懐かしい道具たち

昨日、伝統的な御餅つきを聴福庵で行いました。伝統的というのは、自ら稲作をし収穫したものを木臼や杵、また竈と木製の蒸器で麻布でお米を蒸して子どもたちと一緒に餅つきをすることをここでは伝統と言います。それくらい今では、臼や杵などを持っている家も少なくなり御餅もすぐにコンビニで買えますから餅つきをする必要もなくなっているからです。

ちょうど28日に御餅つきをし、鏡餅をお祀りするのは縁起が良い末広がりの8がつく12月28日にするのが一番適していると言われているからです。むかしの人は縁起を担ぐため餅つきをする日も選んでいました。たとえば12月29日は「二重に苦しむ」からとか、それに12月31日は「一夜飾り」慌てて準備をしたとなると歳神様に失礼に当たるから餅つきはしないほうがいいと伝えられています。実際には、29日を福(ふく)と呼ぶため構わずに29日に御餅つきをする地域や家庭もあるそうです。

餅つきは、呼吸を合わせて杵で搗きますから年に一度の経験だけではそんなに上達しないものです。しかし日ごろから一緒に暮らしているもの同士であれば息が合うものです。最初は、お米を引き延ばしながら米粒をつぶしていきます。そして捏ねながら搗いていきます。臼と杵の木が受け合う高音が心地よく、静かな地域に餅つきの音が響いていました。

竈の荒神様の祭壇に灯をいれ、見守りの中で餅つきの行事を清々しく進めていきます。有難いことに水も井戸水を使い、火は備長炭、むかしの竈も道具たちもすべて伝統的なものだけで御餅ができることの有難さに心が落ち着きました。

特にハレの日の出番の道具たちは、ハレの日以外は仕舞われてじっと待っています。しかしハレの日なると、どれも晴れ晴れしく活躍しいつもと様相が変わってきます。道具もその時手入れし、また修繕をしながら御礼を言って仕舞います。

日本人の暮らしは、暮らしを彩る道具たちとの御縁は切ることはできません。機械化され、便利になってかつての暮らしの道具たちは廃棄されるか骨董屋さんにいき海外などのコレクターに収集されています。しかし、暮らしを一緒に生きてきて豊かな思い出と懐かしい記憶をいつまでも持ったまま残存している道具たちは仕合せのつながりをいつまでも保ったままです。

そしてそれがかつての伝統的行事の実践と共に甦ってきます。まるでタイムスリップしたように、かつての記憶、その道具が使われていたころの思い出がその場に帰ってくるのです。道具たちは確かに無機物かもしれませんが、その道具たちと共に生きた方々の記憶はその無機質のはずの道具にいのちが宿っていくのです。道具はその単体でいのちがあるのではなく、御縁が結ばれることによって新たないのちが芽吹きます。

それは木が加工され新たなものに生まれ変わるように、いのちもまた御縁と結びつきによって新たないのちが生まれるのです。そしてそのいのちはいつまでも生き続け、そのいのちに触れる人たちによって永続的に生き続けます。この感覚を「懐かしい」と呼ぶのです。

懐かしい暮らしの復活は、いのちの復活でもあります。かつての人々、先人や先祖が身近に感じられる生き方、つまりは徳や恩を感じながら感謝で生きていく生き方の甦生なのです。

年中行事にはそういう懐かしさが生き続けていますが、それを彩る道具たちの存在は欠かすことはできないのです。だからこそ大切にいのちが永く続くように寿命を伸ばすための工夫や修繕、手入れを怠らなかったのでしょう。

御餅つきということをするだけで、それらの生き方が学び直せ自分の生き方も次第に変わっていきます。いのちを粗末にすることがないように、いのちを輝かせる人たちが増えていくように、伝統から学び直して子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

