切磋琢磨できる幸せ

物質的なものが増えて便利さやスピードの価値ばかりがフォーカスされると人間は「ラク」になることを求め始めるものです。このラクは確かに効率を高め、効果があり、簡単便利になることで結果を満たすものです。しかしプロセスを味わったり、それまでの経緯に感謝したりといった心に必要な時間が奪われ、脳で考えたこと通りになることが良いことであり、次第に心は無関心になってくると心のエネルギーが枯渇していくように思います。

人間本来の仕合せを改めて見つめ直すとき、それは心の通じ合いであったり、個性のままに自分らしくそれぞれがお互いに活かしあい磨き合える関係であったり、そのすべてが今の一つ一つのプロセスの中にあることに気づきます。

私は聴福庵の甦生を通して、一人一人の伝統職人さんたちが時間をかけてじっくりと家を修繕していくのを観てきました。現在の世の中の風潮としては、短期間であっという間に新しく変えることを修理といったりもしますが、本来の修理は壊れているところを一つ一つ丁寧に磨き直すことであったはずです。伝統職人さんは不便であることに文句を言わず、むかしの道具でむかしのやり方で、そして現在の文明の価値観と折り合いをつけながら信念をもって本物の仕事に取り組んでくださいました。

この一つのことに長い時間をかけるというのは、それだけ自分が着実に年輪のように成長することであり、不便であるというのはそれだけ試行錯誤をし創意工夫を高めることであり、様々な精神的な困難や心身の苦労は試練であり、その試練を通して人間は人格を磨き上げていくことができるのです。

ストレスというものは、確かに物質的なものからみれば早く取り払いたい不便で仕方がないものかもしれませんが人間の成長から見ればまさにピンチはチャンスであり、自分をより感謝や謙虚さ、そしていままでの自分をブラッシュアップする貴重な体験になっているのです。

人間の人生は生きている以上、一つだって無駄で無意味というものはありません。生きている以上、どんなことも学びであり成長であり意味があります。だからこそどんな時も前を向いて一歩一歩、怠らずに努力していくしかありません。怠惰な自分、ラクを求める自分、傲慢な自分と向き合って初心を忘れずに何のために生きるのか、何のために苦労するのか、何のために自分の人生を使うのかを時間を大切に実践していくしかありません。これは私の自戒でもあります。

そうして人間は一つ一つの出来事に真摯に向き合い、そこから逃げずに前進するとき与えられた機会がとても大切なメッセージを伴っていることに気づくのです。逃げるときこそ自分がラクになりたいと自分が自分を諦めるときでそういう時こそ自分を丸ごと信じて根気強く根性を磨いていくときだと修行を積むしかありません。

人は一人ではなく、必ず隣に応援してくださっている人たちや、支え見守ってくださっている人たちがいます。感謝の心さえ失わなければ、謙虚ささえなくさなければ、そういう恩や徳といった有難いご縁と一期一会に歩んでいくこともできるでしょう。

切磋琢磨できる幸せを感じながら、子どもたちのために信念を貫いて歩んでいきたいと思います。

物々交換

先日の天神祭では、来庵していただいた方々や応援してくださる方々からたくさんのお土産をいただきました。当日は、野花をはじめお野菜や炊き込みご飯、ご当地の有名な食品や梅が枝餅などもいただき直来もまた豊かになりました。

むかしはそれぞれがお互いに欲しいものを交換していた時代もあったのですが、今ではお金が中心になっている金融社会ですからあまり物々交換をすることも少なくなってきているように思います。

以前、奈良の長谷寺に行ったときに「わらしべ長者」の話をお聴きすることがありました。それは1本のわらから物々交換を重ね、ついに長者になれたのは長谷寺の十一面観音さまのお告げに従ったからだったという話でした。具体的にはこう紹介されていました。

