危機に備える暮らし

現代は、より不確定な時代に入っています。コロナだけではなく、ここ十数年、震災にはじまりあらゆる自然災害が発生しやすくなっています。また南極の氷が融けては世界の海の中の水量が代わり、流れも変わり、そしてその水の力で地球全体の変化は進みます。

その時、私達人類は今までのように計画を立ててその通りにやっていくということが難しくなっていくのです。つまり、自然が安定していた時はある程度、人間の好きなようにできる都市をつくり限られたところで自由自在に謳歌できましたがこれからは自然の変化と向き合いながら歩んでいく時代に入ったのです。

もともと環境問題の話は数十年前から出ていましたが、それは経済活動をしながら少しだけ環境に配慮しようとした慈善事業的なものでしたがこれからはそんな場合ではなくなって激しい自然環境の変化の中でどのように人類は生き延びていくのかということに向き合う時代になったということです。

当たり前のことですが、人類は今までもそうやって大自然の恩恵を受けながら、厳しい大自然に洗礼を受けては許しを得てここまで生き延びてきました。別に終末思想などを言っているわけでもなく、歴史を省みればそうやって人類は何回も絶滅の危機を乗り越えて生きてきました。

絶滅の危機を省みると、それは突然にやってきます。まさかこの平和や安定が突如失われるなどとは誰も思いもしません。しかしそういう時がもっとも危機の前兆であり、私たちは備えることに油断している状態であるのです。

言い換えれば、自然に向き合うことをやめてしまう、もしくは自然から離れてしまう。その時こそ、本当の危機が訪れているということなのです。

時代が時代なら、この危機に向き合い人類はどうやってみんなで生き延びるかを世界で対話をして解決に向けて協力していかなければなりません。いつまでも国家間の争いをして、常に比較や価値や評価を競いあってみても大自然の前ではひとたまりもありません。

極端なことをいうのではなく、だからこそ危機に備える必要を感じるのです。先人たちの暮らしをよく観察すればするほどに、日ごろから危機に備える仕組みを醸成していたのがわかります。たとえば、結に見られるような助け合い支え合いの仕組みも暮らしの中で醸成していました。

ひとたび自然災害が来たら、その先人たちの暮らしが大いに役にたつのです。別に私は都会暮らしか田舎暮らしかを論議するのではなく、生き残るために何が必要かということを暮らしフルネスで提案しています。

その時が来ては遅いからこそ、今からやる必要があるのです。平時ではなく、有事に備えてこそ人類は協力し自律し合う関係が築けると思います。

子どもたちのために今できることを真摯に挑戦していきたいと思います。

心のパートナー

昨日、久しぶりですがオンラインで同志とこの一年の振り返りや話し合いを行いました。仕事も一緒にしながら理想に向かって挑戦を続けてもう7年目になります。色々な仕事をしてきましたが、理想を共にできる関係を築くことは簡単ではありません。

理想があるというのは、そこには非常な艱難辛苦もありお互いに苦労を分かち合いながらもあらゆる課題を心も持ち方を磨きつつ、創意工夫をもって乗り越えていきます。

片方が諦めても、もう片方は諦めない。そういった、お互いに同じ方向を向いて同じ目的に向かって挑戦するときにはじめてパートナーという関係が結ばれるからです。しかしそのパートナーは、決して頭で理解できるものではなく不思議なご縁によってのみ結実します。そこには天地人の縁が必要です。この天地人は、天の時、地の利、人の和、そしてご縁です。

人はいつかは必ず死にます。

この世で生きている時には、できるだけ一緒に様々なことに挑戦をして共に魂を磨き合い輝かせます。そして死してからも魂は共にしますが、そこにこの肉体は存在しません。頭で思考することもなくなります。ただ魂だけが残るのです。

だからこそ、この一期一会の瞬間を丁寧に丹誠を籠めて理想に向かって共に歩んでいく醍醐味があるのです。

昨日、彼らと話をして改めて振り返り気づいたのは私はこのコロナでこれからの時代の生きる力としてもっとも大切なのは「心の持ち方」を創っていくことだと思います。

本来の教育とは何か、教育の原点とは何か。それはこの「心の持ち方」を与えることだと実感するからです。どんな時でも、好奇心を持って楽しいものを見出していく力。人生の中での希望は、この一生を歩んでいくために最大かつ至高の座右です。