門松と信仰

昨日は、聴福庵に門松を飾り正月の準備を行いました。最近では、あまり家々の門に門松飾りを見かけなくなりましたがこれも古来から続いている日本の伝統の一つです。

そもそも門松の意味は簡単に言えば、正月に遠来から歳神様が家に来てくださるようにその目印としてお祀りするものです。より詳しくは、折口信夫氏の「門松のはなし」が最も的を得ているように思います。

「日本には、古く、年の暮になると、山から降りて来る、神と人との間のものがあると信じた時代がありました。これが後には、鬼・天狗と考へられる様になつたのですが、正月に迎へる歳神様(歳徳神)も、それから変つてゐるので、更に古くは、祖先神が来ると信じたのです。歳神様は、三日の晩に尉と姥の姿で、お帰りになると言ふ信仰には、此考妣二位の神来訪の印象が伝承されてゐる様です」

色々な説が時代と共に変化していますが、一般的には山から降臨する田の神様が歳神様だとも言われます。五穀豊穣を約束する神様が、家に来て福を授けてくださいます。床の間におもてなしする鏡餅は、正月の間、滞在してくださる神様の依り代です。稲作を中心に私たちは暮らしと信仰を一致させ永続する家としての智慧を結集したものの一つがこの正月であったのです。

門松の松は、常緑樹は榊と同様にいのちが宿る木とされ古来より神様の依り代になりました。また松を「待つ」と言霊の響きを同じくし、神様を待つとしています。松飾がある期間を「松の内」とし、その間は神様が家にいるかのように生活を慎みました。そして山にお帰りになるころにちょうど節分があり五穀豊穣を祈願するために五穀を蒔き歳神様をお見送りするとも言われます。

行事はそのもの単体で見ては意味がわからないものも、つなげてみるとその行事の意味や信仰していた日本人の心やカタチが観えてくるのです。

聴福庵では、古式の門松を飾ります。これは平安時代の「小松引き」が由来です。そのため玄関には「根」がついたままの松を飾ります。これは歳神様が訪れて幸せが根付くようにという縁起によるものです。そして裏玄関には根が切られた松を飾っています。これは厄を断ち切り根付かせないという縁起によるものです。

日本人は、むかしから物事の解釈を常に福になるように転じ続けてきました。根があってもいい、根がなくてもいい、それをどのように捉えるか、そのすべてを感謝に換えて言葉や文化、伝統を創り上げてきました。

信仰というものの本質は、どんなことがあっても丸ごと信じるという生きる姿勢の実践のことです。自然災害が世界で最も多い国だからこそ、自然災害から自然崇拝が誕生してくるのは自明の理です。宗教ではなく、「信仰」というものがあるのは私たちがそれだけこの自然風土の変化に晒されて逞しく変化に順応しながら生きてきたからです。

暮らしや行事は、私たちが自然の中で仕合せに生きぬいていくための先人の智慧と親祖の真心を感じます。時代が変わることは仕方がないことですが、変えていいものと変えてはならないものを確かに見つめ子どもたちのために先人の恩を繋いで結んでいきたいと思います。

 

幸福と変化

人間には二通りの生き方があります。一つは、誰かのせいでと他人のせいにしてしまう生き方。もう一つは、誰かの御蔭様でと他人の御蔭にしてしまう生き方です。この二通りの生き方は、自分の人生の幸福に大きな作用を働くだけでなく、人間関係においても大きな影響を与えます。

たとえば、事物を誰かのせいやもしくは自分のせいだと責めることばかりに躍起になっている意識は変化に対応できる考え方ではありません。変化に対応するには、受け容れる力が必要になりますから現実から逃れるために何かのせいにしても物事は前に進むことがありません。

その逆に、事物はすべて御蔭様という考え方を持つ人は自他をせめず自分に矢印を向けて現実をあるがままに受け止め、変化というものを受け容れていきます。これは人間が感謝の時が変化に対応しやすく、自分の思い通りであることが当たり前と思い違いをする時が変化に対応できなくなるということです。

