かんながらの夢

先日、御縁あって東京の泉岳寺にお伺いすることがありました。忠臣蔵で有名な赤穂四十七義士の墓があるところでもあります。墓地では年齢が多様な日本人の参拝者が多くあり歴史の篩にかけられても未だに忘れられてはいません。

今の時代ではこの忠臣蔵の出来事の本質を深めようとするような学問も少なくなり、道徳が荒廃すればするほどにこの義士たちの理念が忘れ去られていくように思います。道徳の荒廃は大げさに聞こえるかもしれませんが私たち日本の民の原点から守り続けてきた生き方が失われていくことでもあります。

日本人が親祖より最も大切にしてきた生き方を守り続けるということは、言い換えれば子々孫々まで親祖の理念を維持していくということです。神社のお役目も本来はそうであったはずで天皇もまた祭祀によって理念を守り続けていらっしゃいます。そして世界のそれぞれの国には日本と同様にそれぞれのはじまりがあり、多様な国家や民族はそれぞれにその場所でその風土で誕生した道を歩み続けています。本来の道(聖道)から外れるとき、その聖道は途絶えます。途絶えさせないようにその時代時代の忠義の人物たちが理念を守り続けるから私たちは先祖の遺徳に感謝していくことができます。その遺徳を顕現させるものたちこそが義士なのです。

この義士は、先ほどの赤穂義士でも使われますがその定義は「人間としての正しい道を堅く守り行う男子。」ということです。この人間としての正しい道とは、道徳に則った人物ということになります。この道徳は、天地の至誠とも呼び、天地にあって常に中庸を貫き真心を盡すということのように思います。

赤穂義士たちの師は、山鹿素行です。山鹿素行と言えば、古学を究めた人物ですがこのアジアの原点や根本を突き詰めて達した人物です。私の定義する「かんながら」はこの山鹿素行と同じく自然です。山鹿素行はこのことを「天地」と定義します。

「天地の至誠、天地の天地たるゆゑにして、生々無息造物者の無尽蔵、悠久にして無彊の道也。聖人これに法りて天下万世の皇極を立て、人民をして是れによらしむるゆゑん也」

この世のすべての生成者は天地であり、永遠の道もまたここにある。聖人とは、この道を守り続ける人物であるといいます。何が人間の自然であるか、根本を説いています。故に「天地これ師なり、事物これ師なり」と言います。本物の師とは、天地のことである、その天地に生きる私たちの師は出会いであるとも。だからこそこう続きます。

「天地ほど正しく全き師あらんや。ただ天地を師とせよ。天地何を好み何をか嫌う。ただ万物を入れてよく万物になずまず、山川、江河、大地、何ものも形をあらわしてしかも載せずということなし」

この天地とは、自然の真心のことで風土の顕現した道理のことです。古来人はそれを神と呼びました。現代の神は、どこか人間の価値観で勝手に作りこまれたものを言いますが本来の神とはまさにこの風土のことを言うのです。天地のことを風土と呼び、その道を実践することを「かんながら」と私は呼ぶのです。

風土を改善するという私の夢は、言い換えるのなら風土に沿うということです。日本人であれば日本人の道徳を、日本の経営であれば日本らしい経営を、まさにその風土を師として風土を体現することが私のコンサルティングの中心なのです。

なぜならそれは親祖の祈りであり、孔子や聖人たちが願い続けた理想の道だからです。人類の平和はまさにその「風土を師と仰ぎ中庸を保つ」ということなのです。不思議にも今回のブログは私の遺言のようなものかもしれません。

義士たちがいつかここにたどり着くことがあるのなら、ぜひ一緒に問いかけてほしいと願います。「義」とは何かと、「志」とは何かと、そして「道」を想い直し「徳」を思い出してください。人類の成長を見守るのが保育であるのなら、私が子どものために何をしようとしていたのかを伝道してほしいのです。

