本物の和

日本は明治維新後の高度経済成長の中で、古いものを捨てて新しいものばかりを追い求めてきました。外国から入ってくる新しい価値観や、文化を取り入れては古いものはダメだとさえ言い聞かされみんな新しいものに飛びついていきました。

それまで大切にしていた先祖代々の風習や地域のつながりなども捨てて若い人たちを中心に都会に出ては、過去の日本で行われていた地域地域の風土に合った生活習慣や文化なども否定していきました。今では後継者も育たず、立ち消えたところ、または風前の灯のところも増えています。

子孫や子どもたちのためを思えば、ひとつでも多く遺したいと思うのですが古いものはダメという価値観があるからかなかなか関心を持つ人が増えていかないように思います。

私は現在、古民家甦生や伝統文化の伝承など子どものために尽力していますが古くからある智慧や叡智を垣間見るとどれにも感動します。それは単に古いから感動するのではなく「本物」であるから感動するのです。

私は別に古いか新しいかという二元的な見方で物事を判断するのではなく、それが本物かどうか、そして本質かどうかを考えます。すると別に古くても新しくても本物でないものには感動しないだけで、本物はいつの時代もどんなに古くても新しいままの普遍の価値を持っているのです。

最近では、「和風」というように家も和風にします。実際に置いてある道具や家具、そして建材などを確認すると畳はイ草でもなく、障子も紙でもなく、土壁も土ではなく、柱も木ではないなどといったものが「和」に「風」がついて和風といわれ横行しています。しかもその和風に何の違和感もなく、これが日本の文化だと語られていたりします。本物と偽物の違いが分からなくなってきているから、新しいか古いかの価値観に人は縛られているのかもしれません。

古いか新しいかではなく、本物であるかという物差しを持てば、日本古来から様々な伝統文化や暮らしで用いられた智慧の凄さを再実感できるように私は思います。

子どもたちは自分たちの文化を知るのに、和風ではわかるはずないのです。

本物の和を遺し譲っていくことなしに、日本文化の甦生もあるはずはありません。引き続き子どもたちの仕事をするからこそ、偽物か本物かを見極める心と目を持ち、何百年先にも普遍的なものを遺し譲れるように妥協せずに社業を挑戦していきたいと思います。

聴福人の境地

人は自分が大前提として認めようとしない時、他人や自分を何とかして変えようとするものです。そうすると、苦しみが発生し、相手がなぜ変わらないのか、なぜ自分は変われないのかと煩悶するのです。

多様性というものは、本来は「あれもあり、これもあり、みんなあり」だと全てのことを認めてしまうところに存在するものです。それをこうでなければならない、これはやってはいけないなど、何かを悪とし、それは罪だとし、罰を与えなければと裁くときに人は認めることを否定してしまうのです。

この「裁く」ことこそが、認めることの反対であり裁く心の中には罪の意識や善悪理非を自分が勝手に決めるところにあるように思います。本来は何を根拠に正しいとか間違っているとかいい出したのかは分かりませんが、どこかで得た知識によって理想を自他に押し付けるとき人は裁くことをしてしまうように思います。

相手のことや本当のことや真実を確かめる前に裁く心は、先入観や偏見で裁く心であり差別し差別される感情が発生するから受け入れ難く自他を無理にでも変えなければならないと反応するのかもしれません。

イエスキリストは、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」という言葉を遺していますが、この裁く裁かれるという行為そのものがお互いを苦しめてしまうからだと思います。

お互いの苦しみを開放するには、一つは「聴くこと」、もう一つは、「認める」ことが要ります。言い換えれば、「きっと何か理由があるのだろう」と決めつける前に相手に心を寄り添い傾聴すること、そして「それも一理ある」と自分にも相手にも理があるということを認めることです。

この「裁かない」という実践が、お互いの人間関係の感情を緩和して多様性豊かな場を醸成していくのです。私の提案する、「聴福人」の境地はこの聴くと認めるを実践して誰も変えようとはしない、自分も変えようとしない、そのままでいいと丸ごと認めるということを言います。