人間は生きていれば、日々に小さなことから大きなことまで変化に遭遇しストレスを抱えます。そのストレスは、無理をして取り除くためにエネルギーを使い切るのではなくストレスを受け容れて立ち直る方へと転じた方が幸福を感じます。私はそれを「福に転じる」といいますが、何でも福に転じる人はすべての出来事を前向きに捉えて変化そのものを楽しんでいくことができるのです。

変化を楽しむ力というものは、一つは好奇心があると思います。大変なことがあっても、面白そうと思える意識、めんどくさいことがあっても、真心を使えるチャンスだと思える意識、その人の生き方次第で現実の受け止め方が全く異なり変化のスピードも変わっていくのです。

自分の思い通りいくことが、人生にとって良いことだと思っている人と、自分の思い通りではないけれど思った以上のことをいただいていると思っている人では、人生行路の歩み方、感じ方が異なります。

人間は誰もが幸せになろうとしますが、仕合せで居続けるには変化し続けている必要があります。それはどんな世の中や周囲が変わっても、自分がそれに順応していつも感謝のままで居続けられる状態、御蔭様を感じ続けられる状態、その心境を現実と一致させていく努力が必要になると感じるからです。

謙虚さというものは、人生にもっとも大きな影響を持つものです。同様に傲慢というものもまた、人生に大きな影響を与えます。生きていれば、人間は手入れを怠り掃除をしなくなりエゴの穢れのようなものがこびりついていきます。日々にそのエゴを増大し穢れを払うために様々な感謝の工夫を仕事にまで昇華できた人たちがこの世に最幸の組織を実現させていきます。

子どもたちが憧れる生き方と働き方を実現するために、職場の文化が世界を変えていくことを信じてもう一歩深く踏み込み、腰を据えて挑戦を続けていきたいと思います。

ポジティブ力 ~生来の楽観性を使い切る~

人間にはそもそも生まれながらに持っている楽観性があります。どんなに厳しい状況や環境においても生きようとする力のことです。この力は例えば自律神経なども同様に、自らで呼吸をし続け心臓を動かし続けるように自動的に活動をし続けます。生きているというのは、それだけで生存しようと前向きになっているものでそもそも生き物にはポジティブな素地があります。

人間は、感情の生き物ですから喜怒哀楽が備わっています。時折、苦しいことがあってもまたそこから立ち直り前に向かいます。どんな人間でも紆余曲折、失敗と成長はつきものですから挑戦と失敗、改善は人生の命題です。その中間において生きている実感を感じ、幸せを感じるのもまた人生です。

現在、ハーバード大学においても幸福になるための授業が盛んに行われています。時代を超えて人間の深い要求は、幸福感や幸福度です。それを改めて学問として追及することは人類の未来に向けて大切な意義を持つように思います。そのハーバード大学で有名なポジティブ心理学の講師に、タル・ベル・シャハー氏がいます。この方の講義では幸福はその人の心の持ち方、考え方次第であるといいます。

「いかなる状況でも、ポジティブなことを探すゲームをしなさい。感情の95%は物事をどんなふうに解釈するかで決まります。」

日々にないものねだりをせずにある方を観ることや、頂いている御縁や機会、仲間や課題に挑めることがある方に感謝できれば感情は調和していくといいます。そして、「幸せへの鍵は、目標を達成することにではなく、目標を追求するプロセスにある」といいます。決してゴールや結果、達成するか解決するかではなくその過程そのものが幸福なのだと。現在は、すぐに目標を早く解決しようと焦り周りに対して辛辣な態度や言葉を投げつける人もいます。そうなっては不幸は増し、幸福感が減退して過程をすぐに終わらせようとします。それでは幸福感は得られないといいます。

