歩み方=生き方の改善

人は小さな習慣の積み重ねで経験を積んでいくものです。継続は力なりともいいますが、小さな日々のことをコツコツとやるかで未来の出来事を手繰り寄せていくものです。しかし、このコツコツと行のを面倒だと嫌がり目に見えてすぐに結果が分かった方がいいと焦るのは心に不安があるからとも言えます。

心が安定している人は、コツコツと地道に一歩ずつ取り組んでいくことができます。これはコツコツと地道に一歩ずつ取り組むから地に足が着いているため心が安定しているとも言えます。頭と異なり心は常にちょっとずつ活動しているからです。

心をなおざりにしてやったりやらなかったりしその分、一気に結果だけの帳尻を頭で合わせようとすればそれだけ心が不安定になります。そして不安定になるからまたマイナス思考になり焦り結果ばかりを追いかけてまた地から足が離れて空回りするのです。

心というものは、目には観えませんが自分の体と一緒に歩んでいるものです。体の足が一歩前に出れば、一緒に心もまた一歩前に出る。これを同時にしていくことで、現実や真実が変化していくのです。

自分がいつまでも変化しないのは、自分が一歩足を前に出してもいないのに心だけは10歩や100歩など先に先にと進めようとしている時です。これは体と心が和合していませんから、ずっこけてしまいます。心と体はまるで二人三脚のように、息を合わせて一緒に歩んでいくことではじめて前進していくのです。

日々に心の一歩と、体の一歩は、具体的に言えば、思いを醸成する一歩と、具体的に実践する一歩を同時に行うことをいいます。例えば、何かを決断し行動すると決心したのなら、何かを已めて何かを始めるという具合に心と体を一致させていく必要があります。

そのために人間は、自分の一日を反省し、「自分の一歩はどのような一歩だったか」と振り返り次の一歩に向けて改善していくことで、歩き方を変えていくのです。

人生も同様に、歩き方を変えていくというのは生き方を変えていくということです。自分の歩き方は、一歩一歩、自分で意識しながら変えていくしかありません。

人間は怪我をしたり病気をして立ち止まり、上手く歩けなくなる時こそ、自分を変えるチャンスであり、もう一度、一歩一歩歩き直す中で自分の歩き方を見直していきます。そうやって歩いていけば、生き方も同時に変わり、人生も変わり、未来も今も変わっていくように思います。

一歩一歩と地に足が着いている人は、不平不満を言う暇がありません。一つずつ、丁寧に取り組んでいこうと改善することに着手し日々の一歩を豊かに楽しんでいくように思います。その歩み方は軽やかで楽しく、安心して歩み続けてきます。

人生は自然と同様に周りは日々に変化を已みませんが、その中でもどのように歩んだかは自分の歩き方で決めていくことができます。どんな状況でも歩くというのは、どんな状況でもこのブログに取り組む私の姿勢も歩み方を磨く大切な砥石です。

子どもたちのためにも道が続いていくことを祈り、日々に歩むことの大切さを伝承していきたいと思います。

徳の本体

「徳」という言葉があります。今の時代は損得の得ばかりが優先されているようにも思いますが、この「徳」は人間が本来備わっている天性の種でありそれをどう育てていくかで今や未来が変わっていくものです。改めてこの「徳」とは何かを少し書いてみようと思います。

松下幸之助氏は、「人間として一番尊いものは徳である」といいます。

本田宗一郎氏は、「人間にとって大事なことは、学歴とかそんなものではない。他人から愛され、協力してもらえるような徳を積むことではないだろうか。そして、そういう人間を育てようとする精神なのではないだろうか」といいます。

吉田松陰においては「士たるものの貴ぶところは、徳であって才ではなく、行動であって学識ではない」といいます。

論語や老子、修身など学問をするものたちにとってこの「徳」は中心に置かれ、その徳を歩むことこそが人間の道であるともいいます。

しかしその徳はどのようなものか文章で書けということになるとはっきりしません。松下幸之助さんもこのように語ります。

『君が「徳が大事である。何とかして徳を高めたい」ということを考えれば、もうそのことが徳の道に入っていると言えます。「徳というものはこういうものだ。こんなふうにやりなさい」「なら、そうします」というようなものとは違う。もっとむずかしい複雑なものです。自分で悟るしかない。その悟る過程としてこういう話をかわすことはいいわけです。「お互い徳を高め合おう。しかし、徳ってどんなもんだろう」「さあ、どんなもんかな」というところから始まっていく。人間として一番尊いものは徳である。だから、徳を高めなくてはいかん、と。技術は教えることができるし、習うこともできる。けれども、徳は教えることも習うこともできない。自分で悟るしかない。』

