刷り込みに気づく

物事には見方というものがあります。その人がどのような見方をしているか、それは生き方が左右していることがわかります。あるものを見る人と、ないものばかりを見る人では生き方が異なります。

そして見方や生き方が異なるから判断もまたその通りになってきます。例えば、ないものばかりを見る人は常に物事の悪い方やマイナスな方ばかりに意識を持っています。何か事があればよくなかった方、できなかった方、ダメだった方に意識を持つようになります。すると、改善という言葉に対してもマイナスをプラスにする方法のことだと思い込んでしまうのです。

その逆に、あるものばかりを見る人は常に物事の善い方やプラスの方を意識します。何か事があれば楽観的にこのままでいい、ちょうどいい、うまくいっていると感じポジティブな意識を持つようになります。すると改善という言葉は、プラスがもっと良くなる、さらにいいことになると思い込んでいきます。

これは意識の差が出ていることは明白です。人間、足るを知る意識の人の方が仕合せになるからです。ないものねだりばかりをしては不平不満をして生きていては笑顔もなくなりますし、周囲の人間関係も良好に築けません。

そしてこの意識の差は一生を左右していきます。生き方を変えるというのは、この物事の見方を変えることをいいます。自分の脳の癖や、思考のパターンを変革していくことは行動を変えて習慣を換えていくしかありません。

この習慣を換えていくために人は、敢えて今までの自分と決別した行動をとったり、勇気を出して今までのものを手放したりすることで成長していきます。ありたい自分を創り上げていくことは、自分自身を新たに創造していくことです。それは新しい自分に出会うことであり、自分自身を自分で育てていく主人になることです。

自分の意識を改変していくということを意識するには、自分自身の意識が人生を左右していることに気づくのが先です。周りばかりを見るのではなく、自分の物事の見方がどうなっているのかを自らがメンテナンスしていくのが何よりも優先だからです。

自己改革というのは、価値観の改革であり世界観の改革です。思い通りにいかないときこそ、感情が揺さぶられ苦しい時こそ、一度、自分自身の意識がどうなっているのかを見つめるチャンスだと思うことのように思います。

変わっていく面白さ、刷り込みは取り払えることを子どもたちに背中で見せていきたいと思います。

 

初心を忘れるな

人間にはそれぞれに得意分野というものがあります。自分が得意なものを周囲に知ってもらってそれを活かしてもらえることは仕合せなことです。同じように周りの人たちにもそれぞれに得意分野というものがあります。

その得意分野を持ち合いながら助け合えることで人はみんなで大きなことを実現できるように思います。この得意は、特異でもあり、それぞれの異なりを活かすという寛容さや共感が必要です。

もしも自分のやり方ばかりが正しいと固執し他を認めなければすぐにギクシャクしてしまいます。お互いを認め合うためには、まず自分自身を認め、同様に他を認めるというプロセスが必要です。

自分らしさや自分のままであること、そのうえで同じように周りもそのように自由に認めていくこと。さらにお互いに自由なままで共通の理念や目的のために折り合いをつけながら助け合うこと。これらは人間としてのスキルになってきます。この人間スキルが、人間学であり修養でもあります。

この人間を磨いていく時期は、思いどおりにもならず苦しいかもしれません。しかしその苦しい時期は、自分が人間を磨いている時期だとし、慎独しながら自分の心に耳を傾け、本来の動機はどうだったかと初心を振り返り、何のため誰のためにやっていたのかと理念に立ち返るしかありません。

人は暗闇の中で灯台を見失えば、どうしても焦りや不安から感情に呑み込まれてしまいます。そのような時こそ、自分の心の中にある灯台を見出し、心の灯台を信じて暗闇を歩んでいくしかありません。

仏陀に、自灯明、法灯明という言葉があります。これは「自らを灯明とし、自らを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなかれ」といいます。