最後に山鹿素行は学校を創りました、その学校はカタチは消えても心の中に存在し今でも子どもたちを見守り続けます。その学校は何か、こういいます。

「学問は天子より庶人に至るまで、一にこれ皆身を修むるをもって本となす。これを為すに学校が必要であり、学校と云うは民人に道徳を教えて、その風俗を正すの所を定むる事也。学も校もともにおしうるの字心にて、則ち学校の名也。学校のもうけは、上代の聖主もっぱら是れをもって天下の治道第一とする也。学校は、単に学問を教え、ものを読み習わせる所ではなく、道徳を教える所であり、つまり、人間を作るのが学校の目的である」

将来、私は学校を創りますが世の中の人が一般的に思っている学校とはあまりにも異なるかもしれません。しかしいつの日か、自然と調和し、人類がそれぞれに正しい道を歩んでいくことができるようにかんながらの夢を念じながら前進し続けていきたいと思います。

楽観力

人はポジティブとネガティブという思考を行き来することで感情が揺さぶられていくものです。喜怒哀楽を中心に複雑に入り組んでいる感情は、その人の心の表情として周囲の人間関係に影響を与えます。

いくら見た目が明るそうに見えてもその根が暗い状態であったり、見た目が暗くても実際はとても明るい状態である人もいます。つまりは人間は決して見た目と中身が同じではなく、自己を複雑にしながら社会で生活をしているといえます。

たとえば、他の動物でいえばほとんど顔の表情と心は同一で見た目通りの表情をします。犬であれば喜怒哀楽ははっきりしていますし、鳥もまたそのまま感情をさらけ出します。しかし人間は、見た目は喜んでいるように見せて実際は悲しんでいたりと、心と感情を別にしていくのです。これを何度も繰り返して自分を偽り続けると心と感情のバランスが崩れて疲れてしまうのです。

自分のままでいること、自分らしくいられる居場所があることは、自分の安心だけではなく周囲の安心をも創造します。安心できる場所があることで、自己のパフォーマンスを最大限発揮でき、他者の持ち味を活かしあうことができます。それができない状況は不安な環境に自分でしてしまうことです。自分を偽る理由はそれぞれにありますが、比較競争からのプライドであったり、もしくは自分自身がそういう生き方を続けてきたから自分の本来の姿が分からなくなったり、自分の価値観によって裁いていたりと様々にあります。

しかし最初からそうなったのではなく、過去の何らかの環境や出来事によってトラウマになったり、それによって自分が攻撃されたと思い込みずっと守ろうとしているとも言えます。

自然体でいいというのは、自分自身がオープンである環境を創り出すことです。何を言っても大丈夫、仲間がいつも見守ってくれているという意識で環境の一部になることが、見守る環境を準備することであり自分自身が安心していない状態で見守るというのは難しいのです。疑心暗鬼になり、いつ裏切られるかと見張り緊張しっぱなしの環境の中にいたら頑固になり空気も澱んでいきます。そのうち澱みが溜まり過ぎると流すことができなくなっていきます。いつまでもしつこく根に持つのは、物事をしなやかに受け流すことができないほど楽しくなくなってしまっているかもしれません。

実際に客観的に事実を観たらポジティブさもネガティブさもその中にどちらにも善いところがあります。常に自分自身がその善いところをみて自分自身の心の穢れや淀みを笑いによって澄ませていくことや、そのものを楽しんでいく工夫をすることでより見守り安心できる環境が醸成します。

楽しくないことを楽しくするには、善い側面を観ることや意味を深めて学ぶチャンスにするという前向きな心の態度が必要のように思います。前向きとは、今に集中して前進するということです。逃げると人はその思い出が辛い思い出になり、攻めると人はその思い出が楽しくなるといいます。つまり人生を楽しんでいる人はいつも逃げなかった人なのかもしれません。後悔をしたからこそ次こそはと楽しんでいくことが人生の醍醐味かもしれません。生き物はすべて前進していくことが人生の命題ですから、どんなことがあっても逃げずに前に進んでいこうと精進していくことで楽観力もまた高まってくるように思います。

根っから好きになり楽しくなるように働きながら子どもたちのモデルに近づいていきたいと思います。

 

