最幸の学校~本物の実力~

昨日、3年間をかけてコンサルティングをしているある高校の卒業式に参加しました。ここは明確な理念を掲げを子どもたちと大人が一緒に学び合い成長していくことを実践している学校です。

世界が科学技術の発展によって一つにつながっていく時代、いかにグローバルな視座でこの先の時代を子どもたちが創造していくのか。それを深く考え抜いた現理事長が「心の持ち方を学ぶ」という一語に魂を籠めて具体的な教育方法として多様性の発揮や個性の尊重、主体性や協力といった本質的な人間の「成長」に軸足を置いて私たちの知恵の結晶でもある一円「対話」という仕組みを使い学校の改革に一緒に取り組んでおります。

私もこの3年間の集大成として、卒業式の一円対話に参加しましたが生徒たちは最初に打ち立てた自分の初心を見事に3年間守り通し、立派に人として「成長」していたのを実感しました。その証拠に、一人ひとりが丁寧に3年間の学びを発表していきましたがその非常にオープンで自由に発言していく人の言葉の中に「心の持ち方」をしっかりと学んだことが凝縮されていました。

そして生徒も先生も一緒に学ぶだけでなく、最後は保護者も一体になって心の持ち方を学び合う姿にこの学校の「本物の実力」を感じることができました。そして生徒たちが初心を語るとき、その初心がこの3年間で全員実現したと自分の言葉で語るその自信に溢れる姿に一人ひとりの「誇り」を感じました。「誇らしい」という言葉は、その人が自分らしく自分の足で歩んでいると感じた時、私はその言葉を用います。つまり生徒たちはみんなこの3年間の学校生活を通して自己と深く正対し「人としての自信」を身に着けたのです。これはこの先の未来において、何よりも重要な時間を過ごしたことになるのは明白です。学問本来の醍醐味とは、この「初心に費やした時間」を言うのです。それが「自ら道を拓く」ということだからです。

そして、私自身もまたこの生徒や先生、学校から深く学び直しています。なぜなら心の持ち方は生き方であり、生き方を学ぶのは決して能力や資格、知識なのではなく「共に今を生きる人間として学ぼう」とする生きた学問だからです。また単なる成功を望むのではなく、幸福を感じ直すための本物の学問です。このような学問を、現代のような一斉画一教育や知識偏重型の刷り込み教育が横行する世の中において、そのバランスを保ちながらも子どもの生きる力を尊重するこの実力がある学校が日本にあることが私の心の誇りにもなりました。

善い志事に恵まれ、善い同志に恵まれ、善い仲間に恵まれたことに何よりも感謝したいと思います。卒業というのは、次のステップ、次のステージに「挑戦するための門出」でもあります。

時空は前へ前へと進んでいきますから、振り返りをしつつも決して立ち止まることなく初心を守り続け夢の実現に向かって歩んでいきたいと思います。

このような一人ひとりの人生を尊重していくような最幸の学校が、世界に増えていくことを祈り、私も自分の使命に全うしていきたいと思います。

一期一会に深く感謝しています。

人生のスキル

2000年に労働に関する計量分析手法を発展させた実績でノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学教授のジェームズ・J・ヘックマン氏がいます。この方は、「5歳までの教育が人の一生を左右する」という言葉を残しています。

これはヘッグマン氏が研究した「ペリー就学前プロジェクト」「アベセダリアンプロジェクト」という2つの研究に因るものです。具体的には、恵まれない家庭の子どもたちを対象に2つのグループに分けて幼少期より成人するまでの期間に追跡調査を行い幼少期の環境を実質的に改善する事実を導き出すという研究です。ここでヘッグマン氏は5歳までに与えた教育がその後の人生に大きな影響を与えることと、5歳までに重要なのはIQに代表される認知能力だけでなく、忍耐力、協調性、計画力といった非認知能力がかなり重要になってくることに気づいたのです。

つまりは、5歳までにどのような教育環境があったか、その上でその子がどのような非認知能力を磨いたかということが一生を左右すると言及したのです。この非認知能力とは人格形成で得られる性格スキルのことです。具体的にはこの研究から下記の性格スキルに絞り込みました。