大事なのは、他人に依拠してはならぬと。自らを灯明にせよということです。

自分自身の初心を忘れるなという言葉は、この言葉と同じ意味です。引き続き、子どもたちのために自らの灯明を照らし続けていきたいと思います。

21世紀型日本民家

昨年、私たちの聴福庵に訪れた方が自宅を聴福庵と同じように落ち着いた空間、穏やかで和む場にしたいと熱望されました。その際は、古民家の年輪や時は刻まれたものでそれを磨き直してできたこの独特の場、間、和は難しいとお断りしました。

しかし、ぜひ寝室の和室だけは健康を維持するためにも本物の和で休みたいと仰っていたので和室だけはとお手伝いすることにしました。具体的には、和室に備長炭を500キロ入れ、水晶の欠片を50キロ、また伝統の七島イの畳を古来からの形式で丁寧に畳職人が仕上げたものを入れ、壁紙には手漉きの秋月和紙と襖には京都にある伝統唐紙で若松紋様と枝桜紋様を仕立てました。また装飾には、菊炭を50キロほど、唐紙の行燈をはじめ、照明も創作の作家のものにしています。

それが終わり、これでひと段落と安心していたらどうしてもリビングやトイレにカビ臭さがあり室内の空気が悪いので何とかできないかと相談を受けました。和室をそれまでのものと変えてからはよく眠れるようになったと大変感謝され、どうしても健康のためにもっとも過ごす場の空気を改善したいと依頼されました。

そこから悩んだ末に、居心地の善い空間として本物の伝統の素材によって改修することを決めてこの一か月取り組んできました。

具体的には、壁面はすべて伝統の漆喰を塗り、トイレには土佐漆喰、その天井には珪藻土を施しました。また床の間風の場所には、その土地の伝統の土を用いた割れ壁塗り。主な柱をはじめ、梁には古色の弁柄、階段や扉には渋墨を塗り、そのほかの床をはじめ様々な建具は場所には柿渋で仕上げました。

また窓のすべてに障子を施し、和紙は手漉きの秋月和紙を、室内の床下には大量の竹炭、そして空気の循環を計算し空調の配置とファンを取り付けました。修繕が終わり、確認すると明らかに室内全体の空気が異なり、空気が澄み渡っていました。

さらに、落ち着いた空間というニーズに対応するため日本の伝統職人が一つ一つ丁寧に手掛けたビンテージの家具を揃えていきました。具体的には、明治頃の七段箪笥に武家箪笥、欅のキッチンテーブルに大きな八角火鉢テーブル、本漆塗りのローテーブルをはじめ60年前の手作りのソファーや、七島イの円座、岐阜美濃和紙の照明や藍染の筒描きなどです。

そして室礼には、古伊万里の花器や室町時代の古備前の壺をはじめ、古く懐かしいもので飾りました。夜は灯りを楽しめるようにと、和ろうそくや行燈などを設置し、光の加減には特にこだわりました。

この後は、トイレと洗面所の陶器を有田焼で仕上げて庭をデザインすれば終了です。この私のデザインを見た方はこれを和モダンや古民家風といいますが、私は和モダンとは思っていません。日本人本来の伝統を守り美しい暮らしのままに家屋を甦生するのは和風ではないし古民家風ではないのです。

21世紀型の日本民家はかくあるべきという思いから、このように仕上げたのです。時代が変わっても、変えていいものと変えてはならないものがあります。それが正しく継承してこそ、本物がわかるということです。

もしも次回の修繕の依頼があるのなら、今度は和で洋を丸ごと呑み込んでみたいものです。子どもたちに遺していきたい伝統や思い、その生き方を一つ一つ形にして智慧を譲り渡していきたいと思います。

おもてなしの本質

昨日は、大阪の藤井寺にある佐藤禎三さんのひな祭りを拝見するご縁がありました。3月3日をはさむ土日含む数日間、屋敷内全部を自由に開放しいろいろなお雛様をお披露目してくださいます。