乗り越えるということ

成長のことを思う時、自分の人生においてどこがもっとも成長したかと振り返るときそれは困難に立ち向かい困難を乗り越えた時のように思います。その困難は失敗の連続であったり、高い壁で八方ふさがりになったり、怪我や病気で苦しんだり、心身共に挫折したり、自分自身と向き合い「乗り越える」ことが求められた時のように思います。

この「乗り越える」とは何かといことです。

少し深めてみると、この乗り越えるのは順風満帆の時に使う言葉ではありません。逆境や困難の時に用いられます。人間は誰にしろ因果応報の原理が働きますから、今起きていることは過去の何かに起因しているものです。つまり変化は突然やった来たことではなく、必ずいつの日か起こりうる出来事がその時に発生したということになります。

その時、自分にとってはそれがとても受け容れ難い変化であり、その変化に順応しようと努力するとき、人はその意味を理解し努力をして乗り越えていくことができます。

この時の努力は、物事を福に転じたり、楽観的に今に集中したり、感謝にまで心を高めていくことをいいます。つまりは「心の持ち方を変えることができた」ということが乗り越えたということになるのです。

有難うという言葉も、難が有ると書いています。自分にとって困難な状況の時こそ、感謝で乗り越える、ありがとうで乗り切るという智慧が言葉に宿っています。

感謝の反対は当たり前といって、何でも当たり前になっていくとき困難に潰されていきます。ないものねだりではなく、如何にある方をみるか。そして足るを知り、頂いているものに感謝できるかが人を大きく成長させていくのかもしれません。

困難は人間を進歩向上するための砥石なのです。

一度しかない人生で、自分自身を向上させていくことは人格を磨き夢を実現するための唯一の手段です。歩みながら感謝、謙虚、そして素直と心の持ち方をどんな時でもその状態が維持できるように日々に精進していくしかありません。

子どもたちが憧れるような進歩向上を歩んでいきたいと思います。

 

感謝の節目

昨日、恩師の古希祝いと「保育の起源」出版記念会が東京で開催されました。全国各地から250名を超える人たちが駆けつけてくださり大盛況のうちに終了しました。これだけ多くの方々から尊敬され、慕われる先生を観ていると有難い気持ちと共に改めて尊敬の念が込みあげてきました。

私は人生の半分を恩師と共に歩み、まだ人も少ないときから恩師の信じるものを信じて歩んできました。なかなか理解されなかったり、賛同者も少ない中でも恩師の信じる言葉と信じた理想を信じて切り拓いてきたように思います。

人は何を信じるか、そして信じたことをどれだけやり切るかで人生の未来が変わってきます。昨日、あの場に集まった人たちと恩師の話をみんなで真剣に聴き入る光景を眺めながら同時にこれまで歩んできた私自身の20年の振り返りも行うことができました。子ども主体の保育を実践する徳のある方々の思いや熱意にこの今も支えられていることを感じ、ここまでの道のりへの感謝を改めて実感したからです。

恩師から人類についての話がありました。

人は一人では生きてはいけない、必ず集団の中で育児をする。そのことで人類は生き延びてこれたという智慧の話です。保育の大切さを改めて語られました。私も持続可能な社会や人類の平和、永遠の繁栄を願うからこそ恩師の言葉を信じてここまでやってきました。

その恩師に昨日は「貝の首飾り」をお贈りしました。これは、古代の人類が貝を絆のお守りにしたことからです。かつて貝は財宝であり宝そのものでした。そして貝は中のいのちを守る存在でした。最初に赤ちゃんが生まれると、その部族や家族が「あなたを支え見守ります」という証に貝を持参して子どもに贈りました。その貝を結んで首飾りにしてその子を守りました。外敵もその首飾りの貝の量を観て、それだけ多くの人が見守っている人を簡単には襲うことはできませんでした。貝は仲間の信頼と見守りの証となって、様々な困難からその人の一生を「信じ見守り合う」ことで守ったのです。人類の自立は、貝を渡すその時に定まったのです。

