太陽の徳

先日、盆栽の手入れのことで盆栽師と話をしていたら夕陽は強いので日陰の方がいいという話が出ました。この夕陽の強さとは、朝陽に比べて夕陽の方が日焼けするという意味です。よく考えてみると、外での作業も夕陽の方が肌の日焼けもきつく、体力の消耗もありますが朝陽の方はあまりそうは感じません。

調べてみると太陽の光自体は同じでも地球の大気は朝より夕方の方が気温が高く、水蒸気量や浮遊物質も多い。だから、朝日は眩しく、夕日は赤みが強くて輝きが弱いことが多いという説が一般的だそうです。

よく西日がきついという言い方もしますが、実際は西日はそんなに強いわけではありません。しかし太陽熱の集積により、夕陽の時間帯が特に熱を特に感じてしまうということです。

熱は私たちは単に熱い冷たいという比較の熱のことを指しますが、本来は熱には「蓄熱」といった熱量があると私は思います。熱が集積し蓄熱して熱が溜まっていくのです。植物をはじめ、人間もこの蓄熱によっていのちを活性化させていきます。体温もそうですが、生きていくためには温度は欠かせません。その温度が一日の中で溜まると、その蓄熱量で体に影響が出てきます。熱が足りないと熱を上げ、熱が高すぎると下げようとします。一定の熱量を維持するのは、バランスを整えるためでしょう。

実際には西日は紫外線の量が少なく、夕日の赤い光を浴びると肌の代謝が高まり、真皮のコラーゲン合成が促進される効果があるそうです。西日で緩やかな光を浴びて賛散歩などをすると心身の癒しになるそうです。朝陽も爽やかな光を浴びれば脳にセロトニンが分泌され心身が癒されます。このように朝陽も夕陽も、太陽の光は心身を癒し生きていくために欠かせないものです。

太陽といっても、光もあれば熱もあり、また目には見えない波動があったりといのちを活かすための存在です。その太陽の徳とともに私たちはいのちを維持していますから心身の調和も健康にも大きな影響を持つのです。

日々に心身に太陽を持ち、太陽への感謝を忘れないで生きていきたいと思います。

 

 

食と病~薬膳の本質~

医食同源という言葉があります。これは中国にあった薬食同源思想から着想を得て、近年、日本で造語されたものです。具体的には、日ごろからバランスの取れた美味しい食事をとることで病気を予防し治療しようとするものです。

この予防に注目した医療は、未病ともいい未然に病気の兆しを察知し食生活など暮らしを見直し健康を維持していくものです。病気が悪なのではなく、病気によって何を教えられているか。自分の生き方を見つめ、人生を好転して福になるように日々を見直していく中に予防医学の面白さがあります。

忙しすぎる現代においては、日々の暮らしの方を重視することもなく些事に追われて生きていることがほとんどです。先日の盆栽でも書きましたが手間暇を楽しむ余裕も失い頭ばかりを酷使しては時間がないと口癖のような日々を過ごせばなかなか本質や本当に大切なことに気づかなくなります。病気はそういうときにも自分に感謝や素直などに気づかせます。その都度、病気にならない生活を省みて日ごろから日常の心の在り方や精神の持ち方、そして健康を維持していくための肉体への労りなどあらゆるバランスを整えることを学びます。人が囚われない執着しないで生きるためには、心の健康が第一なのかもしれません。

その医食同源の中で有名なものに「薬膳」というものがあります。ブリタニカ国際大百科事典によれば「健康維持や健康増進,病気の予防・治療,不老長寿などを目的とした中国発祥の料理,献立。日々の食事(食養生)は薬の投与と源は同じである,とする中国古来の思想(薬食同源)から生まれた。中国最古の医書『黄帝内経』の『素問』には穀畜菜果(一般の食物)をとることが健康保持の基本であるという記述がみられる。薬膳では,すべての食物は五味(酸味,苦味,甘味,辛味,塩味)と五性(熱性,温性,平性,涼性,寒性)の特性をもつと考えられる。目的の効果を得るためには,五味五性をいかして食材を選ぶこと,さらに摂取する人の体の状態や体質,気候との適合を考慮することが重視される。漢方薬や生薬を用いる場合も多い。 」と記されています。

