徳を積むこと

情報化社会になってきている理由を深めると、それは信じるということが希薄になってきている社会になっているとも言えるように思います。信じるというものは、何を信じるか。それは徳を信じる世の中とも言えます。

それぞれの持って生まれてきた徳性によって、それぞれの持ち味を活かしあうことができれば一切の無駄もなく一切の比較もなく、お互いのいのちを存分に発揮しあい魂の徳を磨いて幸福な一生を送ることができます。

人間が何のために生まれてきたのか、そして何のために生きるのかという問いすらも忘れ、目の前の評価や目先の損得、目に見えるものだけを頼りにしていけばいくほどに信じる世界は遠ざかっていくように思います。

この信じるというものもまた、徳を信じることであり、徳を積む世界に自分の身を置くということでもあります。本来は捨てるものなどはこの世に一切なく、すべて拾って甦生させていくときその徳が見えてきます。

私が徳の見える可をするのは、決して周りを変えようとするためではなくそもそも徳は拾い甦生させると勝手に見えてしまうだけなのです。世の中でまだ使えるものを拾うのはケチなのではありません。それはその持ち味があるものをもっと引き出せると信じるからです。引き出すには甦生する見立ての力と、いのちを勿体ない存在であると自分自身の生き方が変わっている必要があります。

徳の世に生きる人は、それが観え、得の世に生きる人にはそれが見えないだけなのです。まず徳の世に転換するには、生き方を転換する勇気と実践が必要になります。

本田宗一郎にこういう言葉が遺っています。

「人間にとって大事なことは、学歴とかそんなものではない。他人から愛され、協力してもらえるような徳を積むことではないだろうか。」

人間本来の目的を本田宗一郎も生きたのかもしれません。

最後に二宮尊徳の道歌をいくつか紹介します。

「何事も事足り過ぎて事足らず 徳に報ゆる道の見えねば」

(人間の不足不満は、徳に報いる道が見えていないだけなのです。)

掃き捨つるちりだに積めばおのづから竹の子等までみなふとるらん」

(みんなが捨てたものでもかき集め甦生させればタケノコまでも甦る。)

そして私の一番好きな道歌であり、今の私の生き方をすべて顕すものです。

「むかしより人のすてさるなきものをひろひあつめて民にあたへん」

(私は、みんなが不要だと捨ててきたものを拾い集めてその徳を甦生しみんなに与えてきただけなのです。)

私の徳積みへの覚悟は、この一点に由ります。心田の荒蕪を耕し、人々が本来のいのちを全うし仕合せな世の中を築き上げられるように今の時代の仕組みの中で徳を磨いて徳を顕現させていきたいと思います。

 

徳の推譲

昨日は、日光にある報徳二宮神社にて年頭祈祷をしていただきました。厄年を迎えるにあたり、飛躍の役であると思いを転じ、二宮尊徳の禍福一円観をさらに深めようと毎年来てはその教えを学びました。

今年は、徳積財団の設立も予定しており改めて二宮尊徳の生き方を現代に甦生し心田開発と復興を心に誓うためにも改めて報徳への心を新たにする機会になりました。

二宮尊徳の生活訓の中にこういう一文があります。

「国家の盛衰存亡はおのおのの利を争うのはなはだしきにあり、我が教えは、この悪弊をのぞきて安楽を得しむるにあり。」

それぞれが自分のメリットだけを追い求めていけば国家は必ず盛衰存亡に陥る。私はこの人間の持つ特性をのぞいて人々の心の荒廃を取り除くことであるという意味です。

別の言い方では、これを心田開発という言い方をしました。心の荒蕪を耕すという言い方です。この心の荒蕪とは、荒れた心のことです。それを耕し、実りあるものに転換するといっていいかもしれません。

そもそも心の荒廃とは何か、それは自分にとっての損得ばかりを思い煩い、ゆとりがなくなり自他に対してイライラすることです。みんなが自分勝手に自分のことだけをやろうとすれば奪い合い、攻め合い、不満や不足ばかりをぶつけ合うようになります。