貝の首飾りは人類が何百年も何千年も集団を形成し、厳しい自然の中で助け合い暮らし生きてきた智慧の証だったのです。

そしてその貝には、私の魂の同志である福田康孝さんに6000年前の貝を磨いて「GIVINGTREE」と彫り込んでもらい、左右に「縁」と「恩」の貝でつないでもらいました。これは「ご縁とご恩に結ばれる中に真の’見守る’は存在している」という意味です。そして首飾りを彩る多様な種類の貝をつないで「個性を尊重し合って絆を結んだ」という意味も籠めています。

透明に光る貝は、透明な心で磨かれ美しい光を放っていました。その貝に会場に来た皆様に「ネガイ」を籠めて触れていただき「私は仲間です、私はあなたを支え見守ります」という真心を入れていただきその貝を恩師に贈りました。

貝の一生は宿主がなくなって貝殻になっても新しい宿主を探し求め、その形なくなるまでいのちを守り続ける存在です。海の砂浜で出会う貝は、みんなそうやって宿主を探して漂います。神社の宿り木や依り代のように、守るそのものを遷して守るのです。皆さんの「ネガイ」が込められた貝が、これからも恩師を支え見守ってくれることを願い一緒にお贈りしました。

これから恩師も新しいステージに向けて、また新たな挑戦がはじまります。

これまでの支えや見守りがさらに恩師の信じる力に転換され、これから人類に向けて保育を伝道できるように祈り私も真心を込めていのちを懸けて尽力していきたいと思います。

ありがとうございました。

 

自学自習の学問~初心~

人は忙しすぎると心が迷子になるものです。一体、自分がどこを歩んでいるのか、何のために歩んでいるのかを思い出せなくなります。ゆっくりと丁寧に自分の足元を踏み締めながら遠い目的地に向かって日々に歩んでいくのなら心は迷子になりませんが、忙しくなりすぎて不安や焦りが出てくると急にスピードが上がってしまうこともあります。

これはスピードが上がったから忙しくなったのか、それとも忙しいからスピードが上がるのかわかりませんが心が迷子になってしまわないように工夫するしかありません。

目の前のことに追われていくと、目の前のことをこなすだけで精一杯になるのは誰もが同じです。その時々に心が何を感じたか、自分が何を思ったか、外側の変化と合わせて内面の変化もまた一緒に味わうことで心身は成長していきます。

心が迷子にならないためには、初心を忘れないようにしていく必要があります。この初心というものは、どんなに修練を積んだ人物であっても忘れてしまうのです。かつて世阿弥が初心忘れるべからずの中で、自らの若き時の芸の未熟さを忘れてはならないとも言っています。人は次第に無意識に傲慢になりますから、つい若いときの屈辱や恥ずかしい気持ち、そこから一念発起したときの決心を忘れないことをいいます。なんでも慣れてくると次第にマンネリ化してきて新鮮な気持ちが失われていきます。自分の中で組み立てられたやり方でやっているうちに様々なことが分かった気になってしまいます。

分かった気にならないためには謙虚さが必要で、そのためには初心を忘れない工夫が必要です。つまりは学問のように常に深め続けて自ら磨き続けて高め続ける実践がいるのです。

それを日々にコツコツとブラッシュアップしていくことが初心を忘れていないともいえます。この初の心というのは、赤ちゃんの心のとも読み変えられます。どんなことからも丸ごと吸収していく好奇心の塊、その心です。年々、歳を経てくると赤ちゃんの頃の新鮮な気持ちが失われてしまいます。新鮮な気持ちを失わないで生きていく人は、赤ちゃんのままの心で居続けるということです。

心が迷子になるというのは、無理に大人になってしまって赤ちゃんの自分の心を置き去りにしたということでしょう。日々に振り返り、自分の心と対話していくことは自分はどうしたいのかと自問自答していく自学自習の楽問です。

子どもたちのためにも、子ども心を守るため、真心を大切にしながら日々に感謝で歩んでいきたいと思います。

カグヤの挑戦

昨日は、聴福庵から群言堂の松場夫妻の講演に同行し国東半島まで一緒に同行する機会がありました。道中は楽しいばかりで、今までのことこれからのことなど希望に溢れたお話に元氣をたくさんいただきました。