■粘り強さ、自己規律、これらが真面目の力。
■好奇心が強い、想像力に優れている、これらが開放性の力。
■明るい、積極的、外に興味を持つ、これらが外交的。
■思いやり、やさしさ、利己的ではない、これらが協調性。
■感情を整える、不安、イライラなどの衝動がない、これらが精神的安定。
となっています。これを現代の社会人でいえばいくら資格を持っていて実務能力だけが高くてもその知識や技能を活かしつつ、「他者と協力して一つの仕事を作り上げていく」というような協調性・社会性などが必要です。この単に知識や能力や資格などでいくら優秀だと評価されていたとしても、実際に仕事をしていていつも怒ってばかりや、いつもイライラしていたり、周りを威圧したり評価したり、文句を言ったり批判したりしていたらいくら優秀でもそれではみんな嫌がって仕事を創り上げていくことはできません。
仕事は、すべて性格があってのものです。人への気配りや、場を明るくしたり、目的を握り、視野を広げ、前向きに考え、みんなが快適であるように自分を使っていくなど、実際の実務以外にその器のようなものがあってみんなの協力を引き出していくのです。先ほどの性格スキルは、その非認知能力のことを言うのです。
大人になったとき、その力が存分に発揮されるのならその人は仕合せに豊かに、仲間と一緒に成長して成功も得る可能性が高いというのは自明の理です。
この非認知能力を伸ばすには、心の教育が必要だといいます。
心はどのように育つのか、それを向き合ってみるとわかります。様々な体験を通して振り返りその体験の意味を学び直したり、自分自身の性格をよりよく磨くために考え方を転じたり、新しい習慣や笑顔、そして周囲に気楽な雰囲気を与える人になろうと努めたりと、つまりは「生き方」をどうするかを決めるという学問をするということです。
そしてこれは教えられるものではなく、周囲の大人の生き方がもっとも影響を子どもに与えることはだれでもわかります。だからこそ私たちの会社は、子ども第一義の理念を実践すべく、生き方と働き方を分けないで取り組んでいくのです。これが人生のスキルなのです。
これは5歳までにできなかったから無理ではありません、人の一生は長く影響が大きかった5歳までが一区切りですが、それでも生き方を変えた大人の存在は人類全体に多大な影響を及ぼすのです。
引き続き何のために社業に取り組むのかを追求しながら、かんながらの道を切り拓いていきたいと思います。

不識の境地

自然の中にはいろいろな生命が存在します。当たり前のことですが、世界では今日も様々な命がそれぞれに循環する中で廻りまた命を繋いでいきます。私たち人間はだいぶ自然の生き物と暮らしが変わってしまいましたが自然の生き物は自然のリズムでゆっくりと悠久を生きています。

加速度的にスピードを上げて変化する人間社会にいると時折、船酔いのように揺れて大変です。そういう時は自然の視座に身を置けば、時代や人間社会の変容を客観的に実感していけるようにも思います。

人間は頭で考えている世界と、心が働いている世界は時間軸が異なります。頭は体験をしなくても空想や妄想、仮想の意識で未来や過去などを考えて対処していきます。しかし心は実体験や経験を通してじっくりと心が玩味していくように今に対応していきます。

スピードが速いということは、頭で処理する世界が加速するということです。自然界のように悠久の速度で歩むというのは心の世界に生きていくということでもあります。心は余計な知識を持つ必要がありません、つまり頭を使わないのです。頭を使わない人を今では頭が悪いとか馬鹿とか、天然だとか言われますが実際は心を使うから頭をそんなに必要としていないのです。

頭というのはもともと危機回避や、リスクコントロールで稼働していくものです。そのためネガティブ思考になったりマイナス思考になりやすいものです。つまり信じるよりも計算で対処していこうとするのに似ています。心は信じるのが優先ですから、ある程度のことは考えても基本的にはお任せ状態で信じていますから気楽なものです。

もしも毎日不安や恐怖で生きていたらとても気楽にはいられません。自然界で生きて生き物たちは人間のように日々の新しいニュースに眼を凝らしてはいません。生きていくために必要な危機感はありますが、基本は気楽に楽しそうに生きています。その気楽さに心癒され、自然によって私たちは何が生きる仕合せなのかを思い返すことができるようにも思います。

自然が教えてくれるものをどれだけ学び直すかは、幸せに生きていくために何を大切にしていくかということとイコールです。平等に生まれてきたいのちが、平等にこの世で仕合せに生きられるという真実に気づくためにはあるがままにありのままにこの世のことが観えている必要があります。

