余韻を生きる

私は人生の中でよく「余韻」を味わうタイプの方だと思います。振り返りがとても好きで、楽しかった日はそのあとに訪れる余韻の方をもっと楽しみにしています。この余韻は、心の本音との対話の時間でもあり人生の豊かさを彩る記憶の数々です。

幼いころは、楽しすぎることを怖がり余韻を感じるのが苦手な方でした。それが次第に、内省を味わうことを続ける中で仕合せを噛みしめるようになってきて余韻を感じることが人生の醍醐味であると思えるほどです。

人生にはそれぞれの体験があります、喜怒哀楽、まさに感情が味わうセンスを高めて感受性を育てていきます。私たちの感情と心はそのままにつながっていて、感情が心に素直に影響を与え、またその逆も然りです。

心と感情が一致するとき、私たちは一体になった姿になります。まるで赤ちゃんの頃のような神人合一に近づくのです。

私が特にこの歳になって余韻を味わう時に仕合せを感じるのは、ご先祖様の存在を感じるとき、人の心の優しさやぬくもり、思いやりに出会う時、同じ道を歩む仲間に出会い、共に笑い、共に食べ、共に詠う時、当たり前の暮らしの中にある当たらり前ではないことを噛みしめるとき、また自然の美しさやいのちが甦り寿命が大切にされるときなどです。

歳を取ることが幸福に感じるようになったのは、道に学び、徳を磨き、愛を綴り、場を清める面白さで好奇心が止まらない日々を生きているからかもしれません。

もちろん疲れも苦労も心配も重労働もありますが、それもまた心地よく、それができることの有難さを感じます。

生きていることは素晴らしい。

そう感じるとき、私たちは余韻を生きています。人が人と出会い、時と出会い、場と出会い、魂と出会う、まさに余韻を生きる一期一会の生き方は、この世で懐かしい喜びを大切に寿命を全うしようとする太古からの意志を感じます。

子どもたちが憧れるような生き方や働き方を通して、遠大で悠久の夢を子孫たちが健やかに暮らしていけるように伝承していきたいと願います。

仲間との邂逅に感謝します。

時のこと

人はそれぞれに時間の使い方というものを持っています。ある人は、時間が忙しくキビキビと流れまたある人は、時間がゆっくりと穏やかに流れます。時間は人間には平等に流れていますが、その感じる時間がそれぞれに異なるということです。

本来、自然には自然界のリズムの時間があります。それは地球が過ごしている時間の事です。地球は24時間で自転し、太陽を中心に廻り365日で過ごします。そして銀河系はまた、長い時間をかけて銀河を廻ります。

私たち動物たちも寿命の長さにあわせて、日々の過ごす時間が異なります。寿命が短いものは、寿命が短いだけにその時間の速さを持ちます。しかし今度は寿命の長い大樹などは数千年の時間をもちますからその時間域で生きています。人間は、現在は平均年齢があがってきていますからそれだけの時間域を持つようになります。

つまり私たちが時間が早いとか遅いとかは、人間を基準に考えていますから実際には異なる時間域でそれぞれが生きていて時の交点によって重なり合うところで場を分け合っているということになるのです。

しかし、その時間をどう過ごすのかはそれぞれの生命体の物理的な時間軸と精神的な時間軸があるのは間違いありません。心穏やかに生きる人や、精神がとても安定して成熟した人たちは時間の使い方が異なります。どんなに有事で環境が変化著しい状態であっても高僧の瞑想時のような悠久の時を過ごします。

その時は、単なる物理的な時間ではなく心の中に無限の時を持っているという具合です。それは時というものの本質を現わし、本来は時は動くものではないという真理を象っています。

私たちは無意識に時には過去と未来があり、前にだけ進むものだと認識します。過去は過去と呼びますが、実際には懐かしいというような感覚、時が止まったままにいつでも回帰できるというものも持ち合わせています。同時に未来といいながら、今を感じて今に生きるとき、今こそが時の中心であるということに気づくことがあります。

このように時は実際には、止まっているものであり動くものではありません。そういう時に生きる人は、常に心に永遠を持ち、精神が悠久に包まれ、時そのものと一体になることができるのです。

可笑しなことを書いていると思われるかもしれませんが、時とは何か、時空とは何を指すのか、掘り下げてみればきっと誰もが同じところにたどり着くように思います。

時を大切に生きていく人は、いのちを大切にすることができます。同時に、懐かしい思い出に包まれて、いつも時に感謝して味わい盡していくことができます。忙しい時代にみんな心が時に追われています。もっと時を大切にして、かけがえのない今を子どもたちに譲っていきたいと思います。

