時の濾過力

天然地下水のことを深めていると改めて地球の不思議に気づくことができます。当たり前に飲んでいる水が如何に自然の力を借りて循環し浄化され流動しているのかを知ると、私たちの身体でも起きている「濾過」について考え直すことができます。

私たちの身体もまた地球の一部であり、地球の水は私たち生命を支えていますから水を学ぶことはいのちの根源を学び直すことかもしれません。

もともと地下水はここ数日のブログでも書きましたが、雨や雪が永い間をかけて地中に沁みこみそれが鉱物や植物の化石、微生物や地球そのものの浸透圧などによって濾過されたものです。それが粘土層によって貯蓄され、それが湧き出てくるのを湧き水といい、地下を掘って出したものを井戸水といいます。

どちらの水も濾過されたもので濾過の状態によってその成分が異なります。水は大変柔軟性がある存在ですから、どんなものも通過していく力があります。長い時間をかければかけるほどどんな小さな穴でも通っていきます。そして偉大なほどに小さな穴を通るとき、不純物はすべて取り除かれて分解されていきます。

自然界に陰陽があるように水にも陰陽があります。それが酸性とアルカリ性です。そして人間に中庸があるように、水にもまた中性というものがあります。自然界はバランスを保つところが中心ですから、その中心を保っているとき私たちはその水をもっとも美味しいと体が感じてバランスを整えるために摂取するようにも思います。

私たちの身体もまた、酸性に傾いているのか、アルカリ性に傾いているのかで自分の状態を確認します。地下水であれば、一般的には濾過が浅いものは酸性で深くなればなるほどアルカリ性であるとも言われます。このアルカリ性になる理由は、実はまだ科学でもはっきり解明されているわけではありません。いまだに諸説があり、本当は何によってアルカリ性になるのかが明確になってはないのです。

それだけ自然界というものは、まだまだ観えない存在によって不思議な力を隠し持っているということだと私は思います。

しかしはっきりと言えるのは、何千年、何万年を経て濾過された天然地下水の価値は濾過の力をはっきりと感じます。じっくりと時間をかけるというろ過装置は、時代の厚みや文化の価値と同様に叡智に優れているものばかりです。

時間をかけて濾過したものを今の私たちが五感で摂取できるというのは、時の濾過力を感じて心身が浄化されていくのでしょう。現代のようなスピード社會において、天然の永遠の水は私たちを深く癒すはずです。

浄化場づくりは私の天命であり天職です。

引き続き、子どもたちに譲れる懐かしい未来を譲り遺していきたいと思います。

地下水の伝道

聴福庵をはじめ、今、建造中のBAも地下水をくみ上げた水を活用しています。聴福庵は、地下7メートルほどから。BAは、地下30メートルほどあろうかと思います。浅井戸と深井戸を用いています。

この地下水というものは、地下に溜まった水の総称をいいます。そして地面より下の水はすべて地下水と呼んでいいともいえます。また海を除き水のうち表面に現れた水、河川や湖の水は表流水です。

地下水は主に帯水層というところを流れ溜まっています。この帯水層とは、地中にしみこんだ雨や雪が土壌層を浸透してその下にある砂れき層の間隙(すきま)のことです。これが地下水の貯留槽です。この砂れき層の厚さは地域により異なり、数メートルから平野部では100メートル以上になる地域もあるそうです。河川は川幅が広くても1キロメートル程度ですが、帯水層は平野では地域によっては何10キロメートルの幅で存在することもあるそうです。

私たちが利用する井戸水は、この帯水層まで穴を掘ってそこから水を汲んでいるのです。

雨水が天から降り、その雨水を数年から数万年かけて濾過し地下水になっていきます。土壌の中の砂や小石、炭、などありとあらゆる鉱物たちが水を浄化し私たちが飲める地下水にまで濾過します。よく考えてみると、とても神秘的な自然の濾過システムで地下水には不思議な力が宿っていると信じられるのもそれだけの時間の経過があって時空を超えてきた水を飲んでいるからです。

地球の資源が枯渇してきている昨今で、空気の浄化や水の浄化、土の浄化などあらゆる浄化が持続可能な循環のためにも求められます。そしてその浄化はまず、その資源を貪るように大量消費する考え方から転換する必要があります。

それは言い換えれば、人間の心や精神の浄化ともいえます。欲望ばかりを優先し、徳を積む世の中にするのもまた浄化の一つです。浄化の本質は濾過することで、余計なものを取り払って穢れを洗い清めていくことです。