「新しい行動を取り入れるあるいは古い行動を変えるということはどれも大変でほとんどが失敗します。必要なのは自制心ではありません。習慣化できるかどうかです。」

「やろうと決めたことをやり遂げるためにはたとえそれがよいことだと分かっていたとしても自己コントロールだけでは不充分です。新しい習慣を創造するには価値のある目標に動機づけられた状態で習慣化する活動を具体的に決め決まった時間に行う必要があります。」

そしてポジティブに生きるには、自制ではなく習慣化することだと言います。諺にある「継続は力なり」です。日々は、楽しいことや大変なことを面白がり豊かに愉快にニコニコ顔で命がけで生きていても目的は手放したくないものです。その目的を忘れないためにも初心を維持し続けるためにも、「習慣」が必要なのです。

習慣はどんな境遇や環境、また感情や体調が変化しても粛々と活動し続けます。まるで自律神経や呼吸のようにそれを止めてしまわないように生き続けます。言い換えるのならそれは生来に備わっている「生きる力」(ポジティブ力)を使っているということです。

生きる力というものは、自然のリズム、いのちのリズムで全体と調和することです。言い換えれば、バランス力であり万物一体善の境地でいるということです。これを先人たちは、中庸といったり、平常心といったり、悟りとも呼びました。先ほどのタル氏は幸福になるために必要なこととしてこういいます。

「まずは自分の幸せを目指しなさい。不幸せな人間は他人を思いやることなどできません。」

生きていく中で、人格を磨き徳を積むというのもまた幸福に生きていくために必要不可欠なものだったのかもしれません。子どもたちが生まれてきたいのち、生きる力を減退せずに仕合せに生きていくためにも生き方を示して伝承していきたいと思います。

心の掃除

人間は心が「荒む」(すさむ)と感謝を忘れていくものです。心が荒れて行動が乱れれば、次第にゆとりや余裕が消え、冷静さを失い、すべてが乱暴になり周囲にとげとげしくなり悪影響をまき散らします。

この荒むの語源は「凄まじい」からきていて、この凄まじいは恐怖を感じるほどにひどいさま、興ざめするほどにすごい恐ろしさからきています。

人間というものは、心が荒んでくると本人にも色々と問題が起きます。精神が病んだり、心と体のバランスが崩れたり、そうなると自制もきかず何をするかわかりません。人間は心が荒まないように工夫することで、本来の穏やかで調和した自分を維持していくことができるのです。

心が荒む理由としては、現実に対して心が御座なりになってついてこれないときや自分の心を誤魔化したり、無理をして心に嘘をついたりするときに特に影響を受けるように思います。日ごろの自分の心がけと心の持ち方ひとつで、心が和やかである人もいれば心が荒む人もいますから如何に自分自身に対して正直で居続けるか、あるがままで丁寧に生きていくかは人生にとってとても大切な素養と工夫であるように思います。

私は一昨年より暮らしの甦生をする中で、如何に日々の手入れを怠らないか、掃除を大切にするかということを学び直しました。家の神様に対しても、荒ぶる神(荒魂)にならないように感謝の心で洗い清めてお掃除と手入れ、片付けを行うことで荒ぶることもなく和やかなままの状態でいていただくようにつとめます。そのようなことを怠ればすぐに家に問題が発生し、色々な反省が波のように押し寄せてくるからです。数々の暮らしの年中行事は、すべてにおいて日ごろの心の準備と心の手入れ、心の掃除が行き届くことで万事整うのです。

掃除道の鍵山秀三郎氏も、「掃除とは心の荒びを取り払うことである」とはっきりと定義されています。日々のことを掃除にはじまり掃除に終わることで丁寧に片付けていく、その片づけをする心はまさに「感謝の実践」であり丁寧に生きていくことは、「心の和みを醸成する」ためにも必要なのです。

掃除を怠ることで心が雑にならないようにと暮らしを整えていくことは、心が荒まないようにとゆとりを維持していくコツであり秘訣なのでしょう。先人たちはその大切さを知っていたからこそ、日々の暮らしを丁寧に紡いできたのかもしれません。