そのためには、不識の境地が必要です。不識は時代を超え生命に共通する普遍的な意識改革の要なのです。

不識の境地とは自然と同様に自然のままに自然が観えるかということなのでしょう。生まれたばかりの子どもたちがありのままにあるがままを観て自然体でいるように、思いに邪念や私欲、雑念や妄念を持たないよう澄ました一日を積み重ねていきたいと思います。

あるがままで生きること

何かの物事が発生した時、それをどのように受け止めるかはその後の未来を変えていくように思います。物事はありのままあるがままに発生しますが、人間は思い込みによってその事実を歪めていくものです。自分というものの価値観や考え方、その視野でのみ物事を捉えればより一層、視野は狭くなり自分の殻に閉じこもってしまうからです。

如何に自分の思い込みを取り払うか、この工夫が視野を広めるためのポイントになってくるように思います。

例えば、その具体的な方法論の一つに「天からのメッセージ」というものがあります。何か自分にとって感情が揺さぶられるような出来事に直面するとき、これは何のメッセージであろうかと自分の視野に囚われない視座を持つということです。人間は、メッセージを受け取れるか受け取れないかでその後の進路が変わっていきます。

現実というものは実は全てが過不足なく一切が現れており、その機縁を活かすも殺すも自分次第でもあります。機縁が熟すのをまったり、機会と捉えて機智を得るのもまた現実があるがままに鮮明に観えている人は融通無碍に自分の運命と道を楽しみます。

現実の苦しさばかりの日々は視野の狭さをさらに増大させ、固執固着した歪んだ観念によって現実を自分の思う世界に挿げ替えてしまいます。その挿げ替えがポジティブで豊かで楽しく自由であるのなら仕合せですが、思い通りにならないとばかりに抗っていても不安や怒りで健康を害するばかりです。

あるがままを受け容れる訓練というのは、全体の中にある自分に気づくことのように思います。あの花も、あの虫も、あの木々もあの人間も、すべては等しくこの世に存在しています。自分もまたその一つであり、何も変わらないその一部分です。特段、その花だけが世界を変えているのではなく、世界の中にその花もあるがままに咲いているだけです。

現実のただなかに生きていくということは、あるがままで生きていくということなのでしょう。生まれてきただけで愛され、生まれてきただけで自由、そういう慈愛をもって生きる人には感謝は離れないように思います。感謝を忘れないために人は痛みを感じます、痛みは感謝に気づくための貴重な種蒔きかもしれません。

最後にナポレオン・ヒル氏の言葉です。
「あらゆる逆境、心の痛みは、それと同等かそれ以上の恩恵の種を含んでいる」

引き続き、あの日々に仕合せで楽しく豊かに笑っている幼い子どもたちが憧れるような社會を創るために解き放ってみたいと思います。

心を許し合える環境

現代のような比較や競争社会の中で、素直に心を許せる関係が持てるというのは有難いことです。自分の長所や短所、情緒、人間性、癖や性格などもある程度は理解し合っていてそれでも本音で自分を明かすことができるような場所は安心基地でもあります。

そういう意味では人は警戒心をどこか持っていて、簡単に心を許すということは少ないように思います。誰を信じてよいのか、誰なら本当の自分の気持ちを理解してくれるのか、言い換えれば自分の深いところを分かり合える人に出会えることは仕合せなことかもしれません。

安心した環境というのは、警戒心がなくていつもの自分のままでいられる環境のことです。

人はどのような時に警戒するのかを考えればわかりますが、誰かに監視されている時や、痛めつけられるとき、無視されたりイジメられるとき、怖くて不安な時、敵がいると思ったとき、自分を守ろうとするとき、自信がないとき、つまり防衛しようと思って警戒が強くなり余計に不安な環境を産出してしまいます。

不安な環境というのは防衛の姿勢ですから、自分のポテンシャルも最大限発できませんし協力ができずパフォーマンスも落ち、仕事も成果も遣り甲斐もやる気も落ちていきます。

そういう意味では、一人一人が警戒しなくてもよい環境を醸成することがみんなが居心地がよい環境を創造していくことになるのです。警戒心を解くことができれば人は自分のあるがままで全体快適な環境の一部になっていくのです。