この薬膳は、中国の陰陽五行に従って体内のバランスを整えるために体を温めたり冷やしたりする生薬や食材などを使い分けて調理するものです。これは日々に食べる食事を見直し、自分自身の根本的な体質から改善していくというものです。

体質改善は長い時間がかかることと、実践には根気が必要になります。人間が今までに沁みついた習慣や体質はそう簡単には修正できません。やり続けて3年くらいはかかるといわれるほどに、自分の体質を改善することは難しく油断するとすぐに元の木阿弥になってしまいます。現代では環境の影響も受けやすくなかなか基本の暮らしを維持することができません。

時間をかけて体質を改善するには、食生活を見直すのがもっとも効果的であり薬膳は弱った体や病気のときに体内のバランスを調和する働きを活性化するものです。

「食」という字は、人が良くなると書かれます。言い換えれば、食が乱れれば人も乱れます。欲望の赴くままに食事をするのではなく、日ごろから食べることを大切に暮らしに取り入れていれば生活も改善され体質も正常に維持されると思います。

薬膳の本質は、食生活を見直し生き方を正常にするということなのでしょう。

引き続き、食を見つめ直しながら子どもたちが安心して一生を暮らしていけるように生き方を見直していきたいと思います。

盆の美

先日、ある盆栽師の方とのご縁があり黒松の盆栽を育てることになりました。黒松は盆栽の王様とも呼ばれるほど品格が高く、家の中に置くと周囲の雰囲気がガラリと変わってしまうものです。

10数年前になぜかよく人からプレゼントで盆栽を貰っていたのですが、出張が多く水やりができず二度ほど枯らしてしまったことがあります。鉢植えの場合は、出張前後に水切れがないように環境を整えるので枯れることは少なかったのですが盆栽は簡単にはいかず一度枯らしてしまうと盆栽はちょっとという気持ちになります。今でも出張が多いのですが、改めて木ともう少し向き合ってみようという気持ちになり再挑戦することにしています。

古民家では、樹齢60年のボケの木があり新春には紅白の美しい花を咲かせます。この盆栽も一年を通してみるとどの時期に花が咲き、どの時期に新芽が芽吹き、どの時期に剪定すれいいのかを木を見ればわかってきました。通常の本で知る知識で分類分けされた木を知るのではなく、その木に向き合いその木の持ち味や魅力を引き出して木の持つ美しさを愛でることができたのなら盆栽の歓びも見つかるかもしれません。

日本では床の間の室礼をはじめ、様々なものをお盆にのせて美を愛でます。他にも箱庭の中で苔や砂利、灯篭などを配置し清浄な美を表現したりします。他にも一輪挿しや四季折々の自然を風鈴や簀戸、炭などで暮らしの美を奏でます。これらは日本的な精神文化の一つであり、魂の歓びでもあります。

この盆栽の盆という字は、仏教との縁が深く古代サンスクリット語のullambanaからきている言葉で「魂」を表します。お盆といえば、私たちは先祖があの世から家に帰ってこられるとして供養をしますがその供養の際にも盆に品物をのせてお祀りしています。

盆栽のほかにも盆景があり、同様に盆の中で一つの美を表現します。その美意識は、一つの精神文化であり人間の持っている自然観や宇宙観などをそれぞれの価値観の中で表現する芸術でもあります。

盆栽の面白さは、木と向き合いながら自分と向き合うことでもあるように思います。自分というものが木によって気づかされ、木が自分というものに気づかせていく。いのちはどれも対話を通して行っていくものですから、声なき声を聴き、形なきものの声を聴くようになるにはまだまだ日々の心の修養が必要です。