それを一円融合、一円観ともいい、すべては丸ごと観てみると欠かすことのない丸味を帯びた完全体であるという発想です。しかし実際は、裁く人を前にすると罪悪感や差別感で感情が呑まれそうになります。先ほどのイエスのように、裁くのを止めよう、差別はやめよう、自他を責めずあるがままでなんでもありにしよう、何度も何度も行動を訓練することで次第に感情は落ち着いてくるように思います。

私もまだまだ修行中ですが、余計な知識や先入観、刷り込みを取り払いあるがままの自然体をお互いに気楽に喜べるような仕合せな関係を広げていきたいと思います。

初心を立てる

人間は自分の初心をしっかり自分で立てずに周りに合わせてしまえばブレてしまうものです。家で例えれば自分の家の大黒柱がどうなっているかということでもしもそれが傾いてしまうと家全体はどうなるかということです。

組織も同様に、中心になっている人物の大黒柱(初心)がしっかりと立っていてその周りに中黒柱、小黒柱がしっかりと支えているから家が傾かず基礎がズシリとブレずに建つことができるのです。

時代という早く大きな川の流れやうねりの中で、今の時代に初心を立てるということは濁流の中で流されずにしっかりとその場に留まる支柱を埋めて立てるようなものです。

少しのせせらぎの中であれば倒れたり流されることもないかもしれませんが、これだけスピードが速くなり怒涛の変化が渦巻くなかでは簡単に濁流に呑まれてしまい消えてしまうものです。その変化は情報化という外側の変化だけではなく、欲望といった自我の変化もあります。

しかしどんな状態であろうが、どんな条件下であろうが、支柱は守り続けるというその人の信念が貫かれれば初心を守ることはできます。

最初は、大黒柱の陰に寄り添って何とか流されないように誰かに守ってもらっていることからはじまるかもしれません。しかしそのうち大黒柱を支えられるように自分が支柱になるように努力していく必要があります。みんなで立てば、それだけ流れに対して強く逞しくなり、確かな支柱が増えれば増えるほど頼もしくなっていくのです。

人間は自分の柱を誰かのものでいつまでも支えてもらおうとし続けてもそれは土台無理なことです。だからこそ自分の足で立つというように、自分の柱は自分自身で立てなければなりません。それを「初心を立てる」といいます。その初心を立てたなら、それを忘れないようにすることと、その初心を振り返り流されたり傾いたりしないように修繕や修理をし続けることが日々の実践ということになります。傾いても誰も起こしてくれませんから、そこは自分で起きるしかありません。ただ周りに真っ直ぐの基準があるのなら姿勢を立て直しやすいものです。

そうやって自分の初心がしっかりしていけばいくほどに、他人に依存せず、世間に流されず、自己の確立に向かって素直に成長していくことができます。人類がみんなそんな生き方ができるのなら、世界は確かな平和を築いていくこともできます。

子どもたちには、しっかりと頼もしい自分を確立して時代が変わっても大切な自分を立てられるように初心を見守れる環境を創造し続けていきたいと思います。

感謝の心~貢献とは何か~

感謝というものは、無理に感謝しようとしているか、自然に感謝しかないとなっているかでその意味が異なります。大前提として、感謝の中に周りの御蔭様で今の自分が存在できると思っている人は感謝しかないと思っていますがそう思っていない人は感謝の捉え方が違ってくるように思います。

人は恵まれすぎる環境にあると次第に感謝の心を忘れていくものです、今のように何でも便利に自分の都合よく手に入る環境があれば次第に感謝の心が薄まっていき傲慢な自我が強くなっていくものです。思い通りになっていけばいくほどに、それに比例して感謝も感謝しかなかったものが感謝しなければならないというように変化してくるように思います。

人は感謝に敏感で、感謝の気持ちを忘れれば人間関係に綻びが生まれてきます。お互いに相手に不平不満を言っては、相手が変わらないことでお互いに軋轢が生まれストレスがかかります。それを感謝の心を忘れ無理に解決しようとすればするほどに、相手や周囲への思いやりが欠如してかえって関係が悪化していくことがあるのです。感謝がないから我が出てくるとも言えます。