すでに30年間、毎年これを自費で実施されてこられたことも驚くことながら4日間で約4000人ほどの来訪者の方々にお茶やお菓子も無料で提供されておられます。

「おもてなしの本質」とは何か、まさに生き方から深く学び直させていただきました。

佐藤禎三さんは、ご自分の数寄を純粋に徹底して極められておられまさに当代一流の数寄者であり遊び心に満ちた方でおられました。すべての暮らしの古道具も佐藤禎三さんの手にかかれば甦り喜びます。そしてすべての人形や陶器などの「もののいのち」もまるで披露宴のときように活き活きと輝きます。美しいものが穏やかに和して独特の空間を創造し場が落ち着いています。

そしてその喜ばせよう、喜ぼうとする純粋な想いとおもてなしの室礼は人々を深く感動させます。その物事の意味や本質を見極め、それを深く咀嚼し理解したものを自己のいのちを輝かせるように遊んでいくということが如何に美しいか、日本の精神文化や和の心の意味を改めて学び直させていただくばかりです。

また最後に、お抹茶と和菓子をいただき「ご馳走様でした」と感謝を込めて来訪者は笑顔で帰られます。ここにもお祀りされている韋駄天尊のように礼を盡されます。この韋駄天はもともとはバラモン教の神さまでしたが仏教に取り入れられて仏法や仏教徒を守る神様です。

「韋駄天」の由来と伝承はお釈迦さまがお亡くなりになった後、お釈迦さまの歯を盗んだ盗人を駿足で追いかけて捕まえ歯を取り戻したことから足が速い人のこといいます。

そして日本の礼儀の一つ「ごちそうさまでした」は漢字でご「馳走」さまであり「韋駄天」が駆け巡って食物を集めたことに起因します。ここからおもてなしをする「美味しい料理」という意味に転じ、その準備をしていただいたことに感謝する言葉になったといいます。

ご準備していただいたのを楽しみ喜ばれ恩着せることも一切なく、そこには自他の喜びのみがある。すべてのものが活き活きと喜ぶ価値観に触れることは、美しい暮らしそのものに通じています。

この学びを子どもたちの未来へ託せるよう、自己精進を味わって私も数寄を愉しみたいと思います。

恥を知る~日本人の精神文化~

昨日は鹿児島県知覧にある富屋旅館で理念研修を行いました。ここの旅館は、特攻の母として多くの方々に親しまれた鳥濱トメさんが開いた富屋食堂がそのまま時代の変遷を経て継承されている場所です。

日本人なら一度は訪れたい場所としてここの富屋旅館があります。なぜ日本人ならというのかといえば、ここには日本人の精神文化の源流が「場・間・和」の教え(知恵)が旅館と共に息づいているからです。

私たちはつい当たり前のことを忘れてしまいますが、私たちの血肉には先祖代々から伝承されてきた生き方というものがあります。この生き方とは、日本人の特徴でもあり日本人の人格でもあります。

例えば、震災の時など日本国民が冷静さや威厳を保って対応している様子を世界の各地で称賛されました。どのような状況下であっても日本人が略奪や暴動を起こさず、相互に助け合っている和の姿に世界が感動するのです。

今ではあまり日本人のことを話すと右だとか宗教だとか、色々と批判されたりします。しかし本来は自分たちのルーツがどのようなもので何を大切に生きてきたかということが誇りであり、みんなそれを大切にしているから自信をもって自分の国の素晴らしさや美点をもって世界の善きものと調和し尊重し合って共存共栄していくことができるのです。

そんな当たり前のことを思い出さないくらい、日本人は誇りを失ってしまったように私は思います。日本人として美しいと感じる生き方や、素晴らしいと思える精神性は人間として私たちがどのようにこれまで成長してきたかといった発達の真実であり努力の結晶なのです。

その一つには、「武士道」というものがあります。私も祖父や父から「恥を知る」という教えを伝承されました。これは江戸中期の侍の本「葉隠」の中で「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉に通じます。これは、生き方として死んだ身になっていれば、恥も間違いもなく正しく生きることができるという意味で解釈されます。