心が荒れればその先に、冷たい社会や戦争、そして孤立やいじめなどが発生します。そうすれば次第に組織も崩れ、関係も壊れ、繋がりも途切れ、徳も失われていきます。

私は徳積財団を通して、みんなで少し損をしようと声掛けしています。これはメリットばかりをそれぞれが追いかけるのではなく、みんなで少し損をしてでも一緒に徳を積んでいきませんかと投げかけています。

損か得かではなく、半分は損をしてでもそれを徳に報いるために活用していこうとする。それが今までいただいたものに対しての思いやりであり、感謝であり、報恩であり、子孫へと未来の徳を譲り文化や宝を伝承していくことになるからです。

心の貧しさ、そしてゆとりのなさは、現代に本物の豊かさをもたらさないように私は思います。真の豊かさが必要なのは、日本経済を含め世界はただ個々の利をあらそい、さらに混迷を深めていると感じているからです。一人一人の心の中に真の平和や平安をもたらすには、心の荒蕪を耕すしかありません。

どんな時代であったにせよ、価値観を転換するのは一人の生き方の転換です。その転換が増えていくことで、世の中が復興していくのです。徳を積む意味をこの世に実相し、子どもたちに徳を推譲していきたいと思います。

 

節目

来月に入るとすぐに「立春」を迎えます。この立春とは二十四節気の一つ、「春の始まり」を意味します。「立」は中国語で「始まる」という意味でもあります。

この二十四節季は、一年で最も昼の長い日を夏至とし、最も昼の短い日を冬至、昼と夜の長さが同じ日を春分・秋分としてこの四つを二十四に分割したものです。その二十四節季を三つの候にわけて七十二候になりました。

この二十四節季は中国から由来していますが、日本の気候とは少し異なるため「雑節」というものを設けたといいます。そして雑節には、節分・彼岸・八十八夜・入梅・半夏生・土用・二百十日になります。また「七十二候」については江戸時代の天文暦学者・渋川春海が日本の気候に合わせて改訂版を出し、その後明治時代に「略本暦」が出てそれまでの「七十二候」を大幅に変えて今に至ります。

立春においては「春風が吹いて氷が解け、冬眠していた虫たちが目覚めて動き出し、河に張っていた厚い氷が解け出して、魚たちが氷のかけらを背中に乗せている」と記されています。

これは季節の転じる時機であり、その節目が節分ということです。なんとなく、

節分というのは一年に四回あり「立春」や「立夏」、「立秋」や「立冬」の前日になります。節目というのは、変わり目のことです。むかしの人たちは、この節目のことを非常に大切にしていました。今のカレンダーは、単なる数字が羅列しているだけで月日が変わるときくらいしか節目を感じなくなってきています。

本来、この節目にこそ私たちは自分を変える機会にして常に柔軟に変化していくように工夫を凝らして自分もまたその自然の一部として心身を次の巡りに合わせていくことで大きな変化に則って安心立命していきました。

時代の変わり目、節目に合わせるということが全体善に従っていくということです。万物一円観、私の生き方もまた節目に合わせていきたいと思います。

百姓の心

「百姓」という言葉があります。現在は、あまりこの言葉を聞くことも見ることもなくなってきましたがむかしはほとんどがこの「百姓」によって国家の基盤を担っていました。

この百姓のイメージは、農業をやっている人たちのように思われていますが元々は「百の姓を持つ人」という意味で、たくさんの仕事をもっているから百姓と呼んでいたのです。

農業だけではなく、大工に左官に商人に神主に医者にと、ありとあらゆるものを複数に兼業してきました。よく考えてみたら、お金で今のように専門家と専門分野に分かれて職業と仕事を分けている時代と異なり、ありとあらゆる人たちが自分たちの得意分野や才能を発揮しながら助け合って暮らしをしてきました。

食べるものは自分でつくり、社會に役に立つように自分の徳性を活かして協力し合い暮らしを一緒に創造していきました。

現代は、個々がバラバラになり、お金を中心に必要なところで費用を支払いサービスを受けられる便利な時代になりましたが一つに一つの分野だけで自分で食べ物をつくらなくなってからどこか本来の助け合いの暮らしが消失してきているように感じます。

みんなそれぞれに生まれ持った才能があり、徳性がある。それを上手に活かしあうことで文化を守り、工芸を含め、民藝なども守り継承していきました。今では素人とプロが明確に分けられていますが、むかしは百姓というようにみんなそれぞれに芸術や文化、工芸などを自分で習得しそれを子孫に継承していたのです。

