コロナシフトの意味

世の中には本当のことだけれど、目を背けて誰も気づかないふりをすることで溢れています。これを常識といい、この常識を変えるというのは不可能だとどこかで諦めているものです。

時に、真実はこれまでの常識に気づかせる機会になります。しかし常識に気づいて、これからどうするかとなったとき、その常識は自分たちにとってとても都合よく再設置されていくのを感じます。

例えば、自然環境でいえば今回のコロナによる自粛で自然環境は驚異的な回復をみせました。CO2の削減にはじまり、あらゆる生態系が増えて同時に汚染が収まっていきました。過剰な経済活動と競争を繰り広げていく中でみんなが利潤を猛烈に追いかければ自然環境は犠牲にしてもいいというのは常識であったことに気づいたのです。

他にも、過剰に都市型社会に固執して密集させて便利にしていった結果、これが今回のコロナの最大のリスクになっていきました。古来から多様性の保持のため分散させてきた各々の地域での文化や価値観を、一つの文化や価値観ばかりを取り上げて一極集中してその強みばかりを追いかけつつそれ以外を弱さだと切り捨ててきたことで人間社会の信頼関係が非常に脆くなってしまいました。弱さを絆にすることが常識であったものを、弱さは悪であるとさえ語りそれを目に見えないところに追いやるのが常識であったことに気づいたのです。

この人間の欲望は、今更、切り離せない、だから前提は変えずになんとかできないかとみんな議論ばかりをしては部分最適ばかりで評価されてそれがさらに現在の常識の厚みを深めていくという悪循環です。

エコやエゴなど、もうすべてどうでもよくなる時が来ます。地球という家でステイすることもできなくなったとき、私たちはどこかの星に移住するのでしょうか。住みやすい世の中というのは、一体誰にとって住みやすく、誰にとって住みにくいのか。

本来、自分の家とは何か、歪んだ個人主義の先にあるいびつな家族像も気になります。生まれてすぐの子どもたちを観ていたら、社會の原型がちゃんと継承されているのを実感します。

むかしは、子どもは国の宝であり地球の宝だと定義されていました。個人的なものではなく、自然的なものとしてみんなで大切に見守り育ててきました。当たり前のことですが、果たしてこれが今はどうなっているのか。

人間は便利で自分たちにとって最高の環境にしてきたかもしれませんが、その人間にとって最高の環境が最悪の環境に突如と切り替わる日が必ず訪れます。その時、人はそれまで前提としていたものが崩れ、常識を無理にでも変える必要に迫られるのです。

環境にとって人が変わるというのは、真実だということも今回の体験で気づいたことです。引き続き、場の力を学び、どのような場によって新たな未来を子どもたちに譲っていくか、気を引き締めてコロナシフトを共に歩んでいきたいと思います。

リジリエンス~自然の回帰力~

私たちは復興力というものが備わっています。これをリジリエンスと英語ではいいますが、元に戻る力、言い換えれば回帰力のようなものがあるということです。すべてのいのちは、自然から発生して自然に回帰しますからシンプルですが私たちは自然の一部であることからは逃れられないということです。

これを必死で逃れようとするのが人間の科学なのかもしれませんが、逃れられないと思う瞬間が必ず訪れます。それは自然災害や天災、天敵が訪れるときです。今回のコロナは、天敵のウイルスです。この天敵というものは、決して敵味方の時の敵ではなく天とついていますから自然循環の中で調和を司る神様のようなものです。

科学がどれだけ進歩しても、いくら自然から離れて征服した気になったとしてもそんなものはほとんど通用しないことを自然は必ず私たちに伝えてきます。謙虚にバランスを保っていた日本人の先祖たちは、智慧を積み重ねて独特な自然との共生文化を創り上げてきました。

その智慧は世界でも類を見ないほどで、それを先人たちは「和」といい、この和の文化を通して自然と上手く折り合いをつけながら豊かに暮らしていく方法まで辿りきつきました。それを改めて見直す必要があると私は感じています。

そもそも自然の回帰力は、自然の状態に近づける力です。今回、コロナウイルスで人類が自粛しておとなしくしていたらあっという間に空気汚染がなくなり、山林や河川、海にいたるまで生態系が戻ってきたといいます。たかだか数か月、人間が科学をつかった現在の資本主義型の産業構造を停止するだけで自然は随分と回帰したのです。