現代のように日々に追われ忙しく、やることばかりが増えては心を落ち着かせていく時間を設けようとはしなくなります。そういう時に、心を盆に据えて盆の中で心を穏やかにする空間や、心静かに自分と向き合う時間は人間を清浄に保っていくための一工夫かもしれません。

盆栽を身近に置くことは、自分自身を確立していく方法かもしれません。子どもたちが日本の先祖たちがどのように生きてきたか、その生き方を伝承していけるように丁寧に育ててみたいと思います。

自然のメッセージを受け取る

人間は体調を崩したり病を得ると如何に健康が有難いものかに気づきます。当たり前だと思っていたことができなくなるとき、当たり前ではないことに気づく、これが感謝の本質かもしれません。この当たり前になるというのは、感謝する気持ちが失われていくからです。

自分を中心に物事をとらえ、軸足がいつも私欲の方になってしまうと感謝の気持ちがなくなって欲望ばかりが増えていきます。この欲望とのバランスが崩れるとき、何かしらの事件が発生して人間は当たり前ではないことに気づいて感謝に回帰するのです。

言い換えるのなら、自己防衛本能というものかもしれませんが自分が欲望に呑まれないように敢えて謙虚であるようにと自分にとって都合が悪いようなことが発生し反省を促してくださるのです。自然治癒の仕組みも似ていて、病気と健康は自分自身が感謝を忘れていないかというメッセージをいただくのです。

病気になったり体調を崩してすぐに気づくのは、自分のやりたいことばかりに体を酷使し、周囲に迷惑をかけていることへの配慮もなくし、まるで物事を自分が動かしているかのように自分が傲慢になっていることに気づきます。

傲慢がさらに別の傲慢を発生し、その連鎖はスピードを上げて増大していくのです。その連鎖にブレーキをかけ、傲慢を中和して謙虚になろうとするのが自然の本能であり、人間の素直さのように思います。

有難いことに素直な人は、傲慢になるまえに何かしらのキッカケがあって謙虚になります。それを繰り返す中で謙虚さを学び、何度も繰り返し体験を経ることでさらに謙虚さが身についてきます。

その謙虚さとは、周囲の御蔭様であることに気づいたり、いつも陰ひなたから支えてくださっている存在に感謝できたり、当たり前ではない恵まれている偉大な御恩に気づけたりと、そういう日々を過ごしていくことができるようになるのです。

決して病になることや体調が崩れることが悪なのではなく、感謝が足りない自分に反省できるかということを学び福に転じていくことで人間が磨かれていくように思います。自然の与えてくださっている様々なご縁や機縁は、いつも真心で私たち人間を育ててくださっています。

足るを知り「ありがとうございます、いつもおかげさまでたすかっています」という感謝の気持ちを忘れずに、メッセージを受け取りながら真心の一日を積み重ねていきたいと思います。

実験の大切さ

「実験」という言葉があります。これはとても良い言葉で、実際の体験のことを言います。「人生は実際に体験してみないとわからない」というのも、とても応援される言葉であるように思います。自分で思っていても、体験してみないことには本当のことはわかりません。自分できっとこうだと決めつけていると、本来の体験の面白さには気づきませんし出会いません。人生の苦労は体験の中にありますが、人生の喜びもまた体験の中にあります。体験しなければ仕合せを豊かに充たしていくことはできないのです。

この「験」という字には、「幾や兆し」という意味もあります。字の由来は中国で、「験」の旧字体は「驗」と書き、この右半分のうち、一番上の「^」と「一」で「集める」という意味があり、さらに2つの「口」(物)と「人」を合わせた形で、多くの物や人を集めまとめることを表しています。つまりは篩にかけてたくさん試していいものをそぎ落として探し当てるという意味だったように思います。

実験は一回やってみて終わりではなく、多くやった方がいいのはそれだけ試行錯誤されれば必要なものだけが残っていくからです。何回も何回も懲りずに場数を踏んでいけば、その実験によって本物だけが残ります。一回だけやってみて出た答えが、いきなり本物や本質であることは少なくほとんどが繰り返し取り組む中で顕現してくるのです。