古民家に関わると、様々なことを自分でしなければなりません。分野別にプロに頼んでいたらほとんどの家の暮らしができません。あまりにも難しいものはその道の長けた人に依頼しても、日々の暮らしの中の修繕は自分の手で行う必要があります。

しかしこの修繕こそ、まさに百姓の仕事の醍醐味です。私たちは、自分で創り自分で直すといった当たり前のことを已めてしまうことで大切な学びの機会を失っているのではないかと思います。

暮らしの美しさに触れる機会が減り、何が善で何が真実か、そういったものを自然から学ぶことがなくなってきました。人工物だらけで、修理も修繕もできない物に溢れているうちに私たちはその暮らしの中に息づいている繋がりや絆などを受け継いでいくことを忘れてきています。

みんな祖父母や先人たちが行ってきた、物を大切にする心や、物を活かす心、そして丁寧にいのちに接していくことなども百姓の消失とともに失われてきました。このまま子どもたちに百姓が伝承されなければ、その百姓の心もまた伝承されないでしょう。

子どもたちが暮らしや自然から真善美の別を学び、それを自分の徳性を伸ばし積むための材料になっていくように百姓の心を伝承していきたいと思います。

甦生の本質

私は現在、古民家をはじめ、あらゆるものを「甦生」という取り組みをしていますがこれは価値がないと世の中が捨てたものを拾い、それを磨いて見立て直し新しいいのちと役割を持たせるということになります。

日本的な概念としてこれは「有難い」や「勿体ない」などと同様に、私たちの先祖が大切にしてきた文化の一つです。

現在は、まだまだ活かせるものをその用途がなくなれば価値がないと切り捨ててすぐに廃棄してしまいます。本来、もっと活用できるものを活用しようともせず役に立たないと決めつければ、いくら資源が豊富にあっても使われなければ無価値になりますから無価値にしたのはその時代の人たちの生き方の問題です。

二宮尊徳に、甦生について遺された文章があります。

「世の中には、人がまだ捨ててはいないが、活用していないものが多い。これらをよく拾い集めて、国家を再興する資本とすれば、多くの人を助け、まだ余りが出る。これが私が小さい頃から行ってきた道である。 」

二宮尊徳は、田圃の端の誰も使わないような土地に菜種を植え、菜種油をとりその油の灯で勉強に励んだといいます。他にも捨ててあった余り苗を拾い植えてそれによって別の収入を得て蓄財していきました。世の中が要らないと捨てたほんの小さなものを敢えて拾い、それを積み上げて価値にして活用したのです。

彼が行ったのは、私の取り組む「甦生」と同じ概念であったのは間違いありません。私の世の中が捨てたものを蘇られ、息を吹き込み、磨き上げ新しいいのちとしてそれを活かす。これは単に便利な道具を別の使い方にしてさらに便利にするわけではありません。経済合理性や効率を優先するための智慧ではなく、徳を活かし、徳に報いるといういのちの在り方、そして生き方の仕組みなのです。

シンプルですが、人が見捨てるようなものの中に価値を見出し、それを経世済民の甦生の柱としてそれを積み上げ、磨き上げ、災害に備え、蓄財をし、家を再興する。まさに、徳を使った循環の仕組みを上手に生かした本質的なコンサルティングを行っており、単に分析や評価だけをするのではなく文字通り「甦らせる」というコンサルティングを行ったのです。

私は、本業が「場道」のコンサルティングですからまさに「甦生」するかどうかが私自身の中心軸であり、根源的な成果の基準になっています。だからこそ、二宮尊徳のように「復興」にこだわり、甦生にいのちを懸けて実践をするのです。

今はまさに捨てることが当たり前、捨てることこそが価値があると信じさせられている大量消費の時代、甦生などというとあまりにも荒唐無稽な可笑しなことをやっているように思われますが、これが徳を循環し、人間社會を本当の意味で仁徳溢れる世の中にするための唯一の方法なのです。

