野性との共生

池の周囲には大量の白鷺(シラサギ)が飛来してきています。この白鷺は、夏は田んぼでよくみかけ川の畔にはアオサギなどをよく見かけます。結構、印象深い野鳥ですが当たり前すぎて気に掛けることも減っています。

むかしの日本は、これに鶴などの野鳥がたくさんいたのでしょう。鶴はもともと江戸時代までは北海道から関東地方でも見られたようです。しかし明治時代になると乱獲され、さらに生息地である湿原の開発により激減して今では絶滅したといわれます。葦などの湿原が多くあった日本の土地も、今ではほとんど失われています。

まだ白鷺などの方は、田んぼやサギ山といった林や森があるので生息地が確保されています。野生動物たちの生きる場所や生活の範囲を奪うと、生きものたちは行き場を失っていきます。

むかしの人たちは、敢えて杜をつくり生き物たちが生息できるような境界をもうけて見守り合っていました。自然というものをみんなで分かち合い生きることに真の豊かさを感じていました。生き物が次第に減っていく姿をみていたら、本当の貧しさとは何だろうかと向き合うことに気づけるようにも思います。

現在、鳥類の8種に1種が絶滅危惧になっているといいます。そのうち、ツバメやスズメも絶滅するのではないかといわれています。日本はこの150年で3分の2以上の野鳥が絶滅及び減少しました。

鳥が減っている理由には様々ですが、人間が原因であることは間違いありません。人間の生活が、ほとんど野生の生き物を無視しているところに起因しています。都会の人間だけの生活に憧れ人間以外を無視してきた生活が田舎の隅々にまで広がっていきます。

実際には鳥の鳴き声で癒され、魚や虫たちの多様性に花も実も支えられている私たちがそういうものを無視して排除してきたことで生き物は減りました。一度、絶滅してしまった生き物は復活することはなく永遠にそこで失われます。

あと100年後の日本、及び世界はどうなっているのか。子どもたちが未来に生きるとき、その時、野鳥をはじめ野生の生き物たちはあとどれくらい残っているのか。心配になります。

子どもたちの未来を思うと、まだ今の世代の責任を果たすチャンスがあります。身近な小さな一歩からでも、野性との共生をはじめて伝承していきたいと思います。

 

日本人の徳~やまと心の甦生~

日本人の心の風景を譲り伝わるものに「歌枕」というものがあります。これは辞書によれば「歌枕とは、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またはそれらを集めて記した書籍のことを意味したが、現在はもっぱらそれらの中の、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことをさしていう。」とあります。

またサントリー美術館の「歌枕~あなたの知らない心の風景」の序文にとても分かりやすく解説されていました。それには「古来、日本人にとって形のない感動や感情を、形のあるものとして表わす手段が和歌でありました。自らの思いを移り変わる自然やさまざまな物事に託し、その心を歌に表わしていたのです。ゆえに日本人は美しい風景を詠わずにはいられませんでした。そうして繰り返し和歌に詠まれた土地には次第に特定のイメージが定着し、歌人の間で広く共有されていきました。そして、ついには実際の風景を知らなくとも、その土地のイメージを通して、自らの思いを表わすことができるまでになるのです。このように和歌によって特定のイメージが結びつけられた土地、それが今日に言う「歌枕」です。」

そして日本古来の書物の一つであるホツマツタヱによる歌枕の起源には、「土中の闇に眠る種子のようなものでそこからやがて芽が生じるように歌が出てくる」と記されています。

日本人とは何か、その情緒を理解するのに歌枕はとても重宝されるものです。「古来・古代」には、万葉人が万葉集で詠んだ歌があります。その時代の人たちがどのような心を持っていたのか、その時代の先祖たちはどのような人々だったのか。私たちの中にある大和民族の「やまと心」とはどのようなものだったのか、それはこの歌枕と共に直観していくことができます。

しかし現代のような風景も人も価値観も文化も混ざり合った時代において、その時代にタイムスリップしてもその風景がどうしても純粋に思い出すことができません。ビルや人工物、そして山も川もすべて変わってしまった現代において歌枕が詠まれた場所のイメージがどうしても甦ってこないのです。

私は古民家甦生のなかで、歌枕と風景が描かれた屏風や陶器、他にも掛け軸や扇子などを多くを観てきました。先人たちは、そこにうつる心の原風景を味わい、先人たちの心の故郷を訪ねまた同化し豊かな暮らしを永遠と共に味わってきました。現代は、身近な物のなかにはその風景はほとんど写りこみません。ほぼ物質文明のなかで物が優先された世の中では、心の風景や大和心の情緒などはあまり必要としなくなったのでしょう。