希望あるところに人は活き、絶望することで人は亡くなります。この世で、私たちが様々な艱難辛苦を味わう時、魂は磨かれますがそこで絶望すれば魂は衰えてしまいます。そんな時、希望を持てばまったく異なる世界が現われ真実に導かれていくのです。

つまりこの世は、その人の心の持ち方、心からの観え方次第で、どうにでも変わってしまうということなのです。そうやって私たちは、禍を転じては福にし続けてこの世を美しく豊かにしていきました。

人の心は、この不思議な効果や奇跡を自覚していてまさに心の時代に必要な素養であり、まさに今こそこの心の持ち方を学び直すことだと私は感じます。

心は私たちの大切なパートナーです。

そのパートナーと一緒に、心の持ち方を換える豊かさを追求しつつ新たな時代の幕開けを共にしていきたいと思います。

柿渋講習

昨日は、無事に柿渋講習を実施することができました。コロナ禍で人が集まることが難しくなっていますが、もともと柿渋にはウイルスを除去する効果がある伝統的な日本の知恵でもありますからまさに今やるべきとも感じています。

先日、ある報道で柿渋がコロナウイルスに効果があることが発表されました。

「奈良県立医科大学は、果物の渋柿から取れる「柿渋」が新型コロナウイルスを無害化させるという研究結果を発表しました。柿渋は、渋柿を絞って発酵・熟成させたもので、古くから塗料や染料などに使われてきました。奈良県立医科大学は、新型コロナウイルスと唾液に、純度の高い柿渋を混ぜて10分間置いたところ、ウイルスが無害化したと発表しました。飴やラムネなどに柿渋を混ぜて口に含むことで、新型コロナの感染を予防できる可能性があるということです。(奈良県立医科大学免疫学・伊藤利洋教授)」

柿渋のタンニンの成分の中にその効果があるとのことです。このタンニンとは、渋みのことです。この渋みと柿が合わさって、柿渋と呼んでいます。

また広島大学大学院の研究で柿渋が広い範囲の種々のウイルスを強力に不活化できることも発表されました。具体的な12種類のウイルスに対して効果を判定し、柿渋とそのほかの植物由来のタンニン7種類との抗ウイルス能力の比較を行い柿渋のみが調べた12種類すべてのウイルスに対して強い効果があることを示したといいます。

つまりすべてのウイルスを完全に不活性化したのは柿渋のみでした。研究グループでは柿渋の抗ウイルスの能力の作用機構を調べるとウイルス表面蛋白質に柿渋が結合しウイルスを不活性化していることも発見されています。また効果の持続を確かめるため、2年間の劣化でも柿渋の抗ウイルス作用は失われないことが示されたといいます。

まさに、ウイルス対策にうってつけのものがこの柿渋なのです。

昨日の参加者の一人からも、むかしの御医者さんが火傷でも柿渋を塗って処置していたといいます。雑菌の繁殖を防ぎ、そして自然由来で人体には無害。これほどの薬のような存在が今まであったことを人類は再確認する必要があると思います。

先人たちはこの柿渋の知恵で、様々な怪我や病気、防疫に役立ててきました。今、なぜ柿渋講習なのかと思われるかもしれませんが本来は有事の時だからこそ今こそ柿渋講習なのです。

子どもたちにも自然の知恵が身近に活用できるよう、引き続き伝承をしていきたいと思います。

真に豊かな暮らし

現在、持続可能な環境をつくろうと世界では様々な挑戦が続けられています。このまま資源が地球から枯渇してしまえば、未来の子どもたちは今のような生活を維持していくことはできなくなります。

この資源はすべての生き物たちにとっても大切な生活の糧ですからそれが人類によって著しく失われていけば、この世は繋がりの中で共生し合っていますから共倒れになってしまいます。

そうならないようにどうすればいいのかを、経済活動と並行しながら今の暮らしを維持しようとみんな藻掻いていますが実際には根本的な解決に至っているものはまだ見いだせていないようにも感じます。自転車操業的な文明の進化は、競争や対立によって拍車がかかるばかりです。どのみち、いつかは立ち止まる機会を得ますからそれまでにやり直す準備を進めなければなりません。

人類史の長い歴史の中では、文明の崩壊による新生は何度も繰り返されてきたことでもあります。その都度、何がよくなかったかを検証して私たちの先祖も改善を続けてきました。それを見倣い、取り組んでいくことで根本的な解決策をまた見出していくのも今の世代を生きる私たちの使命です。

