古色の味わい

「飴色」(あめいろ)という色があります。この色は、水飴 みずあめに由来する深みのある強い橙色のことをいいます。現在の水飴は無色透明なものが一般的ですが、古くからの水飴は麦を原料とした麦芽水飴で、透明感のある『琥珀色』をしていたといいます。

この水飴は米や芋などのデンプンに麦芽の酵素を加えて作ったものです。以前、会社で麦芽から作ったときに何とも言えない甘さや香りがあったのを思い出します。古くには日本書紀にもその名が見られます。現在でも和菓子などでは甘味料のひとつとして使われています。

現代のように砂糖が主流になっていますが、砂糖がない時代の甘みはこの麦芽の甘みやお米の甘みが甘いということだったのでしょう。優しい甘みは身体にも善く、懐かしい感じを覚えます。

話を戻せばこの飴色というのは琥珀色のことで、この色はよく手入れをされ経年変化したものが深い味のある色になっていきます。古民家の道具には、この飴色のものが多く、家全体からこの飴色や琥珀色の輝きや光が反射してきます。

机であったり、竹籠であったり、網代であったり、板目や建具一つ一つからその深い味わいが醸し出されてきます。

私はこの色のことを古代の色、古色の味わい、古色の美と呼びます。

何百年も時を刻み、そしてその中で数々の主人たちを見守り、愛され、そして手入れされ今も活かされていく。この存在の中に古代の魂のようなものがあると感じるのです。言い換えるのなら、古いまま活かされているものにはこの古色の味わい、古色の美しさがあるのです。

この古い色の色とは、色の中に時が映っているわけでその色には時代に凝縮されたいのちの記憶が籠っています。この空間の中にある時の記憶は、永遠に空間に宿るものでそれは佇まいの中に感じることができます。

私たちは目には見えませんし、聞こえることもありませんが、その色から直観的に五感で存在そのもののを丸ごと感じることができるのです。古代は、言葉がなかった時代、その時代は色によって私たちはそのものの声を聴き取ることができていたのかもしれません。

色の持つ不思議な力を感じながら、五感が研ぎ澄まされていくのもまたこの古色の味わいならではでしょう。

引き続き、言葉にはできないものを温故知新しながらも古いものの中にある新しい価値を創造して子どもたちに伝承していきたいと思います。

祭りの起源

今月末に天神祭を聴福庵で開催しますが、本来、お祭りの起源を辿るとお米づくりであることが分かってきます。共食という言葉も、本来は祭儀によって発生してきたものです。

新嘗祭は毎年の祭儀ですが、天皇陛下が即位するときのものを大嘗祭といいます。これは皇太子が天皇即位式にイネの初穂を神に供えることにより、その霊力で天皇の霊魂の再生と復活を祈願する国家的な儀式です。甦生をお米が促すのです。このお米の祭儀について、世界大百科事典の中にはこう書かれています。

「宮廷において天皇の行う最重要の祭政は,高天原から中津国にもたらされた稲の種子を奉じて,それをあやまりなく栽培することであり,祈年祭は米の豊作の祈願であり,新嘗祭は収穫のよろこびの奉告であった。また天皇の代替りに行われる大嘗祭は,米の霊的力によって皇太子が天皇としての霊魂を聖体に鎮ませる儀式であった。 米が天皇をはじめとする人々の霊魂を再生復活させる力をもつ食べ物であるという信仰は,民俗としてはさまざまな形で伝えられている」

かつてお米には霊的な力をもつと信じられてきました。節分の豆まきのようにお米をまいて悪霊をはらう儀式もあります。お米を神仏に供えることでその霊力をいただいたのです。

正月に食べる御餅も、米をついて作る餅が神や精霊の宿る神聖な食べものと考えられてきました。他にも節句、誕生、結婚式といった特別のハレの日には御餅を食べるのもそのお米の力、田の力に肖るためです。お年玉の意味も、正月に祝う年神(としがみ)も元々は年神が配るお持ちのことを指しています。

お米は日本の伝統行事と御祭の起源なのです。

一昨年より、天神祭の甦生に取り組みお祭りを深めて、古民家甦生に取り組み行事を深めていたら竟にはその起源であるお米につながりました。お米は私たち日本人の主食です。主食とは、食の主と書きます。

