自らに由る組織

幼い頃から学校で誰かのルールに従い評価されるという訓練をされ続けると自分で考える力というものは減退していくものです。他人から与えられたルールに従うとき、その人は他者依存が強くなり自律する必要性がなくなってきます。

本来は、人間は道徳というように自らに規範を持ち自らの判断で思いやりを中心にしお互いに助け合うとき人間性の高い社會が形成されていくものです。それぞれに自分の中に初心(良心)を設けて、その初心に従うことができるのなら自律した組織が実現し自由にそれぞれが思考を働かせて豊かな社會を実現します。

組織には思考停止する状態に陥っているものがあります。これは独裁者や権力者の設定したルールに従わせた結果、自分で考えることすらも止めた状態のことを言います。誰かが正解を持っていて、自分が間違わないようにということばかりを考え続けると人間は言い訳ばかりが増えていくものです。なぜなら言い訳は、自分で物事の本質や初心から考えないから出てくるのであって、自分で突き詰めていく人は具体的な改善や行動になって言い訳をする暇がなくなっていくのです。

自律というものは、言い換えれば自己規律ということです。これは自分で決めた規律を自らが守るという意味です。

例えば、ある組織や社會には規範があります。それは理念や方針、もしくは初心や信条などです。どの企業でも経営理念を掲げて、それをそれぞれが理解し自らがそれを自らで守ることでお互いに信頼関係を築き協力して連携することができます。

言われたことだけを守ればいいという組織は、この規範や規律を守るということの意味が分かっておらず表面上のルールに盲目に従えばいいと思い込んでしまいます。余計なことはしない方がいい、言われていないことは遣らない方がいい、自分から主体的に挑戦するのはやめた方がいいと、損得勘定によって自分に責任が追及することを嫌がるものです。このように一人ひとりが思考を停止すれば、もはやマニュアル人間としてマニュアルを設けてマニュアルに従わせるしか仕方がありません。

これは過去の大量生産の工場のようにみんなが機械のように単一に動き、その通りに物を作っていたらよかった時代ならこれはこれで一つの成功になったかもしれません。しかし今は、成熟して価値観も多様化してきてそれぞれが自らで自立し思考を働かせ協力しなければ対応できないほどに変化が求められます。変化が著しい時代には、かつてのようなマニュアルでは対応できないのです。

思考停止しないためには、それぞれが自らで自らを律するという力をつけなければなりません。そこは細かいルールをたくさん設けて従わせるような組織ではなく、方針だけを示したら後は個々の規範を信じて見守るという組織にする必要があります。つまり自由な組織、一人ひとりが自ら考えて自らに律するという「自らに由る組織」にしていくのです。

しかし今までそうではない組織に所属していた人たちはこの方針の意味が分からないから苦しくなります。自らに由るよりも、誰かからに縛られている楽を知ってしまっていれば最初の苦しみが辛いかもしれません。自由というのは、自律しなければなりませんから自立できない人は他者に依存していたいのです。他者に依存するというのは、たばこなどに似ていて常習化すればなかなか止めることができません。

個々の思考停止においては勇気を出して止めてみる努力をすること、自分で規範を設けて規律するという挑戦をすることで少しずつ改善していくものです。組織の思考停止においてはそれぞれが規律できるような環境や場を用意していくしかありません。つまりは他者依存から自立と自律の風土に換えていくということです。

自分で考える力は、これから多様な社會をみんなで築くために必要な力です。子どもたちが安心して自分らしく持ち味を発揮して社會で有用な人物になっていけるように私たち大人がその模範を示していきたいと思います。

真心と至誠

人と人との間の関係において、人間は頭で考えることと、真心で行動することを勘違いしてしまうと本質から乖離してしまうものです。本質を守るためには考えるか真心かという二者択一ではなく、常に真心を用いながら生活しその中で考えを巡らせていくという心身統一が必要になります。

この心身統一とは、理想と現実の統一とも言ってもよく、自分の人生でどう生きるかという生き方と、同時にどのように創意工夫して初心を保つかという知恵の活用です。

剣・禅・書の達人と言われた幕末から明治の武人に山岡鉄舟がいます。この人物はまさに、その心身統一に生きた真心の人だったように思います。江戸の無血開城もこの人物無しではありえなかったことですし、明治天皇の教育指導者としてもその後に大きな影響を与えます。山岡鉄舟が遺した言葉にこういうものがあります。