余計なものを断捨離し、余計な垢を綺麗に洗い流し、整理整頓して美しく保ち続けること。単に増やし続けて雑に扱えばいいのではなく、一つ一つ片付けてまた次の準備をする。かつての日本の家で当たり前にあった四季折々を丁寧に生きて片付けを行い心を整えていく工夫が心の持ち方の智慧として私たちへ伝承されてきたのでしょう。

粗雑で乱暴な生き方は自分自身の心を痛めてしまいます。そうして心を痛め心が病めば日常がさらに色あせて頂いている感謝よりも足りないことへの不平不満に頭をもたげてしまいます。これだけ自分への御縁や感謝をいただいていることを忘れてしまうことこそ不仕合せであり、悲しいことはありません。そのような時こそ、一休みし心の掃除を行い心を澄まし心を整え心を慎み、自分自身の心が全体と一つになるように心を調和していくまで掃除をしながら待つしかありません。

人間の日々の暮らしは人生の生き方です。

感謝で生きていくことは心の掃除をしていく人生の生き方を実践していくということです。掃除道の鍵山氏は、心は取り出せないからこそ、身近にあるものを磨くこと、そして片付けること、綺麗に掃除すること、それが自分自身の心を掃除することになるということを仰っています。

人間誰にしろ自分らしく正直に仕合せを求めて生きていく以上、心の掃除は人生最大の徳目なのです。

今年もあと残り少しですが、丁寧に片づけをしながら心の和魂を鏡に映しながらかんながらの道を歩んでいきたいと思います。

自分の答えを持つ

幼いころから一斉画一の生産管理教育の評価に晒されていると、自分の頭で考えるということをやめてしまうものです。誰かによって都合が良い人になることは優秀になることであり、その優秀の定義は誰かによって定められたものになるのです。

たとえば、上下関係であれば上の人の言うことをよく聞く人が素直であり、上の人のいうことを従順にしっかりと指示通りにやることを優秀と言われます。さらに優秀なのは、上の人のやりたいことを先回りして準備して上の人がやる以上に実現すればさらに優秀だと褒めたたえられ評価されます。

しかしこれをやり続けるとどうなるか、それは上の人の正解ばかりを探すことを真面目にやることがもっとも正しいことだと信じ込むようになります。するとどうなるか、自分の中の正解ばかりを探して真実や本質を見抜く力が減退していくのです。それは他人の答えを探し続けるようになるからです。

本来、真実や本質を見抜くためには「自分の答えを持て」といった自分の中で根本や本質を突き詰めていく必要があります。自分の中で自分で答えを出すには、自分からその人の持つ答えを正解と捉えるのではなくどのようにその人がその答えに辿り着いたのかを自分自身の力で強く求め近づいていくしかありません。

何度も何度も実践し議論して深めていく中でようやくその人が辿り着いた答えに自分も出会います。その時、その答えによって導かれた背景の価値に気づくのです。それが本質に辿り着くということです。

しかし他人の正解ばかりを追い求め自分の答えのない状態に陥ると、上の人から指摘されたことはマイナスなことを言われたと思いすぐに足りないところを探してしまいます。自分の中で評価や採点癖が沁みついていたら「できない自分をできるようにする」ことだけに固執し正解思考にばかりに囚われてしまいます。そのように人間は評価で裁くという物差しを持ってしまうと罪悪感で動けなくなるのです。すると他人常識的なルールに縛られた都合のよい人間が出来上がってしまいます。

そういう時は、正解ばかりを探す前に「気づかなかった、近づかなかった、もっと自分よりも深いのかもしれない」などといったすぐに他人の正解を探さずにその人の持つ本質に気づくように自分自身の在り方を正し、上の人の指示を理解しようとばかりに脳を使う前に、自分自身のそもそもの考え方を指導してもらうといった素直な姿勢になる必要があるのです。

