伝道者の育成

自己との対話というものは、自己研鑽の最も重要な実践項目です。これは一つの自分、一人の自分になるには自分というものが完全調和している必要があるからです。

私たちは生まれたての赤ちゃんの頃から3つ子の魂といわれる頃までは、ありのままの姿で自己を認識していたように思います。そこから社會を形成していく過程で他者とつながりはじめ、次第に自己を拡大させはじめます。

その中で、自己が次第に分かれていき自分中心と他者中心の世界観が発生し次第に現実が錯綜してくるものです。それは例えれば、目に見える世界が強くなればなるほど目に見える世界しか信じなくなり、目に見えない世界が強くなればなるほどに心に映る世界にしか信じなくなることに似ています。

この世には、物質的に存在している世界と精神的に存在している世界があります。これは結果とプロセスと似ていて、どちらも真実ですが大切なのはどちらも深く学び味わうという要素が必要になります。そして最終的には、和合といって現実と理想が一体善になり自然となります。

本来の自分というものを突き詰めていけば、人間は自分を深く味わうということがこの世で産まれてきて魂を磨いていのちを輝かせて天寿を全うするということになるのでしょう。だからこそどんな状況でも自己と対話を続けるのは、その両方を深く味わい意味をつけ、生死を度外視して魂を高めたいと本能が強く願うからかもしれません。

そもそもの自然界では、自己調和は必然的なものです。

自然と一体になり、すべてのいのちとつながっていますから自ずから自己調和をしています。人間は、これを知識によってコントロールするあまり現実と乖離した仮想世界を創造していくことができました。科学などその最たるもので、知識の世界そのもので現実を歪めていくことができます。自然の力の一部を取り出しては、その力によって自然を変えようとします。これがつながりを切ってしまう原因になっているのです。

人間も地球の生命の一つですからつながりを消してしまうと不安と恐怖を持つようになります。その逆にどんな時でもつながっていると信じて生きている人は安心基地を持っていて自分というものを深く信頼することができます。

むかしの人たちの暮らしの中には、つながりを大切に自己と対話を続けてきたのだろうと洞察できる素晴らしい文化がありました。現代文明はその文化のつながりを切って急速に拡大しましたが、その反動として人間の心は病みはじめています。

自己研鑽の意味も、単なるハードな修行をすることではなく愛や許し、そして自己調和に定義が変わってきています。これからの新しい時代、どう生きていくかを子どもたちに示す大人たちの存在が必要です。

一人でも多くの文化の伝道者を育成できるよう、私なりにできることを実践していきたいと思います。

自己研鑽~己を知る~

先日、野球の野村克也監督がお亡くなりました。改めて数々の名言を読み直してみると、見た目のあのぼやいている雰囲気にはない人間観察の粋を究めた考え磨き抜かれた言葉の数々があります。

人間は生き方がその遺す言葉に出ますから、どのように人物や人生を深く学び洞察して定義するかでその人の魂の真価のようなものを確かめることができます。どの道も突き詰めていけば原理原則に出会いますがその智慧はそのまま私たちの人生にも活かせるものばかりです。

いくつか深く感じ入ったものを紹介してみたいと思います。

選手時代のことは、

「京都の片田舎にある無名校から、十把一絡げのテスト生として入団した私は、最初から努力以外にこの世界で生きる術はないとわかっていました。だから連日連夜、誰よりもバットを振りました。3年目でレギュラー、翌年にはホームラン王になれたのも猛練習のおかげです」

「素振りはつまらないし、回数を基準にすると続かない。私がこの単純作業を継続できたのは、振ったときのブッという振幅音に興味を持ったから。ミートポイントで力を爆発させるようなスイングができたときは、この音が短い。そして、この短い音を出すためには、力を抜いていないとダメだということに気がついた。これがおもしろくて、1時間、2時間はすぐに過ぎていきました。」