しかし、私たちは、どのようなルーツをもってどのように辿って今があるのかを見つめ直すことが時代と共に必要です。つまりこの現在地、この今がどうなっているのかを感じ、改善したり内省ができるのです。つまりその軸になっているもの、それが初心なのです。

初心を思い出すのに、初心を伝承するのにはこの初心がどこにあるのか、その初心を磨くような体験が必要だと私は感じるのです。それが日本人の心の故郷を甦生することになり、日本人の心の風景を忘れずに伝えていくことになります。そのことで真に誇りを育て、先祖から子々孫々まで真の幸福を約束されるからです。

私の取り組みは、やまと心の甦生ですがこれは決して歴史を改ざんしようとか新説を立てようとかいうものではありません。御先祖様が繋いでくださった絆への感謝と配慮であり、子孫へその思いやりや真心を譲り遺して渡していきたいという愛からの取り組みです。

真摯に歌枕のお手入れをして、現場で真の歴史に触れて日本人の徳を積んでいきたいと思います。

 

 

当たり前のこと

裏方というものはあまり表に出る事はありません。しかし場をととのえ、全体を支える大切な役割を持っています。表で活躍している人の背景には、裏方で支えてくれている人があってのものです。これは家というものも同じです。当たり前に私たちは家に住んでいますが、家があるというのは本当に有難いことです。

家というものを考えてみると、自分を支えて守ってくれるすべてがととのっています。雨風や寒さ暑さ、虫や動物、他にも精神的なものまで守ります。居場所があり、守ってくれて支えてくれています。自分の身体を安全安心に保ってくれるのも家があってのことです。そういう家の存在に感謝しているかといえば、気が付くと当たり前になってしまいお手入れやお掃除もしなくなっているものです。

年末は、改めて色々な今までの御礼を思い出し感謝を忘れずに丁寧にお手入れしていくことで労をねぎらう時間はとても豊かなものです。

私たちの会社は、よく有難うと言い合う文化があります。ちょっとしたことでも有難うといいます。これはお互いに当たり前ではないことに感謝し合う姿でいようと取り組んできたからかもしれません。

最近は、離れていることが多くオンラインになっているのですが家と同じく家族のように支え合っていますから同様に有難うの言葉が交わされます。家にいて、有難いなとどれだけ思えているか。家族にどれだけ有難いと感じているか。心の豊かさというのは、当たり前のことを深く味わえる生き方のことをいうようにも思います。

心が豊かな人は、心がわかります。

忙しい人は、心のことがわかりません。それがもっとも貧しいことではないかと最近は感じます。忙しいことを平気で自慢する人のなかには、心の疲れを隠して誤魔化し、楽観的であろうとしているような人もいます。本来の豊かさは、穏やか、そして静かさの中にあります。

心静かに一人で内省する時間は、格別な豊かさです。

子どもたちにもそういうお手本になれるよう実践を楽しみ味わっていきたいと思います。

野生の感覚~いのちの間~

私たちは本来、古代から野生というものを持って誕生してきました。地球と共生する地球の一部としての本能というか、いのちが繋がっている存在でもあります。その野生は、大人になっていくにつれ減退し人工的なものになって都会化していきます。

そのうちにもともと使っていた能力や機能にも蓋をして野生であったことを忘れていきました。そうすると、本来のいのちの感覚や、身体の感覚、精神の状態なども含め、何が本当のニュートラルであるのかも忘れてしまいます。

目で見て知識が増えて、限りなく増幅させていくような幸福に魅せられては足し算や掛け算ばかりでモノを増やして消費してきます。しかし実際には、真の豊かさはその逆で足るを知り、削り取っていく余計なものを減らしていくような引き算のなかにあったりするものです。

野生に戻るには、足し算ではなく引き算のように自分がもっているものを減らしていく必要も感じます。

食べることであれば、たくさんを贅沢に食べるのではなく一つのものを丁寧に味わい、時間をかけてじっくりをいのちをいただく。品数も量も少なくても、その一つから生まれる有難さや喜び、味わいを感じ尽くすことで全身心が野生の感覚になり仕合せになります。まさに足るを知り喜びが満ちるのです。