地下水の活用は懐かしい未来を子どもたちに譲るために大切なテーマです。引き続き、水の大切さを伝承できるように地下水の伝道をしていきたいと思います。

育つ場

人が集まり何かを行うというのは、そこに「場」が産まれているからです。その「場」をどのように醸成するかの仕組みは「農」と同じように田畑に種を蒔き、実践を積み重ねていくことで次第に土壌が肥沃になり次第に生きものたちが集まってくるのと同じです。

私たちの「思い」は種とも言えます。

どんな種を蒔いてきたか、そしてその芽をどのように育ててきたか、それをどのように見守り続けてきたかそれによって実をつけるのです。

育つということは、言い換えれば「育つ場」があるということです。そしてその育つ場は、成長し合える環境が用意されているということになります。

私は、保育の仕事を15年間続けてきましたが保育の本質を掘り下げてきました。その中で、如何にこの場づくりが発達に影響があるかを体験を通して実感してきました。私は同時に自然農や自然養鶏、自然治癒をはじめ、風土の中でいかに自然に近づけて自然と共生するかを見つめてきました。

その経験を「場道」という言葉にして、新たに暮らしの甦生に取り組んでいます。

そもそもこの「場」という字の成り立ちは、「土+易」で構成される会意兼形声文字です。これは「土地の神を祭る為の柱状の土の象形」と「太陽が地上に上がる象形」で「あがる太陽を祭る清められた土地」として「場」という漢字が成り立ったといいます。

つまりもっとも神聖な祈りの場所が「場」であったというのが場の字の成り立ちからも垣間見れます。

どのような気持ちで場に接するか、どのような姿勢で場に正対するか、その場を創る人の生き方が出てきます。場によって世の中が清められるように、場によって子どもたちが健やかに育つように最善を盡していきたいと思います。

 

先生

人間は何を先生にするかでその考え方の基本ができてきます。

そもそも先生といわれるものにはいくつかあります。例えば、先に生まれた人や学徳のすぐれた人、そして自分が師事する人、他にも教師、医師、弁護士など、指導的立場にある人、政治家や議員に対しても使われたりします。

この先生は、私が中国に留学していたときはみんなを先生と呼び、学校の先生は老師と呼びました。中国での先生は、「~さん」という相手の敬称として使われます。なのでこの先生というのは日本で構築されてきた言葉なのがわかります。

先生というものは、尊敬するものとして使われていたものが次第に師匠や世間的に偉い人、自分よりも知識が豊富な人などに使われています。しかし先生をどのように定義するかはその人たちの生き方が影響します。

例えばある人は、子どもから学び子どもを先生にするのなら先生とはだれか、それはお互いに先生ということになります。先生とお互いに学び合って人達同士ではすべて先生になっているということです。

どちらかが上か下かではなく、みんな学び合っている同志、先生であるという意味です。このような学び方をすれば、誰かだけが偉い人や特別な人だけで先生が語られなくなります。誰かだけが先生で誰かだけが弟子というのは、人はいつかは死んで弟子も師になり、師も弟子になるときがきますからみんな先生であるのは自明の理です。

論語の中に「三人行えば必ず我が師あり」があります。

どんなことも先生にする人は、その生き方そのものが「先生」であるということでしょう。

子どもたちに先生がいる喜びや仕合せ、先生とお互いに尊敬し合う関係を伝承していくために、すべてのものを先生にして学び直していきたいと思います。

暮らしの甦生

世の中を眺める視点として地球(自然)が認めるものと人類が認めるものに大別されるように思います。人類が認めるものというのは、この世には人類しか存在しないという考え方で人間都合のみの社会で語られる正論や真実などのことです。

それに対し、地球(自然)が認めるものというのは歴史の篩にかけられ淘汰され循環の理を一切邪魔せず、人間も全体の一部であるといった全体調和したもののことです。

人間は教科書をはじめ、人類という枠内でこの世に社会と都市を形成してきました。しかしどんなに人類が道具を用いて便利な世の中を自然から切り取ったといっても、他の生き物を食べて生きていますし、自然の恩恵なければ生きながらえていくこともできません。それは宇宙に出てみてわかる自明の理です。

しかし、人類が人類だけを中心にこの先も物事を進めていくのなら必ず資源は枯渇し文明が崩壊するのはわかっていることです。これは過去に文明が滅んだ歴史を洞察しても人類は人類同士の中でのみ世の中を構築してしまうと結局は傲慢さや欲望にまけて自らで崩壊を招いています。