本来の日本人の生き方の中に、お米が中心であることを思い返す必要があります。子どもたちの未来のためにも、古代から受け継がれてきたその意味や価値を伝承していきたいと思います。

和合経営

昨年、あるコンサルタントの方からティール組織みたいですねと言われたことがありました。私たちは、自分たちは伝統的な徳を基盤にした日本的な和合経営を目指し実践していると思っているのであまりその時は関心もなく深めませんでしたがどのような組織のことをいうのか少し深めてみようと思います。

このティール組織のティール(進化型組織)という言葉の提唱者は、エグゼクティブ・アドバイザーやコーチ、ファシリテーターとして世界各国で活動を行っているフレデリック・ラルー(Frederic Laloux)氏という方です。

具体的には、今までの既存の一般的な組織とは大きく異なる組織構造や慣例や文化を持つ新たな組織モデルをもった組織のことを指すそうです。例えば、階層的な上下関係や細かなルール、定期的なミーティング、売上目標や予算の設定等々、その多くの組織で当たり前にある組織構造や慣例、文化の多くを撤廃し、意思決定に関する権限や責任のほぼ全てを経営者や管理者から個々の従業員に譲渡することによって、組織や人材に革新的変化を起こすことができる《次世代型組織モデル》とされているようです。

以前、ザッポスという会社が「ホラクラシー」という考え方を提唱したときに似たようなことが書いてあったように思います。これも階級や上司・部下の関係が一切存在しない組織の管理体制のことを指しています。

「ホラクラシー」の特徴は柔軟な組織体制、長所を活かした役割分担、効率的な組織運営、主体性の強化のことをいいます。そして先ほどの「ティール」組織は、上司ー部下の関係なし、管理職ナシの組織運営。セルフマネジメントされたチーム群からなる組織、また一人一人が自我や自己の深い部分をオープンにする、そして組織の生命力に人々が力と知恵を合わ組織が変化したら、目的も進化させるとされています。

共通しているのは、人間を尊重して衆智を集める仕組みになっているということです。日本ではこれを和合と呼びます。

私は本来、日本人はこの和合によってさまざまな歴史的困難をみんなで協力して助け合って乗り越えてきました。遡れば、聖徳太子の時代にすでにこの組織は実現していたのであり、その時代の組織の人たちの和合組織の形跡は法隆寺などの大工の仕事の中に遺っているのを宮大工西岡常一棟梁がそのことを語っておられました。その頃の大工や職人は祈るように取り組み、一人ひとりが全員棟梁として大家族として睦ましく仕合せに働いていたというのです。

聖徳太子は、国家の理念を「和をもって貴しとなす」と定め和合しあって仲よく豊かに生きていくことを方針として示しました。その理念に沿って建てられた建造物は今でも日本の伝統と精神を支えているのです。

西洋から来た新しいものをすぐに最先端だと流行に飛びつく前に本来の自分たちの先人たちや先祖が築いてきた歴史を鑑み、自分たち日本人ならどのようにそれを吸収していくかとよくよく吟味していく必要性を感じます。それが菅原道真公からの和魂漢才、和魂洋才であり、私たちの言い方では和魂円満となり正統を維持していくことになるのです。

ただ世界では成熟した組織が、同様に古来目指した組織に近づいてきているというのは有難い流れです。私たちも、大和の人たちが実現したころの平和を今の時代でも実現できると思えると挑戦してみたい思いです。

引き続き、子どもたちに譲り残したい経営や生き方を社業を通して実践して伝承していきたいと思います。

 

正面突破とは

いろいろな問題が増えてくると、その問題を避けたいと無意識に心が感じるものです。すると、どこかいい方法がないかと方法論ばかりを探して少し試したらこれではないと避けているうちに八方ふさがりになってくるものです。

これは自分が現実逃避をしている証拠であり、目の前の困難を乗り越えるために自分にとって不都合なことが多いために何かもっともよい方法がないかと探しているということでもあります。

しかし実際に物事を直視すると、現実には正面突破しかないこともあります。つまりは活路というものは、逃げないと覚悟を決めてなければ活かす道も出てこないということです。