私は日本の伝統文化と接する機会が増えていますが、この日本の先人からの伝統的な文化の中にはその仕組みや知恵が入っていることが分かります。

例えば、「永く使う」という暮らしもまた自然の資源を枯渇しない仕組みです。現在は、安く大量に何でも便利につくれますが流行が過ぎればすぐに廃棄しています。いくらリサイクルしたとしても、資源の消費のスピードが短く、結局は捨てるまでの期間を少しだけ伸ばしているにすぎません。

本来は、「捨てない」暮らしを実現していて先人たちはもともと「永く使う」ことを前提にしてものづくりをしていきました。そのために防腐防カビの智慧や、手入れする智慧、自然物の徳性を上手に活かす智慧などを活用してきました。

これは限りあるいのちや資源を如何に最期まで使い続けるか。言い換えるのなら、寿命というすべてのいのちが天寿を全うできるように自他に思いやりをもってこの地球での生活を営みました。

そこにはいのちへの深い感謝と思いやりがあり、いつまでも一緒にこの世で暮らしを共にしながら助け合い支え合い生きていこうとするような大家族への優しさに満ちている生き方をしているのです。

人類は本来は、地球上のどのいのちよりも周囲のために思いやりをもって接してきた存在ではなかったかと感じることがあります。だからこそ、自然を美しくする、また生きものたちを尊重して活用する技術に長けたのです。

今更かもしれませんが、こんな今だからこそ「いのちを大切にする」ことをもっと行動で示す必要があると私は思います。私の暮らしは、古いもの、本物に囲まれた有難い環境があります。

この場、この時、この人たちと一緒に、真に豊かな暮らしを実現していきたいと思います。

道は一つ

ミッション(理念)とは生き方の事です。どのような生き方をするか、それを保つためにどのような経営をするか、理念経営とは、理念が優先であってそれに合わせて経営を工夫するということです。

よく経営を優先して理念があとでという事例を見ますが、これは理念経営ではないことはわかります。本来、何のためにやるのかが本であり、末にどのようにやるのかが決まります。本末が転倒してしまわないように、常に初心を振り返りどのように取り組んでいくのかをみんなで真摯に実践していくしかありません。

そしてそのミッション(理念)を砥石に、振り返りながら磨いていくことで生き方を高め生き様を伝道していくことができます。そうすることで、一つの組織がまるで生きもののように生き様を共にする人たちによって人格のような姿が現われてくるのです。

稲盛和夫さんはこういいます。

「リーダーの行為、態度、姿勢は、それが善であれ悪であれ、本人一人にとどまらず、集団全体に野火のように拡散する。集団、それはリーダーを映す鏡なのである。」

つまりリーダーの生き方、またその生き方を共にするスタッフたちがミッション(理念)を共有し生き方を実践すれば企業に格(社格)ができるというのです。

さらに稲盛さんは、「人を治めるには、権力で押さえつける「覇道」と仁、義などの「徳」で治める「王道」とがあります。私は、やはり人間性、人間の徳をもって相手の信頼と尊敬を勝ち取り、人を治めていかなければならないと思っています。」といいます。

もしも覇道になれば、ミッション(理念)を凶器のように使われて権力の一つの道具になります。しかしもしも、このミッション(理念)が徳で使われるのならスタッフが自分たちの魂を磨き、人格を高めるお守りのようになります。

私は後者のためにミッション(理念)を使っているのであり、私の提案する仕組み(智慧)は自然に徳が穏やかに沁み込んでいくように日々の内省を通して自己の精神性を洗い清め高め合いながら自立と協力を促していくようにしているのです。

それはミッションページやミッションリーフレットなど、ミッションとつく物はすべてこの「徳」による王道の智慧を活用したものです。

まずは自己の脚下の実践からということで、弊社ではミッションブログに始まり、内省、一円対話、讃給などあらゆる仕組みを実証しています。

覇道でいくのか王道でいくのかと対比されますが、本来の道は一つです。

人類は魂をどう磨くか、磨き方は自然から学び直すことが一番です。自然の徳に包まれ見守られて生きている私たちのいのちだからこそ、その徳に報いていきたいと思います。

色を醸す

私たちが通常眺めている「色」には様々な意味が存在します。この世には、無数の色があり同じ色と思っていても自然界では千差万別な色で構成されています。私たちが馴染みの深い色には、その色の持つ歴史があり、私たちは暮らしの中でその色を眺めては心のつながりを深めていったように思います。