この徳は、頭や知識で理解するものではなく心境によって学ぶものです。ただ良いことをしたら徳かといえばそうではなく、徳は目には観えないものだからこそ心で悟るしかありません。

例えば、太陽の徳とは何か。日々に私たちを照らし続けていのちに大切な光を与えてくださっています、これを徳とも言えます。他にも太陽は私たちが目には観えない偉大な効果や効能があり、万物を活かします。言い換えるのなら太陽の徳は、陽徳ともいい、明らかにはっきりと徳が観えますが同時に目には観えない陰徳もあります。この陰陽の徳とは、万物の徳のことを指します。

これだけ徳というものは、生きていく上で欠かせない恩恵のことです。太陽を擬人化するのならそこには自己中心的な生き方はなく、万物を活かし続けていく生き方があります。そこは無為自然であり、我欲のない澄んだ真心の姿があるのみです。

老子はその徳にも最上の徳があるといい、それをこう表現します。

「徳のある人は自分の徳を意識しない、それは徳が身についているからだ。徳のない人は徳を意識するため、なかなか身につかない。だから、最上の徳は無為であり、わざとらしいところがない。低級な徳は有為であり、わざとらしいところがある。」

老子はこう続きます。

「ところが最上の礼をわきまえている人ほど、相手がその礼に応えないと、 腕まくりしてでも、自分の礼に合わせようとする。なぜだろう。つまり、こうじゃないか。 無為自然の「道」が失われて、その後に“徳”が説かれ、“徳”が失われたあとに“仁”が説かれ、“仁”が失われたあとに“正義”が説かれ、“正義”が失われたあとに“礼儀”が説かれたのだ。だから、礼儀が説かれだしてからは無為自然の徳など、どこかにいってしまったのさ。なぜなら、礼儀というのは、人間のまごころが薄くなったからできたものであり、世の乱れのはじまりなのだ。仁義を形にする礼がはびこるのは、 見せかけだけのもので、「道」の本質を表したものじゃないんだよ。そんなものは「道」のあだ花であり、人間を愚劣にする始まりなんだ。なぜなら、立派な人間というのは、まごころの厚いほうにいて、 薄いほうにはいないものだよ。だから、もう一度、 形ばかりの礼とか知を捨てて、もとの「道」に戻るしかないのさ。」(老子)と。

ここまでくると徳の本体がはっきりとしてきます。

この「徳」とは、人間でいえば真心のことであり、思いやりのことであり、至誠のことを言うのです。この真心や至誠は決して単なる知識や学識を語るだけで実現するものではなく、真心の行動と実践によって実現するものです。

太陽の徳も月の徳も、水の徳も火の徳も、あらゆるすべての宇宙や自然には真心が存在します。その真心を発揮していくことこそが徳であり、私たちは真心で生きることではじめて本来の徳を積むことができます。

徳を積むことを頭で計算でできるはずはなく、徳を譲ることは我欲など入ればできるはずありません。ただただ一心に真心を澄ませ、思いやりのままに行動し実践することで徳は積まれていくものなのです。誰かのためにや、大切な人たちに自分の保身を入れず誠心誠意尽力していくことで顕現してくるものなのです。この徳を極めはじめて次第に万物自他一体善の境地を体得することができるように思います。

だからこそ徳を悟るには、この真心の実践の場数を積み重ね自分自身が仁徳を身に着けていくしかありません。この道には決して終わりがなく、今も生死を超えて永遠に存在し続けるているのです。

学問は本当は何のためにあるのか、それはこの徳を積み、心を磨き、魂を澄ませ無為自然に徳そのものに近づくためにある唯一の道なのです。人間が人間であるために、自然の中の一部として偉大なる与えられたいのちを活かすために古から今に至るまで本物の学問は須く「道」を説くのです。

引き続き子どもたちのためにも、徳を積む大切さ、徳の経営を実践していきたいと思います。

 

 

心と器

「ゆるし」をテーマにして取り組んでいると、そのゆるすことの難しさに驚くばかりです。このゆるしというものは、今の自分を丸ごとゆるすことですがそのためには自分の過去の傷を癒したり、自分の視野を広げたり、自分の体験した歴史を認めたり、あらゆる自分自分の今と向き合いそれを許容できなければなりません。