先人の生き方から、本来どうあるべきか、子どもたちのために見つめ直したいと思います。

本物の暮らし

人間は時代時代にそれぞれの集合的な価値観があり、その価値観に左右されて生きているものです。例えば、戦争時は戦争にどのように勝利するかという価値観で社会は彩られその価値観が蔓延します。平和になれば、どのように平和を維持するかという価値観が蔓延します。

結局は、対立的な概念で社会は動いていますから時代の歩みにあわせて価値観は右往左往しているだけだとも言えます。現代は経済戦争の時代ですから、お金のために競争し少しでも経済効率を高めて収益をあげるかという価値観が蔓延しています。

アメリカや中国が、経済戦争真っただ中で日本も負けじと追い付こうとしていますが人口の減少と、高齢化によって働き手が少なくなり、外国人などを雇いいれていましたがいよいよロボットやAIまで投入して競争に突入する様相になってきました。

人間の仕合せというものは、本来は時代の価値観が変わっても変わらないものですが現代は盲目に目先の損得を幸福だと思い込む価値観が蔓延する時代ですからそれに右往左往しながら人間の本来の仕合せを見失っている人が増えているのも仕方がないことかもしれません。

しかし、現在、このような経済戦争の中で働くことができない人が日本には1000万人以上を超えているといわれ、心身を病んでいる人で薬漬けになって引きこもっていく人が増えていく一方だと言われます。これはなぜかということをもう一度、私たちは深く見つめる必要を感じます。国家は何をもって本当に豊かだというのか、世界の価値観が変わる時代だからこそ深く見つめる必要があるように思います。

実際には人類が永続して大切にしてきた幸福感は古代から何も変わってはいません。自然の中に入り、自然と共生しながら身近な美しい暮らしを体験すれば人間本来の価値観に目覚め、本当の仕合せとは何か、何を失っていたのかに誰しもが気づくはずです。

時代の変わり目というのは、価値観の変わり目ということです。

価値観が変わることで、時代もまた変わります。私たちは時代を変える存在でもあり、同時に時代に流されていく存在でもあります。だからこそ、その生き方の真ん中にある先人の紡いできた伝統や伝承を静かに見つめる必要があり、私たちは暮らしを立て直すことで生きていく意味や本当の価値を覚醒させて次世代へとつないでいく役割を持っているのです。

子どもたちのためにも、温故知新し洗練された本物の暮らしをつないでいきたいと思います。

2020のテーマ

昨年を振り返ると、多くの同志や仲間に出会うことができた一年だったように思います。今までの自分では、出会うこともなかったような人たちとの出会いによって視野が広がり、そして考えが深まり、志も厚くなりました。

一つのことを究め深め続けることで求心力は高まりますが、多くのことを究め深め続けることで遠心力が高まります。地球が自転しながらも円を保ちながら、宇宙で星々と一定の距離を保ちいのちが廻るように私たちもまた求心力と遠心力を合わせていのちを輝かせていくものです。

出会いにもまた、一つことと、多くことがあり、そのバランスを保つ中で新たな使命や役割をいただけるように思います。

昨年も恩師と共に振り返りをして色々とあったことなどを語り合いました。その中で今年のテーマは「種蒔きばかりをするのではなく、実るものをとって種籾をつくる」ということになりました。

私たちは必ず老いていきます。特に人生の中盤以降はその老いを身近に感じていきます。しかし老いの側面として、老いることで私たちは奥行きが出てくるとも言えます。老いていくからこそ、優先するものに絞ることができ、その選択肢が狭ければ狭いほどに実際にはその奥行きの先にある選択肢もまた広がっていくのです。

自分でできることが減ってくるからこそ、同志たちや仲間に託していくものがある。そしてそれが次の時代を担っていくのです。その時には決して実らなかったものも、時を経て時代が変われば実ることになります。

そして目的を狭めれば狭めるほどに明瞭に明確になっていくことがあります。実現しようとすることに対して広げるばかりではなく敢えて徹底的に狭くすることでその奥行きを待つ境地も得られるのかもしれません。

生きるための学問は、心の世界を学ぶことでもあります。心は今、どのような機微を感じるか、そして心はどのように観応し、成長をしているか。はたまた絶望をし、未来を懸け、深い悲しみや喜び、それによって磨かれ、さらに眩い光を放ちます。