この正面突破というものは、時間がかかっても本気で取り組むという覚悟に似ています。自分が苦手だと思っていたり、自分に向いていないと思っていたり、自分ではできないと決めつけていたり、過去の様々な失敗や苦手意識からどうしても脇道や裏道ばかりを通ろうとしてしまうものです。しかしその道しかないと現実を直視するとき、人は活路が拓けるように思います。

言い換えるのなら、「改善」できるということです。

改善を続けていくことは本当に根気がいることですし忍耐がいるものです。しかし同時に、改善を続けていくことは成長を続けていくであり、学び続けていくことです。改善がないというのは学びがないといっても過言ではありません。

だからこそ学び続けていくことで変化し、変化し続けることで今を刷新して自分の視座をさらに高めていくことができます。人は時として、背中を押されることでしか動けないことがあります。その一つは、応援であったり、その一つは、危機感であったり、その一つは、誰かのためにという思いであったり、それぞれです。

しかしそのどれかがあるのなら、人は成長を已まず変化を創造し続けるリーダーになっていきます。リーダーの潔さにはこの覚悟が備わっているのです。

孟子に「天のまさに大任をこの人に降くださんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を餓えしめ、その身を空乏くうぼうにし、行いにはその為すところを仏乱す」(『孟子』)とあります。

非常に困難な時、精神的に苦しいときこそ、死中に活を見出すチャンスであり、その時こそ「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということでしょう。自分自身に執着せずに、正面突破する覚悟をもって改善に向き合っていきたいと思います。

天命と不惑

自分には一体どのような天命があるのか、天に問い続けて今を全身全霊で生きることで人は命を通して天を知ります。

命を盡すということは、今のような時代は並大抵ではなくあらゆる刷り込みや比較競争や差別の中で自己を確立していかなければなりません。そのためには周りの雑音や自分の中にある雑念と正対する必要が出てきます。

論語では四十にして惑わずとありますが、天命に惑わなくなったというほどに真心の日々を孔子は天に問いながら道を歩んでいたのかもしれません。

真心を盡すためには、自分という我欲よりも天は自分にどうしてほしいと思っているか、そしてこれが会社であれば会社はどうしてほしいと思っているか、そして家ならば家がどうしてほしいと思っているかと、無私の境地で自分自身の天与の才を存分に発揮していく必要があります。

自分にしか与えられていない本物の才は、無私の時、忘己利他のときにこそ発心され発揮されていきます。自分はこうではないと不満ばかり並べたり、自分のことばかりを苦しみ思い煩ったり、思い通りにいかないことに不平を並べていては天命とは遠ざかる生き方をするのです。

全体快適とは、自分を含めてみんなが楽しく豊かになるために自分を活かしていくという道です。自分も楽しみ、みんなも楽しむ、そのためには、みんなで平和のために、世の中のために、そして子孫のためにと協力して和合していく必要があります。

天と命とは常に一体であり、その一体感を感じるとき、つまり至誠真心が天に通じているときにこそ人は天命に惑わなくなるのかもしれません。

自分の人生を生き切ることは、その評価を天にお任せするということです。いつまでも自分は自分はと自分に悩んでいては不惑とは程遠い心境です。

子ども第一義の理念を掲げている以上、余計なことを惑わずに真摯に今に至誠を盡して精進していきたいと思います。

太陽の徳

先日、盆栽の手入れのことで盆栽師と話をしていたら夕陽は強いので日陰の方がいいという話が出ました。この夕陽の強さとは、朝陽に比べて夕陽の方が日焼けするという意味です。よく考えてみると、外での作業も夕陽の方が肌の日焼けもきつく、体力の消耗もありますが朝陽の方はあまりそうは感じません。

調べてみると太陽の光自体は同じでも地球の大気は朝より夕方の方が気温が高く、水蒸気量や浮遊物質も多い。だから、朝日は眩しく、夕日は赤みが強くて輝きが弱いことが多いという説が一般的だそうです。

よく西日がきついという言い方もしますが、実際は西日はそんなに強いわけではありません。しかし太陽熱の集積により、夕陽の時間帯が特に熱を特に感じてしまうということです。