つまり人類のみで構成する文明はいつの時代も傲慢さを招き、地球や自然を一切邪魔しない全生命圏の共生と貢献の循環の生き方が謙虚を招き文化を醸成していきます。

かつて日本の大部分に住んでいたといわれるアイヌの人たちは、自然の利子で生活を営み、自分たちが自然に貢献することで得られた利子を少しずつ積み立てそれを子孫に譲り暮らしを充実させていきました。

どれだけ長く生きて、どれだけ心豊かに仕合せに生きられるかと考えればこの生き方が最善なのは誰でもわかります。実際には、利子ではなく元本に手をつけて借金ばかりを増やし借りれるだけ借りて返済もせずにすべて使い切り先送りして踏み倒そうという発想では必ず終わりがきて滅ぶのは客観的に観れば誰にだってわかります。

実際には日々に報道される環境汚染の現状をみていたり、国家間の紛争や民族対立などをみていたら、もうここまで来たらどうしようもないと目を逸らしたい気持ちもわかります。競争させられた孤独で不安な世の中で必死で守ろうとするのも確かに事実です。

しかし人類の素晴らしさは何よりもよくないと思ったなら先人の生き方を学び、何がもっとも人類にとって価値のある選択だったのかと歴史を先生にしていくことで理性と本能のバランスを保ち間違いを正していける生きものであるところです。

私は只今も自分なりに暮らしを甦生していますが、これは決して狭義でいう自分の生活だけを甦生させようとしているのではありません。広義でいえば、永く遠い懐かしい生活を甦生させることは人類が本当の意味で繁栄と発展を約束されていた生き方に気づきそれを人類が取り戻していくことです。

それは敢えて能力があるけれど使わないという決断、敢えて効率的である方を選ばないという決断、敢えて少し損をしてでも徳を積もうという決断をすることを暮らしの甦生であると定義するのです。

この暮らしという言葉もそれぞれで使っている人次第で言葉の定義も異なります。しかし人類にとっての本来の暮らしとは、子々孫々まで永遠に幸福で生きていくためのものであるのは古今普遍的なものです。

時代が変わっても、変えてはならないものがあるし変えていかなければならないものがあるのです。子どもたちの仕合せを願い、暮らしの甦生を続けていきたいと思います。

旅の醍醐味

旅という言葉があります。この言葉の語源は諸説あるようですが「他火」や「他日」ではないかといわれています。辞書によれば、「住み慣れた場所を離れること」と定義されています。そして英語ではtravelとも言いますがこの語源である古代ゲルマン語では「産みの苦しみ」ともいうそうです。

旅行は今では旅行会社のツアーのように、リゾートに遊びにいくように楽しいものと認識していますがむかしの旅は、つらく苦しいことであったことが語源からもわかります。

よく考えてみれば、自給自足する場所をようやく手に入れそこで住み慣れた家や暮らしを離れるというのはそれだけ危険や苦難を伴ったものです。現代のように便利な移動手段もなく、宿泊施設などもなく、食料は限られたものだけで常に心の緊張を保つ必要もあり、大変な覚悟と決意が求められたように思います。

かつての古の旅に関する格言も、今の時代に読むと意味がはっきりと伝わってこないのは時代的な環境や価値観の影響を受けているからです。もしもその時代に生まれていたなら、その言葉の意味もはっきりと共感し理解したかもしれません。

つまり人間は同じ言葉を使っていたとしても、同時代の価値観で同体験を積んでいない限りその言葉の持つ意味が分からないということです。これは同様に、人生に対する価値観と体験も然りです。

言葉を学ぶということは、時代が異なっても同じ生き方をしてみるということでもあります。その言葉に近づこうとして、今の時代なら何をすることがその意味に一番近づくかと考えてみると少し意味が深まります。そのように自ら体験して近づこうとすることが、冒険であり挑戦であり旅の醍醐味かもしれません。

旅をするというのは、今の時代も危険も苦難も本当は付き纏うものです。しかしそれでも得たいものがあり、それでも叶えたい夢があるのなら敢えて飛び込んでいく勇気が必要になります。

旅には日ごろ得られない大切なコトや物語に満ちています。

人生の旅を味わい、新たな挑戦の扉を開いていきたいと思います。

浄化場

現在、復古起新している「場」に日本古来からある蒸気浴を建設する構想を温めています。現在、サウナブームということもありサウナに関心を持つ人も増えていますがその目的や使い方によってサウナの定義や種類も異なるように思います。