選手にはこう言います。

「努力に即効性はない。コツコツやるしかない。いつの時代にもいる一流選手と自分は何が違うのか。それを考えながらやるしかない。」

「一流の人を真似るのはプロの常識。そういう努力の中で、一流選手と自分との違いや、何が大事なのかということに気づいていく。よりもバットを振りました。3年目でレギュラー、翌年にはホームラン王になれたのも猛練習のおかげです。」

監督としてはこういいます。

「選手がどういう場所で生きてくるかを気づかせるのが監督の役目でもあるんです。監督業というのは「気づかせ業」だと思っています。気づかせることが「再生」なんです。南海時代、それまで1勝もしてなかったピッチャー3人をトレードで獲得して「俺が言うとおりに投げれば間違いない」と言って3人とも2ケタ勝利で優勝。それで再生工場というような異名がつけられたわけです。」

「勝つときにはいろんな勝ち方があって、相手が勝手にずっこけたり、勝手にミスしてくれたりして「ああラッキー」という勝ち方もあります。しかし、負けるときというのは、負けるべくして負けるものです。勝負の世界にいると、勝って反省というのはできないが、負けたときには反省する。敗戦の中にいい教訓があると思います。」

監督は気づかせ業、負けに不思議の負けなし、これらの言葉はとても偉大な智慧が凝縮されています。自分と正面から向き合い、自分自身と常に対話して自己を修正してきたからこそ絞り出る言葉の数々があることに感動します。

他にも名言はありますが、私が野村克也さんから改めて学び直すのが「自己研鑽」この大切さです。自己研鑽=努力は、隠れていますからあまり表立っては評価されません。まるでそれは陰徳のようなものと同じです。頭を使うというのも、常に己を疑い己を修正し磨き続けることに終始すれば努力は離れることもありません。

野球人生を生ききった人物の後ろ姿はこれからの後人の光になると思います。

最後に、特に私が好きな言葉です。

「心が変われば態度が変わる。態度が変われば行動が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。運命が変われば人生が変わる。」

ご冥福を心からお祈りしています。

私たちは現実の世界とは別に意識の世界というものを持っています。量子力学が出てきてから、その世界のことが少しずつ解明されていきますが古代の人たちはその存在を身近に掴み生活に活かしていたことが遺跡からもわかってきます。

祭祀や神事というものも、言葉というものも、同様にその量子の世界、つまり目には観えない世界が働いて活動しているということを認識してそれを伝承しているものです。現代では、なぜこんなことをしてと思うことでもそこには確かに効果があるものが存在し、その効果を実感するからこそ今でもそれが大切に扱われ遺っているのです。

古代のテクノロジーというものでしょうが、それが現代になってもまだ活かされているという事例の一つでしょう。

私は、漬物や味噌づくり、そのほかの保存食などを手掛けますから発酵のことを学びます。発酵を学ぶと、そこには菌たちの世界が存在します。これは先ほどの量子の話と似ていてそれまで目には観えなかった菌があるとき存在していることを科学が可視化することによってその不思議な働きを解明することができました。

味噌も漬物も菌が活動してつくることが判明していましたが目には観えない時代は効果があることしかわからなかったはずです。しかし現代は誰しもが菌のことを知っていますから、事実がわかり菌というものを捉えています。

量子もまた存在していることがわかってくると、目には観えない波動や波長、意識や自然の気候や宇宙の原理などが次第に解明されていくと思います。そうすれば、なぜ意識が大切なのかやなぜ自然と調和する必要があるのかや、宇宙と人間の相関関係などの重要性もまたわかってくるはずです。

これは過去に効果がある理由が次第に解明されるということですが、人類はそうやって未知なるものを知識に換えてそれを使い文明を発展させてきましたからこれからもそれを続けていくと思います。

しかしあるとき、そのすべてを知った時、人はその偉大な力に対してどうするのか。扱えないほどの偉大なものを知り何を思うのか。私は知らないで感じることの方が、心地よく生きられ長く仕合せを保ち足るを知る人生を生きられるようにも思います。