「まこころの ひとつ心の こころより 萬のことは なり出にけむ」

意訳ですが、「心を一つにすれば真心が発動し、すべてのことはそれによってのみ成り立っていくんだよと。」つまりは、自分の心の声に従って活動することで真心のままになりそのことがすべての出来事と一体になって活動していくのだという意味です。

人は頭で考えたことを心の声だと勘違いします。我が強く自分の思い通りにしようと思うばかり、我欲から出た声も心の声と思い込んだりもします。心の声を聴くというのは、我欲に呑まれないように常に真心のままに生きる実践を行っていくということです。

例えば、「思いやり」を持ち続けることも真心の発動です。頭で考えた思いやり風や真心風ではなく、心を寄せていく思いやりや真心を実践していくことです。人間は、相手の立場に身を置き、心情に寄り添って一緒に事物に傾聴し共感し受容していくのなら、自然に心が発動していきます。心は、常に全体を捉えておりその全体の中には自他の違いがありません。

もしもあなたが私なら、私があなたならと自他一体なのです。それを維持するには、計算から入るのではなく心から思いやる澄んだ精神が必要です。心を研ぎ澄ましていくというのは、山岡鉄舟のように自分の中に雑念や妄念、我欲や計算、保身などが邪魔しないように真心で心を大きくしていく修養を行うということかもしれません。

山岡鉄舟の剣の極意にはこう記されます。

「無刀とは、心の外に、刀が無いこと。敵と相対するとき、刀に拠ることなく、心を以って心を打つ、これを無刀という。」

「宇宙と自分は、そもそも一体であり、当然の帰結として、人々は平等である。天地同根、万物一体の道理を悟ることで、生死の問題を越え、与えられた責務を果し、正しい方法に従って、衆生済度の為に尽くす。」

「剣法を学ぶ所以は、ひとえに心胆練磨。もって、天地と同根一体の理を果たして、釈然たる境に、到達せんとするにあるのみ。」

心胆錬磨して一体何を目指したか、真心一つ、至誠こそその初心であることが分かります。

一日一日を過ごし内省し振り返る際に、もっとも大切なのは頭で考えることよりも、どれだけ心を使ったか、どれだけ心に従ったかという日々の心身錬磨が出てくる未来を変えていくのでしょう。

真心と至誠から常に自分を使い切っていきたいと思います。

空氣の本質~元氣な暮らし~

人間は空調に慣れてしまうと空気の流れや新鮮さなどを感じなくなりますが、むかしの古民家に住んでみると風が縦に流れているのを感じ澱みのない新鮮な空気の美味しさを味わえるものです。家の中では囲炉裏をはじめ、火鉢などを炭を熾してお茶を飲みますがその空気も床下から天井の屋根へと流れていく空気によって常に浄化されていきます。

以前、新潟のとある古民家宿泊施設に泊まったときそこは空調設備が整い現代のサッシの窓で厳重に閉め切られていたのですが、囲炉裏で火を熾したらすぐに一酸化炭素中毒の症状が出たことがありました。現代の住宅では危ないからと決して閉め切ることがないのですがつい古民家だから大丈夫だろうと安心していたのが原因でした。古い家でも、現代風になっているところは空気が循環していないのだなと改めてむかしの家の智慧を感じる善い体験になりました。

人間は空気を吸っていかなければ生きてはいけません。空気の中から水分を吸収したり、目には観えない様々ないのちのエネルギーを得ています。森林浴なども空気の中に入っている様々なものを吸収して心身ともに癒されていくのです。その空気が環境汚染によって汚れており、都市ではなお空気は汚れますから健康を害しているのは当然とも言えます。

以前、「医師が薦める本物の健康住宅」という記事を読んだことがあります。そこに小児科医の真弓定男院長の記事に「食事と空気を昔に戻せば、子どもはみんな元気になる」というものが書かれていました。