「今は昔、貧乏で身寄りのない青侍(あおさぶらひ 奉公人のこと)が長谷寺の十一面観音さまに「ご利益がいただけるなら夢で示して欲しい」と願をかけ、21日目の次の日の明け方、夢に僧が現れ「かわいそうだから授けものを与えてやろう、お前が寺を出て手に触れた物があったら捨てずに、たとえどんな物でも観音様から賜った物だと思うが良い」とお告げがあった。青侍がお寺の大門を出ようとしたとき、けつまずき、わらしべを手にする。それから不思議なことに、わらしべを身分のある女とミカン3個に交換し、出会う人ごとに、ミカン3個を布三反と、布三反を名馬1頭と、名馬1頭を田一町と米少しに次々と交換し、その後、田一町を近辺の人に小作させ家など建てて、ついに資産家になったのは長谷寺の観音さまの御利益である。」(今昔物語巻16の28より)

手に触れたものはすべて観音様からの授けもの、それを捨てずに大切にすれば必ずご御利益があるという話です。

不思議なことですが今回、天神祭にいただいたものもすべて天神様からいただいたものではないかと思うほどにみんなを潤し、時間が経過するとそれが多くの人たちの仕合せにつながっていきました。

「もったいない」というものを大切にする感謝の心は、それを受ける側の心次第です。

むかしのような物々交換は、いただいたものの意味やそのご縁や繋がりをより一層感じさせ感謝しやすいものです。目に見えない恩徳や、循環していく因果応報などむかしの人たちはもったいない心を意識してお互いに物々交換していたのではないかとも思います。

時代が変わっても、本来の智慧は普遍的に今の世の中にも遺っているものです。暮らしを復古起新しつつ大切な真心を子どもたちに伝承していきたいと思います。

第2回天神祭

昨日は、無事に第2回天神祭を開催することができました。遠方からたくさんの方々が駆けつけてくださり、またたくさんのお土産や摘んできてくださった花々、炊き込みご飯の差し入れ等々、まるで実家で親戚たちが集まるような懐かしいぬくもりがありました。

また家宝の菅原道真公直筆の書やご遺影の掛け軸なども今回の天神祭のために遠方から提供してくださった方もあり、1100年前のその遺徳を身近に感じながら天神様のお人柄を味わうことができました。

皆様の御蔭様を持ちまして充実したお時間を過ごせたことに心から感謝しています。

また今回は、逆手塾の和田芳治氏に講演をしていただき一緒にたくさんの唄を謳いました。常識を壊してマイナスすらも豊かに活用する生き方から、ないものねだりをしないことの大切さを学び直しました。同時に、楽しいことこそが主体性であり、楽しいだけで学問は達していくことの価値を再確認しました。

そして「唄うように生きろ」というメッセージから、自分らしく自分のままであることの大切さ、その安心感やオリジナルであることの応援をいただいたように思います。

自分らしく生きている人をみると、大きな元氣をいただけます。常識に従順になり十羽ひとからげのように生きるのではなく、自分の信じたことをやり抜く生き方こそが周りの人たちのお役に立つのだという信念には感動するものがあります。

一つ一つの唄に籠められた詩の意味や、その声色から聴こえてくる思いや願い、祈りは一緒にその場で味わった人たちにしかわからないものがあります。それだけに、時間が経ってもいつまでも余韻が心に遺り応援唄として響き続けます。

和田さんは、最後に「和田が正しいのではない、行動することが何よりも大切」と仰られ、どんな形にせよ触れたからには行動してほしいと語り掛けられました。早速、様々なことを取りいれて自分たちらしく行動で御恩返しをしていきたいと思います。

天神祭は、不思議なご縁ばかりを引き寄せてくれます。

現代の世の中は、神様や天神様や仏様などというと宗教だと嫌悪されることもありますが本来の日本的な生き方、日本人の智慧を学び直して子どもたちに伝承していきたいと思います。

報恩=感謝

人間はうまくいっていることが続くと知らず知らずに自分を過大評価してしまうものです。本来は、自分は周囲に支えられていると自覚し何かの御蔭さまにによって活かされていると感謝しているのですが自分の思い通りにいくことで人間はすぐに傲慢になってしまいます。

そういう時は、謙虚さが足りないというように教えられ自分を磨いていくことができます。人間が傷つくということは、研いでもらっているのであり何度も擦れていくなかで原石は光ってくるのです。