いつ死んでも恥じないような生き方をせよ、つまりは自分に対して正直に、素直に、そして後悔がなく立派な人間になりなさいということにつながっています。新渡戸稲造はこの武士道の源流は孔子のいう仁義そのものであるといいます。

日本人は元来、その精神文化の中にこの仁義というものをもっています。みんなが己を律し、己に打ち克ち、お互いに尊重し合って想い合って生きていく民族性があることは世界が認めているのです。

そしてこれは親から子へ、先祖から子孫へと代々受け継がれてきた民族の智慧の結晶り、親祖からの初心なのです。初心を忘れてしまえば私たちはあらゆるものに流されてしまいます。そうならないように、むかしはみんなで恥を重んじ、恥ずかしくない生き方をみんなで守ってきたのです。

災害や震災のとき、私たちに日本人がなぜお互いに律し合い想い合うのが世界に称賛されるのか。それはこの恥を知る心をみんなで守ってきたからなのです。

道徳というものは、徳の道とかくように代々徳が積まれてきた道のことです。日本人の徳とはこの恥の精神であり、それを代々の先人たちが守ってきたことで私たちは何を優先して生きてきたかを知り、どのような初心を持ち続けるかということを学ぶ学問なのです。

子どもたちが、日本人として大切なことを忘れないように引き続き私にできる使命を私の身の丈でこれからも全うしていきたいと思います。

最幸の学校~本物の実力~

昨日、3年間をかけてコンサルティングをしているある高校の卒業式に参加しました。ここは明確な理念を掲げを子どもたちと大人が一緒に学び合い成長していくことを実践している学校です。

世界が科学技術の発展によって一つにつながっていく時代、いかにグローバルな視座でこの先の時代を子どもたちが創造していくのか。それを深く考え抜いた現理事長が「心の持ち方を学ぶ」という一語に魂を籠めて具体的な教育方法として多様性の発揮や個性の尊重、主体性や協力といった本質的な人間の「成長」に軸足を置いて私たちの知恵の結晶でもある一円「対話」という仕組みを使い学校の改革に一緒に取り組んでおります。

私もこの3年間の集大成として、卒業式の一円対話に参加しましたが生徒たちは最初に打ち立てた自分の初心を見事に3年間守り通し、立派に人として「成長」していたのを実感しました。その証拠に、一人ひとりが丁寧に3年間の学びを発表していきましたがその非常にオープンで自由に発言していく人の言葉の中に「心の持ち方」をしっかりと学んだことが凝縮されていました。

そして生徒も先生も一緒に学ぶだけでなく、最後は保護者も一体になって心の持ち方を学び合う姿にこの学校の「本物の実力」を感じることができました。そして生徒たちが初心を語るとき、その初心がこの3年間で全員実現したと自分の言葉で語るその自信に溢れる姿に一人ひとりの「誇り」を感じました。「誇らしい」という言葉は、その人が自分らしく自分の足で歩んでいると感じた時、私はその言葉を用います。つまり生徒たちはみんなこの3年間の学校生活を通して自己と深く正対し「人としての自信」を身に着けたのです。これはこの先の未来において、何よりも重要な時間を過ごしたことになるのは明白です。学問本来の醍醐味とは、この「初心に費やした時間」を言うのです。それが「自ら道を拓く」ということだからです。

そして、私自身もまたこの生徒や先生、学校から深く学び直しています。なぜなら心の持ち方は生き方であり、生き方を学ぶのは決して能力や資格、知識なのではなく「共に今を生きる人間として学ぼう」とする生きた学問だからです。また単なる成功を望むのではなく、幸福を感じ直すための本物の学問です。このような学問を、現代のような一斉画一教育や知識偏重型の刷り込み教育が横行する世の中において、そのバランスを保ちながらも子どもの生きる力を尊重するこの実力がある学校が日本にあることが私の心の誇りにもなりました。