「特に、みなさんが普段何気なく吸っている空気の問題は重要です。何より気をつけないといけないのは、冷暖房で温度調節された空気です。人間は25日間、何も食べなくても水さえあれば生きていけます。その水も5日間程度なら飲まなくても大丈夫。でも、5分間呼吸をしなければあっという間に死んでしまいます。それほど空気は大切なものです。ところが、この空気をおざなりにしている人が非常に多いのです。
町中の空気より、自然な空気のほうが体にいいことは誰でも知っていること。それなのに、冷暖房や加湿器を効かせた室内で、一年中同じ温度、湿度の中にいるのは、あまりにも不自然だとは思いませんか?体には、もともと温度調整機能が備わっています。気温が高ければ自動的に毛穴を開いて汗を出し、逆に気温が低ければ毛穴を閉じて体を震わせ、熱を生み出す。そうやって体温を一定に保っているにもかかわらず、機械によって体の状態を保とうとすれば、体本来の機能が失われていくのは当たり前です。」

現在、東京では総合空調のビルの中で一日を過ごすことがあります。田舎で自然農や古民家で暮らしているなかで都会の生活に戻るとあっという間に皮膚や疲れが溜まっていくのを感じます。もちろん、病院の入院のように病気の時は回復に役立つのですが健康な時にはかえって不健康になるという具合に体温調節の機能などが働かなくなるのを自分の体験からも感じます。

田舎での体の活き活きした強さは、自然の中で五感が働き躍動することで得られる元氣です。都会は体はあまり使わず、頭ばかりを使うので五感よりも脳さえ動けばいいのかもしれません。しかしその脳も、便利すぎる都会の生活の中で空気や電磁波、食事によって働きが減退しているのも感じます。

さらに真弓先生は、「本来、外気と室内の温度差は、5℃以上あってはいけません。できるだけ外と近い空気を吸う。冬でも薄着の習慣をつける。それが子どもの健康を守る大事な秘訣です。」といいます。

自分の体をあまり甘やかさずに、少し厳しくすることで本来備わっている力を発揮させるようにする。健康を守るというのは、今の時代では環境に甘えずに自律して自立する生活習慣を身に着けるということかもしれません。

最後に、「本物の家」についてこう語られています。

「通気性のいい家とは、家の中の風が縦に吹く家のこと。昔はどの家にも必ず縁の下がありましたが、床下の空気が畳を通して1階に上がり、格子状の天井を通して2階へ行き、その空気が瓦屋根を通って外へ行く。昔ながらの木造旅館などがそのいいお手本です。すぐに新しい家を建てることができないという方は、窓を開ける習慣をつけましょう。外の空気となじませるだけでも違います。建物の空気を大事にすれば、健康面だけでなく、心ものびのび育つはずですよ。」

むかしの家にすれば、本物の家になるという言葉はまさに本質だと思います。

先人たちは、この土地の風土の中で私たちよりもずっと長い間、暮らしを営んできました。その中で得た住宅や家の智慧は、私たちが健やかに安心して健康に生きていくために創意工夫された努力の結晶とも言えます。

それを外来の異なる風土から入ってきた建物や家に住み、その翳った分を加工して乗り越えるのもそろそろ限界に来ているように思います。環境汚染が進み、気候変動やあらゆる資源が激減する中で、そんな遠くない未来に私たちは便利さや快適さを見直してでも健康で長生きし、安らかに豊かに暮らす方を選択することになると思います。

その時のためにも、先人の智慧を伝承することは今の時代を生きる世代の大切な使命です。引き続き、子ども第一義を実践し「本物」を譲り遺すために自立と自律を実践して継続継承していきたいと思います。

 

全体こそ自分

今の時代は、経済効率優先の世の中で古いものは捨ててしまい新しいものばかりを購入していくことが当たり前になっています。古いものの価値はほとんど失われ、ただ古くて不便で非効率であるとして無価値のように裁かれています。

現在、日本の各地に出てくる空き家の問題も高齢化と少子化、若者の都市集中など、このままではいずれボロボロの街並みばかりを見かけるようになると思います。

先日、訪問したドイツの街は日本の街との景観や雰囲気がまるで異なります。これは単に文化が違うからという意味ではなく、日本のようにそれぞれが好き勝手に自分の好きな建物でバラバラの景観になっているのではなく、自国の文化風土にあったものをみんなで調和させるように建っていました。

特に西洋では、自分の家のことだけを考えるのではなく周囲の景観や全体がどうなっているかというところからそれぞれに皆で自律し合って街並みを保全しています。

日本人の現在は、自分さえよければいいという個々がバラバラになり全体快適や全体善のことなどを考える人が少なくなってきているように思います。これは単に家だけではなく、仕事においても自分のことさえしていればいいとし全体があって自分があることに気づかない人も増えています。