いくら持続可能だとSDGsとかいって、わけのわからない経済活動ばかりを増やしては自然環境のためにとやっていてもかえってそれで仕事が増えているだけといった矛盾があることに気づくはずです。特に今回のコロナの御蔭で、人間が汚染をするのをやめれば自然は偉大なスピードで恢復するのを実感しましたからもう少し人間はそのことを真摯に受け止めて今の暮らしを換えていく必要があると私は思います。

自然を敵視するのではなく、自然の力をうまくお借りするという発想、自然を征服するのではなく、自然と共生し活かしあう関係を築くということ。これは何億年も前から人類が工夫してきたことの集積が今も伝統に生きているのを感じます。

欧米型の新しい価値ばかりを価値にし、古くからの智慧をなんでもかんでも捨てていきますが捨ててはならないものもたくさんあるのです。捨ててはならないものまで短絡的に捨ててしまうというその価値観が、人類を更に盲目にしていくのです。

だからこそ、そうではない生き方をする人たちによって本来の在り方を見直す必要があります。それは決して原始時代に戻れというのではなく、原始時代にも大切にしてきた智慧を、科学が発展しても守り続けて調和させていく努力をしていこうと言っているのです。

私が最先端技術に取り組みながら、まったく正反対の暮らしを楽しむのもまたこの人類の未来にむけて、子どもたちの将来のために必要だと感じているからです。徳積財団での活動を本格化する前に、仲間を募り同じような生き方をする人たちで新しい経済の思想を築きたいとも思っています。

コロナの御蔭でコロナからはじまる未来を楽しみたいと思います。

スローな暮らしの時代

昨日はBAの畑づくりをしましたが、敷き藁と支柱で懐かしい牧歌的な畑に仕上がってきました。モノづくりをするという環境からどのようなインスピレーションをいただくことができるか。私たちは、豊かな心でモノと接するには豊かな環境が必要になります。

それはなんでも効率優先で無視してきたゆとりや余裕の中にこそ非効率的な豊かさや暮らしの美しさがあるように思うのです。

一見、無駄だと思われて省かれる中に、そして不必要だといって捨てられる中にこそ心の余裕が入っています。この心の余裕とは一体何かということです。西洋ではこれを「スロー」ともいいます。このスローは、イタリアで起こったスローフード運動から派生したもので、効率や利便性を追求する現代人に、あらためて自分自身、また自分の生活を見直そうといった考え方であるといいます。

日本では田舎暮らしのことをスローライフとか言われますが、実際にはグローバル化された比較競争の資本主義経済の社会の中でも他人や社会に翻弄されないでゆっくりと自分自身の懐かしく美しい暮らしを実現させていくようなことを言うと思います。

コロナの御蔭で、世界は一度立ち止まることができました。その上で元に戻そうとする人、元には戻らないというする人に大きくわかります。つまり、元通りがよいという人、元よりももっと善い世の中にしていこうとする人ともいえます。

改めて行き過ぎた過剰な経済競争や欲優先の知性を少し手放し、子どもたちの未来のために自然との調和と人類の社会の平和のゆるやかなスローな暮らしの時代に向けて少しずつ変化していきたいと思います。

徳積BAFE~場の創造~

場を深めていると、その場の中に人も場になるという性質を知ることができます。その人がいるからそこに行く、その人が居ればなぜか別の効果が産まれる。つまり人が場になっていることが分かります。

例えば、私たちの会社にも感謝を磨くことを人生のテーマにしている女性の方がいます。この方がオンラインでも打ち合わせに参加されれば穏やかで安らかな場が生まれます。これはみんなそう感じていて、天然でオープン、自然体で周りを尊敬する姿勢がこの場を創るということでしょう。

他にも、一緒にお仕事をするある先生がその場にいるとみんなの議論が深く大きくなり志が共有され高揚感ができモチベーションが高まります。その人がいるだけで、世の中を変えていけるような自信と学ぶ楽しさを味わえるのです。その人がいるかいないかだけで学ぶ喜びが変わっていきますからこれもまた人が場を創っている証拠です。

場とは何か、これは大変奥深い問いです。

私は「場道家」を名乗り、場を研究して極めていこうとしていますが深めても深めてもまだまだ真髄は奥底に沈んでいます。それはいのちの存在そのものと正対することであり、宇宙という空間に触れていくということに近いからです。

そして人は心と向き合うとき、居場所というものの存在の大きさに出会います。自分の居場所とは、還る場所であり、帰る場所だからです。みんな安心したいと思っているのは、その居場所を思い出したいと願っているようにも思います。