私たちの心は、まるで一つの玉のようであり、その玉が光り輝くように生きているだけのようにも感じます。この生もまた、今回限りです。

自分の役割や役目に生き、今年も一期一会の悔いのない一生にしていきたいと思います。

いのちの流転

昨日は、聴福庵の家祈祷を宮司さんに来ていただき行いました。今年一年の神恩感謝と家の穢れを祓い清めるために行いました。私は古いものを磨きます。その磨く中で、あらゆるものを洗練し光らせていきます。

ある意味では、磨くというものは浄化の一つであり磨き抜かれた場所には清らかな場が生まれます。清らかな場とは、それだけで人々の心の穢れを祓うことができます。

本日からの歳神様のお迎えにあたり、暮らしの中に祈りと祓いがあることは日々を確かに磨いていくうえでも大切な行事になっています。

そもそも、祝詞奏上で大祓いとは何かというものを言霊によって私たちは直観します。

人間が生きていくうえでの穢れとは本当は何か、そしてその穢れを清めて幸福に生きていくための仕組みを祝詞には記されます。

私たちは、知らず知らずに自分勝手に好き勝手に世界がまるで自分だけのものように感じるようにできています。これはいのちは、自分のいのちを全うしようとするからです。しかし本来の世界は、自分のいのちがあろうがなかろうが永遠に偉大な循環の中で全体のいのちは存在しています。

私たちが何をしようと、自然循環の中でそれは呑み込まれまた浄化されていきます。しかし、自然循環の中で純粋で透明ないのちであれば私たちはその存在に活かされている仕合せを感じ、心安らかに和みます。それが次第に自己中心に傾くようになり、いのちがそこから離れすぎると途端に様々な穢れがはじまります。

まるで清流が汚れを流して元の美しく透明な水に回帰するように、海が波によって綺麗な砂浜に回帰していくように、また台風が通り過ぎた後の澄んだ青空のように元の状態に回帰していきます。

回帰とは、ひとまわりして元の状態に戻ることを言います。

万物が流転するというのは、地球や宇宙、そしてこの自然界の偉大な法則の原理です。私たちは、地上に止まっているようでそして平坦なところに居るような気がしています。

しかし実際は、地球は円くそして自転を已みません。猛スピードで流転しながら、太陽を廻り、そして宇宙を廻る存在です。

私たちは流転という仕組みを学び、流転に回帰することを待つことで循環の力を存分に発揮することができるのです。本来の日本人の先祖が積み重ねてきた伝統的で自然的な暮らしは循環を磨き学ぶ道場であり、私たちはそれを実践することで穢れを祓い、洗練し、心魂を磨き上げてきました。

今の時代、暮らしはただの経済効果の産物のひとつになり、物質文明の中で無理やりに暮らし風のものを取り入れることで暮らしをやっている気にさせていたりします。

いのちは、流転し磨かれていきますから本来のいのちの暮らしは自然の原則に適ったものでなければなりません。風土、真善美、あらゆるものを徳とし、その徳を磨く必要があります。

来年は、徳循環を具現化し経済一辺倒の価値観に楔を打ち込み、本来のいのちの充実や原点回帰に挑戦していきます。子どもたちに先人のいのちを繋ぐ役目を果たせるように、精進を続けていきたいと思います。

歳神様を待つ心

今年も歳神様を迎えるために正月の準備を早くからしています。現代は、クリスマスの行事が入ってきていることでギリギリまでクリスマスムード一色ですが本来は12月13日くらいから時間をかけて年末までじっくりと歳神様を待つ準備をしてきました。

本来、門松も13日くらいから飾り始めていたといいます。ギリギリまでみんな仕事や予定が入っていますから、年々正月気分というものも薄れているように思います。特に滅多にない休みの方々は海外で過ごす人も多く、家に福の神が来るというようには感じなくなってきているかもしれません。

この福の神様である歳神様は、むかしから「自然神」であり、「穀物神」でもあり、ご先祖の霊魂とも言われてきました。特に歳神様は稲の豊作をもたらす神様として日本では昔から大切に扱われてきたといいます。