私も暮らしフルネスのなかで、大切なご縁のものをいつまでもお手入れして味わったり、炭のぬくもりを最後まで味わったり、お水のもつ有難さを感じきったりして喜びが満ちることが何度もあります。

人工的に信じ込んだ増やす事ばかり、やることばかり、スケジュールに追われてお金儲けばかりしている知性のコントロールをしていかないと真に豊かさを感じることもできなくなっていくように私は思います。

必要な分だけということに人類が目覚めれば、人類は永続することができます。地球はその必要な分は用意しているから今までも暮らしてこれたのです。しかし必要以上に、誰かが集めようとしたり、必要ではないものまで獲ろうとすればそのツケは因果応報に自分に返ってきてしまいます。

一人一人がどのように目覚めていくのか、それが試される時代です。

子どもたちのためにも、先人の知恵を頼りながら新たな道を拓いていきたいと思います。

煤払いの暮らし

昨日は、聴福庵と和楽のすす払いを行いました。この煤払いは一般的には12月13日に行います。もともと旧暦12月13日は、婚礼以外は万事に大吉とされる鬼宿日(きしゅくにち)とのことで江戸時代に江戸城で煤払いが広がったからといいます。

もともと神聖な歳神さまをお迎えする神事として厄払いを兼ねて丁寧に準備をして待つという意味でも行われてきました。この後は、正月に向けて門松やお餅つきなども行い新年にむけて清浄な場をととのえていきます。

有難いことに今年は、ご縁のあった曹洞宗の和尚さんに来ていただき家祈祷を行いました。この一年の道具たちや暮らしのあらゆる場に対して御供養していただきました。思い返せば、今年も竈や囲炉裏をはじめ火の神様と共に歩んだ一年でした。当たり前ではなく、この火があることの有難さ、尊さ、そしていつも豊かな人生を助けてくれる暮らしのあらゆるものへと感謝する機会になります。

和尚さんと共に数日間を暮らしていると、朝は日が昇る前に起き座禅をしお参りをします。そして元氣よくご挨拶をしてお掃除をします。一緒に朝食を食べ、一日を合掌と共に過ごします。心豊かに保ち、どんなこともご縁であり学びであるとよく聴きよく観て手を合わせます。夜になれば湯あみをして穢れを払い、またお経を唱えてはお参りをしてお休みします。

丁寧な生き方が暮らしを支えています。

もともと私たちは宇宙の運行や自然の循環とともに丁寧に和合する暮らしを営んできました。その時々の季節のめぐりと身体と心を一致させ感情をととのえて豊かに生きてきました。健康であることの有難さ、静かに過ごすことの仕合せ、太古の昔から足るを知り、幸福を味わって一生を終えていきました。

現代は、人間の都合で経済活動を中心とした時間とお金に管理されて暮らしが消失していきました。季節感もあまりなく、毎日は人間同士の活動で忙しくしています。太古からの暮らしは今では遠いむかしの過去の出来事です。

私は煤払いをはじめてから、懐かしいふるさとを感じる機会が増えたように思います。年末まで色々とあったことを振り返り、一年が豊かで恵まれていたことに感謝するのです。その感謝は、煤を払ったときに美しくその場にととのうものです。

大掃除という言い方ではなく、煤払いという言葉の中にその意味を感じます。積もった雪のような灰も煤も、暮らしの余韻であり仕合せの宝。それを綺麗にふき取って磨いていきまた元の状態を確認していくこと。私たちの日々は、払い、拭いて磨いてお手入れをしていくなかで味わい深いものになり心は安心するものです。

安心できる日々は、生きている深い味わいと実感を得られる日々です。

子どもたちに安心できる豊かな日々を共に創造していきたいと思います。

いのちのリレー~理念研修~

えにし屋の清水義晴さんの御蔭さまで福島県にある日本三大薄皮饅頭で有名な柏屋の五代目本名善兵衛さまとご縁をいただき、無事に理念研修を終えることができました。また本名さまからは、日本一の誉れのある旅館、八幡屋の7代目女将の渡邊和子さんと日本を最も代表する自然酒で有名な十八代蔵元の仁井田穏彦さまとのご縁をいただきました。どの方も、覚悟の定まった美しく清らかな生き方をされており志に共感することが多く、暖簾を同じくした親戚が増えたようなあたたかい気持ちになりました。