いくら謙虚にと頭でわかっていても実際に謙虚になったわけではなく実際には出来事が発生して自分がまだまだであったことに気づき改善していくしかないように思います。

そう考えてみると、自分の言動には反省するところがたくさんあります。いくら相手から頼まれたと思っていても、最初は真心だったものが次第に自分が価値が高い存在だからと勘違いしたり、真実を見極めようとしていたはずが次第に正論をかざし自分が正しいと思い込んでいたり、自分の我に浸食されていきます。そうやって慢心すると本質が見えなくなってしまい仮初の自信ばかりを増やしていくのです。

本当の自信は謙虚さであり、常に心は澄んでおり全体が観通せそして感謝を忘れない状態です。相手を変えようとするのではなく、自分を変えようとし、自他を傷つけないようにと思いやりや優しさを忘れることはありません。

自分というものが何様かになってしまい、相手や周囲に対して傲慢な態度になってしまうと必ず人間関係に綻びが出てくるのです。今まで支えてくださった御恩を感じる心を忘れないことが報恩感謝であり、そういうものを忘れて自分にとっての良しあしだけで行動するようではみんなが仕合せに一緒一体になることはありません。

今日は天神祭ですが、天神祭が実施できるのは今まで御祭りしてくださった方々の御蔭様、古民家を残してくださった方々への御蔭様、菅原道真公、そしてあらゆる氏神様の御蔭様、加勢し力を貸してくださり、どんな状況でも支えてくださっているみなさんの御蔭で開催することができます。

まだ2回目ですが、すでに私にとって何が大切かを皆さんが諭してくださったように思います。真摯に学び直し、自分を変えて子どもたちのために少しでも貢献できるように精進していきたいと思います。

学問の本懐

明日から第2回目の天神祭を聴福庵で開催します。その天神祭の案内をこのように書いています。

「日本人なら学問の神様として祀られている菅原道真公を知らない人はほとんどいません。その道真公は、クニの行く末を案じて子どもたちの学問を今でも天満宮から見守っておられます。徳や善、和合などのむかしからの日本の学問も今では誰も伝承しなくなってきました。私たち今の時代を生きる大人たちが萬古清風の学問を実践していくことで菅原道真公への報徳報恩の縁結びにしていきたいと願い開催する御祭です。ここでご縁のあった方々と共に天に問い、天から学び、天命を知り、豊かな場を醸成できることを祈念しています。」

最近では学問と勉強の違いがはっきりせず、学問を単に受験勉強だと思っていることもあるそうです。しかし本来の学問は、君子を志すものでありそれは生き方を示すものです。

吉田松陰は学問についてこういいます。

「学問とは、人間はいかに生きていくべきかを学ぶものだ。 」

如何に生きるかを問う、それが学であるとも言えます。またこうも言います。

「学問をする眼目は、自己を磨き自己を確立することにある。」

自己を確立することこそ学問の本懐であるということでしょう。その学問にとってもっとも禁忌があるといいます。それは、

「学問の上で大いに忌むべきは、したり止めたりである。したり止めたりであれば、ついに成就することはない。」

それは自分との約束を果たさない、心で決めたことを裏切ることを言うのでしょう。学問というものは、自己確立であるからこそ自分を掘り下げ、自分に刻むように自己錬磨や鍛錬を続けていかなければならないということなのでしょう。だからこそ私も周りから何を言われても初志を貫徹し続けているのです。

またこうも言います。「小人が恥じるのは自分の外面である、君子が恥じるのは自分の内面である。人間たる者、自分への約束をやぶる者がもっともくだらぬ。死生は度外に置くべし。世人がどう是非を論じようと、迷う必要は無い。武士の心懐は、いかに逆境に遭おうとも、爽快でなければならぬ。心懐爽快ならば人間やつれることはない。」

そして

「道を志した者が不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。」

学問とは孤高で行い、超然とした気高いものなのかもしれません。菅原道真公もまた、その境地を持って学問に正対されたことが歴史から鑑みることができます。孔子と同様に単なる世間一般的な学者ではなく、君子であったのです。時に君子は時代によっては狂人と罵られることもあります。それだけ王道がその時代の常識とは異なる時代もあるのです。本流は変わらずとも、人間の流行や欲望や世論や価値観は好き勝手にその時々で変わってしまうからです。