食べ物が今のように豊富にあり飽食の時代で、ダイエットなどが流行していることなどむかしは考えられなかったように思います。食べ物がなくなるということの不安や恐怖は絶大で、飢饉で何度も大勢の先祖が亡くなっているのを思えば、現代のように自然から搾取するだけ搾取し物質的に膨大に豊かにしている世の中の危険度を感じるばかりです。

もしも食べ物がなくなったらと思うと、如何にむかしの保存食の智慧やお米の有難さなどを感じるかと思いますが今の時代においてはこれらの智慧や主食は健康志向が強い人たちの趣味のように扱われています。

時代は、何度も繰り返すといいますがこのように地球上の食料を経済活動のためだけに搾取し尽くすという時代はあったのだろうかと疑問に思います。その搾取することで支配欲に呑まれ、病気が増え、災害が増え、生きものたちへの容赦のない暴力も増えています。

私たちは、簡単にはこの人類の歪んだ経済発展を止めることはできませんが一人一人が、むかしの先人たちの生き方を思い出し、その暮らしから学び直すことで世界を易える切っ掛けづくりはできるように思います。

何もしないで指をくわえて、核シェルターや秘密の隠れ場所、逃げ場などを必死で作ろうとしてもその場しのぎであり、いつか人間は死にますから今はまだできることを真摯にそれぞれが目覚め取り組んだ方が悔いのない人生を歩めるように思います。

人類は何度も過ちを犯しますが、そこから学び直し反省し精神を成熟して魂を純粋に透過していきました。新しい生き方をみんなで学び取り組む勇気は、「徳」にこそあると私は信じています。

歳神様を待つ心で、暮らしを味わいながら人類の夜明けを待ちたいと思います。

居場所の本質

人は、自分が今、何処に立っているのかという自覚があってはじめて自立の本質を理解していくように私は思います。何処からきて、何処にいくのか、そして自分とは何か、自分が何処にいるのか、この自分というものを深く理解していない限り、人は絶対的な自立の境地には達しないように思います。

禅の言葉に、「主人公」というものがあります。

これは無門関に書かれたもので「瑞巌の彦和尚、毎日自ら主人公と喚 び、復た自ら応諾す。乃ち云く、惺々著。他時異日、人の瞞を受くること莫れ 」と記されます。

私の解釈では、他人や相対的な自分に流されるな、絶対的な自分で居続けよという意味だと思います。

世の中では自分らしさとか、自分探しとか色々と流行っていてそれによって自立からかえって遠ざかっている人が増えているように思います。それは自分というものの理解を、他人との比較や自分という誰かから刷り込まれた前提の意識のままに自分というものを考えようとしているからに他なりません。

そもそも相対的に、誰かと比べたり、他人の評価軸によって自分らしさを出したとしても、それは本当の自分らしさではないのは明確です。誰かと比べての自分らしさではなく、本物の自分らしさ。つまりは絶対的な自分というものを持つとき、人は自分らしさの本質に目覚めるように思います。

自立というものは、本来、自己をうち立てるということです。それは主人公になるということです。本来の自分に目覚めている日々を過ごしているということです。本来の自分は、先ほどの何処から来たのか、何処に居るのかという二つの問いに常にこたえられる状態に心や魂が座っているということです。

現代の日本では精神的に病んで働けない、引きこもっている人たちが1000万人以上いると報道されていました。その根本原因は何か、教育者はもっと真剣に自立というものの理解をあらゆる方面からよく議論し子どもを見守る必要があると私は感じています。

居場所がなくなるというのは、人間が自立する環境が整っていないということです。自分というものの居場所を確認するには、自己を確立していかなければなりません。そのためには、一人一人を主人公にしていく必要があります。

いつまでも比較競争の教育をするのではなく、本来の自立、主人公としての自分を学び、心身魂ともに自由にするために「場」を教育の柱に据えるべきだと私は思います。

私の「場道」の本質は、現代の教育観念に楔を打ち込み本来の自立の意味を価値観事転換することです。地球の生態系が崩れてきている原因は何か、いつまでも相対性理論や目に見える形のものばかりを追いかける物質的な価値観をそろそろ諦め、絶対的で本質的な生き方を取り戻し、人間が主人公に目覚め、子どもたちが安心して生きていくための居場所を創造していく必要を感じます。

私のかんながらの道も、そろそろ大きな曲がり角、実践を究めていきたいと思います。