これは自分を修めることも、自己を探求し自己確立していくのもの同様です。実験を繰り返し、多様な体験をしながら自分というものに向き合っていく中で本当の自分に出会うのです。

現代は、真面目な人が増えて実験を怖がる人が増えているといいます。それは責任や結果を恐れすぎて、挑戦することや実験することで発生する困難により保身が出てくるからのように思います。保身も自分を守るためには大切ですが、保身のためにと実験をしなくなるとそこから新しい体験や経験ができなくなり、変化を避けたことでかえってその保身もできなくなる可能性が出てきます。

この実験が幾であり兆しであるのは、それは変化とともにあるからです。無理に挑戦しようとか賭けていこうとか頑張らなくても、実験してみようといった実際の体験を重視する生き方に換えていくことで発見という気づき、発明という学びに出会えるように思います。

ある人が、今の世はある意味での文明実験であると仰っていましたが人類もまた偉大な実験の途上です。成功も失敗も、正解も不正解もないこの世の中においては実験して得た自分の体験こそが真実です。

実験をしようとすると、親切心から心配しいろいろと批評したり、診断したり、裁いたり、文句をいったりすこともあるかもしれませんがそれでもそれ以上に実験してみないと体験できないからこそ忠告を聞いてそのうえで準備をして実験してみるといいように思います。

子どもたちの一期一会のその人らしい人生が充実していくように、実験の大切さを伝えていきたいと思います。

元気の源

昨日は自然農の畑で妙見高菜の種を蒔き直しました。昨年同様に、蒔き時を間違えたのかほとんどが虫に食べられ他の野草に負けてしまいました。殺虫剤などの農薬を使わない限り、ほとんど虫から新芽を守る手はありません。できる限りの手を尽くしても虫の圧倒的な量や威力にはなかなか手が届きません。

きっとむかしの人たちも同様に、何回も種を蒔き虫の威力が弱くなる時期を待ったかもしれません。もしくは、肥料等で土を活性化して新芽が負けないようにしたのかもしれません。自然農は無肥料無農薬なので、肥料は枯れた草くらいなので自然環境から学び直し、自分の生き方を見つめつつ自然の時期を掴みます。

この畑のある場所は、山の中で周りには畑もないことからイノシシやシカなどもよく出てきます。また雑草や野草の勢いは激しく、少しでも草刈りをしなければあっという間に様々な野草で埋め尽くされます。特に野草は、我先にと高いところを占有して種を遠くに飛ばそうとしますから自分の背丈よりも高い雑草たちが埋め尽くして草刈りが大変で骨が折れます。さらにはそこにツル系の雑草があちこちから畑に侵入してきて、周囲の防護柵などをなぎ倒していきます。一般的な平地の耕しやすい畑とは異なるので、野菜を育てるのにはちょっと不適切ではないかというところに畑があるのです。

しかし地力という意味で、転じて見方を変えてみるとそれだけ土は野草や雑草が瞬く間に広がるほどに肥えているとも言えます。表土を少し削るだけでもミミズや幼虫、様々な虫たちがどんどん出てきます。また多様な雑草の種類も多く、様々な野草が共生しながら楽園のように育ちあっています。その豊かな生態系が存在している場所で、野菜を育てるとイキイキとした野性的な野菜に育ち、その味は決してスーパーなどで買っているものとは大違いです。

私の育てている伝統の妙見高菜はそういう場所でこだわり育てています。だからこそ味にそれぞれの個性が出て、イキイキとした艶と食べ応えがある美味しいものになるのです。

そう考えてみると、この野生の中で育つということはいかに肝心なことかということです。人間もまた自然の中で育てば元気になります。この元気の源とは何かということなのです。

私たちは自分たちの都合で育ちやすいそうに育てやすいようにと、環境ばかりを整えます。自然のままにすることは、大変だからと加工した環境の中で肥料や農薬を与えて膨らませていきます。しかしその本質はどうなっているかということです。見た目を膨らませたとしてもその質はどうなっているのかということです。