自分の答えを持つ人は、自分で考えることができる人です。自分で考えることができる人になることが、人生の主人公になります。主人公になれば人生を他人のせいにせず、言い訳もせず、あるがままに自分らしく生きていくことになるのです。

しかし生産管理教育の刷り込みが深い人ほど真面目で優秀と周りは褒めますから余計に刷り込みは取りにくいのかもしれません。必ずどんな事物にも物事にも常に本質や根本があり、それを正しく理解していくことが会社を理解し商品を理解し、戦略を理解し、そしてそれを自分なりに応用して創造していく力になりますし、さらにはそれを他人に伝えるためには自分自身がその本質を「ものにする」必要がありますから自分の答えを持つことは人生において決して避けては通れません。

いつまでも上の人に対して刷り込みの下の人になる上下構造に縛られず、本質の深さや根本の質で議論できるように近づく今までとは異なった努力をしていくことが自分の眠っていた考える力揺さぶり目覚めさせることかもしれません。

子どもたちが自分の頭で考えて自分の答えに気づけるように、議論できる関係や環境を世の中へ広め構築していきたいと思います。

安心して育つ環境

人間には表情というものがあります。これは、心の状態を顕しているものでその人の心が表に出てきている状態とも言えます。心が澱んでいれば表情も暗くなり、心が澄んでいれば表情もまた清らかです。心を頑なに隠していれば表情もまたそれ相応になり、心が楽しければ笑顔で明るい表情になります。

心がどのように働いているか、それを観察することがもっとも心の状態に気づく鍵でもあります。そして心は本来は、子ども心というように純粋無垢なままの状態で存在し続けます。しかしその心が日々の知識や刷り込みによって頭で考えることが増えていくことによって心の周りに垢のようなものがこびりついてきます。

その垢を洗い流していかないかぎり、心が表に出てくることがありません。大人になればなるほどにその垢がこびりついてきますからそれに気を付けて生きていくことが仕合せに近づくコツのように思います。

この垢はではどのようについてくるか、それは自分に嘘をつくことでこびりつきます。自分の本心を隠し、周囲にわからないようにするために嘘をつき誤魔化すこと、本当の自分の素をさらけ出さずに周囲に合わせて自分を偽り表現していく、そういうことを繰り返すことによって垢は出てきます。つまりは不自然な姿で居続けたことで、その不自然さが自然を覆い隠していくかのようにです。

そうならないようにしていくために、どのような環境を用意していけばいいか。みんなが無理をしないで安心して素のままでいられるためにはどうすればいいか。教育者はまずそこに目を向けて、安心して育つ環境を用意していく必要があると私は思うのです。

安心して育つ環境は自分自身にも言えることです。自分のままでいい、あるがままいいと自分が思っているかどうか。無理をして我慢をしていないか、周りの期待に応えるために本当の自分を隠していないか。自問自答する必要があります。

そして自分を肯定できているか、自分を好きでいるか、自分というものの存在を丸ごと認めているかといった揺るがない自信を持つ必要があります。

引き続き子どもたちが安心して成長していけ自分の持ち味を発揮していけ仕合せな人生が歩めるように安心して育つ環境を用意していきたいと思います。

居心地とは何か

居心地がよい場所というものがあります。そこにいくと自分らしくあるがままの自分で居られるという場所です。人それぞれにその居心地がよい場所というものを持っています。

ある人は、自宅の部屋であったり、ある人は故郷の思い出の場所であったり、ある人は誰かと一緒にいるときであったり、またある人は自分が所属するコミュニティであったり、それぞれです。

しかしこの居心地がよいというのは、自分自身を知るうえでとても大切なことのように思うのです。なぜか気持ちが安らぐや気分が落ち着くというのは、自分の居場所として自分が素直に出せているということ。その逆に、自分を偽り我慢して自分を出さずに抑え込んでいるところは居心地が悪いということになります。