熱は私たちは単に熱い冷たいという比較の熱のことを指しますが、本来は熱には「蓄熱」といった熱量があると私は思います。熱が集積し蓄熱して熱が溜まっていくのです。植物をはじめ、人間もこの蓄熱によっていのちを活性化させていきます。体温もそうですが、生きていくためには温度は欠かせません。その温度が一日の中で溜まると、その蓄熱量で体に影響が出てきます。熱が足りないと熱を上げ、熱が高すぎると下げようとします。一定の熱量を維持するのは、バランスを整えるためでしょう。

実際には西日は紫外線の量が少なく、夕日の赤い光を浴びると肌の代謝が高まり、真皮のコラーゲン合成が促進される効果があるそうです。西日で緩やかな光を浴びて賛散歩などをすると心身の癒しになるそうです。朝陽も爽やかな光を浴びれば脳にセロトニンが分泌され心身が癒されます。このように朝陽も夕陽も、太陽の光は心身を癒し生きていくために欠かせないものです。

太陽といっても、光もあれば熱もあり、また目には見えない波動があったりといのちを活かすための存在です。その太陽の徳とともに私たちはいのちを維持していますから心身の調和も健康にも大きな影響を持つのです。

日々に心身に太陽を持ち、太陽への感謝を忘れないで生きていきたいと思います。

 

 

食と病~薬膳の本質~

医食同源という言葉があります。これは中国にあった薬食同源思想から着想を得て、近年、日本で造語されたものです。具体的には、日ごろからバランスの取れた美味しい食事をとることで病気を予防し治療しようとするものです。

この予防に注目した医療は、未病ともいい未然に病気の兆しを察知し食生活など暮らしを見直し健康を維持していくものです。病気が悪なのではなく、病気によって何を教えられているか。自分の生き方を見つめ、人生を好転して福になるように日々を見直していく中に予防医学の面白さがあります。

忙しすぎる現代においては、日々の暮らしの方を重視することもなく些事に追われて生きていることがほとんどです。先日の盆栽でも書きましたが手間暇を楽しむ余裕も失い頭ばかりを酷使しては時間がないと口癖のような日々を過ごせばなかなか本質や本当に大切なことに気づかなくなります。病気はそういうときにも自分に感謝や素直などに気づかせます。その都度、病気にならない生活を省みて日ごろから日常の心の在り方や精神の持ち方、そして健康を維持していくための肉体への労りなどあらゆるバランスを整えることを学びます。人が囚われない執着しないで生きるためには、心の健康が第一なのかもしれません。

その医食同源の中で有名なものに「薬膳」というものがあります。ブリタニカ国際大百科事典によれば「健康維持や健康増進,病気の予防・治療,不老長寿などを目的とした中国発祥の料理,献立。日々の食事(食養生)は薬の投与と源は同じである,とする中国古来の思想(薬食同源)から生まれた。中国最古の医書『黄帝内経』の『素問』には穀畜菜果(一般の食物)をとることが健康保持の基本であるという記述がみられる。薬膳では,すべての食物は五味(酸味,苦味,甘味,辛味,塩味)と五性(熱性,温性,平性,涼性,寒性)の特性をもつと考えられる。目的の効果を得るためには,五味五性をいかして食材を選ぶこと,さらに摂取する人の体の状態や体質,気候との適合を考慮することが重視される。漢方薬や生薬を用いる場合も多い。 」と記されています。

この薬膳は、中国の陰陽五行に従って体内のバランスを整えるために体を温めたり冷やしたりする生薬や食材などを使い分けて調理するものです。これは日々に食べる食事を見直し、自分自身の根本的な体質から改善していくというものです。

体質改善は長い時間がかかることと、実践には根気が必要になります。人間が今までに沁みついた習慣や体質はそう簡単には修正できません。やり続けて3年くらいはかかるといわれるほどに、自分の体質を改善することは難しく油断するとすぐに元の木阿弥になってしまいます。現代では環境の影響も受けやすくなかなか基本の暮らしを維持することができません。