実際に許容するというのは、言い換えれば器を大きくしていくことであり自分自身のゆるしの器が大きくなればなるほどにゆるしの許容量もまた大きくなります。しかしこの器を大きくするというのは、自分をゆるすことができること、そして他人をゆるすことができることに比例します。自他をゆるすことは、自分自身の器を育てていくことでありこれは一朝一夕ではできないことです。

人は自分自身の器を見るとき、そこに自分の本性や本体を心に映し見ます。この時、器の周りの境界線には縁というか壁ができます。その壁がプライドであったり、トラウマであったり、恐怖心であったり、先入観であったりと、自分の器がここまでと決めているものが壁になります。その壁を壊されることもあれば、その壁を融かすこともあり、もしくはその壁によって自分を守ることもあれば、誰かを守ることもある、つまりは自分の心を載せている器が自分自身の心を支えているのです。

人は心が大きくなっていくと、それを載せる器もまた大きくなっていきます。例えば心が大きくなるのに器が小さければ器の壁が邪魔をして心がその器よりも外に出ることができません。その器は心の成長を抑制し、心の壁を厚く大きくしていきます。その器とは自分の価値観のことであり、自分の価値観を変えていかなければ心のままに自分をゆるし生きていくことが難しくなるのです。その価値観の壁は、例えばありのままを受け入れられなかったり、執着にこだわったり、他人からの評価が気になったり、誰かのせいにしたり、等々とプライドの壁として頑固に強くなるばかりです。

その心と器の関係を良好にしていくことで視野が広がり、許容量もまた増えていくように思います。人は心の成長に伴い、必ずこの器の成長があります。器を大きく豊かにしていくためにも、ゆるしの実践は欠かせないものです。

ゆるすためには、今のありのままの自分をあるがままに丸ごと認めることです。自分のことを自分が受容する、もっと簡単に言えば今の自分がもっとも今の自分に相応しいとそのままの自分でいいと自分自身が受け容れることです。そしてそのためには積極思考というかプラス思考というか、物事を前向きに捉えるということを大前提にしていなければ心は器と調和することはできません。

ゆるしとは、つまり前向きな心器を持てることでありすべてのことを全肯定する幸福の道の理なのです。これはまさに自然界に生きる生き物たちが安心してこの世でいのちを全うしている信の境地のことです。今の人間の社會は安心から遠ざかって孤独と孤立の雰囲気に心を病む人が増えています。

安心して子どもたちが生きていけるように、ゆるしを通してあるがままの自分で自由に幸福になり社會を仕合せにしていけるようにまずは自分たちから生き方を改め見直し、心器を豊かにしていきたいと思います。

自己確立の道~自立道~

自立というものを深めていくと、そのうちに自己確立ということに出会います。自分のことを一番知っているようでもっとも分からないのが自分ということでしょう。ではどこまで行けば自立なのか、何を自立なのかということになります。実際は、自立は終わりがなくいのちの成長と同じで死ぬまで、いや、魂が続く限り成長し続けることが自立なのかもしれません。

トルストイの遺した言葉に「真の文明人は、人生における自己の使命を知っている人間のことである。」というものもあります。自分とは何か、自分というもののままに生きているかということが今を生きることであり、今に生きているからこそ本心や本当の自己というものを確立していくことができるように思います。

そして自我というものがあります。この自我が自分だと思い込んでしまうと依存が強くなり、自分というものを見失っていくように思います。如何に自我をそぎ落とし、自我を省き、自己を日々に見つめていくかが人生の意味であり体験の妙であるように思います。

一つ一つの体験を真摯に内省し、その内省したことの中から自己を如何に確立していくか。このブログも同様に、それぞれが一人ひとりがみんなで自己を確立していくことこそが真の平和や生きる仕合せに繋がっていくように思います。

自分らしく生きていくというのは、自立していくということです。自立していくということは、自分の心を片時も見失わないということです。私はそれを初心とも呼びます。初心を忘れないで生きていくことが、自分を確立していくことであり確固たる自己に目覚め自分の答えのままに自分を生き切っていくことになるように思います。

しかし初心ほど不安定なものはありません、日々に流され人の評価を気にし、何かに依存して自己を卑下したり比較したりするなかで生きていればすぐに初心を見失い同時に自分も見失います。自分を見失わないで自分を遣り切っていくというのは、天を相手にして自らに問うことの連続です。自分はどうかと自問自答、自学自悟することができるのならそれは自立への道に入って人生の醍醐味を味わっているということです。