本来、相手の存在や周囲の存在があって今の自分がこの世で自立していくことができるとも言えます。自分は相手であり、周囲は自分でもあるのです。つまりは自分を存在させてくださっているものは何かということを忘れてはならないのです。

自然界は、周りの自然と一緒に生きていることに感謝しています。その証拠に分を超えて取り過ぎることはありませんし、常に自分が周りによって活かされる状況を保ち続けています。人間はお金を払えば、分を超え必要以上に摂取し、そして自分たちの都合で好きに自分にとって都合の良い環境を創り上げていくこともできます。そのうち謙虚であることがなくなれば、感謝の気持ちがなくなっていくのでしょう。

当たり前だと思っている目の前の存在や所属している組織や仲間、そしていただいている身体や御先祖様、そして日本のこと世界のこと地球のこと、そういうものを常に忘れないようにしている人は、いつも誰かへの感謝の心を言葉に顕しています。

先日もあるお客様のところで口癖のように社員たちが、「いつもみんなの御蔭様で」とか「仲間の存在に助けられ有難いです」とか、「みんなに迷惑をかけてしまって感謝しかない」と話している様子をみてその人たちが、感謝を忘れないことで「仕合せ」で楽しく、豊かに仲よく働いていることを実感する機会がありました。

組織が上手くいく方法などいろいろとありますが、やはり普遍の真理として「感謝を忘れない」人たちがいる組織は必ずと言っていいほど平和と調和があってみんなの幸福を創造しています。「全体快適」とは、みんなのことを思いやり「感謝を忘れない実践」を続けるという意味です。そしてこれが人間力を高めるということに他ならないのです。

引き続き、自分の感謝の心は果たして感謝しようとするものか、それとも感謝しかないと思っているものか、自分のことは自分が一番よく知っていますから自己を確認して世の中の幸福のために貢献していきたいと思います。

全体快適

人間には我があり、我の強い人であればあるほど自己を中心にして物事を進めようとしてしまうものです。今の時代は競争社会の刷り込みもあり、能力を磨くことばかりに躍起になったり、他人よりも抜きんでることばかりに必死になったりして仲が悪くなっている人たちもたくさん見かけます。

能力があれば価値があり貢献でき、能力がなければ無価値であり意味がないという人もいます。しかしだからといって、能力ばかりで貢献しようと自分の能力を磨くことだけをやっていると、今度は能力がないことが役に立たないことだと思い込んでしまいます。そうすると、自分の能力が活かせるような環境に無理やり周りを変えようとしたり、自分の能力が証明されるような仕事ばかりを増やしてしまったりもします。そうやって能力だけを基準に自他を変えようとすればするほどに息苦しくなって関係が冷えていくものです。

本来は、能力がどうかではなく「みんなが喜ぶか」という基準にしてみるといいのです。それは有能ではなく、有用であることを優先するということです。みんなの役に立ちたいと願っている人は、能力があるないに関わらず役に立つことなら何でもやろうとします。それは言い換えるのなら、みんながどうしたら喜ぶかとみんなを活かそうとします。

この人はこうすればもっと活かされる、この人のいいところはどこかと、周りの長所を観るようになります。そしてどうすればこの人が喜ぶか、どうすればみんなが喜ぶかと全体快適を優先するのです。

私はこの全体快適こそが、本来の有用の価値のように思います。全体最適は能力のことで、全体快適が喜ぶかということです。

「みんなが喜ぶか」といつもみんなで取り組んでいる組織は、明るくなっていきます。人間は能力ばかりを磨いてもそれを使う人がいなければ意味がありません。確かに能力があれば発展しますがそれが仕合せにつながるとは限りません。しかしみんなが喜んでいるのであれば、みんなも仕合せ、そしてその中にある私もまた仕合せなのです。

我が強いというのは、どこかで競争刷り込みや能力刷り込みが深く根付いている可能性があります。もっと我が緩和されみんなとの仕合せが優先されるように、みんなが喜ぶかと生き方を転換してみてはどうでしょうか。

生き方の転換は、自分のことよりもみんなの仕合せ。みんなの仕合せは私の仕合せと、全体快適に生きていくことです。快適な環境や空間、場はそれだけで仕合せの循環を発生させていきます。自分が笑顔になるのもまたみんなが喜ぶからであり、皆が喜べばまた私も笑顔になるのです。