例えば、私は黒が好きで黒をよく使います。黒といっても、日本には数多くの黒が存在します。漆黒の黒であったり、灰色がかった黒であったり、他にも鳥羽色といった藍がかった黒があったりと、同じ黒でも色合いが異なります。

私が特に好きな黒は、炭の黒ですが穏やかな気持ちになる墨の黒は心に何かを伝えてくるものがあります。また煤から取り出す黒もまた格別です。この煤は、炭火が消えたあとののこり、その煤ですがなんともいえない深い味わいのある黒に変化していきます。渋墨という柿渋と松煙を混ぜた伝統塗料の色も、うっとりする黒を醸し出します。

むかしから色には意味があると信じられてきました。代表的なものに五色というものがあります。これは古代中国の陰陽五行説から渡来したものです。この陰陽五行説は、この世のすべては陰陽と木・火・土・金・水の五行で成り立つという思想です。

これは自然界を構成する代表的なものを分類し変化や調和を学んだのでしょう。易経や風水もこの五行を参考にされています。この五行の五色、ここから木=青、火=赤、土=黄、金=白、水=黒(玄)としたのです。

自然界の変化には色があります。例えば、先ほどの私の炭色であれば夜の暗闇の中にこの炭色は浮き出ます。同じ黒でも、闇の中の炭の黒は暖かい黒であり、見分けがつくほどに炭は存在感を出しています。また黒と赤は相性がよく、観ていると和むのは炭に火が灯ると黒と赤の絶妙な明かりが周囲を包むように照らすからです。

火と水の調和から産み出される色合いに、私たちのいのちはその何かに感応していきます。色はまた感情も顕します、あらゆる色合いのなかで私たちはまた自然に透明な色に回帰してそこからまた色が産み出されていきます。

色は私たちの変化の証であり、いのちの活動の動静や明暗を伝えるものです。自分に合った色を知ることは、自分の環境をととのえていくのにはとても大切なことです。私は和色が好きですから、古いものを磨き、深い色合いが出ているものを身近に置きたくなります。

年数がたてばたつほどに色合いは深く濃くなり、一つの色の中にあらゆる歴史が凝縮されて色が醸します。色々な人生を色々な感性と共に歩み、それを和して顕現させていく。子どもたちがどんな色を楽しんで醸していくのか、今からとても楽しみです。

 

時代を実践する

コロナのことで時代が大きく動いているのを感じます。最近は特に、本筋や本質的に取り組んでいることを理解できる人が急速に増えてきているのを感じます。もともと、真理やシンプルだったことがわからなくなっていた世の中でしたからコロナによって世界の現実を突きつけられ目が覚めてきたということでしょう。

人類の目覚めは、常に死生観と共に発生し、原点回帰をしながら更なる革新をはじめます。私たちの歴史を観たら、感染症によってそれまでの価値観が崩れ、もう一度、それまでの価値観を見直し、新たな価値観を創造していきます。

それは文化だけではなく、同時に文明も創造されます。

文化であれば、より連綿と続いてきたものを新たな時代に照準を合わせて革新されます。つまり、より自由に開放され心の世界が人間の目に映るようになります。ルネサンスの時も同様に、あらゆる心の世界が表に顕現していきました。そして、文明は科学技術を大きく発展させます。それまでにできなかったことが、心の世界の新たな顕現に合わせて大きく進歩します。つまり心の顕現と科学の顕現が同時に発達するのです。技術革新は、時代の先を見据えてその卵が羽化するように、また眠っていた種が芽吹くように発生していくのです。

私が取り組んでいる暮らしフルネスは、その文化と文明の発達を同時に実現する思想と実践によって創られています。

文化は甦生し新たな境地に入り、文明はその甦生した文化と融合して新たな価値に生まれ変わります。たとえばそれは日本文化の和とブロックチェーンの掛け合わせのような具合に時代を発端として開花します。

今は、私は時待ちです。

どこからはじめるか、何からはじまるか、じっと月を待ちます。

時代の大局を眺めては自然の中で高臥します。

雲の上からとても大きな風が吹いて降りてきます。

雲のようにそして風のように、存在がゆらゆらゆれて透き通りぬけていきます。

自然から様々なメッセージが入ってきたこの十年、コロナによって終焉を告げられ新しい鐘の音が響いています。同志や仲間たちを集め、それぞれの場所で一つになって時代を実践していきたいと思います。