徳積カフェ

現在、徳積カフェの建築で色々と思案をして素材を組み合わせて検証しています。私の場合は、いのちをもったいなく活かしきる仕組みで取り組んでいきますから世の中に捨ててあるものや、価値が変わってしまったものに息吹を与えてそれを甦生し、さらに観建て直して輝かせるように工夫します。

そもそもこの見立ては、あらゆるものの融合と調和からはじまります。そしてそれを組み合わせを創意工夫し折り合いをつけては新しい価値に仕立て直します。

新しい創造とは、今あるものの組み合わせの再定義であり再構築です。これは自分の成長とも同じで、もともと備わっているものはあるがままですがそれを使い方次第で、また組み合わせ次第でまた別の能力へと変化するのです。

私は建築家ではありませんから、あまり建物のことにどうこうというこだわりはありません。しかし、日本の文化や大和心、民族伝承の智慧には強いこだわりがありますからそれを徹底的に深め、今ならどうこれを活かすか、その価値の最大化や再構築には妥協は一切することはありません。まさに、狂ってるかのようにそのものと一体になってそのものを寝ても覚めても離れることはありません。

今回、カフェを設計するにいたっては「徳」にこだわるのは大前提です。その上で、暮らしフルネスの応用を使って「禅」や「茶」の空間や場の和の仕組みを融合させて組み立てています。

当然、風水を重んじ、日、月、水、石、風、土、木そして火に炭、光、陰、ゆらぎ、時間、手間、色、素材などを丁寧に組み合わせていきます。まるで、自然の野菜をつかって、自然の道具を用いて料理を楽しみ味わうような瞬間です。

本当は、忙しくて大変なはずですがこれらを設計している間はいのちがわくわくしてきます。そして新たな空間と場ができれば、そこに奇跡の人たちとのめぐり逢いが生まれます。

建物を創る喜びは、出会いです。

出会いがあるからこだわりが産まれ、こだわりがあるからご縁が深まっていきます。一期一会の生き方を、この新たな建物に息吹を与え、イキイキといのちが輝けるように真心を籠めて最期までやり遂げてみたいと思います。

もったいない暮らし

全ての物や場には「いのち」というものが宿ります。そのいのちをわかりやすく感じる方法は、「思い出」でというものに置き換えてみるとわかるように思います。

無機質だったものが、何かの物語に出会い、そこで共通する「思い出」を持ちます。そのものは、ある人の思い出になりその人の心の中で共に生きいのちを与えられます。するとそれはモノではなく、いのちの一つになって存在するようになります。

つまり「出会う」のです、いのちとしてのご縁と。

これがいのちの一端を感じる方法であり、思い出はみんなそうやっていのちとつながっていきます。例え、片方がこの世から去りそのものがなくなっているように感じたとしてもその思い出といのちは、別のものに引き継がれ一体として残りのいのちの寿命を全うしていくのです。

この仕組みとこの仕掛けこそ、私たちが存在するいのちの真理であり私たちはその仕合せと喜びを無償で天与されているのです。ありとあらゆるものが、変化し、思い出と共に循環するという仕組みは宇宙の本体でもあります。

だからこそ、その寿命を少しでも伸ばしてあげたいという思いやりはその人の寿命だけでなく全体の寿命も伸ばしていくのです。それを神道では真心といい、観音様は大悲といい、イエスキリストは愛といい、孔子は仁と呼んだようにも思います。

もったいないというのは、この思い出を大切にしていくということと同じ定義です。下位概念である、捨てないとか、利活用できるとか、その辺ももったいないといいますが本来はこの「思い出」の方を言うのです。

一日、一瞬、人生はそのすべてをいのちと共に歩んでいきます。だからこそ、大切ないのちの思い出を忘れないで、いのちの思い出と共に暮らしていく。

これが暮らしの本体なのです。

暮らしフルネスという言葉は、暮らしとマインドフルネスの合体した言葉であり、現代の西洋思想に取って代わられた日本人が分かるように転換した言葉です。改めて、一つ一つのいのちを大切にしながらもったいない暮らしを味わっていきたいと思います。

フルネスと暮らし

昨日、ある場所で座禅をする機会がありました。座禅は、長崎の禅寺で社員で参加したことがありましたが改めて体験してみると別の角度からその座禅の効能を実感することができました。