警戒心がない存在といえば、赤ちゃんです。

赤ちゃんをみれば私たちはすぐに警戒心を解き放って子どものように話しかけてしまいます。周囲も笑顔になり、つい安心できる温かな雰囲気に包まれます。赤ちゃんは防衛などしておらず、ありのままの自分で周りを信頼しています。

私たちは大人になっていく過程で、自分の身を守る術を身に着けて必死に自分を守るために生きていますがかつてはお互いに信じ合うことで助け合いより居心地の善い平和な協働社會を築いた時代もあったのです。

ひとりひとりが安心するというのは、それぞれの発達の特徴や個性、考え方や生き方、性格など丸ごと理解しお互いに打ち解け合う必要を感じます。いろいろな人がいるからこそ善い、多様な価値観があるからこそ助け合えるとお互いにみんなを徳を尊重するような意識を持つ必要があります。

徳の社會というものは、天が与えた恩恵をそのまま生かし合おうという自分をも許し、相手も許すといった「心を許し合う」社會にしていくということでもあります。

そのためには自分の間違いも素直に許し、相手の間違いも素直に許す思いやりがそれぞれに育つ必要があります。つまりは「一緒に学び合い正し合い成長し合おう」といった共存共栄していく環境があるということです。

安心できる環境とは共存共栄できる環境のことなのでしょう。

子どもが安心して自分らしく活き活きと仕合せに生きられる世界になるように社業の改善を続けていきたいと思います。

人類の過渡期~3つ子の魂~

人間が自然な存在としてこの世にあるのは、「生まれ持ったものを磨く」ときに認識するものです。その生まれ持ったものは、その人にしか与えられない天からの使命でもあり恩恵でもあります。人間はその生まれ持ったものを磨くことで世の中に役に立つ存在になれば自然体でこの世の中を自由に自立していくことができるからです。

誰もが正直に素直に自然体で生きられる、共存共栄する世の中はまずこの生まれ持ったものを磨くことを受容されている世の中かどうかで決まります。

私の本業で関わっている幼児の世界は、日本に古くからある諺の一つで「三つ子の魂百まで」と言われ、西洋の諺にも「The child is father of the man」(子どもは人類の父)」と言われ、それだけこの時期に与える影響は一生、また人類の未来に影響を与えると言われます。

その時期の子どもたちがどのような環境であったか、またどのような社會であったかは、人類をはじめ、その人の人生の左右する一大事であるのです。

脳のニューロンの数は1歳の時にピークを迎え、3歳までには個性の要になる人格形成や言語能力も形成されるほど急成長の時期です。この時期に、天性のものを磨くことを見守られるたかどうかはその後のその子の一生に大変大きな影響を与えてしまうのです。

また心においては、さらに影響が大きく心の根もその時期に育っていきます。だからこそその土壌がどのようになっているかが人類の未来を変えてしまうのです。私が乳幼児期にこだわる理由はここにあります。

この時期の子どもたちが自然体で正直で素直に健全に伸びるような見守られた環境があるかどうかで仕合せかどうかが決まり、世界が変わるかどうかが決まります。人類は長い時間をかけて伝承という仕組みを用いて今よりもさらに善くなる未来を創造してきました。この循環の仕組みは天の法理であり、いのちはこのようにバトンを繋ぎながら世界を創造し続けてきたからです。

子どもが天から与えられたものをどう削ぎ落さずに磨いていくことができるか、本来はそれが教育者の役割であったはずです。いつからか削ぎ落してはならないものを無理に削ぎ落させ、別の人生を刷り込み、その他大勢になるように洗脳するようになればその子らしさが失われるだけではなく、本来のその人が失われることもあります。

自分らしく生きるというのは、自然体のままでいい人を増やす社會にするということです。自然体のままで許される社會は、「それぞれが生まれ持ったものを磨き合う社會にする」ということです。

私が見守ることに人生を懸けるのもその理由に尽きます。

人類の過渡期に、今こそ子どもたちの環境を見直す必要性を感じています。長い目で観て、一緒にこの使命を共にしてくれる仲間を求めています。それぞれが安心して心の中の平和を保てる時代になるように協力していきましょう。

発達障碍が当たり前

世の中には生まれつき特殊能力を持った人が存在しています。肉体的な能力であれば、それが傍から見ても特別だとわかりますが内面的な能力であれば外からわからないので一般人と同じように思えてしまうものです。