改心の一心

人生の中では正念場というものが何回も訪れます。その正念場とは、まさにその言葉通りで「念」の「場」にするということです、念は今の心と書きますから、今に集中するということです。

人はあれこれと思い悩んでいると、念が入りません。念が入らないと念が籠らないと心が入りません。心を入れるというのは、頭で考えるのではなくまさに自分の初心を忘れないままで実践を積むということです。

人はすぐに初心を忘れます。脳が働くからこそ初心を思い出せなくなっていくのです。特に感情が揺さぶられれば、悩みで頭はいっぱいになります。そうなると心がどこか別のところにいくようになるのです。

そうならないように、毎日、毎朝、自分の初心を確認してその覚悟の日々を生きていくということが本来の正念場ということでしょう。

正念場をどう日々に迎えるか、そして正念場をどう実践して魂を磨くかがその人の一生を決めていきます。

中村天風にこういう言葉があります。

「一度だけの人生だ。だから今この時だけを考えろ。過去は及ばず、未来は知れず。死んでからのことは宗教にまかせろ」

今に生きる、今を生き切るとき人は正念場ということでしょう。

中村天風の哲学は、人生は心一つの置きどころにあるといいます。如何に人間をつくるか、それは一心に生きることを説きます。まさに、正念場を生き続けて磨き人間を創ることに徹底するのです。

未熟な自分を憂うこともありますが、だからこそまず自己を磨き創ることに専念することだと感じるのです。最後に、中村天風の遺した言葉をいくつか紹介します。

「船に乗っても、もう波が出やしないか、嵐になりゃしないか、それとも、この船が沈没しやしないかと、船のことばかり考えていたら、船旅の愉快さは何もなかろうじゃないか。人生もまたしかりだよ。」

「土台を考えないでいて、家の構造ばかり考えたって、その家は住むに耐えられない家になっちまうでしょう。人生もまたしかりであります。」

「偉くなる人とそうならない人と、差が出てくるかっていうと、同じ話を聴いても、聴き方、受け取り方が全然違うからなんです。受け取ったことを自分の人生に、どう応用していくかということだけの差なんです。」

「自分が心配、怖れたりしている時、「いや、これは俺の心の本当の思い方、考え方じゃない」と気付きなさい。」

「自分自身を自分自身が磨かない限り、自分というものは本当にえらくならない。」

「笑っているとき、人間は最も強い。」

先人の生き方に倣い、今日も改心していきたいと思います。

 

ご縁が解ける

仏(ほとけ)という言葉があります。この語源を調べると、それぞれの辞書で内容は異なりますがブリタニカ国際大百科事典には「仏陀のこと。語源は,煩悩の結び目をほどくという意味から名付けられた,あるいは仏教が伝来した欽明天皇のときに,ほとほりけ,すなわち熱病が流行したためにこの名があるともいわれる。日本では,死者を「ほとけ」と呼ぶ場合もある。」とあります。

シンプルに言えば、執着を取り除いた姿が仏(ほとけ)の象徴とされたように思います。強く握りしめていたこうでなければならないというものを、手放し融通無碍に来たものの全てを受け容れて受け止めるときこの仏(ほとけ)に近づいていくということかもしれません。

小林正観さんの著書にこの仏(ほとけ)についてわかりやすい内容で紹介されています。

『執着やこだわり、捕らわれ、そういう呪縛から解き放たれた人を、日本語では「ほとけ」と呼びました。それは「ほどけた」「ほどける」というところから語源が始まっています。自分を縛るたくさんのもの、それを執着と言うのですが、その執着から放たれることが出来た人が仏というわけです。ところで、「執着」とは何か、と聞かれます。執着というのは、「こうでなきゃイヤだ」「どうしてもこうなってほしい」と思うことです。それに対して、楽しむ人は、「そうなってほしい」のは同じなのですが、「そうなったらいいなあ。ならなくてもいいけれど。そうなるといいなあ」「そうなると楽しいな」「そうなると幸せだな」と思う。「こうでなきゃイヤだ」と思ったときに、それが執着になります』(だいわ文庫)

想いの強さは時として、それが執着になっていきます。情熱がありすぎると正義を振りかざしたり、自信がありすぎると思いやりに欠け過信にもなります。なんでも片方に過ぎることが時として調和を崩すことがあり、その都度、自己の執着を手放すようにと何か偉大な存在に見守られながら諭されていきます。