現在は、日本よりも海外でZENといいその座禅の価値も広がっています。特に海外の名経営者や発明家、あらゆるジャンルの人たちもこの禅の効能を述べています。

ジェームス・スキナー
「再新再生(活性化)を図る最大の方法の一つは、毎日「瞑想と思索の時間」をとることである」

プラユキ・ナラテボー
「仏陀の「気づきの瞑想」は「マインドフルネス・トレーニング」と呼ばれ、精神医療の現場では有効なストレス軽減法として、またグーグルやインテルなど多くの企業では社員のメンタルヘルスと仕事のパフォーマンス向上を目的として、取り入れられてきている」

アンディープディコム
「このテクニック(瞑想)の素晴らしいところは、1日あたり10分程の時間で人生を変えられることです。ただコツを覚える必要があります。練習が必要で意識する方法を学ぶ為のフレームワークも必要です。これが瞑想というもので今この瞬間を理解するのに役立ちます。また今という瞬間から最良を得る為の アプローチ方法も学ぶ必要があります。瞑想はこの為にあるんです」

リチャード・デイビットソン
「人々が単に一日、心のトレーニングを行うことで遺伝子の活動というレベルにまで効果があった」

この瞑想のアプローチは、人の生き方の対話であり、人生を振り返り自分自身の存在、自然の一部である自分、真我に気づくことのように思います。

私は座右が一期一会ですが、この生き方もまた禅に通じています。よりよい人生を歩む人は、常に自分への問いかけを持つ時間を大切にします。自己の判断を歪めないように、自己の純粋な調和を保てるように、穏やかでゆったりとした場を心の中に澄ませます。

以前、道具は扱う人によっては凶器にもなることを感じた時、人もまた然りであると実感しました。人は本来は人ですが、使い方次第では凶器になるということ。心の平安を保つことで、私たちは人としての生き方を守っていくように思います。

禅はまさに、心の調和に導引する仕組みで満ちています。改めて、フルネスと暮らしを学び直していきたいと思います。

本物の生命力

この時期、草刈りをしていると植物たちの力の大きさを実体験することができます。非常に旺盛に元気よく生えてくる草草は、生命力の権化です。少しでも時間を空けると、こんなに大きくなったのかと思うばかりに成長していきます。

よく考えてみると、古木や大樹は樹齢何千年から何百年まであります。よくこれだけ長い期間、あらゆる天災や災害、気候変動を乗り越えてきたものだと感心します。年輪を見れば、その時機時期の気候がわかり時として氷河期、時として温暖期、ありとあらゆる季節を乗り越えて今があります。

そして他にも、枯れていたものや折れていてもそこからまた復活し繁茂します。草刈なんてしていても、きりがないほどにまた繰り返し生えてきます。ひしめき合って居場所を確保し、その中でそれぞれが必死に太陽の光を捉えていきます。水や火や土や、風や日月の光を存分に浴びて木に養分を運びます。

そして多様性です、ありとあらゆる環境、砂漠から高地、海の中や過酷な環境でもその土地に適応して生き延びます。もはや、生命力の大先輩というか権化です。この生命力というものを実感するとき、それは植物の力の偉大さを感じずにはおれません。

私たちは、自然の生命力から本来の生命の本質は何かを学び直せるように思います。最近では、栄養学や医療なども発達していきましたが生命力は果たしてどうなっているでしょうか。

かえって生命力は衰えて、本来の生命の在り方から大きく離れてきているようにも思います。自然の生命力に学ぶことは、自然との共生に回帰することでもあります。私たちは自然と共生する方が本来は大きな利益があるという事実を学び直すことです。

それは自然をコントロールすることではなく、自然と共生して自然の生命力を自分たちも得ることです。現代の人類は生命力が衰えてきています、それは自然との共生を已めたからです。自然との共生こそ自然の生命力を蓄える力であり、それは衣食住、ありとあらゆるところで繋がり直す必要があります。

気候変動で生き残れるかどうかは、この生命力にかかっています。子どもたちが生命力を発揮して、植物たちのように強く逞しく生き残れるように、今、私が取り組めることで世界に貢献していきたいと思います。

 

智慧の結晶

ウィズコロナで、私たちの働く環境が大きく変わってきています。今までは都会の便利で機械管理された環境が人間にとって最適でしたがここにきてそれがコロナウイルスにとっても最適であることがわかりその環境を見直す必要が出てきています。