時間をかけて体質を改善するには、食生活を見直すのがもっとも効果的であり薬膳は弱った体や病気のときに体内のバランスを調和する働きを活性化するものです。

「食」という字は、人が良くなると書かれます。言い換えれば、食が乱れれば人も乱れます。欲望の赴くままに食事をするのではなく、日ごろから食べることを大切に暮らしに取り入れていれば生活も改善され体質も正常に維持されると思います。

薬膳の本質は、食生活を見直し生き方を正常にするということなのでしょう。

引き続き、食を見つめ直しながら子どもたちが安心して一生を暮らしていけるように生き方を見直していきたいと思います。

盆の美

先日、ある盆栽師の方とのご縁があり黒松の盆栽を育てることになりました。黒松は盆栽の王様とも呼ばれるほど品格が高く、家の中に置くと周囲の雰囲気がガラリと変わってしまうものです。

10数年前になぜかよく人からプレゼントで盆栽を貰っていたのですが、出張が多く水やりができず二度ほど枯らしてしまったことがあります。鉢植えの場合は、出張前後に水切れがないように環境を整えるので枯れることは少なかったのですが盆栽は簡単にはいかず一度枯らしてしまうと盆栽はちょっとという気持ちになります。今でも出張が多いのですが、改めて木ともう少し向き合ってみようという気持ちになり再挑戦することにしています。

古民家では、樹齢60年のボケの木があり新春には紅白の美しい花を咲かせます。この盆栽も一年を通してみるとどの時期に花が咲き、どの時期に新芽が芽吹き、どの時期に剪定すれいいのかを木を見ればわかってきました。通常の本で知る知識で分類分けされた木を知るのではなく、その木に向き合いその木の持ち味や魅力を引き出して木の持つ美しさを愛でることができたのなら盆栽の歓びも見つかるかもしれません。

日本では床の間の室礼をはじめ、様々なものをお盆にのせて美を愛でます。他にも箱庭の中で苔や砂利、灯篭などを配置し清浄な美を表現したりします。他にも一輪挿しや四季折々の自然を風鈴や簀戸、炭などで暮らしの美を奏でます。これらは日本的な精神文化の一つであり、魂の歓びでもあります。

この盆栽の盆という字は、仏教との縁が深く古代サンスクリット語のullambanaからきている言葉で「魂」を表します。お盆といえば、私たちは先祖があの世から家に帰ってこられるとして供養をしますがその供養の際にも盆に品物をのせてお祀りしています。

盆栽のほかにも盆景があり、同様に盆の中で一つの美を表現します。その美意識は、一つの精神文化であり人間の持っている自然観や宇宙観などをそれぞれの価値観の中で表現する芸術でもあります。

盆栽の面白さは、木と向き合いながら自分と向き合うことでもあるように思います。自分というものが木によって気づかされ、木が自分というものに気づかせていく。いのちはどれも対話を通して行っていくものですから、声なき声を聴き、形なきものの声を聴くようになるにはまだまだ日々の心の修養が必要です。

現代のように日々に追われ忙しく、やることばかりが増えては心を落ち着かせていく時間を設けようとはしなくなります。そういう時に、心を盆に据えて盆の中で心を穏やかにする空間や、心静かに自分と向き合う時間は人間を清浄に保っていくための一工夫かもしれません。

盆栽を身近に置くことは、自分自身を確立していく方法かもしれません。子どもたちが日本の先祖たちがどのように生きてきたか、その生き方を伝承していけるように丁寧に育ててみたいと思います。

自然のメッセージを受け取る

人間は体調を崩したり病を得ると如何に健康が有難いものかに気づきます。当たり前だと思っていたことができなくなるとき、当たり前ではないことに気づく、これが感謝の本質かもしれません。この当たり前になるというのは、感謝する気持ちが失われていくからです。

自分を中心に物事をとらえ、軸足がいつも私欲の方になってしまうと感謝の気持ちがなくなって欲望ばかりが増えていきます。この欲望とのバランスが崩れるとき、何かしらの事件が発生して人間は当たり前ではないことに気づいて感謝に回帰するのです。

言い換えるのなら、自己防衛本能というものかもしれませんが自分が欲望に呑まれないように敢えて謙虚であるようにと自分にとって都合が悪いようなことが発生し反省を促してくださるのです。自然治癒の仕組みも似ていて、病気と健康は自分自身が感謝を忘れていないかというメッセージをいただくのです。