今度の「場」は、道も入りますから足るを知りつついのちが働くことを謙虚に学ぶように取り組みたいと思っています。子どもたちに本当の豊かさや仕合せが持続するように、今できることを洗練させていきたいと思います。

場の道場

場の道場は、場を使いますから様々な場づくりを通して場を磨いていきます。この場が磨かれていけば、世間ではパワースポットだと呼ばれたりしています。そのまま場がただすごいと感覚でわかっても、それを説明できれなければスピリチュアル的とか、宗教だとか言われます。

現代は、ちょうど量子力学という学問が出てきます。これは原子よりもさらに小さいものを捉えていく研究です。素粒子やニュートリノといった宇宙の本来の姿、宇宙がどのように存在するかということを突き止めていく学問でもあります。

ここに「場の量子論」というものがあります。

ウィキペディアにはこう解説されています。「場の量子論(ばのりょうしろん、英:Quantum Field Theory)は、量子化された場(素粒子物理ではこれが素粒子そのものに対応する)の性質を扱う理論である。 量子論の中でも、位置や運動量などの古典力学由来の物理量と、スピンなどの量子論特有の物理量を、基本変数とする量子論を量子力学と呼ぶ。一方、基本変数として「場とその時間微分または共役運動量」を用いる量子論を場の量子論と呼ぶ。量子力学は、場の量子論を低エネルギー状態に限った時の近似形として得られる。現代では、古典的に場であったもの(電磁場など)だけでなく、古典的に粒子とみなされてきた物理系(電子など)の量子論も、場を基本変数にしたほうが良いことがわかっている」

そもそも素粒子をはじめ量子は空間の中に存在して絶えず活動する波長、波動のようなものです。その波のある空間を一つの「場」と見立てて、場の中にそれらが活動する舞台が存在すると定義しています。そしてこの「場」という空間を如何に高め磨くかということが私の「場の道場」の実践内容となります。場の中にある振動数を如何に磨くか、これは目には観えない波長をどれだけ研ぎ澄ませて自然と調和させられるかということに尽きます。これらの科学は、環境の科学ですが私はそれを風土ともいい、徳とも呼びます。

これらの粒子の波は、波動というものの振動数によって表現されます。無限に振動するその波長がどのような波長を放つか、その振動の波長こそ場の価値が出てきます。低周波というような、穏やかで和やかな振動数であれば場は落ち着き心は癒されます。またその逆の波長であれば心はざわつき、傲慢になっていきます。

私たちは一人一人その肉体や精神というものの中にそれぞれの「波動」と「波長」を持ち、それを積み重ねて人生を遂げていきます。しかしその人生の舞台の上には確実な「場」というものが存在し、その場を整わせていく中でまた記憶されていく宇宙の媒体に影響を及ぼし合っていくことになるのです。

もっとも深い私たちの存在には、この量子力学が関係しており科学はいよいよこの目に見えない波長や波動というものを捉える「場」という存在にまで近づいてきました。

私は直観型の感覚を澄ますのが好きですから、よりこの波動や波長を感じやすいタイプですしそれを「場」に定着させていくのが得意なタイプなようにも思います。

これからの時代、不確定さが増えてきたのは目に見えないものが主役になっていく転換期に入ってきたからです。だからこそ、私の取り組む「場」はこれから主役であり世の中を転換するための主人公となっていきます。

最後に、「日本の原子物理学の父」と呼ばれる仁科芳雄博士の言葉です。

「環境が人を創り人が環境をつくる」

場を醸成し、新しい時代の幕開けをここから拓いていきたいと思います。

子ども心の安心基地

人は自分との対話の時間や、心を整い落ち着くために安心できる環境や場を求めていくものです。自分の安心できる場があるというのは、心の拠り所でもあります。心が安らぎ落ち着く中ではじめて人間は心の動きに合わせてゆったりと自分自身を取り戻すことができるようにも思います。