善い志事に恵まれ、善い同志に恵まれ、善い仲間に恵まれたことに何よりも感謝したいと思います。卒業というのは、次のステップ、次のステージに「挑戦するための門出」でもあります。

時空は前へ前へと進んでいきますから、振り返りをしつつも決して立ち止まることなく初心を守り続け夢の実現に向かって歩んでいきたいと思います。

このような一人ひとりの人生を尊重していくような最幸の学校が、世界に増えていくことを祈り、私も自分の使命に全うしていきたいと思います。

一期一会に深く感謝しています。

人生のスキル

2000年に労働に関する計量分析手法を発展させた実績でノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学教授のジェームズ・J・ヘックマン氏がいます。この方は、「5歳までの教育が人の一生を左右する」という言葉を残しています。

これはヘッグマン氏が研究した「ペリー就学前プロジェクト」「アベセダリアンプロジェクト」という2つの研究に因るものです。具体的には、恵まれない家庭の子どもたちを対象に2つのグループに分けて幼少期より成人するまでの期間に追跡調査を行い幼少期の環境を実質的に改善する事実を導き出すという研究です。ここでヘッグマン氏は5歳までに与えた教育がその後の人生に大きな影響を与えることと、5歳までに重要なのはIQに代表される認知能力だけでなく、忍耐力、協調性、計画力といった非認知能力がかなり重要になってくることに気づいたのです。

つまりは、5歳までにどのような教育環境があったか、その上でその子がどのような非認知能力を磨いたかということが一生を左右すると言及したのです。この非認知能力とは人格形成で得られる性格スキルのことです。具体的にはこの研究から下記の性格スキルに絞り込みました。

■粘り強さ、自己規律、これらが真面目の力。
■好奇心が強い、想像力に優れている、これらが開放性の力。
■明るい、積極的、外に興味を持つ、これらが外交的。
■思いやり、やさしさ、利己的ではない、これらが協調性。
■感情を整える、不安、イライラなどの衝動がない、これらが精神的安定。
となっています。これを現代の社会人でいえばいくら資格を持っていて実務能力だけが高くてもその知識や技能を活かしつつ、「他者と協力して一つの仕事を作り上げていく」というような協調性・社会性などが必要です。この単に知識や能力や資格などでいくら優秀だと評価されていたとしても、実際に仕事をしていていつも怒ってばかりや、いつもイライラしていたり、周りを威圧したり評価したり、文句を言ったり批判したりしていたらいくら優秀でもそれではみんな嫌がって仕事を創り上げていくことはできません。
仕事は、すべて性格があってのものです。人への気配りや、場を明るくしたり、目的を握り、視野を広げ、前向きに考え、みんなが快適であるように自分を使っていくなど、実際の実務以外にその器のようなものがあってみんなの協力を引き出していくのです。先ほどの性格スキルは、その非認知能力のことを言うのです。
大人になったとき、その力が存分に発揮されるのならその人は仕合せに豊かに、仲間と一緒に成長して成功も得る可能性が高いというのは自明の理です。
この非認知能力を伸ばすには、心の教育が必要だといいます。
心はどのように育つのか、それを向き合ってみるとわかります。様々な体験を通して振り返りその体験の意味を学び直したり、自分自身の性格をよりよく磨くために考え方を転じたり、新しい習慣や笑顔、そして周囲に気楽な雰囲気を与える人になろうと努めたりと、つまりは「生き方」をどうするかを決めるという学問をするということです。
そしてこれは教えられるものではなく、周囲の大人の生き方がもっとも影響を子どもに与えることはだれでもわかります。だからこそ私たちの会社は、子ども第一義の理念を実践すべく、生き方と働き方を分けないで取り組んでいくのです。これが人生のスキルなのです。
これは5歳までにできなかったから無理ではありません、人の一生は長く影響が大きかった5歳までが一区切りですが、それでも生き方を変えた大人の存在は人類全体に多大な影響を及ぼすのです。
引き続き何のために社業に取り組むのかを追求しながら、かんながらの道を切り拓いていきたいと思います。