人生の醍醐味は魂の昇華であり、本当の自分に目覚め自分になるいのちの開花です。子どもたちが自分らしく自分のいのちを全うしていけるように、真の教育や保育とは何かを自分自身が見失わないように自己確立の道を精進していきたいと思います。

歴史の肌感覚

歴史の史跡を自分の足で辿っているとそこに歴史の重みを感じるものです。単に教科書や本を読んでも、その歴史の重みは分からず、その場所に立ち、過去に思いを馳せて感じていると次第にその時を肌で感じるのです。

この肌で感じるというのは、その場所や空間を体験するということです。空間というものは、時を超えてその場に止まるものです。例えば、その場で過去に何があったのかという伝承を口伝で聴き、その場所に留まり佇んでいると次第のその時の情景が目に映ります。

その場の空気は空間に宿っており、何があったのかを直観し感覚で理解していくのです。これらの能力は、人間には備わっており、私たちは文字を発明し言葉を使う前から、肌感覚で理解するという仕組みが体に染みついているのです。

以前、北海道のアイヌの長老の方にお話をお聴きすると、アイヌは歴史を口伝で理解し、100年くらい前のことはスラスラと思い出すということを聞いたことがあります。

これもまた記憶の仕方の違いであり、肌感覚で理解する人は鮮明に過去のある時をいつまでも覚えておりそれをそのままに伝承することができたのです。現在では教科書で歴史を教え、現地に行かなくても知っているかのように知識の応酬をしてはわかった気になっていることも多いのですが本来は現地に足を運び肌感覚で理解していくのが生きた歴史の認識なのでしょう。

子どもたちが、頭で知識で歴史を理解し大切なことを見落とし重要なことまで風化させていかないように自分自身が歴史に対する認識を改め、肌感覚で歴史を伝承していきたいと思います。

徳の兆し

人は知らず知らずに大きな恩恵をご先祖様からいただいているものです、それを「徳」とも言います。中国の易経の中に、「積善の家に必ず余慶あり」という言葉があります。これは善行を積み重ねた家はその報いとして子孫に必ず幸福がおとずれるという意味です。今の自分が仕合せなのは、先祖が長い時間をかけてじっくりと徳を積み重ねてきた余分を頂いているから幸福を味わうことができるということです。

これは自然界も同じで、私たちは自然の徳恵の利子をいただいてそれで暮らしていくことができます。この大自然から、私たちが食べたり生活したりする分を少し分けていただき安心して末永く暮らしていけるのです。もしもそれがなくなればすべての動植物たちは子孫を残すことができず、生きていくことはできません。先に生きた自分の先祖が真摯に自分の生を全うし譲ってくれたから自然の調和は永続してきたのです。

この逆に、「積不善の家に余殃(よおう)あり。」という言葉があります。 逆に、悪行を積み重ねた家には、子孫までおよぶ災いがあるという意味です。これを自然でいえば自然の利子で暮らすのではなく、資源をすべて後の人のことを考えずに自分たちで使い切るという生き方です。子孫には何も残らず、残るのは禍根のみです。

この徳を積み、徳を譲るということがどういうことか。

つまりは「足るを知る」心を持ってこそ、その徳を実感することができるように思います。そしてそれは感謝の心と一緒一体にあるものです。感謝のままに歩んでいけば、その行路のあちこちで徳恵に出会います。

それは例えば、思ってもいない人に助けられたり、有難い機会やご縁に恵まれたり、奇跡のような体験を味わえたり、その徳の兆しに巡り会うものです。その時こそ、自然に手を合わせたくなるものです。善いことを積んでいくというのは、いただいている分に感謝してそれを有難く使い、余分を次の方へと譲っていくものです。

本来、むかしの日本の先祖たちはみんなそのような暮らしをしてきました。その御蔭様で、今の私たちは世界でももっとも裕福な暮らしをすることができています。しかしそれを自分たちの代だけで使い切ってしまえば、子孫たちはその分、そのツケが巡り不仕合せな現実を与えられてしまうものです。

自分さえよければいいという刹那的な生活ではなく、自然に沿って自然の利子を大切に分度を保ち生きていく暮らしを自分のためにと実践していくことがその徳を譲っていくことになるように思います。