つまり心の安心の場を持つことで人はまた前に進む活力を得ていくように思うのです。

現代のような競争社会で歪んだ個人主義が蔓延すると、どうしても不安や恐怖にさられていきます。そういう不安や恐怖を乗り越えて恢復したり心の活力を取り戻し、エネルギーを補給したり癒したりするところが安心の場になります。

子どもたちにとっては安心基地は両親であったり、私の場合もお地蔵様やお守り、また犬だったりもしました。大人になっても形を変えて私たちはどこかに拠り所をもって安心する場を創造していきます。

資本主義経済で経済戦争が日々に行われているストレスの多い今だからこそ、そういう安心の場を提供するということが必要になってきているように思います。その安心の場が新しい時代の心の教育に重要な役割を果たすようにも思います。

心の教育があるからこそ、人々は心を見失わずに人間らしい本質的な知性や人格、徳を磨いていくことができます。新しく開く場のカフェは、子どもたちだけではなく子ども心を持つ人たちの安心基地にしていきたいと思います。

さらに深めてみたいと思います。

正直を磨く

人間は生きていく上でもっとも大切なことは自分に正直でいることです。しかし自分に正直というのは、自分というものが本当の意味で分かることができて正直になることができるということでもあります。

なぜなら己自身が分からないままでは、正直だと思ってもそれは正直ではなく正直風になっているだけだからです。その正直風では、本来の自己一体ではありませんから偽りの正直さで嘘が増えていくからです。

正直さというのは、真実であり本当のことです。その人が生まれてきた意味や、何を使命にしているか、そしてどのようなことを魂が望んでいるかそれが分かる状態が正直ということです。

正直は他には真心や至誠など同じ意味を持つように思います。

つまり、本当の自分で生ききったということでしょう。自分らしさというものは、他と比較していく中で出てくるものではありません。自分自身をやり切ったとき、自分自身のままであるとき、自然体のとき、私の言葉ではかんながらの道を歩んでいるときにこそ顕現するものです。

自分らしくあることは、愉快痛快の面白い物語と人生の醍醐味に出会い続ける人生のことです。そこには成功者とか失敗者とか、またどのジャンルだとか分類とかは関係ありません。自分らしくあることのメリットを一つ上げるとするのなら、それは魅力的な人になるということかもしれません。

魅力的な人、チャーミングな人の周りには面白い人、豊かな人、明るい人、優しい人、数々の人たちが集まってきます。そして魅力的な人は「場」を創造します。その場には、目には観えない徳が集積してきます。まさに自分らしくあることこそが徳を積むことになるのです。

自分に正直に生きることは、子どもたちの憧れる大人に近づくことでもあります。子どもたちの仕事をするからこそ、突き詰めてみたらこうなったのだからさらにここから尖がって正直を磨いていきたいと思います。

新時代のはじまり

本日は、神社建立式ののち直会(なおらい)をBAで行う予定です。この直会とは、神事ののちに神饌としてお供えしたものを参拝者と共にいただく行事(共飲共食儀礼)の事を指します。そして供物そのものもまた直会と呼びます。

これは正月の歳神様の依り代である鏡餅をみんなでいただくことでその神様との結びつきを強くしその力の恩恵を受けることと似ています。穀物にはむかしから神霊が宿っていると信じられていましたからその力をみんなで分け合うことで私たちは元氣をいただいていたのでしょう。この元氣は、いのちの力であり、生命の活力のことです。

また直会の語源は、「直り合い」(なおりあひ)からきているといいます。この直という字は、素直の直のことを指します。この直るという字は、邪気や穢れが祓われた清浄で明るく澄んだ姿のことを指します。

人間はこの世に出れば誰しも執着を持ち、個人的な観念や想念によって価値観が形成され本来の自然のままであることやあるがままであることを忘れてしまうものです。その穢れを神威によって祓われることでみんなが素直になった自分と出会うことができる。そういう出会いの場こそ私は直会の本質であろうと思います。