不識の境地

自然の中にはいろいろな生命が存在します。当たり前のことですが、世界では今日も様々な命がそれぞれに循環する中で廻りまた命を繋いでいきます。私たち人間はだいぶ自然の生き物と暮らしが変わってしまいましたが自然の生き物は自然のリズムでゆっくりと悠久を生きています。

加速度的にスピードを上げて変化する人間社会にいると時折、船酔いのように揺れて大変です。そういう時は自然の視座に身を置けば、時代や人間社会の変容を客観的に実感していけるようにも思います。

人間は頭で考えている世界と、心が働いている世界は時間軸が異なります。頭は体験をしなくても空想や妄想、仮想の意識で未来や過去などを考えて対処していきます。しかし心は実体験や経験を通してじっくりと心が玩味していくように今に対応していきます。

スピードが速いということは、頭で処理する世界が加速するということです。自然界のように悠久の速度で歩むというのは心の世界に生きていくということでもあります。心は余計な知識を持つ必要がありません、つまり頭を使わないのです。頭を使わない人を今では頭が悪いとか馬鹿とか、天然だとか言われますが実際は心を使うから頭をそんなに必要としていないのです。

頭というのはもともと危機回避や、リスクコントロールで稼働していくものです。そのためネガティブ思考になったりマイナス思考になりやすいものです。つまり信じるよりも計算で対処していこうとするのに似ています。心は信じるのが優先ですから、ある程度のことは考えても基本的にはお任せ状態で信じていますから気楽なものです。

もしも毎日不安や恐怖で生きていたらとても気楽にはいられません。自然界で生きて生き物たちは人間のように日々の新しいニュースに眼を凝らしてはいません。生きていくために必要な危機感はありますが、基本は気楽に楽しそうに生きています。その気楽さに心癒され、自然によって私たちは何が生きる仕合せなのかを思い返すことができるようにも思います。

自然が教えてくれるものをどれだけ学び直すかは、幸せに生きていくために何を大切にしていくかということとイコールです。平等に生まれてきたいのちが、平等にこの世で仕合せに生きられるという真実に気づくためにはあるがままにありのままにこの世のことが観えている必要があります。

そのためには、不識の境地が必要です。不識は時代を超え生命に共通する普遍的な意識改革の要なのです。

不識の境地とは自然と同様に自然のままに自然が観えるかということなのでしょう。生まれたばかりの子どもたちがありのままにあるがままを観て自然体でいるように、思いに邪念や私欲、雑念や妄念を持たないよう澄ました一日を積み重ねていきたいと思います。

あるがままで生きること

何かの物事が発生した時、それをどのように受け止めるかはその後の未来を変えていくように思います。物事はありのままあるがままに発生しますが、人間は思い込みによってその事実を歪めていくものです。自分というものの価値観や考え方、その視野でのみ物事を捉えればより一層、視野は狭くなり自分の殻に閉じこもってしまうからです。

如何に自分の思い込みを取り払うか、この工夫が視野を広めるためのポイントになってくるように思います。

例えば、その具体的な方法論の一つに「天からのメッセージ」というものがあります。何か自分にとって感情が揺さぶられるような出来事に直面するとき、これは何のメッセージであろうかと自分の視野に囚われない視座を持つということです。人間は、メッセージを受け取れるか受け取れないかでその後の進路が変わっていきます。

現実というものは実は全てが過不足なく一切が現れており、その機縁を活かすも殺すも自分次第でもあります。機縁が熟すのをまったり、機会と捉えて機智を得るのもまた現実があるがままに鮮明に観えている人は融通無碍に自分の運命と道を楽しみます。

現実の苦しさばかりの日々は視野の狭さをさらに増大させ、固執固着した歪んだ観念によって現実を自分の思う世界に挿げ替えてしまいます。その挿げ替えがポジティブで豊かで楽しく自由であるのなら仕合せですが、思い通りにならないとばかりに抗っていても不安や怒りで健康を害するばかりです。