懐かしいふるさとの存在によって私たちは、活動を揺るがないものにし、自分の生を全うする自信を得ますからこの「居場所」はとても重要なのです。

子どもたちに居場所を創るためにも今度の徳積BAFEは、実践研究の大きな役割を果たしてくれると信じています。私もカフェに参入しますが、誰も見たことのないようなものになると思います。子どもの憧れる生き方、働き方を追求していきたいと思います。

無双庭園の伝承

聴福庵のメビウスガーデン(無双庭園)が無事に完成しました。日当たりもよく、水はけもいい、そして風通しもよく、居心地の善い、新たな循環環境の徳を可視化する「場」ができたことが有難く思います。

まずこのつくりは、自然の雨をじっくり時間をかけて浸透するようにらせん状になっています。それに野菜や花に余裕を持たせた適当な空間を用意し山のように斜面によって全体に陽が当たるように設計しています。水も、日ごろは土から上がってくる水と雨で降ってくる水が行き来できるように水はけを考えて土を盛り、日照りのきつい時の水やりは浅井戸水を汲み上げて上から流せばらせん状に最下層のビオトープまで流れていきます。

よくパーマカルチャーのスパイラルロックガーデンと同じではないかと思われますが見た目は参考にしていますが、その思想は日本人である私が手掛けていますから同じところと異なるところがあります。

そもそもこのパーマカルチャーという言葉は、「パーマネント(永続的な)」+「アグリカルチャー(農業)」+「カルチャー(文化)」を合成した造語で1970年代のオーストラリアで環境問題や農業に取り組んでいたビル・モリソンとデビッド・ホルムグレンが体系化したものです。

具体的には、3つの倫理である、「地球に対する配慮」「人々に対する配慮」「余剰物を分配する」というものがあります。これを実践する12の原則として下記があります。

1、観察と相互作用 2、エネルギーの獲得と貯蔵 3、収穫せよ 4、自律とフィードバックの活用 5、再生可能な資源やサービスの利用と評価 6、ゴミを生み出さない 7、パターンから詳細までのデザイン 8、分離よりも統合 9、ゆっくり、小さな解決を 10、多様性の活用と尊重 11、接点の活用と辺境の評価 12、変化に対しての創造的な利用と対応

これらをデザインした暮らしを実現していくのがパーマカルチャーではないかと感じます。私はちゃんとした本も読んでなく、触れてもいないので実際にはその奥深さはわかりませんが私のライフワークとライトワークと共通しているところも多く、共感しています。

話がだいぶ逸れましたが、似ているところは以上の原理原則ですが異なるところもあります。それは日本人の文化を主軸に、この3つの原則と別に先祖が喜ぶかという基準をを持っているところです。私が古民家甦生をするのも、日本人の誇りを子どもたちに譲っていくためでもあります。

日本の文化を活用して取り組んだかどうかは、智慧の伝承につながっています。今回の無双庭園は、先人たちからの智慧を存分に取り入れて造園されています。例えば、炭や竹、瓦や井戸、発酵と伝統をデザインしています。

そもそも目的が異なれば、見た目の手段は同じであってもその本質は異なるものです。似て非なるものとは、その目的を確かめれば異なるところを見極めることができます。しかしその目的や理想のスケールによって、手段の意味合いも異なりますから奥深さがどこにもあるのです。

大切なのは、一体何の目的でそれをやろうとしたかということを理解し道に入ることだと私は思います。

時間をかけてじっくりと持続してきたものの御蔭で私は今あります。まさに徳の成果でしょう。その徳を譲り渡してそのままに永続していけるように場を守るのは今を生きるものたちの本来の使命です。

これからここに作物のめぐりがはじまりますから、この数年でできた新たな徳を可視化し、子どもたちの未来に確かな場を継承していきたいと思います。

智慧の伝承~人類の誇りを守る~

知識と知恵という言葉があります。これは、識と恵という言葉で成り立っています。別の漢字では、智慧とも書きます。これらは実際にはどのようなものかということを深く考えてみると、同じ響きの言葉でもまったく意味が異なることが分かります。

そもそも識という字は、言葉を縦横に織りなしながらその意味を理解するということ。そして、恵という字の成り立ちは糸巻きから新しい意味が転じていくということ。これはどちらも織物がカタチになって漢字になっているものです。そして知るという字は、矢と口ですが神意のことを指します。