徳がすべての根本であることを自他ともに理解できるよう、御蔭様を観続けていきたいと思います。

つながり

歴史というものは「つながり」の中で確認していくものです。そのつながりが観えるかどうかは大切なことで、つながりが切れてしまえば同時に歴史も消えてしまうのです。

このために「つなぐ」人というのは、その一般には見えないつながりが観えている人であり、その観えている人が語るからこそその歴史は途絶えずに子孫へ継承されていくのです。

つながりが観えることと見えないことの差は、人生に大きな影響を与えます。例えば、今自分が存在している理由や、自分の動機や関心が湧く理由、もしくは場所や仲間、またご縁や御恩を頂いている存在がどのようなつながりでつながったのかを確認することで絶対的な安心感を持つことができます。

一見して、なぜ自分がこれをやるのかと思うことであっても、それはつながりの中で観えるのならごく当たり前に自然に行えるものです。そういう意味では直観というものもまた、目には観えないつながりを感じてそれを暗黙知的に理解しているとも言えます。

このつながりというのは、自分からつなげていこうとしなければつながりません。また自分自身がつながりを深めていかなければつながることはありません。

そういう意味で、これを先人たちは「ご縁」といって「つながり」をいつも大切にして伝承を続けてきたのでしょう。その一つの実践に先祖供養があり、神社などの縁結びがあり、一期一会の出会いを大切にしてきました。

今もあの時もそしてこれからもつながっていくということが、自他を思いやり感謝しいつくしむことであり、そのご恩返しに生きることで子孫たちへ徳恵を譲っていくことでもあります。

自分だけのことしか考えず、刹那的に生きているというのはこのつながりが見えていないということに他なりません。いつも歴史を鑑みて生きるのは、かつてのご縁を感じながら出会いを大切にしていくことです。

一期一会の生き方は、つながりを大切にしていく生き方です。

引き続き、子孫のためにもご縁を辿って観えないつながりを可視化していきたいと思います。

夢人生

人間は、どんなことも逃げずに遣り切ることで新しい境地を得られるように思います。遣り切るというのは、そこまで逃げなかったということであり覚悟を決めて取り組んだということです。

人間は誰にしろ不安というものがあります。結果がもしも思った通りではないのならと危険を冒さないように無難であることを望むものです。よく企業でもリスクマネジメントのことを囁かれますが、しかし少し考えてみるとわかりますが危険がなければ挑戦もなく、挑戦なきところに冒険もありません。

冒険するためには、好奇心と覚悟が必要です。途中で引き返そうと思いながら前に進むことなどはできません。一度選んだからには、途中下車はできず最期までその顛末を見届ける必要があります。確かに時には逃げたくなることもありますし、目を覆いたくなる現実と向き合うことがあります。それに不安と恐怖から避けてしまいたいと思うこともあるでしょう。しかし選んだのが自分であるからこそ、そこから逃げないで最期まで歩き通すことができるのです。

そして結果よりもその工程やプロセスを重んじることができるのは、その挑戦する最中こそが夢であり、その道は一度しか通らない尊い思い出だからです。人間は人生をどう生きるのかを突き詰めるとき、その人生が悔いがないようにと願います。一期一会です。その一期一会に生きようとすれば、二度とない出会いの日々を生きたいと思うものです。

だからこそ、二度とない今を遣り切るという判断基準が身に着いてくるように思います。苦労はたくさん発生しても、同時にそこにはかけがえのない福もあります。この時間という宝をどう磨いて活かしていくか、それが自分の人生を彩るのです。

私利私欲ではなく、動機がもしも純粋ならばそこに向かって挑戦していくのが人生の醍醐味です。冒険する人生の中で人は苦労を獲得し、感謝や祈り、謙虚さや素直さを学び直します。魂の成熟は、私たち人間に具わった天命でありこの地上に生を受けたものの至大至高の使命です。

子どもたちが憧れる生き方ができるよう、夢に向かって挑戦していきたいと思います。

竹炭天井

昨日、聴福庵の厨房の天井に竹炭を貼りすべてを竹炭で埋め尽くしました。この聴福庵にはすでに2トン以上の炭を床下に配置しており、家のあちこちは炭で満たされます。この天井に数千枚以上の竹炭が貼られてより一層、澄の黒や夜の暗闇があたたくなってきました。

少しご紹介するとこの竹炭は効果は非常に高く、暮らしのあちこちで利用されています。炭になる段階で素材の組織である無数の小さな穴がそのまま残ります。この部分のことを多孔といいこの多孔の内側の凹凸が吸着性に優れており空気の清浄や脱臭、水の浄化、湿度を一定に保つ調湿効果に力を発揮するそうです。