私はかんながらの道の実践もありますから、私にとってのサウナの定義は「浄化場」になります。聴福庵も浄化を目的に「場」を醸成するために実践と甦生を続けていますが今度取り組む「場」もまた浄化を中心に建築を進めていきます。

そもそも浄化はその人次第のことでもありますから、それぞれに方法もやり方も異なります。古来から私たちは水のチカラをお借りして穢れを払い浄化していきました。その浄化の方法は、洗い清めることです。つまり水に流すことで清浄にするという方法です。

実際には、水そのものに浄化力があり水はすべてのものを透過して元の状態に回帰させていく力を持っています。実際には、水だけではなく風、火、土、月、木などすべての元素にもまた浄化のチカラが備わっています。

つまり浄化とは、原点に帰すチカラそのもののを指すのでありそれをどのように治癒に活かすかが私の場道家としての力量ということになります。

例えば、サウナであればその浄化のプロセスの結果として汗が出てきます。人間はこの世でもっとも汗をかく生きものですから汗を出すことで水を発散させていきます。他にも呼吸をはじめ体のあちこちから私たちは水を出し続けています。水が澱むことで人間は様々な健康的な問題を抱えていきますから澱まないようにすることこそが浄化の大切なポイントです。

その意味で、汗をかくというのは色々な意味で効果があります。特に精神的に病んでしまう理由に汗をかくことが少なくなっていることも起因します。私たちは汗をかいて働くことを喜びにしていた民族です。みんなで汗をかき、みんなでご飯を食べることで豊かさを味わい心も体も浄化していました。

最近では、便利さの中でIT環境が整備され空調のきいた場所で簡単で取れるサプリや加工食品を食べ働いていますから汗をかくこともなくなってきています。そのことから精神的にも肉体的にも病んでしまうことも増えています。自律神経のバランスもそこから崩れてしまいます。

汗をかくための「場」というものの価値は、このバランスを整える効果があります。何を整えていくのか、何を浄化するのか、その本質を確かにすることが私の取り組む「浄化場」の創造です。

引き続き子どもたちに懐かしい暮らしや心のふるさとを譲り遺せるように着々と実践を積み重ねて磨いていきたいと思います。

火のおもてなし

今年は台風が来たこともありお盆の期間は自宅で先祖供養などをゆったりと行うことができました。数年前から先祖のルーツを辿り、自分が今あるまでにどれだけ多くの方々が存在してくださったのかと感謝してからはこのお盆の期間は私にとっては特別な伝統行事になりました。

本来の伝統は本質が伝承されていくものですが、生活様式が変化し伝統も本質も次第に消えかけていますから無意味なことにならないように常に自分の頭で考え自分の身体と心で体験して学問に昇華し続ける努力が必要です。

江戸時代まではこの時期になると「藪入り(やぶいり)」といって仕事を休んで実家へ帰り、家族全員で先祖の供養をしていたといいます。むかしの懐かしい暮らしを甦生させつつ改めてかつての伝統を踏襲していくことは自分たちの先祖から日本人としてのの大切な心や生き方を学び直すことです。

私はまさにここに本来の教育の本質を感じていますから、私は子どもたちのためにも自らで体験し深め味わい取り組んでいるところです。

お盆の作法の一つに「迎え火」・「送り火」というものがあります。この「迎え火」とは、あの世からご先祖様の霊が迷わずに家まで帰ってこれるように焚く火のことです。そして「送り火」とは、ご先祖様がこの世からあの世へ迷わずに帰ることを願い、焚く火のことです。

今ではなかなか見る機会も少なくなってきましたが私が幼いころまではお墓や菩提寺に家族全員で提灯を持って行きお墓の前で提灯に火を入れその火を消さずに持ち帰り火を仏壇に移すという流れで行っていました。祖父と二人で行くこともあり、夕暮れ時の墓場には怖いものを感じていました。

そしてお盆の期間を家で過ごした先祖の霊たちを無事に墓にお送りするために今度は仏壇の火を提灯に移しそれを消さずにお墓や菩提寺へ持参しお墓の前で提灯の火を消してご先祖様の霊を送り出していました。

この火を用いて先祖の霊魂の送り迎えをすることでおもてなす仕組みに、ぬくもりや豊かさ、そしてやさしさや真心を感じます。聴福庵を通して、私も火を使ったおもてなしをしていますが火にはどこか心を穏やかにし和ませるものがあります。

私たちのいのちは、火でできています。この火のチカラとは、科学ではまだ証明尽くされてはいませんがいのちの原点であり、私たちは火を燃やすことで生きることができ灰になることで次のいのちの循環を担います。