最後に、自ら狂愚と名乗った吉田松陰から叱咤激励を籠めた私たちは子孫たちへの愛のメッセージです。

「思想を維持する精神は、狂気でなければならない。諸君、狂いたまえ!」

真実を維持し、本流を保つには変人と呼ばれることを恐れてはいけません。自分の信念に従って学問を高め、本懐を遂げるために天に恥じない、自分に恥じない生をを全うする。

古色の味わい

「飴色」(あめいろ)という色があります。この色は、水飴 みずあめに由来する深みのある強い橙色のことをいいます。現在の水飴は無色透明なものが一般的ですが、古くからの水飴は麦を原料とした麦芽水飴で、透明感のある『琥珀色』をしていたといいます。

この水飴は米や芋などのデンプンに麦芽の酵素を加えて作ったものです。以前、会社で麦芽から作ったときに何とも言えない甘さや香りがあったのを思い出します。古くには日本書紀にもその名が見られます。現在でも和菓子などでは甘味料のひとつとして使われています。

現代のように砂糖が主流になっていますが、砂糖がない時代の甘みはこの麦芽の甘みやお米の甘みが甘いということだったのでしょう。優しい甘みは身体にも善く、懐かしい感じを覚えます。

話を戻せばこの飴色というのは琥珀色のことで、この色はよく手入れをされ経年変化したものが深い味のある色になっていきます。古民家の道具には、この飴色のものが多く、家全体からこの飴色や琥珀色の輝きや光が反射してきます。

机であったり、竹籠であったり、網代であったり、板目や建具一つ一つからその深い味わいが醸し出されてきます。

私はこの色のことを古代の色、古色の味わい、古色の美と呼びます。

何百年も時を刻み、そしてその中で数々の主人たちを見守り、愛され、そして手入れされ今も活かされていく。この存在の中に古代の魂のようなものがあると感じるのです。言い換えるのなら、古いまま活かされているものにはこの古色の味わい、古色の美しさがあるのです。

この古い色の色とは、色の中に時が映っているわけでその色には時代に凝縮されたいのちの記憶が籠っています。この空間の中にある時の記憶は、永遠に空間に宿るものでそれは佇まいの中に感じることができます。

私たちは目には見えませんし、聞こえることもありませんが、その色から直観的に五感で存在そのもののを丸ごと感じることができるのです。古代は、言葉がなかった時代、その時代は色によって私たちはそのものの声を聴き取ることができていたのかもしれません。

色の持つ不思議な力を感じながら、五感が研ぎ澄まされていくのもまたこの古色の味わいならではでしょう。

引き続き、言葉にはできないものを温故知新しながらも古いものの中にある新しい価値を創造して子どもたちに伝承していきたいと思います。

祭りの起源

今月末に天神祭を聴福庵で開催しますが、本来、お祭りの起源を辿るとお米づくりであることが分かってきます。共食という言葉も、本来は祭儀によって発生してきたものです。

新嘗祭は毎年の祭儀ですが、天皇陛下が即位するときのものを大嘗祭といいます。これは皇太子が天皇即位式にイネの初穂を神に供えることにより、その霊力で天皇の霊魂の再生と復活を祈願する国家的な儀式です。甦生をお米が促すのです。このお米の祭儀について、世界大百科事典の中にはこう書かれています。

「宮廷において天皇の行う最重要の祭政は,高天原から中津国にもたらされた稲の種子を奉じて,それをあやまりなく栽培することであり,祈年祭は米の豊作の祈願であり,新嘗祭は収穫のよろこびの奉告であった。また天皇の代替りに行われる大嘗祭は,米の霊的力によって皇太子が天皇としての霊魂を聖体に鎮ませる儀式であった。 米が天皇をはじめとする人々の霊魂を再生復活させる力をもつ食べ物であるという信仰は,民俗としてはさまざまな形で伝えられている」