自然のままに育つというのは、生きる力、元気の源を成長させていくことです。それは決して環境としては楽なものではなく、どちらかというと厳しく苦労ばかりがある場所ですがそこは生態系が豊かであり、生きる力を発揮している生き物たちで充ちており、野の中で自分のいのちを磨き上げていきます。

その場には確かに人間にとっての快適さはありませんが、人間にとっての心の平安があります。私が取り組んでいる自然農をはじめ、古民家甦生も、会社経営もまた古くて新しい教育を提案するものです。

引き続き、試練を楽しみ、試練から学び、子どもたちに生きる力の本質を伝承していきたいと思います。

善の発心

人間は生きている感謝に心を満たすとき、この有難い御恩に対して何かで報いたいと思うものです。その報いたい思いは、いろいろな徳のカタチになって子孫たちに譲られていくものです。これは決して物だけではなく、生き方であったりしたり、有形無形問わずそれが子孫たちの恩恵として永遠に譲られていくものです。

自分さえよければいいや自分のことのみを優先するようになればあまり恩を感じなくなってしまいます。人が恩を感じられるのは、いつまでも感謝の心のままにかけがえのないこの一期一会の日々を深く味わい生きているからです。

いのち尽きるその日までもったいなく生きようとしている人は、自分に与えられた任務や使命を受け容れ真心で生きていくように思います。古民家にあるようなむかしの道具たちも、そしてその時代の懐かしい思い出を持ったあらゆる場にも真心は残っています。その真心がカタチになっていく一つに、布施というものがあります。

この布施の語源は、サンスクリットの「ダーナ」といい清浄な心で人に法を説いたり物品の施しなどを行うことをいいます。本来の布施の内容は、その布施の生き方を説いているように思います。仏陀は、布施は六波羅蜜の善業の実践のことを言うといいそれを「無財の七施」という言葉でも遺しています。

これは「雑法藏経」というお経の中の言葉で仏陀が人間はたとえ財力や智慧が無くても七施として、七つの施しができるということを示します。「眼施(がんせ) 」は、常に温かく優しい眼差しをおくること。「 和顔施(わがんせ)」は、いつも心地よい素直な笑顔で人に接していくこと。「 言辞施(ごんじせ)」は、穏やかで愛情の籠った誠実な言葉遣いを心がける。「 身施(しんせ)」は、自らの身体を使い奉仕すること。「 心施(しんせ)」は、思いやりの心を持ち、自分を相手の立場になって接していくこと。「 床座施(しょうざせ)」は、座席や場所、地位を譲り相手を慮ること。そして最後の「 房舎施(ぼうしゃせ)」場を与え、場を清めその場を譲ることです。

布施の本質とは、ここからわかるように自分から周囲に真心を盡して周囲の恩徳に報いていこうとする実践を行うということです。自分の中に備わっている人間としての徳を活かし、自分から与えられる善行を行っていこうとすることを恩とも言います。

現代は貨幣経済が中心で西洋の考え方も入ってきているため布施については誤解があり、本来の布施の意味もだいぶ変わってきていますがこれは生き方の話であり布施の生き方をしていこうとすれば自ずから布施によって自他善が結ばれていくということでしょう。

全体善という言葉も今では聞かなくなってきましたが、一人ひとりが布施をし善に生きる世の中こそ仏陀の目指した平和な社會だったのかもしれません。子どもたちが安心して暮らしていける社會のためにも布施的な生き方を学び直し、自分自身の中に善の心を高めていきたいと思います。

日本人の母~観音様~

先日、鹿児島県知覧町にある富屋旅館に宿泊するご縁がありました。特攻の母として有名な鳥濱トメさんが開業した富屋食堂の離れとして特攻隊員が最期のお別れを家族で過ごしたり、自分らしい最期の時間を過ごすためにとご用意した場所をそのまま旅館として経営されております。