福島は東日本大震災の影響をうけ、そのままコロナに入り大変なことが続いた場所です。離れて報道などを拝見し、また人伝えにお話をお聴きすることが多くありずっと心配していました。今回、ご縁のいただいた方々のお話をお聴きしているとピンチをチャンスに乗り越えられさらに美しい場所や人として磨かれておられるのを実感しました。

自分たちの代だけのことではなく、託されてきた先人たちへの尊敬や感謝、そして子孫たちにどれだけの素晴らしい宝を遺しそしてバトンと渡せるかと皆さん今を磨いて真摯に精進されておられました。

私にとっても本来の日本的と何か、日本人とは何か、日本的経営の素晴らしさをさらに実感する出会いになりました。

私は理念研修をする際には、本来はどうであったかというルーツや本質を徹底的に追求します。今がある原因は、始まりの初心が時間を経て醸成されたものです。その初心が何かを知ることで、お互いが志した源を共感することができるからです。この志の源とは何か、これは自然界でいう水源であい水が湧き出るところのことです。

この湧き出てきたものが今の私たちの「場」を産んだのですから、その最初の純粋な水を確かめ合い分け合うことで今の自分に流れている存在を再確認し甦生させていくことができます。甦生すると、元氣が湧き、勇氣を分け合えます。

水はどんなに濁っていたり澱んでしまっても、禊ぎ、祓い、清めていくうちに真の水に回帰していきます。私たちの中に流れているその真水を忘れないことで水がいのちを吹き返していくように思います。

私たちは必ずこの肉体は滅びます。それは長くても100年くらい、短ければその半分くらいです。そんな短い間でできることは少なく、みんないのちのバトンをつなぎながら目的地まで流れていきます。大航海の中の一部の航海を、仲間たちと一緒に味わっていくのが人生でもあります。

その中で、後を託していくものがあります。これがいのちの本体でもあります。そのいのちを渡すことは、バトンを繋いでいくことです。自分はここまでとわかっているからこそ、次の方に渡していく。その渡していくものを受け取ってくださる存在があるから今の私たちは暮らしを営んでいくことができています。

自分はどんなバトンを受け取っている存在なのか、そしてこれからこのバトンをどのように繋いでいくのか。それは今よりももっと善いものを渡していこうとする思い、いただいた御恩に報いて恥じないようなものを磨いて渡していこうという思い、さらにはいつまでも仕合せが続いてほしといのるような思いがあります。

自分という存在の中には、こういうかけがえのないバトンがあることを忘れてはいけません。そしてそのバトンを繋いでいる間にどのような生き方をするのかも忘れてはいけません。そのバトンの重みとぬくもりを感じるからこそ、私たちは仕合せを感じることができるように思います。

一期一会の日々のなかで、こうやって理念を振り返る機会がもてることに本当に喜びと豊かさを感じます。このいただいたものを子どもたちに伝承していけるように、カグヤは引き続き子ども第一義を実践していきたいと思います。

ありがとうございました。

会社にとってもっとも大切なこと

本日からカグヤでは同じ初心や志を持つ会社に訪問する理念研修を行います。私たちの会社は元々、目的重視で働いていますから理念研修というのはよく行われています。現在では、ほぼ毎日がある意味で初心の振り返りと改善ばかりで生き方を見つめ、働き方を磨いている日々です。

一般的に会社は、目標ばかりが求められますが私たちは何のためにを大事にしています。「子ども第一義」という言葉をスローガンにしていますが、これは目的を見失わないためにみんなで確認し合っているものです。この第一義というのは、何よりも大切な中心としているものという意味です。この子どもというのは、子ども主体の子どもであり、童心の子どもでもあり、子どもが人類の最も尊い存在であるという意味です。

私たちは大人か子どもかで子どもを語ります。子どものためにといいながら実際には、大人の社会の都合がよい方へばかりの議論をします。本当に子どもが望んでいることは何か、それは一人一人の一家一家の暮らしの環境にこそ存在します。自分たちも本来は、子どもが大きくなっただけで子どもが何よりも尊重される世の中にしていけば自然界と同じく調和して仕合せを味わえる世の中にできるはずです。

当たり前のことに気づけなくなっている現代において、純粋にニュートラルに子どもの憧れる未来のために生き方と働き方を変えていこうと挑戦しているのがカグヤの本志、本業ということになります。

生き方というのは、どのような理念を抱いて取り組んでいるかということです。その生き方を確かめて、今日はどうであったかと振り返る。仕事や内容はその手段ですから、その手段のプロセスに目的を忘れずに誠実に実践してきたかというものが働き方になります。その働き方をみんなで分かち合い確かめる中に、みんなの生き様が出てきます。その生き様の集合体こそが、会社であり理念の体現した姿です。