例えば、総合空調で密閉された環境では空気感染を拡げてしまいます。窓が開けられない環境、そしていつまでもウイルスが生存しやすい環境があれば簡単に私たちは感染してしまいます。そもそも都会に密度を避ける環境というのはほとんどありません。東京に住んでみてわかるのは、マスクを外す環境などほとんどなく自宅の部屋くらいしかありません。もしもそこが総合空調で他の部屋をつながっていたとなると、安心してマスクを外すことができません。

現実的にみても、細菌と比べて圧倒的に小さなウイルスを防ぐというのはほとんど不可能です。どれくらい小さいかといえば、一般的なウイルスの大きさ20〜300nm (ナノメートル) で、インフルエンザウイルスでは100nm前後と言われます。このナノメートルはμm (マイクロメートル) の1/1000です。それに対して細菌の大きさは1μm (マイクロメートル) 前後です。マイクロメートルは1㎜の1/1000で光学顕微鏡でも確認する事ができます。つまり菌でも1mmの1000分の1、ウイルスはその1000分の1です。

そして細菌とウイルスの違いは、どちらも生物ではありますが細菌は殺菌することができますがウイルスは殺すことができず細胞の中に閉じ込めることしかできないということです。細菌は、人体に入って養分さえあれば自分自身を分裂させて自己増殖をしていくことができます。それに対してウイルスは、自分自身で自己増殖はできず人間の細胞の中に入ってコピーをつくりだして増殖していくという仕組みです。

細菌はまだ抗生物質などの薬が効きますが、ウイルスには薬がなく細胞のコピーをなんとかして抑えるくらいのものです。

そう考えてみると、これからの人類は如何にウイルスを意識した環境に換えていくかということが最大の課題になってきます。今後、似たようなウイルスは世界から現われ、また世界へと拡大していきます。鎖国でもしない限り、防ぐことはできません。

そこで住環境や働く環境の見直しは急務ということは誰でもわかります。

実は、改めて考えてみるともっともウイルスに適応している環境は先人たちの暮らした環境であることがわかります。日本の伝統家屋は、自然と共生するように建てられています。

まず風通しはいいことはもちろんですが、和紙や土壁、畳などすべて自然のもので仕上がっています。ウイルスは、人間の便利な生活とマッチングしますから不便であればあるほどウイルスにとっては繁殖しにくい環境になるのです。

そもそもこのような動物由来のウイルスが蔓延するのは、人類が自然破壊をしてきたからです。自然破壊をしなければ絶妙なバランスと距離で生物たちは生きていますからこのようなウイルスに出会うことすらありません。

人類が自然を壊せば壊すほど、動物たちの住環境が失われその動物たちが人類に近づくことであらゆるウイルスと遭遇します。そして時として、人工的にそれを防ごうとえばするほどに余計な薬を投与しておかしな人口ウイルスになるのです。

自然と共生する住環境というのは、根本的にウイルスを近づけない環境であるし、日本人の先人の智慧の結晶である伝統的な日本家屋と暮らしは、私たちがこの風土の中でいかに健康に生きていけるかを実証実験し続けて生まれた至高の仕組みです。

私が古民家甦生をし、環境を用意し暮らしフルネスを展開するのもまたこの日本人の伝統的な智慧の結晶を、これからの人類の新しい働き方に活かしたいからです。先人を敬い、民族伝承の智慧を尊敬しない人たちに未来はないように思います。過去や歴史を学ばなければ、未来は決してないのです。

引き続き子どもたちのために、これからの新しい時代の環境を故郷から提案していきたいと思います。

 

暮らしフルネスの意味

「暮らし」という言葉は、上位概念と下位概念があるように思います。巷で経済活動の一環として使われている暮らしは、どちらかというと下位概念の生活全般を示すことであって上位概念の人の生き方や生きる道のことを示すわけではありません。

私が提唱する暮らしフルネスは、上位概念の方でありそこには生き方や働き方といった日本人としての暮らし方のことを定義するものです。

そもそも新しい暮らしとは何かということです。

便利な道具、最先端の環境、見栄えのいい雑貨、オシャレな住環境、そんなものが果たして新しいのでしょうか。それは新しいではなく、目新しいだけであって本当の意味で温故知新したものではありません。

もっとも古いものがもっとも新しいものであるわけで、目新らしいものはすぐに古くなるのです。殷の湯王が、「日々新た」と使う、「新しい」の意味は、自分自身を洗い清め磨き直し常に新しいといいました。

これは別に目新しいことを日々にやろうとしたわけではありません。新しいままでいられるように自分自身を磨き続けようとしたのです。これこそまさに、私のいう「暮らし」を実践することです。