全体快適によって、大人たちの刷り込みを取り払えるように理念を定めて取り組んでいきたいと思います。

歴史の本質

歴史を深めれば深めるほど、それは人間と自然との関わり方の変化を学び直すことを感じます。自然と共に生きるか、自然から離れて自然を反故にして生きるか、自然と人間との関係こそが歴史の本質かもしれません。

私たちは現代においても、人間としての生き方としてどうあるべきかを歴史から考え直す必要があります。今の時代は特に自然を蔑ろにして人間がもっとも価値があるような考え方で自然を征服しています。

例えば、農産物においても工業製品のように製造され、その製品を大量に生産するためならその製品以外のものは過激な殺虫剤や農薬で排除していいというような考え方です。

司馬遼太郎さんの言葉にこういうものがあります。

「人間は--くり返すようだが--自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。」

歴史の中で人類が失敗し滅亡の危機に陥るのはこの自然との関係を間違えたときです。その時こそ、人災や災害が訪れ人類滅亡の危機が訪れるのです。それを忘れ自然を蔑ろにしてはいけないと歴史は語り掛けてきます。

また日本の哲学者の柳田謙十郎にこのような言葉もあります。

「人間の歴史は自然と深い結びつきにおける対立と、たたかいの歴史であるということができる」

自然と対立するのか、共生するのか、人間だけが自然から離れたことでいつまでも争いがなくなりません。本当の平和とはなにか、歴史は静かにいつも人類を見守り続けている存在なのです。

そして司馬遼太郎さんは子どもたちにこう語り掛けます。

「--人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、思いあがった考えが頭をもたげた。二十世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。同時に、人間は決しておろかではない。思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。このことは、古代の賢者も考えたし、また十九世紀の医学もそのように考えた。ある意味では平凡な事実にすぎないこのことを、二十世紀の科学は、科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。二十世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、二十一世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。「人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている」と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。この自然へのすなおな態度こそ、二十一世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。」

本来の自分がどのようにして出来上がってきたかを知るというのは、自分が自然の一部であって自然に由って生かされていることに覚めるということです。

例えば、稲作など自分の先祖から今まで自分が食べてきたものを作ってみるという行為や、自分の生まれ育った風土の中で風土の一部になってみることでそれに気づけるものです。

自然と人間が調和し本物の平和が訪れるよう、それぞれで歴史を学び直し、先祖との対話を続け、一人ひとりの目覚めを待つしかないのかもしれません。ただそこに歴史があることに感謝し、子孫の繁栄や地球との共生に感謝してこの場を見守っていきたいと思います。

先祖の心

今回、数日間御先祖様の歴史を調べながら歴史と対話をする歓びと仕合せを感じました。歴史は今につながっていて、本当に大勢の人たちの物語がつながって今の私を存在させていることが分かります。

天祖の頃から、様々な出来事の中でこのいのちや血脈、そして志を繋いできてくださった方々がいるから私も志を持って生きていくことができます。志は歴史を学ぶことで改めて確固たる信念になるように思います。

私も歴史を学ぶことで根とつながり、その養分が自分の心身に流れ始めたような感覚を覚えました。根無し草とは何か、それは歴史を学ばずに自分の代のことしか考えないで生きていることかもしれません。

司馬遼太郎さんが歴史をこう語ります。

『「歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生がとこにつめこまれている世界なのです。」と、答えることにしている。 』

自分のいる世界以外に、偉大な世界が別にあると思えることは壮大な浪漫です。そういう何億という人生が入っている世界の中の一つに今の私があるというのは奇跡です。そして、

「私は、歴史小説を書いてきた。もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している」

歴史はまさに御先祖様の存在、両親と同じようにいまでもあたたく見守ってくださっているのです。

その司馬遼太郎さんが21世紀の子どもたちに遺した遺言があります。その一つに、鎌倉武士たちの生き方が書かれています。今回、私も御先祖様のルーツを調べていく中で鎌倉武士の生き様に感動したところが多くありました。素朴で素直ながらも、しっかりと自己を確立していく、その歴史の醍醐味を学びました。最後に紹介します。

『鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、たいせつにしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない人格に魅力を感じないのである。

もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分にきびしく、相手にはやさしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、”たのもしい君たち”になっていくのである。

以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていく上で、欠かすことができない心がまえというものである。

君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。

同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。』

たのもしい子どもたちになっていくよう願うのは、人間が歴史によって磨かれていくのを知っているからかもしれません。まさに先祖の心、先祖の願いそのものを書いてくれているようで有難い気持ちになりました。

私も子どもたちのために、頼もしい生き方ができるよう自分に厳しく他人には優しく、思いやりと真心、ゆるしの精神を高めて歩みを強めていきたいと思います。

 

 

語り継ぐもの

先日、ふとしたことから先祖の家系図を創ることになり色々と調べていますが壮大な物語に身震いする思いがします。約2000年前から現在にいたるまでの系譜を辿っていますが、よくぞここまで文献が遺っているものだと深く感動します。

各地域には所縁の土地があったり、遺跡があったり古墳があったり神社があったりと、足を運びその場所を調べていきます。不思議ですが、文献ではわからなかったことが、口伝で教えられたり、その土地の遺跡の周辺の伝記に書かれたり、歴史の一つ一つから辿っていけば見えてきます。

特に足を運ぶことで、懐かしく感じたり、そういえばとむかし自分がよく行った場所や、心休まる場所、過去に助けてもらった人たちや、今でよく仕事をしている人たちの姓が繋がっていることに気づくのです。

先祖は今でも子孫を見守ってくださっていると、調べれば調べるほどにに伝わってきます。その温もりややさしさは、拝まずにはおられず今まで気づかなくて本当に申し訳ない気持ちになります。

御先祖様を大切にとはよく言われましたが、ここまで見守ってくださっていると感じたのは今回系譜を辿っている中で実感しました。こんなにも幼い頃から私のことを見守ってくださっていたのかと、知れば知るほどに真心が感応していきます。同時に、自分が日ごろから先祖を感じていたことを思い出し、心安まるときはいつも身近に先祖の存在や御導きを感じていたことを実感したのです。

見えないチカラというのは、御蔭様のチカラのことで、御助けのチカラとも言えます。私たちが何かをしようとするとき、御先祖様が導いてくださっているのです。また御先祖様が、子孫にしてほしいことを伝えてくるのです。語り継ぐこともまた同様に、先祖がいつまでも御役目を忘れないようにと子孫に語り掛けてくるのです。見守られているのを忘れてはならないと訴えかけてくるのです。

御役目に出会うのは先祖との邂逅に出会うことです。

私の人生は一度、ここで終わり、先祖との邂逅で二度目が始まった気がします。愛は巡り、真心は伝わり続けます。子どもたちのために、譲り遺せるものを伝承し、語り継ぐものとしての御役目を果たしていきたいと思います。

 

かたちなきものへの思いやり

先日、島根の美保神社に参拝する途中で境港市を通る機会がありました。ここは「ゲゲゲの鬼太郎」の作者の水木しげるさんが生まれた故郷です。私も幼い頃からこのゲゲゲの鬼太郎が大好きで、いろいろな妖怪たちの存在を身近に感じたり、人間と妖怪がどのように仲良くできるかとそのつなぎ役として鬼太郎が悩む姿に共感したことを覚えています。

目に観えない世界を描き続けていると、目に観えない世界があるかのように思えるものです。かたちあるものとかたちなきもの、かたちなきものへの畏れが失われた現代において妖怪の存在はどこか懐かしく感じるものです。

今の時代は、目に観える形があるものしか信じなくなりかたちなきものの存在はあまり大切にされることはありません。それは単に幽霊や妖怪の存在だけでなく、ご先祖様や神様など目には観えないけれど確かにいて自分を見守ってくださっている存在のことを感じなくなっているようにも思います。

かたちがないものは、自分の信じる気持ちがなければ存在を感じ難くなるように思います。かたちなきものへの思いやりを持っている人は、路傍の御地蔵さんや、過去に大切な出来事があった場所の前を素通りすることはありません。存在を確かめ一礼をし、お導きへの感謝を述べて通っていきます。