改めてお話をお聴きすると敢えて誰もが手を出さないような巨大な難しい仕事に一匹狼のように挑んでいこうとする、まさに「逆行小船」のような純粋な生き方に感動しました。お二人の人生は周りから反対されることを敢えてやり続けてきた人生であったと講演ではお話がありましたが、常に自分たちの信念を貫く生き様であったように感じました。

時代の流れのなかで大量生産・大量消費、すべて同じ顔をした同じ物があふれていく世の中で、大量消費こそが価値のように消費しつくされていくなかで世の中の人たちが安易に捨てていくものに対して大きな疑問を持っていく。それは果たして捨てていいものかと。

例えば、手仕事の豊かさであったり、家族の愛おしい時間であったり、金銭を超えた信頼関係であったり、もしくは懐かしい思い出との慈しむつながりであったりと、色々と消費が加速するスピード社会の中で本当に大切なものを拾い続けていこうと覚悟されたこと。そして事業にされたこと、やっていることをお聴きすると私の会社以上に多岐に及び、伝統や地域だけではなく、教育やモノづくり、啓蒙活動に文化育成、書ききれないほどに様々なことに取り組んでおられました。

「時代と逆行していくかもしれないが、理念を守り1パーセントの壁を守り続ける」とその歩んできた人生に器の大きい美しい生き様を感じます。人間の器の大きさとは何か、これは矛盾を受け容れながらも信念を貫いていくその度量の品格を言うのではないかとも思います。

日々に暮らしの中で何百年前から今も残るむかしの道具たちと触れていたら、傷だらけになりながらもあちこちが修繕されながらも何百年何千年と子孫たちを見守り続けて生き続ける姿を観ます。まるで数千年の巨木、また数百年のお社のような存在の大きさです。信念は人を大きくし強くする、私もまたかくありたいと思いました。

最後に、講演の中で「本来の”消費”とは未来への”投票”であらねばならない」と仰いました。

「うちの会社は説明しても一体何の会社なのかと理解してもらえないし、なかなか分かってもらえない。それは「生き方」を販売しているからです。時代は必ずモノ売りからコト、そして必ずココロへと成長していく。だからこそ人々がこの会社の生き方を買おうとしてもらう、その投票してもらうことをやっている事業をしているのです。みなさんが選挙で応援し投票したのは、会社=生き方だからこそ、この会社から消費するとしていきたいのです。」

子どもたちが安心してこの先も暮らしを豊かに紡いでいけるようにするには、人類の意識を変化させていくしかありません。それは生き方を変えていくしかないということです。生き方を変える事業こそ、人生を懸けた私の、そしてカグヤの挑戦なのです。

過度な消費文明の中で消耗しきってただ滅亡を待つ日々を闇雲に過ごすのではなく、子どもたちのことを思えば思うほどに敢えて逆行してでもそれを解決しようと挑んでいくことに命を懸ける価値があるように思えます。短い小さな人生でそんなにできることはありませんから引き算しながら取捨選択するしかありません。

私も子ども第一義の理念に恥じないように、生き方=働き方を本気で遊んで極めていきたいと思います。

富苦労の恩返し

昨日、私の人生の価値観に大きな影響を与えてくださった大恩人の夫婦に聴福庵に来ていただくことができました。約2年半前にご縁をいただいてからここまでこの方々の言葉を信じて、そして生き方を尊敬し自分も学び直そうとここまで取り組んでくることができました。

人は、できるかできないか、成功するか失敗するか、いろいろな選択肢があるなかで「信じるか信じないか」という物差しがあります。私はこの「信じる」ということだけを大切にここまで生きてきました。

思い返せば、今、人生でご一緒している大恩人や道の達人たち同志仲間を信じたから夢を体験することができています。もしも疑ったり信じなかったりしたらどうなったでしょうか。当然、今の自分はありませんし周りもご縁もありません。御縁を活かすというのは、「信じる」ことです。そしてそれは信仰心にも似た純粋なものであり、真心の生き方のことでもあります。

出会いが素晴らしいのは、信じあう世界を築いていくことができるからです。一期一会に出会ったご縁によって、その人を信じることによって新たな世界が拓けていく。その人生のご縁を大切にする人はみんな信じ切ってきた人たちかもしれません。