心が澄んでいく感覚というのは、あるがままのものがあるべきように存在そのものの「徳」が顕現する状態です。本来の人間は誰しも、魂の中にはその徳の境地を持っています。徳の境地の存在は私たちの転生意識にこそあります。地上に生まれて生きていく中で私たちは様々な穢れを受けますが、その中で何度でも生まれ変わり魂を磨いていく生き方をしたいと願い何度も転生しているのはその徳の境地があるからです。これを仏教では「縁起」といい、神道では「むすび」といい、西洋では「愛」とも呼びます。そして私は、新しい時代に入りこれらを「徳積」という言葉で語ることを定義しました。

本日は春分の日、古来からの伝統的な暦では今日この日をもってはじめて「庚子」(かのえね)年となります。つまり今日こそが旧正月と春分が重なり「本当の新年がはじまる日」なのです。

暮らしの中にこそ徳は生き、暮らしを通して私たちは文化を継承していきます。私の取り組む暮らしの甦生はたとえ微小だったとしても新しい時代を変えて化けるように祈り、大河の中に一滴の永遠の雫を垂らしていきたいと思います。

智慧の神様

今回、神社建立において思い返すと様々なご縁があってこの機会をいただいていることを感じます。私は、幼いころから神社や境内、御守りが大好きで両親によくせがんでいたのを覚えています。家にはそうやって出かけた場所で買ってもらったたくさんのお守りがあり、それは決して神道だけに限らず数珠やお札などがありました。

それが小学校の頃に入ると、次第に薄れ始め神社の境内や近くの地蔵堂などではよく遊んでいましたがあまり御守りなどには興味がなくなりました。今度は、中学生の頃になると、密教や空海の生き方に興味が湧き、サンスクリットの勉強をはじめ今度は竜神や水神、白蛇などに興味が湧き色々な池や沼などをバイクで探索していました。

そこから高校生くらいになると、中村天風、安岡正篤、吉田松陰など実践哲学や陽明学に目覚め、他にも孔子や老子、中国の様々な偉人たちの本を読み漁りました。大学生の頃は、西洋の文化に興味を持ち海外へ留学しては現地でドラッガーをはじめ、ナポレオンヒルや七つの習慣などの価値観に触れ、成功哲学や自己実現についての考えに触れつつ、美しい教会の大聖堂に魅せられ、ヨーロッパに行けば教会めぐりをしていました。

社会人になってはじめの頃は、山や川、海、人気のないところと子どもたちの感性から学ぶことに夢中になり、暇があれば温泉を深めていました。そして30代に入り、また神社や仏閣の建造物や歴史、伝統文化に興味が湧き、全国各地を訪問しました。同時に自然農といった自然の知恵を活かす生き方や、民族伝承の智慧といったものに惹かれ、実践を積み重ねつつその深さを味わいました。

そして40代になってから古民家甦生に取り組みはじめて、暮らしの知恵や先祖の叡智、伝統の意志や生き方、働き方の転換、最後に「徳」というものに昇華されました。思えば、二宮尊徳に惹かれたのは社会人になってしばらくしてでしたがそこから15年くらいこの「徳」ということが何度も頭によぎりました。

これは私が子どもの仕事をしていることと、ある故人より古い魂の人物ですねと言われたこともあるかもしれません。私は長老の役目というのは、民族を自然に照らして丸ごと善いことへと導くために生き方を示すことのように思います。

私は見た目がまだ若く、長老とはとてもいえるものではありません。しかし、なぜか私の中に流れるものの中に、伝統の知恵や暮らしの知恵、そして自然の知恵や歴史の知恵、様々な知恵が存在することに気づきます。

今回の神社建立は、この「智慧」そのものをお祀りすることによります。八意思思兼神というのは、いわば「長老」の道を司る神です。観念そのものが智慧ですから、その「智慧を神とせよ」という意味になろうと思います。

まさに今の時代、このタイミングだからこそ智慧を祀るということが必要なのです。私が今回の神社建立のご縁の結び目には、智慧が存在することは自明の理です。子どもたちのためにも、智慧を譲り遺し、人類が末永く仕合せになるように私にできることを努めていきたいと思います。