最初にその離れにお伺いすると、その佇まいはとても凛としていてまるで荘厳で澄み切った神社のように清々しい場が醸成されておりました。場を守るというのは、その魂を守ることであり、言い換えるのなら心の故郷を守ることでもあります。

心の故郷を大切に守り続けている富屋旅館には、日本人の原点に気づく貴重な何かが存在しているように思います。

また鳥濱トメさんの遺した言葉や遺志をお聴きしていると、日本のむかしの教えがそのままに伝道されており如何に気骨がある人物だったかを直観します。遥かかなたのクニの行く末を案じ、いつまでも子孫たちが平和で暮らしていけるようにとその祈りがこの富屋旅館で往き続けています。

鳥濱トメさんは知覧から知覧からクニの行く末を見守り続けるトメ観音様、また特攻の母と呼ばれていますが、実際に感じたのは「日本人の母」でした。そう省みると、あの特攻の人たちは代表的な日本人であったということです。

その代表的な日本人たちが、クニの行く末を心配し子どもたちの未来を信じて笑顔で生き切っていった。その日本人の魂を見守り見送った母もまた、日本人の母であったという事実。そしてこの日本人の母こそ、観音様そのものであったということ。むかしから日本にある人生の教えは、この観音様と大和の心魂の間に生き様が智慧として連綿と伝承されてきたのかもしれません。

現代は、とかくクニのことをいえば政治問題にされ、魂のことなどをかけば宗教などを批評されます。しかしよく考えてみれば、当たり前なのは自分の今を想えば御先祖様たちの人生や生き様の積み重ねた上に私たちが今あって生きていることは揺るぎません。

だからこそ、行く末を案じてくれて自分のいのちを懸けて捧げてくださった方々の御恩を忘れたらいけないと切に思うのです。その御恩を思う人たちは、政治や宗教などという言葉で批評することはないと思います。そしてそのつながりが見える人は、白黒や右左と分けずに真実を観ようとするでしょう。自分の人生は短く、子孫のこの先の人生は長いのです。だからこそ、子孫のために何ができるかと願い生きた人たちの私心なき生き方のご先祖様に自分の魂は深く揺さぶられるのかもしれません。

日本人として生きていく若者たちは、この教えに触れることで本来の道徳や生き方を学び直すことができるように思います。

私もこの富屋旅館で得た気づきを、次世代の人たちにつないでいけるように真摯に自己を磨き魂を錬磨していきたいと思います。

ありがとうございました。

 

いにしえからの風

「萬古清風」という言葉があります。これは中国・唐時代の漢詩の一節で禅語でもよく見かけますが「はるか昔から清らかな風が変わらずに吹いてくる」、「古きにも新しきにも全ての時空にあまねく清風が吹く」という意味で用いられます。

とても素敵な言葉で、大昔の古来から永遠に風が吹いている様子に心が洗い清められるようです。私たちは、昔の教えや知恵、先祖の生き方や伝承などをお聴きするご縁に巡り会うと、古来より何が真実であったか、そしてむかしから何が根本であったかに気づき有難い思いがしてきます。

それはまるで、何百年前から何千年前も、そしてこの今に向かって彼方から風が吹いて自然の循環が已まないで私たちに恩恵を与え続けてくださっているかのようです。

これは御先祖様の遺風や遺徳なども同様に、今の私たちがあるのは何の御蔭様かを思い出すとき、そして子孫の行く末をいつまでも案じてくださっている親心を感じるときにこの清風を感じられます。

人間は私心を捨て去り、万物一体善の境地になれば心が澄み渡り自然そのもの、言い換えれば神人合一の境地に達します。その崇高な穢れなき魂は至純であり透明で水や光そのものになります。

そうやって無私の境地でいのちを奉げてきた方々の陰徳は、忘れないで居続けることでいつまでも子孫にその徳風が吹き続けてきます。この徳風とは、無私の人たちの生き様から吹いてきます。その吹いてきた徳風が心身を通り抜けていくとき、私たちはその新しい風をいつまでも浴びることができ、その新しい風によって私たちの記憶もいつまでも甦生し続けていくことができます。