病気になったり体調を崩してすぐに気づくのは、自分のやりたいことばかりに体を酷使し、周囲に迷惑をかけていることへの配慮もなくし、まるで物事を自分が動かしているかのように自分が傲慢になっていることに気づきます。

傲慢がさらに別の傲慢を発生し、その連鎖はスピードを上げて増大していくのです。その連鎖にブレーキをかけ、傲慢を中和して謙虚になろうとするのが自然の本能であり、人間の素直さのように思います。

有難いことに素直な人は、傲慢になるまえに何かしらのキッカケがあって謙虚になります。それを繰り返す中で謙虚さを学び、何度も繰り返し体験を経ることでさらに謙虚さが身についてきます。

その謙虚さとは、周囲の御蔭様であることに気づいたり、いつも陰ひなたから支えてくださっている存在に感謝できたり、当たり前ではない恵まれている偉大な御恩に気づけたりと、そういう日々を過ごしていくことができるようになるのです。

決して病になることや体調が崩れることが悪なのではなく、感謝が足りない自分に反省できるかということを学び福に転じていくことで人間が磨かれていくように思います。自然の与えてくださっている様々なご縁や機縁は、いつも真心で私たち人間を育ててくださっています。

足るを知り「ありがとうございます、いつもおかげさまでたすかっています」という感謝の気持ちを忘れずに、メッセージを受け取りながら真心の一日を積み重ねていきたいと思います。

実験の大切さ

「実験」という言葉があります。これはとても良い言葉で、実際の体験のことを言います。「人生は実際に体験してみないとわからない」というのも、とても応援される言葉であるように思います。自分で思っていても、体験してみないことには本当のことはわかりません。自分できっとこうだと決めつけていると、本来の体験の面白さには気づきませんし出会いません。人生の苦労は体験の中にありますが、人生の喜びもまた体験の中にあります。体験しなければ仕合せを豊かに充たしていくことはできないのです。

この「験」という字には、「幾や兆し」という意味もあります。字の由来は中国で、「験」の旧字体は「驗」と書き、この右半分のうち、一番上の「^」と「一」で「集める」という意味があり、さらに2つの「口」(物)と「人」を合わせた形で、多くの物や人を集めまとめることを表しています。つまりは篩にかけてたくさん試していいものをそぎ落として探し当てるという意味だったように思います。

実験は一回やってみて終わりではなく、多くやった方がいいのはそれだけ試行錯誤されれば必要なものだけが残っていくからです。何回も何回も懲りずに場数を踏んでいけば、その実験によって本物だけが残ります。一回だけやってみて出た答えが、いきなり本物や本質であることは少なくほとんどが繰り返し取り組む中で顕現してくるのです。

これは自分を修めることも、自己を探求し自己確立していくのもの同様です。実験を繰り返し、多様な体験をしながら自分というものに向き合っていく中で本当の自分に出会うのです。

現代は、真面目な人が増えて実験を怖がる人が増えているといいます。それは責任や結果を恐れすぎて、挑戦することや実験することで発生する困難により保身が出てくるからのように思います。保身も自分を守るためには大切ですが、保身のためにと実験をしなくなるとそこから新しい体験や経験ができなくなり、変化を避けたことでかえってその保身もできなくなる可能性が出てきます。

この実験が幾であり兆しであるのは、それは変化とともにあるからです。無理に挑戦しようとか賭けていこうとか頑張らなくても、実験してみようといった実際の体験を重視する生き方に換えていくことで発見という気づき、発明という学びに出会えるように思います。

ある人が、今の世はある意味での文明実験であると仰っていましたが人類もまた偉大な実験の途上です。成功も失敗も、正解も不正解もないこの世の中においては実験して得た自分の体験こそが真実です。

実験をしようとすると、親切心から心配しいろいろと批評したり、診断したり、裁いたり、文句をいったりすこともあるかもしれませんがそれでもそれ以上に実験してみないと体験できないからこそ忠告を聞いてそのうえで準備をして実験してみるといいように思います。

子どもたちの一期一会のその人らしい人生が充実していくように、実験の大切さを伝えていきたいと思います。