また本人もその能力のことを他人に話さなければ自分が持っている能力はみんな持っていると思っていますから当たり前にその能力を使っては変な人だと笑われたりするものです。

しかしあるとき、もしもその能力に気づいたならどんな気持ちになるだろうかと思うのです。世界の中で他の人にはないものを持っていたら、かえって孤独や不安にならないだろうかとも思います。そしてそれを他人に伝えることができるのだろうかとも思います。

発達障碍の中には、様々な能力を持っている人たちがいます。特徴として集中力が人並み外れていたり、空想力や想像力がずば抜けていたりと、明らかに一般的な平均の能力を凌駕している人がいます。しかしその反面、一般的な能力が他の人たちより劣っていたり、もしくはその能力自体をもっていないということもあります。

するとイジメの対象になったり、気味悪がられたり、仲間外れにされたりもするものです。できる限り、ひた隠しにして生きていてもいつかは自分で普通ではないことに気づきますから孤独で苦しむこともあるように思います。

本来は、人類にはそれぞれに天から与えられた特殊な能力を持っていますからそのユニークさを発揮して社会を豊かにしていくことが本筋であったはずです。特定の教育によって、みんな同じでなければならないと平均値を目指し平均を押し付けていたら特殊能力の人たちまで潰してしまいます。個性を活かす教育とは、それぞれの違いを尊重してそれをみんなで活かす社會を目指す教育です。

ひとりひとりがみんな普通になることを目指すのではなく、一人一人がみんな変でもいいとそのままの姿を認める環境を用意して関係を見守っていくことのように思います。

違っててもいいと言える温かな雰囲気や、ユニークさをみんながたたえ合うような明るい場が一人一人の個性を尊重する環境になっていくと思います。そのためにも発達障碍が当たり前な社會になることが個性を認めるための大前提になる必要があるのです。

体験を実践に換えて、子どもたちのために社風を創造していきたいと思います。

情報共有の本質

組織で協力しやすい職場環境を築くのに情報共有というものがあります。これは単に、自分の知っている情報を他と共有するという意味もありますが、他を巻き込んで一緒に情報を掘り下げていくという意味もあります。

この情報とは、日本で造られた造語で江戸時代には存在しなかった言葉です。実際には、軍隊の敵情報告という言葉の真ん中の2語を抜粋し「情報」と使ったことから生まれたそうです。

ではそれまではどのような言葉が、代わりに存在していたのか。

一説によれば現在の情報量は、平安時代の人の一生分、江戸時代の人の一年分であるとも言われます。つまり、むかしの人はそれだけ情報が少ない中で問題もなく生活をしてきたということです。知らなくてもいいことは知らなくても済む社會があったということです。

現代は、日々に猛烈な量の情報が黙っていても入ってきますから無人島や山奥で生活しない限りは情報が追いかけてくるものです。世界の隅っこで起きた事件ですら、翌日には世界中の人たちが知っているという事実。江戸時代は、飛脚で何日もかけて短い文章を一部の人たちの間で行われていたのを見ると如何に世の中が変わってしまったかも観えてくるものです。

むかしは少ない情報量であっても、それを察知するだけの信頼関係がありました。言い方を換えるのなら、心が通じ合っていたとも言えます。情報過多の時代は、心を通じ合わせるというコミュニケーションが頭で理解することばかりになり少なくなってきたように思います。

現代のように複雑になってくればくるほどコミュニケーションも複雑になります。どのように心を通じ合わせていくかは、それぞれの意識にかかっています。意識を合わせていくというのは心を通わせ合う情報共有をするということです。

子どもたちが安心して協力し合う社会になっていくように今の私たちが道筋をつけていきたいと思います。

 

成長し合う組織

道具にはそれぞれに一長一短があるように、人間にもそれぞれに一長一短というものがあります。他にも一利一害、 一失一得、一得一失のように、完ぺきなものなどは存在しないということです。

如何にいいところを伸ばし、わるいところをカバーしていくか。そのためには、それぞれにその状態を維持していくために分を弁える謙虚さが必要であるように思います。自分の能力に過信しては、他を裁くような価値観をもっていたら自分ばかりが完璧だと信じ込んでしまい、何でも自分がやった方がいいような感覚になってしまいます。それが過信を生み傲慢さを発展させギスギスした関係を増長させていきます。