つまりは神様の織りなす意味を理解し、神様からの意図を転じて解釈する。つまり知識と知恵とは、どちらも神意を悟るということです。不思議ですが、学校で知識や知恵を学ぶというのは常に神意を悟るための学問を実践するということになります。

現代は、知識は単なる暗記の材料になり、コンピューターの出現によって知恵も知識の集合体のように評されることが増えてきて、先人たちが長い年月で築き上げた知識や知恵が伝承されることがなくなってきました。世界が広がっていくのはいいのですが、その分、世界は浅くなってきていないか、今の暮らしに知識と知恵の深みがないことが残念に思います。

そういう私も、人生の半分以上はその知識と知恵の詰め込み教育で育ってきました。知識は武器であり、情報化社会においては知識こそが経済を発展させる道具であると信じ込んできました。現在、戦争も情報戦といってむかしのように直接的な殺戮を行わず情報によって追い込んで勝敗を決めていきます。

本来の人類の目的のために知識と知恵を使わずに、ただの手段として知識と知恵を使おうとする。これでは持続可能な社會など実現することは不可能であることは、誰が考えてもわかります。目くらましにあっているだけで、刷り込みを取り払えば私たちは先人たちの知識と知恵の伝承である本来の智慧によって神様に活かされてきた事実に直面するのです。

この世でいくら知識や知恵があっても生きていくことはできません。私たちは、大宇宙の大自然から偉大な恩恵をいただきその智慧によって活かされます。この身体の細胞の一つ一つ、そして絶妙にバランスを保ち存在しているあらゆる存在、そして関係性やつながり、そのどれもが智慧に満ちています。

その智慧を学ぶことは、大宇宙の大自然の法則に学ぶことであり自分をその存在に少しでも近づけていこうとするのです。つまり神人合一ともいうように、私たちは先人たちの大いなる命の集合体で集積体、まさにその歴史の伝承者ですからそれをそのままに活かし生きることが智慧になるのです。

智慧とは何か、つまりはあるがままの自分に回帰することです。それはあるがままであることが理解できるということ、ありのままで活かしあう真理に生きるということ。これができてはじめて智と慧は和して日本人になるのです。

日本人を創るということは、日本人になるということです。それは日本人の誇りを大切にして日本人のままでいるということです。私は、特別なことをしていることではなく日本人の原点を探り日本人の誇りを保ち子孫にそれをそのままに伝承しようとしているのです。

これを徳ともいうのです。

私は一緒に10年以上、パートナーとして取り組んでいる存在がいてその方は智慧を学びその智慧の真理を伝承するために私塾をひらいています。なぜ私が一緒にと知識と知恵を重ねて考えてみると、それは私が子どもたちのために智慧を実践し覚醒させようとしていたからだと今では感じます。

私が智慧にこだわったのは、すべて子どもたちのためですがこれは日本人のためでもあるし世界の人々のためでもあるし、未来の人たちのためでもあります。人類は大きな分岐点にきていますが、文化は文明の手段であってはならないのです。文化は目的そのものですから日本人の文化を守ることは、日本人の目的を守ることです。文明という手段に翻弄されて本末転倒してはならないのです。

引き続き、私の人生の集大成は徳と決めました。

神意に従って、やるべきことに専念していきたいと思います。

カグヤのコロナシフト

人は立ち止まることで、色々なことを見つめ直すことができます。それは止ることで次の動くことが観えてくるからです。

私たちはコロナの御蔭で、今までの生き方や歩き方を見つめ直す機会を得ています。具体的には、流されていた自分、常識だからと続けていた自分、そういうものだと思い込んでいた自分、それまでの自分自身の意識との対話を行うということです。

その上で、何をやめてしまうか、そして何をはじめるかを決めることが新しい生き方をしていくということになるのでしょう。

そもそも人生の初心や目的は、何かがあったからと優先順位が下がることはありません。目的地までのプロセスは、その時々で変化はありますが目的地が変わるというのは最初から道を歩んでいないということになります。

人は、道を歩むことで人生を創造していきますからまずは道に入る必要はあるのは当然です。今回のコロナにおけるシフトは、道が別のものに代わったのではなくそれまでの歩み方を換えていこうという転換が起きているということです。

それまでの当たり前を疑い、新しい常識を生きていこうとする。いわば、目的に対しての歩み方との折り合いをつけるという具合でしょうか。コロナの前に無理に戻すのをやめて、コロナ後のもっと素晴らしい世の中になるように創意工夫と試行錯誤をしていこうということです。