本来、社會というものがあってその中に自分が入っているから自分が守られ生活を維持していくことができます。道徳においても、なぜ自分がゴミを拾うのかを考えてみれば、それが全体にとって必要なことにつながっているからです。自分一人くらいと、自分が他人に迷惑をかけても問題ないという発想はそもそもの社會に対して自分から参画していないということです。

視野の狭さというのは、言い換えれば歪んだ個人主義の生んだ利己的な悪習慣の一つであり学問というものはその視野を広げるために必要なものです。人間は比較競争評価の環境下では自我や保身から利己的に傾くのです。その利己的な視野を広くするというのは、自分が存在することができている社會全体そのものを守ること、さらには自分が所属する世界を守ることに生きることで抜け出せます。自然界もそうやって循環しながらみんなで活かし合うのです。

話を戻せば古いものを大切にしなければ、世の中は新しいものと古いものが無造作に増えてしまいます。新しいものもそのうち必ず古くなりますから、それを壊し捨て続けることが果たしてどこまでできるのかと真摯に現実と向き合ってみれば現在の政策や経済原理が如何に大きな矛盾と限界とツケを子孫へと払うものであるのかは火を見るよりも明らかです。

だからといって、皆が進んでいる方と逆に歩めば周りからは奇人変人扱いされて理解されることもありません。人は自分で考えず周りに合わせて思考を停止して生きていく方が楽だからかもしれません。私も別にだからといってマイナス思考になって悲観すればいいと思っているわけではなく、現実を直視しそれを半分は世間様のため半分は自分のためだと全体にとっては善いことだろうと気楽に楽しめばいいと思っています。心は義憤もありますが、実際は有難い一期一会の体験をさせていただけているのだから感謝で人生を歩んでいきたいと思うのです。

つまり長い目で観ることも全体観であり、利他に生きることも全体善、そしてみんなが喜んでいる働き方も全体快適、この「全体」があっての自分であるということを決して忘れないように、自分をどのようにマネージメントし続けるか、どのような自助習慣を持ち続けるかが重要な生き延びるための知恵になると私は思います。

組織も国家も、世界にも、生き延びるための知恵とそれを活かすための勇気とそれを維持していく習慣が必要なのです。

引き続き、今と未来の子どもたちのためにも社業を通して子ども第一義の全体善の仕組みを現場で伝承していきたいと思います。

ドイツのはじまり2

ドイツの歴史が近代に入ってきますが、ユンカー出身のオットー・フォン・ビスマルクがプロイセン首相に就任し、鉄血政策を推進しドイツ帝国が成立します。しかしその後の首相、ヴィルヘルム2世は親政開始と同時に帝国主義的な拡張政策に転換します。

このヴィルヘルム2世は、ヨーロッパを巻き込み第一次世界大戦を勃発させます。アメリカも参戦し、1918年キール軍港の水兵の反乱を契機としてドイツ革命が発生すると、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命します。ここでドイツ帝国は崩壊し、ヴァイマール共和国となります。

敗戦後、ドイツは(ヴァイマール共和国)は敗戦国として結ばされた講和条約のベルサイユ条約は非常に過酷な条件を課せられました。賠償金の支払いは困難を極めドイツ国内ではインフレが進み、賠償金の支払いが滞る事態となります。ミュンヘン一揆なども発生し、民衆の不満はどんどん加速していきました。

しかしシュトレーゼマン内閣の時期には賠償金の支払いに関しても条件が緩和され、インフレ対策も功を奏し、経済と政情も少し安定してきます。さらにロカルノ条約を締結し、国際連盟に加盟しようやくドイツは国際社会に復帰することとなります。

安定もつかの間、アメリカに端を発した世界恐慌に巻き込まれ経済が急速に悪化し混乱します。この時、あの有名なアドルフ・ヒトラーが台頭してくるのです。

政権を獲得したヒトラーは国内的には公共事業により経済の立て直しを図る一方で、「ニュルンベルク法」に代表される人種政策を実行します。さらに軍備を急速に拡張し、国外に向けて侵略を次々に開始していきます。ポーランドに侵攻した際に、イギリス・フランスはドイツに対して宣戦布告をし第2次世界大戦が勃発します。ドイツの勢いが強く、はじめにフランスが降伏、さらにイギリスを除く西ヨーロッパを制圧する勢いで勝利を重ねます。