火を用いて暮らしていくことは、いのちの大切さに気付き直すことです。このお盆のおもてなしは、私にとっての暮らしそのものであり、それは火を使って行うところにその醍醐味があります。

現代は、生活様式が変わったからと和の伝統を和風に換えてしまっていますが変えてものと変えてはいけないものというものがあるのです。

伝統を正しく伝承するためには、自分の実体験での気づくを磨いていく必要があります。子どもたちのためにも、一つ一つの暮らしを丁寧に甦生させていきたいと思います。

心豊かに

昨年、ルーツを辿ったことで先祖代々がどのように一生を歩んできたかを学び直す機会がありました。その御蔭でお墓参りにいくところが増え、この盂蘭盆会の時期はいつも以上に活動的になっています。

それに加え、むかしからの暮らしの甦生に取り組んでいると室礼をはじめ伝統的なものを伝承するためかなりの時間を要しています。

先日のブログにも書きましたが、むかしは常に心豊かに先人とのつながりやご縁や御恩などを感じながら感謝で歩んでいましたから今のスピード時代には合わない手間暇を喜んでかけていましたから改めて今の社会のありようを内省する機会になっています。

そもそも時間というものは、単にスピードだけを現わすのではなく「豊かさ」を顕しているようにも思います。持ち時間は人それぞれに異なり、ある人は永遠の時間を持ち、ある人は一瞬の時間を持ち、それぞれの生き方で時間の質量は異なります。

人生の永さも人それぞれに異なるように、想いの永さも、肉体の永さも、すべてその人の時の中に存在しています。

その時を豊かにしていくというのは、すべてを永くしていくということです。つまりは、寿命を全うするということかもしれません。自分自身の今にどれだけの覚悟と哲学と実践を凝縮させているか、そしてそれを今に集中し切るほどに心が一つになっているか。そこに生き様が顕れ寿命もまた盡されます。

畢竟、人間は生き方が時間を決めるということでしょう。

一期一会に自分にしかできないことをやり遂げて、ご先祖様に恥じないように天命に生きていきたいと思います。

復古起新

日本では少子化や過疎化の影響を受け、廃校になるところが増えてきています。さらに、全国の自治体で学校の統廃合を進めた結果、ますます廃校が増えています。

私の郷里にも、数年の放置でまるでお化け屋敷のように廃墟になってしまっている廃校がカラスをはじめ野生動物の巣になっていたりします。解体費用がかさむことと、使い道がないことからそのまま放置されているのでしょうが空き家問題と共にこれから解決していかなければならない重要な課題の一つです。

文部科学省の「文部科学統計要覧」によると、1989年(平成元年)の小学生の数は約960万人、中学生の数は約561万人だったが、2017年(平成29年)には小学生は約3分の2の約644万人、中学生は約4割減の約333万人まで減っているといいます。そして、2002年度から2015年度までの14年間に全国で6811校、年平均486.5校が廃校になっています。つまり、これからも年間500校近い学校の廃校が進んでいくことになるのです。しかし建物も壊れないように頑丈に建てられているため、解体する費用も多大な資金が必要になります。そのため何とか廃校を活用しようと、文部科学省が「みんなの廃校」プロジェクトというものを推進して活用が広がっているとも言います。

具体的には、オフィス・工場、児童・高齢者などのための福祉施設、アート創造拠点などの文化施設、体験学習施設・宿泊施設など、大学・専門学校などの教育施設、特産品販売・加工施設などで利用されています。

空き家問題も同様ですが、その場所が時代に合わなくなり使われなくなったものをどう温故知新するかという問題は時代の変化と共についてくる問題です。人が集まらなくなった場所に、また人を集めるのですから目的が明確でなければなりません。

何のためにその場所を使うのか、つまり目的を定めその価値を磨いていかなければその場所の甦生は難しいのです。

むかしは「見立て」といって、あるものを別のものに見立てて蘇らせる智慧が先人にはありました。今の時代のように単一消費のみの一方通行の世の中ではそのアイデアも出にくくなってきているかもしれません。現在の経済合理性の資本主義の世の中では、再利用ということもその経済価値観の中で判断しますからまた消費されて同じように空き家や廃校になっていくのです。

私が取り組む、復古起新は「磨く」ことに力を入れますから根本的な価値観を根底から変えてしまう仕組みです。引き続き、子どもたちに大切な文化が伝承されていくように実践を積み重ねていきたいと思います。