いのちの甦生です。

いのちがこのように甦生し続けるのは、まさに萬古清風の御蔭なのです。

いつの時代も人間である以上、自分との向き合いは人間の課題であり、その中で私心が私欲に呑まれる人と私心や私欲に打ち克つ人がいます。しかしその生き方の模範として、魂を極限にまで磨き上げ美しく光る人たちが子孫たちに徳の道を繋いでいきます。

道は終わりなく、また魂も廃ることはなく、永遠に風が清め続けますから私のその風の一吹きになって子どもたちの行く末を見守り続けていきたいと思います。いにしえからの風になりたいと思います。

人間学の要諦~気づきの学問~

人間は自分の先入観が壊れるような出来事や、今まで見知ったものがまったく異なるという体験をすることで目から鱗が落ちることがあります。私は探求心が強いからか、自ら体験を重視し自分の先入観を疑い真実を知りたいと思うタイプのようで敢えて怖いことでも学びたい欲求の方が上回ります。

本当のことがわかると、それまでは上辺だけでしか知らなかった自分を恥じてさらにその本質を深めたくなります。今の時代のように知識ですぐに何でも分かり調べることができるようになったからこそ、知識で分からないものが理解できたとき目から鱗が落ちるのです。

この「目から鱗が落ちる」という言葉の由来は、新約聖書の中の話のひとつでイエスキリストを迫害していた男性が、天の光によって目が見えなくなってしまったのちそのキリストの弟子の一人であるアナニアからイエスキリストの啓示を聴いたとき目から鱗のようなものが落ちて目が見えるようになったことが由来であるといいます。

今では何かを切っ掛けに急に物事の道理が理解できるようになったという意味で使われますが、本来は自らの間違や誤解から悟りをひらき、諸所の迷いから覚めることができたという意味の言葉です。

本当のことに覚めるというのは真実を悟ることで、真実とはありのままの現実を理解するということです。人は体験していないものをいくら理解しようとしても、自らの人生で直接的に体験していないものを真実のままに理解することはできません。例えば、何かの味があったとしても食べてみなければわかりませんし、五感なども感じてみなければわかりません。修行もまた、頭で修行したとは言わないように似たような体験を思い出し多少は近づくことはできても、同体験の精進なしに意味を感じることはできません。そういう意味で人生は必ず誰にしろ平等なのです。現在は知識でなんとなく頭で妄想したり空想したりして分かった気になり処理してそのまま片付けていますが、その頭で行ったことがのちのちまでの先入観となり真実を理解する機会を遠ざけていたりするのです。

そうならなためにも日々の気づきを高めて精進していくしかありません。そのためにも私たちが目から鱗の体験は貴重なのです。目から鱗が落ちる体験は、その体験をした人たちのあるがままの言葉をお聴きし現地に足を運んだり、自分の妄想や空想よりも現実の真っただ中に存在した真実を直視して心で感じたり、現在でも目に見えてその本質を悟り実践している人の現場を一緒に味わうことで鱗が落ちることがあるように思います。

自分の直観を信じて現地に足を運ぶのは、自分が真実を追求したい、本当のことを知りたいと探求していくからです。そして道はその探求した中にこそあり、探究する過程においてその道は次第に拓けていき、自分の中にある道理もまた繋がっていくのです。

道理を学ぶというのは、この目から鱗が落ちる体験をどれくらい行うかということのように思います。刷り込まれた知識や自我妄執からの迷いを取り払うためにも、歴史やその道の達人から直接学ぶことが効果があるのは間違いありません。その体験した気づきこそ本物であり、人間は気づく感度が高いほどに学問が研ぎ澄まされていくからです。

気づきこそ、人間学の要諦なのです。

子どもたちに真実が伝道できるように、安易にわかった気にならず一つ一つを足を運び、気づきの学問を伝承していきたいと思います。