かたちなきものは確かにこの世に存在すると信じる人は、いつも目には観えないけれど確かにあるご縁を辿っていくことができます。ご縁を活かす人というのは、目に観える世界だけを信じません。目に観える世界と目に観えない世界がつながっているその中間に存在しご縁をその両面から捉えていく力があるのです。

私は幼い頃から子ども心に、かたちがないものを信じてきました。妖怪の存在や幽霊の存在、そして先祖の存在や神様の存在など常に自分と一緒にこの世にある存在として共に歩んできました。その心は今でも失っておらず、物へも接し方一つでさえまるで生きている人のように接します。特に懐かしい古いものや、出会えた仕合せを感じるもの、そしてご縁が深いものは特に家族や親友のように思えるからです。

人間はかたちなきものへの畏れを失うとき、傲慢になります。

もう一度、伝え聞くむかしの日本のように目に観えないかたちなきものをみんなが畏れるような世の中にならないかと願うばかりです。そしてその心を持った人たちが信じることで、かたちなきものへの思いやりもまた広がっていくでしょう。

たとえ、奇人変人や宗教だと罵られても子どもたちのためにも、私自身が常に堂々と「かたちなきものへの思いやり」をもって一緒に生き切り、これからの未来の純粋な子ども心のためにも見守っていきたいと思います。

人類の希望のため

人間はどれくらいのスパンで物事を観るかでその行動の本質が変わっていくものです。その人が100年単位で物事を観るのか、1000年単位で物事を観るのかで観え方が変わるからです。短期的にしか物事を見なくなってきた現代の風潮の中で、長い目で物事を考えて行動する人のことが分からなくなるのは仕方がないのかもしれません。

かつての日本は七世代先のことを考えて今を行動するという指針があったそうです。七世代といえば約300年くらいですがせめてその頃の子孫のことを慮り自分がどのような暮らしをしていけばいいかを考えたのでしょう。

私の場合も、なぜ暮らしの復古起新をとか、なぜ自然を味方にとか、やっていることには民家の甦生からお米作り、そして見守る保育という生き方の伝道、さらには初心を磨き伝承することなどをしていますがなかなかやっていることの本質が他人には理解し難いものかもしれません。よく不思議で変なことばかりしてと指摘されますが、長い目で観たらどれも今、必要なことしかしていません。

それに「子ども第一義」という理念を掲げる以上、子どもの今から発想を組み立てますから短期的なことは後回しになることが多いのです。もちろん短期的なことは、現代の課題を解決するために具体的な保育環境を変えていきますが、本来は子どもの仕事だからこそ1000年先のことを考えて今をどう生き切るかを考えなければならないのです。そして人の世には道理として因果律がありますから自分がどのようなことを今するかで未来の姿が変わっていくことを自覚しなければならないのです。

特に子どもたちの保育環境においては重要で、私たちが用意した保育環境によってそれを舞台に次世代の子どもたちが新たな時代を切り拓いてくれます。その時に、連綿と受け継がれた根のチカラを使い活かせるのか、それとも養分が断裂された根無し草のようになるのか、それではいよいよこれから世界が一つになり和合していくぞという変化の中で日本人の特性が活かせません。

希望というのは、子どもの未来のため自分のエゴを少し置いてでも徳を積み環境を整えていくときに出てきます。それは一つは仕組みといった智慧の伝承もあるでしょうし、他にも真善美といった日本人としての生き様もあるでしょう。

そういうものを少しでも遺し大切に譲っていけば、いつか子どもたちは舞台で大躍進を遂げ、活躍していきます。その舞台の未来には、主役も脇役もなく、一人ひとりが全員主役として共生して仲睦まじく助け合い思いやる社會を創造してくれるでしょう。

・・・本当の平和とは何か。

もう一度、今の世代の人たちは愛されてきた子どもたちとして、そして愛する子どもたちのために少し立ち止まって長い目で物事を観て自分と向き合ってほしいと願います。

引き続き、人類の希望のため、自分のできること、自分にしかできないことで人類の平和に貢献していきたいと思います。