そのためには、今に集中して今を味わう実践が必要です。今を味わうための砥石は何か、それは太古の時代からその環境の中で文化として昇華されてきたものを砥石にすればいいのです。

日本人であれば、日本文化であり、大和魂を高めることです。

現在の日本語は、大変残念なことに本物であろうが偽物であろうが同じ言葉を使います。暮らしであっても、暮らし風でも暮らしと語ります。他にも道具に関しても、畳もイ草を使ってもいないものまで畳といい、プラスチックで加工した紙にまで和紙などといいます。

こうやって日本語が、下位概念ばかりが横行して上位概念で使われたものが失われればそのうち日本人そのものの意識の程度も下がってしまいます。

幸福とは、単にお金がたくさんあって物があってなんでも所有できることではありません。現在の資本主義経済では、それが幸福なることかのように思いこんでいる人が多いですが本来は生き方によって幸福になるのです。

生き方が変わるというのは、暮らしが変わるということです。

それが暮らし方を改革するという、私の暮らしフルネスなのです。私も、日々、日本文化に囲まれ、自然と共生し、時を味わい新しい日々を楽しんでいます。その生き方を分かち合いたいと願い、子どもたちに譲り遺したいと祈り、取り組んでいます。

新しい生き方をする人こそ、新しい働き方をし、新しい働き方は新しい暮らし方になり、新しさは「本物」になります。洗練される新しさは、本物だけが持つ輝きを発揮し、日本文化の象徴ともなります。

引き続き、私の実践する暮らしフルネスで日本の未来に貢献していきたいと思います。

いのちの学び

私たちの存在は、古来の親祖から子孫まで長い時間をかけていのちのリレーをしてきて今があります。この今は、どれだけの人が繋いできたのか、それを考えることも少なくなってきているように思います。

自分のことばかりを考えては、自分の代のことしか観えませんが今、私たちが存在しているというのはその前の代、そしてずっと前の代から連綿とつなげてくださったから存在しています。

先祖を感じるということは、本来、今まで私たちが歩んできたプロセスを味わうことです。どのような変遷で今があるのか、そしてこの国がどんな歴史をたどってきたのか、それは教科書で文字だけを読むことで理解するのではなく自分の身体と共に感じる中でその実感を得ることが大切なことのように私は思います。

例えば、今の自分のいる場所から遡りはじめるとします。

自分の両親、そしてその両親の両親、さらにその両親と辿っていけば一代で2倍ずつ増えていきます。5代では約60人、10代では、約2000人、20代で約200万人、30代で20億人、40代遡れば約2兆人、この40代遡ったころが約800年代くらい、平城京があったころぐらいだともいいます。つまり今から1200年前になれば、2兆人の先祖が関わって今の私がいるということです。

その2兆人いる先祖が、一つでも関わらなければ今の私は存在してもいないという事実。この偉大さこそ、私は「徳」の姿の正体であるとも感じています。目には見えないけれど、偉大な恩恵の中に自分が存在している。そしてその偉大な恩恵を、次世代へと譲り渡していくということ。

これは単に自分の子どもをつくればいいという話ではありません。みんなで子どもを育ててきたから今の自分があるということにも気づく必要があるのです。先祖の皆様が愛情をかけてその世代を大切に守り次へとバトンを繋いできた。そのバトンを渡してきた数は、今の地球の人口では敵わないほどの人たちがこの地球と私たちを支えてきたという事実。そういうものを理解するところにこそ、いのちの本体や、今の私たちが本当になすべきことを実感する理由になると私は思います。

日本人も元を辿れば神話に出てくる伊弉諾と伊弉冉からはじまりここまで家族や親せきが増えていき今があります。もとは一組の夫婦からはじまりこれだけの歴史の変遷を経て今にいたります。

そして最近の遺伝子の研究で分かってきたのは、20万年前の1組の夫婦から世界の人類が誕生した可能性があるということです。20万年遡り、もしも今までのいのちのバトンの歴史を目に観えるようになれば私たち人類はみんな兄弟や親せきであることに気づくのです。

それが今では、争い、差別し、貧富の差がわかれ、権力や奴隷などもうまれ、最初の先祖が子孫たちの現状を見たらどう感じるだろうかとも思います。

学校の知識を教えることも大切で文字から学ぶことも、ITで情報を得ることもそれも大事なことでしょう。しかし人類として根源的なものや根幹的なものを無視して、それだけを知識で学んでも本当のいのちの学びにはつながっていないのではないかとも私は感じます。