しかし、ソヴィエト連邦のスターリンと結んだ「独ソ不可侵条約」を破棄し独ソ戦争に発展し、急速に勢いが衰え各地のドイツ軍は敗戦が続きます。最後にはベルリンがソ連軍により包囲され、総攻撃が行われヒトラーは自殺し1945年5月、ドイツは連合国に対して無条件降伏するのです。

敗戦後、連合国の占領、管理下に置かれたドイツは、1949年5月、米・英・仏の占領下にあった地域では自由主義・資本主義国家としてドイツ連邦共和国(西ドイツ)ができ、ソ連は同年10月に占領地域を共産主義国家としてドイツ民主共和国(東ドイツ)ができます。東西ベルリンの間に「冷戦の象徴」とも言われた「ベルリンの壁」が設けられ対立がはじまります。

そしてソ連の書記長ゴルバチョフが始めた「ペレストロイカ」の波が東ヨーロッパに押し寄せた結果、東欧各地で民主化が起こります。1989年11月、東西ベルリンを隔てていた壁の検問所がなかば自発的に開かれ、ベルリンの壁が破壊されます。これにより東西の往来が可能になりドイツが再び統一され大国としてEUの中核国になります。

敗戦後の復活は日本と似ていて、西ドイツを中心に経済を発展させ著しい成長を遂げました。統一後もドイツは、ものづくりや貿易によって世界の経済大国の一つに返り咲きます。

現在のメルケル首相は、2005年11月22日に首相に就任してから「ドイツのお母さん」と称され、高い支持率を誇りEUの盟主としてイニシアティブをとってヨーロッパ経済をけん引しています。しかし、ここにきて中国との経済協力の見直し、増え続ける難民と移民の問題、ロシアとの関係、ギリシャ危機、イギリスのEU離脱、他にも好調だったドイツに影が見え隠れしています。

これからどのようにドイツは歴史の舵を切るのか、日本も似た境遇にあったドイツの取る道筋が参考になることも多いと思います。

さて、簡単に歴史を辿りましたがドイツはこうやって何度も分裂と統一を繰り返し多様性を維持しながら発展させてきた国家です。世界の中でのドイツがどのようになっていくのか、現在の教育や保育の中にもその未来への種が隠れています。

今回の視察では、伝統文化や歴史、現在のドイツの事情を洞察しながら日本の未来を直観する研修にしたいと思います。

 

 

純粋無垢な真心

先日、ある料理店にいき日ごろの御礼にとみんなに食事をご馳走したことがありました。その後から体調が急変し、何人か感染症のような症状で私も含めて寝込んでしまいました。ひょっとしたら原因はそれだけではなかったかもしれませんが、本来は誰かや自分のせいではないのですがみんなが苦しんでいる姿を見ると申し訳なかった気持ちになってしまうものです。

そのようなことを考えているとふと仏陀の最期の話を思い出しました。

仏陀は、説法の旅の最期には、金属細工師のチェンダという仏陀の信奉者が出したキノコ料理で食中毒になり衰弱してそのまま数日後に亡くなってしまいました。

今までは仏陀の動向にばかり注目していましたが、その仏陀の状況をしったチェンダは一体どんな気持ちだったろうか。そしてどれだけ深く心を痛めただろうかと、どうしても共感してしまいます。大切な人にもてなしたことが、それが原因で相手が苦しんだり死んでしまうということがどれだけ辛いことか、その後はどうなったのだろうと思ったのです。

調べてみるとやはりチェンダは非常に落ち込み自分を責めていたといいます。そしてそのチェンダを思いやり仏陀は弟子のアーナンダを使いにやって責めることが決してないようにと次のような伝言を託けます。

「わたしの一生には忘れることができない供養がある。その一つは悟りを開いた直後のスジャータの出してくれた食物、そしてもう一つはチェンダの供養を受けた食物です。それは、最高の功徳です。」と。

それを聴いたチェンダは、地に額をつけて泣きました。私もそれを知って仏陀の思いやりに心が救われました。

知らず知らずに大切なものを傷つけてしまったとき、本当に苦しくそれはどうしても責めるところは自分しかないときもあるものです。自分が間違って怪我をさせてしまったり、不用意な言動で相手の心を傷つけてしまったり、特に幼少期や未熟さゆえにそれが発生し本当に悲しく自分を責めたことが何回もありました。