社会というのは、自立し合うことで真に豊かになります。この自立とは、奴隷からの解放でもなく、お金や地位、名誉、成功者となることとは違います。本来の自立は、みんなが目的意識を持ち、協力し合い助け合い、お互いを尊重しながら生き方を磨いていくなかで醸成されていくものです。

自分らしく生きていくというのは、思いやりをもてる社会にしていくこととイコールです。自分も人も活かすというのは、お互いを違いや個性を喜びあい感謝していくということです。

子どもたちは、学校の勉強とは別に家庭や家族、身近な大人の生き方や生き様を模範にして学んでいきます。これは単なる教科ではなく、まさに生きていく力を養っていくのです。

だからこそお手本が必要ですし、場や環境があることが重要になります。育つ環境がなければ、いくら教えても真の意味で学ぶことができないからです。これは文化の伝承なども同様で、連綿と繋がっていく中で託していくものですから先人たちが先にお手本になりそれを子孫へと結ばれていくものです。

私たちの会社は決してユニコーン企業や大企業、テレビなどで有名なベンチャー企業などではありません。しかし、こういう私たちのような生き方や働き方を大切にする会社も社会には必要だと感じています。誰もいかない道だからこそ、私たちがその道を往く。子どもの1000年後のために必要なことだからこそ、誰もしないのなら我々がそれを遣るという覚悟をもって会社を運営しています。

そして同じようにそれぞれの道で自分らしく歩んでおられる方の生き方や働き方は私たちにとっても勇気や励みになり、また知恵を分かち合える同志にもなります。たとえ手段は異なっても、目指している夢や未来は似ているということに深い安心感を覚えます。

一期一会の日々に、どれだけ真心を籠めて生きていくか。

会社としてもっとも大切なことを忘れない日々を過ごしていきたいと思います。

 

ルーツから

私たちは知らず知らずのうちに自らの価値観の中に歴史の影響を受けています。産まれて育った風土は、原初からずっと今まで続いておりそこに人々が暮らしを営んできました。時間軸でも、100年前も1000年前も、また数千年前もここで誰か人々が生活を営んできたのです。そして今も自分も同じ場所で生活をしています。

もしも1万年間ずっとカメラがその暮らしを撮影していてそれを数倍速で見たとしたら今の自分がこの風土に大きな影響を受けていることに気づくはずです。例えば、外国人で肌の色が違かったり姿カタチが異なるのもまたその風土の影響があってのことです。それに価値観や文化、食べているものの違い、得意不得意なども育った場所、そして生活様式、それらの影響も風土が決めます。国民性の違い、国民の特徴などもまた歴史や風土です。

つまり私たちは、何かを学び始めるずっと前に本来の自分たちは一体何者で何処からきて何をして目的は何かなどはじまりやルーツを知る必要があると私は思います。日本であれば、神話がありそれが国家になっていく歴史の変遷もあります。あとは、この日本の風土でどのように生活をつむいでどのように助け合ってきたかという経過も大切です。

そういうものを学び、知ることではじめて自分のルーツを知り日本という姿、日本人であるということを自覚できます。世界との交流がますます進むこれからの未来において、特に大切なのはこの「自分を知る」という教育なのです。

しかし残念なことに、現在は机上の学問が優先され地域や郷土、風土から学ぶという実践体験も失われています。同時に、ルーツはほとんど知らされず途中からの年号の歴史を学びます。今もつながって存在しているという生きた歴史ではなく、ショーケースに入ったような歴史を暗記しては受験のために使います。

すべての学問の原点でありルーツである歴史を学ばないというのは、未来に大きな禍根を残していきます。

キャリア教育とかSTEMとか流行りもありますが本当は何のために学ぶのか、そして自分とは何かという普遍的なことをもっと大切にしてほしいと思います。そのための歴史であり、そのための故郷があるのです。

子どもたちのためにも、私のできるところで真摯に取り組んでいきたいと思います。

お掃除の仕合せ

昨日は、禅僧の友人と一緒に宿坊でお掃除をしました。お掃除に取り組む姿勢にはいつも感銘を受けます。お掃除には生き方が出てきます。そしてその人柄も出てきます。

私は暮らしフルネスの実践をするなかでいつも掃除ばかりしています。なので人から見れば、一緒にいると掃除ばかりしている人になっています。しかし実際に私は10年くらい前までは掃除はほとんどしないタイプでした。それが気が付くと、掃除ばかりの人生になっています。