かつてお米には霊的な力をもつと信じられてきました。節分の豆まきのようにお米をまいて悪霊をはらう儀式もあります。お米を神仏に供えることでその霊力をいただいたのです。

正月に食べる御餅も、米をついて作る餅が神や精霊の宿る神聖な食べものと考えられてきました。他にも節句、誕生、結婚式といった特別のハレの日には御餅を食べるのもそのお米の力、田の力に肖るためです。お年玉の意味も、正月に祝う年神(としがみ)も元々は年神が配るお持ちのことを指しています。

お米は日本の伝統行事と御祭の起源なのです。

一昨年より、天神祭の甦生に取り組みお祭りを深めて、古民家甦生に取り組み行事を深めていたら竟にはその起源であるお米につながりました。お米は私たち日本人の主食です。主食とは、食の主と書きます。

本来の日本人の生き方の中に、お米が中心であることを思い返す必要があります。子どもたちの未来のためにも、古代から受け継がれてきたその意味や価値を伝承していきたいと思います。

和合経営

昨年、あるコンサルタントの方からティール組織みたいですねと言われたことがありました。私たちは、自分たちは伝統的な徳を基盤にした日本的な和合経営を目指し実践していると思っているのであまりその時は関心もなく深めませんでしたがどのような組織のことをいうのか少し深めてみようと思います。

このティール組織のティール(進化型組織)という言葉の提唱者は、エグゼクティブ・アドバイザーやコーチ、ファシリテーターとして世界各国で活動を行っているフレデリック・ラルー(Frederic Laloux)氏という方です。

具体的には、今までの既存の一般的な組織とは大きく異なる組織構造や慣例や文化を持つ新たな組織モデルをもった組織のことを指すそうです。例えば、階層的な上下関係や細かなルール、定期的なミーティング、売上目標や予算の設定等々、その多くの組織で当たり前にある組織構造や慣例、文化の多くを撤廃し、意思決定に関する権限や責任のほぼ全てを経営者や管理者から個々の従業員に譲渡することによって、組織や人材に革新的変化を起こすことができる《次世代型組織モデル》とされているようです。

以前、ザッポスという会社が「ホラクラシー」という考え方を提唱したときに似たようなことが書いてあったように思います。これも階級や上司・部下の関係が一切存在しない組織の管理体制のことを指しています。

「ホラクラシー」の特徴は柔軟な組織体制、長所を活かした役割分担、効率的な組織運営、主体性の強化のことをいいます。そして先ほどの「ティール」組織は、上司ー部下の関係なし、管理職ナシの組織運営。セルフマネジメントされたチーム群からなる組織、また一人一人が自我や自己の深い部分をオープンにする、そして組織の生命力に人々が力と知恵を合わ組織が変化したら、目的も進化させるとされています。

共通しているのは、人間を尊重して衆智を集める仕組みになっているということです。日本ではこれを和合と呼びます。

私は本来、日本人はこの和合によってさまざまな歴史的困難をみんなで協力して助け合って乗り越えてきました。遡れば、聖徳太子の時代にすでにこの組織は実現していたのであり、その時代の組織の人たちの和合組織の形跡は法隆寺などの大工の仕事の中に遺っているのを宮大工西岡常一棟梁がそのことを語っておられました。その頃の大工や職人は祈るように取り組み、一人ひとりが全員棟梁として大家族として睦ましく仕合せに働いていたというのです。

聖徳太子は、国家の理念を「和をもって貴しとなす」と定め和合しあって仲よく豊かに生きていくことを方針として示しました。その理念に沿って建てられた建造物は今でも日本の伝統と精神を支えているのです。

西洋から来た新しいものをすぐに最先端だと流行に飛びつく前に本来の自分たちの先人たちや先祖が築いてきた歴史を鑑み、自分たち日本人ならどのようにそれを吸収していくかとよくよく吟味していく必要性を感じます。それが菅原道真公からの和魂漢才、和魂洋才であり、私たちの言い方では和魂円満となり正統を維持していくことになるのです。

ただ世界では成熟した組織が、同様に古来目指した組織に近づいてきているというのは有難い流れです。私たちも、大和の人たちが実現したころの平和を今の時代でも実現できると思えると挑戦してみたい思いです。