人生は誰もが一生涯修行であり、どんなときにも自分の中にある執着と対話してそれを手放すという修練が求められていきます。その中で、人は深いご縁ほどにつながりもまた深くなります。

一つ一つのご縁の中では、誤解もあれば了解もあります。しかしそのどちらも、いつの日か時が経てば解けていき真実が顕現していきます。未熟だった自分を反省し、改善していくことで人はさらに成長していきます。そういうご縁をいただいていること自体が感謝そのものであり、深くご縁に見守られていることを実感します。

子どもたちが憧れるような未来を遺していくためにも、今を直視して日々に弛まずに怠けずに逞しく嫋やかに実践し、思いやりを忘れず優しい心で歩を進めていきたいと思います。

結の甦生

藁葺のことを深めていると、むかしの相互扶助の共同体の「結」のことにつながります。今では金銭でなんでも解決するような生活になってきていますが、むかしは貸し借りを金銭ではないもの、つまりはお互いの義理人情のようなもので支え合っていました。

もちろん、今でも義理人情はありますがむかしは見返りを求めずに助け合うという根底には「徳」というものの考え方によって人々が助け合い支え合うという土着文化がその地域を安定させていたとも言えます。

例えば、先日の藁葺でもみんなに声をかけて集まってもらい集まった人たちで助け合いながら藁葺職人たちと一緒に屋根を修繕していきました。懐かしさを感じるのは、こうやって金銭ではなくみんなで助け合い支え合うところに暮らしの原点があるということです。

中部地方の合掌造りの茅葺屋根の葺き替えは「結」の制度があり、ウィキペディアによると今でも下記のような手順で藁葺を進めているようです。

「作業の3年以上前から準備が始まる。屋根の面積から必要な茅の量と人員を概算する。作業の日取りを決め、集落を回り葺き替えをいついつ行うので手伝って欲しいと依頼する。予め作業に必要なだけの茅を刈って保存しておく(そのための「茅場」を確保してある)。役割分担を決める(茅を集める者、運ぶ者、茅を選別する者、縄などその他道具を準備する者など)。上記は専ら男性の作業である。女性は作業に従事した者達への食事、休息時の菓子、完成祝いの手土産の準備を行う。屋根の両面を同時に吹き替えることはほとんど無く、片面のみを2日間で仕上げる。1日あたり200人から300人の人手が必要となる。100人以上が屋根に登るさまは壮観である。」

金銭であれば1000万以上かかるものを、無報酬で協力し合って村人たちで行われているといいます。

以前、この「結」のことである方に聴いたことがあるのは「むかしの人は自分が受けた恩義をいつまでもお互いに忘れない、それが先祖代々、「結帳」に記入してあれば子孫の代になっても口伝、もしくは記録しいつまでもその人たちのことを協力するという考え方があったことです。恩義を中心にして、無条件でお互いに支え合うというのは「徳」のつながりのことであり、私が取り組むブロックチェーンの概念と同様です。

貸し借りとは、金銭的なものだけを言うのではありません。等価交換できないもの、それもまた恩義でありそれは生き方が決めるものです。感謝し合う人格が磨かれた地域であれば、その地域の文化はみんなで恩義の質量を高めていくことができます。

つまりは徳を中心にした思想によって、相互扶助の豊かさを実現していくことができるのです。この豊かさといういうものは、現代のような物質的な豊かさではないことはすぐにわかります。

これはまさに人がこの世で安心して暮らしていくために絶対不可欠な安心基地を持つ豊かさの事です。そして見守り合い徳を分け合う暮らしは子孫たちの安心にもなり、先祖たちもその繋がりに恥じないよう、またいつでも顔向けできるようにと協力を惜しまずに恩送りをするのです。

等価交換できないものを持つというのは、心で繋がり深く結ばれていくということです。これが和の原点であり、結の意味でしょう。

「結」の甦生は、これからの時代の新しい真の豊かさにおいてかけがえのない大切な実践項目です。むかしの豊かさから学び直し、原点回帰していくことで日本人の甦生、日本の甦生、そして世界の甦生を促していきます。

これは現代を全否定するのではなく、あくまで原点回帰して本物や善いものは持続しながら文明を調和させていくということです。ブロックチェーンで私が取り組むことはこの新しい豊かさの甦生です。

引き続き、子どもたちのために志を磨いて挑戦をしていきたいと思います。