その信じる気持ちが疑いになったとき、信じることができなくなったとき、そこで諦めてしまえば真実は隠れてしまいます。真実に生きるというのは、「信じるに生きる」ということなのでしょう。

その当時はまったく何もわからなくても、振り返ればその「信」の御蔭様で私の周囲の人たちも心豊かに暮らしを学びはじめ、そして子どもたちにも伝承できる永遠の智慧をたくさんいただいています。

信じるというのは、自分を信じるということです。それは言い換えるのなら、その人の信じるものを自分も信じる、そして信じる自分を丸ごと信じたということです。自分を信じ切るということこそが信念の本質なのでしょう。

直観や信念は、常に出会いを大切にする中にこそあります。

大恩人たちへの信じた証をお伝えできる今があるのは、苦しいときにも諦めずに自分が信じてこれたことの富苦労の恩返しです。一緒に道を拓いてきた恩師の古希祝いも明々後日にあり、信じてきた自分を心から誇らしく思います。

人生の出会いとその感謝を片時も忘れずに、一期一会のご縁を結ぶ仕合せに生きていこうと思います。

本当の仕合せとは何か

人生には自分の人生の節目節目にご縁を導いてくださっている恩人がいます。その恩人とは、心の恩人であり自分の心が歩んでいく方へ時としては支え、また時としては与え、ある時は叱咤激励し、そして見守ります。

節目というのは恩人を感じやすいことであり、恩人が節目を彩ります。自分がどのように生きているか、そして自分が何を実現したか、自分が何処に向かって挑戦しているかを観ていただくこともまた一つの恩返しのように思います。

このご縁によって結ばれたことが恩そのものであり、むかしの人たちはその恩を忘れませんでした。恩を忘れないというのは、ご縁を忘れないということです。

今の自分が今、こうあるのは何の御蔭様かを考え深めたときそれはご縁によってそうなったと誰もが自明します。そしてそのご縁をさらに感謝しているとそれは偉大な恩がそこにあるのが分かります。

一期一会で生きる人たちは、そのご恩を忘れません。そしてそのご縁を大切にします。ご縁を大切にするというのは、その結び合いによって何が誕生したかということの顕れでもあります。

例えば、男女が結ばれて子どもができます。これは男女のご縁が結ばれて恩が生まれたのです。その恩は、子どもから観ると両親こそが恩人でありその恩を返したいと思うのです。親孝行も恩を忘れないから行うことです。そして返せないほどのその偉大な恩をどうするか、今度はまた自分が同様にご縁を結び恩をつないでいくのです。

つまりは、縁=恩であり恩返しとは縁恩返しなのです。

この「返し」というのは、表裏一体のことで自分が表でいただいた御恩は、今度は入れ替わって相手の御恩となるということです。先ほどの親子でいえば、親が恩を与え、子どもが成長して恩を与える。お互いにご恩を行き来しながら表裏一体のご縁を味わっていく。

このご縁とご恩は、結び合いの中にある「仕合せ」のことを言っているのでしょう。まさに縁恩和合し結ばれたことが至高至大の幸福だということなのでしょう。

仕合せは、こうやってご縁やご恩に生きている今のことをいいます。

物があふれ、我を強くし、一時的な幸せが幸せに苦しんでいる人たちが増えています。それはご縁やご恩を大切にするという、古来からの日本的な懐かしい生き方が失われてきているからです。

子どもたちがご縁やご恩に恵まれ安心して豊かに生きていけるように、私自身、恩人の方々との節目を味わいながらその偉大な一期一会を大切にしていきたいと思います。

情熱の人

私の同志であり古くからの友人の一人に情熱家がいます。滅多には会わないのですが、お互いの存在によっていつも見守りあっています。存在が助けるというのは、お互い同じ思いをもって信念を貫いて生きていこうと誓っている仲間でありどんな困難があっても前進していこうと挑戦しているからです。

苦しい時こそ師友を想うように、師友に恥じないように生き方をしたいと心が動くのです。心というものは、ゆっくりとじっくりと成長していきます。時折、心が砕けそうになることもありますが心は自然に時を経ては治癒されまた新たな心をはぐくんでいくのです。