この仏陀の供養というのは、スジャータとチェンダの純粋な真心のことであり、そのことで私は悟ることができたという仏陀の大切な気づきです。仏陀にとっての忘れることができない供養とは、純粋無垢な仏陀への真心そのものだったのかもしれません。真心からの純粋な行動がどのような結果になったにせよ、その現象の結果ではなく常にその真心の方であると、仏陀の供養を思い大切にして生きていきたいものです。

人にはそれぞれに因縁があり宿命があります。

そこには無数無限の不可思議なつながりがあり、人生はどのようになるのかは誰にもわかりません。だからこそ人としての道を自らの真理で習得し、その智慧によって生きていくしかありません。

仏陀の歩んだ足跡には、その生き方や生き様という智慧が詰まっています。子どもたちの純粋な真心や優しい気持ちを見守っていけるよう智慧や真理を学び続けていきたいとおもいます。

感情の源

人間はそれぞれに感情を持っています。感情とは物言わぬ言葉でもあり、感情が言いたいことが何かは感情に出ているものです。本当は何を言いたいのか、本当はどうしたいのかは感情が語るのです。

その中で特に「怒り」という感情があります。よく何かあると怒っている人がいますが、怒っているのはその怒っている感情を通して何を言いたいのかが分かります。

例えば、相手に「勝手なことをするな」と怒っている人は「自分を蔑ろにしないで」という本心を語っていますし、「なんで気をつかえないんだ」と怒っている人は、「自分を気遣って」と本心を語ります。もしくは黙って怒りのオーラだけ出している人もまた「自分をわかってほしい」と語っているのです。このように怒っていることの背景には常にその人の本心があり、それはあくまで本心から表出してきた一つの動作や言葉という反応であり、その反応に反射的に対応しているだけでそれで拗れたりトラブルに発展することがほとんどです。

人間はそれぞれに価値観が異なりますから、その人なりに自分の信じ込んでいる世界があります。それを誰かに無碍にされたり他人によって壊されることを避けているものです。怒りの感情はほとんどが、「自分を尊重してくれていない」とその人が感じるから出ているとも言えます。その自分を尊重してくれたかどうかは、自分の価値観(信じている世界)のことを認めてくれているか、自分の価値観を立ててくれているか、自分の価値観もわかってほしいということを求めているのです。

本来は成熟してくると、自分の信じている世界があるようにみんなそれぞれに信じている世界があると多様性を認められますが自分の信じている世界のみがすべてになってしまうと周りとの人間関係が築きにくくなります。もしもみんなそれぞれに自分の信じている世界のみがすべてだと思い込み、自分が正しいと自分の価値観だけの正当性を証明しようと躍起になれば人間関係がギスギスしてしまいます。

色々な価値観があり、それぞれの信じている世界が面白いと寛容な気持ちを持てるようになれば、それもいいね、これもいいね、それも一理ある、その発想はなかったと、認め合えるようになります。そうなれば人間関係も円滑になり、それぞれの持ち味を活かし合えるようになります。

感情の源になっているものが何かと思いやることでその人の価値観を知り、その価値観を尊重することでその人は自分の信じている世界を大切にされた、つまりは自分を大事にしてもらっているという自己肯定感を持つことができるように思います。

感情を押し殺したり、感情を武器のように振り回すのではなく、この感情の本心は何だろうとみんなで思いやる訓練をすることが内省の本質であり、社會をよりよくするためにその訓練を日ごろから実践してみんながお互いの絆を深めあい安心して仕合せに生きることを目指すのが一円対話です。

引き続き、自分たちの実践を通して本心に寄り添い本心を隠さずにオープンでいられるような多様な持ち味が活かせる世の中になるように精進していきたいと思います。

誓願

御縁あって、郷里のお地蔵様のお世話を御手伝いすることになりました。ここは私が生まれて間もなくから今まで、ずっと人生の大切な節目に見守ってくださっていたお地蔵様です。

明治12年頃に、信仰深い村の人たちが協力して村内の各地にお地蔵様を建立しようと発願したことがはじまりのようです。この明治12年というのは西暦では1879年、エジソンが白熱電球を発明した年です。この2年前には西南戦争が起き西郷隆盛が亡くなり、大久保利通が暗殺されたりと世の中が大きく動いていた時代です。