つまりは、目的や初心を貫くために別の方法でやってみようという実験をするということです。こうでなければならないという発想を捨て、もっと自由に開放していこうとする。その上で、自然との調和や、社會の協調、徳との和合など、ステージを一つ上げて意識改革を進めようということでしょう。

カグヤは子ども第一義の理念は不動ですが、その上で生き方は働き方の一致はより高度な視座で取り組んでみようと思っています。今まで以上に、理念経営の舵取りは明確になりますが面白く豊かに実験を楽しんでみたいと思います。

暮らしフルネスの生き方

新型コロナウイルスのことで、毎日ひっきりなしに報道されますがコロナ後をどうするかということもそれぞれの覚者が発信していくことになるだろうと思います。そもそも私はコロナ後というのは人類の意識の問題であって、実際に地球規模で事実として発生している事柄を直視することで本来のあるべき姿を見直すことが重要だと感じています。

感染症というものは、人類が好き勝手に自然との距離を壊し、都市化とグローバル化によって人口密度を高め過ぎたことによって引き起こされるものです。人口が80億を超え、都市の隅々に無理やり詰め込むかのような生活を続ければどんな生きものであっても病気になります。

養鶏場や養豚場で、抗生物質入りの食事を食べさせながら働かせているのをみてはまさか人間が同じようになっているとは思わないかもしれませんが事実、私たちは似たような環境下によって都市部で生活しているのです。添加物入りの食事や、薬局による薬漬け、そして日常的に電磁波に晒され、満員電車などの高ストレス、運動不足、空気汚染などとても本来の自然の中に暮らしてきた人類の元々の環境とはかけ離れてしまっているのも忘れてしまったのです。

コロナの御蔭で、私は自然との距離がまた近くなり、暮らしフルネスの人生を味わう時間を持つことができています。ある意味で、オンライン化されたことでこの人間らしい本来の暮らしを維持しながら、人間社會での活動も共に発展させていくことができます。

コロナで気づいた人たちは、暮らしが変わったはずです。その暮らしを如何に充実させながら、地球も喜び、人類も喜び、生き物たちが喜ぶ生き方をするか。ここが人類の未来の分水嶺であることは間違いありません。

しかし事実をみせないかのように、連日コロナ叩きをし、世論も感染者を差別し、責任転嫁する相手を探し、批判や否定ばかりで目を背けるような動きがあるのも事実です。誰にとっていったい都合が悪いからそうするのか、コロナのせいではなく、コロナの御蔭になぜならないのか。

もっと視野を広げ、視座を高め、地球から観たらどうだったのか、歴史から観たらどうだったのか、そしていのちから観たらどうだったのか、あらゆる角度から今回の出来事の深い意味を洞察する必要があると私は思います。

子どもたちのために、ここで変わらなければ何度もこのようなことは繰り返され、そのたびに環境は破壊されもっと住みにくい世界になってしまいます。短期的で視野狭窄な世界を生きることを已め、もっと悠久で雄大な自然に抱かれながら共に生きることを選んでいきたいと思います。

古来の伝承

昨日、休耕田を甦生したものの一部に真菰を植えました。この真菰は、ウィキペディアを引用すると「マコモ(Zizania latifolia、真菰)は、イネ科マコモ属の多年草。別名ハナガツミ。 東アジアや東南アジアに分布しており、日本では全国に見られる。水辺に群生し、沼や河川、湖などに生育。成長すると大型になり、人の背くらいになる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行。」とあります。

以前、庭先のビオトープで植えたことがありますが清々しい雰囲気で揺れる真菰に癒されたものです。またマコモタケは料理しても美味しく、貴重な味わいだったことを覚えています。

歴史を辿れば、お米が入ってくる前から日本人には重宝されてきた伝統食で縄文時代以前には衣食住すべてに欠かせない存在だったと推察されています。その理由は、実や新芽は食料となり、干したものはゴザや蓑笠、屋根などあらゆる場面で暮らしの道具になりました。それに神事でも常に真菰が使われ、現在でも伝統的な古神道を実践している格の高い神社では御神体やしめ縄にも古来からの真菰が使われています。また仏教でも、お盆を飾る盆ゴザには真菰で編んだものを今でも使っています。

稲作が入ってからは手軽に藁が入手できるようになり真菰が使われなくなりましたが、本来は真菰を神聖な作物として古来の日本人たちは直観し、暮らしに取り入れて現代まで大切にしてきたことがわかります。