引き続き、子どもたちに譲り残したい経営や生き方を社業を通して実践して伝承していきたいと思います。

 

正面突破とは

いろいろな問題が増えてくると、その問題を避けたいと無意識に心が感じるものです。すると、どこかいい方法がないかと方法論ばかりを探して少し試したらこれではないと避けているうちに八方ふさがりになってくるものです。

これは自分が現実逃避をしている証拠であり、目の前の困難を乗り越えるために自分にとって不都合なことが多いために何かもっともよい方法がないかと探しているということでもあります。

しかし実際に物事を直視すると、現実には正面突破しかないこともあります。つまりは活路というものは、逃げないと覚悟を決めてなければ活かす道も出てこないということです。

この正面突破というものは、時間がかかっても本気で取り組むという覚悟に似ています。自分が苦手だと思っていたり、自分に向いていないと思っていたり、自分ではできないと決めつけていたり、過去の様々な失敗や苦手意識からどうしても脇道や裏道ばかりを通ろうとしてしまうものです。しかしその道しかないと現実を直視するとき、人は活路が拓けるように思います。

言い換えるのなら、「改善」できるということです。

改善を続けていくことは本当に根気がいることですし忍耐がいるものです。しかし同時に、改善を続けていくことは成長を続けていくであり、学び続けていくことです。改善がないというのは学びがないといっても過言ではありません。

だからこそ学び続けていくことで変化し、変化し続けることで今を刷新して自分の視座をさらに高めていくことができます。人は時として、背中を押されることでしか動けないことがあります。その一つは、応援であったり、その一つは、危機感であったり、その一つは、誰かのためにという思いであったり、それぞれです。

しかしそのどれかがあるのなら、人は成長を已まず変化を創造し続けるリーダーになっていきます。リーダーの潔さにはこの覚悟が備わっているのです。

孟子に「天のまさに大任をこの人に降くださんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を餓えしめ、その身を空乏くうぼうにし、行いにはその為すところを仏乱す」(『孟子』)とあります。

非常に困難な時、精神的に苦しいときこそ、死中に活を見出すチャンスであり、その時こそ「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということでしょう。自分自身に執着せずに、正面突破する覚悟をもって改善に向き合っていきたいと思います。

天命と不惑

自分には一体どのような天命があるのか、天に問い続けて今を全身全霊で生きることで人は命を通して天を知ります。

命を盡すということは、今のような時代は並大抵ではなくあらゆる刷り込みや比較競争や差別の中で自己を確立していかなければなりません。そのためには周りの雑音や自分の中にある雑念と正対する必要が出てきます。

論語では四十にして惑わずとありますが、天命に惑わなくなったというほどに真心の日々を孔子は天に問いながら道を歩んでいたのかもしれません。

真心を盡すためには、自分という我欲よりも天は自分にどうしてほしいと思っているか、そしてこれが会社であれば会社はどうしてほしいと思っているか、そして家ならば家がどうしてほしいと思っているかと、無私の境地で自分自身の天与の才を存分に発揮していく必要があります。

自分にしか与えられていない本物の才は、無私の時、忘己利他のときにこそ発心され発揮されていきます。自分はこうではないと不満ばかり並べたり、自分のことばかりを苦しみ思い煩ったり、思い通りにいかないことに不平を並べていては天命とは遠ざかる生き方をするのです。

全体快適とは、自分を含めてみんなが楽しく豊かになるために自分を活かしていくという道です。自分も楽しみ、みんなも楽しむ、そのためには、みんなで平和のために、世の中のために、そして子孫のためにと協力して和合していく必要があります。

天と命とは常に一体であり、その一体感を感じるとき、つまり至誠真心が天に通じているときにこそ人は天命に惑わなくなるのかもしれません。

自分の人生を生き切ることは、その評価を天にお任せするということです。いつまでも自分は自分はと自分に悩んでいては不惑とは程遠い心境です。

子ども第一義の理念を掲げている以上、余計なことを惑わずに真摯に今に至誠を盡して精進していきたいと思います。