自分が無理をしている人がいると、その場所は居心地が悪くなっていきます。無理をしていない人が増えれば増えるほど居心地はよくなります。居心地のよさは、みんなが無理をしない環境があるということです。そのためには自分がまず先に無理をするのをやめてみる必要があります。無理をして我慢をして自分を誤魔化していたら、気が付けばもっとも自分がその環境を居心地が悪いものにしているのかもしれません。

なぜ自分らしくいられないのか、なぜ無理をするのか、それは他人からの評価を過度に気にしたり、失敗を過剰に怖がったり、不安や不信から心配ばかりで保身ばかりを気にするからかもしれません。しかしそれが回りまわって自分自身が居心地が悪い場所にしていくのです。

居心地の善さは、まず自分自身が心を落ち着ける必要があります。自分のままでいてもいいと自分自身が安心すること、このままでいい、あるがままでいいと自分自身を認めること、そして同時に周囲のあるがままも認めること。お互いに認め合うことができるのなら寛容な心で許し合うことができます。自分ができないことを周りがやることに嫉妬したり、自分ができないと思われないように虚勢を張ってみても現実は苦しみばかりが襲ってくるだけです。優秀かどうかばかりを気にして、能力ばかりを査定するような自意識を持っていたら緊張状態が続くばかりで頑張る悪循環に陥り頑なになるから笑顔はなくなり、周りの笑顔も次第に奪っていきます。優秀さを目指すばかりの人間たちがみんな無理をして頑張る職場に笑顔はありません。

自分からいつも笑っている人は、優秀さではなく仕合せが基準になっていますから自分自身が楽しいだけでなく周りも同時に気楽にしていきます。気楽さというのは、頑固さとは逆ですから何があっても丸ごと善いことであると信じ切るといった全体性に対する楽観性のようなものです。

居心地のよさは、まさにこのように全体に見守られていると実感しながらきっと大丈夫だとそれぞれが信じて歩んでいくことのようにも思います。むかしの日本の信仰のように、八百万の神々が共に歩んでいるのだからと安心するような境地です。それは決して否定排除ではなく、尊重と共存関係が大前提であったの自明の理です。

子どもたちが安心して自分の居場所をそれぞれの場所で創造できるよう、素直な自分のままでいられる環境を創造していきたいと思います。

主体性の本質~お手伝い~

「お手伝い」という言葉があります。これは「手伝う」に「お」の接頭語が入ったものですが当たり前に使っている言葉ですが大変な意味があるように思います。この手に伝えるという合わせた言葉、とても深く味わい深いものがあります。現在では、チームだとか協力とか主体性とか色々な言葉が組織運営について出てきますがこの当たり前の「お手伝い」が何よりも仕事の本質であるようにも思います。

幼いころから、家のお手伝いをして育ってきますが人間は当たり前に協力して働くためにはその働くための智慧を自然に身に着けていきました。その代表的なものが、農業であり里山での暮らしの中で集団を通して助け合い生きる力を育んできたのです。たとえば、みんなで助け合い屋根をふきかえたり、堤防の修理や、家々の柿の実を収穫したり、子どももみんなで見守り、お年寄りもみんなでお世話をする。

これは自分のもののようで自分のものではなく、みんなのものであって自分のものでもある。つまりは生活共同体、共存関係を結んでいたのです。沖縄ではその関係を「ゆいまーる」ともいい相互扶助の関係を築き上げていました。

現在では、自分は自分、他人は他人となってしまってみんなのものという意識は消失してきているように思います。そのことから本来のお手伝いということも意味が異なり単なる役割分担や担当制のように変わってきているように思うのです。つまりは歪んだ個人主義が蔓延しつながりが切られたことで「一緒に生きている」という実感がますますなくなってきているように感じます。

本来の「お手伝い」とは、この「一緒に」という気持ちをお互いが持っていることのことを言います。本当の主体性とは、「自分はみんなと一緒に生きている」という共存意識を持っている人たちのみに発揮されるものだからです。