私が、伝統や家を甦生することも、大和魂や大和心を伝承していくことも、これはすべてこのいのちのバトンの存在やその「徳」に報いたい、報いようと思うからです。

子どもたちがこの先、生きていく中で絶対に忘れてはならない学問があります。それが歴史であり縁であり、いのちなのです。引き続き、私の限られた人生の中で、この永遠のいのちの存在を徳積で可視化し、世の中に伝道していきたいと思います。

 

ハンコ文化と日本人

コロナ中のテレワークで問題になったものの一つに「ハンコ」(印)というものがあります。改めて、このハンコはなぜ必要なのか、そして何のために存在するのかを少し深めてみようと思います。

そもそもこのハンコのはじまりは紀元前7000年以上前のメソポタミアで使用されたのが起源とされています。メソポタミアでは、印章は円筒印章といい粘土板、または封泥という粘土の塊の上で転がす円筒状の印章でした。そして古代エジプトでは紀元前3000年くらいのものと思われるヒエログリフが刻印された印章が発見されています。

「ハンコ」の制度の始まりとしては中国ではなく西洋から伝わった制度で「旧約聖書」の中にも実印や認印の制度のくだりが40箇所程散見されているといいます。そしてこれが日本に伝来するのは約2300年前、後漢の光武帝時代に倭奴国(日本)に送られた金印(漢倭奴国王)だといわれます。これは福岡出身の私にも馴染みが深いものです。

それが平安時代に入り「手形印」として掌に朱肉を着け押す形になりその制度は江戸時代まで使用されたといいます。平安時代後期頃より武将の願文・起請文や遺言状などに花押(書き判)というものになり押印となります。この「押」という字には署名するという意味で「美しく署名したもの」という意味になります。戦国時代の大名の手紙などに見事な押印が多いのを歴史資料館などで拝見したことがあります。家康や上杉謙信なども綺麗な押印でした。

そして江戸時代には花押のことを「判」といい私印が使われる様になり、それまでと区別するようになり、花押のことを書き判、印章のことを印判となったのではないかといわれています。つまりここで今のサインとハンコになる流れを感じます。

そして明治6年10月1日で明治新政府が太政官布告を行なった際「本人が自書して実印を押すべし。自書の出来ない者は代筆させても良いが本人の実印を押すべし。」と定められ現在、私たちが使っている印章が一般的に使われるようになりました。その記念日である10月1日を「印章記念日」にしたそうです。

このハンコという言葉は江戸時代に盛んに作られた木版画やそれに用いられる版木を版行(はんこう)と呼び、それが転じてハンコと呼ばれるようになりました。それとよく間違えられるのですが、ハンコと印鑑は異なります。

このハンコは、個人や組織がその当事者であることを証明する印(しるし)を指します。一般的には切り口が円形、楕円形、角型などをしており全体は棒状をしています。そして印鑑は捺印をした時に紙や書類などに残る文字や絵を表します。つまり、印影と呼ばれるものと同じです。現在では二つを同じ意味で使われるようになり同じ意味だと思っている人が増えています。

長くなりましたが、ハンコには長い歴史があり、現在でもつかわれているところを感じると確かにこれは文化です。日本人は特に、ハンコには「自己」というものの証明で活用しているように思います。つまり意思表明や責任の確認、覚悟や公の立場、権力などありとあらゆる立場を証明するものとしてそのプロセスを重んじたのです。

証明書といった方がいいかもしれませんが、これは「真(まこと)」ですよと真実を顕すものです。真偽をただすためにもその証明が必要だったのです。日本人は正直な民族ですから、かえってそれが時代の湾曲によって真偽を確認する必要が出てきてその都度、証明する大切さが高まったいったのでしょう。

現在では、技術が発展しセキュリティの問題が特に出てきています。簡単に偽造されてしまっては証明が意味をなしません。ハンコ文化はなくなりませんが、ハンコの真偽を守る技術は新しくなっていくはずです。

ハンコをなくそうとするのは確かに、プロセスを重んじる日本人にはできないかもしれませんがハンコを証明する技術は発展しよりシンプルになっていくように思います。

プロセスの中に何度も自分の意思を確認する機会があるということは私は尊いことだと思います。初心を忘れずに、それに取り組んでいるという自己との約束であり自己との対話になります。日本の文化の一つにハンコがなるのは正直さをもつ日本人の徳目ゆえのように感じました。

これからどう展開されていくのか、それも楽しみです。