お地蔵様の実践する功徳で最も私が感動するのは、「代受苦」(大非代受苦)というものです。

「この世にあるすべてのいのちの悲しみ、苦しみをその人に代わって身替わりとなって受け取り除き守護する」

これは相手に起きる出来事をすべて自分のこととして受け止め、自分が身代わりになってその苦を受け取るということです。人生はそれぞれに運命もあり、時として自然災害や不慮の事故などで理不尽な死を遂げる人たちがいます。どうにもならない業をもって苦しみますが、せめてその苦しみだけでも自分が引き受けたいという真心の功徳です。

私は幼い頃から、知ってか知らずかお地蔵様に寄り添って見守ってもらうことでこの功徳のことを学びました。これは「自他一体」といって、自分がもしも相手だったらと相手に置き換えたり、もしも目の前の人たちが自分の運命を引き受けてくださっていたらと思うととても他人事には思えません。

それに自分に相談していただいたことや自分にご縁があったことで同じ苦しみをもってきた人のことも他人事とは思えず、その人たちのために自分が同じように苦を引き受けてその人の苦しみを何とかしてあげたいと一緒に祈り願うようにしています。

もともとお地蔵様は、本来はこの世の業を十分尽くして天国で平和で約束された未来を捨ててこの世に石になってでも留まり続け、生きている人たちの苦しみに永遠に寄り添って見守りたいという願いがカタチになったものという言い伝えもあります。

また地の蔵と書くように、地球そのものが顕れてすべての生き物たちのいのちを見守り苦しみを引き受けて祈り続けている慈愛と慈悲の母なる地球の姿を示しているとも言われます。

自分の代わりに知らず知らずのうちに苦を受けてくださっている誰かを他人と思うのか、それとも自分そのものだと思うのか。人の運命は何かしらの因縁因果によって定まっていたとしても、その苦しみだけは誰かが寄り添ってくれることによって心は安らぎ楽になることができる。

決して運命は変わらなく、業は消えなくても苦しみだけは分かち合うことで取り払うことができる。その苦しみを真正面から一緒に引き受けてくれる有難い存在に私たちは心を救われていくのではないかと思うのです。

傾聴、共感、受容、感謝といった私が実践する一円対話の基本も、そのモデルはお地蔵様の功徳の体験から会得し学んだことです。その人生そのものの先生であるお地蔵様のお世話をこの年齢からさせていただけるご縁をいただき、私の本業が何か、そしてなぜ子どもたちを見守る仕事をするのかの本当の意味を改めて直観した気がしました。

地球はいつも地球で暮らす子どもたちのことを愛し見守ってくれています。すべてのいのちがイキイキと仕合せに生きていけるようにと、時に厳しく時に優しく思いやりをもって見守ってくれています。

「親心を守ることは、子ども心を守ること。」

生涯をかけて、子ども第一義、見守ることを貫徹していきたいと改めて誓願しました。

感謝満拝

 

道理

世の中には道理に精通している人という人物がいます。その道に通じている人は、道理に長けている人です。道理に長けている人にアドバイスをいただきながら歩むのは、一つの道しるべをいただくことでありその導きによって安心して道理を辿っていくことができます。

この道理というものは、物事の筋道のことでその筋道が違っていたら将来にその影響が大きく出てきます。そもそも道は続いており、自分の日々の小さな判断の連続が未来を創造しているとも言えます。

その日々の道筋を筋道に沿って歩んでいく人は、正道を歩んでいき自然の理に適った素直で正直な人生が拓けていきます。その逆に、道理を学ぼうとしなければいつも道理に反したことをして道に躓いてしまいます。

この道理は、誰しもが同じ道を通るのにその人がそれをどのように抜けてきたか、その人がどのように向き合ってきたかという姿勢を語ります。その姿勢を学ぶことこそが道理を知ることであり、自分の取り組む姿勢や歩む姿勢が歪んでないか、道理に反していないかを常に謙虚に反省しながら歩んでいくことで道を正しく歩んでいきます。

成功するか失敗するかという物差しではなく、自分は本当に道理に適って正しく歩んでいるか、自分の歩き方は周りを思いやりながら人類の仕合せになっているかと、自他一体に自他を仕合せにする自分であるかを確かめていくのです。