あるがままを受け容れる訓練というのは、全体の中にある自分に気づくことのように思います。あの花も、あの虫も、あの木々もあの人間も、すべては等しくこの世に存在しています。自分もまたその一つであり、何も変わらないその一部分です。特段、その花だけが世界を変えているのではなく、世界の中にその花もあるがままに咲いているだけです。

現実のただなかに生きていくということは、あるがままで生きていくということなのでしょう。生まれてきただけで愛され、生まれてきただけで自由、そういう慈愛をもって生きる人には感謝は離れないように思います。感謝を忘れないために人は痛みを感じます、痛みは感謝に気づくための貴重な種蒔きかもしれません。

最後にナポレオン・ヒル氏の言葉です。
「あらゆる逆境、心の痛みは、それと同等かそれ以上の恩恵の種を含んでいる」

引き続き、あの日々に仕合せで楽しく豊かに笑っている幼い子どもたちが憧れるような社會を創るために解き放ってみたいと思います。

心を許し合える環境

現代のような比較や競争社会の中で、素直に心を許せる関係が持てるというのは有難いことです。自分の長所や短所、情緒、人間性、癖や性格などもある程度は理解し合っていてそれでも本音で自分を明かすことができるような場所は安心基地でもあります。

そういう意味では人は警戒心をどこか持っていて、簡単に心を許すということは少ないように思います。誰を信じてよいのか、誰なら本当の自分の気持ちを理解してくれるのか、言い換えれば自分の深いところを分かり合える人に出会えることは仕合せなことかもしれません。

安心した環境というのは、警戒心がなくていつもの自分のままでいられる環境のことです。

人はどのような時に警戒するのかを考えればわかりますが、誰かに監視されている時や、痛めつけられるとき、無視されたりイジメられるとき、怖くて不安な時、敵がいると思ったとき、自分を守ろうとするとき、自信がないとき、つまり防衛しようと思って警戒が強くなり余計に不安な環境を産出してしまいます。

不安な環境というのは防衛の姿勢ですから、自分のポテンシャルも最大限発できませんし協力ができずパフォーマンスも落ち、仕事も成果も遣り甲斐もやる気も落ちていきます。

そういう意味では、一人一人が警戒しなくてもよい環境を醸成することがみんなが居心地がよい環境を創造していくことになるのです。警戒心を解くことができれば人は自分のあるがままで全体快適な環境の一部になっていくのです。

警戒心がない存在といえば、赤ちゃんです。

赤ちゃんをみれば私たちはすぐに警戒心を解き放って子どものように話しかけてしまいます。周囲も笑顔になり、つい安心できる温かな雰囲気に包まれます。赤ちゃんは防衛などしておらず、ありのままの自分で周りを信頼しています。

私たちは大人になっていく過程で、自分の身を守る術を身に着けて必死に自分を守るために生きていますがかつてはお互いに信じ合うことで助け合いより居心地の善い平和な協働社會を築いた時代もあったのです。

ひとりひとりが安心するというのは、それぞれの発達の特徴や個性、考え方や生き方、性格など丸ごと理解しお互いに打ち解け合う必要を感じます。いろいろな人がいるからこそ善い、多様な価値観があるからこそ助け合えるとお互いにみんなを徳を尊重するような意識を持つ必要があります。

徳の社會というものは、天が与えた恩恵をそのまま生かし合おうという自分をも許し、相手も許すといった「心を許し合う」社會にしていくということでもあります。

そのためには自分の間違いも素直に許し、相手の間違いも素直に許す思いやりがそれぞれに育つ必要があります。つまりは「一緒に学び合い正し合い成長し合おう」といった共存共栄していく環境があるということです。

安心できる環境とは共存共栄できる環境のことなのでしょう。

子どもが安心して自分らしく活き活きと仕合せに生きられる世界になるように社業の改善を続けていきたいと思います。