掃除をするとき、一緒に掃除をすることも増えてきます。すると、お互いに掃除をしながら生き方を学び、人柄を感じます。丁寧に拭き掃除をし、人がしないところまで片づけたり、見逃さずにその時に拭き清める。そんなことをしているうちに、心がととのい場も清められます。

場というものは、その人の生き方が凝縮したものです。その場にその思想、生き方、熱量ありとあらゆるものが宿ります。だからこそ、その場のお手入れが必要でそのお手入れをもっとも効果的に行っているのがお掃除というものです。

心が荒んでくると場が乱れます。そういう場をみていると埃だらけであったり、雑然として散らかっていたりします。きちんと片づけて掃除をしていれば、何が乱れているのかがわかります。しかし乱れていることが分からないくらいになっているからそれが場に現れてきます。

自分自身がお掃除をすることは、自分自身が気づかなくなっている初心や本心、志を確認する大切な時間にもなります。そして自分自身を場に投影し、自分を磨いていく大切な時間にもなります。

日々のお手入れ、日々のお掃除は、生き方のお手入れ、人格を磨いていくことなのはやってみるとすぐに気づきます。

遠方より朋がきて、一緒にお掃除ができる仕合せに感謝しています。

ありがとうございます。

本来の子孫

私の志は子どものためです。この子どもは、子孫とも言いかえれます。自分がここまで生きてこれたご恩に対して報いたい、そういう感謝の気持ちがあります。同時にこうしてくださった親祖から先人たちへの尊敬と感謝もあります。続いていくもの、繋がっているもの、結ばれているものに永遠の徳を感じるからです。そういうことから、私は初志や理念を子ども第一義と掲げてきました。

しかし周囲は何のために今、これをやっているのかというのはそんなに見えません。やっている行為や具体的な事象のことから、きっとこうだろうやああだろうと決めつけられそういう人になっています。そのうち、勝手に期待されたり噂されたりするものです。そのほとんどは当たっていないのだから気にはしないのですが、人間は周囲や身近な人が影響を受けると悲しくもなるものです。

江戸時代の儒学者に佐藤一斎がいます。この方の言志四録は、西郷隆盛、吉田松陰なども座右のように学んだとあります。その言葉には、志を貫くために必要な知恵がちりばめられています。私も海外に留学するとき、または仕事をはじめてすぐのころは何度も読み返していました。しかし、壮年になった今でもその知恵は燦然としています。

志は、自分自身が見失いそうになるものです。それだけ目の前のものや周囲の言葉、心の安逸に流されていくからです。志を立てているからこそ悩み悶えます。しかしその時こそ志は成長し、磨かれ、研ぎ澄まされていきます。まるで人生の砥石のように志が自分を研いでくれます。

子孫のためにと取り組むとき、大切な知恵が言志四録の89条にあります。

「当今の毀誉は懼るるに足らず。後世の毀誉は懼る可し。一身の得喪は慮るに足らず。子孫の得喪は慮る可し。」

これは自分自身に対する世の中の評価などは恐るに足りないが、後世までもその世の中の評価が遺ることは恐ろしいことだと考えなければなりません。自分自身における利害得失などは心配しなくてもいい、しかし子孫の代までの利害得失はよく考えなければなりませんと。

子孫のためにと決めているのなら、今の時代の自分のことなどはたいしたことではありません。だからこそ今の世の中の評価や嘲笑など気にはせず、至誠を貫きなさいということです。

私が尊敬する吉田松陰も、そして二宮尊徳も同じように先の時代を見据えて、その時代を生き切りました。私も心に同志がいますから、同じように生きたいと願っています。競争や比較、そして評価にさらされてきた子ども心はそれだけ世の中を気にする人を増やしてきました。

そうではない世の中にしようと社業を立ち上げ、今では徳を立てようとしています。それは社会がよくならなければ、子孫を守ることができないからです。自分の子孫ではなく、世の中の子孫が本来の子孫です。

世界の子どもたちは今、どうなっているのでしょうか。

子どもの純粋無垢な心はどれだけ尊重される世の中になっているでしょうか。子孫たちの繁栄を願う時、私たちは両親の慈愛の真心に触れるものです。

古の同志の言葉に救われながら、この道をまた一歩踏み出していきたいと思います。