その生き方の道理に精通している人が、佛陀であり孔子であり老子でありとその道理を後に歩くものたちへと指針を与えてくださっているのです。

道理を歪めるものは一体何か、それは道理を知ろうとしないことです。

相手のアドバイスを聞くときに、自分の都合のよいところだけを聞いて自分勝手にやろうとするか。それともよくよく道理を学び直して、自分の何が歪んでいるか姿勢を正し、すぐに自分から歩き方を改善するか。

その日々の一歩一歩が10年たち、30年経ち、60年経ち、未来の自分を創り上げていきます。将来どのような自分でありたいか、未来にどのような自分を育てていくか、それは今の自分の道理を見つめてみるといいかもしれません。

そういう意味で、道理を見せてくださる恩師やメンター、そして先達者や歴史上の先祖は、偉大な先生です。そういう先生の声に耳を傾ける謙虚で素直な人は、道理に反することはありません。

私もいただいた道理をもっと多くの方々に譲り渡していけるように感謝のままで自分を使っていきたいと思います。

本物のチーム

私たちが取り組んでいる一円対話は、本質的なチームを実現させるために実践を行う仕組みです。その智慧は、日本の伝統的な精神でもある「和」に基づき、それを人々の間で共有することで多様な価値観を持つ人たちが協働して偉大なことを実現するという仕組みを用いています。

チームといっても、いろいろなチーム観があります。例えば、似た価値観を持っている人たちが集まる仲良し集団のチームだったり、軍隊のように規律正しく一糸乱れぬ集団のチームだったり、専門的なスキルをそれぞれが持ち合って先端的な集団のチームであったり、変幻自在に状況に合わせて変化する集団のチームであったりと、チームという言葉は一つでも、実際には多様なチームがあることに気づきます。

日本にたくさんの色を現す言葉があったり、詳細に分かれた季節を現す言葉があるように、自然界は一つだけの価値観でまとめられるほど大雑把ではなく、繊細で複雑に変化しているものだから一つでまとめることができません。それと同様にこのチームというものも、一つでまとめることはできずその時々に変化していくものですからチームのカタチにこだわっていてもキリがありません。

いつも仲が良く何も争わないことがいいチームだと思い込んでいる人がいますが実際には人間は複雑ですから個々の感情を無視したり我慢したり、抑え込んだり、分けたりしてもそれでは本当に力を合わせることはできません。チームワークには、常に感情も伴いますからお互いの価値観が異なり感情が入っていても認め合いみんなで「和」を尊びながら助け合い思いやり取り組んでいくのが本質的なチームワークになります。

そのためには、それぞれ個々が目的や初心を忘れずに、感情もあるけれどその我を省きながらもみんなのためにと「和」を優先して心で聴ける共通理解が必要です。言い換えれば、みんな異なっていてもいい、そのうえでみんなで助け合えればいいという具合に全体快適になるようにみんながそれぞれに自分を修めていくのです。そしてそれもいいね、これもいいねと、みんながあるがままで働けるように場を整えていかなくてはなりません。

その環境を用意していくには、日ごろの修練が必要です。今の時代は、個がすべてにおいて優先され自分のことしか考えない、自分のことしか守らない、全体やみんなによって活かされていると思いにくいような社会があります。それに全体主義やみんなを優先とするとどこか個が消されて軍隊のようになると思い込まれている人もいますが、本来はみんながいる御蔭で私が暮らしていける、社會があるからこそ私が活かされると、みんなで社會を見守り育てていくことが「和」を優先するという本質なのです。

どんな社會を創っていきたいか、それはどんな小さな組織であったにせよその理念が必要です。それはみんながそれぞれに価値観が異なっても理念があればそれでいいとし、それを活かそうとお互いを認め合って協力していくような社會にしていくことが創始人類からこれまで平和を維持してきた智慧だからです。

他を排除し、自分さえよければいいと、自分にとって都合のよい社会などでは社會は育たずバラバラになって消失してしまいます。

人類の平和を保つためにも子どもたちに譲り遺していきたい社會を今の大人たちが創ってこそ、それを憧れて真似をしてくれる子どもたちが増えていくことと思います。チームは何のためにあるのか、それをもう一度、真摯に見つめ直して取り組んでいかなければなりません。

一円観は、人類社會のあるがままの姿です。そして本物の社會を創るために本物のチームはあるのです。

引き続き、本物のチームを実現させるべくパートナーの皆様と一緒に子どもたちのために貢献していきたいと思います。