だからこそ他人事にせず、自分のことだという当事者意識が生まれます。そして会社も同様に、自分の会社であって自分だけのものではなくみんなのものである。みんなのものだからこそ自分も手伝うことができて有難いと感じながら働くことが相互扶助でお互いを活かしあい助け合うことができるということでしょう。

自分というものと全体とのつながりが消えてしまうと主体性は消失します。すると、孤立感や孤独感、そしてやらされ感やさせられ感に変わってしまうのです。結局、何か自分に何かの出来事があったときに気づくのが自分が助けてもらえ所属する会社、仲間や友人、家族など周囲のコミュニティの中があることに気づき直すのです。

だからこそそのコミュニティを守ろうと「お手伝い」をすることは当然のことであり、それが「自分もみんなも守る=お手伝い」ということなのです。手伝っているようで手伝ってもらっているのは自分、見守っているようで見守られているのは自分自身であるという真実に気づくことが共存共栄していくという人間の智慧の本質なのです。

チームかどうか役割とか担当とか議論する前に、そもそもは果たして自分とは自分だけのものなのか、そんなことは一人では生きていけないからすぐにわかるはずです。いくらお金があったとしても、助けてくれる人たちがいなければそのお金を使うこともありません。つまり人間は自分であって自分ではないものの存在に気づけるかどうかが何よりも先なのでしょう。

みんなで一緒に生きていく、その一緒になっている組織を守っていくということにどれだけ真剣に関わり本気で取り組むかが主体性の本質です。引き続き、課題をチャンスにして本当の問題に向き合っていきたいと思います。

 

言葉の定義

言葉というものは時代の価値観と共に変化するものです。それは時代の価値観が反映されて言葉を使う人たちの間で変わっていくからです。つまりは言葉というものは、そもそもそうやって人間の間で不確かに生き続けて形を変え続けるものだからです。だから言葉のことを言霊とも言うように思います。

たとえば、孔子の時代に孔子が弟子と問答した論語もまた時代の流れと共に変化してきます。春秋戦国時代に使われていた仁義などの言葉も、平和な時代に入るとその意味が少し変わっていきます。それを今度は、孟子という人物が本来孔子の言うのはこういう意味であると言葉をその時代の人たちに真実が分かるように翻訳していくのです。

日本でも朱子学や陽明学をはじめ孔子の教えが本質を維持するように、その時代の翻訳者たちがそれぞれに時代背景に合わせて言葉の定義をしてきました。時代と共に言葉が分化していくのは、それだけの時代を経てきた証拠でもあるのです。

この儒教だけではなく、当然仏教も、神道もまた時代が変わるたびに少しずつその言葉の意味が変わり真実が分かれていきます。その真実を見極める人たちによって、できる限り最初の意味や本来の定義が変わらないように伝承されていくことでそのものが時代に受け継がれていきます。

人間を教育するというのは、この言葉の定義や意味を本来のままに使えるような人々を増やしていくことです。そのうえで、同じ定義を用いてお互いに学び続けて人格を高めていくことが必要になります。

人間は社会を育てていく生き物ですから、社会の一員として言葉を用いて平和な社會を築いていく必要があるからです。

今の時代は多様化が進み、言葉も乱雑化してきています。ありとあらゆる言葉の使い方をする人たちも増えてきて、本来の意味も湾曲して自己解釈が自由勝手に行われている時代でもあります。言葉が氾濫しているといってもいいかもしれません。本来の意味ももう違う意味で刷り込まれてあまりにも反対の意味になっているものが、そのまま使われていたりもします。

学問をする人たちが、それぞれの場所でそれぞれの道で本来の言葉の意味を真実のままに伝えるしか正統を維持していくことはできません。大事なのは古今の聖賢たちが観ているものを一緒に観続けて精進していくことかもしれません。

引き続き、何が真実であるかを求めて日々に言葉の定義を深めていきたいと思います。