他にも竹炭にはミネラル成分が豊富に含まれ、その抽出量は木炭の数倍にもなります。カルシウムやカリウム、ナトリウム、マグネシウム、鉄分など、健康を守る天然ミネラルが、水に溶けやすい形で、しかも豊富にバランスよく含まれているといいます。水の中に入れたり、炊飯するときに一緒に入れればミネラル分がしっかりと融けだし美味しく健康な食べものになります。

他にも竹炭は弱アルカリ性~アルカリ性を示すPh値をもっていて雑菌が好む弱酸性に対して大きな抗菌効果があるといわれます。他にも竹炭には吸着力があり、防湿・湿度調整作用や脱臭作用があります。その無数の穴が湿気を吸い取り、適度な湿度を保ちます。炭の表面に空いている無数の穴の中には有効な微生物がいて、空気中の湿気やにおいの成分、建物の建材によるホルムアルデヒドなども吸引し、消臭分解してくれるそうです。

また竹炭をお風呂に入れると、湯の中で加熱されることで竹炭から放射される遠赤外線の波長が短くなりからだのすみずみまでよく温まり、ぽかぽか効果が得られると言われアトピー等の皮膚炎にもその効果を発揮するといいます。そして竹炭からは強力なマイナスイオンが出ているといいます。このことから空気をきれいにするだけでなくヒーリング効果もあるといいます。

他にも竹炭にはたくさんの効果があるのですが、実際に天井に貼ってみるとその効果や威力の実感に驚くばかりです。部屋の快適度や安心感、そして隣の天井にある煤竹との絶妙なバランスでむかしの懐かしい感じが一層引き立っています。癒しの効果は絶大で、ここにいるだけで心が穏やかになってきます。

目に見えるものだけを信じるような現代の世の中で、こうやって具体的に体験できることは本当に素晴らしいものです。子どもたちにも、体で感じる安心感や懐かしいと思える心の満足感などを幼いときに味わえるように古民家甦生を丁寧に進めていきたいと思います。

生存の知恵

現代において日ごろからあまり風土や文化のことに注目をして何かに取り組むということは次第に減ってきてるように思います。この風土や文化というものは、どれも長い時間をかけて取り組むことであり短期的に目先のことばかりを見ていては風土や文化を実感することができません。

例えば、風土が醸成されるのにどれくらいの時間がかかるのか、それは短くても数十年、長くては数百年や数千年をかけて行われていくものです。この日本の風土や文化も同様に、数百年の歴史、もしくは数千年の歴史を経て今に至ります。これは伝統と同じで数年で伝統は呼ばず、少なくても数十年から数百年、代を重ねていく中で伝統は語られます。

これは自然環境と似ています。自然環境が出来上がるのにはその環境の一部として自分も共に生きていくなかで時間をかけてゆっくりと行われます。それは山川草木、動植物昆虫や菌類に至るまでそれぞれが共生し合う中で生きていくための環境が出来上がっていくのです。そこまでに数百年から数千年を経て、絶妙に調和しながら豊かな風土や文化が醸成されます。つまり生き物たちがどのような暮らしをしてきたかが後の文化と風土になるということです。

これは例えば企業文化や企業風土などもそうですが、一朝一夕にできるものではなく確実に風土や文化を営み、積み重ねていく中で醸成されていくものです。それは単に数か月でできるものではなく、最低でも数年、そして数十年を懸けて磨かれてカタチに顕れてきます。老舗も同様に、そこに働く人々の生き方や働き方が次第に文化になっていきます。

その文化もややもすれば、消費するばかりのグローバル化で破滅的な風土を招いたり、もしくは変化を避けているうちにマンネリ化するとそのうち不自然になり自然淘汰していきます。これも天地自然の理です。

自然淘汰しないためには、それぞれの生き物たちのように真摯に環境に働きかけて自分自身を変え続けていくしかありません。今までも人類はそのように生き残ってきましたし、いつまでも文化や風土を磨いて高めていくから本質や本物になります。

つまり文化や風土は、目には観えませんがすべての生き物たちがもっとも自然に適応していくための生存の知恵なのです。人類がその風土や文化に即して伝統や歴史から学ぶのは、それが生存の知恵と直結しているからです。

引き続き、人類の未来のために生存の知恵を伝承していきたいと思います。