天の道理に従う

人は頭で考えていても行動しなければ成果につながることはありません。それは天の道理として努力をした分だけしか成果が出ないからです。この天の道理は、現代の世の中では如何に楽をしてとか如何に便利にとかの価値観が優先されていますから無視されることも多いようになってきました。

農業なども天地の道理に逆らって、遺伝子を組み替えたり、機械を駆使し、合成肥料や特殊な農薬等を使うようになってきました。これまで数千年から数万年という歴史で紡いできたものをいとも簡単に壊して新しいものにしようとします。

しかしこれはその時は収量が一時的に増幅したように見えますが、必ずそのうち道理に逆らった歪によって収量が激減して絶滅していきます。

自然界というものは、決して人類がさわれない天の道理があります。この天の道理の中で人類も生きていますからそれに逆らったら生きていくことはできません。異常気象なども、人間にはなすすべがありません。だからこそ私たちは、今こそ天の道理の存在に気づき、改めてその道理を尊重することこそが進化であると私は思います。

天の道理を尊重するというのは、かつての先人たちが磨き上げてきた文化を尊重していくことです。もっとも自然の循環を邪魔せずに自分たちもその循環の中で、豊かに生きていくということ。天の道理を尊重してきた人類は、何千年も何万年も地球と共生し子孫を紡いでいきていくことができました。

しかしかつて同様に天の道理に逆らった文明はほとんどすべて滅んでしまいました。天は道理に逆らうと天敵が現われ滅ぼされていきます。そしてまた調和が訪れるという仕組みになっています。

人類の天敵は人類そのものですから、人類が自分たちの欲をおさえ徳を積むように天理に従い生きていかなければ天敵が自分たちになってしまいます。本来、人類も自然の一部でしたから天敵になるはずはありません。

天敵にしてしまうのは、自然の一部であることを忘れ自然から学ぶことを忘れてしまうからでしょう。自然には人間本来の姿を回帰させる様々なことがちりばめられています。日本人の先人たちも暮らしの中で自然を取り入れ、常に天の道理を学び直しながらその中で人類のあるべき姿を見つめ謙虚に文化を高めて磨いてきました。

まさに今は文化が減退し、人類も危険な状況になってきましたからもう一度、自然の叡智である「徳」を中心に据え生き方を見つめ直す必要を感じます。

引き続き、遠大な未来のために狂人や変人といわれようが我が道を進んでいきたいと思います。

 

視座を磨く~心の呼吸~

人間の心には様々なことが日々に浮かび上がってくるものです。何もしていなくても、心は活動していて私たちが呼吸するように心も生きています。

その心に浮かんでくる様々な想念を如何に味わい盡し、如何に磨くかはそれぞれの日々に生き方次第です。生きていれば様々なご縁に導かれますから、その一つ一つの意味を確かめながら歩んでいきます。

そうやって心を高めながら同時に生まれる様々な感情を浄化していき、心を磨いていきます。それが人生の醍醐味であり、天命を生きるということでしょう。

天命を生きるとき、私たちはどの視座で物事を観ているかというものがあります。世の中の常識に合わせて語るときと、悠久の時空を超えて語るときがあります。常識ではわからないようなことも、視座を高めれば自然に観えてくる境地があります。

天命が分かれば使命に気づき、その使命に生きれば心の純度も洗い清められ視座もまた高まります。何のために生きるのか、何のためにそれをやるのか。その初心にどれだけ透徹するほどに心に思いを刻んでいるか、それが日々の修養の糧になっていくのです。

生きていくというのは、成長することであり、真の成長は心を磨くことです。

様々な課題を日々にいただきそれと正対しては今に集中して心に浮かぶ様々なことを一つ一つ丁寧に磨いてご縁を紡いでいきます。ご縁こそ、磨くための砥石であり、その磨き合いが続いていけばさざ波の中で出会う美しい砂浜の貝ように魂も輝きだします。

子どもたちのためにも日々に心の呼吸を丁寧に整え、視座を磨いていきたいと思います。