情熱家というのは、すべてに対して全力投球をします。思いが強く、まずは思いから入ります。言い換えれば信念とも言いますが、強い思いで事に当たります。他人が気分で話したことであっても真心で真剣に受け止めます。相手に対してではなく、自分自身に対して誠実であろうと命を懸けます。他人とぶつかることを恐れず、みんなのためにと思うからこそ本当のことを言いきります。状況に悲嘆するのではなく、自らが変わり状況を変えていけばいいと心から思っているのです。

この情熱の人は、別の言い方では「革新者」(イノベーター)であるとも言えます。有名な人物にアップルの創業者のスティーブ・ジョブズ氏、ソフトバンクの孫正義氏などがあります。これらは、新しい常識を創り出す人たちのことで、既成や既存の刷り込みをぶち壊していく人々です。

孫正義氏は革新する者は「情熱の人」であって「感情の人」ではないとも言い切ります。つまり「他人の評価や自分に向けられた感情によって影響を受けない」といいます。世の中や世間、周囲の人達からいわゆる「善人」と言われたい人であれば既成の秩序を壊すことなども不可能です。だからこそ他人の目を気にするなと言います。

そうはいっても、情熱家であっても人は人ですから誰にしろ感情があります。周りの非難や否定、誹りや嫉妬、近親者やわかってもらいたい人に弱っている時に全否定されたり辛い態度を取られたら誰でも深く傷つくのです。

しかしここからが情熱家の違うのは、それを「力」に換えることです。そして情熱家はその失敗を糧にさらなる躍進を遂げるのです。誰の目にもみても不幸で不運と思われる出来事に遭遇したとしても、そこから不死鳥のように蘇ってくる。これこそ情熱家の真骨頂です。

また情熱家は、消えかけた炭の小さな火であったとしてもそこからまた火を熾していきます。どんなことがあっても消えかけても消えることはない、心の炎を燃やしていくのです。そのいのちの燃やし方こそがその人の生き方であり、感情の情すらもすべてを丸ごと熱量に転換する生き様をやってのけるのです。

私自身、未来の世代のためにと今の世直しや世の中に挑んでいる以上、既成の価値観や常識に認められようとは思ってはいません。しかし自己確立がまだまだできず、些細なことに躓き地を這いぼろぼろになり汚れながらも澄ませていこうと葛藤の日々を過ごしています。

子どもたちのためにと信念で生きるからこそ、勇気を出して自分らしく自分の人生の作品を自分の納得するように仕立て上げていきたいと思います。心の炎を燃やしていきます。

道の友

生きていく中で、尊敬する友人と出会い、その友人たちの生きざまを拝見していると、敢えて自ら苦労を選択して大変な思いをしていることが多いように思います。その苦労している最中は、傍で見守っていても辛く厳しく、時折もうその辺でいいのではないかと深く心配することもあります。

しかし、自ら苦労を選択して前に進んでいく姿にそこには単に苦しみを受け容れるだけではなく喜びの先送りをして後に必ず訪れる偉大な仕合せを心から信じて時を待っているかのような気配もあります。

人間は、最終的には一人で生まれて一人で死ぬようにすべてのことと一人で正対していくしかありません。いくら代わってあげたいと願っていても代わってあげることもできず、その人のために祈ることしかできません。

しかし信じて見守っていけば、必ずその人の苦労が報われていつの日か楽しい笑顔と豊かだったその当時の苦労のことを思い出し、祝福の思い出に変わっていきます。そこまでの道のりを単につらい苦しいだけのものとするか、それともそれもまた人生だと受け容れて自分を変える力にするかは、その人の心が決めているとも言えます。

その心を励まし元氣づけ、支えて応援してくれる仲間や友人は道の友であり、同志であるとも言えます。絶望するからこそ、挑戦しようとする希望が湧いてくる。そういう生き方をする友達に恥じることがないように、信念を磨き、勇気を高め、努力と運と丹精を籠めて子ども第一義の道を邁進していきたいと思います。