穢れを祓うチカラがもっとも高い作物として、麻と同様に日本人はその効果を実感して受け継がれてきたように思います。また日本人以外では、北米のインディアンが大切にこの真菰を食べて暮らしに取り入れているそうです。

色々と便利なものが出てきては、代用してきましたがそれはあくまで一時的なもので本来、どのようなものであったか、もともと何のためにそのものを使ってきたかということが歴史の変遷の中で薄れていくものです。

復古甦生させていくというのは、元来の意味をもう一度紡ぎ直し、その確かな目的や意図を再確認して新しくしていくことでいのちを繋いでいくことです。

意味があったものが意味がなくなるのは、その意味を確認する確かな場が失われていくからです。子どもたちが確かな意味をそのままに伝承してその力が子孫まで及ぶように丁寧に古来からの道を復活させていきたいと思います。

浄化する農法

昨日は、自然農の田んぼに田植えを行いました。取り組みから10年目に入りますが、年々収量を減らしていきます。本来は、収量を上げていくのが当たり前でしょうが敢えて収量を減らすことを実験しています。

実は、むかしの田んぼと名付けた千葉の神崎の田んぼもまた収量を減らしています。現代は、大量生産大量消費の時代ですから逆行するようなことをすると変人奇人だといわれますが、本来は分相応の量に調整して生きるのが人類の智慧であるのです。

現在は、先人からいただいた智慧を蔑ろにし、便利に量産しますが果たしてこれが本当に自然の理に適っているかを考えている人は少ないように思います。自分の利益ばかりをみんなが追いかければ、その利益競争の結果として全体が貧しくなることもあるのです。

田んぼであれば、生態系が減少し、多様性も失われ、そこにある自然の循環を歪めて生命の楽園が非常に貧しい場所に換わっていきます。そもそも田んぼの一部を私たちも他の生命と共にお借りしているという意識と、この田んぼは人間様のものでよそ者は一切入ってはならないという意識では田んぼ自体の持つ定義も個性も異なっていきます。

私が一緒に取り組んでいる伝統農家さんの田んぼはみんな生態系が豊かであり、生き物たちの楽園で生命が溢れんばかりに漲り、その中で稲がイキイキと育ちます。当然、農薬も肥料も追加せず、自然に任せて自然が喜ぶような農法を行います。

そのためには、人間が取り過ぎないことが重要なのです。アイヌ民族では、自然の利子分だけをいただくという謙虚な言葉があります。あくまで自然のために尽くし、その結果として得られた多少の利子分だけで生活を営むということです。

質素倹約に努めて、自然の掟を守れば、その利子だけで十分一族を養っていくことができます。現代社会においては、みんなが売り上げ競争をし利益の確保ばかりに躍起になりますから利子ではなく、借金でみんな一族を養おうとします。

その借金は利子ではないから、子孫へのツケになります。このツケは、次第に大きくなり返せないほどになってしまいます。田んぼであれば、田んぼの土が枯れてしまい肥料の肥毒や農薬の薬害によって作物が育たない場所になってしまうのです。

だからこそ、私たちは敢えて自然が喜ぶように収量を減らすこと、そしてその分、その田んぼの生き物たちが安心して謳歌して暮らしを楽しめるような場を確保することが重要なのです。

自然農の田んぼは、この時期は沢蟹やエビ、オタマジャクシにカニワナ、蛇や蜘蛛などの子どもがたくさん生まれています。田んぼで田植えをすれば、小さな生き物たちが溢れ、まるで一つの保育園のようです。

その保育園で環境を用意して見守る私は、まさに保育者ということでしょう。私が保育する環境は、適度な距離感によって和を与え、枯草を集めて稲に布団をかけて安心させます。多様な生き物社会の中で、みんなと共生し貢献し合って生きていけるように配慮します。

これだけを守れば、今年もまた立派なお米になってくれるでしょう。当然、このあとは雑草が生えて多少の草刈りや、スズメが来る時期は紐で防いだり、見守りと手入れは必要ですが田んぼの清々しさは御蔭様で年々増すばかりです。

私の実践する農法は、きっと自然が喜び運の善くなる浄化する農法です。浄化とは、いのちを尊重し合うことで透明で純粋な光のような存在に近づけその中でいのちたちがそのままあるがままをオープンに見せながら生き活かしあう場を育てることです。

これから1000年を見据えた教育は、むかしの田んぼの智慧から学ぶべきではないかと私は思います。この智慧を、具現化して実際の保育現場に届けていきたいと思います。