれは偉大な長所になる可能性もあります。短所を怖がるばかりに、長所を伸ばさなくなればその人も周囲も大きな損失になるのは間違いありません。

本来、誰にも負けないものを持っているものがその長所でもあります。例えば、プロであればこの分野は自分の真骨頂であると磨き上げられたものがあります。私も、色々と長所がありそれをひたむきに努力して伸ばしてきました。

特に発達の偏りがあるため、集中力が徹底しており一度深め始めるとほかのことはほとんど考えなくその一点を突破するために全集中していきます。しかし同時に、その時は隙だらけであり何かがあればひとたまりもありません。

私の場合はとても運が善いことに、善い仲間にいつも恵まれて常日頃からカバーをしてもらっています。結局、一人ではどうしても強みが出るときは弱みが出ていくように完璧になることはありません。だからこそ、仲間がいて弱みをカバーしてくれてその強みを肯定して活かしてくれるのです。

つまり能力を活かしあう関係というものは、大前提にお互いの弱みと強みを知りそれぞれに得意不得意を共有してともにフォローやカバーをし合って目的に向かって協働する価値観や風土が備わっているということです。

現代では、すぐに一人でなんでもできて当然というような価値観があり組織を蝕んでいます。それは教育によって、一人でできる人をつくろうとしたことで仕上がってきた組織間でもあります。上の偉い人が完璧であることを求めることであったり、カバーし合えばいいものを否定したり指摘したりして無理やりにでも矯正させようとします。

簡単な話ですが、手足が長い人に小さな細々としたことをやらせたり、力が弱い人に無理やり重たいものを運ばせたり、おっとりした性格の人にキビキビと指示管理させたりするのはこれはもうほぼ虐待の類です。しかしその人たちも自分がやらされてきたからかそう思うのか、やられて嫌だったというのにそういうことを他人に強要することが如何に多いかと感じます。

何より、人はお互いにそれぞれ自分にしかない自分らしい能力を持って生まれてここまで来たのです。それを上手に活かし、そうでないものはほかの能力のある人がカバーし合えばみんなでその能力に感謝し合えるような温かい関係が結べるように思います。

お互いの持ち味を生かす経営というものは、お互いの得意分野でやり遂げる覚悟を持ち、お互いの苦手分野はカバーしあう思いやりを持つということでしょう。

子どもたちがそれぞれの持ち味が発揮され、豊かに幸福な人間関係の中で世の中をやさしく平和にしていけるように自分たちがまずそのモデルを示していきたいと思います。