日本人は特に学校などで真面目で我慢して一生懸命にやることを美徳として教え込まれてきていますから、何でも無理してでも自分でやることを優先しがちです。そのうち仕事がパンクして自分がダウンしてもそれでも無理して頑張ればという思考に陥ることもあります。そこから一人では限界があることを学び、信頼や協力の大切さを知ります。

自分の得意なところを他の人に任せれば、その人はその得意なところをその人から学べるメリットが出てきます。また自分にしかできないことは周りの人たちのカバーができます。みんなで取り組むということは、自分の得意なことを周りの人に享受し自分の苦手なところは周りに得意な人を見つける手立てにもなるのです。

ひとりで完璧な能力を持つことを目指せば、できる人になれて評価されますができない人の気持ちがわからなくなっていきます。本来はできない頃の気持ちを忘れてはいけないはずなのに、できる仕事しかしなければできないことなどは思い出すこともありません。

それが成長の限界をつくり、自分の立場や能力に固執しているうちにチームワークや時代の変化についていけなくなっていくのかもしれません。自分にできるようになって得意になったのならすぐに他の人に仕事を任せてできるようにしていくことをみんなでやっていたら、全員がみんなである一定のクオリティの仕事ができるようになります。

協力して働くというのは、みんなができるようになるということです。そしてみんなができるようになるというのは、得意なところがさらに引き出されチームとしての最高パフォーマンスが上がるということです。

成長し合う組織、成長し合う関係が続くというのは仕合せな関係です。

引き続き、子どもたちに譲り遺したい関係を創造するために挑戦を続けていきたいと思います。

 

世界の広さ

はじめて海外に留学した時に、世界では価値観が異なっているのを感じて自分の知らない世界を認識したことを覚えています。ある国の常識はある国では非常識になり、今まで正しいと信じ込んでいたことが如何に狭い世界だけのものであったかを知るのです。

正論ばかりを述べていた自分がその時は、実は正しいことではなかったかもしれないと知り、「郷に入っては郷に従え」の意味を痛感したものです。この諺は元をたどると中国の古典、「礼記」の 「入竟而問禁。入國而問俗。」にあるそうです。これを意訳すれば 「国境を越えたらまず国で禁止されていることを尋ねなさい。そして別の国に入ったらその国の慣習や風俗を最初に尋ねなさい」ということです。

自分の知らない国にはその国特有の文化や価値観があります。長い時間をかけて、その国の風土や歴史がその国の人々の暮らしの価値観を醸成してきたのです。自分の当たり前はその国では通用せず、常に自分がその国の価値観に合わせて変化させていく必要が出てきます。

相手を尊重するというのは、この価値観の受容に似ています。相手の言っていることを一理あるとして、その人の価値観を学び自分もその価値観を体験してみる。その上で自分の価値観もまた理解してもらい折り合いをつけていく。世界というのは、それぞれの人たちの中にあるものですからいくら同じ地球に住んでいたとしても価値観を通した世界は人の数だけ多種多様に存在しているのです。

そして私もまたこの留学を通して、自分の価値観でビジネスを展開していくことを決めたように思います。それぞれに価値観が異なってもいいのなら、自分の世界観を世界の価値観の中で打ち出していいと感じたからです。

私たちの価値観は子ども第一義の理念にそって、もしも自分が子どもだったら、そして未来の子どもたちにどんなものが譲れ何を片付けておくかと考え抜けば新しい価値観が出てきます。人類は、それぞれに問題意識やそれぞれの使命があり、一人一人が突き詰めて一つの真理に辿り着きます。そのプロセスで得た気づきを、周りの人たちと学び合い共有しながらまた混沌複雑な中から自分なりの答えを導き出して発信していくのです。

世界はこのようにできていますから、新しい世界は新しい価値観と共に変わっていくのです。人生の大事な局面において、自分の価値観をしっかりと持って歩んでいくことが道につながっていきます。

道に入るには、それぞれで道を模索する人たちとの出会いによって自分の道を見出し具体的な行動によって道を切り拓くのです。そういう意味ではまだ私は留学中のままなのかもしれません。

はじめての留学は私にとっては、世界観や自分の道に出会うための大切なプロセスだったように思います。今思えば世界の広さとは、その価値観の多様さのことなのでしょう。

広い世界で自分を生きることを子どもたちに伝承していきたいと思います。